停まったはずの時間の歯車が、再び音を立てて回り始めた。その音は、まるで記憶の奥底から呼び起こされた因業のようでもあった。
冷たい声が、けたたましいサイレンと土砂降りの雨音が入り混じる事故現場に響き渡った。『お前が俺の言うことを聞けないなら、お前は首だ。この緊急事態に、まだ自分の立場というものが分かっていないのか』
それは緊迫した空気の中でも、異様なほど命令的で、聞く者の耳を打った。折り重なるように横転した車両。かすかに助けを求める人々の叫び声。当たり前だった日常が、一瞬のうちに地獄絵図へと塗り替わる瞬間を、俺はまたもや目の当たりにしていた。
詰め寄られているのは、まだ若い医師の女だった。彼女は次々に運び込まれる負傷者を前に、明らかに限界を超えていた。プロの仕事師を気取るにはあまりに細く、震えるその肩には、重圧と絶望が深くのしかかっている。スーツ姿の男、病院の管理者といった風貌の男は、自身の立場と組織の都合、そして非難される事だけを気にして、傷ついた者たちの命に目を向けようとしない。その歪んだ表情からは、この惨状の中でさえ自分が優位に立つことしか考えていないのが見て取れた。
しかし、女は引き下がらなかった。『ですが…目の前の、まだ助かるかもしれない命を、見捨てるなんて私にはできません。』か細い声は、しかし決して譲れないという強い意志を宿し、雨音を貫いた。
『青臭い理想論を振りかざすな!』男は吐き捨てるように言い放った。『病院の経営というものが、お前のような経験の浅い小娘に理解できるとでも思っているのか。一人の重症者にいつまでも時間を取られて、全体の効率がどれほど落ちるか分かっているのか。それが結果的に、どれほど多くの患者に不利益を生むことになるか、考えたこともないのだろう。』
その言葉は、彼女の最後の抵抗すらも踏みにじろうとするかのようだった。彼女の顔からみるみる血の気が引き、唇が震える。悔しさに目を潤ませながらも、彼女は反論の言葉を失い、うつむいてしまった。もうダメだ。この若い医師は、あの男に潰されてしまう。そしてまた、多くの助かるはずの命が、理不尽な権力と組織の壁によって、ただ見過ごされていくのか。
俺は心の中で吐き気を覚えながら、その光景を目にしていた。もう二度と、誰とも深く関わるまい。そう心の奥底で固く誓ったはずだった。あの日、俺が全てを懸けて守ろうとした、かけがえのない家族も、長い時間をかけて築き上げてきたはずの誇りも、失ってからもう五年以上が経つ。
俺は今、この都会の片隅で、深夜のビル清掃員として生計を立てている。ネオンが闇に溶け、人々が深い眠りに就く頃、俺の一日が始まる。きらびやかだったかつての自分を知る者たちも、今の俺の姿を見て、それが俺だとは気づかないだろう。それでいい。それがいいんだ。磨き上げられた床板に、モップを滑らせる音だけが虚しく響く。それはまるで、俺自身の心の空虚さを映し出しているかのようだった。
窓ガラスに映る自分の姿を見つめる。疲れ果てた中年の男の顔。覇気のない目、無精ひげ。それが今の俺だ。誰とも深く関わらず、ただ息を潜めるようにして生きている。
『パパ、きらい。いつも病院ばっかりで、遊んでくれないもん。』幼い娘の声が耳の奥に蘇る。光。俺のたった一人の娘。あの日、瓦礫の下で冷たくなっていく彼女を、俺はただ見ていることしかできなかった。俺が医師として働いていたあの日、あの災害の日、数えきれない命が失われていった。あの日、俺がよく知る場所で。光。ごめん。誰もいないフロアで、俺は何度目かもわからない謝罪の言葉を呟いた。
そんなある夜のことだった。最後の清掃箇所であるオフィスビルの窓から、何気なく外の景色を眺めていた時、突然、けたたましいブレーキ音と、激しい衝突音が響き渡った。下の交差点で、乗用車が共通したらしかった。すぐに人だかりができ始め、遠くからサイレンの音が近づいてくる。俺は無表情でそれを見下ろしていた。もう、俺には関係のない世界だ。あの場所で、また誰かの日常が終わったとしても、それはただの他人事だ。そう思っていた。
数分後、現場に救急隊や医師たちが到着した。その中に、見覚えのある姿を発見した。いや、直接見覚えがあるわけではない。昨夜、あの事故現場で出会った、若い女医の姿だった。彼女は、どうやら姫川切奈という名前らしい。病院のパンフレットか何かで見た記憶がある。彼女はビルから見える場所に到着したが、手際は明らかに経験不足で、周りの隊員に指示されながらも、どこかおぼつかない様子で負傷者に対応していた。雨に濡れた髪を乱しながら、頭部をケガした負傷者にとまどいながらネックカラーを装着しようとしていた。
その時だった。彼女が固定したはずの負傷者が、急に体を大きく揺らした。装着しかけていたネックカラーが、ずれてしまった。危ない。あの状態での不用意な動きは、脊髄損傷を悪化させる可能性がある。思わず、という言葉が喉まで出かかった。だが、それは彼女もわかっていたのだろう。完全にパニックに陥り、手が震えてどうすればいいかわからない、という様子だった。
見ていられなかった。もう二度と、俺は誰とも深く関わらないと誓った。清掃員として、影のように生きようと決めた。なのに、何故だ。俺はエレベーターに飛び乗り、1階の出口へと急いだ。雨が弱まる気配はなく、俺はそのまま交差点の事故現場へと駆け寄った。人込みをかき分け、ユニフォーム姿の彼女のところへ行く。
『すみません、少し手伝ってもいいですか?』
経験の浅い彼女は、突然の申し出に警戒心を露わにする。『あ、いえ、結構です。お気遣いなく…』
『こういう時は、頭をしっかり固定しないと。脊椎損傷の疑いがあれば、最悪、後遺症が残る。』
俺は専門用語で説明するのではなく、はっきりと、感情を込めずに事実だけを伝えた。プロの清掃員、いや、かつては医師だった自分が、なぜか無性に手を出していた。彼女の瞳の奥に、今にも消え入りそうな、それでも必死に一点を見据える個所を見た時、俺はもう、自分を抑えられなかった。
『頭を、固定します。少し、動かさないで。』
気がつけば、俺の手は落ち着いており、ネックカラーの役割を果たしている。体が痛々しく濡れた負傷者に触れ、頭部の動きを固定する。体が覚えている。医師としての訓練を思い出すかのように。俺は脳内に大きな手術室の照明を思い浮かべ、手を動かした。
『あ、ありがとうございます。』彼女の声は震えていたが、俺が男だというのに、彼女は何かを感じたらしく、素直にお礼を言った。『助かります。』
『ネックカラーを再装着する。手伝って。』
彼女はコクリと頷くと、深くいった。震える手を、膝に置き、息を整えているようだった。その一瞬の隙に、俺は周りの状況を把握し直す。まだ、助けを待つ傷病者は多い。あのスーツの男は、通用口で医師の女性を急かしている。それは、市長の指示というよりは、自らの保身が優先していた。だが、あの若い医師は、この車の負傷者を助けることで精いっぱいのようだった。
俺は、あのスーツの男と、まだ熱のこもった視線を交わした後、踵を返した。『すまないが、後を頼む。』そう言うと、次の傷病者、車の陰で倒れている人に近づいていた。震える手でわずかに出血している人もいた。俺は負傷者の服、その切れ目を裂き、止血を施した。動ける人間の声を拾い、可能な限り負担がかからないように指示を飛ばす。それが、かつての自分がいた場所。医者としての感覚が一瞬ではなく、ゆっくりと甦っていく。
『あなた…。もしかして…。』切奈が小声で話しかけてきた。だが、俺は手を止めずに答えた。『手伝いだ。私のことは気にしないでくれ。』それだけ言って、俺はまた黙々と作業を再開した。彼女の「ここにいてくれてありがとう」という言葉が、何よりも痛かった。優しさを受ける資格が、俺にあるとは思えなかった。
『おい、そこの清掃員!』あのスーツの男が、今度は俺に対して怒鳴りつけてきた。『何シロトが余計なことをしているんだ!病院の管轄だ!下がれ下がれ!』
『この怪我には、先生の指示の前にやることがある。このまま放っておけば、君は診察を受ける人間の選択を誤る。』俺は男を流し見もせずに、道具を扱いながら淡々と返した。うまい説明ができず、苛立ちから言葉が早口になる。だが、そのプレッシャーの中でも、過去の自分は正しい動きを理解していた。
シートベルトで脇腹を強く打ったのか、高齢の女性が『痛い…痛い…』とうめいている。俺は自分の作業着の上着を脱ぎ、濡れた地面にたたんで横たえ、首を少し持ち上げて頭部の下に敷いてやった。切奈がそれを見て、何か言いたげに口を開くが、結局何も言わなかった。
救急隊がストレッチャーを持って到着し、現場の設営が進む中、俺は特に危険な状態の患者を落ち着かせるために、ひたすら「大丈夫ですよ、今助けますから」と声をかけ続けた。それは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。大丈夫。俺は、あの日から何も変わっちゃいない。決して乗り越えたことにはなってない。
作業が一段落つき、医師たちの手に委ねられると、俺は立ち上がった。全身ずぶ濡れで、埃と土で汚れている。誰も俺のことを医師だとは思わないだろう。思われたくもなかった。
『おい、君。』あの男の医師の声が、聞こえてきた。
『いや、もう行きます。ご苦労さまです。』俺は背を向けて立ち去ろうとした。切奈が何か呼び止める気配がした。待って、と。
『お名前、教えてもらえませんか?少なくとも、お礼を…』
『…救えた命があったなら、それで十分です。』
俺は雑踏に紛れるように、その場を離れた。あの力強い眼差しと、『ありがとう』という言葉が耳の奥でこだましながら、振り返ってしまいそうになる。俺はその感情を、雨足の強い夜の闇に打ち消して、アパートへと続く道を歩き出した。
翌日からも、俺の日常に変化はなかった。深夜のビル清掃が終わり、始発電車が動き出す頃、古びたアパートの一室でコンビニで買ったパンをかじる。ニュースでは、あの事故のことをやっていた。だが、あの若い医師の姿は報道されていなかった。あの日の「切奈」という名前は、きっと研修医で、病院の事情で表に出ていないのだろう。考え過ぎだ。あの程度のことが、いちいち関わり合いになることもない。
そう思っていた。そう、自己完結していた。だが、それから数日後、俺はコンビニに寄る途中、見覚えのあるアンテナをはためかせたい軽のワゴン車が、病院の隣の駐車場に停まっているのを見つけた。ドアには「ひめかわ」の文字。あの時、俺が清掃を担当しているビルの側に、焼きそばの出店を出しているのは知っていたが、まさかとは思う。数日過ぎ、いつものようにそのビルのオフィスフロアの清掃を終え、外の休憩スペースでタバコを吸っていると、見覚えのある白衣の裾が目に止まった。
『……やっぱり。あなた、間違いない。あの日の。』
振り返ると、そこには包帯交換の説明書らしき書類を抱えた切奈が立っていて、俺を見つめていた。
『どの清掃員の話だか…。』
『そんな嘘おっしゃい。この間、救急隊の人に聞いたんです。ネックカラーの当て方、完璧でしたよ。』目をキラキラさせて、彼女は話す。『しかも、あれだけ的確な処置。並みの医師よりよく分かっているはずです。』
『何のことがわかりませんが。』
『私は、みつかって、病院の処置室まで来て欲しいっていってるんです。』
切奈が取り出したのは、一枚の診察券ではなく、小さな紙切れだった。そこには病院の連絡先と共に『見込みがあるなら、一度話がしたい。』と、走り書きで書かれていた。
それは、いっそ実にあっさりとした、事務連絡のようだった。俺はため息をひとつ吐いて、その紙を睨みつけた。だが、その手を、叩き落とすことはできなかった。
『…それで、俺が何を頼まれると?』
彼女の任務は意外なものだった。『院内で、清掃とは思えない外傷の処理を目撃する事があるんです。だけど私たちは、書類の上では証明できない。それがもどかしかった。』
彼女は続けて、ぽつりとこぼした。『あなたは、私の前で一度も「医者」をやらなかった。でも、私が手を薬で消毒すると、家族は何も言わなかったわ。むしろ、あなたがいなければ、助からなかったかもしれない人もいた。』
切奈は、俺の首をチラリと見た。『あなたが昔、医者だったことは、とっくに見抜いてましたよ。』その言葉に、ぞくりとする。『たとえば、ネックカラーを当てる位置。あれは、医者でなければ知らない手技です。それに、あの落ち着き。』
ここまで来ると一目瞭然だった。俺の存在に気づき、面白半分で言っているとは思えない。彼女は嘘をついているようには見えず、むしろ切実な眼差しだった。
『…私は、あんたのように組織の論理で判断されるのが大嫌いなんだ。でも、君は、患者のために最善を尽くそうとしていた。違うか?』
切奈は、ふるふると首を振った。『いえ、では、そんな…。私、時々、迷うんです。優先順位で、誰かを見捨てる時、正しかったんだろうけど、あの人のことを考えると、夜も眠れないことがあって。』
『必要最低限の手当ては、もうとっくにしてるだろう。』
『ですが、それでも。』彼女は、食い下がってきた。
『ねぇ、もしよかったら。これからも、緊急の時にだけ、手伝ってもらえませんか?無理なお願いだってことは分かってる。だけど、あなたにしかできない事なんだと思います。』
何を馬鹿なことを。俺は清掃員だ。医者じゃない。医者をやめた人間だ。そう言って、断らなければならなかった。彼女の未来を潰すことになる。俺のような過去を持つ男が、彼女に何かを教えられるはずがない。
だが、あの時の、光の安堵した顔が脳裏をよぎった。あの日、救えなかった娘。その娘と同じ年頃の女性医師が、同じ道を歩んでいて、もっと多くの患者を助けようとしている。
『…緊急時、すぐに駆け付けられる距離にいる時だけだ。無理は言うなよ。』
その言葉が聞こえると、切奈は太陽のように輝いた笑顔を見せた。
『ほんと!?ありがとうございます!』
断ってしまえば、これほど気が楽なことはないだろう。しかし、俺は頷いていた。それは、もう昔の自分にしか過ぎないような感覚でもあった。
第2の人生を、もう一度、やり直す訳じゃない。でも、あの夜、握った手の温もりが、確かに今、また動き出そうとしている。かすかな希望の光を抱えて。
