「貧乏臭い。お前の親の顔が見てみたい」
ホテルの宴会場に、その言葉が思ったより大きく響いた。新入社員を迎するための、年に数回の夜会である。丸の内のシティホテル二十階、白いテーブルクロスにシャンデリアの光が降り注ぐ、いかにも企業の体裁を整えましたという空間。その中央で、営業第一部の黒木部長は満面の笑みを浮かえたまま、見せつけるようにマイクを握っていた。
長テーブルを囲む十名の視線が、一斉に立花凛に注がれる。二十二歳の彼女は、古びたワンピース姿で静かに俯くばかりだった。
「うちの給料、決して安くないですよね。なのにこの子、入社してからずっとこの格好なんですよ。一体、どんな家で育ったんですかね」
どっと笑い声が起こる。拍手を送る者までいる。その中心で、先輩社員の小泉綾が満足そうに口を挟んだ。
「本当ですよ。こんな場に、そんな格好で来られるなんて、どんな教育を受けたんでしょうね」
凛の手が、テーブルの下で小刻みに震えていた。顔を上げるまでに、ほんの数秒。感情を飲み込むように、彼女はゆっくりと口を開いた。
「お見せしましょうか。私の、親の顔」
会場が、一瞬で静まり返った。さっきまで散々笑っていた連中も、手にしていたグラスを置く者もいる。黒木だけは、嘲笑を浮かべたまま首を傾げた。
「おや、怖いな。どうぞ、見せてもらおうじゃないか」
凛は古いスマートフォンを取り出すと、何の躊躇もなく電話をかけた。プルル、プルル。コール音が宴会場に響く。誰もが息を殺した。黒木の顔から、じわじわと笑みが消えていく。何か、触れてはいけないものに触れてしまったという予感。その直感は、しかし遅すぎたのだ。
彼女が誰の孫娘であるのか、誰も知らなかった。国内食品業界の頂点に立つ、未来食品。売上高三千億円を超えるその企業の創業者であり現役会長を務める立花修二郎が、この地味な新入社員の祖父であることを。そして、この瞬間、黒木秘也の人生が音を立てて崩れていくことになるのを。
鈴が鳴るような澄んだ声で、電話口の相手に話しかける。
「お疲れ様です。私です。……ええ、今すぐ会長にお繋ぎください」
二月後、未来食品本社の役員フロアに、祖父の座る会長室がある。そこまでの回線を繋ぐだけの、その一言に、しかし周囲の空気は変わった。
『お前か、凛』
スピーカー越しに、どっしりとした老齢の声が流れた。瞬間、黒木の手からマイクが滑り落ちる。床に落ちて、ガチンと金属音が響いた。
「おじいさま、機種変更をするのが遅れて失礼いたしました。本日は、ご挨拶を」
『ほう、挨拶だと。珍しいこともあるものだ。お前が、こんな夜に直接連絡を寄越すとはな』
「ええ。私の上司が、私の家族に会わせたいそうで、ご意向を伺おうと思いまして」
凛はゆっくりと、真っ青な黒木を振り返った。その瞳に、もはや先ほどまでの震えはない。
「黒木部長。お会いになりますか?」
重い沈黙が、宴会場を支配した。
──。
その日から、凛を取り巻く環境は一変した。あれだけ凛を嘲っていた小泉綾は、出社するなり顔面から血の気を引かせ、凛を見るなり平行線を描くように廊下の端を歩くようになった。黒木に至っては、三日間、一切姿を見せなかった。欠席ではなく、無断の病欠という形だった。
その後、凛の正体は部署内に知れ渡った。祖父が未来食品の創業者であり、現在も六百億円超の個人資産を所有する、この業界では知らない者のいない超大物の資産家であること。そして、凛自身が東京の大学を首席で卒業した後、単身で地元の国立大学へ進学し、家柄も実力も伏せて入社試験を受けたこと。研修期間中に身分を隠すための偽の履歴書を通すなど、祖父のスケールの大きさに、社員たちは驚愕した。
かつてじっと耐えることしかできなかった、あのリンの顔は、もうそこに無かった。だが、西村だけは、この日を待っていた。
その朝、凛のデスクに、小さな封筒が置かれていた。中身は、一枚の手書きのメモ。
『会長秘書室へ。立花様の今後の身分の取り扱いについて、折衝の依頼が参っております。お手数ですが、本日午前中に一度、お部屋へ』
差出人は、総務部の印。震える文字だが、確かに凛を守るための味方からの連絡だ。凛は思わず、周りを見渡した。デスクの向こうで、西村が何食わぬ顔で書類を読んでいる。彼は、たとえ誰も凛に優しくしなくても、ずっと動じなかった唯一の男だった。彼だけが、ひとりランチをしている凛の隣に、無理やり座って、何も言わずに同じように黙って弁当を食べた。孤立していた同期の田所が転勤で来るまで、凛の数少ない居場所だった。
──。思い返せば、あの日からだった。凛が、この部に配属されて、初めてまともに話した。誰も彼女に声を掛けない、あの歓迎会の翌日。
「立花さん、大丈夫? 無理しなくていいよ」
給湯室で二人きりになった時、西村は穏やかにそう声を掛けた。彼は黒木のやり方に批判的な数少ない社員で、だが表だって異を唱えれば肩をたたかれると分かっていて、それでも凛のことが気になって仕方なかった。
「はい、ありがとうございます」
凛は少し驚いた顔をした後、小さく頷いた。その短い言葉に、西村は確かなものを感じ取った。この子は、ただ耐えているだけじゃない。折れていない。それどころか、何かを静かに積み上げている。そう見えたのだ。
同期の田所が来てから、凛の毎日は少しずつマシになった。真面目で、実直な田所は、最初は凛を取り巻く空気に戸惑いながらも、そして、よく気が付いた。
ある日、田所が思い切って聞いた。
「立花さん、なんか、皆、敬遠してない? あの黒木部長のせい? あの人、前評判、悪いぜ」
凛は、少しだけ間を置いて、小さく首を振った。
「……ええ、私の問題です。気にしないでください」
「俺、昔、いじめられてたんだ、中学の時。頭良すぎるって。全員に無視されて、机とか隠されて。つらかったな」
田所の言葉は、凛にとって、唐突に降って湧いたようなものがあった。だが、その瞬間、彼の真っ直ぐな目にぶつかった時、凛の中で何かが解けていくのを感じた。
「つらいなら、そう言えばいいんだよ。無理に強くならなくても」
この人には、何もかも見透かされている。そう思った。それから、田所は本音で笑う高校の同級生の女の子のような距離感で、凛の隣に立ってくれるようになった。
そして、両親のいない凛にとって、祖父こそが唯一の家族だ。地方のアパートで一人暮らしをする傍ら、月に一度は祖父の元を訪ねる。その時、凛は入れ替わりのように、西村と田所という頼もしい味方が本社にいることを伝えた。
「祖父様」
凛は社宅の一室から、叔父の持つ会長電話に折り返しを入れた。
「ああ、凛。久しぶりだな。社長の愚が、声を聞けて嬉しいと言っておったぞ」
「西村さんと、田所さんには、よくしてもらっています。だから、彼らだけは、守ってください。それと、黒木部長に関しては、私の指示で動く必要はありません。もう、十分です」
「ふっ。いつの間に、そんなに強くなったんだ、お前は」
「いいえ。強くなったのではなくて、強くしていただいたんです。祖父様にいただいた、この場所で」
その言葉に、受話器の向こうの老紳士は、嬉しそうに何度かうなずいた。
──。
事件から一ヶ月。季節は初夏へと差し掛かっていた。
黒木秘也は、今はもういない。表向きは「体調不良による退職」だった。だが、業界には瞬く間に噂が広がった。その後に部長の座を引き継ぐことを拒否し、西村が営業部長代理に就くことになった。登録時の西村は、部下へ対しても対等に接し、給湯室の井戸端会議で蔑ろにされることは、もう何もなかった。遅かれ早かれ、そうなるだろうと言われていた。
小泉綾は、態度を急変させて、今は凛に媚を売ってくる。凛の隣の席を確保しようと、毎朝早く出社し、コーヒーを淹れてもいいかと聞きに来る。凛は、静かな微笑みを返すだけで、何も言わない。
役員会議の日。凛は、新入社員の頃と何ら変わらない、地味なスーツを着ていた。だが、その背筋には、かつての卑屈な空気は一片も無い。堂々とした、確固たる存在感があった。
「立花部長代理、おはようございます」
廊下で会う役員たちが、皆、丁寧にお辞儀をしてくる。凛は軽く会釈を返す。役員室の扉の前で、ふと足を止めた。
「……おはよう、西村部長」
振り返ると、西村が驚いた顔をして立っていた。黒のスーツが良く似合っている。彼は、かつて凛を励ました、あの時と同じ、優しい目をしていた。
「おはよう、立花部長。今日も、勝負の日ですね」
「ええ。でも、もう怖くはないです」
「俺もです。あなたが付いていてくれるなら、どこへでも行けます」
凛は、ふと何かを思い出したように、付け加えた。
「そういえば、覚えていますか? あの日のこと。入社初日に、私が皆の前で笑われた日のことを」
「ええ、よく覚えています。当時の僕は、情けなくて、ただ見ていることしかできなかった」
「いいえ。あなたが、あの時、給湯室で声を掛けてくれたから、私は今、ここにいます」
西村は何も言わず、少し照れくさそうに頭を掻いた。その姿を見て、凛は心の中で微笑んだ。彼は、あの頃と何も変わらない。強くなったのは、決して私ひとりじゃない。こんなにも早く、この会社で自分の居場所を見つけることができたのは、彼のおかげだ。そして、満足感に浸る背中だった。
並んで役員室の扉をくぐると、一同の注目が一気に凛に集まる。長テーブルの奥、会長の隣には、新入社員時代の凛を知る役員たちが座っている。その視線は、もう嘲笑ではなかった。
祖父は、遠い海外出張中で、今日は書類越しの決裁のみ。それでも、娘が人間として大きくなったことを見せるように、口元を緩めた。
「冴えないわね、立花代理」
若手の部長の一人が、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。隣にいた別の部長が、肘でつつく。しかし、凛は気にする様子もなく、書類を広げた。
「各事業部の月次報告の概要を説明します」
凛が揚々とプレゼンテーションを始める。資料は完璧で、質疑応答では、新興勢力に対抗するための大胆な提携案を、実績ベースで淡々と披露した。まるで、ほんの一年前の自分が、ここから見ていた景色とは思えない。この場所に立つまでは、時間が掛かった。だが、自分の一歩一歩を、誰が止められるだろうか。
役員会が終わり、一同が立ち上がる。最後に、凛は窓の外を見た。東京のビルの合間、夕暮れの空に、今日の疲れが滲む。
「……ようやく、ここまで来たんだな」
すると、すぐ後ろから声がした。
「立花部長、お疲れ様でした。今日の会議、完璧でしたよ」
振り返ると、田所が書類の束を抱えて立っていた。
「お疲れ様。田所くんも、今日の資料、すごく助かったわ。ありがとう」
「いえ、そのこんな言葉、俺が言うのは何なんですけど……立花部長が、ちゃんと皆の名前で呼んでくれるから、俺、頑張れるんです。はい、来月の人事異動の内示ですが、西村部長から、営業推進部に異動してほしいって打診がありました」
「異動? ……あなた、私の所に来るの?」
「はい、もちろん! ……あ、いや、若い番で考えてました。えっと、これからも、色々と教えてください! 立花部長」
屈託なく笑う田所を見て、凛は破顔した。
「そう。それなら、覚悟してなさいよ。あたしのやり方、一つ残らず仕込んであげるから」
帰り道、オフィス街の雑踏を歩きながら、凛は真冬の寒さを久しぶりに心地よく感じた。万事休す、という言葉があるが、正に逆だった。耐え忍んだ者に、最高の春が来る。
彼女のポケットには、先ほど手渡された一枚の紙。そこには、未来食品が持つ非上場株の譲渡書類が入っていた。地味な新入社員だった女が、たった二年で、この企業の事実上の支配権を手にする。祖父がくれた名前ではなく、祖父が残してくれた小さな小さな善意。それに救われたのは、確かに、一人の人の情けだった。
アパートの最寄り駅に着く。もう、寂しい独り身の部屋はどれほど続くのだろう。しかし、今日ばかりは、凛は一人でいないことが何よりも、心強かった。
「帰る場所が、あるって、いいな」
ポツリと呟いて、彼女は古いアパートの階段を上がった。すると、玄関の前に、見慣れぬ影があった。茶色いトレンチコートを着た、わざわざ、薄暗い街灯の下で待っていたという風情がある。
「……西村さん?」
「あ、……お疲れさま。いや、今日、編集が遅くなると思って。社に、黒木部長の私物の整理を頼まれて、そのついでにって、……いや、違う。ちょっと、話がしたくなったんだ」
酒の匂いが、ふうわりと漂ってくる。彼は、少しだけ顔を赤くしていた。
「じゃあ、缶コーヒーでもどうぞ」
凛は鞄から、出先で買った缶コーヒーを差し出した。冷えているが、心が温かくなる。
「立花さん、今日で、やっと全部終わったのかなって、思ったら、感慨深くなっちゃって」
「終わったわけじゃないですよ。始まるんです。私の、新しい生活が」
酒缶のプルタブを開け、西村が一息つく。
「また、話し相手になってくれますか? 俺じゃ、頼りないですか?」
「女を、からかわないでください。……お互い、孤独同士、支え合っていきましょう」
ほどけた笑顔に、西村が目をしばたかせる。
その夜、二人の新しい一歩は、静かに、ゆっくりと、動き出したのだった。
