「よし、次の問題を解けたものには、月収を100万にしてやろう」
その言葉が新年会の空気を一瞬で支配した。社長が突然始めたクイズ大会。酒の勢いも手伝って、社員たちからはどっと歓声が沸き起こる。全員が酔いに任せて盛り上がる中、決勝まで残ったのは俺と、俺のことを見下してくる名門私立大卒の上司、松尾係長だけだった。
松尾係長は月収100万という言葉を聞いて、顔を紅潮させ、明らかに興奮している様子だった。ふん、これで俺の実力を見せてやれるとでも思っているのだろう。だが、そんな彼の鼻も、社長が放った問題を聞いた瞬間に折れてしまう。
「……は? 」「何これ」「意味が分からないんですけど」
社員の中から困惑の声が上がる。俺も黙って問題を聞いていたが、正直、最初から意味が理解できなかった。それは優秀なはずの松尾係長も同じだったらしく、彼は引きつった笑みを浮かべて社長に問いかけた。
「社長、これ、本当に社長がお考えになった問題ですか? 」
すると社長は、まるで悪戯が成功した子供みたいな顔をして笑い出した。
「あー、バレたか? 実はこれ、ネットから拾ってきた問題なんだよ。何でもスタンフォード大学の入試で実際に出題されたものらしいぞ」
「スタンフォード……大学ですか?

」
俺たちには到底太刀打ちできない、次元の違う難問。社員たちもあちこちで「そんなの分かるわけない」とぼやき始める。松尾係長も大げさなくらいに驚いて、首をひねっていた。
「社長も人が悪いんだから。こんな暗号みたいな問題、さすがに解けるわけないじゃないですか。ここは日本ですよ」
松尾係長はそう言って笑ってみせるが、社長は「まあ、そう言うな」と手を振るだけだ。
「でも、流石にこれは難しいよな。私も問題を読んでいるだけでもうチンプンカンプンだわ」
社長が苦笑しながらそう言ったその時だった。
「……あの、答え、分かりますけど」
静かに、しかしはっきりと、その場に言葉が響いた。声のした方に注目が集まる。
「あ? 今村さん、何て言いました? 」
松尾係長が固い笑顔を浮かべて、隣に立っていた新人社員の今村さんを見る。しかし、今村さんの口を開いたのは俺の方だった。
「今村さん、答えが分かったのか? 」
俺が確認すると、今村さんはこくりと頷いた。彼女は机の上に置いてあった紙ナプキンを手に取ると、そこへペンを走らせ始めた。
俺の名前は小森大輔。ある保険会社で窓口業務を担当している。以前は別の会社に勤めていたが、2年ほど前に今の会社へ転職してきた。だったが、中学生卒の学歴のせいで、いわゆる肩身の狭い思いをしながら日々働いているのだった。
特に、俺を目の敵にしているのが、松尾係長だ。見た目は年の頃は俺と同じくらいで、気のよさそうな若い好青年という印象。だが、その実態はというと、自分の学歴をやたらとひけらかす、鼻持ちならない男なのである。
「なあ、知ってるか?
俺、大学の時はテニスサークルの代表を務めててな。今でも仲間たちから色々と頼りにされてるんだよ」
まるで噂話でもするかのように、自分の武勇伝を延々と話す。相手が誰であろうと、脈絡もなくそんな話を始めるのだ。そして、決まって最後にこう付け加えるのだった。
「ま、この中では俺が一番の学歴ってわけだ」
若い女子社員が入れば、即座にターゲットにする。そして、「名門大学卒のエリートである自分が、中卒の俺を教育してやってるんだ」というスタンスを崩さない。挨拶をすれば無視するか、鼻で笑うか、たとえ話が通じないと聞き流すか。いずれにせよ、俺への当たりはきつい。
だが、もう慣れていた。いちいち反応する方が馬鹿らしい。それに、こういう輩は放っておけばそのうち自滅する。俺はいつもそう思って、心の中では軽くあしらっていたのだ。
そんなある日、会社に新しい新人社員が配属された。今村さんの紹介だ。
「おー、今村さんか! いいなあ、俺がしっかり教育してやるよ! 」
松尾係長が早速、配属された新人の前に立ちはだかった。ふん、どうせまた性懲りもなく奢るつもりか。あの若い女性に積極的になるのが、彼の前世からの性だということは身に染みて分かっているからな。
今村さんは、皆の目からしてもかなり美人で、品のある人だった。見るからに優しくて清潔感がある。笑顔もよく似合う。一方で、おっちょこちょいな一面もあり、物事をちょっと抜かしてしまうところもあった。だが、誰よりも一生懸命で、細かいことによく気づき、態度も誠実だ。これは教育次第では、本当に化け物クラスの逸材になるかもしれない。
俺は未来の彼女の姿を想像して、一人で密かに期待を膨らませていたのだが、そんなある日、ふと気がつくと、今村さんの教育係は松尾係長に決まっていた。
「……はあ」
こいつは、めんどくせえことになったな。
思った通り、数日後には弊社の定番と化していた。
「今村さん、知ってるか? 俺が今の肩書きを得たのは、この学歴と能力だと思うんだよ。まあ、本人は色々話したいこともあるだろうけど、先輩としては、何か知らないかって聞かれるまで自分のことは話さない方針なんだよね」
「お、そうなんですね」
松尾係長の自慢話が、聞きたくもないのに耳に入ってくる。毎度毎度、同じ話をよく飽きもせずに擦るものだ。今村さんも困っているようで、愛想笑いを浮かべながらもどこかぎこちない。
「あのですね、松尾係長。それは机の上にある書類を、全部チェックしてから話してくれませんか。お客様の対応に追われて、まだ手が回ってないんですよ」
俺が割って入ると、松尾係長は一瞬、不機嫌そうな顔をしたが、丁度いいところに来たとばかりに、全く悪びれもせずに言い放った。
「あー、ミスをした書類を出したのが誰だと思ってるんだよ。俺、今そういうの無理だから」
せっかく自分の話に耳を傾けてくれていたというのに、急に仏頂面される。どういう訳か、俺が怒られた気分になるなんて理不尽な話だ。
「すみません。社長に急ぎでって言われたんで、先に確認してもらえますか?
」
「チッ、本当に使えないやつだな。お前みたいな中卒と違って、俺は暇なわけじゃないんだよ」
その声はかなりのボリュームがあった。まあ、気にしたって仕方ない。元から分かっていることだ。俺は彼が書類をひったくるようにして持っていった後、今村さんに自分の席へ戻るようにと促した。
「今村さん、手を止めてしまってすみません」と彼女に言うと、彼女は「いえ、ありがとうございます」と言って、俺から少し離れた。
その頃だった。社長がおもむろに立ち上がり、社員全員に向かって話をし始めた。
「えー、今日は急ですが、新入社員の今村さんと松尾くんの、お祝いの席を設けたんだ。そのまま飲みに行くから、お前らも来い! 」
どうやら社長主催の歓迎会が開かれることになったらしい。
さて、この新春の陽気な飲みの席で、何が不幸の始まりだったのか。
社長の挨拶が終わり、乾杯の音頭が始まると、普段は真面目で目立たない社員たちも、酒が進むにつれて活気づいてくる。そんな中、酒の勢いも手伝ってか、酔っ払った社長が突然、大きな声を張り上げた。
「なあ、お前ら! せっかく正月だし、ここらでちょっと頭の体操でもしてみないか! 」
「お!
いいですね、社長! 」
すかさず松尾係長が手を挙げて応じる。どうせ、また何か宣うつもりだ。
「よし、それじゃあ俺の問題に答えられたら、なんと月収を100万にしてやろう! 」
月収100万という言葉に、その場の社員たちがどよめき始めた。酒の勢いとはいえ、何を血迷ったのか、ありがたい話だ。
とはいえ、実を言うと、この場では一番俺が仕事ができるという自負がある。俺の前で松尾係長に張り合って見せろと? 無理な話だ。
せっかく社長がそんなことを言い出したからには、存分に俺の力を思い知らせてやってもいいかもしれない。
「では、いきますよ!
」
そして、出題された問題は、確かに難しかった。日ごろから数学など全く扱っていない連中には、解くことすら不可能に近いようなレベルのものが多かった。次々と脱落していき、残ったのは俺と松尾係長。
そして、ついに最後の問題となった。社長が手にした問題用紙を読み上げる。
「えー、では最後の問題です。あるジャングルで、アリとコオロギがいました。アリは将来の為にせっせと食べ物を集め、コオロギは歌って暮らしていました。しかし、やがて冬が訪れて、食べ物が無くなってしまいました。ここで問題です。さあ、どうしてでしょう? 」
一瞬間が空いた。シャーッと何かを引き裂くような沈黙が流れる。
「は? 」
頭の中にはてなマークが浮かぶ。誰かが家のインターホンを押したかのように、まばたきをしながらオウム返しするのが精一杯だった。
「……どうして、でしょう、か? 」
松尾係長が、はっきりしない口調で復唱したが、それはわからないことを隠す雰囲気でしかなかった。緊張が一気に高まり、皆の視線が社長1本に集中する。
「写真集が買えないからです」
その一言に、流石の松尾係長もポカンと口を開けた。数秒遅れで、社員の一部でもある女性の失笑が漏れる。
「セーフ、ですね」
俺が静かに言うと、松尾係長はイラッとしたように、俺を睨みつけて来た。
「小森くん、今のはないでしょ。話をこじつけたら答えにならないんで」
「こじつけても立派な答えですよ。実際、アリだって写真集を買いたくなければ、買わなければいい。つまり、そういうことです」
「賛成。テニスサークルで身に付けた集中力で、答えを見事に解除したってところだな!
」
酔っ払った社長がニコニコしながら便乗してくる。テニスサークルはお前の話だ。あきれながらため息を吐くと、再び社長が口を開けたのだった。
「おっと、まだこの話は終わってなかったな。いやあ、よもや俺様の質問に真剣に答えようとするとは、なかなか度胸がある。というか答えを知っているのではないか、お前? 」
「別に、知ってますよ。どうせネットに落ちてたネタなんでしょ? 」
「えっ? 」
今度は俺が口を滑らせた。やばい、社長のノリで雰囲気を壊してしまったかもしれない。
「あ、いや、こういう問題があるってのは前に他の掲示板で見たことがありまして。ホント、たまたまですよ」
「ほお。ということは、こいつは凄い!
あの難問がスラスラ解けるとは、さすが一発屋の鑑だな! 」
社長は手を叩いて大喜びだ。松尾係長を見てみると、悔しそうに歯を食いしばっている。
「……中卒のくせに、ふざけやがって」
彼は捨てゼリフを残すと、そのまま席を立って飲み会の会場から去って行ってしまった。残された俺は心の中で、笑いがこみ上げてくるのを必死に堪えた。溜飲が下がる思いだった。
だけど、翌日から社長が普通にニコニコしてるから、奴の機嫌が悪いのは相変わらずだった。
とはいえ、今回の件で奴の株が地に落ちたことは間違いない。俺が気にすることでもないが、なんだかその後の松尾係長は、前以上に他人に当たり散らすようになった。
「おい、ちょっと俺のコーヒーカップ、洗ってくれない? 」
「今、手が離せない」
「社長のアイスでも買ってきてもらえるか? 」
「自分で行ってください」
「何だよ、その態度は!
」
ついカッとなって反抗してしまったが、これぐらいのことを言っても、奴には何のダメージにもなっていない。悔しいが、それが現状だ。
あれから数日後。今度は今村さんがオフィスでうつむき加減に、しょんぼりしているのが目に入った。見れば、机の上には彼女が作ってきたと思われる、住所録のようなものがある。
「どうしたんだ、今村さん」と声をかけると、彼女は目を赤くしながら、
「この書類、全部ひらがなで書かないとダメらしくて……」
「え、何でそんなルールになってるの? 」
「それが、松尾係長が『中卒は学が無いから、難しい漢字は読めないでしょ』って言うんです」
許せなかった。俺は何も言わずにその書類を手に取り、すべて漢字で書い直した。
「……松尾係長がそういうなら、俺はこうする」
そう言って、俺は机に置いてあった紙ナプキンに問題の答えを書き、それを見せた。
「どうだ。これが中卒の答えだ」
松尾係長は真っ青な顔をして、こちらの顔色をうかがっていたが、俺はお構いなしに続ける。
「それと、勘違いしてるみたいだから言っとくけど、俺は中卒じゃない。通信高校に通ったから、ちゃんと高卒だよ」
嘘は言っていない。事情があって全く学校に通っていない頃もあったが、中学卒業後に進学しなかった本当の理由は別にある。それは今はこの際、どうでもいい事だった。
そして、さらに畳み掛けるように、俺は隠していた手帳を取り出して見せた。
「てめえ、何だその態度は! 」
松尾係長は今にも掴みかかってきそうな勢いで、俺に掴みかかろうとした。だが、その手は、スッと伸ばされた俺の手には、実にスマートに弾かれてしまう。
「まあ、そう言うなって」
「なっ……! 」
「ていうか、俺のこういうのが今の会社で発揮されて必要なんだよ。お前はどうせ、上司にゴマをするばっかりの学歴の無い人間の気持ちが分からないだろうけどな!
」
「小森ぃ! 」
遂に松尾係長がブチギレて、手を上げる。しかし、彼の手が降り下ろされる前に、間に入って来た人物がいた。
「そこまでにしておけ」
「社長?! 」
いつの間にか場の空気が張り詰めていた。社長は、今にも掴みかからんばかりの松尾係長と、逆に涼しい顔をした俺という、対照的な2人の間を一瞥する。
「松尾、お前に言ったのはだな。これは俺の部屋にある棚だ。何も考えずに職務質問を挑んでくる連中は、こういう何かが足りないから、すぐ取り違える」
社長はそう言って、自分が持っていたファイルを机の上に置いた。そこには確かに名前が書いてあった。
「お前の担当は、こちらだ。『名門大学卒の松尾くん』。ちゃんと、お前の仕事場に分かるよう置いておいたぞ」
そのファイルを、社長は松尾係長に手渡した。
「……俺の仕事場? 」
「ああ。お前のスペースだろうが。このデスクは」
「違う、そうじゃなくて……これはどういうことですか」
松尾係長は、声を震わせている。だが、社長は構わずに話を続ける。
「まあ、もう気づいていてもおかしくはないんだが……最近、ここで問題が起きているのは知ってるな?
」
「ええ、何がですか? 」
「このオフィスで、一人机に向かって書類を整理している人間がいたそうだ。それで、その人間がやっている書類整理の方法が、効率が悪いとかなんとか言って、横から勝手に指示を出した人物がいたらしい。その人物のせいで、そこの部署の人間が困惑していた」
「は……」
「一体、誰のことだと思う? 」
「わ、私じゃないです! 自分はちゃんと自分の仕事をしています!
」
「そうか。ならいいんだがな。だが、もしお前に心当たりがあるなら、はっきり言っておく。うちの会社は、そういう自分の仕事以外のことに首を突っ込みたがる人間には、実に冷たい対応をするんだ。今回は、注意だけにしておいてやる」
「はあ……」
「そして、ひとつ言っておくと、その人間はな。昔からそういう悪い癖があるらしい。それこそ、若い時からのな」
何かを含ませるような言い方だった。明らかに、俺のことを今までの言動のことを言っている。
「松尾。お前は、今日を境に心を入れ替えてもらうぞ。もし、今度同じ事があったら、そのときは……」
社長はニコリとも笑わずに言い放った。
「そのときは、辞めてもらうことも、考えてもらわないといけないな」
その場は、水を打ったように静まり返った。さっきまで騒いでいた他の社員たちも、一様に押し黙って成り行きを見守っていた。
「さあ、解散だ。お前ら、こんなつまらないことで時間を潰してないで、さっさと仕事に戻れ」
社長の一声で、ぞろぞろと皆自席に戻っていく。俺も、その流れに乗って自席に戻ろうとした。
「小森」
不意に名前を呼ばれて、振り返る。そこには、松尾係長が立っていた。
「……シメるつもり、なかったんだ。俺の、指示に従って、あいつに従えなかったら、どうするか分かったものじゃねえってなって、ビビっちまっただけだ」
それは、どこにでもあるようなオフィスでの、よくある話。決して、面白い話ではなかったのかもしれない。
しかし、俺にとっては一目置かざるを得ない人物が増えた出来事だった。
「……松尾係長。詰まるところ、あなたは器用なんだか、不器用なんだか」
「は? 」
「いえ、こっちの話です。ところで、今村さんの件、ありがとうございます」
「……何の話だ」
「嘘おっしゃい。俺の前で新人をかわいがってる振りして、こっそり仕事を教えてあげたりしてんでしょ。知ってますから」
「ちっ、勘が良すぎるんだよ。方やバカなのに」
「余計なお世話だ」
そんなことを言い合って、俺たちの間に、ようやく冗談を言い合える間柄になった。
後日、あの時の話が尾を引いたかどうかは言うまでもない。ただ、実際に一人のパワハラ上司を更生させた男がいる、という話になると、それは俺の事なんだろう。
あ、でも、奴は奴で何だかんだ自分の仕事がきちんとできる先輩でもあることは、認めている。