子供と3人で、息子がサッカーのレギュラーに選ばれたお祝いをしていただけだった。なのに、ママ友の竜子さんが突然やってきて、私の目の前で息子に熱々のステーキを投げつけた。「あなたみたいなクソガキが高級フレンチだなんて、生意気よ。」慌てて火傷の応急処置をしながら、私は信じられない気持ちでいっぱいだった。自分の息子がレギュラーになれなかった腹いせに、こんなことをするなんて。しかも竜子さんは腹を抱えて…

子供と3人で、息子がサッカーのレギュラーに選ばれたお祝いをしていただけだった。なのに、ママ友の竜子さんが突然やってきて、私の目の前で息子に熱々のステーキを投げつけた。「あなたみたいなクソガキが高級フレンチだなんて、生意気よ。」慌てて火傷の応急処置をしながら、私は信じられない気持ちでいっぱいだった。自分の息子がレギュラーになれなかった腹いせに、こんなことをするなんて。しかも竜子さんは腹を抱えて...

「あなたみたいなクソガキが高級フレンチだなんて、生意気よ。」

ママ友の苗島竜子さんが突然、私の目の前で息子の大和に熱々のステーキを投げつけたのだ。火傷の応急処置を施しながら、私は信じられない気持ちになった。私たちはただ親子3人で、息子が少年サッカーチームでレギュラーになったお祝いをしていただけなのに。それなのに、自分の息子がレギュラーになれなかったからといって、私の息子に熱当たりするなんて、どうかしている。慌てふためく私と息子を見て、竜子さんは腹を抱えて笑った。

「私の旦那はね、ヤクザの若頭をやっているのよ。だからその妻である私は、あんたたちよりも立場が上なの。」

すると、夫の和が顔を真っ赤にして怒鳴った。

「お前ら、覚悟しろ。」

夫があるところに電話をかけると、その後の竜子さんの人生は一変するのだった。

私は新田いより。どこにでもいるごく普通の主婦だ。先日、小学3年生になる大和が所属している少年サッカーチームで、全国大会のレギュラーに選ばれた。今日はそのお祝いとして、夫の和と一緒に親子3人で高級フレンチ店へやってきたのである。

「お母さん、リゾットって、確かイタリアの料理じゃなかったっけ?」

テーブルに運ばれてきたリゾットを、大和が不思議そうに眺めている。

「発祥はイタリアだけど、フランスでも食べられているのよ。フレンチリゾットってところね。」

「いよりは物知りだな。それにしても、リゾットか。贅沢なんだよな。」

美味しそうに食べる大和とは対照的に、なかなか手をつけようとしない和を見て、私はくすっと笑った。

「あなたは猫舌だからね。」

「それじゃあ、冷めるのを待っている間にお手洗いへ行ってくるよ。」

そう言って、和は席を立った。トイレの場所を確認するべく夫の方へ視線を向けていると、不意に名前を呼ばれた。

「あら、ひょっとして新田さんじゃない?」

「ああ、誰かと思ったら、苗島さんですか?」

声のした方へ視線を向けると、隣の席にママ友の苗島竜子さんが座っていた。まさかこんなところで会うとは思わなかった。

「すごい偶然ね。」

親しげな言葉とは裏腹に、竜子さんは不快感を隠そうともせずに苦々しい表情を浮かべていた。もう慣れたものとはいえ、会うたびにこんな顔をされては、私としても反応に困る。ふと彼女のテーブルを見ると、彼女の息子である春彦君と、スマホをいじっている男性が座っていた。今まで会ったことはないが、おそらく彼が竜子さんの夫なのだろう。

「春彦君、こんにちは。」

私が声をかけると、春彦君は礼儀正しくお辞儀を返した。春彦君は大和の同級生で、同じ少年サッカーチームに所属し、一緒に練習をしている。ただ、子供同士の仲が良くても、親同士も同じように仲がいいわけではない。

「ちょっと、うちの春彦に気安く声をかけないでもらえる?」

竜子さんは声を荒げて身を乗り出し、私の視線から春彦君を隠した。

「えっと、私はただ挨拶をしただけですが。」

「うちの子からレギュラーの座を奪っておいて、それをお祝いしようっていうの? 人を踏み台にして食べる食事は、さぞ美味しいでしょうね。」

この言葉に、大和はすっかり身を縮めてしまっていた。竜子さんがここまで私たち親子に敵意を向けてくるのには、ちょっとした理由がある。竜子さんはプライドが高く、常に他人を見下す発言をしていた。ブランドのもので全身を固め、金銭面でのマウントを取るので、ママ友たちの評判は、お世辞にもいいと言えるものではない。それに加えて、被害妄想が強いのか、自分たちに不利な状況に対して過剰に反応していた。以前、他の子が春彦君のパスを繋げられなかった際には、子供相手に罵声を浴びせたこともある。他にも、コーチが春彦君を叱った際には、声を荒げてコーチに詰め寄る姿が目撃されている。

彼女にとって、成績優秀な大和がネタミのターゲットになるのに、時間はかからなかった。特に大和がレギュラーに選ばれてからは、嫌みを言ってくる頻度が増えたのである。

「大和君のプレイは下手くそすぎて、お世辞も言えないわ。それなのに、うちの春彦を差し置いて全国大会に出るなんて、意味が分からない。」

「そう言われましても、コーチが判断したことですし、コーチも納得していますよ。」

「春彦の方が大和君なんかより100倍も優秀なのに。全く、見る目がないわね。今度、あったらとっちめてやるんだから。」

普通なら、そんなにコーチに不満があるのなら、チームを変えれば済む話だと考えるだろう。けれど、その選択肢が竜子さんの頭にないことを、私は知っている。竜子さんは最初、春彦君をクラブチームへ入れようとしていたらしい。しかし、非営利目的のスポーツ少年団とは違い、チームへ入るためには入団テストに合格しなければならないのだ。春彦君がテストに合格できなかったので、竜子さんは仕方なく、比較的レベルの低い少年サッカーチームへ入れたのである。どんな状態でも、自分の子供の方が優秀だとゴリ押しするのだから、本当にどうしようもない。

「苗島さん、春彦君のことを考えるなら、あまり手厳しいことはしない方がいいんじゃないですか? 悪い印象を持たれると、サッカーを続けづらくなりますよ。」

「何よ、あんた? コーチの肩を持つわけ? それに、その言い方だと、まるで私の行動が悪いみたいじゃない?」

席を立った竜子さんを見て、春彦君が心配そうな表情を浮かべている。春彦君はとても優しい子で、サッカーの練習仲間をよく気遣っていた。どうして竜子さんのような人から、こんなにいい子が生まれるのか、不思議に思うほどだ。いや、これは反面教師なのだろう。親がしっかりしていないと、それを見た子供はああならないようにしようと考えるものだ。

「訂正しなさいよ。私は春彦のためを思って頑張っているんだから。」

「私はアドバイスしただけですよ。苗島さんの努力が、別の方向に向いていると感じたので。」

「そうやって私を馬鹿にするつもりなんでしょ。立場ってもんでもないくせに、私に指図しないでちょうだい。」

私のすぐそばまで来た竜子さんは、テーブルに向かって拳を叩きつける仕草を見せた。しかし、その手はテーブルでなく、リゾットに突っ込んでいたスプーンの柄に向けられている。それに気づいた時には、反動でスプーンが飛び出し、リゾットが私の服にぶち撒けられてしまっていた。その様子を見て、竜子さんがニヤニヤと笑う。

「あら、ごめんなさい。服が汚れちゃったみたいね。すぐに帰って洗った方がいいんじゃない? 一度染みになると、なかなか落ちないわよ。」

遠回しではあるが、私に帰ってほしいという思惑が見え見えだ。しかし、ここで逃げ帰ってしまったら、竜子さんの思う壺である。そう判断した私は、持参したウエットティッシュで汚れを拭き取り、至って冷静に答えた。

「外食が汚れるのは当然ですよ。それに、これくらいの汚れ、洗濯したうちに入りませんから。」

「お母さん、本当に大丈夫?」

大和が心配そうに私の服を見つめている。私は優しく微笑みかけながら、彼の髪を撫でた。

「大丈夫よ、大和。それよりも、美味しいものをもっと食べなさい。」

すると、そこへ夫の和がトイレから戻ってきた。不自然な空気を察したのか、和が私に問いかける。

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

「何でもないわ。ただ、苗島さんに会っただけよ。」

和は竜子さんの存在に気づき、少しだけ目を細めた。彼は何も言わなかったが、その表情は何かを理解しているようだった。和は元々、私が竜子さんから嫌な目に遭っていることを知っている。しかし、相手は女性だ。本気で怒るわけにもいかないし、こちらから仕掛けるわけにもいかない。だから、和は今まで黙ってやり過ごしてきたのだ。

だが、今日ばかりは違った。

「苗島さん、失礼ですが、うちの妻と息子に何かありましたか?」

和は静かに、しかし鋭い声で竜子さんに問いかけた。竜子さんは一瞬たじろいだが、すぐにふんぞり返って言い返す。

「何よ、何もないわよ。ちょっと挨拶をしただけよ。あなたの奥さんが、私の息子に気安く声をかけてきたものだから、注意をしただけ。」

「注意? うちの息子が、あなたの息子さんに何かしましたか?」

「…何もしてないわよ。でも、レギュラーのこととか、いろいろあるでしょう? うちの春彦をバカにされたら困るから、釘を刺しておいただけよ。」

和は深く息を吐き、ポケットからスマートフォンを取り出した。

「分かりました。では、この件はこちらで預かります。苗島さん、一度、冷静になりましょう。あなたが今、何をしたのか、よくお考えになった方がいい。」

その言葉に、竜子さんはぴくりと反応した。しかし、彼女はまだ自分が悪いことをしたとは思っていないようだ。

「何よ、その言い方。脅してるの? 私の旦那が誰か分かって言ってるの?」

「ええ、存じておりますよ。苗島組々長、ですよね。」

和の言葉に、竜子さんは一瞬、言葉を失った。そして、すぐに勝ち誇ったように笑った。

「そうよ。私の旦那は組長よ。分かってるなら、さっさと謝りなさいよ。そうすれば、今までのことはなかったことにしてあげるから。」

「いいえ、謝るべきはあなたですよ。」

和はそう言うと、スマートフォンを耳に当てた。

「もしもし、俺だ。今、件の人物が判明した。苗島組の組長夫人だ。ああ、そうだ。すぐにこちらに来てくれ。」

その会話の意味が分からず、竜子さんは困惑した顔を浮かべている。しかし、私は何となく察していた。和はおそらく、警察か、あるいは何かの関係機関に連絡をしたのだろう。和は、表向きは普通の会社員だが、実は裏では様々な人脈を持っていることを、私は知っている。彼が本気で怒ると、誰も止められない。

しばらくすると、数人のスーツ姿の男性たちが店内に入ってきた。彼らは真っ直ぐに私たちのテーブルへと近づき、竜子さんの前に立った。

「苗島竜子さんですね。私たちは県警のものです。あなたを、ある事件の重要参考人としてお尋ねしたいことがあります。同行していただけますか?」

その言葉に、竜子さんの顔が真っ青に染まった。

「な、何よ、急に! 私が何をしたっていうの?」

「あなたが以前、息子さんのサッカーチームのコーチに対し、脅迫めいた発言をしたという証言があります。また、今回の件に関しても、こちらの親子に対する暴行行為が目撃されています。店員の証言も取れていますので、素直にご同行ください。」

竜子さんは、顔を真っ赤にして和を睨みつけた。

「あなた…まさか、私の旦那に繋がりのある人間を呼んだの? 私を嵌めたの?」

和は無表情のまま、静かに答えた。

「いいえ、私は何もしていませんよ。ただ、物理的な暴力を伴うあなたの行為を見て、然るべき機関に通報しただけです。息子が受けた傷も、このとおり、病院の診断書を取ってあります。あなたの行動は、ただのママ友トラブルでは済みませんよ。」

その言葉を聞いて、竜子さんは完全に観念したようだった。涙を浮かべて、ヒステリックに叫ぶ。

「ひどい、ひどいわ! みんな、私がいじめてるように言うけど、私は正しいことをしてるだけなのよ! 春彦を思って、私たち親子を守ろうとしてるだけなのよ!」

しかし、警察の担当者は冷静に彼女の腕を掴んだ。

「お言葉は、署でゆっくり伺います。さあ、行きましょう。」

竜子さんが連れて行かれると、陛下まで黙っていた春彦君が、おずおずと私の前に立った。

「…新田さん、すみませんでした。母が、本当にすみません。大和も、僕のせいで嫌な思いをさせてしまって…」

春彦君は、目に涙を浮かべて謝ってきた。私は、彼が本当に心の優しい子なのだと改めて思った。そして、こんな大人の事情に彼を巻き込んでしまったことが、心苦しくてならなかった。

「春彦君、何も謝らなくていいのよ。あなたは何も悪くないわ。元気で気を付けておうちに帰ってね。」

私がそう言うと、春彦君は隣に座ったまま俯いていた。彼の父親とおぼしき男性も、何も言わずに立ち上がり、息子の肩をポンと叩いて先にに店を出て行った。

大和は、春彦君を見送りながら、何か言いたそうに私の袖を引っ張った。

「お母さん…、春彦君、可哀想だね。お母さん、怒ってる?」

私は首を振り、大和の頭を優しく撫でた。

「怒ってないわよ。それに、春彦君はああするしかなかったんだよ。悲しいけどね。」

その夜、家族3人で家に帰ると、夫の和が少し疲れた声で私に言った。

「…今日は、驚かせてしまってすまなかった。もちろん、昔からやりすぎなところがあるのは分かっていたが、実際に警察を呼ぶとは思っていなかった。」

私と大和は、その言葉を聞いて、息を揃えた。

「もしかして、あなた…あの人、本当に苗島組の組長なの?」

私は、長年の疑問をようやく口にした。和は、テーブルの上に置かれたコーヒーカップを手に取り、一口含んでから、静かに答えた。

「苗島組は、もう消えかけの小さな組だ。だが、組長さんには昔、随分と世話になった主義があるんだ。それで、口を出さなかったんだ。でも、今日、彼女が大和にステーキを投げて、君の服にリゾットをぶち撒けた時、組の体面を考えて動くのはやめようと思った。」

「夫ができることってもっとあるだろう、と思ったんだよ。単純に警察に通報することが、正しい選択だと思ったんだ。結果的に、彼女の立場は悪くなるだろうが、それ以上のことは望んでいない。」

和はそう言って、小さくため息をついた。私は、夫がただ厳しい人ではなく、本当はとても冷静な判断ができる人間なのだということを、改めて知った。

翌朝、竜子さんから連絡があった。震えた声で、泣きながらの電話だった。

「…新田さん、本当に…本当にすみませんでした。私、間違っていました。あなたたち親子を傷つけてしまって、悔い改めます。だから…、もしできるなら、許してもらえませんか。それに、警察には…もう、解いてもらえないでしょうか…」

彼女はどうやら、警察で世間話として、組の顧問やら何やらを持ち出したらしい。それが、より一層、警察の心証を悪くしてしまったようだ。私は、静かにスマートフォンを耳に当てたまま、彼女の話を聞いていた。

「苗島さん、謝るべき相手は私ではありません。春彦君と、あなた自身ですよ。息子さんは、自分のせいで母が怒り狂っている姿を見て、すごく辛い思いをしました。まずは、ちゃんとお子さんに謝ってください。警察の対応は、私からは何とも言えません。あなたが弁護士に相談することをお勧めします」

そう言って、私は通話を切った。

数日後のこと。夕方になり、家のインターホンが鳴った。怪訝に思いながら玄関を開けると、春彦君が立っていて、私に丁寧にお辞儀をした。

「…新田さん、この間は、どうもすみませんでした。今日は、この前の借りを返しに来ました。…ぼくからはこれでおしまいです。」

そう言って、春彦君は私に小さな封筒を差し出した。中には、折り鶴で作られた、手書きのメッセージカードが入っていた。

カードには、丁寧な字でこう書かれていた。

『新田さん、大和さんへ。母が、あなたたちにしたすべてのことを、心から謝っています。許してくれるかどうかは分からないけど、僕はあなたたちと仲直りができたらいいと思っています。大和、今までありがとう。また、サッカーを一緒にやりたいです。』

私は、春彦君がどれだけの思いでこの手紙を書いたのかを思うと、胸が張り裂けそうになった。まだ子供なのに、親の醜さに恐怖を覚えながらも、自分の気持ちを伝えたいと思ってくれたことが、ただただ嬉しかった。

「…もちろんよ。こちらこそ、不快な思いをさせて悪かったね。今度、大和がうんとお世話になるかもしれないわ。まあ、上がっていって、大和も待っているから、いっしょに遊んでって。お母さんは…、まだ少し、これが仕事みたいなものだから。」

そう言って笑いかけると、春彦君は、ぽつりとつぶやいた。

「…母は、人をけなさないと、自分を守れないんです。僕も、父も、それが悲しかった。でも、新田さん夫婦が、僕の見方をしてくれたことで、ちょっと楽になりました。」

彼の言葉に、私は何も言えなかった。ただ、うなずくことしかできなかった。

春彦君は家に上がり、大和と二人でリビングへ行って、楽しそうにゲームをし始めた。私はキッチンで夕食の準備をしながら、和の方を振り返った。

「…あなた、明日、仕事で遅くなる?」

和は、新聞から顔を上げて、私を見返した。

「ああ。もしかして、何かあるのか?」

「ううん。明日、私と春彦君と、ちょっとスーパーに行くんだ。何だか、この子ちょっと、うちの息子に劣等感を持ってるみたいでさ。おやつと練習着を買ってやってほしいんだ。」

和は、何も言わずに笑った。そして、明日のことを案じているつもりはない、と言わんばかりに、また新聞を読み始めた。

その夜、リビングに子どもたちの声が響いていた。私は、皿を洗いながら、今日の出来事を思い返していた。間違ったのは、私を貶めた人ではなく、誰かに認めてもらわなければ自分を保てなかった人。そして、その最も大切なものに気づいた時、人は少しだけ優しくなれる。そんな気がした。

翌日、私と春彦君は、大和と一緒に近所のスーパーへ行き、サッカーボールのデザインがついた靴下と、前に欲しがっていた練習用の青いトレーナーを買ってあげた。春彦君は、遠慮しながらも、とても嬉しそうな顔をした。

それから、春彦君の母・竜子さんは、騒動の責任を取るようにして、ある日突然、スポーツ少年団の連絡帳からも消えた。病院の診断書を取られては、さすがに何か言われると思ったのかもしれない。

後日、苗島組の若頭である夫と連絡を取ったらしい。ただ、それがトラウマになったのか、彼女からサッカーや大和に対する悪口が出ることは、もう二度となかった。私は、あの時の和の判断に、ほっと胸をなでおろした。たとえ、新しいエプロンがキッチンから無くなっていても、それを悔やむ日は、ついに来ることはなかったのだ。

人の心の中に、火を付けてはいけないことがある。ふつふつと燻るその魔の手は、君が最も大切な人にすら背を向けたくなる時ほど、そっと顔を出す。私にとってのその火は、春彦君という優しさの光として、静かに心の中で灯り続けている。

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