俺がふと目を向けたその瞬間、見覚えのある背中が視界に入った。そして同時に、酒の勢いに任せた男の声が聞こえてきた。営業部長が、妹に絡んでいるのだ。俺は何も言わずに、その場の空気を睨みつけるようにして見つめた。俺の名前は山田。62歳。父が創業した総合写真の会社を受け継ぎ、今は会長を務めている。父の時代はグループ会社というほどでもなかったが、俺の代で12社にまで成長させた。ここまで来るのには、正直、相当な苦労があった。休む間もなく働き続けた日々。それでも俺がここまでやってこれたのは、ひとえに守るべき者がいたからだ。15歳離れた妹。父が再婚した相手との間に生まれた子で、だからこんなに年が離れている。俺が26歳の時、父が心臓の病で倒れた。そして、母も後を追うようにして、この世を去った。残されたのは、28歳になったばかりの俺と、13歳の妹。その時を境に、俺は若社長として働きながら、妹の親代わりになることを決めた。いや、親代わりだなんて、あの頃は思っていなかった。ただただ、目の前の妹のために働かなくては。それだけだった。両親を短い間に失った妹は、すっかり元気をなくしていた。俺は忙しい合間を縫って、妹と言葉を交わすようにした。経済的にも、精神的にも、支えになりたかった。妹の中学の卒業式には、大口の取引先との会議を中座して駆けつけたこともある。先方には平謝りだったが、後悔はしていない。式が終わって、妹が会場から出てきた。すると、妹が俺の背広の袖を、ぎゅっと掴んだんだ。『来てくれて、本当にありがとう。』泣きながら笑う妹の顔を、今でもはっきりと覚えている。あの時、俺は誓った。どんな犠牲を払ってでも、この子だけは幸せにすると。それから月日は流れ、妹は結婚し、今では夫が経営する会社で元気に働いている。『お兄ちゃんがいたから、私、笑っていられるの。』妹の結婚式で、そう言ってもらえた時は、俺は人前だということも忘れて、大泣きしてしまった。それほど、俺たち兄弟の絆は強い。そう思っている。今日は都内のホテルで、俺の会社が主催する取引先の懇親会がある。協力企業や主要な取引先から、およそ150人が集まる年に一度の大規模な催しだ。立食形式の会場には、豪華な料理が並んでいる。銀座の有名店から取り寄せた寿司のコーナーには、大トロやウニ、イクラが贅沢に盛られていた。挨拶は、代表取締役を務める息子が壇上で行う。俺は今日は来賓という形で参加しているので、少し気が楽だった。会場を見渡しながら、俺はふと昔のことを思い出していた。そういえば、今日の懇親会には、妹の会社も参加しているはずだ。妹は元々うちの会社で働いていたが、協力企業の社長と結婚し、そのままそちらの会社に移ったのだ。予定通りなら、夫婦揃って参加しているはずだな。しばらくして、いよいよ懇親会が始まった。会場中に、男性の声が響き渡る。俺も来賓として、会場を一通り回って挨拶をしていく。すると、ふと足を止めた。見覚えのある後ろ姿が見えたからだ。飲み物のグラスを持った、女性。あれは、妹だ。俺が声をかけると、妹が振り返った。『久しぶりだな。』俺が笑いかけると、妹の表情がぱっと明るくなる。『お兄……っ』瞬間、妹はしまったという顔をし、慌てたように周囲を確認した。そして、すぐに表情を引き締めると、口を開いた。『山田会長。本日は、お招きいただきありがとうございます。』そうか。今はこういう場だと、自分の立場をわきまえているのだ。妹はうちの会社を辞めてからというもの、今では別の会社で営業企画部の部長を務めている。真面目な性格で、俺は思わず笑みがこぼれた。『そういうところ、相変わらずだな。もう少し肩の力を抜いたらどうだ。』『はい、ありがとうございます。』妹は昔から、俺の妹だということを表に出さずに仕事をしてきた。公平性を大切にする妹らしい考え方だ。それが分かっているから、俺も人前で妹と話す時は、なるべく目立たないようにしている。しかし、そこで俺はあることに気がついた。そういえば、今日は夫の姿が見えない。この懇親会は、企業の社長と、その同行者2名まで参加が認められている。妹がここにいるということは、夫である社長も来ているはずだ。『そういえば、今日は旦那さんは来ていないのか?』俺が何気なく尋ねると、妹の表情が曇った。それに、よく見ると、さっきから顔色が優れない。疲れているようにも見える。『その……実は、夫が。』妹が言いにくそうに口を開く。『心臓を患っていて、今、入院しているんです。』その言葉に、俺の脳裏に父の顔が浮かんだ。父が心臓の病で倒れた。あの時、妹は幼かった。そして、母も失った。『そうだったのか。それは心配だな。』妹は、俺が心配するといけないからと、今日まで言わなかったようだ。『で、でも、お医者様は手術をすれば大丈夫だって言ってくれていますから。』妹は、俺を安心させようと無理に微笑んだ。しかし、その肩が少し震えているのを見て、俺は直感で悟った。妹は、きっとまた父や母を失ったあの日の恐怖を思い出しているのだと。俺は無性に、何かしてやりたい気持ちに駆られた。そして、黙って近くにあった寿司コーナーへ向かうと、丼に大トロをはじめとする寿司を、山のように盛り付けていった。『さあ、少しは食べなさい。お前、寿司が好きだっただろう。』『え?』妹は戸惑ったように、俺の顔と寿司の乗った丼を、交互に見つめる。『私、こんな場で……でも、こんなにたくさんは……』『遠慮はいらない。いいから食べなさい。』俺が微笑みながら言うと、妹はおずおずと丼を受け取った。『いただきます。』妹は、まるで子どもに戻ったように、寿司を頬張った。『おいしい……。』ぽつりと呟くその声に、昔の面影が重なった。『無理はするんじゃないぞ。』俺が言うと、妹はこくりと頷いた。『はい。ありがとうございます。』目に涙が滲んでいるのが見えたが、俺は気づかないふりをした。その時だった。『おや? これは、暮らしぶりの良い奥様ではありませんか。』嫌な声が後ろから聞こえてきた。さっき、妹に絡んでいた営業部長が、酔っ払った足取りで近づいてくる。『いや、しかし、随分と豪華な皿をお持ちだ。大トロにウニにイクラですか? とても部長の家の食卓とは思えませんね。』部下や周りの人間を巻き込んで、部長は笑いを取ろうとしているようだ。『まあ、たまたまですが。』妹が気まずそうに答えると、部長は更に畳みかける。『たまたま? まさか、誰かにごちそうになっているんじゃないですか? 例えば、その……旦那さんが入院しているのに、浮気とは。』ひどく下品な言葉に、俺の頬の肉が引きつる。もう我慢の限界だった。『おい。』俺は、低い声を発した。『部長。その言葉、取り消してもらおうか。』部長が、こちらに向き直る。『あ? あんた誰にものを言って……って、山田会長?!』周りの空気が変わったのが分かった。部長は慌てふためき、俺の顔色をうかがう。『これは、ご無礼を! いや、失礼をば。まさか山田会長がこのようなところに……』『このようなところとは、失礼だな。私は来賓として招かれている身だが。』『も、もったいなきお言葉。』部長は頭を下げ、背中に冷や汗を流している。『認めよう。今の発言は、私の思い違いでした。どうかお許しください。』『私にではない。その方の女性に謝れ。』俺が妹を見ると、部長は理解したように、妹の方を向いた。『大変失礼いたしました。つい、冗談のつもりで……。』『もう、行け。二度と、そのような言動を見せないことだ。』『はい! ありがとうございます!』部長は頭を下げ、どこかへと消えていった。そして、俺は妹の方を向き直した。『すまないな。ああいう奴は、構わず追い返せばいいんだ。』『お兄ちゃん……。』妹の目に、再び涙が浮かぶ。『でも、お仕事に差し障ったら……。』『俺のことは心配するな。お前が変に気を遣うから、そういうのが好きな奴に付け込まれるんだ。』俺は手に持っていた寿司の皿を、妹に手渡した。『さあ、まだ食べてないんだろう。ゆっくりしていけ。』『でも……。』『いいから。』俺が笑いかけると、妹はこくんと頷き、ようやく安心した顔を見せた。その様子を見て、俺はほっと胸をなでおろした。そして、改めて思う。この年になっても、妹を守ることは、俺の大切な使命なのだ。何があっても、この絆は誰にも壊せない。俺は妹の背中を見守り、静かに笑みを浮かべた。かくして、わがままを言って、迷惑をかけた妹は、夫が退院した後、会社を休みがちにしながらも、ちゃんと幸せにやっている。あの時、寿司を渡して良かったと、今でも思っている。
