廊下で飲み物のことを考えている余裕なんて、私にはなかった。目の前の段ボール箱の中には、私がアパートで使っていたものが詰まっている。それを段ボールごと見つめることしかできない。取引先の書類、ボールペン、付箋。物は私を裏切らない。物は私を置き去りにしたりしない。
「緑。ここ、3年住んだから、思い出もたくさんあるだろう。寂しくなるな」
独り言を言って彼…いや、元婚約者の年明さんは、軽い笑みを浮かべた。私は彼の顔をまともに見ることができない。ただ、「楽しかったです」と絞り出すのが精いっぱいだ。初めての彼氏で、プロポーズされて、一生添い遂げる人なんだと思っていた。現実は、あっけないほど呆気なく、彼の母親の一言で消えてしまった。
私の名前は緑。26歳。大学を出て、今の会社に入ってからもう3年になる。何の取り柄もない、ごく普通のOL。学生の頃から「真面目だね」「物静かだね」とよく言われていた。それは褒め言葉だと信じていたけど、この歳になって気づいた。それは私に会話のキャッチボールができないという意味で言われているのだと。口下手で、空気を読んで愛想笑いをしている方が楽だと思うようになったのは、いつからだろう。
あの日もそうだった。取引先の人が上司の代わりに応接室に来て、私はお茶を出した。「すみません、すぐに戻ると思いますので」と同じ台詞を言うのがせいいっぱいで、そこから先に言葉が続かない。沈黙が気まずくて、窓の外の景色に視線を逃していると、彼が言った。
「今日はいい天気ですね」
「え、はい。そうですね……」
また愛想笑い。嫌われるのが怖くて、心にもないことを言ってしまう。私はもう、そういう人間になるんだと決めていた。そうしなければ、社会で生きていけないと思っていたから。でも、彼は私に話しかけてくれた。
「立ち話もなんですから、良かったら今日お昼とかどうですか? 」
「え、あの…私……」
その言葉に顔を上げると、彼は人当たりの良い笑みを浮かべていた。年明さん。5つ年上の彼は、何故か私のような地味な女を気に入ってくれた。「真面目でいい人だね」と、初めて会った日に上司が言っていたのを思い出す。それから彼は頻繁に会社に顔を出すようになり、食事に誘われるようになった。
「緑さんは、何か趣味とかあるの? 」
「別に、特に……」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、今度の休みにドライブでも行かない? 」
無愛想な私に対しても、彼はいつも話を振ってくれた。私の言葉を遮ることなく、じっと耳を傾けてくれる。初めて会った時はお互い何を話せばいいのか分からなかったのに、いつの間にか私は彼と一緒にいることに安心するようになっていた。焦ってリズムが合わない私を、彼は「緑らしくて大丈夫だよ」と言ってくれた。
そして1年後、彼にプロポーズされた。29歳の年明さんは、取引先で知り合ったまだ若い頃から、私みたいな女がいいと思ってくれていたらしい。嬉しかった。自分にも人を幸せにできるんだという自信が、初めて持てた気がした。
婚約の挨拶に行った彼の実家。お母さんは話し好きで、お父さんは温かい人だった。お母さんは私を見るなり言った。
「まあ、物静かで真面目そうなお嬢さんね。年明もおとなしい子が好きなのかしらね」
何気ない言葉だった。でも、その言葉に込められた棘のようなものを、感じ取ってしまった。ママという彼の言葉。年明さんは私のことを「ママが言ってたけど」と、頻繁に母親の言葉を引き合いに出して褒めてくれたのだ。直接何か言われたわけじゃない。でも、私はその言葉を聞くたびに、胸の奥がチクリと痛んだ。
あの日もそうだった。仕事から帰ると、玄関に彼の靴がある。珍しく早く帰ってきたのかな、と思った。
リビングのドアを開けると、ソファに深く座り込んだ彼がいた。テレビもつけずに、手に持ったビール缶をじっと見つめている。足元には、脱ぎ散らかされたスーツ。見たことのない表情に、私は足を止めた。
「年明さん…?

どうしたんですか? お疲れ様です」
声をかけると、彼は体を動かさず、私を一瞥して、またビールに視線を落とした。居心地の悪い沈気が流れる。一体何があったのか、私には想像もできない。とりあえず「お疲れ様」と声をかけて、キッチンに向かおうとした。コートを脱ごうとした手を、彼に掴まれる。
「緑」
低い声だった。今までに聞いたことのない声。
「……お前じゃ、ダメなんだ」
「え…? 」
「お前と結婚する気は、もうない」
予想していなかった言葉に、思考が一瞬止まる。何が始まったのか、頭がついていかない。「どういうこと…? 」そう聞くのがやっとだった。
「結婚は我慢大会じゃないんだよ。お前は、会話が続かないし、愛想笑いしかできないし、付き合ってても全然楽しくないんだ」
彼は言い放った。私は言葉を失った。
「一緒にいて楽しくない奴と、この後の人生を添い遂げるなんて無理だ」
はっきりと、冷たい口調で。
何か言わなければ。何か言い返さなければ。頭の中では様々な言葉が駆け巡るのに、声にならない。「すみません」という言葉が、喉の奥で引っかかった。「そうですか」としか言えない自分が、歯がゆかった。
「荷物は、明日でいい。実家に帰ってくれ」
「え、でも…婚約指輪、どうしますか…?
」
「それは、売ってくれ」
そう言って、彼は立ち上がった。リビングを出て、寝室のドアが閉まる。リビングに一人残された私は、ソファに崩れ落ちて、自分の情けなさに涙を流した。将来を約束したはずのに、私は彼に何もしてあげられなかったんだ。この胸の痛みを、どう表現すればいいのか分からない。ただ、ポタポタと落ちる雫を見つめていた。
翌朝、何の連絡もなく家を出た。玄関に置きっぱなしになっていた彼のスーツは、前の夜に脱ぎ散らかしていたままだ。何か一言、言ってくれればよかったのに。せめて「ありがとう」の一言があれば、やっていけた。最低限の言葉さえも、私にはかけられなかった。
実家に帰ると、両親は驚いていた。ただ、すぐに何かを悟ったらしく、多くは聞いてこなかった。
「何があったんだ」
父が難しそうな顔で聞く。
「…別に、どうしても続かなくなったんで」
「水臭いことを言うな。何かあったんだろ? 」
母が優しく言う。その言葉に、堪えていた糸が切れた。
「お母さん、私……年明さんに、『お前じゃない』って言われました……」
言いながら、また涙が溢れてきた。すると、母が私を抱きしめた。
「そうだね。緑はもっと幸せにならなきゃダメだ。あの家は、お母さんの意見が強すぎたんだよ。緑が悪いんじゃない」
母の言葉に、私は首を振った。
「違うの…。私、もっとこう、上手くできたのかもしれない……」
「そんなことないよ。緑は緑のままでいいんだから」
実家に帰って、1ヵ月が経った。傷は癒えないまま、毎日を無意味に過ごしていた。すると、友人から連絡があった。
「なあ、緑。知ってるか? 年明の奴、元カノと結婚するって話だぜ」
友人のその言葉に、私は絶句した。
「…え? 」
友人も聞かされて驚いた顔をしている。
「いや、だからさ、婚約破棄した後に、昔付き合ってた女と、もう結婚するんだって。どうやら、向こうの親がすごく気に入ってるらしくて、籍を入れるらしいよ。挙式はまだだけど、もう同棲してるっていう噂だ」
結婚するって聞いて、思わず言葉を失った。そっか、そういうことか。彼は、私との結婚を取りやめてから、昔の元カノに鞍替えしたんだ。いや、元カノじゃなくて、もしかしたら最初から想定内だったのかもしれない。私はただの、その場しのぎの相手だったんだ。
悔しい。悲しさよりも、怒りがこみ上げてきた。家に押し付けられた婚約者。人形のように扱われていた数ヶ月。何より、私にその気がないのを知っていた母が、面白がって彼と同調していたことが、悔しい。
でも。この縁談が壊れたことは、私にとって不幸なことじゃないようにも思えてきた。
すると、今度は母が言った。
「まあ、縁談が無くなって、潔くはないけど、焦ることもないんじゃない?
あなたのことをきちんと見てくれる人も、いつかは現れるわよ」
昔の母からは考えられない言葉だ。私が傷ついていると思って、気を使って慰めてくれているのかもしれない。でも、あの実家にいた時のように、母の顔色をうかがってばかりいた自分を考えると、逆に今のこの解放感を味わっていた。
時間はかかったが、私は何とか前を向けるようになってきた。この実家に戻ってきて、私ははっきりしたことがある。ぬるま湯に浸かって何が悪い。私は、母が嫌いなわけじゃないし、ずっと実家にいて甘えていくのも悪くない。とか思っていたんだけど、やっぱり仕事はしていないと落ち着かない。
それに、両親に気を使っているというのもある。父は何も言わないけど、迷惑をかけているという申し訳なさはある。母は母で、私を養わなければいけないという負い目があるのかもしれない。何となく、実家に居づらくなってきた。
まあ、焦っても仕方ない。私はそう思っていた。が、ある日、母が言った。
「緑。あんた、自分の人生、このままでいいと思ってるの? 」
「え? まあ、別に…」
「別に、じゃないでしょ。この前、あんたをふった年明さんの結婚相手が、偶然スーパーに買い物に来てたのよ。ものすごく幸せそうだったわ。年明さんも、嬉しそうだったな」
母は、私の反応を見るように言った。私は、少しだけ前を向けるようになっていたから、それほど動揺しなかった。
「良い結婚だったみたいね。それで?
」
「いや、だからね。緑は大体いい歳なんだから、いつまでも家にいないで、仕事でも探しなさいよ」
「それは、まあ、お金もないし、と思ってはいるけど…」
すると、母は真顔になって言った。
「あんたね。私はね、あんたがもっと強く生きてほしいんだよ。あの時、年明さんに『お前じゃない』って言われて、あっさり引いて帰ってきたでしょ。あの時、どんな言葉があっても、あんたはしっかりと自分を出して話すべきだったんだ。言い返せないのも、あんたが駄目だったんだよ」
母の口調が、いつもより厳しい。今まで、私が家事ができないことに文句を言ってばかりいた母が、急に私の性格をとやかく言い始めた。確かに、私は言われるがままに、何も言い返せずに家を出てきてしまった。今思えば、悔しかった。
「お母さんの言う通りだね。私、馬鹿だ」
「だから、言ってるのよ」
「……何か、仕事を探してみる」
「そう。頑張りなさい」
それから私は、ハローワークに通い始めた。仕事は続けられる気がしなかったが、やはり家にいるよりはマシだと思った。すると、ある施設の求人が目に留まった。
特別養護老人ホーム。介護士の求人だ。
介護の仕事なんて、全く経験がない。資格もない。ダメもとで応募したら、なぜか受かったらしい。「やってみないか」と所長に言われて、とりあえず働いてみることにした。
最初は、やっぱり上手くいかない。利用者さんに何て話しかければいいのか、分からない。相手の名前を呼ぶのも、勇気がいる。挨拶するのも気まずい。だが、そんな私を、スタッフの皆さんは温かく見守ってくれた。ベテランの職員さんが手本を見せてくれて、そのアドバイスをこなしているうちに、少しずつではあるが、自分から動けるようになってきた。
ある日、車椅子に乗った女性が、私に言った。
「あんた、あんまり愛想が良くないけど、優しい顔をしてるね。昨日、落ち込んでるあんたに、私、何度も励まされたよ。ありがとう」
そんなつもりは全くなかった。私が仕事を覚えるのに必死で、周りを見る余裕なんて全くなかったから。でも、そう言ってくれた時は、本当に嬉しかった。
誰かの力になれる。自分が誰かの役に立っている実感が、心地よかった。初めて、「この仕事をしていて良かった」と思えた気がする。
それから1年が経った。私は介護職員として、何とかやっていけている。地味だけど、私なりに誰かのために動く仕事が、天職なのかもしれない。そして今日も、私は誰かの笑顔を思い浮かべて、仕事に向かう。同じアパートの隣室に、今やすっかり身内のように見守ってくれる利用者さん、先輩方、たくさんできた。
夜、帰り道に、春の柔らかい風を浴びながら、私は思う。あの時、実家に帰ってきて正解だった。そして、母に反発したあの日も、年明さんに婚約破棄されたあの日も、間違っていなかったんだ。そう思えるように、少しは強くなれたのかもしれない。
ふと、アパートの部屋の明かりがついている。隣には、今日も話を聞いてくれる大家さんがいる。私は、ほんの少しだけ強くなった私は、それでも、また明日も、日常を大事にしていく。