5年住んだ部屋の鍵を、私は元夫の手のひらに置いた。金属が触れ合う乾いた音がした。それだけで、長かった結婚生活が本当に終わったのだと分かった。
「これで全部だな」
三浦直は鍵を指先でつまみ、テーブルの上に放った。今朝、区役所に離婚届を出した。受理された時、彼はスマートフォンを見ていた。誰と話していたのか、聞くまでもなかった。白いワンピースの女、レナ。2年前から夫の隣にいた女だ。
「みよ、お前は明日から何を頼って生きるんだ?」
私は空になった棚を最後に確認した。衣類と本、仕事用の古いノートパソコン。持っていくものはそれだけだった。
「聞いてるのか?」
「聞いてるわ」
「だったら答えろよ」
私は小さな箱を閉じた。
「それ、もう私には関係ないから」
直が眉を寄せた。5年間、彼はいつも私が説明するまで待った。自分が怒れば私が理由を探した。彼が失敗すれば私が穴を埋めた。契約条件が悪ければ私が気づいた。取引先に失礼があれば私が頭を下げた。それでも彼の中では、私は何もしていない妻だった。
「強がるなよ。仕事もない。貯金だって大したことない」
「そうね」
「俺はもう違うんだ」
直が言った会社、株式会社クロセイベント。彼が2年前に立ち上げたイベント会社だ。創業当初は小さな案件ばかりだった。今ではホテルコンベンションや企業イベントまで扱う。直はそれを全部、自分の実力だと信じていた。
「来月から港未来に住む。レナと一緒にな」
「そう」
「もっと驚けよ」
私は初めて直を見た。新しい時計、新しいジャケット、自信に満ちた表情。5年前、私の前で何度も頭を抱えていた男とは別人だった。
「高級レジデンスだぞ。入居審査も厳しい」
「おめでとう」
「それだけか。他に何かある?」
私が泣くと思ったのだろう。レナの名前を出せば怒ると思ったのだろう。けれど、その時期はとっくに終わっていた。離婚を決めたのは今日ではない。2年前の出張履歴とレナの予定が何度も重なり、問い詰めた私に直は言った。
「仕事の付き合いだ。疑うお前の方がおかしい」
その瞬間、私は初めて気づいた。私が守っていたのは家庭ではない。彼の嘘だ。それから私は争わなかった。調べた。整理した。そして離婚届に署名した。
「レナはお前とは違う」
玄関へ向かった背中に、直の声が届く。
「仕事ができる。人脈もある。俺の話も理解できる」
「そう」
「俺が上に行くなら、隣にいるのはああいう女なんだよ」
私は靴を履いた。
「お前みたいに家にいて飯を作ってるだけの女じゃない」
ドアノブに手をかけた時、直が言った。
「5年間、俺が養ってやったんだ」
手が止まった。
「直、それ本気で言ってる?」
「事実だろう」
私は頷いた。
「分かった。じゃあね」
ドアを出ると、背後でドアが閉まった。5年間で初めて、その音が軽く聞こえた。エレベーターを待つ間、父から短いメッセージが届いた。
「着いた」
「今降りる」
1階で誰かに呼び止められた。
「三浦さん、お引っ越しですか?」
「ええ」
少し迷って、言い直した。
「今日から黒瀬に戻りました」
外には黒いセダンとワゴン車が1台ずつ止まっていた。派手ではない。ただ、フロントガラスの隅に小さな文字があった。黒瀬観光開発。懐かしい文字だった。
「みよ」
振り向く前から分かった。元義父の三浦正人だ。隣には直の妹、みさもいる。2人とも家具を持ち出すために来たらしい。
「まだ、みさが私の荷物を見る。それだけ?」
「そうだけど」
「本当に何もないんだ」
彼女は笑った。
「お兄ちゃん、優しすぎるよね」
正人は車に気づいた。
「何この車? あなた、誰か呼んだの?」
「迎えが来ただけです」
みさの目が変わる。
「離婚した当日に次の男?」
正人は止めなかった。
「直さんはレナさんと新しい生活を始めるものね。あなた、1人だけ取り残されたくないのよ」
「そうですか」
「でもね、みよさん、見えを張っても生活は続かないのよ」
「はい」
「直みたいな男と5年送らせたことを感謝しないと。直みたいな男が2年で会社をあそこまで大きくしたのよ。今じゃ有名ホテルから声がかかるんだから」
2人とも知らない。最初のホテルを誰が紹介したのか、支配人に誰が頭を下げたのか、直の企画書を午前3時まで直したのが誰だったのか。
「話は終わりましたか?」
「何その態度?」
「もう嫁じゃないので」
一瞬、2人が黙った。私はキャリーケースを引いた。車の前に立つと、父が後部座席のドアを開けた。
「本当にこれに乗るつもり?」
みさが笑った。
「聞かなくても分かるわよ。誰の車に乗せてもらうつもり?」
答える前に、後部座席のドアが開いた。61歳の男が降りてきた。銀色の髪は増えていたが、歩き方は5年前と変わらない。黒瀬総一郎。黒瀬観光開発の代表取締役。そして私の父だった。正人の顔から色が消えた。父は2人を見ず、まっすぐ私の前へ来た。
「それだけか」
「うん。5年分、私のものはね」
父は少し黙った。
「迎えに来た。帰るか」
胸の奥で何かが解けた。
「帰る。でも、帰るだけじゃない。仕事にも戻る」
父は私の顔を見て、ほんの少し笑った。
「そうか」
「黒瀬会長」
正人の声が震えた。
「黒瀬観光開発の黒瀬会長で、そうですが」
みさが私を見る。
「じゃあ、みよさんは」
答えたのは私だった。
「娘です」
静寂が落ちた。
「そんな話、聞いてないわよ」
「話してませんから。2人が知らなくても、どうして必要ないと思っていました」
父が運転手に荷物を渡した。
「みよ、行こう」
車へ向かう私を、みさが呼び止めた。
「じゃあ、お兄ちゃんの会社も」
私は振り返った。
「私が誰の娘かと、直さんの会社がうまくいくかは別の話よ」
「でも、直さんは言ってたから」
私は2人を見た。
「自分の力だけでここまで来たって」
車が動き出した。父はしばらく何も聞かなかった。
「後悔しているか?」
「結婚したこと?」
「全部だ」
私は考えた。あの人を好きだった。彼が小さな会場で必死に企画書を説明する姿を、愛しいと思った。助けたかった。だから助けた。その選択を、間違いだったことにはしたくない。
「後悔はしてない。でも、同じことはもうしない」
父は前を向いた。
「それでいい」
スマートフォンが震えた。直からだった。
「レナと今からレジデンスに行く。お前も早く現実を見た方がいい」
私は画面を閉じた。
翌朝、私は5年ぶりに黒瀬観光の本社へ入った。
「本当に戻ったのか?」
父がソファから立ち上がった。夜遅くに連絡を入れた時、父は何も問わなかった。ただ「分かった」と言っただけだった。
「戻るわ。そして、会社の立て直しを手伝う」
「お前が?」
「お父さん、ここ数年、売上を落としてるでしょ。ホテル事業の受注が減って、新しい取引先も見つからない。知ってるわ」
父は黙った。私は持ってきた資料を机の上に広げた。
「これは、直さんの会社、クロセイベントの決算資料よ。公開されてる情報からまとめたの」
「お前が?」
「直さんが2年で会社を大きくしたって言うから、家に置いてある書類を全部コピーしてたの。領収書、取引先リスト、契約書。私、直さんの仕事を全部やってたから、内容は全部覚えてる」
父は資料を見つめた。
「これは……」
「黒瀬観光開発が、うちの系列のホテルでイベントを開催した時の記録よ。でも、このホテル、黒瀬観光開発の系列じゃないわ。競合他社のホテル。なんで、ここでイベントをやってたのか、覚えてる?」
父は首を振った。
「直さんに頼まれて、私が企画書を書いたの。直さんの名前で提出した。あの企画、元々は私が考えたものよ」
父の目が見開かれた。
「直さんの会社は、私がいなくなってから、営業力が落ちた。企画書も昔ほど完成度が高くない。受注件数も減ってるみたい。それなのに、あの人、私の分も全部自分の力だと思ってる」
私は少しだけ笑った。
「まあ、それはそれでいいわ。今は置いとく」
「お前は、本当にそれでいいのか?」
「いいの。あの結婚は、私が選んだ。後悔はしてない。でも、もうあの人の面倒は見ない。見ないって決めたの」
父はしばらく私を見つめていた。それから、ゆっくりと口元を緩めた。
「お前は、昔からそうだったな。自分が決めたことは、最後までやり抜く」
「覚えてる?」
「もちろん。お前が中学生の時、父さんに『会社を継ぐ』って言った日も。あの時、嬉しかったぞ」
父の言葉に、私は小さな驚きを覚えた。父がそんな言葉を言うのは、初めてだったから。
「私、遊びたいって言った時、父さんは何も言わなかった。反対するかと思ってた」
「反対しても、お前は行っただろう。それに、お前が戻らないのは、父さんのせいだった」
父は視線を落とした。
「母さんが死んでから、お前を遊学に行かせて、仕事ばかりして。お前が直と結婚すると言った時も、何も言えなかった。あの男の何を気に入ったのか、分からなかったけど、お前の選択ならと思って」
「でも、お父さん」
「直のことは、一目で分かった。あの男は、お前を利用するだけだと。けれど、お前に言えなかった。お前が選んだ結婚なら、それが正しいと思いたかった。だから、あの時も、離婚すると聞いた時も、迎えに行くと決めた」
胸の奥が熱くなった。
「お父さん、私、自分の力で会社を立て直したい。黒瀬観光を、また一番にしたい」
「できるのか?」
「できる。できるように、私がする」
父は笑った。
「では、黒瀬観光開発、取締役に任命する。歓迎するぞ、黒瀬みよ」
「……任せて」
「ところで、今日から何を始める?」
私は資料の1枚を取り出した。
「今、ここ、系列のホテルで、来月、大きなカンファレンスがあるでしょ。地元の商工会議所が主催するやつ。あれ、受注先がまだ決まってない」
「確か、三浦の会社が受けるって聞いたが」
「それが本命なの。直さんは、昨日、私に言ったの。『今からレジデンスに行く』って。今日は、たぶん、その商談の準備をするんだと思う。新しい取引先と会うために」
「……お前、強いな」
「負けないわ。あの人に、今度はきっちりと、1から立ち上げた仕事で負けてみせる」
私は資料を閉じた。
「それで、お父さん。この後の予定、空いてる?」
「何をする気だ?」
「三浦商事に、営業に行く」
「三浦商事? 直の父親の会社か?」
「ええ。直さんは、ここで私に『養ってたのは俺だ』って言った。全然、養われてなかったのに。今度は、私の方から、彼の父親の会社を訪ねるの」
「何をしに?」
「レナさんが、直さんに何も与えないことを、思い知らせてあげる」
