私は66歳で、ホテルの清掃パートとして手が血だらけになりながら働いてきました。引きこもりの40歳の息子を養うためです。ある日、役所から届いた黄色い封筒には「団地取り壊し」と「世帯全員の所得証明書の提出」が条件として書かれていました。窓口で「書類なしでの申請は受理できません。その場合、お1人でのお申し込みとなりますが、優先度が変わります」と言われた時、私は一つの恐ろしい選択肢を思いつきました。…
血が滲む指先で、それでも彼女は便器を磨き続けた。66歳の草壁より子にとって、それが生きるということの意味になっていた。役所から届いた1枚の黄色い封筒が、彼女の人生を根底からひっくり返そうとしていた。 大阪の寂れた商店街の裏手にある、一泊3800円のビジネスホテル。より子は午前9時前にそこにいた。制服に着替え、業務用エレベーターで客室階へ上がる。冷房のない廊下は、夏の暑さでじっとりとしていた。 「1部屋15分。14部屋」。前の担当者が辞めてから、割り当てが2部屋増えていた。店長の田中に訴えても、「慣れたら行けますよ」と笑って流された。 307号室のドアを開けると、タバコと湿気の匂いが顔に被さった。シーツを剥がし、トイレの便器にスポンジを押し込んだ瞬間、左手の中指の付け根のひび割れから血が滲んだ。手の甲から指先にかけて、肌は常にひび割れていた。医者からは「失進」だと言われたが、処方された軟膏は1本1800円で、1週間でなくなる。仕事の休みの日だけ塗るようにしていたから、いつも中途半端な状態だった。 痛みには慣れていた。慣れるしか選択肢がなかった。 午後5時、勤務が終わると、より子はスーパーへ向かった。半額シールが貼られる瞬間を待つためだ。駅から1つ離れた店を選んでいるのは、近所の誰かに見られたくなかったからだ。 サバの塩焼き弁当が2つ残っていた。元値420円が半額の210円。それをエコバッグに入れた。他のものは見なかった。欲しくなっても買えないと分かっているなら、見ない方がいい。それが習慣になっていた。 自宅の団地は、昭和40年代に建てられた古い公営住宅だった。エレベーターはよく止まる。今日は動いていたが、より子は階段を選んだ。エレベーターの中で誰かと鉢合わせたくなかった。 玄関で音を立てないように靴を脱ぐ。これは毎日の習慣だった。廊下の突き当たりに、息子の深夜の部屋がある。ドアの隙間という隙間に黒いガムテープが貼られ、光と音が漏れないようにしていた。 深夜は今年で40歳になる。8年前、会社のリストラで職を失った。再就職活動もむなしく、「スキルの幅が狭すぎます」と20代の面接官に言われた日から、部屋に引きこもった。最初の1年はいつか出てくるだろうと思った。2年目はもう少し待てばと思った。8年が経った。 より子はキッチンで弁当を温め、お盆に湯呑みと割り箸を並べ、深夜の部屋の前に置いた。ドアを2回、指の関節でそっと叩く。3分待つ。ドアが5センチほど開き、日に当たらない白い手が伸びてきて、お盆を静かに引き込んだ。ドアが閉まる。 より子の夕食は、醤油を垂らした白米と薄い麦茶だけだった。サバは明日のために残しておく。テレビはつけない。音を立てると深夜が嫌がることがあった。 風呂に入り、ドライヤーで髪を乾かす。鏡に映った白髪が目に入る。美容院に行く金はない。自分で染めることも考えたが、市販の白髪染めも1000円以上する。 布団に入り、天井の染みを見ながら100円ショップで買った目薬をさす。乾燥した目に液体が染みる。廊下から微かな物音がした。深夜が動いている。より子は息を止めて天井を見続けた。音はやがて消えた。 翌朝、急いでいたより子は郵便受けを確認し忘れていた。翌々日、仕事に行く前に郵便受けを開けると、中に黄色い封筒が入っていた。差出人は大阪市淀川区役所。役所からの封筒は大抵いいことが書いてない。仕事に遅れるわけにはいかないので、封筒をエコバッグに入れて出勤した。 その日の清掃中、より子は2度、封筒のことを思い出した。でも考えないようにして手を動かし続けた。 帰宅後、部屋に戻るより先に封筒を開けた。中には書類が2枚入っていた。より子は廊下に立ったまま読み始めた。最初の数行で、胸の中に冷たいものが広がるのを感じた。 「お住まいの団地は建物の老朽化が著しく、来年2027年4月を持って取り壊しが決定しました。現在居住している全世帯はそれまでに退去する必要があります。住み替えを希望する方は、市営住宅への入居を申請できます。ただし、世帯全員の住民票、所得証明書、そして現在の居住実態を確認する書類の提出が条件となります」 世帯員全員。深夜のことだ。深夜はこの住所に住民票がある。収入はゼロ。仕事にも就いていない。外にも出ていない。それをどう説明するのか。40歳の男が8年間一切働かず、年老いた母親の稼ぎで生活している。その事実を役所の窓口で書類として提出する。 より子は右手の親指で左の手のひを擦り始めた。失進の皮膚が引っかかる感触がある。 深夜に見せなければならない。この話は2人に関わることだ。より子は封筒を持って廊下を歩き、深夜の部屋のドアの前に立った。ドアを2回叩いた。返事はなかった。もう1度、今度は少し強く3回叩いた。室内で微かな物音がした。より子は低い声で話しかけた。 「区役所から手紙が来た。引っ越しのことで、深夜にも関係があることだから、少し聞いてほしい」 声が少しかれた。室内が静かになった。それから、より子が思っていたより早くドアが内側から開いた。深夜が立っていた。8年で姿は随分変わっていた。頬がこけ、目の下に隈ができ、髪は肩まで伸びていた。Tシャツは首元が伸び、視線は定まらず、何かをひどく怖がっているようだった。 より子は封筒を差し出した。「区役所から来た。団地が壊されることになった。来年の4月までに出ていかないといけない。2人で役所に行って手続きをしないといけない」 深夜は封筒を受け取ったが、より子の顔を見なかった。書類を読み始め、ある部分で手が止まった。「世帯員全員の申告」の部分だった。深夜の呼吸が変わった。鼻から息を吸う音が急に速くなった。 「大丈夫だから、一緒に行けばいい。難しくないから」とより子が言おうとした、その時だった。深夜が書類を両手で掴み、丸めるようにして、そのままより子の方に向かって投げつけた。紙の塊が胸に当たって床に落ちた。同時に、深夜が声を上げた。言葉ではなかった。「うわあ」という、喉の奥から絞り出すような、動物が罠にかかった時のような声だった。 より子は後ずさった。ドアが閉まり、鍵がかかる音がした。廊下に一人残された。床に落ちた書類を拾い上げると、シワだらけになっていた。より子は壁に背中を預けながら、ゆっくりとその場に座り込んだ。涙が出た。音を立てずに出た。隣の部屋に聞こえないように、下の階に聞こえないように、泣き声を出さないようにすることは、いつの間にか身についていた。 封筒の中には申請の締め切り日が書かれていた。11月30日。4ヶ月あった。4ヶ月で何をどうすればいいのか。より子は暗がりの中で、しばらく動けなかった。 次の日から、より子は3日間眠れない夜を過ごした。書類には世帯全員の収入を申告せよとある。深夜を申告すれば、40歳で無収入の息子がいることが記録に残る。区の担当者にどこまで話すべきか、何を隠すべきか。どう話せば追い返されずに済むか。 4日目の朝、より子は職場の店長・田中に、役所に行くための1時間の早退を願い出た。「まあ、10時には戻ってきてくださいよ」と田中は言った。 区役所の窓口に担当として現れたのは、村瀬と名乗る30代前半の男だった。白いカッターシャツの袖をきっちりまくり、髪は短く整えていた。笑顔を作るのが習慣になりすぎていて、その笑顔は顔の表面に張り付いたまま、中身と切り離されているように見えた。 より子が書類を出すと、村瀬は「お連れの方はご一緒ですか?」と聞いた。「今日は1人で来ました」とより子が答えると、村瀬は書類の中ほどを指で示した。 「こちらに同居されているご家族のお名前がありますね。草壁深夜さん、40歳。この方についても確認が必要になります」 より子は咄嗟に「息子は今、仕事の都合で遠方に出ていまして」と言った。喉の奥で言葉が詰まる感じがした。嘘をつくのは初めてではなかったが、窓口という場所で紙の書類を前にすると、嘘の輪郭がいつもより鮮明になる気がした。 村瀬の笑顔は変わらなかった。「そうですか」と言いながら書類に何かメモした。それから、申請の際には本人に直接来てもらうか、難しい場合は医療機関の診断書などが必要だと説明した。 「病気やご事情のある方については、それを証明する書類があれば大抵として受け付けることができます。ただし、書類なしでの申請は受理できません。申し訳ございません」 「申し訳ございません」という言葉が流れるように出てきた。声のトーンは下がりもしなかった。より子は、書類なしではどうなるのかと聞いた。村瀬は丁寧に言い直した。 「同居のご家族が確認できない場合、世帯全体での申請として処理することができません。その場合、お1人でのお申し込みとなりますが、空き状況や優先度の関係で案内できるお部屋が変わってまいります。また、期日内に書類が揃わなければ、今回の斡旋対象から外れることになります。自力で民間の賃貸を探していただくことになりますね」 「次の方どうぞ」。村瀬はより子の後ろに向かって声をかけた。より子は書類を封筒に戻し、椅子から立ち上がった。 区役所を出て、外の光の中に立った。しばらく動けなかった。深夜の診断書。病院にも行っていない。精神科にも行っていない。より子が何度か受診を進めたが、深夜は首を縦に振らなかった。病院に行けないから引きこもっているのか、引きこもっているから病院に行けないのか。 コンビニのベンチに座り、120円の緑茶を買った。飲みながら目薬をさした。深夜を病院に連れていく。それが一番確実な方法だ。でも深夜は外に出ない。ドアを開けない。無理やり連れ出そうとした時、何が起きるか想像するだけで胸が締め付けられた。 その翌週、より子は職場で花瓶を床に落として割ってしまった。失進で皮膚が弱くなっている手が震えていたのだ。田中は床の破片を見てから、より子を見た。「まあまあ落ち着いて」と言ったが、声に苛立ちが混じっていた。 「最近ちょっと集中力が落ちてますよね。先週の忘れ物の件もあったし」 より子は何も言えなかった。田中は吐き出したように言った。「正直に言いますけど、うちも余裕がないんで。来月から週3にさせてください。体のこともあるだろうし」 体のこともあるだろうし。その言葉の中に、66歳という年齢が入っていた。より子は「分かりました。ありがとうございます」と言った。感謝する理由はなかったが、反射的にそう言った。 週3になれば、月収はおよそ4万5000円。家賃と光熱費を払えば、食費に当てられる金は1万円を切る。 帰り道、より子はコンビニで履歴書の用紙を1枚買った。210円。夕食は豆腐の味噌汁と白米だけだった。 食事を終えてから、より子は履歴書の用紙を広げた。深夜に書いて欲しいわけではなかった。何か手がかりになるものを渡したかった。形のあるものを渡すことで、現実として伝わることもあるかもしれない。深夜の部屋の前に行き、ドアの下の隙間から差し込もうとしたが、ガムテープに阻まれて入らなかった。より子は代わりにドアの前の床に置いた。 「深夜、仕事のことで相談したいことがある。役所の手続きのことで困っていることがある。お母さん1人ではどうにもならなくなってきた。お母さんのことは気にしなくていいから、ただ1度だけでいいから、お医者さんに行くだけでいい。それだけでいい」 室内は静かだった。しばらく待つと、ドアの向こうで何かが動く気配があった。それから、何かが投げられる音。壁か床かに当たる鈍い音。次の瞬間、床に置いてあった履歴書用紙と求人情報誌が、ドアの下の隙間から外に押し出されてきた。返事はなかった。声もなかった。 より子はシワのついた用紙を手に取り、台所に戻った。シフトが週3になった。区役所の窓口に跳ね返された。深夜は応じない。この3つが頭の中で並んだ時、より子はしばらくテーブルの木目を眺めていた。 翌日、団地のエントランスで自治会の塚本に呼び止められた。72歳の塚本は、最近ゴミ捨てのルールが守られていないという。深夜に誰かがこっそり捨てに来ているようで、管理組合に苦情が入っているというのだ。それから、声を低くして言った。 「4階の奥の部屋じゃないかという話があってね。深夜に男の影が見えたという人もいてね。うちの棟はお年寄りだけだから、若い人が夜中に動いてたら目立つじゃないですか。気になってね」 より子の背中に冷たいものが走った。深夜だ。深夜が夜中にゴミを出している。より子は何度も謝った。「私の方でよく確認いたします。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんでした」 部屋に入って鍵をかけると、廊下の壁に背中を持たせかけた。外から見られているという感覚が肌に張りつくようだった。深夜がいることを知られてはいけない。でも深夜は夜中にゴミを出している。区役所では書類を要求された。シフトは減らされた。どこから手を付けていいのか分からなかった。 … Read more