「稼ぎ少ないんだから当然でしょ」――同居して3年、義母は温かい朝食を新太郎にだけ用意し、私の席には冷たいご飯と梅干しを置いて、そう鼻で笑った。朝まで店で働いて帰ってきた私に向かって。横で新太郎は黙ったまま、焼き魚に箸を伸ばしている。私の夫は、無職だった。だから、この家の生活費をずっと支えてきたのは私だ。なのに、私は“稼ぎの少ない水商売の女”として扱われてきた。そして、その瞬間、私はある決断を…
「稼ぎ少ないんだから当然でしょ」 義母が鼻で笑いながらそう言った。新太郎は彼女を止めようともせず、聞こえないふりをして焼き魚に箸を伸ばしている。私には義母の言葉よりも、夫の沈黙の方がずっと深く刺さった。 この3年間、一体どれだけ我慢してきただろう。勘違いや物忘れを盾にした嫌がらせ。仕事への侮辱。一方的なマウント。苦い記憶が一気に脳裏を駆け巡った。 「では、生活費止めますね」 口をついて出た一言に、義母がようやく私を見た。しかし、彼女が目を丸くしたのもほんの一瞬。すぐに余裕ぶった表情に戻り、こちらを見上げて笑った。 「小銭みたいな稼ぎで偉そうに」 「みちこ、朝から怒るなよ」 続いて新太郎が言った。彼の目には面倒そうな色が滲んでいる。二人とも、私の言葉を本気にしていなかった。 でも、私は本気だった。 私は時藤みち子、28歳。飲食店を経営している。実家は両親と8歳下の弟・慎の4人家族で、両親は地元で焼肉屋を営んでいた。幼い頃から学校が終われば家の手伝いをするのが当たり前で、店の経営が生活に直結すると分かっていたから、友人と遊ぶ時間が減ってもあまり文句は言わなかった。 大学に進学すると、飲食系のアルバイトを掛け持ちした。居酒屋、カフェ、営業のバー。接客も仕込みも会計も、覚えられることは何でも覚えた。睡眠時間はわずかで体力的にはきつかったが、苦ではなかった。いつか自分の店を持つという夢に近づいている実感があったからだ。 卒業と同時に、アルバイトで貯めた資金を元手に小さなバーを開いた。初めての店舗経営は困難の連続で、客が一人も来ない夜もあった。それでもなんとか続けているうちに常連も増え、店は形になっていった。 新太郎と出会ったのは、店を始めて1年ほど経った頃。友人の結婚式の二次会だった。彼は目立つタイプではなかったが、穏やかでこちらの話をよく聞いてくれた。飲食店のオーナーとしての私を素直に応援してくれたことも嬉しかった。間もなく交際が始まり、25歳で結婚した。郊外の一軒家で、二人きりの新婚生活が始まった。 当時の私は、この結婚が自分の人生を壊すことになるとは想像もしていなかった。 義父が病気で亡くなったのは、結婚して半年ほど経った頃だ。入院してから悪化するまでが思いの外早く、私たちは葬儀の準備に追われた。葬儀を終えた翌日、まだ重い空気が漂うリビングでぼんやりテレビを眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。 「あら?お母さん」 「急に来てごめんなさいね。少し話したいことがあって」 尋ねてきたのは義母のフミ子。黒っぽい服を着て、髪をきっちりまとめている。 「大丈夫です。昨日の今日ですし、色々決めることもありますよね」 「そうなのよ。こういうのは早い方がいいと思ってね」 ソファーに腰掛けた義母の前にお茶を置いた時、私は役所の手続きや義実家の片付けの相談だと思っていた。けれど、次の瞬間彼女が切り出したのは予想外の内容だった。 「私ね、これから一人であの家に住む自信がないの。ここであなたたちと同居させてもらえないかしら」 「え?」 思わず声を上げてしまう。隣に座る新太郎も、湯呑みに伸ばしかけた手を止めた。 「夜になると怖いのよ。あの人がいた場所ばかり目に入るし。広い家に一人なんて、どうしたらいいのか分からなくて」 返事に詰まった私は、戸惑いながら俯いた。義母が気の毒だとは思った。夫を亡くしたばかりで心細いのも分かる。けれど、結婚して半年の私たちの家に義母が住む。それは決して簡単な話ではなかった。 「確かに、母さん一人じゃ心配だよ」 先に口を開いたのは新太郎だった。普段の彼にしては珍しく、ほとんど迷いがない。 「あら、本当?」 「俺、前から考えてたんだ。母さんをうちで引き取りたいって」 その一言に、私は思わず新太郎を見た。「前から」という言い回しが引っかかったのだ。 「前からっていつ?結婚前はそんな話してなかったよね」 「あ、いや、父さんの具合が悪くなってからさ。母さんが一人になるかもしれないって思ったら、放っておけないだろ」 「それはそうかもしれないけど」 新太郎の口調に、小さな違和感を覚えた。新婚とはいえ私たちは夫婦だ。生活に関わる大事なことなら、先に相談して欲しかった。そう思ったが、目の前には夫を亡くしたばかりの義母がいる。文句を言える雰囲気ではなかった。 「もちろんみち子さんに負担はかけないわ。家事は私に任せて。あなた、お店で忙しいでしょ」 義母は私の迷いを感じ取ったのか、身を乗り出してきた。泣き腫らしたように赤い目をした相手の頼みを一蹴するのは、さすがに心が痛んだ。 「でも、生活のリズムも違いますし…」 「心配しないで。そこは私が合わせるわ」 「みち子にとっても悪い話じゃないと思うんだ」 新太郎が私を見た。まだ昨日の疲労が浮かぶ顔で、私の反応を伺っている。 「ほら、店に出てると帰りが遅くなることも多いだろ。家に母さんがいてくれたら、食事とか掃除とか助かるし。みち子が少し楽になるなら、俺も安心できる」 新太郎は私の弱いところを的確についてきた。実際、店を始めてから家のことは後回しになる日が多い。共働き夫婦のため家事は分担していたが、帰宅が遅くなり自分の担当を終える前に眠ってしまうこともあった。誰かが家事を手伝ってくれるなら、日々の生活が楽になるのは事実だろう。 「それでも、簡単に決めていいことじゃないと思います。お母さんも今は気持ちが落ち着いてないでしょうし…」 「今だからこそ、一人でいたくないの。時間を置いたら、きっと動けなくなる気がするのよ」 「俺からも頼む。息子として母さんを支えたいんだ」 新太郎が私の手を軽く握った。その手は意外にも冷たかった。彼も父を亡くしたばかりで不安なのだろう。そう思うと、これ以上反対できなかった。 「分かりました。ただ、きちんと決め事は作らせてください」 結局、私は条件付きで同居を了承した。家事の分担、生活費、部屋の割り振りなど最低限のルールを決めると、義母はにっこり笑った。 「ありがとう。これからよろしくね。あなたたちの邪魔にならないようにするから」 何度もそう繰り返す義母。彼女の言葉を信じよう。家族なのだから。そう自分に言い聞かせた。 けれど、その後の展開は不自然なほどに早かった。義実家の処分、必要な荷物の選別、不動産屋への相談。何もかも、こちらが考えるより先に話が進んでいった。 「新太郎、実家のこと、随分急いでない?」 「えっと、まあ、母さんが不安がってるからさ。なるべく早く落ち着かせてやりたいんだよ。それに、こういうのはさっさと済ませた方が楽でしょ」 引っ越し業者の手配、どの部屋を義母のものにするか。あまりにも段取りが良すぎて、何も知らなかったのは私一人だけ。二人の間では大筋が決まっていたように思えた。 … Read more