「オタクはどうせ暇だろう。3時間くらい待ってろ」――大手取引先の担当者に、そう言われた時、俺はまだ笑って流していた。地方の小さな鉄鋼会社の社長である俺は、何年もかけてようやく掴んだ大型契約の書類を持って、彼の判をもらいに行く約束をしていた。なのに、彼は「彼女とデート中だ」と電話口で笑いながら、契約を適当に扱った。俺の仕事も、会社も、プライドも、目の前で踏みにじられた。もう我慢の限界だった。そ…
「彼女とデート中なんだよね。有意義な時間を過ごさせてもらってるよ」 大手鉄鋼会社の担当者・五藤は、電話越しに軽く笑いながら平然と言い放った。俺の名前は富山進。地方で鉄鋼会社を経営する三代目社長だ。数日前から、新規契約書への判を求めて、この男とやり取りを続けていた。 「お分かりですか?この案件は弊社にとっても御社にとっても重要なものなんですよ。もう何年もかけてここまで漕ぎ着けたのに」 俺の言葉に、五藤はますます馬鹿にしたような口調で返す。 「うるせえな。デートが終わって外回りした後に話を聞いてやるよ。3時間くらい待ってろ。どうせ暇だろ」 地方の弱小企業と見下され、貧乏くさい社長だと笑われる。俺の我慢は限界を迎えていた。 「本当にそれで構わないんですね」 「そうだって言ってるだろうが」 俺の念押しに激怒した五藤は、一方的に電話を切った。 俺は確かに確認した。この契約が、どれほど大切なものかを。そして、五藤という男が、どれほど適当でブレのない人物かを。 俺の会社は、父から引き継いだ小さな鉄鋼メーカーだ。国内の大手に比べれば生産量も規模も劣る。だが、小型・中型製品の生産に特化し、独自の機材開発も進めてきた。数十年かけて地道に実績を重ね、俺が社長になってからは、品質を武器に国内大手の鉄鋼会社や自動車メーカーに売り込んだ。父や祖父の代では実現できなかった取引先の拡大に、俺は成功した。 しかし、当時誠実だった大手鉄鋼会社の担当者が退任してから、状況は変わり始めた。その後の担当者が、今の五藤という男だった。 五藤は常に何かしらのトラブルを引き起こしていた。納品数の勘違い。発注ミス。こちらが確認の連絡を入れても、まともな返事はない。都合が悪くなればヘラヘラと誤魔化し、夜中に適当な謝罪メールを送り付けてくる。そして、いつも決まって俺たちを下に見ていた。 「オタクはどうせ暇でしょう。地方の町に生えた程度の会社なんだから」 そう言って、五藤はいつも勝手に電話を切った。 今回の新規契約は、誠実だった前任の担当者時代から、時間をかけて両者で進めてきた案件だった。新分野での製品製造契約。俺と若手営業の部下は、完成した契約書を携えて大手鉄鋼会社を訪問した。契約書に必要なのは、担当者である五藤の判だけだった。 しかし、五藤は約束の時間に現れなかった。受付で「外出中です」と言われ、俺と部下は呆然とした。 「アポは取ったよな」 「ええ、確かに取ったはずなんですけど…」 俺は五藤の携帯に電話をかけた。数コールで出た五藤は、相変わらず軽い調子だった。 「ああ、どうも。何?どうかした?」 「どうかしたも何も、五藤さん、今日は契約書に判をいただきに伺うとお伝えしてましたよね」 「ああ、そうかもしれないね」 「そうかもしれない、って…。今日の午後2時にアポを取らせてもらってます。お分かりですか?この案件は弊社にとっても御社にとっても大切なものなんですよ」 俺は必死に怒りを伝えたが、五藤はますます大きく笑うと、とどめの一言を放った。 「今は仕事の話しながら、取引先の担当者とお茶してるんだよね。まあ、彼女との仕事デートって感じだね。有意義な時間を過ごさせてもらってるよ」 挑発だった。俺が本気で怒れば負けると思い、深く息を吸い込んだ。 「でしたら、五藤さんがどこにいるか教えてもらえますか?私がそこに行きます。すぐに契約書に判を押していただきたい」 「え、ちょっと冗談でしょ?」 「冗談ではありません。もし出向かれるのを拒否されるようなら、一度会社にお戻りください。そこで判をいただければ結構です」 しかし、五藤はごねるばかりだった。 「そんなもん、何が大事なんだか分からないね。どうせあのバカ真面目な前任者が、勝手に大事だって騒いだだけなんだろう」 「五藤さん、本気でそうおっしゃるんですか?」 「本気だよ。あのね、俺はバカ真面目な前任者と違って、要領がいいの」 「そうでしたか」 「そうなの。前任者はバカで要領が悪いから、細かい下受けにも丁寧に相手してやってんだよ」 五藤の暴言は止まらなかった。俺と俺の会社を盛大に嘲り、卑下した。 「では、契約はどうなさるおつもりですか?」俺は最後通告のつもりで確認した。「とても重要な確認です。契約書への判は、いつ、どうなさるおつもりですか?」 「ああ、どうしても俺の判が欲しいなら、あと3時間待ってくれ。デート終わって外回りした後だったら、話を聞いてやってもいいや」 「では、今この時点での判はしないということでよろしいですか?」 「しつこいね。そうだって言ってるだろう」 「本当によろしいんですね」 「ああ、もういいって。それでたく、うるせえな」 俺の念押しを、五藤は「うるさい」の一言で切り捨て、電話を切った。 社長、あの…五藤さんは? 俺と五藤のやり取りを聞いていた部下の顔には、緊張が浮かんでいた。 「契約は、もうどうでもいいらしい」 俺がそう答えると、部下は呆然と固まってしまった。俺はそんな部下の肩を叩き、ひとまず地元に戻ろうと言った。 五藤に3時間待てと言われたが、俺は3時間後には自分の会社の自分の机の前にいた。机上の契約書を眺めながら、どうしたものかと考えた。この案件は、五藤のいる大手鉄鋼会社にとっては大きな業務だが、俺の会社にとっては、なくても生きていける商談の一つでしかなかった。むしろ、特許技術を共有することを考えれば、断る選択肢もありえた。 すると、突然、社内に呑気な声が響いた。 「おい、邪魔するぞ。あの契約書、どうなった?」 顔を上げると、不機嫌そうな五藤が立っていた。 「上に契約書がどうのと、うるさく言われてな。仕方なく来てやったんだよ。相変わらずここは遠いな。一泊して帰ろうにも、まともなホテルもありゃしない」 五藤は窓の外を眺めて顔をしかめた。 「判、持ってきたから押してやるよ。早くしろ。つまらないから、すぐ帰りたいんだ」 … Read more