Avevo il regalo di compleanno ancora in mano quando Margaret, la mia vicina, mi bloccò sul vialetto e sussurrò: «Non entrare. C’è qualcosa che non va». Mi nascosi dietro la siepe e vidi mia figlia…

Avevo ancora il sacchetto del regalo in mano quando mi fermò. Margaret, la mia vicina di casa da undici anni, uscì dal suo portico e mi posò una mano sul braccio. Non disse ciao. Non sorrise. Mi guardò con un’espressione che non le avevo mai visto e mormorò: «Non entrare. C’è qualcosa che non va». … Read more

31 August 2026

「お前、もう他に男を作ったのか?」――公園で突然、見知らぬ男にそう怒鳴られた。抱えていた7歳の娘は震え、隣の女性は青ざめた顔で固まっていた。その男は、彼女の元夫だった。私はたまたまその場に居合わせただけの人間。でも、怯える親子を見て、一歩前に出た。すると男は私を睨み、「部外者は引っ込んでろ」と吐き捨てた。私が病院の院長で、彼女が熱を出した娘を助けた医者だとは知らずに。数年後、この出会いが私の…

「お前もう他に男を作ったのか?」 公園で、マリアが元夫に詰め寄られていた。小さなあみは母のスカートにしがみつき、震えている。俺は急いで駆け寄り、その男の前に立った。 「おい、こいつとはどういう関係だ?」 「あなたこそ、マリアさんとはどのようなご関係なんですか?もう離婚されているはずですが。」 元夫は鼻で笑った。復縁するために来たという。酒もやめる、不倫もしない、もう一度やり直そうとマリアに迫る。あみに「パパが帰ってきたら嬉しいだろう」とまで言った。 あみは首を振った。「嬉しくない。」 元夫は怒り出し、俺に「部外者は引っ込んでろ」と言い放った。俺は一歩も引かなかった。「あなたもすでに部外者でしょう。お二人が怯えているのがわからないんですか?」 元夫は何か言いかけて、結局「どうかしてるぞ」と捨て台詞を残して去っていった。マリアは涙をこぼしながら、あみの頭を撫でて「ありがとう」と繰り返した。 あの出会いから、すべてが始まった。 当時、俺は35歳。父から継いだ小さな病院の院長をしていた。街外れにあり、患者もほとんど来ない。経営は傾き、いつ潰れてもおかしくなかった。父から受け継いだ病院を、自分の代で潰してしまうのは嫌だった。 それでも職員たちは明るく振る舞い、俺を支えてくれた。「院長、最近疲れてません?寝れてないでしょう。」鋭い看護師には、いつも見抜かれている。 あの日、友人と飲みに行った。経営のことで気分が乗らず、酒は飲まなかった。帰り道、駐車場でタクシーに乗れずに困っている女性と、腕に抱かれた女の子が目に入った。女の子は顔色が悪く、呼吸も速い。 「何かお困りですか?」 「娘が熱を出してしまって、病院に行きたいんですけど…」 名乗ると、警戒された。俺はスマホで病院のホームページを見せ、院長だと証明した。彼女はマリア。娘はあみ、7歳。車で病院に連れて行き、診察すると風邪だった。水分も食事も十分に取れていなかったので、点滴を打った。 「お医者さん、ありがとう。」 あみが笑った。マリアも安心した顔で微笑んでいた。帰りに車で送ると、マリアが言った。「よかったら、今度お食事でもどうですか?お礼がしたくて。」 断る理由もない。連絡先を交換し、数日後、3人でレストランへ行った。あみはすっかり元気で、「先生に会いたいってずっと言ってたんですよ」とマリアが笑う。あみは少しずつ俺に懐いてきた。 話をするうちに、マリアがシングルマザーであることを知った。元夫の不倫が原因で離婚したらしい。飲酒癖もひどく、あみが5歳の頃に離婚したという。 「そのままだったら、あみが何をされていたかわからないから。」 マリアはそう言って微笑んだ。俺たちは頻繁に会うようになった。喫茶店や公園、たまに彼女の家で手料理を振る舞ってもらうこともあった。あみは俺を「シー君」と呼び、ブランコに手を引いて行く。職員にも「最近元気そうですね」と言われるようになった。 マリアとあみに出会ってから、俺の生活は一変した。この関係がずっと続いてほしいと思うようになった。その一方で、あみのことを思えば、いつまでもよくわからない男が母と一緒にいるのはどうなんだろうと考えることもあった。だが、現実から目をそらし続けていた。 あの日、公園で元夫に絡まれるまでは。 あの出来事をきっかけに、俺たちの距離は一気に縮まった。そして、ある日。いつものレストランで3人で食事をしていると、マリアが突然言った。 「もし私が、シーさんのこと好きだって言ったら、どうする?」 え、と俺は固まった。「どうしたの、急に。」 「好きになっちゃったみたいなの。よかったら、お付き合いしてほしい。」 嬉しかった。だが、不安もあった。俺が彼女たちを助けたからで、何か負い目があるんじゃないだろうか。年齢的に考えれば、結婚も視野に入る。同居したら、思っていた人と違うと言われて振られるんじゃないか。 だが、マリアの熱い言葉を聞いて、そんな不安は消えた。 「あみを見てもらってから、頼もしい人だなって思った。一緒にいても楽しいし、あみとも仲良くしてくれる。元夫から助けてくれたのも嬉しかった。本当に、頼もしい人なの。」 俺は彼女の真剣な表情に圧倒され、答えた。「ありがとう。こんな俺でよかったら、よろしくお願いします。」 マリアは泣きながら喜んだ。あみも賛成してくれているようだった。 それから6年が経ち、俺とマリアは結婚した。あの後、覚悟を決めて病院を畳み、都心にクリニックを開いた。ダメなら医者をやめようと思っていたが、患者は以前より増え、忙しい日々を送っている。スタッフは前の病院で一緒に働いてくれていた人たちばかりだ。マリアも受付や雑務を手伝ってくれている。 「マリア、いつもありがとう。」 「え、いきなりどうしたの?」 恥ずかしそうに言い返す彼女を見ながら、俺は思う。互いに色々なことを乗り越えて、今こうして幸せに過ごせている。支えてくれた職員、友人、そして何よりマリアとあみに感謝している。 俺は今日も、白い袖に腕を通すのだった。

31 August 2026

Era una notte di febbraio e mia figlia era su una strada forestale, da sola, al buio, senza giacca. La sua famiglia l’aveva lasciata lì dopo che suo cognato le aveva detto di scendere per vedere…

Quel febbraio, il freddo non era il tipo che si insinua piano. Ti colpisce dritto al petto appena metti piede fuori, come se la provincia stessa cercasse di rispedirti in casa. Ricordo di essere stato alla finestra della cucina con una tazza di tè ormai tiepido, guardando la neve cadere di traverso sul cortile, pensando … Read more

31 August 2026

「男の子を産めない嫁なんて、もう用済みよ。二度と帰ってこないでちょうだい。」 妊娠中のお腹を抱えたまま、山奥に置き去りにされたのは、ほんの数時間前のこと。義母は「観光に行こう」と私を連れ出したのに、運転席に座って笑いながらこう言ったんです。「ここは嫁捨て山ね。さようなら。」…

「男の子を産めない嫁なんて、もう用済みよ。二度と帰ってこないでちょうだい。ここは、奪い捨て山ならぬ“嫁捨て山”ね。さようなら。」 義母はそう言い放つと、私を車から引きずり下ろした。そして、私を乗せたまま、車は静かに発進していった。 「お母さん、待って!行かないで!」 妊娠で大きくなったお腹を抱えながら、私は必死に追いかけた。でも、間に合わない。 「お母さん、置いて行かないで!」 叫んでも、車は止まることなく、山道の向こうへ消えていった。 どうしよう。どうすればいいの。 今回の旅行は、義母が「行きたい」と言ったから、この山奥のお寺まで車で連れてきたのだ。一応観光地ではあるけれど、人気スポットではないから、人通りもほとんどない。しかも、ホテルまで歩いて帰れる距離ではなかった。 その時だった。 「うっ……お腹……」 私の名前は尚子。専業主婦をしている。三年前に結婚し、現在は一人目を妊娠中だ。女の子だと分かっている。 結婚を機に、夫の大輔と義母との同居が始まった。初めは優しかった義母も、次第に本性を見せ始めた。私は両親を早くに亡くし、祖父母に育てられた。だから「家族のことが分かっていない」「嫁の仕事が分かっていない」と言っては、義母にこき使われ、文句や嫌味を言われ続けた。 「早く洗濯をして、布団を干して、買い物をして、ご飯を作りなさい。」 「お母さん、さすがにそんなにいっぺんには……。お腹も大きくなってきたので、家事も休み休みじゃないとできないんです。」 お腹をさすりながら困惑してそう言うと、義母は私を睨みつけた。 「この家を快適にするのは、嫁の仕事でしょう。働いてくれている大輔が心地よく過ごせるようにしないと。まったく、あなたは両親がいないから、そんなことも分からないのね。本当にダメな嫁をもらっちゃったわ。」 「すみません……」 家族というより、まるで奴隷のような扱いだった。妊娠してからは、さらにひどくなった。 「性別が女の子?冗談じゃないわ。必要なのは男の子でしょう。跡取りがいなければ意味がないのよ。この役立たず。あんたなんか、嫁にもらうんじゃなかったわ。」 義実家は家業をしているわけではないので、別に跡取りが必要な家ではない。それでも義母は、口を開けば「女なんか妊娠してどうするんだ」と怒り、近所にも「男の子を妊娠できなかった嫁」と言いふらしていた。 「女の子でもいいじゃないですか。孫の誕生を喜びもしないなんて……」 さすがに耐えかねて、夫の大輔に訴えた。しかし、彼は冷たく言い放った。 「はあ。母さんの言う通りだろう。家事ができない。男の子を産めないのも、お前が悪いんじゃないのか。それにさ、尚子は両親がいないから分からないだろうけど、母さんは愛情を持って厳しくしてくれているんだよ。そんなことも分からないの?」 愛情?あれのどこが愛情なの?ただの嫁いびりじゃない。そう思っても、彼は聞く耳を持ってくれなかった。 そんなある日のことだった。義母が突然、親戚みんなで一泊旅行に行くと言い出した。しかも、そこで義祖母の誕生日会を開くというのだ。義祖母は亡くなった義父の母で、現在は義父の姉である義姉が面倒を見ている。義母の話では、義祖母と義姉夫婦、夫の姉夫妻、そして私たちの三家族、総勢八名で行くという。 「尚子さん、あなたが全部、その手配をしてちょうだい。」 「え、今からですか?おばあさんの誕生日は来月ですよね。観光シーズンだから、どこもそう簡単にホテルは取れないですよ。」 誕生日まで一ヶ月もない。今からこの人数で手配なんて、無理な話だった。 「無理じゃない。やるのよ。嫁の役目でしょ。妊娠中だって言い訳して、家事もろくにできない役立たずなんだから、こういう時くらい役に立ちなさいよ。」 そう言って、全ての手配を私に押し付けてきた。 「ねえ、大輔。今からホテルの手配なんて無理よ。ネットで検索したって、どこも空いているはずないわ。お母さんに無理だと言ってほしいの。」 夫に相談するが、彼は嫌そうに顔を歪め、ため息をついた。 「どうして俺が。頼まれたのは尚子なんだから、お前が何とかしろ。専業主婦なんだし、どうせ暇だろ。俺は仕事で忙しいんだよ。」 そう言って、助けるつもりは微塵もないようだった。仕事が忙しいと言って逃げたわね。そもそも、今までおばあさんの誕生会なんてやったことないじゃない。急にこんなことを思いついて私にやらせるなんて、ただの嫌がらせだわ。 案の定、義母が指定した行き先の周辺ホテルはほぼ予約で埋まっており、今から取ることなんて困難だった。 「皆さんバラバラなら、ホテルの予約が取れそうなんですが……」 仕方なく義母にそう言うと、彼女は目を釣り上げて怒り出した。 「バラバラだなんて意味がないわ。家族なんだから、みんな同じホテルじゃなきゃ楽しくないでしょう。そんなことも分からないの?ちゃんと探したの?グズだから探し方が下手で、予約も取れないんじゃないの?もうやると決めたのだから、あなたが何とかしなさい。」 同じホテルがいい、でも部屋は三家族で別にしたい。なんて無理な要求だ。私は実家に帰り、祖父母に愚痴をこぼした。 「それは大変だなあ。そんな大人数は、今からだと難しいってことが分からないのかな。」 祖父は顎に手を当て、考える仕草をした。まだ現役で仕事をしている祖父は、世の中の流れをよく分かっている。 「お母さんは分かっててやっているのよ。おばあさんやおばさんやお姉さんたちにも連絡済みで、日程は確定しているようだし、もう予定をずらせないわ。なんとしてでもホテルの予約を取らないと。」 大きなため息をつくと、祖父も一緒にホテルを探してくれると言ってくれた。祖母はお茶を出しながら、私のお腹を気遣ってくれた。 「妊娠中は動くのも辛いわよね。力になれることがあったら、何でも言ってね。」 「ありがとう、おじいちゃん。おばあちゃん。」 いつも優しい祖父母に感謝を伝えた。 「そうだ。あちらのおばあさんを車に乗せる可能性もあるだろう。もしもの時のために、ドライブレコーダーをつけておくといいんじゃないか。」 祖父の提案に、私も大きく頷いた。 「そうだね。必要になるかもしれない。観光地だし、もしぶつけられたとか事故にあった時に、ドライブレコーダーがあったら安心だろう。」 帰り道にドライブレコーダーを購入し、早速車に取り付けることにした。そして、祖父母の協力もあって、なんとか無事に旅行の日を迎えることができた。 「おはよう、尚子ちゃん。今回、色々と手配してくれてありがとうね。大変だったでしょう。」 「おはようございます。お姉さん。祖父母に手伝ってもらって、なんとかホテルが取れました。一安心ですよ。」 義姉の香織さんは、とても優しくて、いつも私を気遣ってくれていた。今回のことも、「仕事で忙しくて何も手伝えずごめんね」と言ってくれていた。急な提案だったから、心配してくれていたのだろう。 義姉夫婦、義祖母、私と義母の三台の車で、観光地へと向かった。 「大輔さんがいなくて残念ですね。」 … Read more

31 August 2026

私は医者を辞めて逃げるように山奥の温泉宿に流れ着いた。身元を隠し、一晩だけのつもりだった。だが、女将が私の名字を見た瞬間、目を止めた。そして深夜、帳場から「あの男、沢田と書いていた」という声が聞こえた。翌朝、私は宿の主人に「先生の名前を背負ったまま長居されるのは困る」と追い出されかけた。その夜、宿の常連客が胸を押さえて倒れた。私は迷わず飛び込んだ。脈を取った瞬間、主人が低く言った。「──あな…

バスの最前列で目を覚ました。 「お客さん、終点ですよ」 運転手の声で、俺はようやく腰を上げた。肩にザックを一つ掛けて降りる。ジャンパーの裾はくたびれ、スニーカーは泥と埃で色を失っていた。 俺の名前は沢田おむ。四十二歳。肩書きはもうない。 二年前まで、東京の大学病院で医者をやっていた。ある夜の手術で患者を一人失った。判断ミスじゃないと、今でも思っている。だが責任は全て俺にあるとされ、裁判で敗れた。病院は俺を切り、世間は俺を叩いた。医師免許は過労の末、まだ手元にある。ただ、それを使う気力がもう残っていなかった。 バスを降りた俺は、何となく目に入った旅館の看板に足を向けた。「藤の湯」と古い木札に墨で書いてある。玄関の引き戸を開けると、土間の冷たい空気と、奥から流れてくる湯の匂いが混じった。 「すみません。一晩泊めてもらえますか」 声を出すのは久しぶりだった。奥から現れたのは、和服姿の女だった。年は四十前後だろうか。化粧は薄く、髪はきっちりと結い上げている。俺の顔を一目見ると、わずかに目を細めた。 「お一人様ですね。お荷物、お預かりします」 落ち着いた声だった。俺の身なりを見て嫌な顔一つしないのが、逆に不自然なくらいだ。泥だらけのスニーカー、伸びた無精髭、目の下の隈。普通の宿なら断られても文句は言えない格好だった。 「私はこの旅館の女将で、藤崎影と申します。ごゆっくりどうぞ」 そう言って彼女は深く頭を下げた。俺は曖昧に頷いて、宿帳に「沢田」とだけ書いた。名前を見た女将は、ほんの一瞬、筆を持つ俺の手元に視線を留めた。 部屋に通された後、俺は窓を開けて外を眺めた。小さな温泉街だった。通りには土産物屋が数件、当時宿が肩を寄せ合っている。人の姿はまばらで、夕暮れの中に呼び込みの声もない。寂れているというのが正直な印象だった。 俺はザックを下ろし、畳の上に大の字に寝転んだ。 夕食を運んできたのは女将ではなかった。白髪が混じりの男性だった。作務衣を着て、背筋が真っ直ぐに伸びている。膳を畳に置くその所作には、無駄が一つもなかった。 「女将の藤崎洋平と申します。何かあれば申し付けください」 俺の顔を見るその目には、明らかに警戒の色があった。身元の知れない男を泊めることへの、職業人としての警戒だ。 「ご丁寧にどうも。一晩だけ世話になります」 そう答えても、男は表情を緩めなかった。 「失礼ですが、沢田さんはどちらから?」 「東京です。少し歩き回っていまして」 「お仕事は?」 「今は何も」 男はしばらく俺の顔を見ていた。やがて何も言わず、襖を閉めていった。廊下を踏む足音が遠ざかっていく。俺は膳を取った。 三菜の煮物、岩魚の塩焼き、味噌汁。飾り気はないが、旨かった。久しぶりにまともな食事を口にしたせいか、味がよく染みた。 食事を終え、廊下に出て湯に向かった。途中、帳場の前を通りかかった時、声が聞こえた。男と女将が低い声で話している。俺は足を止めた。 「あの男は、宿帳に『沢田』と書いていた。まさかとは思うが……」 「私もそう思いました。目元がよく似ているのです」 「だとしてもだ。身元の分からん男を長く置くのは関心せん」 「おじさん、今夜は冷えますから。一晩くらい……」 俺はそれ以上聞かずに、その場を離れた。廊下の板が、足の下で小さく鳴った。女将は「誰に似ている」と言ったのだろう。考えるのも面倒だった。湯舟に体を沈めると、肩の力がゆっくり抜けていった。 翌朝、俺はもう一泊することに決めた。理由は自分でもよくわからない。急ぐ旅でもないし、ここを離れたところで、行く先があるわけでもない。女将にそう伝えると、彼女は静かに頷いただけだった。男は奥にいて、顔を出さなかった。 朝食の後、宿の前の縁台で煙草を吸っていると、隣に男性が腰を下ろした。首にタオルを巻き、湯上がりの赤い顔をしている。俺をちらりと見て、人懐こく笑った。 「兄さん。見かけない顔だね。一人旅かい?」 「ええ、まあ。昨日来たばかりで」 「ここはいいよ。湯がいい。飯がいい。人がいい。私はもう十五年通ってる」 「十五年は長いですね」 男性は腹の辺りをポンと叩いて、また笑った。 「持病のね、腎臓と心臓と、まあ色々抱えとるんだが、ここの湯に浸かるとそれを忘れる。村瀬公平です。よろしく」 「沢田おむです」 「沢田さんか。いい名前だ」 村瀬は煙草を断り、代わりに飴玉を一つ取り出して口に放り込んだ。医者に止められとるんだ、と笑いながら言う。その明るさが、不思議と嫌じゃなかった。 しばらく他愛のない話をしていると、通りの向こうから足早にこちらへ来る女がいた。紺のジャケットにローファー。役所勤めらしい格好だった。彼女は村瀬を見つけて、軽く頭を下げた。 「村瀬さん、おはようございます。今日もお元気そうで」 「リナちゃん、また役場の妖怪か」 「ええ、先月の検診結果のことで少しお話を」 そう言いながら、彼女は俺の顔も一瞬見た。 「ああ、こちらは沢田さん。昨日からの泊まり客だそうだ」 「町場の高岡リナと申します。ようこそ、こんな寂れた町に」 「いえ、静かでいいところですよ」 「お世辞でも嬉しいです。本当に、人がどんどん減っていって」 リナは苦笑いを浮かべた。それから、ふと真顔になった。 「特にお医者さんがいなくて困ってるんです。診療所が一つあるんですが、先生がご高齢で、来月には閉めるという話で」 「閉まるのか。それは困ったな」 「町としても何とか後任を探しているんですが、こんな山奥に来てくださる先生はなかなか……」 … Read more

31 August 2026

「銀行員の旦那を持つ妹を見習いなさい。この親不幸者。農家の嫁なんて友達にも言えないわ」 婚約報告をした翌朝から、私の継母は毎日そう繰り返した。妹は20万円の婚約指輪を自慢し、母は「農家は家の恥だ」と笑った。私は何も言い返せず、ただ黙って皿を洗い続けた。 そして両家の顔合わせの日。母は料亭の席で、私の義父になる農家の男を「どうせ田舎っぽいんでしょ」と嘲笑った。…

「銀行員の旦那を持つ妹を見習いなさい。この親不幸者。農家の嫁なんて友達にも言えないわ。恥ずかしくて近所も歩けないんだから。ボロ家に行ってらっしゃい」 令和7年3月のある夜。渋谷区の住宅街にある実家のリビングで、秋の継母・みち子が封筒を揺らしながら嘲笑った。その前に立つ秋は、ただ静かに下を向いていた。 秋・25歳。食品会社の一般社員。手紙には「山形大地・27歳・職業・農家」とだけ書かれていた。その一行だけで、みち子の判断は決まっていた。 「わかりました」 秋の声は震えなかった。涙も抵抗もなかった。まるでこの日が来ると分かっていたかのように。 「分かったじゃないのよ。ちゃんと考え直しなさい。農家に嫁いで親に恥をかかせるつもり? 縁を切るわよ。本気で」 妹の鈴花が玄関の入り口に寄りかかり、笑った。鈴花の婚約者である杉山優太も、うつむいたまま何も言わなかった。笑い声が部屋に満ちた。誰も秋の味方をしなかった。ただ一人、廊下の奥から少女が静かにその様子を見ていた。 「みち子、もうそれくらいに」 秋の実父・正司の小さな声。しかし妻に逆らえない男の一言は、すぐにみち子に遮られた。 「あなたは黙っていてください。これは娘のためを思って言っているの。口を出すなら、この家のことも考え直してもらいますよ」 少女の足が止まった。秋は一瞬少女を見て、ゆっくりと小さく首を振った。止めなくていい——その目が静かにそう語っていた。 これは、不当な扱いに追い詰められた秋が最後に勝利する因果応報の物語。でもこの時、誰も知らなかった。翌日、この家族に何が起こるのかを。そして、農家へと婿入りする義父が本当は何者だったのかを。 秋が10歳の時、実母が病気で亡くなった。病院の廊下で父が泣き崩れるのを、秋はただ見ていることしかできなかった。2年後、父はみち子を連れて帰ってきた。みち子には連れ子がいた。鈴花。当時10歳。秋より2歳下だった。 「これからは4人家族ね」 その日から秋の生活は一変した。家事のほとんどが秋の仕事になった。洗濯、皿洗い、鈴花の弁当作り。毎朝6時に起きて全員分の朝食を用意した。鈴花は毎朝ゆっくり起きて、当然のように食べた。 「私の好みくらいちゃんと覚えてよ」 「ごめんなさい。次は気をつける」 みち子は毎日こう繰り返した。「あなたはお母さんのいないかわいそうな子なんだから、しっかりしないとね」。秋は何も言わずに頷いた。正司はそれを見ながら、茶を飲むふりをして視線を落としていた。 高校卒業後、秋は地元の食品会社に就職した。大学進学を諦めた。学費の話を出すと、みち子は「この家にそんな余裕はない」と言ったからだ。鈴花は翌年、都内の短大へ進んだ。学費は父の口座から出ていた。秋はそれについて誰にも何も言わなかった。 就職してからも、秋は毎月2万円を実家に入れ続けた。みち子から「ありがとう」と言われたことは一度もなかった。 そんなある日、秋は農業ボランティアのサークルに参加した。週末だけ都内近郊の農地で収穫作業を手伝う活動だった。そこで出会ったのが山形大地だった。大地は27歳。農業の後継者として実家の農家を守っていた。 初めて会った日、大地は泥だらけの軍手で手を差し出し、照れながら引っ込めた。 「あ、汚くてすみません」 「いえ、気にしないでください。私もすぐ汚れますから」 大地は少し驚いた顔をして、それから笑った。その笑顔を秋はずっと覚えていた。大地は農業について静かに熱く語る人だった。 「農業って地味に見えるかもしれないけど、土って正直なんですよ。ちゃんと手をかけた分だけ答えてくれる。裏切らないんです」 「裏切らない」という言葉は、秋にはほとんどないものだった。ボランティアを通じて、2人は自然と距離を縮めていった。 半年後、大地が秋に告白した。「一緒に農業をやってみませんか? 人生の相手として」。秋はしばらく黙っていた。それから静かに頷いた。 1年の交際を経て、秋は大地から婚約指輪を受け取った。その夜、初めて大地の実家を訪れた。義父・五一・51歳が玄関で出迎えてくれた。 「よく来てくれた。大地がお世話になっているね」 穏やかな笑顔だった。食卓には五一が丁寧に作った料理が並んでいた。豚汁、切り干し大根、炊きたての米。秋は気がつくと涙をこらえていた。 「どうした? 口に合わなかったか?」 「いえ、すごく美味しいです」 五一は静かに微笑んで、もう一杯おかわりを入れてくれた。秋にとって、そんな夜は初めてだった。 婚約を報告した翌朝から、みち子の嫌がらせが始まった。毎日のようにみち子は秋に言い続けた。 「まだ考え直す気にならないの? 農家なんて将来性ゼロよ。鈴花はちゃんと銀行員と婚約したのよ。あなたと大違いだわ」 鈴花の婚約相手・杉山優太は、東北の地方銀行・北斗銀行の行員だった。28歳。スーツをきっちり着こなし、物腰も丁寧だった。鈴花は優太との婚約を毎週のように秋の前で自慢した。 「優太さん、今日も残業だって。できる男は忙しいよね。お姉様は農家の泥まみれの人と毎朝5時起きなんでしょ? 大変ね」 秋は黙って皿を洗い続けた。 ある日、みち子が秋を呼び出した。「あなたにはこれからも毎月この家に仕送りしてもらわないと。農家の嫁になったら給料だって下がるでしょ。ちゃんと考えてるの?」 「大地さんの収入は十分あります」 「農家の収入なんて天候次第じゃない。安定しないでしょ。銀行員の優太さんみたいに安定した給料をもらってくる人の方が、どれだけお母さんは安心できるか分かる?」 秋はそれ以上何も言えなかった。みち子は自分を「お母さん」と名乗るが、秋の本当の母ではない。10歳の時に亡くなった実母の温かさが、どれだけ遠い昔のことか。 みち子は続けた。「鈴花は今度のゴールデンウィークに優太さんの両親に挨拶に行くのよ。向こうのご両親も大喜びで、旅行にも連れて行ってもらうんですって。農家の義父なんかに挨拶するあなたとは大違いだわ」 鈴花も横から顔を出して得意そうに口を添えた。「お母さんにすごく気に入ってもらったって言ってたよ。三軒茶屋のタワマンに住んでて、すごく素敵な家族なんだって。お姉様とは出発点が違うよね。農家ってどんな家なの?」 数日後、鈴花が婚約指輪を食卓に広げた。「見て。優太さんが選んでくれたの。20万のリングよ」 「まあ素敵ね。センスいい人はやっぱり違うわ。農家の人の指輪とは格が違うよね」 2人は笑い合った。秋は手の中の小さな指輪を静かにポケットにしまった。大地が土の上で渡してくれた指輪だ。値段よりも、あの瞬間の大地の目が秋には何より大切だった。秋は静かに立ち上がり、外に出た。誰も引き止めなかった。 外に出た秋は大地に電話をかけた。 「どうした? … Read more

31 August 2026

「嫁は家族じゃないから、遺産は全部、長男の正太に残すわ」——義母のその一言で、9年間の介護と献身がすべて「他人の仕事」にされてしまった。夫を亡くしてから、義母と義兄のために家事も介護も仕事も全部一人で背負ってきたのに、たった一言で私は切り捨てられた。でも、私は黙って引っ越すと宣言した。すると義母は慌てて「あなたは社会経験もないのに、どうやって生きていくつもり?」と笑った。彼女は私が毎晩、在宅…

「遺産は全て長男の正太に残すことにしたわ。だって嫁は家族じゃないし。まあ、しおりさんには今まで通り介護は続けてもらうけどね」 その言葉を聞いた瞬間、私の体は怒りで震えていた。遺産が欲しいからではない。9年間、夫の咲夜の代わりに義母を支えてきた私が、たった一言で「他人」扱いされたことが許せなかったのだ。 「そうですか。わかりました。では、今日で引っ越します」 私はそう言って立ち去ろうとした。義母の鋭い声が背中に突き刺さる。 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!そんなに簡単に終わらせないで!」 彼女は慌てたようにまくし立てた。 「引っ越すってことは、つまり私を捨てるっていう意味になるのよ。それをちゃんと理解しているわけ?それでも出ていくというなら、あなたは人の心がない悪魔よ。咲夜が生きていたら、あなたのそんな態度を見てどれほど悲しむか考えなさい」 しかし、自分のことを大切にしてくれない相手から言われても、私の心は傷つかなかった。むしろ、怒りが倍増するだけだった。 「しおりさんがいなくなったら、正太のご飯はどうすればいいのよ!あの子は繊細だから、コンビニ弁当やインスタント食品ばかり食べていたら体を壊してしまうわ」 正太というのは義母の長男、つまり私の義兄だ。もうとっくに成人して30代半ばになる男の食事を心配しているなんて、彼女には幼稚園児にでも見えているのだろうか。 「それに、あなたは専業主婦でしょ。そんなあなたが1人で暮らしていけるとは思えないわ。咲夜の遺産だけじゃ、とても持たないでしょうに」 義母は私が亡き夫の遺産で生活していると思い込んでいる。だが、残念ながらそんなことは全くない。 私は首を横に振り、きっぱりと言い放った。 「私は1人でも十分生活していけますよ」 「はあ?まだそんなことを言うの?現実をちゃんと見なさい。あなたはずっと家事と介護しかしてこなかったじゃない。社会経験もないのにどうやって生きていくつもり?」 私は無表情で淡々と返した。 「1人で生きていくことができないのは、私ではなく正太さんの方ですよね」 義母の顔から表情が抜け落ちた。正太は現在、無職で引きこもり状態だ。夜遅くに寝て昼過ぎに起き、私が作った食事を取った後はまた部屋に戻っていく。仕事を探している様子は全くない。 「あ、あの子には私の遺産があるから大丈夫なのよ!それに資格も持っているし、いつでも就職できる。ただ今は心の整理をつけている時期なの。それにあの子は男の子だから。しおりさんとは状況が全然違うんだから」 聞きたいことは山ほどあったが、私はそれ以上詰め寄らず、スマートフォンを取り出してある人物に電話をかけた。 それから数分後、玄関のチャイムが鳴った。白いブラウスに紺のパンツスーツという仕事帰りの格好をした女性が立っていた。義母が目を見開く。 「ど、どうして柚月がここに?」 その女性は義母の実の娘、柚月だった。2人は絶縁状態にあった。柚月は嫌味を隠そうともせず、義母に分厚い封筒を差し出した。 「ちょっと早く受け取ってよ。わざわざ仕事の合間を縫って持ってきたんだから。あなたが知るべき真実が詰まっているの。自分の可愛い息子のために、ちゃんと見てあげなさいよ」 義母が封筒を開けると、中からはびっしりと細かい文字が並んだ書類の束が出てきた。彼女はそれを読み進めるうちに、次第に顔色が青ざめていった。唇もガタガタと震え出している。 その書類は、正太に関する調査報告書だった。柚月は金融関係の知識を生かし、彼の資産状況を調べていたのだ。結果、彼が義母の資産を担保に多額の借金を抱えていることが判明した。遺産を使ったとしても返済できないほどの額だった。 「な、なんでこんなことが…信じられない…」 「こんな書類、捏造に決まっているわ!あの子が私に隠れて借金をするだなんて、そんなはずないわ!」 義母は現実から目を背けるかのように書類を封筒へ戻すと、私と柚月を攻め立てた。 「どうせこれも私を騙すための嘘なんでしょ。柚月、あなたはいつも私が正太を可愛がっていたから嫉妬しているのよね。本当に性格の悪い子に育ったわ」 しかし、正太が借金を抱えていることは変えようもない事実だ。私は静かな口調で伝えた。 「お母さんと翔太さんの2人で、きちんと話し合ってください。私を家族ではないと言ったのは、お母さんなんですから」 「言われなくても分かってるわ!恩知らずの嫁なんて、もう2度と顔も見たくない!柚月も同じよ!もう私の家族じゃないんだから!」 義母はそう吐き捨てると、ピシャリと扉を閉めた。 それから数日後、私のスマートフォンが振動した。画面に表示されていたのは、予想通り義母の名前だった。私は応答ボタンを押した。 「お願い、しおりさん、助けてちょうだい!もう限界なの!どうにもならないわ!お願いだから戻ってきて!」 義母は泣き叫ぶような声で訴えてきた。 「このままだと私も正太も生活できなくなってしまうわ。生活費が底をついてしまって、光熱費も払えなくなって電気や水道が止まってしまったの。掃除も洗濯も皿洗いもできないから、家の中が悲惨な状況になってしまって…あなたがいなくなってから、家がどんどん汚くなってもう進める状態じゃないの。毎日掃除や洗濯をしてくれていたあなたの存在が、どれだけ大きかったか今になって痛感しているわ」 私は一度スルーして、彼女がこれまで気がついていなかったであろう真実を伝えることにした。 「お母さん、知っていますか?実は私が生活費のほとんどを出していたんですよ。咲夜の遺産でもない。あなたの預金から出ていたものでもない。私が働いて稼いだお金で、家計を支えていたんです」 「え、そんなはずないわ!しおりさんはずっと専業主婦だったじゃない!」 「実は私はお母さんの介護をしながら、在宅ワークもしていたんです。咲夜さんが残してくれた仕事を引き継いで、毎日夜遅くまで作業していました。あなたも正太さんも早く寝ていたから気づかなかったんでしょうけど」 その在宅ワークは、亡き夫である咲夜から引き継いだものだった。病気を患い、自分の命が長くないと悟った彼は、私が一人でも生活していけるようにと用意してくれたのだ。今ではすっかり安定した収入を得られるようになっている。 「今日私がお母さんの電話に出たのは、あなたが知らなかったことを伝えるため、現実を思い知ってもらうためです。私はもう実家には戻りません。あなた方の生活も助けません」 「ま、待ってちょうだい!お願い、しおりさん、考え直して!私が悪かったわ!ちゃんとあなたを家族として大切にするから、戻ってきてちょうだい!」 「私は家族ではないんですよね。人様の家庭の問題に介入する筋合いはありません。あなたが自分でおっしゃったことです」 「ごめんなさい!あなたは私たちのために色々としてくれていたのに!お願い、許して!もう絶対にあんな発言はしないから!」 私は眉間にしわを寄せて、ゆっくりと首を横に振った。 「私はお母さんたちをもう助けられません」 彼女の返答を待たずして、私は電話を切った。 その翌日、再びスマートフォンが震えた。今度は義母ではなく、正太という名前だった。予想はしていた。義母には助けるつもりはないと言い切ったが、彼本人には何も伝えていなかったからだ。 「もしもし」 数秒ほど沈黙が続いた後、ようやく正太の声が耳に届いた。 「ああ、よかった。着信拒否でもされているんじゃないかって焦ったよ。出てくれてありがとう。しおりさん。久しぶり。元気にしてた?僕は正直最悪な状態なんだ。母さんから聞いたと思うけど、家はもうめちゃくちゃで…」 弱々しい声に私は面食らってしまう。これまで関わってきた中で、彼のこんな声はほとんど聞いたことがない。 … Read more

31 August 2026

取引先のビルで、俺は見知らぬ男に熱いお茶を頭からかけられた。交渉のために訪問した会社の営業課長が、部下の準備したお茶を気に入らず、すぐそばにいた俺に怒りをぶつけてきたのだ。「汚い作業員がうろつくんじゃねえよ、は大工らしく犬小屋でも立ててろ」と言い放ちながら。ずぶ濡れのまま、その場で100億の契約を破談にしようとした俺の前に現れたのは、会社の社長だった。そして、彼が口にした一言が、その後のすべ…

エレベーターを降りた瞬間、怒鳴り声が聞こえてきた。取引先の営業マンが、上司に理不尽に叱られているようだった。 「おい、そんなんじゃ100億以上の取引になる長期の案件なんてお前に任せられねえよ」 「相手は1万人も社員を抱える大企業様だぞ。お前の対応で商談がパーになったらどうすんだ?」 声の主は、うちの会社に建材を納めてくれる合憲という会社の営業課長、大西だった。彼に怒鳴られているのは、いつも気持ちのいい笑顔で挨拶してくれる水野君だ。 水野君は日本茶のポットを持っていた。どうやら来客用にお茶を用意していたらしい。だが大西課長は、それが気に入らなかったようだ。 「あの、ちょっと待ってください。その方は来客のことを考えてお茶を用意してくれたんでしょ?」 思わず口を挟んだ。俺は日本茶が好きで、自社の社長室には京都の宇治茶や埼玉の狭山茶などを常備している。水野君もそれをよく知っていて、美味しい日本茶を見つけてはお土産に持ってきてくれていた。 「んだ、あんた。部外者はここに来んなって今言ったよな。なんだよ、その薄汚い服装は」 大西課長が鋭い目つきで俺を睨む。俺はあまりの物言いに言葉を失ってしまった。 「頭にゴミくずつけやがってふざけんな。は大工らしく犬小屋でも立ててろよ。こちらは今から100億、いや、それ以上の取引が待ってんだ」 俺は今日、合憲との正式な取引を結ぶために訪問していた。開発チームで検討した結果、水野君の持ってきてくれた見積もりや品質を評価し、正式に取引を依頼することを決めていたのだ。その相手は、俺だった。 「え?ああ、その相手は俺ですが」 言葉が声になるかならないかのうちに、俺は熱いものを浴びせかけられた。 「ばっシャー」 「うわ、暑い」 ポットに入ったお茶を、頭からかけられたのだ。幸い、水野君が準備してくれたのは玉露だったようで、火傷するほどの温度ではなかった。だが顔がヒリヒリする。 「汚い作業員がうろつくんじゃねえよ。早く帰れ。おい、水野。床を今すぐ拭いて消毒しとけ。あいつらが歩いた汚い床を俺に歩かせるって言うのか」 俺は半狂乱で顔を拭く。頬がお湯の影響で少し赤くなっていた。 「あなた、ネットをかけましたね」 やっとのことで声を絞り出した。 「作業服が少しでも綺麗になったろ」 大西課長はニヤニヤしながら言う。水野君は恐縮しながら頭を下げっぱなしだった。 「随分自分勝手な上司を持って、水野君も気の毒だな。申し訳ないが、100億の契約は破談だと社長に伝えてくれるか?」 俺はそう言って、濡れた髪をそのままにその場を去ろうとした。 「ちょ、ちょっと待ってください」 水野君が俺を引き止めようとする。しかし大西課長が「おい、このフロアに来るこいつらが悪いんだ。早く廊下を掃除しろ」と命令し、水野君は言いなりにならざるを得なかったようだった。 俺は振り返らずにその場を立ち去った。だが、ズブ濡れの俺と原田はエレベーターで1階まで降りた後、再び4階に戻ることになる。合憲の社長、三部さんに捕まったのだ。 「こんな格好では商談もできないし、したくないので一旦帰ります」 そう言ったのだが、「このままお返しすることはできません」と引き止められ、4階にある社長室に通された。 「社長、大西課長の言動が聞こえなかったのでしょうか?」 「ごめんなさい。私は先ほどまで所要で外出していました。取引のお約束のためにもう少し早く帰れるはずだったのに、道路が混んでいて急いで戻ったら、ズブ濡れで顔を赤くした本源本社長がいらっしゃるじゃないですか」 三部社長はのんびりとした口調で俺たちを気遣っていたが、事の顛末を話すと平謝りの繰り返しになった。そして内線電話で水野君と大西課長を社長室へ呼び出す。 「いや、申し訳ないのですが、謝罪を受けたとしても合憲との取引はなしにします。同様のスペックを提示してくれた会社は他にもあるし、今回は水野君の熱意を買って交渉を進めようと思っていたんです」 水野君は営業部のホープで、お客様からもお褒めの言葉をもらう若手だという。水野君と大西課長が社長室へ入ってきた時、水野君は顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしていた。対照的に、大西課長はスーツのジャケットとネクタイを変え、髪の毛も整えてきていた。 「こいつらは部外者なのに4階へ入り込んだ連中ですよ。なんで社長室にいるんですか?」 大西課長が意味のわからないことを言い出す。 「ところで、どうして水野君と大西課長は一緒にいたの?」 「ステータスホームズさんとの相談には、課長である私も立ち会う必要があるでしょう」 「大西課長はステータスホームズさんとの相談から外れてもらったわよね。あなたはゴージャス建築さんの案件を専門にお願いしていたでしょう。ステータスホームズさんとは何年も付き合って信頼関係を築いてきた水野君をメインとすべきだわ」 「でも100億が動くんですよ」 「あなたがお茶をかけてしまったから、もうその話はご破算よ」 大西課長が今更ながら俺を何度も凝視する。俺は頭からかぶっていたタオルを外し、それを畳みながら挨拶をした。 「初めまして。私、ステータスホームズの代表取締役社長をしております。本源本清と申します。トラブルに巻き込まれまして、このような格好で申し訳ありません」 「同じく、ステータスホームズの営業本部長代理をしております。原田です」 水野君が泣きながら懇願する。 「あの、申し訳ありません。今一度ご商談のチャンスをいただけないでしょうか?」 「水野君、ごめんな。水野君とだったらいい仕事ができたと思うんだけど、話も聞かずに茶をかけたり、君を理不尽に怒鳴りつけるような上司がいる会社とは取引はできないよ。俺は大事な部下をここで怪我させてしまったしね」 水野君の顔から血の気が引いた。 「怪我って、ちょっとお湯を浴びただけなので怪我のうちに入りませんよ」 「いいや。うちの会社は労災事故には人一倍気を使ってるんだよ。原田君の顔が赤くなっている。俺の顔もヒリヒリしているので、おそらく火傷を負った。だからこれから一刻も早く病院に行かなきゃならないんだよ」 「そんな火傷にもならない肌の赤みなんて、労災にならんだろう」 「そうですね。労災にはならないでしょう。だが、病院や労基が聞き取りを行った場合、俺と原田は全て包み隠さず答えますよ。そうしたら労災事故どころか傷害事件に発展するでしょうね」 水野君はさらに泣き崩れた。彼は若いだけあって、こういったトラブルは初めての経験のようだった。 「助かったのは、水野君が私のために玉露を準備してくれていたところだよ。温度が低めのお湯を準備してくれたからな。だから大怪我には繋がらなかった。ポットの中身が大西課長のご自慢のコーヒーだったらと思うとゾっとするよ」 「だって、作業服が汚れててゴミがついてて、業界第1位の我が社にそんな格好で来るなんて不潔じゃないですか」 … Read more

31 August 2026

スマホが鳴って、恐る恐る画面を見た。発信者は「新井課長」。解雇宣告からたった1日後だ。課長は震える声で言った。「太田、前から声をかけてくれていた会社がある。お前も一緒に来ないか?」俺は迷わず頷いた。あの専務のせいで、18年働いた会社を追い出されることになった。上司を過労で倒れさせた挙げ句、最後は「翻訳はAIで十分だろ」と言い放った男。しかし俺たちは知らなかった。その1ヶ月後、彼が青ざめた顔で…

「翻訳はAIで十分だろ。お前ら全員首だ」 高橋専務がニヤついた笑みを浮かべてそう言い放った瞬間、翻訳課は凍りついた。 俺は太田。40歳。22歳で大学を卒業してから18年間、同じ医薬品関連企業で翻訳者として働いてきた。業界ナンバー3の会社だ。翻訳者の人数は俺を含めてわずか4人。海外の取引先から届く英語の書類や薬の配合基準書を正確に日本語へ翻訳しなければならない。翻訳ミスは患者の命に直結する。だから俺はどんな案件でも必ず3回見直す。その習慣を18年間、一度も崩したことがない。 課のトップは新井課長。翻訳の精度は俺たちよりはるかに高く、俺は彼の仕事ぶりを心から尊敬している。 問題は、1年前に我が社へやってきた高橋専務だ。 高橋は過去に中央省庁に勤めていた。我が社は省庁の天下り先の一つで、白石社長が官僚出身のため、官僚や公務員を受け入れるようになっていた。高橋もその一人で、医薬品に関する知識はないのに専務の椅子に座っている。 専務の着任が社内で公式発表された時、新井課長は誰よりも驚いていた。 「新しい専務、俺の大学時代のゼミ仲間なんだよ。同じゼミだったんだ」 しかし2人は仲が良かったわけではない。むしろ逆で、高橋が一方的に新井課長を敵視していた。大学時代、高橋は成績トップだったが、語学だけは課長に勝てなかった。ゼミの教授はよく英文学の翻訳を課題に出していて、新井の翻訳を高橋の前で褒めていた。意図はなかっただろうが、プライドの高い高橋は毎回負けた気持ちになっていた。必死に勉強しても勝てず、さらに穏やかで優しい性格の新井課長の周りにはいつも人が集まり、神経質でプライドが高く見えっ張りの高橋には友人がいなかった。 さらに高橋には妙な噂がつきまとっていた。中央省庁から天下りしてきたのは、勤務先で横領が発覚して失脚したからという噂だ。あくまで噂だが、やりかねないと思えるほど嫌な人物だった。 着任初日、高橋は新井課長に絡むためにわざわざ翻訳課に足を運んだ。 「俺は勉強ができたから中央省庁に勤めていたが、お前は業界の中では中途半端な会社で、社員数の少ない課のトップを務めていたんだな。お山の大将ってわけか。お前にお似合いだ」 喉元まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。その中途半端な会社に天下りしてきたのはお前だろう。 課長は困ったように笑いながら受け流した。 「そうなんだよ。俺、英語しかできないからさ。高橋みたいに頭が良かったら別の人生もあったかもな」 すると専務は下打ちで返す。 「誰に向かって口を聞いてる?俺は専務だぞ。お前の上司だ。そんな口なんか聞ける立場じゃないだろ」 「そうでしたね。すみませんでした。これから一緒の職場で働く仲間としてよろしくお願いします」 専務の顔は怒りで真っ赤になっていた。同時に、課長に対して拭いきれない劣等感を抱いていると専務の目を見て気づく。嫌味を軽く受け流せる課長の大らかさに、専務は完全に負けていた。 「じじいになってもイライラするやつだな」 そう言い残し、専務は足音を立てて翻訳課から立ち去った。 課長がじじいならあんたもそうだろ。俺が呟くと、一泊置いて3人から笑い声が上がった。 高橋の劣等感は、権力を得て悪い方向に進んでしまったようだった。 着任して半年後、突如翻訳の予算が3割減ることが決まった。 「昨今の物価高で我が社も余裕がないんだよ。無駄なものはどんどん削減していくからな」 わざわざ翻訳課に来た高橋が、似ついた笑みを浮かべながら言い放った。さらに予算削減の一環で外部への翻訳業務の委託が禁止となり、4人だけで社内の全ての翻訳業務をこなすはめになった。 「ごめんみんな。俺のせいだ」 新井課長が申し訳なさそうに頭を下げる。 「いえ、課長のせいじゃありませんよ。それに、うちの会社って残業代が結構いいですよね。稼がせてもらいます」 笑いながら言うと、課長は少しだけ表情を柔らかくした。しかし本人は責任を感じていたらしい。課長は翻訳課の誰よりも仕事をこなして俺たちの負担を軽くしようとしたが、ある日無理がたたって過労で倒れてしまった。 課長の入院中、俺は我慢できず高橋専務に直訴した。 「専務、課長を目の敵にするのはやめてください。過労で倒れたのはご存知ですよね。もし課長に何かあったら責任取れるんですか?」 責任という言葉に専務は一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに表情が怒りへと変わった。 「何の権力も持たない社員のくせに生意気だぞ」 この日以降、高橋の敵意は俺にも向くようになった。専務が出席する会議に顔を出すと、俺を名指しで叱責するようになったのだ。専務は口がうまいから、普通に聞いただけでは叱られる俺に責任があるように感じる。しかし、俺と専務の確執を知っている翻訳課の社員が聞けば、いびりの一環だと思うものだった。 実際、過労から復帰した課長が何度か専務に苦言を呈した。 「俺の部下をいじめるのはやめてください」 しかし専務相手では逆効果だった。高橋のいびりは手に負えないものになっていく。 課長が肩を落としているのは、今進めている大型プロジェクトから外されたからだ。3年ほど前、アメリカの大手製薬会社との新薬共同開発プロジェクトが始まった。当初は翻訳課が全ての書類を担当していたが、専務の着任後、俺たちは外されたのだ。 「翻訳課は最近対応が遅れ気味だ。大型案件にリスクをかけたくない」 もっともらしいことを言って上層部を説得した。そして、専務は最近流行りのAIに仕事を任せようと提案したのだ。 「AIに任せれば一瞬で翻訳作業が完了する上に、人を使うよりコストがかからない」 無駄にうまい口でプレゼンテーションをした結果、AIの導入が決定した。白石社長は専務の提言をそのまま承認した。現場を大切にする人だという評判は以前から聞いていたから残念だった。 「課長、もしかしたら専務は他の業務もAIに任せるつもりでは?」 「そうだろうな。翻訳課を本気で潰そうとしてるのかも」 俺や他の社員が青ざめる。課長の考えは当たっていた。しかし、その後の専務の行動の速さは俺たちの想像を超えていた。 新薬共同開発プロジェクトへのAI導入決定後、専務の働きかけで社内にAI翻訳の使用が広がっていく。 「うちにAI翻訳の本格導入をするから、今のうちに使って慣れておいてくれ」 専務の通達に逆らえる人間はいない。そして、専務が翻訳課をいじめているという噂が徐々に社内に広まっていった。 廊下を歩いていると、別部署だが仲のいい同期を見つけて声をかけた。 「お、久しぶりだな。週末飲みに行かないか」 しかし同期は慌てた様子で俺を物陰に連れて行くと、申し訳なさそうに言った。 「高橋専務に睨まれたくないんだよ。もう俺に声をかけないでくれ」 他に関わりのあった別部署の人間も同じように、俺や翻訳課から距離を取り始めた。 「課長、もうこの会社に俺たちの居場所はないんでしょうか?」 … Read more

31 August 2026

同窓会で、俺を「お化け屋敷の貧乏人」と笑い続けた男が、大手銀行の課長としてこれ見よがしに言い放った。「100円で許してやるから、うちの銀行に預けてくれよ」って。中学の頃から俺を見下していたアイツ。俺は笑顔で「それなら100円だけ残して解約させてもらうよ」と返した。アイツは高々と笑っていたけど、翌日、俺はあの銀行に行ったんだ。アイツに言われた通り、口座を解約するために。だけど、あの時、アイツも…

同窓会の会場で、久しぶりに顔を合わせた宮野が、にやにやしながら言った。 「100円で許してやるから、うちの銀行に預けてくれよ」 中学の同窓会で、大手銀行に勤める同級生が、焼きもちを焼いたような口調で言ってきたのだ。 「本当に100円でいいのか?」 「ああ、日雇いの貧乏人でも、100円くらいは預けられるだろう」 彼は俺を、日雇いのその日暮らしと見下している。 最も、彼が俺を見下すのは今に始まったことではない。小中学生の頃から、俺は「お化け屋敷の貧乏人」と呼ばれていた。 「本当にお前は何も変わっていないんだな。けど、俺は変わったんだよ。分かった。それなら100円だけ残して、解約させてもらうよ」 「100円でいいって言われたから、仕方ないよな」 俺はにっこりと笑って答えた。 同級生はそれに、「貧乏人がかっこつけるな」と笑う。 まあ、笑いたければ好きなだけ笑うといい。女にも気持ちよく笑えるのは、今日が最後になるのだから。 俺の名前は花沢剛。その日、俺の元に中学の同窓会の知らせが届いた。今年40歳の節目だということもあり、同窓会が開かれることになったようだ。 普通、こんな時は懐かしい思い出に浸るのだろう。しかし、俺はこの知らせを見ても、あまりいい気はしなかった。中学生の時にした嫌な思い出が原因だ。 俺は幼い頃に両親を亡くし、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられた。突然両親が亡くなったことで、他に引き取ってくれる人もおらず、2人が俺を育ててくれることになった。しかし、おじいちゃんとおばあちゃんの家計は決して余裕があったわけではなく、2人でギリギリの状態だった。古い民家で3人で暮らすことになったが、生活は貧しいものだった。 小学校の途中から転校することになった俺は、転校生ということもあり、なかなか学校にも馴染めずにいた。おまけに、服や持ち物も綺麗なものはあまり買ってもらうことができず、次第に貧乏だとからかわれるようになった。 お金をかけないようにと、おばあちゃんが、切れなくなった服をリメイクして新しい洋服を作ってくれたりした。今思えばすごくありがたいことだが、当時の俺は、みんなが着ているような普通の洋服が着たかった。 しかし、生活が貧しいことを幼いながらも理解していた俺は、何も言えない。友達と遊びたいと思っても、ゲーム機がないせいでなかなか参加できない時もあった。 学校に行けば、貧乏であることを馬鹿にされて笑われる生活を送っており、学生時代にいい思い出がないのだ。 同窓会の知らせが届いてから、しばらく出席するかしないかを考えていた。その結果、参加を決めた。悪い思い出ばかりが先行してしまうが、全く友達がいなかったわけではない。少ないながら気の合う友人もおり、そんな彼らと会いたい気持ちもあった。考えるうちに、今更遠い昔のことを思って参加しないのもどうかと思えてくる。そうして、せっかくだし同窓会には参加をしようと決意をしたのだ。 そして迎えた同窓会当日。会場に着き、懐かしい友人と久しぶりの再会を果たすこともできた。 俺は中学を卒業してから仕事に忙しく、あまり顔を合わせていなかったため、何十年もの間の色々な話で盛り上がった。やはり今日は来てよかったと感じる時間だった。 「おい、もしかして、お前、剛か?」 突然隣に寄ってきて、俺の名前を呼ぶ人の声。それによって、楽しい時間が終わった。 その口調だけで誰だかわかる。彼は宮野秋夫。俺を貧乏だとからかっていた張本人だ。振り向くと、彼の周りには、小学校の頃から宮野と一緒になって俺を馬鹿にしていた取り巻きたちもいた。宮野は、最初から少し馬鹿にしたような口調で、嫌な思い出が蘇ってしまった。 俺は色々な感情をぐっとこらえ、大人の対応をする。 「ああ、宮野、久しぶりだな」 「おいおい、貧乏人のくせに軽々しく名前呼ばないでくれよ」 親しげに話すように接するが、宮野は嫌な顔をしながら笑う。 「随分とおっさんになったな。お化け屋敷の貧乏人」 「うわあ、それ懐かしい」 「こいつの家、人が住めるようなとこじゃなかったもんな」 宮野たちは俺の悪口を言い、ケラケラと楽しそうに俺を馬鹿にして笑っている。30年も経った今でも「貧乏人」と呼ばれたことに、少し驚いてしまう。そして同時に、宮野の性格は何も変わっていないのかと呆れてしまった。 転校した小学生の頃から、古い民家に住んでいた俺に「お化け屋敷の貧乏人」というあだ名をつけてからかってきていた。それは、小学校を卒業しても変わらず、中学生になっても続いた。今でも鮮明に思い出してしまうほど、俺にとっては嫌な思い出だ。 その頃の俺は、宮野にも宮野の周りの取り巻きにも、何も言い返すことができなかった。密かに将来は大物になって見返してやると、宮野への反発心を持っていたのは、懐かしい思い出ではある。勉強を頑張って、いい高校に行くことだけを考えて、何を言われてもこらえて生活していたのだ。 しかし、そんな俺の目標は叶わず、高校に行くどころか、中卒で働くことを余儀なくされてしまった。 中学生になると、おじいちゃんもおばあちゃんも高齢で、体を壊したりすることが増えてきていた。度々病院にかかり、お金も以前より厳しくなって、俺を高校に通わせるのが難しくなったのだ。 「そういや、お前って、貧乏すぎて高校行けずに、中学卒業してすぐに就職してたよな。どうよ?低学歴の生活って」 宮野は、俺が中卒で就職したことを覚えていて、そう言って馬鹿にしたように笑う。 宮野が大きな声で俺をからかうせいで、宮野たち以外の人たちもこちらの様子を見ていた。 周囲の人たちは、宮野の昔と変わらない俺への対応に苦笑いしながらも、誰も止める人はいない。 この状況も、俺には慣れっこだった。 俺には友人はいたが、宮野を注意する人は、小学生の頃から誰1人としていなかった。なぜなら、宮野の家はお金持ちで、住んでいた町では大きな影響力を持つ家だったのだ。宮野が学校で悪さをしても、先生たちも注意することができないほどだ。 1度、俺がからかわれているのを見て、入ってくれた同級生がいた。しかし、その子はその後急に引っ越して転校することになった。きっと宮野が両親に話し、その子の家族を町から追い出したのだと、誰もが思っていた。そのため、俺の友人たちも含めて、同級生は誰も宮野の俺への態度を注意することができなかった。 「中卒じゃ、まともな仕事にも就けてないんだろうな。今は何をして生計を立ててるんだ?物乞いか?」 「まあ、今は色々やっているよ」 「色々って何だよ。どうせ日雇いとかだろうな。その日暮らしで生きていくのも大変だな」 俺が質問に対して答えると、宮野は決めつけて笑い出す。不愉快ではあったが、何か言ってもまともには取り合ってもらえないというのは分かっていたので、俺は黙った。そう思うなら勝手に思っていればいいと、開き直って宮野を眺める。すると宮野は自分の話を始めた。 「低学歴は大変だな。いや、俺はいい高校、大学に行ってよかったよ。俺はお前と違って優秀だから、銀行に就職して、今は課長職についているんだ」 その銀行の名前は、誰もが聞いたことのある大手で、それを聞いた周りの人たちも「すごい」と口々に言葉をもらす。 「日雇いのお前なんかができないような暮らしを送っているよ」 そう言ってスマホを取り出し、海外旅行に行った写真を見せびらかしている。宮野は毎年夏と冬の2回は最低でも海外に遊びに行くようで、泊まるホテルもその土地で1番いいホテルに泊まるのだと自慢していた。 「わあ、ここのホテル、すっごく高級なところよね。1度は泊まってみたいわ」 「このくらい、俺からしたら全然大したことないけどな。俺は小さい頃からよく言っていたし」 「やっぱり大手銀行の課長にもなると、こんな生活ができるんだな」 … Read more

31 August 2026