「高が20万円だろ。小銭にいちいち偉そうにされてたまるか」…
居間の空気が、一瞬で凍りついた。 「小銭にいちいち偉そうにされてたまるかよ。高が20万円だろ」 息子の健二が吐き捨てた言葉が、食卓の温かい湯気を切り裂いた。 隣で、嫁のみかが下品な笑い声を上げる。高級ワイングラスを揺らしながら、見下すような視線を私に向けた。 「そうですよ。お義母さん、今の時代、20万なんて端金じゃないですか。それを毎月、自分がこの家を支えてるみたいな顔して。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃいます」 私は無言で、手元の湯のみを見つめた。 この家を建てる時、頭金のほとんどを出した。月々のローン返済も、決して安くない金額を肩代わりしてきた。それなのに、この二人には、私の苦労も感謝の念も、微塵も届いていない。 「そう……そういう風に思っていたのね」 私は小さく、しかしはっきりと呟いた。その時、二人はまだ気づいていなかった。私が浮かべた微かな微笑みが、彼らの輝かしい生活を全て終わらせる、破滅へのカウントダウンの始まりだったということに。 「お義母さんのやってることって、結局は自己満足なんですよね。小銭を恵んでやる優越感に浸りたいだけでしょう」 みかの言葉は止まらない。彼女が着ているブラウスも、手首に光るブレスレットも、私の援助があって初めて手に入ったものだ。それなのに、彼女の口から出るのは感謝ではなく、私を時代遅れの老害として扱う無慈悲な罵倒ばかりだった。 「健二さんも言ってる通り、月に10万なんて、今の私たちからすれば誤差みたいなものなんです。それを理由にリビングで大きな顔をされると、せっかくの食事がまずくなるんですよね」 健二はみかの肩を抱き寄せ、同意するように大きく頷いた。 「母さん、もういい加減にしてくれよ。パートでちまちま稼いだ金で恩着せがましく振る舞うのはさ。俺はもう大手企業の課長代理なんだ。お前の数倍は稼いでる。その20万だって、本当は受け取る必要すらないんだけど、母さんのプライドを傷つけないために、あえて受け取ってやってたんだぜ」 その言葉に、私は井の底が冷たくなるのを感じた。 大手企業の課長代理と言っても、彼の給料だけでは、この都心の豪邸の維持費や、みかの派手な浪費を賄えるはずがない。彼らは大きな勘違いをしていた。この家が誰の信用で立ち、誰の資金で守られているのか、という最も重要な事実を。 「分かったわ。二人にとって、私の払っている20万は、それほど価値のないものだったのね」 私は静かに立ち上がった。怒りで震えることも、泣き叫ぶこともなかった。ただ、心の中にあった「家族」という名の最後の糸が、プツンと音を立てて切れただけだった。 「おいおい、なんだよ、その顔。また被害者面か。そういうのが一番うざいんだよ」 健二が舌打ちをした。 「明日からはもう、お義母さんの小銭には結構ですから。その代わり、この家のルールは私たちが決めます。まずは、お義母さんの部屋。日当たりの悪い北側の納戸に移ってもらえませんか? あそこなら、誰の目にも触れずに済みますし」 みかが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、信じられない提案をしてきた。 「お、北側の納戸ね」 私は二人の顔をじっと見つめた。かつては可愛かった息子。そして、その息子が選んだ最愛の妻。けれど、私の前にいるのは、欲望と慢心にまみれた、水際立った他人のようだった。 「分かったわ。二人の望み通りにするわね。私はもう、この家のローンには一円も出さない。それでいいのね」 「ああ、願ったり叶ったりだ。やっと身軽になるよ。明日からは俺たちの力だけで、この完璧な生活を守って見せるさ。母さんは隅っこで小さくなって、俺たちの幸せを、指を加えて見てればいいんだ」 健二は高笑いしながらワインを一気に飲み干した。 私は何も答えず、ただ微笑み返した。その微笑みの意味を、彼らが知る由もない。 私はそのまま自室に戻ると、机の引き出しから一冊の手帳と、ある人物の名刺を取り出した。それは数年前から密かに準備していた、ある計画のための連絡先だった。 「明日、全てが終わるわ」 独り言を呟いた私の声は、夜の静寂に吸い込まれていった。外では激しい雨が降り始めていた。それはまるで、明日訪れる嵐を予兆しているかのようだった。 翌朝、私は二人がまだ眠っている間に家を出た。行き先は、馴染みの銀行、そして不動産仲介会社だ。二人が目を覚ました時、そこには昨日までとは全く違う世界が待ち構えていることなど、夢にも思っていないだろう。彼らが「高が20万」と嘲笑ったその金額が、どれほどの重みを持ち、どれほどの権利を守っていたのか。それを知った時、彼らはどんな顔をするのだろうか? 銀行の応接室は、ひんやりとした空気に包まれていた。ふかふかのソファに腰を下ろすと、支店長自らが「佐藤様、本日はどのようなご要件でしょうか」と最上級の敬意を込めた笑みで現れた。 世間から見れば、私はただの地味な高齢女性に過ぎない。普段は近所のスーパーでパートとして働き、特売の野菜を品定めする、どこにでもいるおばあちゃんだ。息子夫婦も、私のことをそう思っている。中卒で学もなく、スーパーの品出しで小銭を稼ぐことしかできない、哀れな母親だと。 しかし、彼らは大きな勘違いをしていた。私は亡くなった夫から、莫大な財産といくつかの不動産を引き継いでいたのだ。スーパーでのパートは、ただの社会勉強であり、ぼけ防止、そして何より、亡き夫と出会った思い出の場所だから続けているだけだった。 話は5年前に遡る。一人息子である健二が結婚して、「母さんと一緒に住みたい。大きな家を建てて、家族みんなで幸せになろう」と言ってきたのだ。その言葉を信じた私は、自分が持っていた土地を売り、建築費の頭金として4000万円をポンと出した。残りのローンも、私の社会的信用があれば一括で組めるものだったが、健二が「自分も世帯主としての自覚を持ちたい。ローンは僕が組むから、母さんは少し手伝ってくれるだけでいい」という言葉を尊重したのだ。 結果として、住宅ローンの名義は健二に。けれど、月々の返済額30万円のうち20万円は、私が援助という形で健二の口座に振り込むことになった。さらに、固定資産税や火災保険料も、全て私が裏で支払っていた。 「今日は、こちらの住宅ローンの一括返済と、物件の売却手続きについてご相談に来ました」 私が静かに切り出すと、支店長は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに深く頷いた。 「承知いたしました。佐藤様のご意向であれば、早急に手続きを進めさせていただきます。幸いこのエリアは地価が高騰しており、買い手はすぐに見つかるでしょう。ちょうど有力な法人顧客から、この界隈で景品として使える物件を探しているという相談を受けております」 「ええ、それで構いません。明日には契約を済ませたいので、準備をお願いします」 銀行を出ると、太陽の光が眩しかった。私のスマホには、嫁のみかからの非礼なメッセージが何通も届いている。 「お義母さん、掃除が雑なんですけど。納戸に荷物運びました。早くしてくださいね」 「あ、今日の夕飯は私たちの分いりません。健二さんと高級フレンチに行くので。あ、もちろんお義母さんの分のお金なんてありませんからね」 その画面を見つめながら、私は心の中で呟いた。 「ええ、そうね。もう掃除も料理も、お金の心配も、一切必要なくなるわよ」 彼らは、私がスーパーで稼ぐ小銭がこの生活を支えているのだと馬鹿にしていた。20万円という金額を、自分たちの贅沢なランチ数回分程度にしか考えていなかったのだろう。 私はそのまま、もう一件、ある場所へ向かった。そこは私の古くからの友人が経営する不動産会社だ。 「あら、まさ子さん、どうしたの? そんなに晴れやかな顔して」 「ふふ、ちょっとね。ずっと重かったものを、全部下ろすことにしたのよ」 友人は私の言葉の裏を察したのか、何も聞かずに最高の条件を提示してくれた。 「この物件なら、明日にでも内覧希望者が殺到するわよ。特に投資家たちは放っておかない。健二君たち、本当にいいのかしら?」 「ええ、彼らは自立したいんですって。私の小銭には、もういらないそうだから」 … Read more