「け子さん、正が脳梗塞で倒れたの。今月の生活費30万円と私の介護、すぐに来てちょうだい」——3年ぶりに電話をかけてきた元義母の第一声がそれだった。離婚したのに、まるで35年間の苦しみが何もなかったかのような、当然の要求。私は「その言葉を聞いて、今から全ての真実を話します」とだけ言って、黙り込んだ。彼女は、私が35年間、家計の大半を支えていたこと、借金だらけの正登の本当の姿、そして愛人の存在さ…
「け子さん、大変なのよ。正が脳梗塞で倒れて入院してるの。今月の生活費30万円と、私の介護、すぐに来てちょうだい」 3年ぶりに聞いたその声に、私は一瞬言葉を失った。携帯の画面には「木村節子」の名前。離婚して以来、一度も連絡などなかった元義母からの、あまりにも図々しい要求だった。 まるで離婚などなかったかのような、その当然のような口調。私は怒りを通り越して、笑いそうになった。35年間、散々私をいびり続けた人が、今更何を言っているのだろう。 「節子さん、お忘れかもしれませんが、私たちはもう他人ですよ」 冷静に告げると、電話の向こうで高圧的な声が響いた。 「何言ってるの? 35年も一緒だったでしょ。恩知らず! 息子の嫁として当然の義務でしょう」 息子の嫁。その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。もうとっくにその関係は終わっているのに。 私は深く息を吸い込むと、静かに口を開いた。 「節子さん、あなたは本当に何も知らないのですね。35年間の真実を、今からお話ししましょう」 電話の向こうで、唾を飲む気配がした。これから語る真実に、きっと言葉を失うことだろう。 私は木村け子、63歳。地方銀行の支店長代理として、今も現役で働いている。25歳で正登と結婚してから35年間、私は銀行員として働き続けながら、木村の嫁としての勤めも果たしてきた。 結婚当初から、節子の嫁いびりは始まっていた。「銀行なんてやめて家にいなさい。女は家を守るものよ」。毎日のようにそう言われても、私は仕事を続けた。朝5時に起きて家族3人分の弁当を作り、夜10時に帰宅してからも家事をこなす日々。それでも節子は満足することなく私を責め続けた。 「料理が下手ね。掃除が雑だわ。子供の成績が悪いのは、母親が仕事なんてしているからよ」 夫の正登はいつも無関心だった。「母さんの言うことは聞いておけよ。波風立てるな」。私は黙々と家計の大部分を負担し続けた。月15万円の生活費を35年間。計算すれば6300万円にもなる。さらに子供たちの教育費800万円。家のローンの頭金500万円。私の収入なしでは、木村家の生活は成り立たなかった。 でも、私への感謝の言葉はただの一度もなかった。当たり前のように私の稼ぎに頼り、当たり前のように私を貶す。それが木村家での私の立場だった。 そして3年前、60歳の時、ついに私は決断したのだ。 35年間の結婚生活の中で、節子の嫁いびりは年を追うごとにエスカレートしていった。最初は些細な嫌がらせから始まったが、それは次第に私の人格を否定し、存在価値を踏みにじるものへと変わっていった。 孫の運動会での出来事は、今でも鮮明に覚えている。長男の息子、私にとって初孫の晴れ舞台。有給を取って参加すると伝えた時、節子は冷たく言い放った。 「け子さんは来なくていいわ。どうせ仕事があるんでしょう。銀行員は忙しいものね」 その言い方には明らかな悪意があった。結局、私は運動会に参加できたが、家族写真を撮る時になると、節子がカメラマンに向かって大きな声で言った。 「家族だけで撮りましょう。け子さん、ちょっと外れてもらえる? あなたは後で別に撮ればいいでしょう」 周りの保護者たちの視線が痛かった。まるで私だけが部外者のような扱い。正登は黙ってみているだけで、何も言わなかった。息子夫婦も節子の言いなりだった。私は一人、校庭の隅で涙をこらえていた。 親戚の集まりでは、節子は必ず私の悪口を言いふらした。正月、お盆、法事。親戚が集まるたびに、私は標的にされた。 「うちの嫁は銀行員で家庭的じゃなくて困るのよ。料理も下手だし、掃除も行き届かない。普通の主婦らしいことが何一つできないの。仕事仕事って、家族のことは二の次。子供たちもかわいそうだったわ」 実際には、私は朝5時に起きて家族全員の弁当を作り、洗濯物を干してから出勤していた。夜10時に帰宅してからも、夕食の片付け、翌日の準備、アイロン掛け。休日は一週間分の作り置きと家中の掃除。それでも節子の中では、私はダメな嫁でしかなかった。 次第に節子の攻撃は、私の人格そのものに向けられるようになった。食事中、私が箸を置く音が気に入らないと言っては怒鳴り、歩き方が気に入らないと言っては嫌味を言う。 「あなたみたいな女らしくない人が、うちの息子の妻だなんて恥ずかしい。銀行なんかで働いてプライドばかり高くて、誰も幸せにできない女ね。普通の主婦にもなれない出来損ないが、偉そうに」 ある時、節子は私の両親のことまで持ち出してきた。 「あなたの親の育て方が悪かったのよ。娘を働かせるなんて、まともな家じゃないわ」 その言葉を聞いた時、私の中で何かが壊れた。両親は私の進路を応援してくれた。大学まで行かせてくれて、就職も喜んでくれた。その両親を侮辱されたことが、何より辛かった。 正登は相変わらず無関心を装い続けた。 「母さんも悪気はないんだ。年だから仕方ない。我慢してくれよ。お前が大人になって受け流せばいいじゃないか。俺だって板挟みで辛いんだ。分かってくれ」 板挟み。自分は何もしないくせに、被害者ぶる態度に私は絶望した。 私が38年間勤め上げた定年退職の日。銀行では盛大な送別会を開いてもらった。支店長からの感謝の言葉。後輩たちからの花束。取引先からの記念品。私は銀行員として確かに必要とされていた。その充実感を胸に帰宅した。 しかし、家に帰ると誰も私の退職を祝ってくれなかった。リビングには誰もいない。キッチンのテーブルにメモが一枚。 「母と外食に行ってます。夕飯は適当に食べてください」 38年間の節目の日に、家族は私を一人にした。 やがて帰ってきた節子は、私を見るなり言った。 「やっとやめたの。これで普通の主婦になれるわね。明日から私の病院の送り迎え、お願いね」 正登も素っ気なく言った。 「お疲れさん。で、母さんの介護、これからよろしく頼むよ。やっと時間ができたんだから」 38年間、朝から晩まで働き続け、家計を支えてきた私の仕事人生。それがこの家では、何の価値もないものとして扱われた。まるで私のこれまでの人生全てが無意味だったと言われているようだった。 花束を抱えたまま、私は自分の部屋で一人泣いた。でもその涙は悔し涙ではなかった。もうこの家族に期待することをやめた、諦めの涙だった。 定年退職から2年が経った頃、私の母が突然倒れた。脳出血だった。病院からの連絡を受けて、私は血の気が引く思いで駆けつけた。母は一命を取り止めたものの、意識が戻らない日々が続いた。私は毎日病院に通い、母の手を握り続けた。仕事をやめていたおかげで、時間だけはあった。 でも、正登も節子も、私の母のことには全く関心を示さなかった。 「今日も病院? 毎日行く必要あるの?」 節子はそう言って、私が家を開けることを露骨に嫌がった。 「私の病院の付き添いはどうするの? 優先順位を間違えないで」 実の母が生死の境を彷徨っているのに、節子は自分の定期的な通院の付き添いを優先しろと言う。その冷酷さに、私は言葉を失った。 2週間後、母は静かに息を引き取った。85歳だった。最後まで意識が戻ることはなかったが、私が手を握ると、かすかに握り返してくれたような気がした。 … Read more