昨夜のフライトで、CAに「どうやってこれを手に入れたの?ここはあなたのような人が座る席じゃないのよ」と言われ、ファーストクラスから引きずり出されるようにエコノミーへ移されました。着ていたのは、亡き祖父から託された形見の着物。身分を隠し、祖父が築いた会社の今を確かめるための約束の旅でした。侮辱され、笑われ、水までかけられました。もう限界だった。私は震える指で、祖父の後を継いだ人物に、たった一通…
桜18歳は、祖父の形見である淡い桜色の着物を身にまとい、静かに搭乗ゲートをくぐった。行き先は遠い異国の地。その目的はたったひとつ、亡き祖父の最後の約束を果たすことだった。 ファーストクラスの空間は、別世界のように静まり返っていた。柔らかな照明に照らされたゆったりとしたシート。桜は自分のチケットに書かれた3Aの席を見つけると、小さな風呂敷包みだけを抱えてそっと腰を下ろした。豪華なブランド品を身につけているわけでもなく、化粧も薄い。ただその背筋は凛と伸び、物静かな瞳が印象的だった。 しばらくして、金髪を綺麗にまとめた背の高い白人女性のキャビンアテンダントが桜の前に立った。胸元の名札には「アリソン」と書かれている。彼女は完璧な笑顔を浮かべていたが、その目は桜の姿を上から下まで、まるで値踏みするように見つめていた。 「お客様、何かお間違いではございませんか?」 その声は丁寧だったが、どこか冷たさが滲んでいた。桜は一瞬何を言われたのか分からず、小さく首をかしげる。アリソンは桜の反応を見て、わざとらしくため息をついた。 「失礼ですが、お客様のチケットをもう一度拝見してもよろしいでしょうか?」 その言葉はもはや疑いを隠そうともしていなかった。周囲の乗客たちが何事かとこちらに視線を向ける。桜の頬にじわりと熱が集まった。心臓が嫌な音を立てて打つのを感じながらも、彼女はバッグからチケットを取り出しアリソンに差し出した。アリソンはチケットを受け取ると、一瞥して信じられないというように眉をひそめた。そして、周りに聞こえるか聞こえないかの小さな声で、しかしはっきりと軽蔑を込めてこう言った。 「どうやってこれを手に入れたの? ここはあなたのような人が座る席じゃないのよ。」 その瞬間、桜の頭の中で何かがブツリと切れる音がした。怒りよりも先に、深い深い屈辱が全身を駆け巡る。指先が氷のように冷たくなっていく。 「お客様、こちらはエコノミークラスのチケットとお間違えのようです。私が正しいお席までご案内しますので、こちらへ。」 それはもはや提案ではなかった。命令だった。アリソンは有無を言わさず、桜の細い腕を掴むと無理やり立たせようとする。その強い力に桜は抵抗できなかった。 「やめてください。」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。しかしその声はアリソンには届かない。彼女は桜を引きずるようにして、ファーストクラスの乗客たちの好奇と哀れみの視線が突き刺さる中を、ゆっくりと通路を進んでいく。誰も助けてはくれない。見て見ぬふりをする人。面白そうに眺めている人。その冷たい視線の檻の中を、桜はただ引きずられていった。 やがて騒がしいエコノミークラスのエリアに辿り着くと、アリソンは一番後ろの中央の窮屈な席を指差し、桜をそこに押し込むようにして座らせた。 「ここがあなたの席よ。」 誇らしげな笑みを浮かべてアリソンは言い放つ。そして何も言えずに俯く桜を一瞥すると、スタスタと歩き去っていった。 ひとり狭いシートに取り残された桜の世界から、音が消えた。祖父の優しい声。最後の約束。今日のフライトに込めた思い。全てがバラバラに砕けていく感覚。唇を噛みしめると鉄の味がした。瞳に熱い膜が張り、視界が滲む。 *ここで泣いてしまえば、本当に負けを認めることになる。人格だけは手放すな。* 頭の中に響く祖父の声に、桜は唇を固く結んだ。このまま終わらせるわけにはいかない。こんなに理不尽な屈辱を許すわけにはいかない。桜はゆっくりと震える手でコートのポケットを探った。そして冷たい感触のスマートフォンを強く握りしめる。 だが、アリソンが去った後も桜の地獄は終わらなかった。むしろここからが本番だった。エコノミークラスの乗客たちの視線は、もはや単なる好奇ではない。それは獲物を見つけた肉食獣のような、残酷な光を帯びていた。 「ねえ、見た? ファーストクラスから追い出されたのよ。」 「あの子、何やったのかしらね。身のほど知らずっていうか。」 ヒソヒソと買われる声がナイフのように突き刺さる。桜は俯いたまま唇を固く結んだ。着物の袖を握りしめる指が白くなる。 その時だった。通路を挟んだ向かいの席に座っていた派手な化粧の中年女性が、わざと大きな声で連れの男に話しかけた。 「あなた見てよ、あの着物。どうせレンタルでしょう。目立ってファーストクラスに忍び込もうとしたけど、バレて追い出されたんじゃないの。みっともないわね。アジア人の恥だわ。」 その言葉は雷となって桜の脳天を打ち抜いた。アジア人の恥。その一言が桜の心を踏みつけ、ズタズタに引き裂いた。 *違う。これはおじい様の形見なのに。忍び込もうなんてしていない。* 反論しようと顔を上げたが、喉が引きつって声が出ない。桜の目に映ったのは、中年女性の嘲笑と、周りで同調するようにクスクスと笑う数人の乗客たちの顔だった。彼らにとってこれは格好のエンターテイメントなのだ。自分より不幸な人間を見つけ、石を投げ、優越感に浸るための。 怒りと屈辱で目の前が赤く染まる。涙が込み上げてきて視界が歪んだ。ここで泣いたら、本当に彼女たちの思う壺だ。必死に涙をこらえる桜の耳に、追い打ちをかけるようにあの声が再び聞こえてきた。 「お客様、何かお困りですか?」 見ると、アリソンが意地の悪い笑みを浮かべて桜の席の前に立っていた。彼女の手には水の入ったグラスがひとつ。明らかに様子を見に戻ってきたのだ。桜は何も答えず、ただ彼女を睨みつけた。その抵抗がアリソンの加虐心をさらに煽った。 「あら、そんなに睨まないで。喉が乾いたでしょう。かわいそうに。特別にお水を持ってきてあげたわ。」 そう言うと、アリソンはわざとらしく足を滑らせた。バシャッ。グラスが傾き、冷たい水が桜の膝の上に広がる。祖父の形見の着物へと容赦なく浴びせられた。 「きゃっ、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ。」 甲高い悲鳴とは裏腹に、アリソンの目は明らかに笑っていた。淡い桜色の生地にじわりと広がる黒い染み。それはまるで、桜の心に開いた穴のようだった。 もう限界だった。守るべきものも、こらえるべき理由も、全てがどうでも良くなった。桜の瞳から、こらえきれなかった大粒の涙がボロボロと溢れ出した。その瞬間、彼女の脳裏で数年前に亡くなった祖父の最後の約束が、音を立てて砕け散った。頬を伝う熱い涙が、汚れた着物の染みにポタポタと落ちていく。周りの嘲笑が、遠い世界の音のように聞こえた。 *なぜ私がこんな目に? なぜ今日、来なければならなかったのか。* その問いが、封印していた記憶の扉をこじ開けた。半年前。病院のベッドの上で、祖父はもうほとんど体を動かすこともできなかった。かつて一代で日本最大の航空会社を築き上げた「経営の鬼」と呼ばれた男の面影はなく、痩せ細った腕には点滴の管が痛々しく繋がれている。桜は毎日学校が終わると祖父の病室に通った。 ある日、祖父はか細い声で彼女を呼んだ。そして枕元に置かれていた漆の箱を、震える指で指した。箱の中には、この桜色の着物が静かに納められていた。 「これはな、おばあちゃんに最初に贈った着物なんだ。」 「おばあ様に?」 「わしは何もないところから会社を始めた。金も信用もなかった。あったのは、お客様一人一人を大切にするという心だけじゃ。その心を、社員たちは今も持っていてくれているだろうか。」 祖父の目は窓の外の遠い空を見ていた。 「会社が大きくなるにつれて、わしは一番大切なものを見失ってはいないかと、時々怖くなる。人の心は、いつの間にか他人の痛みに鈍感になる。それが一番怖いことなんじゃ。」 祖父は桜にひとつの頼みをした。それは彼の死から半年が経った今日、この日のこの便に、桜が一人の客として乗ること。自分の孫娘である身分は隠し、この着物だけを着てファーストクラスに乗ること。そして会社の今の姿を、その目で見てきてほしいと。 「これは遺言だ。そして、わしがお前に託す最後のテストなんじゃ。」 「テストですか?」 「そうじゃ。我が社の社員たちが、お客様の身なりや肩書きで態度を変えるような、魂のないサービスに成り下がっていないか。それを見極めてほしい。お前がそこで見たもの、感じたものが、この会社の未来を決める。」 それは18歳の少女にはあまりにも重い使命だった。しかし、日に日に弱っていく祖父の最後の願い。桜は涙を拭い、力強く頷いた。 「わかりました。おじい様、約束します。」 その時の祖父の安堵したような優しい笑顔を、今でも覚えている。しかし現実はどうだ? テストの結果は最悪の形で示された。祖父が何よりも恐れていた差別と無関心。その醜い姿を、桜は自ら味わっている。 … Read more