夜の田舎道を歩いていると、見知らぬ女性が突然、目の前で倒れた。泥だらけの服、脱げた片方の靴。ぐったりした彼女を必死に支え、救急車を呼んだ。次の日、会社で突然部長に呼ばれ、「すごいぞ、よくやったな」と言われた。何のことか分からず首を傾げていると、部長は意外な名前を口にした。私が助けた女性は、何と大口取引先の社長の娘だった。感謝され、お見舞いに行くうちに彼女に惹かれていった。だが、彼女の言葉で恐…
俺の両肩に部長の手がポンと置かれた。瞬間、血の気が引いた。何かやらかしたのか?社長室に呼ばれるのは、いつも始末書の時だ。 「すごいぞ、三原。よくやったな」 「は?何のことで……?」 遅れてきた課長までニコニコしながら俺を見ている。入社5年、営業部の主任になって1年。今日も残業で、疲れ切った頭に状況が入ってこない。部長が言った。 「三原、お前、昨日薬師コーポレーションの社長の娘さんを助けたんだろう?」 薬師コーポレーションは、うちの大口取引先の一つだ。昨日…倒れた女性を救急車に運んだ。まさか、あの女性が? 俺たちの部署は契約社員が多く、残業は自然と正社員の俺に回ってくる。月末は徹夜になることもしばしばだ。会社は都内だが、俺は実家の田舎に近い郊外のマンションに住んでいる。通勤は電車で1時間。周りには田んぼや畑が広がり、夜は虫やカエルの声が聞こえる。それが癒しだった。 昨日の夜も、いつものように残業を終え、最寄り駅に着いたのは深夜近く。田舎の静かな駅で、降りる人はまばらだ。疲れた体を引きずって歩いていると、前方でカップルらしき男女が揉めているのが見えた。背の高い男が女の肩からバッグを乱暴に掴み、何か言っている。女は嫌がって手を振り払い、走り出した。男は追いかける。「ちょっと待て」という声がうっすら聞こえた。 ドラマかよ。絵に書いたような痴話喧嘩だな。 俺は気にせず、いつものようにスーパーに寄った。この時間は半額弁当が並ぶ時間帯だ。ワゴンから唐揚げ弁当を選び、缶ビールを一本買う。店を出て、自宅に向かってとぼとぼ歩く。街灯が少なくなり、カエルの声が大きくなる。この時間は嫌いじゃなかった。 前方に女性が歩いている。一定の距離を保ちながら、ストーカーに間違われないように気を使いつつ後ろを歩いた。女性のスピードはかなり遅く、酔っているのか右に左にふらふらしている。これは追い抜いた方がいいか。そう思ってスピードを上げ、近づいてみて、俺は目を疑った。 肩くらいの髪はボサボサ、服は泥だらけ。左足を引きずり、片方の靴は脱げたまま。どう見ても異様だった。声をかけた方がいいよな。俺は胃を引き締めて話しかけた。 「あの……」 その時だった。女性がふらっとしたかと思うと、真後ろに倒れてきた。 「ええっ、待って、待って!」 あまりの突然のことに驚きつつも、とっさにその肩を抱き止めた。目を閉じたままの彼女に焦り、口元に耳を当てる。かろうじて呼吸はしている。救急車!ポケットのスマホを取り出そうとしたが、片手ではうまく出せない。 「誰か!救急車を呼んでください!お願いします!」 大声で助けを求めた。すると道路沿いの民家の玄関の明かりが点き、パジャマ姿のおばさんが驚いた様子で出てきてくれた。 「まあまあ、彼女さん、酔っ払ってるの?」 「ち、違います!知らない女性なんです。僕の前を歩いてて、急に倒れて、意識もないみたいで!」 俺は焦りながら必死に説明した。おばさんは「とりあえず救急車ね。電話してくるわ」と言って家に戻った。どこかで見た顔だとは思ったが、思い出せない。おばさんは内輪を手に戻ってきて、俺と女性を交互に仰ぎながら言った。 「あなたも夜遅くに店に来て半額のお弁当を買っていくお兄さんよね?」 ああ、そうだ。このおばさんは、いつも行くスーパーのレジの人だ。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、おばさんが手を振って誘導してくれた。救急隊員がぐったりした女性に処置を施し、「お連れの方はこちらへ」と声をかけた。なぜかおばさんに背中を押され、俺は促されるまま救急車に乗り込んでしまった。 連れじゃないんだけどな。まあ、倒れた状況を説明できるのは俺しかいないしな。 病院で、待機していた看護師に彼女の身元を聞かれたが、当然知らない。知り合いじゃないことに気づいた救急隊員は驚いて謝ってきたが、あの状況なら仕方がない。命に別状はないと言われ、俺は胸を撫で下ろした。まだ意識はないが、左足を骨折しているらしい。警察から後日事情を聞かれるとのことだったので、連絡先を残してタクシーで帰宅した。 家に帰ってもドキドキしていた。シャワーを浴びて、弁当を温め直して食う。疲れた。ベッドに倒れ込んだその時、スマホが鳴った。番号は「0110」。警察だ。女性が倒れた時の状況を聞かれ、病院で説明したのと同じことを繰り返した。彼女とは面識がないこと、誰かも知らないことを強調すると、警察は「また後日連絡します」と言って電話を切った。 もう2時じゃん。眠いはずなのに興奮して寝つけない。翌朝、アラームで飛び起きた。いつもの通勤。昨日の出来事なんて、まるでなかったかのような朝だ。俺の中では大事件なのに、世間はいつもと変わらない。気を取り直して出社し、デスクに着いて仕事に取りかかった。集中していると、昨日のことなんて頭から消えていく。 一段落して休憩しようと席を立つと、部長がいない。課長もいない。珍しいな。急な会議か?自販機で缶コーヒーを買って戻ると、部長が戻ってきた。そしてなぜかまっすぐ俺を見据え、ズンズンと近づいてきた。立つと、部長は手を俺の両肩にポンと置いた。首だ、と思った。でも部長は満面の笑みだ。遅れてきた課長も同じく笑っている。 「すごいぞ、三原。よくやったな」 「何のことでしょう?」 「三原、お前、昨日薬師コーポレーションの社長の娘さんを助けたそうじゃないか」 頭の中から消えかけていた昨日の出来事が一瞬で蘇ってきた。あの女性が、薬師社長の娘?大口取引先の社長の娘? 「今日の午後2時に薬師社長がいらっしゃるんだ。うちの社長と会う予定だが、その時に三原君も同席してほしいとおっしゃっている。いいな。頼んだぞ」 そして午後2時少し前、俺は部長と共に社長室に向かった。中にはうちの社長と専務、そして奥様らしき女性が穏やかな笑顔で座っていた。俺が挨拶し終わらないうちに、薬師社長が立ち上がり、近寄ってきて俺の手を握りしめた。 「ありがとう。君が三原君か。娘を助けてくれて本当にありがとう」 深々と頭を下げられた。慌てている俺に、奥様も「私からもお礼を言うわ。あなたは娘の命の恩人です。本当にありがとう」と頭を下げた。どうしていいか分からず、すがるような目で部長を見ると、うちの社長が「まあまあ、とりあえず座ってください」と促し、なぜか部長を帰した。 社長室には、俺とうちの社長、薬師社長夫婦だけが残った。改めてソファーに座ると、うちの社長が小声で言った。 「美原君、ここからは社外秘ということで頼むよ。薬師社長のプライベートな話なものでね」 「そ、そんなお話を私になぜ?」 「いや、君だから聞いてほしいんだ。昨日の件で警察からまた君に連絡がいくと思うが、私から先に話しておいた方が話が早いと思ってね」 薬師社長が話し始めた。 「実は、うちの娘がストーカー被害に遭っているんだ。どうにかしたいんだが」 娘さんはミカさん。もうすぐ21歳になる大学3年生。都内の大学から自宅までは電車で1時間ほどかかる。学園祭の実行委員になってから帰りが遅くなる日が多くなり、注意していたという。昨日も待っても待っても帰ってこなくて、警察に電話しようかと話していたら、病院から連絡が来た。救急車で運ばれたと言うから、二人して慌てて病院に向かった。ぐったりと横になっている娘を見た時は、涙が止まらなかったらしい。 医者に「この状態で娘が自分で救急車を呼んだのか」と聞くと、若い男性が付き添ってきたと言う。看護師さんが助けてくれた人の名刺を見せてくれて、それがうちの会社の社員だと分かった。 「どうしても一言お礼が言いたくて、今朝すぐに電話したんだ。本当に良かった」 「というわけでね、三原君。薬師社長の娘さんの件から、色々と協力して差し上げてほしいんだ。僕が許可するよ。仕事としてな」 「仕事としてですか?でも今は営業主任として仕事を抱えていまして……それ以上は……」 すると社長はニコリと笑って内線をかけ、さっき帰した部長を呼び戻した。 「田中部長、しばらく三原君は社長付き秘書室長として働いてもらうことになった。営業主任として今三原君が担当している仕事は君でもできるだろう。君が引き継いでくれ」 「え?いや、でも私は三原君と違ってパソコン作業が苦手ですし……」 「とにかく田中部長も三原君もよろしく頼むよ。あ、三原君はとりあえず在宅でいいよ。出社は自由だ。君の行動の責任は全て私が持つからね」 部長はポカンと口を開けた。そりゃそうだ。俺だってわけが分からない。こうして俺は、なぜか社長付き秘書室長になった。俺の仕事は全て部長の肩にのしかかった。後で聞いた話だが、部長は俺が捌いていた仕事の量に驚き、俺を見る目が変わったらしい。 翌日から、秘書室長となった俺は暇を持て余した。秘書室長なんて、元々存在しない役職だ。当然仕事はない。薬師社長に言われた通り、空いた時間を利用して、ミカさんのお見舞いに病院に通うようになった。途中で買った花とフルーツを持って、緊張しながら病室に向かう。さすがは社長令嬢。病室は最上階の個室だった。 入口で立ち止まって考えていると、後ろから声がかかった。 「あら、もしかして、三原さん?来てくださったのね」 … Read more