その日、会議室で北岡部長が放った一言が、私の人生を根底からひっくり返した。「工場の稼働を一年前倒しにしろ。できなければ、他社に切り替える」。嘲るような笑み。中卒で現場一筋、最年少製造部長まで上り詰めた私を、彼はずっと見下し続けてきた。学歴への劣等感を私にぶつけ、陰口を広め、部下を引き抜き、ついに無理難題を押し付けてきたのだ。限界だった私は、震える声で契約破棄を告げた。守るべきは、この男の実績…
新工場ラインの納期を一年短縮しろ。できなければ、他社に発注を切り替える。大口取引先の部長は、嘲るような笑みを浮かべて無理難題を押し付けてきた。大口顧客に逆らうことはできない。しかし、その要求が現実的に不可能であることも事実だった。私は全責任を負い、子会社へ左遷された。ところが一年後、あの日私を嘲った顧客の部長が、目の前で泣きながら土下座をして頼み込んできたのだ。 私の名前は高田。三十歳。工場の生産ラインの設計から設置までを一手に担う設備メーカーで働いている。中卒で工場勤務に配属され、現場一筋でキャリアを積んできた。家が貧しく、高校に行かせてもらえなかったのだ。現場での成績を評価され、最近では最年少の製造部長に抜擢された。就任当初、周囲から祝福ばかりではなかった。「中卒が調子に乗るな」と陰口を叩く者もいたが、絶対に負けないという覚悟で働き続けた。やがて批判は収まり、部長としての立場は会社内で受け入れられるようになった。 社内では認められていても、社外には学歴を見下す人間もいる。取引先の北岡部長は、まさにその一人だった。「へえ、高田さんって中卒なんだ。よっぽど勉強ができなかったんだろうな。その履歴書じゃ出世も難しいんじゃないか」初めて北岡と顔を合わせたのは、七年ほど前の共同プロジェクトの立ち上げ祝いの席だった。当時私は係長で、挨拶回りをしていたところ、先方の課長だった北岡に話しかけられ、学歴を揶揄された。周囲は驚き、北岡をなだめようとした。特に当時の彼の上司は、繰り返し私に謝罪し、北岡を叱りつけた。だが北岡は懲りずに、今でも私を攻撃し続けている。「現場叩き上げの分際でいい気になるな」会うたびに嫌味を言われ、正直関わりたくないと思う。北岡の部下が、私が侮辱された飲み会の後に教えてくれたことがある。「北岡さんは一流大学を出たのに、新人の頃に現場で大きなミスをしたらしいんです。それで現場の者に『有名大学出ても実力ゼロだな』って笑われてしまって。だから高田さんに突っかかってくるんじゃないかって、みんな噂してますよ」事情は理解できたが、納得はできなかった。北岡の態度は、私が昇進するたびに悪化した。私の中卒で現場叩き上げという経歴が、彼自身のキャリアへの劣等感を刺激するのだろうか。「お前の会社は評価基準が低すぎるんじゃないか」「俺の会社にいたら、お前なんて平社員のまま一生終わってたな」彼は劣等感のこもった言葉で、執拗に追い詰めてきた。 私は彼と仕事をしたくなかったが、ある日、彼が巨大プロジェクトの責任者に任命された。彼の会社が新工場を建設することになり、我々はコンベアラインや特許制御システムを含む全生産設備の提供を任されたのだ。契約額は百億円を超える。当社の年間売上の約三割を占める、極めて重要なプロジェクトだった。納期は二年。設計から設置まで全てを請け負うことを考えると、決して余裕のある期間ではない。私はチームリーダーとして、プロジェクトの指揮を任された。「こういう大規模設備は特注品ですからね。主要部品の調達だけで八ヶ月はかかります」営業から渡された詳細な資料を見ながら、ため息が出た。「間に合うのか」もう二年の納期で受注してしまったのだ。変更はきかない。「工場には高温機器が入りますから、安全対策は完璧にしたい」「設計開発を進めるしかない」チームメンバーと協議を重ね、可能な限り詰め込んだ計画を立てた。完成した計画を手に、私は北岡の会社へ向かった。今日の打ち合わせは北岡と二人きりだ。すると北岡は、待ってましたとばかりに文句をつけてきた。「納期二年は長すぎる。短縮しろ」「え? 営業との打ち合わせでは二年で合意してたはずですが」「状況が変わったんだ。納期を短縮できれば、俺の実績になるんだよ。協力してくれよな」実績が欲しいのか、それとも嫌がらせか。おそらく後者だ。北岡の歪んだ顔を見て、そう思った。「これ以上短縮することは不可能です」そう断固として断ったところ、北岡は我々の会議の内容を歪めて報告した。「高田がお前に失礼な態度を取ったらしいな。『本社のリーダーが横柄でやりにくい』って言ってたぞ。取引先との関係を壊すな」このプロジェクトを取ってきた営業部長に叱られた。私は事実無根だと主張したが、大口顧客の部長の言葉の方が信頼された。私はいつしか、扱いにくい管理職という評判が立ってしまった。北岡はさらに追い詰めてきた。私の部署が担当していた別のプロジェクトを、『監視』という名目でストップさせたのだ。それは継続案件で、会社にとって重要な収入源だった。この案件が止まったことで、会社の売上予想は狂い始めた。私を見る目が、冷たくなっていくのを感じた。そして、大きな事件が起こった。工場の制御システムを開発していた技術者が、突然北岡の会社に引き抜かれたのだ。中核メンバーだったため、開発遅延は避けられない状況になった。彼は去る前に、周囲にこう言い残したらしい。「あっちの会社の方が待遇がいいんだよ。それに北岡さんが言ってたぞ。この会社で働いても出世できないってな」この出来事でチームには不安が広がった。計画は少しずつ遅れ始めた。そして、私は手の施しようがなくなっていた矢先、突然北岡に呼び出された。会議室に通され、信じられないことを告げられた。「工場の稼働を一年前倒しにしろ」「できなければ、他社に切り替える」嘲るような笑みを浮かべ、北岡は私を見下ろしていた。その時、私は度重なる困難で精神的にも肉体的にも限界に達していた。仕事は山積みで、ろくに眠れず、北岡の顔を見るだけで吐き気がした。だからだろうか。知らないうちに、言葉が口をついて出ていた。「そうですか。では、契約を破棄しましょう」「え?」「本気で言っているのか?」呆気に取られた北岡の顔を見て、私はようやく自分が言ったことを理解した。失言だった。だが、不思議と後悔の念はなかった。自分が守るべきなのは、この男の実績ではない。現場で懸命に働く同僚たちの命だ。冷えていく頭で、私は言葉を続けた。「一年前倒しは不可能です。納期は当初から限界まで詰めていました。部品調達にかかる物理的な時間を圧縮することもできませんし、安全検査や耐久試験を省くこともできません」「そんな検査は適当にやればいいだろう」彼は新工場の責任者のはずだ。工場のことを何も知らないのだろうか。「新工場には高温機器が入ります。稼働後に事故が起これば、被害は甚大です。現場の作業員の命に関わります。検査を省くことは、欠陥品を納入するのと同じです」「現場の人間のことなんかどうでもいいだろう。人件費を払えば、いくらでも代わりはいるんだから」耳を疑った。彼が過去に現場に見捨てられたことを知っている。だからといって、この軽口が許せるはずがない。「あなたとは仕事ができません。私は会社の信頼と、現場で働く人々の安全を守らなければならないので」「ふっ、そうか。ならば、出て行け」北岡は持っていたペンを机に投げつけた。会議室には他に誰もいなかった。北岡の暴挙を止められる者は、誰もいなかった。「失礼します」投げつけられたペンを避け、私は会議室を後にした。会社に戻ると、営業部長が私の部署に慌ててやってきた。「高田君! 勝手に契約を一方的に破棄したらしいじゃないか。どういうことだ」「あ、いや、これは…」説明しようとしたが、営業部長は聞く耳を持たなかった。「今すぐ上に報告する」彼は怒り心頭で立ち去った。そして、北岡が作り上げていた悪評が、最悪の形で私に降りかかった。私の言い分を聞く者はいなかった。結局、私は責任を取らされ、平社員に降格の上、子会社へ転属となった。後で聞いた話だが、契約解除は先方の一方的な要求変更によるものだったため、当社は実際には違約金を徴収できたという。なのに、罰を受けたのは私だった。 子会社の社長は、本社から出向してきた渡辺という男だった。だが、長年子会社にいたせいか、彼は本社から物理的にも精神的にも距離を置いているように見えた。「上の連中は頑固で古い考えの者ばかりだ。君のような優秀な若者が妬まれてるんだろうな。うちの子会社は本社ほど忙しくない。ゆっくりしていけばいい。ここで頑張っても、出世には繋がらないからな。まあ、君の才能がいつまでも埋もれているとは思わないが」渡辺は苦笑いを浮かべた。次々と降りかかる苦難に心身ともに疲れ果てていた私は、うまく返事ができず、ただ小さく頷くことしかできなかった。最初は転属にショックを受けたが、子会社は私にとって居心地の良い場所になった。時間はゆっくりと流れ、心身ともに癒えていった。気がつけば、転属してから半年が経っていた。そういえば、あのプロジェクトはどうなったんだろうか。契約が破棄されたことだけは、少なくとも分かっている。少し調べてみると、あの出来事の直後に、北岡は別の会社に開発を依頼していたことが分かった。その会社には、法定の安全試験期間を短縮しているという噂があった。無視できなかったので、私は本社の営業部に正式な警告文書を送った。だが、後に、左遷された男の妄言だと処理されたと聞いた。「高田君、昼飯でも行かないか」同じ部署で働く渡辺さんが声をかけてきた。社長なのに気さくで、社員ともよく絡む。こうして昼食に誘われることも、この子会社では珍しくない。「あ、はい。行きましょう」私は机から立ち上がり、渡辺さんの後を追った。昼食を食べながら、私はあの警告文書について相談した。「君はやるべきことをやったんだ。後は本社の判断だよ」そう言ってもらえて、少し気が楽になったのを覚えている。当時、こんな大きな出来事が起こるとは、思いもしなかった。 それから半年後。子会社に左遷されてから一年が経った。いつものように仕事をしていると、電話を受けた女性社員が声をかけてきた。「高田さん、お電話です」「誰からだ?」「お名前を名乗ってくださらないんです。高田さんに繋いでくれって、それでこっちが名前を聞くと怒鳴るんです」女性社員は困ったように眉をひそめた。変わった電話だ。社内で問題を起こした覚えはない。何かと思い当たる節もなく、首をかしげるばかりだった。「じゃあ、出よう」応答ボタンを押し、受話器を耳に当てると、私が口を開く前に相手が声を荒げた。「高田か! 俺だ、北岡だ!」「は? 北岡さん、なぜ電話を?」「本社に電話して、お前が子会社に左遷されたって知ったんだ」「あの、何の用ですか?」すると、北岡から驚くべき言葉が飛び出してきた。「新工場の試運転中に、高温機器でトラブルが発生したんだ」「なに…ですか? けが人は出てないんですか?」「けが人はいないが、そういう問題じゃない! 高温機器が止まって、工場全体が操業停止に追い込まれてるんだ」相変わらず現場の人間を軽視している。本当に吐き気がした。「試運転って言いましたけど、新工場は完成してるんですか?」「ああ、ライン設置は別の会社に頼んで、一年で納品してもらった。ところが、いざ稼働してみたらこうなったんだ」なぜ私に電話をかけてきたんだ。北岡は数秒間沈黙した後、涙声で続けた。「お前たちに途中まで頼んでた仕事があっただろ。俺は、壊れた高温システムを、せめてお前たちに作って欲しいんだ。頼む。他に頼める奴がいないんだ」話を聞いているうちに、トラブルの原因が見えてきた。高温機器は、温度制御の応答速度が全てだ。数百度に安定させるには、センサーの検知から冷暖房の切替まで、ミリ秒単位の自動制御が必要になる。その心臓部こそ、我々の特許制御システムなのだ。あの会社は、特許を回避するために、市販部品を使った安価なコピー品を作ったに違いない。標準部品を使えば、一年での納品も可能だ。しかし、急激な温度変化に対応できず、安全装置が誤作動して停止を繰り返している。つまり、この設備を安全に稼働させられる特許を持つのは、我が社だけだ。北岡が頭を下げて私に頼みに来るのは、当然の成り行きだった。「実は、北岡さんが依頼した会社のこと、知ってるんですよ。半年ほど前に、興味本位で調べてみました。法定の安全試験期間を短縮しているという噂がありましたからね。特許の回避に、試験の短縮に、検査の省略。トラブルは当然の帰結だったんじゃないですか?」さらに数秒の沈黙。「お前…それを半年前に知ってて、黙ってたのか?」「いいえ。本社の営業部に正式な警告文書を送りましたよ。ですが、あなたの根回しで俺の信用は地に落ちていましたからね。左遷された男の妄言だと、握りつぶされたそうですが」電話の向こうから、息を呑む音が聞こえた。「要するに、北岡さん。これは全部、あなたの自業自得です。俺に泣きつく前に、頼んだ会社と話をするのが先ではありませんか?」「あ、あの、担当者と連絡が取れなくて、事務所に行ってみたら、張り紙があって、潰れてたんだ」欠陥品を納品した後、責任逃れで倒産したか。「残念ですが、私には何もできません。さようなら」「ま、待ってくれ!」最後まで聞かずに電話を切り、着信拒否を設定した。 次の日の勤務中、渡辺さんが慌てた様子で駆け寄ってきた。「高田君、お客さんだ。北岡さんが来てる」急いで会議室に行くと、憔悴しきった北岡が座っていた。「なあ、頼むよ。もう一度、仕組みを作ってくれないか? 契約破棄になった時点で、ほとんど完成してたんだろ?」「もう解体されましたよ。設計図しか残ってません」「じゃあ、一から作り直してくれ。復旧できないと、俺が責任を取らされるんだ」必死の形相の北岡に、私はため息混じりに返した。「あなたに何をされたか、忘れたんですか? 自分の勝手な要求で契約を破棄した挙句、それを俺の一方的な判断だと本社に報告した。そのせいで、俺は平社員に降格させられた挙句、この支店に飛ばされたんだ。あなたに人生を台無しにされたんだぞ」北岡の目が大きく見開かれ、顔が真っ青になっていく。「そんなことになるとは思わなかったのか? その言い訳が通じると思ってるのか?」と私が言う前に、渡辺さんが口を開いた。彼の表情には、明らかな怒りが滲んでいた。「行動には結果が伴う。部長なら、そのくらい分かってるはずだ。それとも、あなたの会社は、自分の地位を使って取引先をいじめる人間こそが、あるべき管理職だと思っているのか?」私への扱いを代弁してくれる人間がいる。その喜びを隠すため、笑みを噛み殺し、私は厳しい表情のまま北岡に向き直った。「社長の言う通りだ。あなたは自分勝手な理由で俺を攻撃し続けてきた。そして、これがその結果だ。俺はあなたを助けない。『現場の人間のことはどうでもいい』と言ったあなたは、今、現場の人間に助けてもらえないんだ」「す、すみませんでした。なんでもします。土下座でもなんでも」土下座をしようとする北岡を、渡辺さんが即座に制した。「それは無意味だ。やめてください。万が一、大金を積まれても、高田君は君の依頼を断るだろう」北岡の顔は、青ざめるを通り越して、真っ白になった。「うっ」肩を落とし、うつむいたかと思うと、涙が膝の上に落ち、服を濡らしていった。一ヶ月後、北岡が責任を取らされ、僻地の子会社へ左遷され、生産現場に配属されたという噂が流れてきた。工場は今も稼働を停止したままだ。北岡に引き抜かれたあの技術者も、特許を持つ我々がいる限り、システムを再現できず、今は窓際に追いやられているらしい。先日、本社の営業部長が、わざわざ子会社まで足を運び、直接謝罪してきた。「警告文書を無視したことを、すみませんでした」もう遅いと思ったが、それだけでは終わらなかった。上層部の命令により、私の左遷処分は公式に取り消された。社内の記録上も、私の評価は回復された。さらに、降格がなかった場合に受け取っていたであろう部長時代の給与と賞与の差額も、後日支払われた。金の問題ではない。会社が間違いを認めてくれたこと。その事実が何よりも大きかった。業界は狭い。取引先を通じて、嫌でも耳に入ってくるのだが、どうやら北岡の妻はついに愛想を尽かし、離婚届を突きつけたらしい。渡辺さんが、蕎麦屋でその結果を教えてくれた。「自業自得だな」「高田君は本社に戻らなくていいのか?」元の役職に戻る打診はあったが、私はここに残ることを選んだ。「俺が落ち込んでいた時、励ましてくれたのは渡辺さんだった。俺は、チームを大事にする人と働きたいんです」「そうか。こちらこそ、よろしく頼む」渡辺さんが嬉しそうな表情を浮かべるのに、私は微笑み返した。