食卓に着こうとした瞬間、夫が「母さんは食べるな」と怒鳴った。テーブルを叩く音が響き、私の手に持った皿が震えた。「お前が食うと食費が嵩むんだよ」——28年間、パン屋で働き続け、息子の学費1520万円も住宅ローン3500万円も一人で払ってきた私に、その言葉は容赦なく突き刺さった。「火婦なんだから残パンでも食べてて」と嫁が笑い、息子も「俺たちの分が減るだろ」と続ける。私は黙って皿を下げ、キッチンで…
「いいから座るな。後で残ったパンでも食べてろ」 その言葉が耳に届いた瞬間、私の手が止まった。夫の高一が、まるで厄介者を追い払うような口調で放った一言だった。息子のり太と嫁のとみは、豪華な料理を前に楽しそうに笑い合っている。私はエプロン姿のまま、立って皿を洗い続けていた。 「お母さん、まだお皿終わらないんですか?」 とみの冷たい声が背中に突き刺さる。 「ああ、母さんはいいから。俺たちだけで食べるよ」 り太がそう言って、私の存在など最初からなかったかのように話を続けた。私は少しだけ勇気を振り絞って、小さな声で尋ねた。 「あの……、私も少しだけ座っても……」 その瞬間だった。高一が顔をしかめて、吐き捨てるように言った。 「母さんは後でいいだろう。残り物でも食べてればいい」 「そうですよ。お母さんは火婦なんだから」 とみが笑いながら付け加えた。その言葉を聞いた時、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。ああ、私はこの家では、もう家族ではないのだと。だが、その時の私は静かに微笑んでいた。 思い返せば、二十八年前。私は家族のために毎朝四時に起きて、パン屋で働き始めた。若かった頃の私は、夢と希望に満ちていた。息子のり太が生まれ、この子のためなら何でもできると心から思った。夫の高一は、自分の趣味にばかりお金を使う人だった。ゴルフ、車、飲み会。給料は全て自分のために使い、家族のことは二の次だった。だから、私が働いたのだ。り太の私立中学、高校、そして大学までの学費の総額は、千五百二十万円にもなった。全て、私がパン屋で稼いだお金だ。住宅ローンの三千五百万円も、私一人で返済した。高一は一円も出さなかった。それでも私は文句を言わなかった。家族のためだと信じていたからだ。 そして三年前、り太がとみと結婚した。最初は優しかったとみも、次第に私を軽く見るようになっていった。高一も、いつの間にかとみの味方をするようになっていた。帰省するたびに、私は火婦のように働かされた。朝五時に起きて朝食を作り、掃除をして、洗濯をして、昼食、夕食と、休む暇もない。家族は団欒を楽しみ、私はただ黙々と働き続ける。そんな日々が当たり前になっていた。 帰省初日の朝、私は五時に起きて朝食の準備を始めた。手作りのパン、ふわふわのオムレツ、彩り豊かなサラダ、温かい味噌汁。家族が喜ぶ顔を思い浮かべながら、一品一品丁寧に作っていく。七時になると家族が起きてきた。リビングのテーブルに次々と料理を運んでいく。 「お母さん、このパン冷めてますよ。ちゃんと温めてください」 とみの第一声はそんな言葉だった。温かいパンを出したつもりだったが、謝って作り直す。 「母さん、コーヒーが薄いよ。もう一回作って」 り太も不満な顔で言った。私は黙って頷き、キッチンに戻った。食後、家族はリビングでテレビを見ながらくつろいでいる。私は一人、後片付けだ。シンクに溜まった食器を洗いながら、疲れが体に染み込んでいくのを感じた。 昼前、私は皿を落としてしまった。「パリン」という音が静かなキッチンに響く。 「お母さん、大丈夫ですか?」 とみが近寄ってきたが、その目には心配ではなく、呆れたような光が宿っていた。 「もしやして、認知症とか始まってるんじゃないですか?最近物忘れも多いですよね」 胸に冷たいものが走った。 「確かにな。年だから仕方ないのかもしれないけど」 高一も簡単にそう言った。 「困ったなあ。ちゃんとした施設とか、そろそろ探さないとダメかもね」 り太までそんなことを言い出す。私はまだ何も、と反論しようとしても、誰も聞いてくれない。三人は、私の言葉など最初から興味がないように、別の話題へ移っていった。 夕方、私は昼食後の片付けと夕食の準備で疲れきっていた。リビングでは家族三人が楽しそうに団欒している。 「私のお母さんはね、まだ五十代なのに本当に若々しくて素敵なのよ」 とみが自慢げに言った。 「確かに母さんとは全然違うね。母さんは時代遅れって言うか、服装もダサいよね」 り太が笑いながら同意する。 「まあ、パン屋のおばさんだからなあ。仕方ないだろう」 高一も一緒になって笑っている。三人の笑い声が、まるで私を馬鹿にしているように聞こえた。台所で一人、涙が頬を伝う。だが、ここで泣いている姿を見せるわけにはいかない。 夕食の時間になった。私が作った料理をテーブルに運んでいく。すき焼き、刺身の盛り合わせ、天ぷら。今日は特別に豪華にしたつもりだった。 家族三人が席に着く。でも、私の席はない。 「あの……、私の席は……」 恐る恐る訪ねると、とみが不思議そうな顔をした。 「お母さんは立って配膳してくださいよ。火婦さんは座りませんよね」 火婦。その言葉が胸に突き刺さる。 「そうだよ、母さん。今は仕事中でしょう」 り太も当然のように言った。私は黙って立ったまま、料理を運び続ける。足が痛くなってきても、誰も気づいてくれない。 家族の食事が終わった。お皿にはほとんど何も残っていない。 「私も少しだけ……」 小さな声で言いかけると、とみが笑いながら言った。 「お母さん、太ってるんだから食べない方がいいですよ。健康のためです」 「そうだなあ。母さんの健康を考えてのことだ」 高一も同意した。私は無言で、空になった皿を下げていく。お腹が空いていたが、何も言えなかった。 深夜、全ての家事を終えた私は、一人キッチンに立っていた。冷蔵庫を開けると、食べるものはほとんど残っていない。納豆ご飯を作り、一人で食べる。静寂の中、自分の咀嚼音だけが響いていた。 なぜ、私だけがこんな扱いを受けなければならないのか。長年家族のために尽くしてきたのに、暗いキッチンで冷たい納豆ご飯を口に運びながら、私の心の中で何かが、少しずつ変わり始めていた。 二日目の朝、私は再び五時に起きた。前日よりも疲れが体に重くのしかかっている。肩が痛み、腰も重い。それでも家族のために、と体を動かした。今日は特別に、手作りのパンを焼いた。パン屋で二十八年間働いてきた私の得意な料理だ。ふわふわのオムレツ、彩り豊かなフルーツの盛り合わせ、栄養たっぷりのスムージー、愛情を込めて一つ一つ丁寧に作っていく。キッチンに立ちながら、ふと思った。こんなに頑張っているのに、感謝されることはあるのだろうかと。でもその考えを振り払うように、私は料理に集中していった 七時、家族が起きてきた。豪華な朝食を見て、少しは喜んでくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。三人がテーブルに着く。私は自分の分のお皿を持って、そっと席に座ろうとした。昨日は立ったままでしたが、今日こそは、一緒に食べたかったのだ。 「お母さん、何してるんですか?」 とみの冷たい声が朝の静けさを切り裂く。 私も朝から何も食べてないので、と言葉を続けようとした瞬間だった。 … Read more