「高橋様、当日キャンセルということでよろしいでしょうか?」
電話口の向こうで、ひなこの声が固くなっていた。俺は店の植え込みの影に身を隠しながら、姉の顔を思い浮かべる。あの厚かましい女が、また来たんだ。
「そうよ。85名全員キャンセル。だから何か問題でもあるの?」
「高橋様、前にもお伝えしましたが、当日キャンセルの場合は約300万円の代金を全額お支払いいただく取り決めでございます。これはご予約の際に何度もご説明させていただいたはずですが…」
「食べてもいないのに金なんて払うバカがいると思ってるわけ? おかしいんじゃないの?」
ひなこの声が震えていた。彼女はこれまで必死に店を育ててきた。美味しい料理を作り、スタッフをまとめ、夢だった創作レストランを軌道に乗せた。その努力を、あの女はまるで無価値だと言わんばかりに踏みにじっている。
俺は拳を握りしめた。
俺の名前は朝倉清。もう30代半ばになろうかというのに、結婚の気配すらない少し寂しい男だ。普段の俺は、ひなこよりも遅く出勤し、ひなこよりも早く家に帰ってくる。一応、ひなこには「俺だってちゃんと働いているんだ」と言っているが、よくニート呼ばわりされていた。
そんな俺の自慢の妹、ひなこは、大学時代に株で儲けたのをきっかけに、せっせと貯金をしながら株式投資に熱中してきた。その手腕は確かなもので、都市部から少し離れた場所に、夢だった和風創作レストランを無借金で立ち上げるほどの資金を作り上げたのだ。
ひなこの労働時間が長いことを考えて、俺は積極的に家事をこなしている。トイレや風呂の掃除はもちろん、洗濯、炊事も俺の担当だ。ひなこは店のオーナーとして日々忙しく働いている。閉店時間は午後10時30分。その後も、仕入れのチェック、売上金のカウント、従業員の明日のシフト確認など、オーナーならではの裏方作業が待っている。だから家に帰るのはいつも午前1時頃になる。
そんなある日のこと、ひなこが「ただいま!」といつもよりずっと元気な声で帰宅した。
「お帰り、ひなこ。随分嬉しそうだな」
「うん! 今日ね、たくさんの人に新メニューを褒めてもらえたの」
「すごいじゃないか。良かったな」
俺は心からそう思った。ひなこの店には、一流レストランで修行を積んだシェフが3人いると聞いている。新メニューを考案するのもその3人だ。といっても、彼らの独断で決まるわけではない。何度も試作を重ね、店の全従業員が満場一致で褒めた作品だけを新メニューとして採用するという、徹底したこだわりを持っている。その努力が実を結んでいるのだ。
俺は作っておいた夕食をレンジや鍋で温め始めた。するとひなこが言った。
「ねえ、お兄ちゃん。今度、私の店に来てみない? せっかくオーナーなんだから、一度くらい家族に見てもらいたいの」
「俺が行くのか? 高そうだしな…」
「大丈夫だよ! 特別にサービスするから」
こうして、数日後。俺はひなこに誘われて、彼女の店「日屋(ひや)」に行くことになった。とはいっても、一人では入りにくい。今日は頼りになる助っ人を呼んでおいた。今、俺の隣に立っている男だ。
「ここが妹さんのレストランですか? 結構大きいですね」
俺が呼んだ日高は、いわゆる俺の右腕だ。頭の回転が驚くほど速く、空気を読むのがうまい。そして、どんな時でも冷静さを失わない。
「分かっているな。くれぐれも俺の立場として振る舞ってくれ」
「承知しています。俺は朝倉さんの大学時代の後輩ということでいいですね」
俺と日高が日屋の暖簾をくぐると、店内で何やら揉めていることに気がついた。高い声でまくし立てる女性の声が聞こえてくる。俺は日高と共に、ドアの外から内側の様子を覗いてみることにした。
「だから! 今週末に85人分の和風創作フレンチをフルコースでお願いしたいの! 何度言えば分かるわけ?」
俺はそっとガラス張りのドアの内側を覗き見た。声の主はこちらに背を向けていて表情は見えないが、揉め事の原因は彼女だと見て間違いないだろう。
「お客様、当店で着席できるのは70名までとなっております。85名となりますと、お席をご用意できかねます」
ひなこの困りきった声がドア越しに聞こえてくる。
「無理でもなんとかしなさいよ! こっちは金を払って、ここの料理を食べてあげるのよ!」
なんと高飛車な女だろう。俺は思わず顔をしかめた。
「高橋様、立食形式のパーティーとなさるのはいかがですか? それでしたらなんとか収まりきると思います。当店からも特別料金でご用意させていただきますが…」
「はあ? なんて融通の聞かない店なの? こっちは和風創作フレンチのフルコースって言ってんのよ! あんたちゃんと話聞いてた?」
言わせておけば言いたい放題ではないか。俺が怒りに任せてドアに手をかけたところで、日高に肩をきつく掴まれた。
「気持ちは分かりますが、ここは冷静に」
「お前にあの女を止める術でもあるのか?」
日高は、一切動じることなく言った。
「へえ、今のところは何もありません。ですが、我々はこの騒動が終わってから入店するのがいいかと思います。今、奴らの中に入れば、火に油を注ぐだけです」
まあ、確かに。店内が険悪な雰囲気なのを考えると、むやみに店に入るより、ここで成り行きを見守っていた方が良さそうだ。俺は頷いた。
「お客様、大変申し訳ございません。立食がお気に召さないようでしたら、他のお店を当たっていただくしか…」
「…じゃあ立食でいいわ。一人いくらの計算になるの? 当然、割引してくれるんでしょうね」
ちなみにこの女性客、かなり大声で話しているので、店内で食事を楽しむ他の客の注目を一心に集めていた。彼女の厚かましさに呆れつつも、ひなこがどうやってこの場を収めるのか、俺も固唾を飲んで見守っていた。
「当店のフルコースですと、お一人様4万円ですが…こちらの事情で立食にしていただきますので、3万5千円でご提供させていただきます」
「随分としょぼい値引きだけど、まあいいわ。それで、結局85人分でいくらなの?」
ひなこはレジから電卓を取り出すと、素早く数字を叩いて見せた。
「297万5千円になりますね」
「分かったわ。当日払えばいいのね」
ひなこはそれから、キャンセル料についても丁寧に説明した。特に、当日キャンセルすると297万5千円の全額を支払ってもらう約束について、何度も繰り返し強調して説明している。
「もううるさいわね! 当日キャンセルが全額負担だってことは理解したわよ。その代わり、当日まずい料理を出したら承知しないから。お金だって払わないわよ」
「お客様、ご安心ください。当日は当店のシェフを総動員して全力でおもてなしさせていただきます」
一日の売上が300万に届きそうな数字とは、すごいものだ。俺は純粋にそう思った。だが同時に、あの女の言動が引っかかっていた。
そして、店内に騒ぎ立てていた女が店から出てきた。体にぴったりフィットするグレーのスーツを着ており、化粧の方はあまりの厚さに、元の顔の想像がつかないほどだ。彼女は不機嫌そうな顔で、スタスタと歩き去っていった。
俺は日高に目配せをして合図を送ると、日高は「承知した」とばかりに頷き、立ち上がって女の後を追った。
俺はそれを見送ると、日屋に入ることなく家に帰った。それにしても、あの女は一体何だったのだろう。ひなこを困らせて楽しんでいるように見えたのは、俺だけだろうか。あの、いやに作り込まれた厚化粧の女。何か裏がありそうで、どうしても嫌な予感が拭い去れなかった。
そして、あの厚化粧の女の予約日を迎えた。俺はといえば、どうしても嫌な予感がして仕方がなく、店に出向いて様子を見ようと支度を始めた。その時、俺のスマホが着信音を鳴らした。
「ターゲットに動きがありました。レストランへ向かうようです」
日高からだ。淡々とした口調で告げると、俺は腕時計に目を落とした。時刻は午前9時30分に差しかかったところだ。日高があの女を尾行して突き止めた住まいからなら、予約時間に十分間に合う計算だ。
やはり俺の思い過ごしだったのか。そう思って支度の手を止めていると、再び日高から電話が入った。
「女が電車に乗りました。ですが…店とは逆方向への電車です」
電話の向こうの日高が、珍しく熱くなっている。店と逆方向に電車で移動するなんて、予約時間に間に合うはずがない。もしや、あの女はまた何かを企んでいるのか? 俺の嫌な予感は的中した。
「お前は引き続き女を尾行しろ。そして車を手配しろ。妹の店へ回せ」
俺は指示を出すと、すぐに髪をセットし始めた。普段はボサボサの髪だが、いつも仕事に行く前はきっちりと整えている。オールバックにはせず、後ろに流しているといった感じだ。スーツも、割と地味なものを選んでみた。俺は最後にスマホを胸ポケットへしまうと、家を出て、ひなこの店へと足早に向かうのだった。
その頃、店ではひなこが受話器を握り、愕然とした表情を浮かべていた。
「え、高橋様、キャンセルってございますか?」
「そうよ。85名全員キャンセル」
「高橋様、前にもお伝えしましたが、当日キャンセルの場合は約300万円の代金を全額をお支払いいただきたいのですが…」
「食べてもいないのに金なんて払うバカがいると思ってるわけ? ふざけんなよ」
「そういうお約束でご予約をお受けしております。ですから、当日キャンセルの場合も…」
「あ、そ。じゃあ取り立てに来ればいいじゃない。住所を探して来なさいよ。まあ、来たくても来られないと思うけどね。じゃあね」
そこで電話が切れると、ひなこはその場に崩れ落ちた。
「どうしよう…。キャンセルになった挙げ句、キャンセル料が取れない…」
スタッフも、厨房から出てきたシェフたちも、何も言葉がなく、ただひなこを見て立ち尽くすばかりだ。
そんな沈黙の空気の中、俺は日屋の店内に入り込み、ひなこの腕を掴んだ。スタッフたちが俺の乱入に驚きの声をあげるが、今は無視することにする。
「お兄ちゃん!? ちょっと、何して…」
いつもと全く違う兄の姿に驚くひなこ。だが、俺は構わず腕を掴んで外へと引きずり出した。
「お兄ちゃん、ちょっと待って! 一体どこに連れて行くつもり?」
「お前、今日、取り立てられたキャンセル料を取り立てずに終わるつもりか?」
「だって、相手がどこに住んでいるのか、今どこにいるのか、何もわからないんだよ! どうやって取り立てるの?」
言い合っていると、一台の黒塗りのセダンが目の前に止まり、黒スーツ姿の二人の男が降りてきた。そして俺とひなこに向かって、深く頭を下げた。
「お迎えに上がりました。そちらのお嬢さんと一緒に、早くお乗りください」
俺は「ご苦労だったな」と彼らに頷くと、わけがわからないという表情のひなこを後部座席に押し込み、自分も隣に乗り込んでドアを閉めた。それが合図だったかのように、車が発進した。
ひなこは焦って、何がどうなっているのかを俺に問い詰めてくる。
「ちょっと、お兄ちゃん! 何なの?! あの人たち誰!? どこに行くの!?」
「黙ってろ」
俺が短く言うと、彼女は黙った。ついでに、車の運転手と助手席に座っていた二人の男も、驚いたように触れ上がっていた。
行きついた場所は、緑に囲まれた高級フレンチレストランだった。ドアには「本日貸切り」の札が下がっている。俺が「ふざけた真似をするものだ」と思いながら、そのレストランを睨みつけていると、日高が足早にやってきた。
「若頭、高橋はここで今日、結婚式を挙げる予定です」
「そうか。それはめでたい日だな。俺たちも全員で祝わないと罰が当たるってもんだ」
そこで、ひなこが恐る恐る日高へと問いかける。
「初めまして。私、朝倉ひなこと言います。兄がいつもお世話になっております…。それで、あの…“若頭”って何ですか?」
日高は一瞬間を置き、穏やかな声で言った。
「それは、俺たちの力では何とも。全ては若頭の決めることですので、どうかそのように」
ひなこは分かっているのかいないのか、困ったような表情を浮かべた。俺たちはこの場に全くそぐわない空気を醸し出しており、他の客の視線を集めつつあった。
「ひなこ、行くぞ。日高もついてこい」
「お兄ちゃん、何をする気なの?」
「決まってんだろ。キャンセル料を取るんだ」
俺は店内に入り込むと、受付を全く無視して、店内の一番奥で純白のワンピースをまとった高橋葉 meets を視界に入れた。どうやら、挙式前に親族と歓談しているらしい。彼女は俺の姿を見るなり、みるみる顔色を変えた。
「げえっ…!? なんであんたがこんなところにいるのよ! そうまでしてキャンセル料が欲しいわけ?」
「欲しいわけじゃない。支払うべきものを支払ってもらいに来たんだ」
二人がまさに言い合いをしようとした、その時。なほの背後から、光沢のある黒スーツに身を包んだ男性が姿を現した。
「初めまして。君島と申します。私の妻に何かご用ですか?」
君島と名乗った男は、なほの肩に手を置くと、舐めるようにねっとりと俺を見つめてきた。俺は怯まずに言い放った。
「こちらの朝倉ひなこが経営する『日屋』という店のキャンセル料297万5千円と、慰謝料300万円の合計597万5千円。耳を揃えてきっちり返してもらいに来た」
君島は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに平静を取り戻し、なほに問いかけた。
「なほ、君はこの方の店を予約していたのか?」
「してないわよ! お金欲しさに嫌がらせに来ただけよ! さっさと警察に通報して追い出しましょう!」
なほがヒステリックに叫ぶ。すると、日高が懐から高性能のボイスレコーダーを取り出し、再生を押した。駅のホームで録音していたらしく、電車到着のアナウンスまで録音されているが、なほの声も、電話の向こうのひなこの声も、しっかりと録音されていた。
『そうよ。85名全員キャンセル。食べてもいないのに金なんて払うバカがいると思ってるわけ?』
『当日キャンセルの場合は、約300万円の代金を全額お支払いいただきたいのですが…。そういうお約束でご予約をお受けしております』
『あ、そ。じゃあ取り立てに来ればいいじゃない。住所を探して来なさいよ』
「何よこれ! 知らないわ! こんなの偽装よ! なんてことをするの?! 盗聴?! 違法よ!!」
なほは顔を真っ赤にして否定した。だが、ひなこは静かに言った。
「でも、あなたは確かに今日、私のお店に予約を入れました。どうしてそんなことをしたんですか? こんなに素敵なお店で式をあげる予定があったなら、私の店に迷惑をかけなくても良かったんじゃないですか?」
君島はなほに縋り付かれ、かなり困惑しているように見えた。突然のことで、彼も戸惑っているのだろう。
「ほら、何があったのか言ってごらん。怒らないから、本当のことを言うんだ」
すると、なほは上ずった声で、自分を正当化しようとした。
「…あの女が許せないのよ!! あんなに若くて、大きいお店のオーナーなんてさ! 私なんて、向かいの雑居ビルのお茶汲み派遣なのに! 何様って感じだったのよ!! 気に食わなかったのよ!!」
言い終えたかと思えば、今度はわんわんと泣きじゃくる。一体何なんだ、この女は。そんななほに、君島は努めて優しく問いかける。どうしてこんなことをしたのか、どうして嫌がらせなんてしたのかと。一方のなほは、「君島なら絶対に自分の味方をしてくれると思っていたのに、どうしてそんなことを聞くのか」と、新たな涙をこぼすばかりだ。
すると君島は、目をそらして、ふっと視線をこちらに向けた。そして、深く頭を下げてきた。
「…事情は分かりました。キャンセル料と慰謝料、きっちりお支払いしますので、少しお待ちいただけますか?」
なほは信じられないといった面持ちで、どこかへ行こうとする君島の後を追いかける。君島は、どうやら受付で結婚式の祝儀を賄うつもりらしい。入り口で受付をしている女性2人から祝儀の入った箱を奪うと、入り口に背を向けて、金を取り出し始めた。
「あなた、どうして…どうして私の味方をしてくれないの?」
「なほ、今は自分のしたことをちゃんと反省するべきだよ」
正直なところ、俺にもひなこにも、そして日高にも、君島が何を考えているのかさっぱり分からなかった。どちらかといえば、なほの方を擁護してすごんでくるのではと思っていたので、この展開に少々戸惑ってもいる。
しばらく待ったところで、君島がなほを連れて戻ってきた。そして、ひなこに向かって、札束を差し出してきた。
「キャンセル料の半分にもなりませんが、とりあえずこれを。残りは平日にお金を下ろして、必ずお店にお持ちしますので」
ひなこも狐に摘まれたような顔で、差し出された剥き出しの札束を受け取った。
「今日のところはこれで勘弁してください。若頭」
俺はそう呼ばれて、初めて君島の顔をじっくりと見つめた。そういえば先日、組長から新しい組員が入ったと知らせを受けた。決して若くはないが、なかなか骨のある奴だと褒めていた。その新人の苗字が、確か…。
「若頭、お知り合いで?」
「ああ、うちの新入りだ。なら、この件で逃げることはないな。そうだな」
「はい、もちろんです」
そこで、今度こそ、なほが顔を真っ赤にして叫び出した。カッコつけてスーツを着ている旦那に向かって、彼女の言葉は怒りと絶望で震えていた。
「な、何なのよ、あなたは!! 最近会社を辞めて新しい人生に踏み出したって言ってたのって、こいつらの仲間になったってことなの?! 嘘でしょ!?」
「すまないな。なほ、今夜話すつもりだった。君の反応を見て、入籍するかどうか決めようと思っていた」
「あなた入籍したって言っていたじゃない! あれ、嘘だったの?!」
なほが愕然として問い詰めると、君島は静かに首を縦に振った。同時に、なほの奇声がレストランに響き渡った。
それから数日後。君島が金を持って、ひなこの店を訪れた。ちょうど俺がカウンターでコーヒーをご馳走になっていた時のことだ。君島は俺を見るなり、深く一礼してきた。
「若頭、こんにちは。先日の結婚式、あれからどうなったんですか?」
「へえ、なほが泣き叫んで大変だったよ。それから式は取りやめ、入籍もしていない」
俺はその話を、ひなこより前に君島本人から聞いて知っていた。ただ、君島がひなこには自分から事実を話したいと言っていたので、俺からは何も話さなかった。
「それって、兄がお邪魔してしまったからですよね。なんかすみません…」
「いえ、実はこのお金、私がなほに貸しているんです。だから彼女が働いて返している間は、他の男性と付き合う余裕なんてないでしょうね」
俺は二人の話を聞きながら、窓の外にぼんやりと目をやった。訳あって、ひなこには内緒で彼女の店の近くで張り込みをすることもある。視線の先には、あの雑居ビルがあった。結婚に失敗したあの日から、なほの生活は変わった。
これまでは午前9時から午後5時まで、書類整理やコピー取りをしているだけで生計を立てていたが、君島との結婚が破談となり、挙げ句の果てに600万近い金を君島に借りてしまったため、昼間の稼ぎだけでは食べていけなくなったのである。今や彼女は、昼間の仕事を終えると、夜の仕事へと向かう。
「それもこれも、みんなあの女のせいよ! 見てなさいよ! いつか私があの女を超えて見返してやるんだから!」
昼間の仕事を終え、夜の仕事へと向かう間も、なほのストレスは溜まるばかりだ。
「ああ、むかつく。どうして私が夜の仕事なんてしないといけないのかしら…」
ブツブツと愚痴を零しながら歩くなほの背中は、すっかり丸まっていた。
俺はといえば、ひなこのために一肌脱いだあの日から、山岡組の若頭として君臨していることが露見し、姉弟仲が危うくなった。だが、俺が説明に説明を重ねた結果、俺の今の仕事について納得してもらえた。そして、俺の仕事を認める代わりにと言って、一つだけ条件を突きつけてきた。
「お兄ちゃんは不細工じゃないんだから、家にいる時も身だしなみをきちんとしなさいよ。これが私からの条件よ」
ピシャリと言われてしまった。家にいる時くらい、だらしなくさせてくれようと思ったが、俺の仕事を認めるというのだから、まあそのくらいの条件は飲んでいいだろう。
顔を洗って部屋に戻ると、俺のスマホが鳴っていた。何事かと急いで電話を取ると、日高からだ。
「若頭、ひなこ様のレストランで騒動が起きました。すぐに来てください」
「…すぐ行く。ああ、正しく過ぎる日々の中で、俺は山岡組の若頭として、ひなこに内緒で今日も店を見守っていこうと心に誓う。妹が笑顔でいられる限り、俺はこの組の頭として、彼女の日常を守り続ける。それが、兄としての俺の役目なのだから」


