親衛隊の同期と一緒に、憧れの先輩の悪い噂を聞いた夜、俺は泣き崩れる彼女に「俺と付き合いませんか?」と冗談で言った。すると彼女は「本当に好きになったのに…」と涙を見せる。彼女の家には、体の不自由なお母さんがいて、介護を支える覚悟を試されていた。必死に「全部任せてほしい」と伝えた翌日、かつて彼女を振ったエリート先輩が現れて、俺にこう言い放った。「マリ子を譲ってくれないか?…

親衛隊の同期と一緒に、憧れの先輩の悪い噂を聞いた夜、俺は泣き崩れる彼女に「俺と付き合いませんか?」と冗談で言った。すると彼女は「本当に好きになったのに…」と涙を見せる。彼女の家には、体の不自由なお母さんがいて、介護を支える覚悟を試されていた。必死に「全部任せてほしい」と伝えた翌日、かつて彼女を振ったエリート先輩が現れて、俺にこう言い放った。「マリ子を譲ってくれないか?...

「マリ子を譲ってくれないか?」

尊敬する吉岡先輩からの突然の爆弾発言に、俺は言葉を失った。頭の中が真っ白になる。何を言われたのか、一瞬理解が追いつかなかった。まり子さんはものじゃありません。俺がそう言い返すと、吉岡さんは苦い顔をした。まさか彼にこんな言葉をぶつける日が来るとは思わなかった。

俺は自分の拳を見つめる。握りしめた手のひらに爪が食い込む。まり子さんはたとえ力づくでも渡さない。そう心に誓った。

俺の名前は枠井。27歳。建設会社の経理部で働いている。同じフロアにある第一営業部はいつも慌ただしく、人々が行き交う中で自然と目が引き寄せられる人がいた。山下まり子先輩。バリバリのキャリアウーマンで、俺よりたった三つしか年が違わないのに、すでに主任から課長補佐へ昇進。それも車内初のスピード出世だと話題になっていた。しかも美人でスタイルも抜群。最強という他ない。

「はあ、今日もまり子先輩は綺麗だな。営業の男たちみんな彼女に惚れてるよな」

向かいの席の同期、星川が彼女の後ろ姿に見とれながら言った。星川はまり子先輩のファンを公言し、親衛隊を自称しているが、相手にされていない。冗談扱いされているようだった。

「どうだろうな。俺らは部が違うから憧れるけど、同じ営業部だと嫉妬の対象かもしれないぞ」

ポンと膝を打ち、星川が言う。

「確かに。課長補佐の座を狙ってた連中からしたら、先越されたわけだしな。優秀すぎて逆に敵も多いのか。ってことは意外と競争率低いんじゃないか?」

その言葉に俺は笑ってしまった。

「気持ちは分かるけど、車内全体で見たらまり子先輩の人気はダントツだよ」

「ああ、やっぱそうか。しかも絶対彼氏いるよな。いないわけないよな」

自分で言ってしょんぼりする星川に、俺は無言で頷いた。気持ちはよくわかる。俺だって彼女には憧れていたから。

ある日、彼女の経理担当が休んだため、俺が代わりに伝票を預かることになった。領収書は見やすく整理されていて、しかも提出が早い。まずその丁寧さに驚かされた。営業部が忙しいのは理解しているが、伝票を期限ギリギリで出してくる人が多く、経理部はいつもバタついていた。さらには「忘れてた」なんて言って後から領収書を追加してくるものもいて、本当に厄介だった。そんな中、まり子先輩の処理スピードは別格だった。部内では彼女の提出が最速だと密かに賞賛されていた。

「お金関係はね、さっと済ませないと気が済まないたちなの」

彼女は何でもないことのように笑っていった。だが、それができない人の方が多い。営業部はみんな忙しいはずなのに。まり子先輩の仕事ぶりは本当に気持ちがいい。話すたびに憧れの気持ちは強くなっていった。

そんな彼女についての衝撃的なニュースを聞いたのは、経理部の飲み会の席だった。なんとあのまり子先輩には恋人がいないらしい。

「え、マジっすか?」

星川が経理部の王野先輩の言葉に食いつく。あれだけ綺麗で仕事もできるのになぜか全然持てないという。それはさすがに信じられない。酔った星川はテーブルをバンと叩いた。

「いや、星川、これはむしろチャンスなんじゃないか」

赤い目で首を振る星川。

「モテないまり子先輩を攻略するっていうシチュエーションが燃えるんだけどな」

熱く語り出したが、ついていけなくなってしまった。それに、仮にまり子先輩が持てなかったとしても、星川と付き合うかどうかは別の話だ。

ちょっとトイレに席を立ち、男子トイレへ向かう。そこで偶然、経理部の王野先輩たちの話が耳に入った。

「星川たち、山下の本当の姿を知らないんだな」

星川とまり子先輩の名前に、耳がぴくりと動いた。先輩たちは俺に気づかず話し続ける。

「山下は専務と交際して課長補佐にまで登り詰めたのに」

衝撃だった。思わず目の前が真っ暗になる。嘘だ。

ようやく俺がトイレに来たことに気づいたのか、先輩たちはそそくさと出ていった。口止めされなかったということは、つまりそういうことなのだろう。いつも輝いているまり子先輩が、六十歳近い専務と交際。親子ほど年が離れているのに。信じられなかった。

暗い顔でトイレから戻ると、星川は悪酔いしていた。

「なんだか今日は調子悪いからもう帰るわ」

それに合わせて俺も席を立つことにした。星川を駅まで送ると言い残し、先輩たちに別れを告げる。噂話を聞かれた王野先輩は星川を心配そうに見ていたが、特に何も言わなかった。

「うえ、気持ち悪い。枠、送ってくれてありがとな」

星川に肩を貸して駅まで歩く。さっきの話を伝えるべきか迷っていると、彼の様子が変わった。

「実はさ、お前がトイレ行ってる間にさ、俺も噂話を聞かされたんだ。俺ショックだよ。まさかまり子先輩が専務と付き合ってたなんて。それで出世したとかさ、信じたくないよ。うわ、明日会社行きたくねえ」

まるで子供のようにめそめそし始めた。

「いや、それはただの噂だろう。信じたら彼女がかわいそうだよ。お前、まり子先輩の親衛隊だったじゃないか。もしこの中傷に彼女が苦しんでるとしたらどうするんだよ」

赤くなった目で星川は俺をじろりと睨む。

「今はショックで何も考えられない。失恋の悲しみを癒すためにさ、はしご酒付き合ってくれない?」

「いや、今日はもう帰った方がいいって」

不満顔の星川と駅で別れた。俺もまた、気持ちが乱れていた。絶対に信じたくなかった。まり子先輩がそんなことをするなんて。その夜は眠れず、布団の中で何度も考えた。彼女は本当に仕事ができる。遅くまで残業している姿も何度も見てきた。あんな噂はきっと誰かの嫉妬だ。そう信じたかった。

噂を知ってか知らずか、まり子先輩は翌朝も一部の隙もない姿で出勤してきた。そしていつも通りバリバリ働く。その姿を見つめる俺と星川の心境は複雑だった。

「一晩考えたけど、俺やっぱり受け止めきれない」

青い顔でつぶやく星川に、俺はポンと背中を叩いた。

「今日は最後まで付き合うよ」

「それよりさ、可愛い女の子紹介してくれよ」

苦笑いがこぼれる。

「いや、むしろ俺の方が紹介してほしいよ」

「だよな」

二人で寂しく笑い合った。星川の気持ちは分かる。この男社会であれほど堂々と働く彼女に憧れずにいられるはずがない。心が揺れるのも当然だ。でも、あんなに真摯に仕事をする彼女が、後ろめたいことなんてするだろうか。俺はまり子先輩を信じている。ただ、この思いがこれから次々と試されていくとは、この時の俺にはまだ想像もついていなかった。

数日後、車内はあるニュースで沸いていた。ニューヨーク支店で活躍していた吉岡さんが本社に戻ってくるというのだ。帰国子女でエリート中のエリート。イケメンでスポーツ万能、性格も申し分なく、まるで奇跡みたいな人だった。俺が新人だった頃、吉岡さんは教育係を務めるグループの一員だった。とても面倒を見てくれて、なぜか俺のことを気に入ってくれた。異動後も会うたびに親しく接してくれた。

「みんな、久しぶり」

真っ白な歯を見せて、お土産の紙袋をいくつもデスクに置く。

「ニューヨークの土産だよ。経理のみんなもどうぞ。俺の可愛い後輩、枠がいつもお世話になってます」

その嫌味のない笑顔に、自然と人が集まってくる。ニューヨークでの話を求められても、自慢にならないように面白おかしく語る。笑いが起こり、俺も改めてこの人はすごいと思わずにいられなかった。

ところが、間もなく次の衝撃が訪れる。吉岡さんの人気ぶりを眺めていた俺の視界に、外回りから戻ってきたまり子先輩の姿が入る。賑やかな人の輪に引かれたようで、こちらへ歩いてきた。

「楽しそうね」

その瞬間、吉岡さんが顔を上げる。彼女と視線が交差し、二人はそのまま目を離さなかった。まるで見とれているように、異様に長い沈黙だった。嫌な予感が胸をよぎる。

やがてその沈黙を破ったのは部長だった。吉岡さんを呼びに来たのだ。はっと我に返った吉岡さんは笑顔を浮かべて部長に付き添っていった。周りの人たちはひそひそと噂話を始めるけれど、まり子先輩はきりっとした顔で仕事に戻った。きっと吉岡さんが彼女に見とれただけ。まり子先輩は違う。彼を好きになったりしていない。でありますように。自分にそう言い聞かせた。

昼休み、吉岡さんが俺を呼び、耳打ちしてくる。

「さっきの女性、誰だい?」

落ち着いて答える。

「山下課長補佐です」

「それはすごい」

外国人みたいに肩をすくめ、両手を広げる吉岡さん。

「俺がニューヨークにいる間に色々変わったんだね」

確か、まり子先輩が横浜支社から本社に来たのは三年前。吉岡さんとはすれ違いだったのだろう。

「実に素敵な人だ。食事に誘ったら迷惑かな?」

返答に迷った。まり子先輩の悪い噂を吉岡さんに話すなんて絶対に嫌だ。だが、後で「知ってたなら教えてよ」と言われるのも困る。いや、それは建前だ。本音は一つ。吉岡さんに彼女を奪われたくない。

「うーん、分かりません。俺は彼女の経理担当ではないので」

声がわずかに震えていた。吉岡さんに気づかれなければいい。そう願った。

「オッケー。わかった。ありがとう」

きっと吉岡さんは彼女を食事に誘うだろう。まり子先輩が断ってくれればいい。いや、もし応じたら。専務との噂が本当だと分かってしまうのか。ああ、モヤモヤする。俺はただ憧れの気持ちを胸に彼女を見ているだけなのか。そう思うと頭を抱えたくなった。

そして翌日、不思議な変化が起きた。まり子先輩についての悪い噂が、突然ぱったりとやんだのだ。どうやら誰かが吉岡さんに例の噂を吹き込んだらしい。だが吉岡さんは毅然と相手を諭したという。

「事実を確かめていないのに、そういうことを言ってはいけない」

さらに驚いたことに、彼は専務秘書の元へ行って噂の真偽を確かめようとしたという。

「さすがに専務本人には聞けなかったけど、秘書は僕の同期だったからね。差し支えない範囲で教えてもらったよ」

後日、吉岡さんはそんなことを何でもないように話してくれた。

「専務は既婚者なんだ。噂で言われていた、山下さんと飲みに行っていたという件も、スケジュールを確認してもらったら毎回まっすぐ帰宅していた。だから僕は言ったんだ。これ以上彼女を侮辱するなら、僕が受けて立つってね」

そう語る吉岡さんは、いつものように爽やかに笑っていた。ああ、本当に敵わないと思った。このエピソードはすぐに車内に広まり、特に女性社員の間で話題になった。

「なんて立派な人なの。好きな人のために噂を晴らすなんて、素敵すぎる」

そんな声があちこちで上がり、吉岡さんの株はうなぎのぼりだった。一方のまり子先輩は、そんな噂があったことすら知らなかったらしい。真実を知った彼女は吉岡さんにお礼を伝えた。そして二人の距離はまた一歩近づいた。

「というわけで、今夜、山下さんと食事なんだ。楽しみだよ」

尊敬してやまない吉岡さんとまり子先輩。こんな日が来るかもとは思っていたが、あまりに早すぎる展開に気持ちが追いつかない。専務との話は完全なデマだった。信じていた通りだったのに。それでも彼女がどこか遠くへ行ってしまうような気がして、胸がざわつく。思わず星川に訪ねた。

「星川、いいのか? このままだとあの二人、付き合っちゃうぞ」

星川はすでに別の女性に興味があると、気にも止めずに言った。拍子抜けする俺。

「あんなにまり子先輩、まり子先輩って騒いでいたのに、お前の気持ちってその程度だったのか?」

いや、違う。これは八つ当たりだ。彼女と吉岡さんの距離が近づいていくのが、ただ面白くなかっただけだ。車内ではいつ二人が付き合い始めるのかと話題騒然。専務の噂は完全に消え、障害は何もないとなれば、結婚も時間の問題だろうという空気だった。うちの会社は車内恋愛や車内結婚が多い。そんな噂話には誰もがつい耳を傾けてしまう。

経理部の情報通の先輩が、さらに決定的なニュースを持ってきた。吉岡さんが屋上でまり子先輩に告白したらしい。目撃者によれば、まり子先輩の顔がとても嬉しそうだったとか。

「ビッグカップルの誕生だな」

車内は湧き立った。俺はショックを受けながらも、二人はお似合いだと自分を納得させようとした。祝福の気持ちをどうにか絞り出して。それなのに、まさか一ヶ月も経たないうちに破局の話を聞くことになるなんて。

「吉岡さん、山下さんと何かあったんですか?」

気づけば抑えきれずに聞いていた。吉岡さんは沈んだ表情で首を振る。

「別れた。すまない。まだ心の整理がつかなくて」

信じられなかった。あんなに幸せそうだったまり子先輩。彼女はますます魅力的になっていて、それを引き出したのは吉岡さん。だからこそ悔しかったけれど、それでも彼女は素敵だった。俺なりに応援したつもりだった。なのに。

俯きがちでどこか元気のないまり子先輩。心配だったけれど、俺は部外者だ。踏み込む資格はない。彼女は十日ほど沈んでいたが、それでも仕事は正確だ。やがて調子を取り戻し、また敏腕課長補佐として忙しく動き始める。一方で吉岡さんの周囲には、破局の噂を聞きつけた女子社員たちが群がり、軽い騒ぎになっていたらしい。俺はと言うと、変わらず彼女の姿を目で追っていた。心が疲れている彼女を、どうにかして支えたかった。

そんなある日、思いもよらない出来事が起こる。前にも言ったが、営業は忙しさにかまけて経費の伝票を出すのが遅い。そのことで経理部長と営業部長が揉めたらしい。最終的に営業部長が折れ、両部署の関係改善のために親睦会が開かれることになった。昔の星川だったら高揚して喜んでいたはずだが、その日は彼女との約束があるとのことだった。

「せっかくだから、俺の分も楽しんできてくれよ」

「分かった。営業とうまくやれれば帰りも早くなるからな。親睦を深めてくるよ」

実際、飲みながら話してみると営業の人たちは気さくでいい人ばかりだった。ただ、どうしても業務に追われて仕事が雑になることもあるという。一方で、俺たち経理が伝票や領収書をどれだけ重要視しているかも理解してもらえた。お互いに配慮しながら仕事をしようという前向きな流れが生まれ、わだかまりは自然と溶けていった。

みんなで盛り上がっていると、遅れてまり子先輩が現れる。

「すみません。遅くなりました」

その時、空いていたのは俺の隣の席だけ。まさか、隣に来る。心臓がドクンと跳ねた。緊張で目をつぶっていると、彼女は何のためらいもなくすっと俺の隣に座ってきた。

「この間、私の伝票をやってくれた枠井君よね」

ビールを飲みながら、そんな風に気さくに声をかけてくれたことが嬉しかった。

「はい」

「とても見やすくしてくださって助かりました」

彼女はニコッと笑う。

「あなたも仕事が丁寧だって、みんなが褒めてたわよ」

急にそんな風に言われて照れくさくなる。話すのはほとんど初めてのはずなのに、彼女は俺の話を楽しそうに聞いてくれる。

「ここの料理も美味しいですけど、経理部の飲み会御用達の店は居酒屋神兵なんです。おでんがめちゃくちゃ美味しくて」

「へえ、そうなの。一度行ってみたいわ」

「営業部はね、中華の一番楼が多いかな。個室があるから使いやすいのよ」

気づけば時間はあっという間に過ぎていた。飲み会がお開きになる。もっと話したいと思った、その時。

「次のお店、行かない?」

もちろん、行きたい。二人で夢でも見ているのかと思った。

「みんな二次会に行くみたいですけど、いいんですか?」

「別行動にしましょう。あの人たちはあの人たちで楽しむわよ」

俺は周囲に気づかれないよう、彼女と別々に店を出て外で合流した。

「どこに行きます?」

「静かなバーにしましょう」

やっぱりまり子先輩は大人の女性だ。しっとりとお酒を飲むのが似合うんだろうな。そう思っていたところが、二件目で状況は一変する。いいムードになるかと思いきや、俺は彼女が飲みすぎないよう気を張って見張るはめに。まり子先輩はグラスを置くなり、大きなため息をついた。

「はあ、全然いい男がいないのよね」

酔った勢いで本音がこぼれたのだろう。今なら聞けるかもしれないと思って、吉岡さんの名前を出してみた。

「吉岡さんとは、あの、どうなったんですか?」

すると、彼女の表情が一気に曇る。言葉を濁し、沈黙が流れた。しまった。空気が最悪になった。彼女が帰ろうと言ったら、この時間は終わってしまう。それだけは避けたかった。苦し紛れに、冗談めかして口にしてみた。

「じゃ、俺とどうですか? 交際しませんか?」

ただ笑ってほしいだけだった。「は? 何言ってるのよ」とか「ちょっと、もう」って突っ込んでくれたらそれで十分だった。なのに、彼女はポロポロと泣き出した。

「本当に好きになったのに、私」

「あ、あの、まり子先輩?」

慌ててポケットを探り、ハンカチを差し出す。彼女はそれを受け取って、そっと涙を拭った。しばらくして顔を上げると、今度は真剣な表情で語り始める。なぜ恋愛がいつも上手くいかないのか。彼女の話は、思いがけないものだった。

実は彼女の家には、体の不自由なお母さんがいるという。昼間はヘルパーさんに頼っているが、それ以外の介護は彼女が担っているそうだ。吉岡さんと両想いになった後、まり子先輩は全てを知ってほしいと思い、お母さんを紹介したという。

「私と付き合うなら、母の現実も受け止めてほしかったの。今までもそう伝えたら、みんな去っていってしまったの」

確かに、彼女と結婚するということは、お母さんの介護も含めて受け入れるということだ。覚悟のない人には、簡単に踏み込めない。

「そうだったんですね。そんな事情が」

「吉岡さん、考えてくれたのよ。でも、仕事で海外出張も多いし、私のお母さんのことは人に任せるしかないって言われて。私、それじゃ納得できなかったの」

ハンカチをぎゅっと握りしめる。その後、ふっと顔を上げて、愚痴ったことを申し訳なさそうに謝ってきた。

「ごめん。こんな話、お酒がまずくなるよね。ハンカチありがとう。アイロンが綺麗にかかってるし、柔軟剤いい匂いね」

涙を浮かべながらも、彼女は少し笑った。

「枠井君、実家暮らしなの?」

俺は首を横に振る。

「いえ、一人暮らしです」

「え、仕事から帰ってご飯作ったり洗濯したり?」

「あ、作り置きもしますよ」

一拍置いて、俺は膝を進めた。もう一度、真剣に口を開く。

「さっきの、俺はどうですかって質問、返事をもらってないんですが。私と付き合うなら、普通の交際じゃないのよ。それでもいいの?」

「こんなこと言ったら、まり子先輩をがっかりさせるかもしれませんけど。俺、収入はあまりないんです。あなたがバリバリ働くなら、俺は家のことをやります。家事は苦じゃないので。それに、お母さんのことも、もしもいいと言ってもらえるなら任せてほしいです」

まり子先輩の目から、またポロポロと涙がこぼれ落ちた。

「泣かないでください。すみません。そんなに嫌でしたか?」

彼女はいいえ、と言うように首を振り、何度も手で涙を拭う。

「違うの。嬉しいの。驚いてるのよ。吉岡さんすごく優しかったのに。母に会った途端、態度が変わっちゃって。僕には無理かもって。でも、枠井君はそんな風に言ってくれるの」

「正直、まり子先輩に男として魅力がないって思われてるんじゃないかって不安でした。でも、介護は体力があった方が単純にいいし、こう見えても体力もあります。それに、俺はあなたが仕事で輝いている姿をずっとそばで見ていたいんです」

彼女は涙に濡れた目で、じっと俺を見つめた。その目はキラキラと光っていて、胸が苦しくなるほど綺麗だった。

「ありがとう。あなたは、私のために仕事をセーブしてくれるっていうのね」

「はい。みんなが幸せになれるなら、それが俺にとっても本望です」

彼女はすっと立ち上がり、俺の手を引いた。

「枠井君、母に会って」

「え、今ですか?」

「今でしょ。あなたの気が変わらないうちに」

タフな人だ。でも、それが彼女らしくて嫌いじゃない。彼女の横で、俺の胸は高鳴っていた。

「あらあら、まあまあ」

まり子先輩のお母さんは、吉岡さんが来てからまだ一ヶ月も経っていないうちに、また新しい男が現れたことで目を丸くしていた。

「私の足が悪いせいで、娘が苦労するの。本当に申し訳ないわ」

とても思いやりのある人だった。きっと、こんな優しい母親に育てられたから、まり子先輩もあんなにまっすぐで強いんだと思う。

「その代わり、俺が半分引き受けます」

お母さんは、ふわっと顔を緩めた。

「本当にいいの?」

「もちろんですよ」

こうして俺たちは正式に交際を始めた。まり子先輩は相変わらず仕事に全力で、俺は自分の勤務が終わると買い物をして彼女の家へ向かう。ヘルパーさんと交代し、ご飯を作ったり、お母さんの話し相手をしたりする日々が始まった。これが彼女の心の支えになれば。そんな気持ちで毎日を過ごしていた。

「枠井さんのご飯、本当に美味しいわ」

「良かったです。俺、ばあちゃん子だったんで、煮物とか得意なんですよ」

お母さんがおかわりをしたと聞いて、まり子先輩が驚く。

「最近、食が細くて心配してたのよ」

「だって、枠井さんと話しながら食べるご飯は格別なのよ」

その言葉に、まり子先輩の顔がふにゃりと崩れた。

「ねえ。よかったら、このまま泊まっていって」

「え、いいんですか?」

「あら、それがいいわ。朝ごはん楽しみだわ」

たとえ目的が朝食だったとしても、まり子先輩の家に泊まれるなんて、それだけで最高だった。

「ありがとう。母があんなに明るくなるなんて、本当に嬉しい。全部、枠君のおかげよ」

そう言って、彼女は飛び跳ねるように抱きついてきた。心臓が跳ね上がる。

「悪い君のあったかい気持ち、ちゃんと伝わってくるの」

彼女がそっと目を閉じた。お母さんはもう一階で休んでいる。俺は胸の高鳴りを抑えながら、そっと顔を近づけた。

「好きです。まり子先輩」

「まり子って呼んで」

そして、初めての口づけを交わした。

「私、幸せだわ。幸せって、こんな近くにあったのね」

俺は照れながら頭を掻く。

「俺も、ずっとまり子さんのことが好きだったから、今めちゃくちゃ幸せです」

「もっと早く告白してくれればよかったのに」

彼女は俺の肩に頭を預ける。その頬が少し膨らんでいて、なんだか可愛かった。

「いや、だって競争率の高さを考えたらビビっちゃって」

「まあ、でも今一緒にいられるから良かったわ」

子供みたいに怒ったり笑ったり、コロコロ表情を変える彼女を見ていると、飽きる暇がなかった。俺たちの距離は一気に縮まり、温かい日々が始まった。そして同時に、車内では「山下課長補佐の美しさに磨きがかかった」と話題になり始めていた。

「まさかお前が、まり子先輩をあんなに輝かせるとはな」

星川にだけ打ち明けると、しばらく絶句していたけれど、彼にはすでに彼女ができていたので、それほど嫉妬されることはなかった。

大きなプロジェクトが始まり、まり子さんはますます忙しくなる。俺は栄養たっぷりの食事を用意し、まり子さんの通院にも付き添った。まり子さんの不安の種を少しでも取り除けるようにと務める日々だ。

「あさひのおかげで、私、仕事に全力で取り組めるの。お母さんも明るいし、ご飯は美味しいし。もう淳くん大好き」

お決まりの口癖を口にしながら、彼女が飛びついてくる。

「今、お味噌汁温めますからね」

俺は週の半分以上を彼女の家で過ごすようになった。もちろん、自分の仕事はきっちりこなしている。経理部は決算期を除けば、比較的余裕がある。

ある日、彼女が少しだけ気まずそうに言った。

「そういえば、プロジェクトに吉岡さんが参加するんだって。でも、もう過ぎたことだし、私は気にしない。あさひ君も気にしないでね」

そう言われて、少し胸が痛んだ。正直、吉岡さんのことを完全には許せていない。たった一ヶ月でまり子さんを振ったあの出来事。それがどうしても引っかかっていた。それ以来、俺は吉岡さんを避けるようになっていた。向こうは理由も分からず困惑していることだろう。でも、これだけはどうしても割り切れなかった。

「俺はまり子さんを信じてますから」

心は揺れたが、表面上は冷静に振る舞う。俺たちは確かに愛し合っているのだから。

ところが、その日の午後、俺は突然吉岡さんに呼び出された。

「枠、もしかしてまり子と付き合ってる?」

誰に聞いたのだろう。だが、嘘はつきたくなかった。

「あ、はい。実はそうです」

「やっぱり。彼女の家を出入りしてるところ、何回か見かけたんだ」

「え、どうしてまり子さんの家に?」

「いや、話があって」

歯切れの悪い返事。未練がましい表情が顔に浮かんでいた。

「正直、まり子が他の男と付き合うなんて想像してなかった。僕たち、運命の相手だと思ってたんだ」

もう付き合っていないのに、まり子と呼び捨てにする。そのことに苛立ち、注意しようとした瞬間、さらに衝撃的な言葉が投げかけられる。

「枠、まり子を譲ってくれないか? 僕たち、やり直したいんだよ」

頭が一気に沸騰するのを感じた。

「そんな、まり子さんをあんなに泣かせたくせに、何を言ってるんですか?」

俺は思わず言葉を重ねた。

「まり子さんはものじゃありません。大体、吉岡さんが彼女を捨てたんじゃないですか」

吉岡さんの顔が歪む。苦悩の表情を浮かべていた。まさか彼にこんな言葉をぶつける日が来るなんて。俺は黙って自分の拳を見つめた。まり子さんは、たとえ力づくでも渡さない。そう心に誓いながら。

「まり子は僕に夢中だったんだ。そんな簡単に忘れられるはずないよ」

体が震えた。こんな話を、彼女のいないところでする意味があるのか?

「長い目で見れば、僕のように経済的に支えられる男の方がいい。出産でもすれば、枠との家庭はすぐに苦しくなるだろう」

くっ。何も言い返せなかった。俺じゃ、彼女を幸せにできないのか。

「悪いな。まり子は諦めてくれ。今度こそ、僕が幸せにする」

「じゃあ、彼女のお母さんはどうするんです?」

「そこも考えてある。枠は心配しなくていい」

地面に膝をついた。悔しい。でも、彼女のためになるなら。あの日、あの夜に見た、吉岡さんを思って泣くまり子さんの顔が脳裏をよぎる。奥歯を噛みしめた。

「…わかりました。身を引きます」

「ありがとう」

彼は勝ち誇った顔で屋上を後にした。再びニューヨークへ行くつもりらしい。まり子さんを連れて。俺はその場に立ち尽くし、涙をこぼした。悔しさ、悲しさ、そして彼女を失ったという絶望。その日の帰り、星川に二、三日休むとだけ伝えて、まっすぐ家に戻った。布団に潜り込み、何も考えたくなかった。

今頃、吉岡さんはまり子さんと会っているだろう。俺が身を引いたと聞かされたら、彼女はどんな顔をするのか。いや、本当に熱烈に愛したのは吉岡さんだった。俺なんて、都合のいい世話焼き男に過ぎなかったんだろう。また涙が溢れた。夜が明けるまで、ほとんど眠れなかった。

翌朝、ドアの外が騒がしいと思ったら、信じられない光景が待っていた。なんと、まり子さんが吉岡さんを引っ張って、俺の部屋へ乗り込んできたのだ。わけが分からずオロオロしていると、まり子さんが突然怒鳴る。

「あさひ君、私を信じないの?」

「え、あの、いや、まり子さんのために一番いい選択をしたくて」

「それが、こいつなの?」

彼女は振り返って、立ち尽くす吉岡さんを指さした。

「こ、こいつって。何があったんです?」

まり子さんの表情は怒りに満ちていた。

「ニューヨークに一緒に来てほしいって言われたの。それで、お母さんは高級老人ホームに入れようって。冗談じゃないわよ」

俺は愕然とした。それが、吉岡さんの言う解決方法。あまりにも一方的で、初めと何も変わっていない。

「しかもね、海外ではパーティーが多いから、妻か恋人を同伴しないといけないんだって。まり子なら美しくて見栄えがするだってさ。こんな奴に、私を譲るつもりだったの? 見損なったわ」

「違います。まさか、そんな話になってるなんて知らなかったんです。絶対に許せません」

「でも、まり子は僕のことが忘れられないんだろう」

しつこくまり子さんにすがろうとする吉岡。あんなに尊敬していたのに、幻滅した。

「うるさい。惚れないで。私、今はあさひ君に夢中なの。あんたなんか、もうどうでもいいわ」

気持ちいいばっさりと切り捨てる。

「まり子さん…」

彼女は俺の手を取り、真剣な眼差しで見つめてくる。

「ねえ、私の気持ち、伝わってなかった? 私がどれだけあなたに感謝して、愛しているか。私が選んだのは、あさひ君よ。一番辛い時にそばにいてくれたのは、あなただった。どれだけ救われたか。お母さんも、あなたのことが本当に大好きなの。それが私の力になったのよ」

俺たちは強く抱き合った。吉岡は、「ちっ」と舌打ちをし、黙って出ていく。後で聞いた話では、そのまま逃げるようにニューヨークへ旅立ったらしい。

それから、俺たちは深く愛し合った。心も体も、全てを委ね合い、絆は一層強くなった。

「まり子さん」

「あさひ君、私たち、ずっと一緒よ」

「うん。絶対に離れないって約束する」

「ねえ、プロジェクトが終わったら、結婚しようか」

「それも嬉しいけど、やっぱり最初はお母さんにも立ち会ってほしいよね」

「いつもそうやって、私たちのことを一番に考えてくれる。あさひ君、大好き」

そう言いながら、彼女は飛びついてくる。一度落ち着いた俺だったが、またたまらなく彼女が愛しくなる。

そして、俺たちは結婚を決めた。それと同時に、お母さんがリハビリに挑戦し始める。それまでは消極的だったのだが。

「どうせ私なんかと思ってたけど、あさひ君が一緒に頑張ろうって言ってくれるから。その言葉が嬉しかった」

まり子さんもそばに付き添い、立ち上がる練習からスタート。お母さんは我慢強く、地道に取り組んでくれた。

「あなたたちの結婚式に参加するのが、夢なのよ」

その言葉に、俺たちも心から応えたくなった。精一杯バックアップする日々。さらに、まり子さんのプロジェクトも大成功。その打ち上げの場で、俺たちは結婚を発表した。会場は大きな拍手と祝福に包まれた。

「私、本当に幸せ」

ウェディングドレスを試着するまり子さんは、まるで女神のように美しかった。そして迎えた結婚式当日。純白の衣装に身を包んだまり子さんと、晴れて夫婦となった。さらに、車椅子に乗ったお母さんと一緒に、記念の写真を撮ることもできた。

「こんなに幸せなことがあるなんて」

泣き笑いするまり子さんとお母さん。その姿を見て、胸が熱くなる。

「これからもっともっと幸せにしますから」

まり子さんの笑顔が、眩しいほどに輝いていた。

これが、俺たち二人の馴れ初めです。

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