「おい、宮本。お前、何やってんだ」
声をかけられた時点で、何かがおかしいと分かった。同僚たちの視線が一斉にこちらを向く。騒木レナさんが、書類を片手に、鋭い目つきで俺を睨んでいた。彼女の手にある文書が見えた瞬間、心臓が冷たくなった。あの見積もり書だ。だが、俺が今朝見たものとは明らかに違う。
「取引先に出す見積もりだぞ。外側の桁が違う。これ、どういうことだ?」
「何のことですか? 僕はここ数日、見積もり書なんて作成していません」
「あんたの名前が入ってるんだよ。作成者として。印鑑だって押されてる。認めないってのか? やっぱり高卒はダメだな。細かく教えてやらないと、何もできないんだから」
今まで何度も浴びせられてきた言葉だった。高卒の俺は、彼女にとってはただの愚図で、足を引っ張る存在でしかない。入社してからずっと、騒木レナさんには見下されてきた。手柄は全部、彼女のもの。ミスは全部、俺たち高卒社員のせい。そんな理不尽の積み重ねの中で、何とか耐えてきた毎日だった。
でも、今回は違う。この見積もり書の件は、明らかに身に覚えがない。作成日は数日前の日付で、そこには確かに俺の名前と印鑑が押してあった。だが、そんな書類を作成した記憶は全くない。なぜ俺の名前が? なぜ印鑑が押してある? 心当たりがなさすぎて、逆に冷静になった。
「何かの間違いじゃないですか? 僕は本当にここ数日、見積もり書を作成していません。担当も作成者も別の誰かで、根本的にミスがあるんじゃないですか?」
「あんた、高卒だからって、世の中を舐めてるんだろ。このガキ。子供のまんまだな。お前の言い訳なんか、信じるわけないし、通用するわけがないんだよ」
レナさんは得意げに、ニヤリと嫌な笑みを浮かべた。細めた目、歪んだ口元。長年この仕事をしていれば、こういう顔を何度も見てきた。彼女にとって、俺はただのカモだ。弱い者を追い詰めて、自分の立場を守るための道具。そう思うと、逆に心が冷えていくのを感じた。
思い出したのは、先日、先輩から聞いた話。総務に提出されるはずの書類が紛失した件。結局あれは、レナさん自身が大事な書類をなくしておいて、防犯カメラもない場所で個別に配っていた高卒の女性社員に責任を押し付けたらしい。彼女はその後、一週間も会社を休んで、たぶんもう辞めてしまっただろう。あの時、笑顔で仕事をしていた彼女の姿が頭をよぎった。あの彼女のようになってはいけない。ここで捻じ伏せられてはいけない。
「あの、とにかく、何の話か分かりませんし、僕を子供だの何だのと言うのはやめてください」
「何よ、事実でしょ。高卒で、何にもできないんだから」
「そうかもしれません。でも、そうやってよく確かめもせずに、人を追い込もうとする。そっちの方が、子供みたいじゃないですか」
俺が素直に反論すると、レナさんは一瞬、言葉を失って固まった。そして、思い出したように俺を睨みつけ、足を踏み鳴らして部屋を出て行った。ドアが勢いよく閉まる音が響いた。
ああ、やってしまった。もう少し別の言い方もあったかもしれない。けれど、後の祭りだ。きっと何か仕返しが来る。そう覚悟を決めて、俺は自分の席に戻った。気分は最悪だった。
翌朝、出社してすぐに呼び出しが来た。騒木部長が第一会議室で待っているという。同僚にそう伝えられ、俺は重い足を引きずるようにして向かった。ドアを開けると、部長とレナさんが並んで座っていた。似た者親子というのは本当にいて、二人の顔つきは驚くほど似ている。部長は机に、あの見積もり書を叩きつけた。
「宮本君。ミスをしたことを認めないそうじゃないか。私の目が悪いのかな? 作成者の欄には、君の名前と印鑑があるんだよ」
「ですから、それも昨日、レナさんに伝えています。僕はこの数日、見積もり書なんて作成していません。僕の名前と印鑑があるのなら、それは誰かが勝手にそうしただけです」
「ほう。君は随分と図太い神経をしているんだな」
「図太いんじゃないです。バカなりに、どうにか考えて言ってるだけです」
俺は一歩も引かなかった。少しでも弱気を見せれば、この親子の思うままになる。それは分かっていた。レナさんも部長の後ろで、チクチクと攻撃の言葉を投げかけてくる。不愉快極まりなかったが、感情的になってはいけない。そう自分に言い聞かせた。
「どうせ高卒で、何にもできないんだから。このミスをさっさと認めて、出ていって路頭に迷えばいいのに」
「いや、これじゃあ路頭に迷っても、生きていけないな」
「どうしてそこまで言われないといけないんですか?」
「どうしてだと? 君が重要な取引先相手に、とんでもないミスをした。そしてそれを認めず、開き直るからだ」
「ですから、僕が作成した見積もり書ではありません」
「いいや。この見積もり書の作成者は、親会社の社長が指名している。君をあの社長が指名しているんだよ。そんなことも忘れるとはな」
「だからこいつはバカなのよ」
親会社の社長。その言葉を聞いて、俺は少し息を呑んだ。だが、それも無理はない。この会社で、俺と親会社の社長との関係を知っている人は、ほとんどいないのだから。
「君もひとまずは社会人だ。それなのに、ミスを認めて謝れないとは。残念だよ。まともに親に躾けられず、かわいそうだとも言えるな」
「あ、あの、それは……」
「君の親なんだ。きっと無能なんだろうな。顔を拝ませてもらいたいものだ」
その言葉の瞬間、俺の中で何かが切れた。自分のミスじゃないものを押し付けられ、親まで馬鹿にされる。他人をどこまでも見下して、馬鹿にして、言いたい放題のこの親子に、一体、他人の親を批判する権利があるのだろうか。
「僕はともかく、親をどうのこうのというのは、あまりにも酷いです」
「何を偉そうに」
「今から親を呼びます。それで、実際に顔を見て、同じことをぶつけてみていただけませんか?」
「ああ、そうしたいなら、お好きに呼び出してくれていいぞ」
俺はポケットからスマートフォンを取り出した。一瞬だけ、本当にやるのか、と騒木親子が動揺する気配が伝わってきた。だが、もう引き返すつもりはなかった。俺は会議室を出て、電話をかけた。
「もしもし。ちょっと会社に来てくれないか。呼び出しが来てる。ああ、うん。会議室で待ってる。それじゃ」
電話を切って、会議室に戻ると、騒木親子は余裕の表情で笑っていた。
「本当に呼んだのか。ここまでバカとは思わなかった」
「まさかな。親を呼んで何になるっていうんだ」
二人は俺を指さして、ゲラゲラと笑う。何とも幼稚な様子に、俺は出かかったため息を飲み込んだ。もう少しの辛抱だ。
「お待たせしてすみません」
約束通り、十分後に母が会議室にやって来た。静かな、しかし落ち着き払った母の登場に、部長とレナさんの表情が一変した。先ほどまでの余裕は消え去り、顔色が真っ青に変わるのが分かる。
「し、社長……!? 」
「ああ、おはようございます。どうされましたか?」
母がそう言うと、騒木親子は一目散に平身低頭した。俺が母の息子だとは知らない。それどころか、この会社で親会社の社長の顔を知る人はほとんどいない。だからこそ、母が落ち着き払って放った次の言葉に、二人は息を呑んだ。
「どうされたって? 息子のり太が、私から指示を受けて作成した見積もり書にミスがあって、トラブルになっていると聞いたから。呼び出されたのよ」
「む、息子さん? 宮本が……確かに同じ苗字だけど……」
騒木親子は、俺の顔をじっと見つめた。二人して「そんなはずは」とつぶやきながら、額に脂汗を流している。絵に描いたような慌てようだった。そんな二人をよそに、母は机の上の見積もり書を静かに覗き込んだ。
「この見積もり書ね。私はこれを、レナさんに作成してもらえるように頼んだはずよ。大事な昔からの取引先。それこそ、ミスがあってはならないと思ってね」
「あ、あの、それは……」
「だから、仕事が確実で、取引先とも面識があるレナさんを指名したの。どう? 覚えていない?」
母は、その見積もり書が作成されたいきさつを、始めから終わりまで静かに説明した。実は俺への試金石だっということを、俺自身もその時初めて知った。親会社の社長である母は、以前からこの子会社で騒木親子が独裁に近い振る舞いをしていることを把握していた。様々な報告が上がってきても、注意をしても改善しない。ならば、自ら動くしかないと考えたのだ。
「実はね、私も少し思うことがあって、あなたを試してみたの。レナさん。今回の見積もり書は、あなたにとって初めて手掛けるタイプだったはず。相手方が指定したフォーマットを利用して、計算の仕方も普段とは違う。私は、あなたがどうするのか、見ていたかったのよ」
母の読みは、完璧に当たっていた。プライドの高いレナさんは、誰にも相談せず、自分だけで何とかしようと必死になる。そしてもしミスすれば、立場の弱い、見下している高卒社員に全てをなすりつける。その通りになった。
「まさか、こんなに想像通りになるとは、ちょっと怖いぐらいよ」
「違います! 社長! あの、私にも訳が……!」
「どういうわけがあるのか知らないけれど、噂は真実だったっていうことね」
母は、黙り込んだレナさんに首を横に振ると、今度は部長の方に向き直った。
「あなた方が親子であろうが、他人同士であろうが、この状況は見過ごせませんよ。何がしたくて、この会社を我が者にしたいのか。レナさんの言い分やお考えは、聞いておきたいものですね」
「い、いや、会社を我が者だなんて、そんなことは! 社長がいらっしゃるのに、何か畏れ多いことでして……」
部長は必死になって、母に愛想笑いを振りまいた。だが、母の冷たい視線に晒され、やがて俯いた。二人はどちらともなく、白状し始めた。
「……出世のためでした。親会社から声がかかることを望んで、競争相手を減らそうとしていました。レナもそうなので……」
「私たちは、広告代理店に憧れがあって……」
母は地元で広告代理店を経営している。十数年前、知人と立ち上げた小さな会社が、今では地元を代表する企業になり、別事業を展開して子会社まで持つようになった。俺たちが所属している自動車販売会社も、元は別事業の一つで、母が社長に就任後、子会社化されたのだ。そこから時々、成績優秀な営業系社員や広報部のアイデアマンが、親会社の広告代理店に引き抜かれていく。それは栄転とされ、多くの社員が憧れていた。
そのライバルを減らすために、騒木親子はとんでもない手段を選んだ。とにかく人を減らす。まずは学歴のない者から。いずれは大卒でも中途採用組でも、ターゲットにするつもりだったと聞いた時、俺も言葉を失った。
「しっかりと調べさせてもらいます。結果と処分について、お伝えいたします」
母の宣告を、騒木親子は無言で受け入れた。もう、何も言い返せなかったのだろう。
騒木親子の調査が終了してしばらく経った後、母は俺を食事に誘った。
「悪かったわね。息子とはいえども、妙なことを頼んでしまって」
「本当だよ。俺はスパイみたいなもんだったからね」
騒木親子はこれまでの悪行が全て暴かれ、会社での居場所を失った。母は追い出すことはせず、降格と数十日間の停職処分を言い渡しただけだった。何をどう思うかは二人に任せた。そして、親子は仲良く会社を去った。仕事をしようにも誰にも相手にされず、居心地は言うまでもなく悪かっただろう。結局、父と娘は同じ日に退職願を提出した。
「でも、母さん、思い切ったね。俺を使うなんて」
「まあ、あなたには悪いけど。使えるものは使うってことよ」
母は子会社から度々上がる不穏な報告と、その裏にいる騒木親子の存在に気を揉んでいた。注意や忠告をしてみても、子会社には届かず、揉み消されることもあったという。そして、直接的に乗り込まなければならなくなった時、ちょうど就職先を探していた俺に目をつけたのだ。スパイごっこだと思っていたことが、本当のことだったとは。今思えば、よく母も決断したものだ。家族をスパイに使うなんて、普通はできない。それほど、騒木親子の横暴が深刻だったのだろう。
騒動が過ぎて、ふと思う。会社を経営するというのは、本当に難しい。下手すれば何百人、何千人の他人を抱えて、何が起きているのか把握するだけでも大変だ。時には他人の人生に関わることもある。そもそも、会社を常に健全に保たなければならない。母はとんでもない人生を選んでいる。それに加えて、結婚して俺を育てる選択もした。改めて、母はすごい人間だと思う。
誰かは俺のことを「二代目」だと見るかもしれない。社長の息子だから、楽をしていると思われるかもしれない。だが、俺はそこには目を向けずにいこうと思う。俺がすべきことは、とんでもない人生を送る母のために、堅実に働いて、会社の業績アップに貢献することだ。野望は燃やさず、自分なりにいい社員を目指そう。そう心に決めている。
あの女性社員が辞めた後、会社の雰囲気は少しずつ良くなってきた。騒木親子の横暴がなくなり、誰もがのびのびと仕事をしているように見える。同僚たちも、俺が社長の息子だと知ってから、少し距離を置くようになった気がする。それは仕方がないことだ。俺は平社員として、一人の社会人として、これからも働いていくつもりだ。自分の選んだ道を、自分の足で歩いていく。


