夜勤明けの屋上で、新任の心臓外科医が私に古い雑誌を突きつけた。表紙には「神の手」と書かれた若い外科医の写真——それは十年前の私だった。「どうしてやめたんですか?」と彼女は震える声で問うた。答えられずにその場を去った翌朝、空港で旅客機が墜落した。統括する外科部長が心臓発作で倒れ、残された執刀医は私一人。手術室の前で足が動かない。十年前、最愛の人をその手で失った男が、再びメスを握ろうとしている。…

夜勤明けの屋上で、新任の心臓外科医が私に古い雑誌を突きつけた。表紙には「神の手」と書かれた若い外科医の写真——それは十年前の私だった。「どうしてやめたんですか?」と彼女は震える声で問うた。答えられずにその場を去った翌朝、空港で旅客機が墜落した。統括する外科部長が心臓発作で倒れ、残された執刀医は私一人。手術室の前で足が動かない。十年前、最愛の人をその手で失った男が、再びメスを握ろうとしている。...

午後の外来を終えて廊下に出ると、窓の外ではまた雪が降り始めていた。この町の冬は長い。十一月も半ばを過ぎると、空はもう鉛色のまま動かない。俺は白衣の袖口を直しながら、診察室の椅子に腰を下ろしたところだった。

最初の患者は二十年近く通い続けている女性だ。膝の変形性関節症で、痛み止めとリハビリでどうにか日常生活を送っている。

「先生、今日もよろしくお願いします。寒くなりましたね」
「ええ。膝の具合はどうですか? 歩く時に痛みは出ていませんか?」
「お薬のおかげで、なんとか歩けています」

診察台に聴診器を当てながら、俺は軽く頷いた。俺の名前は山田レンジ。四十二歳。この総合病院に来て、もう十年になる。

午前の外来を終えると、ナースステーションの前で主任看護師の藤崎洋子さんが声をかけてきた。彼女は病院の創設時からこの場所にいる。俺の過去をどこまで知っているのか、はっきりとは分からない。ただ、時々彼女の目が何かを探るように俺を見ることがある。

「山田先生、午後の開心術は田中さんから入りますね。あと、新しい先生がご挨拶に来てましたよ」
「新しい先生というと、あの心臓外科の方ですか? お会いできずに失礼しました」
「ええ、瀬戸先生。若いのに、しっかりした方ですよ」

俺は軽く会釈して、自分の部屋へ戻った。心臓外科。その言葉を聞くだけで、胸の奥に古い傷が疼く。俺はこの病院に来てから、一度も三階より上には行っていない。三階より上は外科の領域だ。俺の手は、もう十年もメスを握っていない。

午後の待ち時間に、急患用の待機室へ足を運んだ。そこに一人の女性が立っていた。背筋を伸ばし、湯気の立つマグカップを両手で包んでいる。白い肌に、切れ長の目。彼女がこちらに気づいて、軽く頭を下げた。

「あ、山田先生ですよね。瀬戸はると申します。先月から心臓血管科でお世話になっております。よろしくお願いします」
「山田です。こちらこそよろしくお願いします。寒い時期に来られて、大変でしょう」
「いえ、雪は嫌いじゃないので」

彼女は少し間を置いて、俺を見つめた。何かを探るような目だった。

「それより先生、先日の七十二歳の男性の大動脈解離の疑いで、先生が即座にCTを指示されたとか。心電図の初見だけで気づかれたと聞きました」
「たまたまですよ。背中の痛みの出方が、ちょっと気になっただけです」
「そうは思えませんけど」

はるかは少しの間、俺をじっと見ていた。俺は愛想笑いを浮かべて、その場を離れた。

その夕方、院長室に呼ばれた。大原院長は回転椅子から立ち上がり、自分でお茶を入れてくれた。

「山田君、もう十年か。君がここに来て」
「早いものですね。院長には本当にお世話になりました」
「礼はいらんよ。……待っているんだ。君がもう一度メスを握る日を」

俺は答えなかった。言葉が出なかった。あの日のことを思い出すだけで、手のひらに冷たい汗が滲む。

夜の病棟は静かなことが多い。ナースコールが二度鳴り、点滴の差し替えに行き、また戻る。廊下の隅で藤崎さんがカルテをめくっていた。

「山田先生、コーヒー入れましょうか?」
「いただきます。すみません、いつも気を使っていただいて」
「先生は本当に無理をなさらない方ですね。でも、無理をしないのと、何かを我慢しているのは、別ですよ」

俺はカップを受け取りながら、苦笑した。

「先生には、昔、特別なことがあったんでしょ? 私は詳しいことは存じませんけど、ずっとそう思ってます」

窓の外は雪が降り続いている。ガラスに映る自分の顔を見ながら、俺は十年前のことを思い出していた。

佐々木真美。俺の恋人だった。東京の大学病院で看護師をしていた。明るくて、笑うと目尻に小さな皺ができる女だった。患者さんに触る時、すごく丁寧で優しい。それが彼女の一番の魅力だった。

「レンジさんって、手術している時が一番優しい顔してるって知ってた?」
「そうかな? 自分じゃ分からないよ」
「うん。患者さんに触る時、すごく丁寧だから。私、好きになっちゃったのかも」

そんな会話を、もう何度繰り返したか分からない。真美は重い心疾患を抱えていた。手術が必要だと診断された時、執刀医に指名されたのは、当時“神の手”と呼ばれていた俺だった。俺は迷わなかった。自分ほどの腕でやらなければ、彼女は助からない。そう信じていた。

手術台の上で、彼女は俺を見て小さく笑った。

「レンジさん、よろしくお願いします」
「ああ、任せておけ。終わったら、祝いにあの店に行こう」

手術は途中までは完璧だった。だが、予想外の癒着。突然の出血。あらゆる手を尽くした。それでも、彼女は戻ってこなかった。俺はその日、十年握っていたメスを置いた。それから俺は心臓外科を捨て、内科医としてこの町の病院に流れてきた。

夜勤明けの廊下で、はるかがカルテを抱えて立っていた。

「山田先生、四〇五号室の患者さん、午前中の心電図でSTが少し気になりまして。先生のご意見を伺えればと」
「見せてください。……ああ、これは経過観察で大丈夫だと思いますよ。連絡室の補正をかけて、午後にもう一度撮りましょう」
「ありがとうございます。……先生、本当に内科の先生ですか? 心臓のこと、私より詳しいですよね」
「年の功です。あなたほど若くないですから」
「ごまかさないでください。私、ずっと不思議だったんです」

はるかはまっすぐに俺を見た。その目が、真美に少し似ていた。俺は視線をそらした。

数日後、病院の地下にある古い資料室で、はるかが一人で過去の資料をめくっていた。症例研究のため、十年前以上の心臓外科の論文を探していたのだという。後から藤崎さんが話してくれた。

棚の奥に、紐で束ねられた医学雑誌の山があった。埃を払い、適当に一冊抜き出した時、ページの間から薄い冊子が滑り落ちた。それは当時の心臓外科の若手を特集した雑誌だった。表紙には、白衣を着た一人の男の写真。腕を組み、まっすぐにカメラを見ている。「神の手 市場最年少教授候補 山田レンジ三十二歳」。そんな見出しが太い文字で並んでいた。

はるかはその場に立ち尽くしたまま、ページを開いた。症例数、手術成績、海外からの招聘論文の数。どれも彼女が今まで読んだどんな外科医の経歴よりも群を抜いていた。今より少し痩せて、目つきが鋭い。はるかは雑誌を抱えたまま、しばらく動けなかった。頭の中で、ここ一ヶ月の俺の言動が一つずつ繋がっていったのだろう。心電図を一目で読む的確さ。内科にしては妙に細かい知識。三階より上に決して足を向けない不自然な距離の取り方。

その夜、俺は夜勤明けで屋上の自販機の前に立っていた。背後で扉が開く音がした。振り向くと、はるかが立っていた。手には、あの古い雑誌があった。

「山田先生、どうしました? こんなところに。風を引きますよ」
「……先生ですよね」

はるかは雑誌を差し出した。

「昔の話です。もう、別の人間ですよ」
「別の人間って、そんな言い方、ずるいです。先生は、本当は……」

はるかの声が少し震えていた。

「どうしてやめたんですか?」
「人にはそれぞれ事情があります。今夜はもう休んでください」

俺はそれだけ言って、その場を後にした。階段を降りながら、深く息を吐いた。あの雑誌の中の自分は、もう別人だ。そう言い聞かせても、胸の奥で何かが痛む。

その朝、町は霧に沈んでいた。視界は二十メートルもなかったろう。俺は外来の準備をしながら窓の外を見ていた。空港はここから車で十五分の距離にある。

最初の異変は、空気の振動だった。建物がわずかに揺れ、遠くで鈍い音がした。雷ではなかった。廊下を走る足音が増え、電話が一斉に鳴り始めた。藤崎さんが詰所から飛び出してきた。

「山田先生、空港で旅客機が事故です! 着陸に失敗したそうで、重傷者多数、トリアージ反送が始まります!」
「分かりました。外来の方はベッドへ回してください。私は救急におります」
「お願いします。とにかく手が足りません」

俺は白衣のボタンを直しながら、階段を駆け下りた。救急センターの自動扉は開きっぱなしになっていた。ストレッチャーが次々と運び込まれてくる。藤崎さんは怒鳴るでもなく、低い声で指示を飛ばしていた。

「トリアージは第三処置で! 廊下にベッドを並べて、赤の方から優先してください。黒タグの確認、もう一度、二人で!」
「はい、分かりました!」

俺は内科医として、まず気道と循環を見ることにした。胸を強く打った中年の男。頭から血を流す若い母親。腕の骨が折れて皮膚を突き破った少年。どれもこれも目を覆うような光景だった。

「この方、気胸ドレンすぐに。あとレントゲンを頼む」
「はい、了解です!」
「お子さんは止血を優先します。お母さんは輸血、速攻で」

声を出しながら、頭の片隅で別の感覚が動き出していた。それは十年抑え込んできた感覚だった。脈の質、皮膚の色、目の動き。一つの初見が次の初見と勝手に繋がっていく。俺は外科医の目で患者を見ていた。

はるかが廊下の向こうから走ってきた。

「山田先生、こちらの執刀をお願いできますか? 第二手術室で開胸を始めます。心臓損傷の患者さんが二人続けて入っています」
「分かりました。こちらは引き受けます。高瀬部長は?」
「今、第一で執刀中です。後から合流されます」

はるかは短く頷いて、走り去った。

事態が動いたのは、それから一時間ほど経った頃だった。第一手術室の扉が内側から乱暴に開いた。看護師が顔を出し、声を絞り出した。

「藤崎主任、高瀬先生が手術中に胸を押さえて倒れられて!」
「血圧と意識はどうなの?」
「意識はあります。ですが、汗がひどくて……」

俺は救急の処置を藤崎さんに引き継ぎ、階段を登って第一手術室の前室に駆け込んだ。高瀬部長は手術着のまま床に座り込んでいた。顔は土気色で、唇が紫がかっていた。

「高瀬先生、聞こえますか? 胸の痛みはいつから?」
「昨日の夜から少し……だが、こんな日に休めるか?」
「今日はもう休んでください。先生が倒れたら、誰も手術ができません」

高瀬部長は苦しそうに笑った。そして俺の腕を弱く掴んだ。

「……君がやってくれ。第一の患者は私が途中まで開けてある。あとは心臓を縫うだけだ。君ならできるだろう。……先生、私は知ってるよ。院長から少しだけ聞いた」

俺は答えられなかった。ストレッチャーに高瀬部長が乗せられ、運ばれていく。廊下に残された俺の手は、ひどく冷たかった。

院長室に呼ばれたのは、その直後だった。大原院長は立ったまま俺を待っていた。机の上に一冊の古いファイルが置かれている。背表紙には、俺の名前があった。

「山田君、座っている暇はない。立ったまま聞いてくれ」
「はい」
「外科の執刀を取れる人間は、もう君しかいない。瀬戸君にはさっき私から全部話した。君のこと、佐々木さんのこと、十年前のことだ」
「院長……」
「責めるなら、後で好きなだけ責めればいい。だが、今は時間がない。青年が一人、心臓に金属片を受けてる。あと三十分で止まる」

俺は唇を噛んだ。真美の顔が浮かんだ。手術台の上で、最後に俺を見て笑った。あの顔だった。

俺は手術室の前の廊下で立ち尽くしていた。扉の向こうから機械の音が漏れてくる。俺の足はそこから一歩も動かなかった。十年前の音が、耳の奥で重なっていた。俺はあの音の中でメスを置いた。あの音の中で真美を失った。あの音の中で自分を失った。

足音が近づいてきた。振り向くと、はるかが立っていた。手術着のままで、マスクを首元まで下ろしている。

「山田先生」
「瀬戸先生、第二はどうなってる?」
「今、止血しました。次の患者さんは私一人では無理です。胸骨の裏で金属片が刺さってます。二十一歳の青年です」

はるかは静かに俺の前に立った。そして、深く頭を下げた。

「お願いします。先生、手術室に入ってください」
「瀬戸先生、頭を上げてください。……私は、私はもう十年もメスを握っていないんです。震えるかもしれない。判断を誤るかもしれない。また、失わせるわけにはいかない」
「失わせません」

はるかは顔を上げた。目に強い光があった。

「今回は、先生は一人じゃありません。私が先生を支えます。先生の手が震えたら、私が抑えます。先生が迷ったら、私が声をかけます。十年前の先生は、お一人で戦われたんだと思います。でも、今日は違います」

「瀬戸先生……」
「私、先生のあの雑誌を読んだ夜から、ずっと考えていました。なぜこの人は、これだけの腕を持って内科の白衣を着ているのか。今、分かりました。先生は罰を受けてらしたんですね。十年間ずっと、胸の奥でずっと閉じていた扉が、軋む音を立てた。真美の声が、遠くから聞こえた気がした。

俺は深く息を吸い込んだ。廊下の天井の蛍光灯が、やけに白く見えた。

「瀬戸先生、第一助手お願いします。機械出しは藤崎さんで、麻酔は今入っている先生のまま続けてください。青年の初見、もう一度全部、頭から教えてください。歩きながらで結構です」
「はい、分かりました」

俺は更衣室の扉を押した。ロッカーの奥に、十年間一度も袖を通していない手術着があった。布の匂いを深く吸い込んだ。震える指でボタンを止めていく。鏡の中に、十年前と少しだけ違う男が立っていた。目尻に皺が増えている。だが、目の奥の光は、まだ消えていなかった。

扉の外ではるかが待っていた。俺は短く頷き、彼女と並んで歩き出した。

手術室の扉が開いた。青い光が廊下に差し込んでくる。俺は一歩、足を踏み入れた。消毒液の匂いが、奥まで届いた。体がゆっくりと目を覚ましていく感覚があった。隣に立ったはるかが、横目で俺を見ているのが分かった。

「先生、手は?」
「震えていません。大丈夫です。瀬戸先生、第一助手としての動き。私の指示より半拍先を読んでください。あなたならできるはずです」
「はい、やってみます」

手術室に入ると、室内の空気が一瞬止まった。藤崎さんがマスクの上の目をわずかに見開いた。若い看護師たちは、新しく入ってきた執刀医が誰なのか、まだ理解していなかった。

青年は手術台の上で眠っていた。青いシートの下から胸が覗いていた。モニターの数字は、すでに危険な領域に入りかけていた。

「皆さん、執刀を引き継ぎます、山田です。よろしくお願いします。手順を簡単に申し上げます。胸骨縦切開、心嚢に到達次第、金属片の位置を確認。出血のコントロールを最優先。その後、損傷部位を縫合し修復します」
「先生、メスです」
「ありがとうございます」

藤崎さんの差し出したメスを、俺は受け取った。最初の一振りを入れた時、室内の誰かが小さく息を飲んだ。俺の手は覚えていた。皮膚を切る角度、筋膜に入る深さ、止血の仕方。全てが十年の空白を感じさせない流れで繋がっていった。はるかは半拍先を読み、創口を広げ、視野を作っていく。言葉はほとんどいらなかった。看護師が自分の手が震えそうになるのを必死に抑えながら、器械を渡し続けていた。“神の手”という言葉が、伝説ではなく目の前にあった。

胸骨を開き、心嚢に到達した。俺ははるかに視線を送った。

「瀬戸先生、私が金属片を抜きます。同時にあなたが指で出血点を抑えてください。タイミングは私の合図で」
「はい、分かりました」
「藤崎さん、四‐〇プロリン、続けて二本用意してください。強めにお願いします」
「了解しました」

俺は一度、深く息を吸った。ゆっくり金属片に指をかけた。その時だった。視界が白くぶれた。モニターの音が十年前の記憶に重なった。真美の顔。手術台の上で笑った顔。俺の指先がわずかに止まった。

はるかがそれに気づいた。

「山田先生、聞いてください。今目の前にいるのは、青年です。母親が廊下で待っています」
「……」
「先生、呼吸を合わせてください。私が数えます。一、二の三で」
「……分かった」

俺ははるかの声に従った。

一。息を吐く。二。指に力を込める。三。

金属片が抜けた。俺は素早く損傷部位に針をかけていった。一針、二針、三針。モニターの数字が、ゆっくりと安定していった。室内に、誰かの長いため息が漏れた。藤崎さんの頬を涙が伝っている。

手術はそれから二時間ほど続いた。俺はそのまま、別の患者の執刀にも入った。気がつけば、窓の外は夕暮れだった。雪はいつの間にか止んでいた。

全ての手術が終わった時、俺とはるかは手術室の前室で、並んで座っていた。二人とも、立ち上がる気力すらなかった。はるかがぽつりと言った。

「先生、お疲れ様でした。全員助かりました。あの青年も、もう大丈夫です」
「ありがとうございました。瀬戸先生がいなければ、私は途中で手を止めていました。本当に助けられました」
「私、何もしていません。先生の手を見ていただけです」

廊下の向こうから大原院長が歩いてきた。何も言わず、ただ俺の肩に手を置いた。

数ヶ月が過ぎた。雪は溶け、町には淡い緑が戻っていた。俺は正式に心臓外科への復帰を願い出た。大原院長はただ一度、深く頷いただけだった。

辞令の紙を受け取った日、俺は病院を出て、すぐに真美の墓へ向かった。墓石は東京の郊外の高台にあった。桜が満開だった。

「真美、……遅くなった。十年、ずっとあの日の手術室にいたよ。これからは前を向く。君が好きだったあの優しい顔の自分で、もう一度、人を救うよ」

風が吹いて、花びらが一枚、墓石の上に落ちた。

病院に戻ると、藤崎さんがニュースを教えてくれた。はるかに東京の大学病院から教授候補としての誘いが来ているという話だった。俺は何も言わなかった。彼女の道だ。俺が口を挟むことではない。

その日の夕方、屋上ではるかに呼び止められた。夕日が町の屋根を赤く染めていた。

「山田先生、お話があります。私、大学病院のお話、断りました。この病院に残ります」
「瀬戸先生、それはあなたのキャリアのためにも、よく考えた方が……」
「考えました。何度も。それでも、私はここで先生と一緒に働きたいんです。先生の手を、隣で見ていたいんです」

俺ははるかの顔を見た。その目は澄んでいた。

「瀬戸先生」
「いえ、……はるかさん。私は、ずっと自分を許さないで生きてきました。あなたがあの夜、頭を下げてくれた時、初めて誰かにすがってもいいのかもしれないと思った。……これから先も、隣にいてくれますか?」
「はい、喜んで」

二人の影が、屋上の床に長く伸びた。町の遠くで、夕方の鐘が鳴っていた。

Thumbnail