朝の光が田んぼの上を滑るように広がっていた。俺は診療鞄を助手席に置き、軽自動車のエンジンをかけた。今日も往診の一日が始まる。
最初に訪ねたのは坂の上に住む山下さんの家だった。
「先生、朝早くからすみませんね」
「いえいえ。今日はいい天気だから気持ちよく走ってきましたよ。血圧測らせてもらいますね」
血圧計を巻きながら、俺は縁側に置かれた菊の花を見た。
「菊、今年もよく咲きましたね。手入れが上手ですね」
「先生に褒められると嬉しくなっちゃうね」
お茶を飲みながら、息子さんが帰ってきた話、孫が結婚したという話を聞く。その中に体調のヒントが混じっていることを俺は知っている。次に訪ねた家では将棋盤が出てきた。男性の病気の進み具合を、差し手で確かめるためだ。玄関先で見送られる頃には、もう昼近くになっていた。
俺の名前は太田。四十五歳。この町で往診専門の診療所を営む医者だ。町の人たちは俺を“のんびりした先生”と呼ぶ。それでいいと俺は思っている。
診療所に戻ると、玄関に見慣れない靴が並んでいた。大学病院から地域研修に来た三沢洋司という若い医者のものだ。三十二歳。知識も技術も大学で鍛えられた自信に満ちている。
「太田先生、お帰りなさい。午前の記録はどちらにありますか?」
「ああ、記録はこれから書きますよ。今日はまず山下さんのところで聞いた話をして、それから寺田さんと将棋を一局」
三沢は露骨に眉をひそめた。
「先生、それは診療と言えるんでしょうか? 失礼ですが、これでは医療というより世間話ですね」
俺は小さく笑った。
「三沢先生、世間話の中に病気の芽が隠れていることがあるんですよ。今日はまだ午前中だ。午後もありますから、ゆっくり見ていってください」
三沢は納得しかねる表情のまま、黙って机に向かった。その背中を見て、俺は特別何も思わない。最初はみんなそんな顔をするのだ。
午後になって電話が鳴った。地域医療支援センターの後田からだった。
「太田先生、少し困った患者さんがいてね。森川美佐さん、三十四歳。もう半年体調不良を繰り返しているんだが、どこの病院で検査しても原因が分からない」
「三つの病院を回って、それでもダメでね」
「わかりました。今日の夕方、往診に伺いますよ。三沢先生も連れて行きます」
「頼むよ、先生」
電話を切ると、三沢がこちらを見ていた。
「三沢先生、午後は一件往診が入りました。少し難しい患者さんだ」
「難しいというのは、検査で分からないということですよ」
三沢の目がわずかに光った気がした。
森川さんの家は、住宅街の一角にある小さな一軒家だった。玄関に出てきた美佐さんは、頬がこけて顔色が悪かった。
「わざわざ来ていただいてすみません」
「いえいえ。こちらこそお邪魔します。ご主人とお子さんは?」
「主人は仕事で、子供たちは学校です」
奥の部屋に通されると、布団が敷かれたままだった。俺は聴診器を出す前に、部屋の中をゆっくりと見回した。どれも俺にとっては大切な情報だ。
「森川さん、少しお話を聞かせてください。朝は何時に起きますか? ご主人のお弁当は作っていますか?」
「はい。朝は五時半に起きてお弁当を作って、それから子供たちを送り出して……」
「お仕事は?」
「パートで、近くのクリーニング店に……」
俺は頷きながら彼女の手を見た。指先が少し荒れている。爪の色にもわずかな変化があった。
「最近疲れやすくなったのは、いつ頃からですか?」
「去年の秋くらいから、少しずつ」
「その頃、生活で何か変わったことは?」
美佐さんは考え込んだ。
「そういえば、下の子が小学校に上がって、私もパートを増やしたんです」
俺は台所の方をちらりと見た。すると美佐さんが言った。
「先生、お茶お入れしますね」
「ああ。遠慮なくいただきます」
三沢が横で、明らかに苛立った顔をしていた。美佐さんが台所に立った隙に、三沢が小声で言った。
「太田先生、なぜ聴診も採血もしないんですか? まずは初見を取るべきではないですか?」
「三沢先生、検査はもう三つの病院でやっている。同じことを繰り返しても同じ結果しか出ませんよ」
「では、生活を聞いて何が分かるんですか? そんなことまで診断に必要なんですか?」
俺は微笑んだ。
「必要ですよ。むしろ、そこにしかない」
三沢は納得しない顔で黙り込んだ。美佐さんが戻ってきて、俺たちは湯呑みを受け取った。俺はゆっくり飲みながら、頭の中でいくつかの病名を並べていた。検査結果が示さなかったもの。生活の中に紛れているもの。その二つを結ぶ線が、少しずつ見え始めていた。
帰りの車の中で、三沢は何度か口を開きかけて閉じた。俺は何も言わずにハンドルを握っていた。言葉にするのは、まだ早い。
診療所に戻る頃には日が落ちていた。秘書の弘美が待合室のソファに座って本を読んでいた。
「お帰りなさい。今日は遅かったのね」
「ああ、往診が一件増えてね」
弘美は私立総合病院の内科医で、俺の恋人だ。週に何度かこうして診療所に立ち寄る。彼女は俺の仕事の本当の姿を知っている、数少ない人間の一人だ。
三沢はそんな二人の様子を、少し戸惑ったように眺めていた。
「三沢先生、こちらは山田先生です。私立病院の内科で、うちの患者さんもよくお世話になっています」
「三沢と申します。よろしくお願いします」
「聞いていますよ。大学病院からの研修の先生ね。太田先生と一緒だと大変でしょう」
弘美がいたずらっぽく笑うと、三沢は少し表情を緩めた。
夕食を三人で軽く済ませた時だった。診察室の内線電話が静かに鳴り始めた。時計を見ると、夜の十時ちょうど。いつもの着信だ。俺は弘美に声をかけた。
「悪いね。少しだけ待っていてくれ。すぐ済むから」
「ええ、ゆっくりで大丈夫よ」
俺は診察室に入り、静かにドアを閉めて受話器を取った。低い声で二言三言、相手の話を聞きながら机の上のメモに何かを書き留める。時折、短く答える。それだけの静かな会話だった。
三沢は廊下から、その様子を偶然目にした。明かりの漏れる診察室のドアの隙間から、真剣な表情で受話器を握る俺の姿が見えたのだろう。
三十分ほどして、俺は診察室から出てきた。
「お疲れ様です」
「ああ、待たせて悪かったな。お茶をもう一杯もらおうかな」
三沢が遠慮がちに口を開いた。
「太田先生、あの……夜遅くにあんな電話が」
「ああ、時々あるんですよ。気にしないでください。相手は……昔の知り合いですよ」
俺は湯呑みに口をつけながら、それ以上は答えなかった。三沢は腑に落ちない顔で、自分の湯呑みを見つめていた。待って先生に、どうして毎晩こんな電話が来るんだろう。そんな声が聞こえてきそうな表情だった。
外では秋の虫が鳴いている。明日もまた往診の一日が始まる。そして森川美佐さんのことが、俺の頭の片隅でまだ小さく引っかかっていた。
翌朝、俺は診療所の机で森川美佐さんのカルテを広げていた。三つの病院から取り寄せた検査結果が机の上に山積みになっている。血液検査、CT、MRI、どの数値も正常の範囲に収まっていた。だが彼女は確かに衰弱している。三沢が湯呑みを持って、俺の隣に座った。
「太田先生、昨日の森川さん、どう見立てられましたか?」
「見立てというほどのものじゃないが、いくつか気になることがあってね」
俺は昨日書き留めたメモを三沢の前に置いた。指先の荒れ、爪の色、秋からの倦怠感、パート増加、クリーニング店勤務。
「三沢先生、これを見て何か気づくことはありますか?」
三沢はメモをしばらく眺めていた。
「爪の色というのは、ほんの少し白っぽくなっていた……というだけですか? 走行の根元の方だ。それだけで何か分かるものですか?」
俺は静かに口を開いた。
「一つだけ、疑っている病気があるんですよ」
病名を口にすると、三沢は明らかに眉を寄せた。
「先生、それはあまりにも珍しい病気です。国内で年間に何十例あるかどうかという疾患を、最初から想定するのはどうかと思います」
「分かっていますよ。だからまだ言葉にはしていない。教科書的には、頻度の高い疾患から順に除外していくのが基本です。そんな珍しい病気を最初から考えるべきではありません」
俺は頷いた。
「三沢先生の言うことは正しいですよ。基本を外してはいけない。だがね、三つの病院で頻度の高い病気はすでに除外されている。そこから先を考えるのが、私たちの仕事じゃないかな」
三沢は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。俺は立ち上がり、窓の外に目をやった。森川さんの手の荒れ、クリーニング店で使う薬剤、去年の秋、パートを増やしたという言葉。検査の数値には出ないが、体の奥に確かに残っているもの。
「三沢先生、もう一度森川さんの家に行きましょう。今度は台所と洗面所をよく見せてもらうことにします」
「台所と洗面所ですか?」
「そうです。診断は患者さんの暮らしの中に落ちていることがある」
三沢は返事をしなかった。
その日の午後、俺たちは再び森川さんを訪ねた。俺は美佐さんに断ってから、台所の棚を開け、洗面所の洗剤を一つずつ確認していく。務め先で使う薬剤の種類も丁寧に聞き出した。
「先生、そんなことまでするんですか?」
「森川さん、体は正直ですよ。毎日触れているものが、少しずつ体に残ることがあるんです」
美佐さんは不安そうに俺を見ていた。その横で三沢が黙ってメモを取っていた。
診療所に戻ると、俺はすぐに弘美へ電話をかけた。
「弘美、少し無理を頼みたいんだが」
「森川さんの件ね」
「ああ、追加の検査をいくつかお願いしたい。普通の内科ではまず出さない項目だ」
俺は検査項目を一つずつ伝えた。弘美は余計な質問はしなかった。
「分かったわ。明日の午前中に受けてもらえるように枠を開けておく」
「助かるよ」
「美佐さんが必要だと言うなら、それが答えでしょ」
電話を切ると、三沢が驚いた顔でこちらを見ていた。
「山田先生、あんな細かい依頼を、確認もせずに引き受けるんですか?」
「弘美は私の判断を信じてくれる。長い付き合いですから」
三沢はまた何か言いたそうにして、黙り込んだ。
翌日、美佐さんは弘美の病院で検査を受けた。結果が出たのは、その日の夕方だった。弘美から電話がかかってきた時、俺は診療所の椅子に座っていた。
「美佐さんの読み、当たっていたわ」
「そうか」
「専門医の手配で、治療方針を立てるところまで来たわ。原因が分かれば対処できるわね」
俺は受話器を置いて、しばらく天井を見上げていた。安堵ではなく、次の一歩を考える時間だった。
数日後、美佐さんの治療が始まった。原因となる物質から遠ざけ、体に溜まったものを排出する治療。それだけで、彼女の顔色は目に見えて変わっていった。一週間後に往診に行くと、美佐さんは玄関先まで出てきていた。
「先生、朝起きるのが楽になったんです」
「それはよかった。無理はしないでくださいね」
「はい。本当にありがとうございます」
奥から下の子が顔を出して俺を見ていた。その隣で上のお姉ちゃんが笑っている。台所からは味噌汁の匂いがしていた。家の中の空気が、明らかに変わっていた。その様子を三沢が後ろから静かに見ていた。
帰りの車の中で、彼はハンドルを握る俺の横顔をじっと見つめていた。
「先生、あの家、最初に伺った時と全然違いますね」
「ああ、違うね」
「病気が治ると、家まで変わるんですね」
「病気だけじゃないですよ。お母さんが元気になれば、子供も笑う。ご主人も落ち着く。そうやって家というのは戻っていくんです」
三沢はそれ以上何も言わなかった。夕焼けが田んぼの向こうに広がっていた。
その夜、診療所で書類の整理をしていた俺の元に、三沢がお茶を持ってきた。
「太田先生、少しお時間よろしいですか?」
「ああ、どうぞ」
三沢は向かいの椅子に腰を下ろした。
「先生に伺いたいことがあります。先生はどうして、あの時検査結果だけで判断しなかったんですか?」
彼の声には、攻めるような色はなかった。
「大学では、根拠のある数値と画像で診断を組み立てろと教わりました。生活を聞くのは確かに大事だと言われますが、あくまで補助的なものだと」
俺は湯呑みに手を伸ばして、一口飲んだ。
「三沢先生、検査は嘘をつきません。それは本当だ」
「はい。そうですよね」
「だが検査は、そこにある病気しか教えてくれない。まだ数値に出ていないもの、複数の要因が絡み合っているもの、生活の中でだけ悪化するもの。そういうものは検査室では見えないんですよ」
三沢はじっと俺の言葉を聞いていた。
「病気だけを見ていたら、患者さんは見えない。生活も家族も含めて見て、初めて本当の診断に繋がることがあるんだ」
三沢はしばらく動かなかった。
「森川さんの体には確かに原因があった。だがその原因を見つけるためには、彼女が朝何時に起きて、どんな仕事をして、何に手を触れているかを知る必要があった。それは検査室では見えない」
「なるほど」
「三沢先生、大学で教わったことは間違いじゃない。捨てなくていい。ただ、その上にもう一つ何かを積み重ねるといい」
三沢は顔を上げた。
「先生、私は正直に言うと、この町に来た時、太田先生のことを時代遅れの町医者だと思っていました」
「知っていましたよ」
「申し訳ありません」
「いいんですよ」
俺は微笑んで、湯呑みを口に運んだ。その時、診察室の内線電話が静かに鳴り始めた。時計は夜の十時を指していた。いつもの着信。俺は湯呑みを置いて立ち上がった。
「三沢先生、少しだけ席を外します」
診察室に入り、静かにドアを閉める。受話器を取ると、聞き慣れた声が耳に入ってきた。今夜の相談は、いつもより長くなりそうだった。
その頃、大学病院の会議室では、深夜近くまで明かりが灯っていた。神谷孝志教授を中心に、全国から集まった専門医たちが一つの症例を巡って議論を続けている。複数の医師が意見を出し合ったが、決定的な診断には至らない。検査結果は完璧に揃っている。それでも、何かが足りない。
神谷教授は机の上のカルテを閉じた。
「皆さん、今日はここまでにしましょう」
若い医師の一人が、食い下がるように言った。
「しかし、明日の朝までに方針を決めなくてはなりません」
「分かっています。最後に、あの先生へ相談しましょう」
その一言に、会議室が静かになった。後年の医師だけが小さく頷いた。
「私が電話します。皆さんは少し休んでください」
神谷教授は自室に戻り、机の引き出しから小さな手帳を取り出した。そこに書かれた一つの番号を、丁寧に押していく。
同じ頃、俺は診療所の診察室で机の前に座っていた。今夜も電話が鳴るだろうという予感があった。昼間、後田から大学病院で難しい症例が出ていると、それとなく耳に入っていたからだ。呼び出し音が鳴った。俺は受話器を取った。
「太田先生、夜分に申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。お話を伺いましょう」
教授は症例の経過を丁寧に説明し始めた。年齢、性別、症状の推移、これまでの検査結果。俺はメモを取りながら、静かに耳を傾けていた。時折、短く質問を挟む。
「その方の職業は?」
「大学院生です。実験室での作業が多いと」
「実験で扱う薬品の種類は確認されていますか?」
「そこまではしていません」
「では、その線を一度当たっていただけますか?」
俺はしばらく沈黙してから、静かに口を開いた。
「教授、私はこの症例、二つの可能性を考えています」
病名を二つ、順に伝えた。続けて、それぞれの鑑別のための追加検査、治療の初期方針を簡潔に述べていく。
「太田先生、ありがとうございます。明日の朝すぐに動きます」
「お役に立てればいいのですが」
「いつも申し訳ない。先生の時間をこうして使ってしまって」
「今日、患者さんの話ですから、時間は関係ありませんよ」
「太田先生、本当に頭が下がります」
俺は静かに受話器を置いた。壁の時計は、夜の十時半を差していた。
翌朝、大学病院から一本の連絡が入った。地域医療支援センターの後田からだった。
「先生、昨夜の症例、当たっていたよ。追加検査で確定した。治療が始まっている」
「そうか。よかった」
「教授がまた頭を下げていたよ」
「後田さん、その話はもういいですよ」
電話を切ると、窓の外で鳥が鳴いていた。
その日の午後、三沢が診療所に戻ってきた。午前中、後田に呼ばれて大学病院へ資料を届けに行っていたのだ。彼の顔はいつもと違っていた。
「三沢先生、どうしました? 顔色が悪いですよ」
「先生、私は……」
言葉が続かない。俺は椅子を進めた。三沢は座らず、立ったまま俺を見つめていた。
「今朝、大学病院の教授室の前を通りかかったんです。神谷教授が電話を持ちながら、深く頭を下げていました」
俺は黙って聞いていた。
「相手は太田先生だと聞きました。後田先生が教えてくださいました」
「後田さんがですか?」
「はい、そうです」
俺は小さく息をついた。
「教授はこう言いました。『私たち大学病院が最後に頼る診断医は太田先生です』と」
三沢の声は少し震えていた。
「先生、本当なんですか?」
俺は湯呑みを両手で包んで、しばらく黙っていた。
「三沢先生、まあ座ってください」
その時、玄関の戸が開いて後田が入ってきた。
「太田先生、三沢君に伝えてしまったよ。悪かったね」
「後田さん、あなたねえ」
「時が来たと思ったんだ」
後田は三沢の隣に座り、静かに話し始めた。
「三沢君、太田先生はね、昔大学病院で診断部にいた人だ。難しい症例を次々に解いて、名前も知られていた。天才医師と呼ぶ人もいたほどだ」
三沢は俺の顔を見た。
「だが、ある時先生はこの町に来た。名前を捨てて、往診の医者になった。理由は本人にしかわからない。ただ、大学病院の先生方は今も先生を頼りにしている。難しい症例が出るたびに、こっそり電話をかけてくるんだよ」
後田は静かに続けた。
「先生は、目立つ場所へ戻らないんですよ。患者さんのそばにいることを選んだからです」
三沢は俯いて、何も言えなかった。肩がわずかに震えているのが分かった。
「三沢先生、大した話じゃないんですよ。医者にはいろんな役目がある。私は今の役目が気に入ってるだけです」
「先生、私は先生のことを時代遅れの町医者だと」
「その話はもう聞きましたよ」
後田がふっと笑った。
「三沢先生、若い医者はみんなそう思うんだ。だがそれでいいんだよ。太田先生はそう思われることを選んだんだから」
三沢は深く頭を下げた。
「先生、申し訳ありませんでした」
「頭をあげてください。謝ることじゃない」
三沢はそれでも、しばらく頭を下げたままだった。
それから数日後の午前、診療所の玄関に車の止まる音がした。森川美佐さんがご主人と二人のお子さんを連れて、診療所を訪ねてきたのだ。
「先生、今日はお礼に伺いました」
上のお姉ちゃんが、小さな花束を抱えていた。
「先生、これ、お母さんと一緒に選びました」
俺は花束を受け取って、しゃがみ込んだ。
「ありがとう。お母さんが元気になってよかったね」
女の子は恥ずかしそうに頷いた。ご主人が深々と頭を下げた。
「先生、本当にありがとうございました」
三沢が後ろで、その様子を見ていた。森川さん一家が帰った後、三沢は俺の隣に立った。
「先生、私は先生のような医者になりたいです」
俺は花束を花瓶に生けながら、少しだけ手を止めた。
「三沢先生、あなたはあなたの道を行きなさい。私を真似する必要はない。大学病院には大学病院の役目がある。町には町の役目がある。あなたはあなたが立つ場所で、目の前の患者さんを大事にすればいい。それだけです」
三沢は少し考えてから、頷いた。
「先生、一つだけ教えてください。先生はどうして大学を離れたんですか?」
俺は窓の外を見た。
「肩書きや名声よりも、一人の患者さんと向き合える医者でいたい。それが私の選んだ道なんだ」
三沢はそれ以上、聞かなかった。奥から弘美が出てきた。
「美佐さん、お茶を入れましたよ」
「ああ、どうも」
「綺麗なお花ね」
弘美は優しく微笑んだ。窓の外では、秋の日差しが田んぼの上をゆっくりと渡っていた。



