「そんなに仲間が大切なら、お前が会社をやめろ。そうすりゃ他の年寄りどもは会社に残れるんだぞ」
リストラ候補の選定を拒否した俺に、二代目社長はそう言って笑った。俺は一瞬、言葉を失った。
俺の名前は胃嵐健二。食品メーカーの営業部第一課長を務めてきた。入社以来ずっと営業一筋で、取引先との信頼関係を少しずつ築き上げてきた。それが俺の誇りだった。
この会社には、先代社長が築いた温かい社風があった。社員を一人の人間として信頼し、個性を尊重する。そんな先代の教えを、俺たち古参社員は今も大切に守ってきた。先代が亡くなった後も、その精神は受け継がれていた。
だが、先代の娘婿である泉社長は違った。外見こそ整った男前だが、経営能力はからっきし。彼のやることなすこと、いつも杜撰で、周囲が毎回全力でフォローしてきた。それでも社員たちは、お世話になった先代への恩返しのつもりで、泉社長を支えてきたのだ。
そんなある日、情報通の部下から耳を疑う噂を聞いた。
「泉社長が、自分の息子さんを入社させるらしいんですよ。それも営業部にねじ込みたいんだとか」
「社長の息子って、あの留年して6年かかって大学卒業したって奴か? 今も就職せずに親のすねをかじってるって話だぞ」
その放蕩息子の噂は俺も聞いたことがあった。顔だけは父譲りで、それを利用して女性にちょっかいを出しては遊び放題。人柄に難があるのは明白だった。しかも営業となれば、取引先にまで迷惑をかけることになる。
「でも、営業部にねじ込むって言ったって、人員を増やせるわけじゃないだろ?」
「だから、息子を入れる代わりに、営業部の誰かを飛ばすんじゃないかって噂なんだよ」
その言葉に、その場にいた全員が色めき立った。俺も同じ気持ちだったが、収集がつかなくなりそうだったので割って入った。
「おい、一旦落ち着け。まだ決まったことじゃないだろう。今の話はここだけの話だ」
みんなは渋々頷いた。だが、俺自身もいい知れぬ不安を抱えていた。
数日後、その不安は現実のものとなる。出勤早々、部長を通して社長室へ呼ばれたのだ。
「今日はその報告だよ。今度、私の息子を営業部に入れることにした」
泉社長は高級リクライニングチェアにふんぞり返ったまま、まるで天気の話でもするように言った。
「ということで、誰を飛ばすかはお前が決めろ。あ、できるだけ古参の人間にしろよ」
俺は内心舌を巻きながらも、建設的な反論を試みた。
「お言葉ですが、泉社長。今の業績が保てているのは、古くから務める社員が若手を引っ張っているからこそです。それを古参だからと言って飛ばすというのは…」
「なんだお前。高が課長の分際で、俺に指図しようというのか」
泉社長の目つきが鋭くなる。彼は一方的にまくし立てた。
「本当にここの社員は生意気だな。俺が何かしようとするたび、いちいち横やりを入れてくる。それもこれも、あの義父が社員を自由にさせすぎたからだ。何が社員の個性を尊重だ。社員なんてものは所詮コマだろうが。コマは黙って上の言うことを聞いてりゃいいんだ」
先代を貶めるような暴言を、さすがに黙って聞いているわけにはいかなかった。
「先代の社長は、社員である私たちを一人の人間として信頼してくださいました。そして私たちも先代を信頼した。だから今のこの会社があるんです」
「うるさい!」
泉社長は立ち上がると、俺を睨みつけて怒鳴った。
「本当にお前は二言目には先代が先代が。そんなもの、あったって何の役にも立たないだろうが。いい加減、お前ら古参の解雇主義にはうんざりなんだよ」
そこで彼はニヤリと笑った。
「そんなに仲間が大切なら、お前が会社をやめろ。そうすりゃ他の年寄りどもは会社に残れるんだぞ」
俺は少しの間、逡巡した。そして、まっすぐに泉社長を見て言った。
「そこまでおっしゃるのであれば分かりました。私が会社をやめます。その他の社員は、どうぞ今まで通りに」
「ふん。じゃあ最初からそう言えばいいだろうに。では本日中に退職届を提出しなさい」
俺は何も答えず、無言で一度頭を下げ、社長室を出た。
最後の出社日、俺の退職を惜しむ部下たちに、俺は明るく笑って言った。
「いいんだよ、これで。幸い営業部は人員が揃ってる。後は任せたぞ。お前らはお前らしく、新しい課長をよく盛り立てていってほしい」
こうして俺は、長年勤めた会社を去った。
それから一ヶ月後のことだった。昼頃、泉社長から立て続けに電話がかかってきた。最初は無視していたが、あんまりしつこいので仕方なく応答した。
「お前、なんで電話に出ないんだ? いや、今はそれどころじゃない。今すぐ会社に戻ってこい。そして息子のサポートにつけ」
「出て行けと言ったり、戻って来いと言ったり。本当に社員をコマとしか見ていないんだな」
「何を他人事みたいに言ってるんだ! くそ。あいつらも、『酔ってたってお前をやめさせるような会社とは取引しない』とか言い出すし。さてはお前、追い出された腹いせに俺の悪口でも言いふらしたのか?」
悪口? 子供の喧嘩じゃあるまいし。思わず笑ってしまいそうになったが、懸命にこらえた。
退職後、営業部の部下から事情を聞かされていた。泉社長の息子は、俺の代わりに課長職についたものの、取引先に挨拶もしなければ電話の一本もかけられない。依頼されても面倒なことは全部周囲に押し付け、定時で帰って合コン三昧。出社してもスマホでゲームをしているという絵に描いたようなドラ息子だった。
彼に注意しようものなら「親父に言いつけてやる」が決まり文句。半月もすると、社員は誰も彼の相手をまともにしなくなった。だが泉社長は、息子が営業で頑張っていると信じきって、社内外に言いふらしては恥を上塗りしていた。
そして今、息子の仕事ぶりに怒った取引先が、次々に契約を打ち切っているという。
電話口で必死にまくし立てる泉社長に、俺は淡々と告げた。
「最初に断っておきますが、私は貴方に対して何の嫌がらせもしていません。また、私はもう会社をやめた人間ですので、そちらで何が起ころうと、完全なる他人事です。それに、私はすでに再就職しましたので」
「はあ? 再就職?」
馬鹿にするように笑った泉社長だったが、俺が今在籍している会社名をあげた途端、絶句したように息を飲んだ。そう、俺は今、元の会社のライバル会社で同じ営業をしている。今の会社は、本社よりも俺を高く評価してくれていた。
「では、以降は一切連絡してこないでください。あまりしつこいようでしたら、しかるべきところに訴えますので、そのつもりで」
そこまで言って、俺はさっさと電話を切った。
前の会社をやめたと知るや否や、今の会社はすぐに俺を引き抜いてくれた。前の会社で取引があった相手も、「俺がいるなら」と契約を乗り換えてくれた企業もあるほどだ。仕事上の契約は確かに会社と会社のものだが、そこには必ず人がいることを、泉社長は未だに気づいていないらしい。
それからしばらくして、泉社長の会社は業績の貯金でなんとか持ちこたえていたものの、誰の目から見ても倒産は時間の問題と見られていた。そして、株式総会で泉社長は解任され、銀行から新しい社長が送り込まれることとなった。
その後、会社を追い出された泉親子の行方を知る者は誰もいない。
俺は今、新しい会社で忙しい日々を送っている。こちらで新規開拓した取引先もあり、改めて人の輪の大切さを実感している。今ある信頼を大切にしながら、新たな場所で新たな信頼を結ぶ。そんな毎日を、俺は今もワクワクしながら仕事に励んでいる。



