半年間の偽装結婚。そう決めたのは、何よりも大嫌いだった幼馴染みから、あまりにも現実的な提案を受けたからだった。条件は単純明快。籍を入れて親を納得させたら、きっぱり離婚する。最初から終わることが決まっている関係に、心を開く理由なんてなかった。なのに、お粥を作ってくれた夜、俺の肩に頭を預けてきたあの瞬間、「このままじゃ終われない」と思ってしまった。満了日のレストランで、俺は人生最大の間違いを犯し…

半年間の偽装結婚。そう決めたのは、何よりも大嫌いだった幼馴染みから、あまりにも現実的な提案を受けたからだった。条件は単純明快。籍を入れて親を納得させたら、きっぱり離婚する。最初から終わることが決まっている関係に、心を開く理由なんてなかった。なのに、お粥を作ってくれた夜、俺の肩に頭を預けてきたあの瞬間、「このままじゃ終われない」と思ってしまった。満了日のレストランで、俺は人生最大の間違いを犯し...

突然目の前に現れた女を視界に捉えた瞬間、俺は言葉を失った。呆然と立ち尽くす俺の前には、この世で最も会いたくなかった人物がいた。俺の名前は柊、三十歳。都内の食品メーカーで働く、ごく普通の会社員だ。最近の悩みは、商品開発のプレゼンがなかなか通らないことと、母からの「そろそろ結婚は?」というプレッシャーだった。

あの日も実家に寄った途端、母にこう言われた。「ちょっと会ってみるだけでいいの。ちゃんとしたお家の娘さんなのよ」と。最初はまさかと思った。しかし、今回は母もあっさりしていた。会って欲しい理由も「お父様がうちと取引のある方で」とか「形式だけの紹介だ」とか、最初から大げさなお見合いではないらしい。ほんの一回お食事するだけ。もちろん無理にとは言わないけど、と言われて、俺に断れるはずがなかった。あの上遣いに勝てる息子なんて、世界に存在しない。

仕事終わりに都内の和風料亭で待ち合わせをした。正直、緊張も期待もなかった。気が乗らないお見合いなんて、誰だってさっさと終わらせたい。俺が通された個室で出されたお茶をすすってから十分、いや十五分は経っていた頃だった。障子がガラッと開いて現れたその顔を見た瞬間、思わず茶碗を落としそうになった。「は?何あんた?」その女の名前は霧島咲。俺と大学まで同じだった幼馴染みだ。大嫌いだった、と言った方が正確かもしれない。まさかの再会に、俺は文字通りフリーズした。

俺と咲は幼稚園から大学までずっと同じ学校に通っていた。それなのに、多分一度だって仲が良かった時期なんてなかったと思う。いや、むしろずっと邪魔されてきた記憶しかない。幼稚園では好きな子の前でうっかりおもらしした話を暴露され、小学校では俺が好きな子に話しかけようとするたびに割り込んできた。中学では下駄箱に入れておいたラブレターを先に抜き取られてからかわれた。そして大学。当時、俺には本気で好きだった先輩がいた。少しずつ距離を縮めていたその人が、ある日突然、俺のことを突き離してきた。「あの女に軽いって噂聞いた。私はそういう人無理だから」と。わけが分からなかった。後で友人から聞いた話では、咲が何か吹き込んでいたらしい。もちろん、そんな事実はない。まるっきりの嘘だ。あれは決定的だった。俺は完全に彼女を避けるようになり、卒業後も一切連絡は取っていない。

正直、人生でもう二度と関わることはないと思っていた。それなのにまさか、そんな奴がお見合い相手として現れるなんて。唯一の救いは、向こうも全く同じ表情をしていたことだった。驚き、呆れ、そして最大級のため息。「本当最悪。」「こっちのセリフだよ。」障子が閉まり、俺たちは向かい合って座る。部屋はしんと静まり返ったが、心の中は大騒ぎだった。「なんでお前がここにいるんだよ。」「聞きたいのはこっち。親に言われてきただけだけど。」「俺もだよ。名前も聞かされなかったし。」「こんなの詐欺だろ。」「本当信じられない。」この女とは全く噛み合わない。なのに、こういう形でまた関わることになるなんて。俺は自分の運のなさを恨まずにはいられなかった。

その後すぐに料理が運ばれてきたが、とてもじゃないけど箸をつける気にはなれなかった。唯一会話らしい会話といえば、「仕事まだ同じ会社?」「食品メーカー開発部にいる。」「へえ。意外と真面目に働いてんのね。」「お前には言われたくない。」みたいなくだらないやり取りだけ。食事を終え、駅へ向かって歩く帰り道。咲が仏頂面で言い放った。「もう二度と私に関わらないでよね。」「俺も願い下げだ。そもそも今日の食事をOKしたのが間違いだった。」口ではそう言いながらも、どこか引っかかっている自分がいた。別に未練があるわけじゃない。でもなぜだろう。腹が立つほど変わっていない態度と、少しだけ曇って見えた表情のギャップが妙に気にかかった。自宅に戻ると母からLINEが届いていた。「今日どうだった?無理にとは言わないけど、また会ってみたら?」スルーしようとして思いとどまる。そして短く返信した。「もう関わらない。以上。」それだけ送信してスマホを伏せ、ベッドに沈み込んだ。俺は今日、一体何をしていたんだろう。最悪の再会、最悪の時間。でもなぜか、記憶にはっきりと焼きついていた。

あれから三日後の夜、仕事が終わってスマホを見ると、見覚えのある名前からメッセージが届いていた。「少し話せる?」既読にするのを一瞬躊躇ったが、無視するのも性格が悪すぎる気がして、俺は「いいけど、どうした」とだけ返した。すぐに返信が来て、結局仕事の後に駅近くのカフェで落ち合うことになった。会社帰りの咲はパンツスーツ姿で、相変わらずすました顔をしていたけど、どこか迷っているようにも見えた。「お前さ、なんで俺の電話番号を知ってんだよ。」「親に聞いた。」俺は深いため息をつく。「で、何の話だよ。今更、あの時はごめんとかだったら…」「違う。真面目な話。」それにしては彼女の視線は妙に落ち着かない。カップを手にしたまま一瞬だけ俺を見て、すぐに目をそらす。しばらく沈黙が続いた後、ようやく口を開いた。「この前の食事の後、親がすっかりその気になってて、結婚前提で話を進めたいって言い出したの。」「それはまた都合のいい妄想だな。」「私もそう思うんだけど。ただ親の圧がすごくて、私が何を言ってもダメで。だからとりあえず話を合わせちゃったのよ。で、私もあんたも結婚に前向きです、って言っちゃった。」思わず吹き出しそうになった。だが、笑えなかった。笑っていいのかもよくわからなかった。「それ、俺の許可なく既成事実化してるってことで合ってるか?」「うん。」「あっさり頷くなよ。」「だから、あんたに協力してほしいの。半年だけ契約で結婚してくれない?」「は?」自分でも驚くほど間抜けな声が出た。「半年だけでいいの。籍を入れて両親を納得させて、それで落ち着いたらちゃんと離婚する。」「いや、待て。いくらなんでも無茶だろ、そんなの。」「だってそれが一番手っ取り早いじゃない。それにあんたも、結婚まだかって言われてるんでしょ。」図星だった。最近、母がやけにご飯はちゃんと食べてるとか、人並みに幸せになってよだとか、遠回しに圧をかけてきていた。条件はちゃんと設定する。生活費は半々。プライベートに干渉しない。表向きのデートは週一回。お互いの仕事に支障は出さない。テーブルの上に置かれた手帳には、綺麗な字で「契約結婚の条件」みたいなものが書き込まれていた。本気で言ってるのか、こいつは。「ふざけてるのか本気なのか、どっちだよ。」「本気。ふざけて結婚なんてできない。」その言い方が妙に真面目で、ちょっとだけ言葉に詰まった。冷静に考えれば、俺に損はない。籍を入れるだけで面倒な結婚圧から逃げられるし、半年後には元通りの自由が戻ってくる。それに、まさか俺がお前と結婚するなんて誰も信じないだろうしな。半年で離婚しても不思議じゃないでしょ。俺が黙って頷くと、咲は一瞬だけ安心したように息をついた。その顔がどこか無防備で、少しだけ可愛く見えてしまった自分に気づき、俺は内心で舌打ちした。

その翌週の平日の昼休み、俺たちは区役所に行って静かに婚姻届を提出した。係の人が「おめでとうございます」と言ってくれたが、咲は無表情で頷き、俺は薄ら笑いしただけだった。特に指輪もないし、記念写真も撮らなかった。名前を記入し、印を押した瞬間、仮の結婚が現実になった。契約結婚の届け出を出した翌週、咲が俺のワンルームに引っ越してきた。狭い玄関にスーツケースを引き入れた瞬間、彼女がぼそっとつく。「狭。」「嫌なら帰れよ。」「しょうがないから我慢してあげるわ。」言いながらも彼女は靴をきちんと揃えて上がり、部屋をぐるりと見渡す。「本当に一人暮らしの男の部屋って感じね。生活感はあるけどセンスは皆無。」「お前にだけは言われたくない。」全く、思いやられる。

翌日、朝食を終えた後、俺たちは同居ルールを決めることにした。ホワイトボードに書き出されたのは、家事は基本的に交代制、料理、掃除、ゴミ出し、風呂は夜九時以降先着順、外出予定はカレンダーに記入、生活費は毎月折半、家賃、食費、光熱費含む、週に一度は夫婦アピールのため偽装デート、という至ってシンプルで、最後の一つを除けばそう難しくもなさそうな内容だった。それでも運用初日から問題は起きた。トイレットペーパーの向き、ゴミの出し方、シャンプーの置き場所。何気ない違いが驚くほど気になる。「なんでまたこっち向きに戻すの?こっちが使いやすいって言ったよね。」「それはお前基準だろ。普通はこっちだ。」「普通じゃないから。じゃあ霧島家ではそうだったんだろ。」「柊ルールが全国共通だと思うの?」小さな喧嘩が小さな火花を散らし続ける。それでも俺たちは「契約だから」「ルールだから」「半年限定だから」と言い聞かせて、毎日をやり過ごしていた。

そんな日々が過ぎたある晩、俺は熱を出した。頭が重く、関節が痛い。少し前から喉も痛かったが、無理して仕事していたのがたたったのかもしれない。ベッドに沈み込んだ俺の額に、冷たいタオルが乗せられたのは、多分眠りかけた直後。うっすらと目を開けると、キッチンの辺りに咲の姿が見えた。深夜だというのに、鍋の前で静かに立っている。やがていい香りが漂ってきた。お粥だ。「少しは食べなさい。薬だけじゃ胃荒れるでしょ。」俺が反応する前に、咲はそう言って器を差し出した。「あ、ありがとな。」「別に、あんたが倒れたら色々めんどくさいから。」「それ、素直に心配って言っていいんじゃないのか。」「役割だって言ってんでしょ。」言葉はそっけなかったが、スプーンの置き方も、お粥の優しさも、どこか温かかった。

咲の看病のおかげか、体調はすぐに回復した。次の週末、計画通り外向けの夫婦アピールのためのデートに出かけることになった。俺はてっきり高級フレンチやおしゃれなカフェみたいないかにもな場所を指定されると思っていた。なんせ、つい忘れそうになるが、咲はそれなりの家柄のお嬢様なのだ。でも、咲が予約していたのは駅前のちょっと年期の入った居酒屋。「え、ここでいいのか?」「張り詰めなくていいでしょ。私もそっちの方が気楽だし。」思わず拍子抜けしたけど、その言葉に正直ほっとした自分がいた。店内は木のぬくもりが残るカウンター席と、小上がりのテーブル。俺たちは奥の静かな席に案内された。メニューには定番の唐揚げ、出し巻き卵、焼き魚。いつもの俺の外食と変わらない。むしろ気取らない分落ち着けた。「へえ。お前もこういう店に来ることあるんだな。」「悪い?」そこにビールが届き、グラスを合わせる。その音を合図にしたかのように、少しずつ昔話がこぼれ出す。成績のこと、電車の混雑、高校時代どちらが購買で勝ってたかとか、部活で張り合った話、サークル合宿の話。自然と笑いがこぼれた。ここ最近で一番素直に笑ったかもしれない。帰り道、雨がポツポツと降り出す。傘を差しながら歩く咲の横顔は、あの頃よりも少し大人びて見えた。翌日、会社の自席で資料を整理していると、営業部チームリーダーの長谷川が声をかけてきた。彼は俺の同期であり親友でもある。「お前、最近なんか変わったな。」「あ?いい意味で。なんか顔が柔らかくなったっつうか。」「気のせいだろ。」苦笑いで返したが、内心は少しざわついていた。柔らかくなった顔。そんな変化、自分じゃ気づかない。でも、もしそれが本当だとしたら、理由は一つしかない。あいつと暮らしている時間が、知らないうちに俺を変えているってことなんだろう。偽装だったはずの結婚生活。喧嘩も多い。距離もある。約束の期限だってある。なのに、今、この日常がほんの少しだけ心地よく感じていることを、俺は認めないわけにはいかなかった。

週末の居酒屋デートは、もはや定例になりつつあった。駅前の落ち着いた雰囲気の和風居酒屋は、咲のお気に入りだ。唐揚げ、出し巻き卵、サラダ、焼酎の水割りを少しずつ飲みながら、俺たちはいつも通り取り止めのない話をしていた。会話の途中、ちょうどよく酒が回った俺の口が勝手に動いた。「なあ、大学の時さ、お前、俺の好きだった先輩になんか変なこと言ったって噂、俺聞いたぞ。」冷静に考えれば唐突すぎたと思う。でも、飲みの席だからこそ口に出せた。咲はグラスを持ったまま視線をそらした。「言ったよ。」その認め方があっさりしていて、逆に戸惑った。「マジかよ。なんで…」「あの女、彼氏いたの。あんたのことうまく使えそうって言ってたの。知らなかったの?」水割りを持つ俺の手が止まる。「相談に乗ってもらって、うまく持ち上げてその気にさせて、プレゼントだけもらったら距離置こうって。周りでそういう噂回ってた。」「これ、本当なのか?」「本当?てかみんな知ってたよ。あんただけが完全に舞い上がってて、見てらんなかった。」酔いが一気に覚めた気がした。「だから私が止めたの。バカなあんたが引っかかりそうだったから。」「じゃあ、お前が…」「そうよ。私が、あの先輩に、軽い男だし金もないですよ、って言ったの。」咲の言葉はあっさりしているのに、なぜか一言一言が重く響く。過去のすれ違いが、一つずつ裏返っていく。「でも、あんたは邪魔されたって思ってたんでしょ?」「まあ、そうだな。」「結局、私が何をしたって、あんたは私を敵としてしか見てなかったもんね。」口調はいつも通り淡々としていたけれど、その中にほんの少しだけ滲んだ寂しさが、俺に刺さった。咲はグラスの氷をかき混ぜながら、目を合わせないまま続ける。「幼稚園の時、あんたが好きな子の前で失敗した話、みんなに言ったのも私だよな。小学校で、あんたが女の子に話しかけようとするとわざと割り込んだのも、中学でラブレター取ったのも。だから、私があんたの恋を邪魔したっていうのは事実。でもさ」咲はようやく顔を上げ、まっすぐ俺の目を見る。「それが全部、嫌がらせだったと思ってるの?あんたくらいだから。」その目は真剣だった。そこでようやく俺は気づいた。全部、意味が違っていたんだ。あの意地の悪い笑顔も、唐突な割り込みも。本当は全部、俺のことを見ていたからだったんだ。「なんで、そんなの言ってくれなかったんだよ。」「言えるわけないでしょ。バカじゃないの。なんで邪魔するんだ、って顔で見られたら、もう何も言えなくなるよ。こっちは、ずっと見てたのに。」小さな声で、咲はつぶやいた。「あんたは、他の女ばっかり見てた。」時間が止まったように感じた。店内のざわめきも、BGMも耳に入らない。ただ、その一言が胸に沈んで、しばらく何も言えなかった。あの時、中学でも高校でも大学でも、俺はいつも別の誰かを追いかけていた。それを、咲はどんな気持ちで見ていたんだろう。からかって笑って、冷たくして。でもきっと、その裏でずっと何かを飲み込んでいた。返す言葉が見つからなかった。ただ、咲のグラスが空になる音だけが、妙に大きく響いた。帰り道、俺たちは言葉を交わさなかった。並んで歩く距離は近いのに、心はどこか遠い気がした。ずっと見てた、あいつはそう言った。なのに、俺はあいつのことを邪魔者だと思ってた。バカみたいだ。何年も一番近くにいた人の気持ちにすら気づいてなかったなんて。

居酒屋でのあの夜を境に、俺たちの距離は微妙に変わった。明確な喧嘩があったわけじゃないけれど、それまでよりも会話は少なくなり、目が合うことも減った。咲は相変わらず生活スケジュールを几帳面に守り、週末の偽のデートにも欠かさず応じてくれる。むしろ以前よりも丁寧に、契約通りの関係を演じているように見えた。ただ、その完璧さがひどくよそよそしく感じるようになっていた。ある夜、俺はプロジェクトの最終調整で帰宅が遅くなった。電車には間に合ったものの、家の最寄り駅を出た時点で二十三時を回っていた。小雨が降っていて、シャツの襟がじんわりと濡れている。足元のアスファルトに跳ね返る街灯の明かりが、やけに冷たく感じた。疲れた体でドアを開けると、部屋の中がほのかに温かいのを感じて、俺は思わず足を止めた。天井灯は落とされていて、リビングの隅にある間接照明だけがぼんやりと灯っている。「ただいま。」そっと声をかけると、ソファの背もたれから顔を覗かせた咲が静かに頷く。グレーのニットにラフなスウェット。髪は軽くまとめられている。照明の柔らかさも相まって、どこかほっとする雰囲気があった。「お帰り。遅かったね。」リビングのテーブルには、一人分の夕飯が置かれていた。白いご飯、味噌汁、焼き鮭に小鉢が二つ。湯気はもう消えていたが、ラップの下に温もりは残っている。「これ、作ってくれたのか?」「温め直せばまだいけるよ。」けない言い方だったが、口調はどこか柔らかかった。「ありがとう。」俺は一言礼を言って、黙って箸を取る。咲はテレビをつけるでもなく、スマホを見るでもなく、ただ静かにソファで俺が食べる様子を見ていた。食事を終えると、俺はいつものようにソファに腰を下ろした。そのすぐ後に、咲が隣に静かに座った。座るというより、そっと沈み込むように。何か話すのかと思って横を見ると、彼女は何も言わずに俺の肩に頭を預けてきた。「どうした?」小さく訪ねたが、返答はなかった。ただ、咲の息遣いだけが伝わってくる。呼吸のリズムが静かに重なっていくのが分かった。二人分の鼓動が混ざり合うその空間は、静かで落ち着いていたけれど、どこか怖くもあった。まるで、何か大切なものが崩れ落ちそうな気配がして。やがて、彼女がぽつりと口を開いた。「あんたがいるってだけで、ほっとする日があったのよ。別に何か話すわけでもないのに、同じ部屋にいるだけで変な安心感あるっていうか。バカみたいよね。偽装結婚なのに。」その言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。俺は何も言えずにじっとしていた。言葉を探そうとしたけれど、見つからなかった。「それ、俺もだよ」だとか、「だったら契約とか関係なく一緒にいよう」だとか、そんな風に言えたらどれだけ良かったか。けれど、俺は言えなかった。情けなほどに。少し間を置いて、咲はすっと身を引く。肩にあったぬくもりが消え、ほんの少し肌寒さを感じた。「咲、寝るね。」そう言って、彼女は寝室へと姿を消した。まるで、夜に吸い込まれるように。

翌朝はいつも通りだった。朝食はトーストとスクランブルエッグ。コーヒーはペーパードリップで、豆の香りが部屋に満ちる。咲と暮らすようになってからの、いつもの朝の風景。何も変わっていないはずなのに。昨日の夜から、ずっと俺の中では何かがざわついていた。そして、ついにその日が来た。契約で決まった偽装結婚の満了日。俺たちが婚姻届を出してから、ちょうど半年が経った。その日の夕方、咲から「駅前のレストラン予約してるから」とLINEが届いた。メッセージは一言だけ。いつも通りのそっけない連絡。待ち合わせ場所には、きっちり五分前に咲が現れた。黒のワンピースにシンプルなカーディガン。小さなピアスが控えめに揺れていて、どこか別れの予感のようにも見えた。それでも、彼女はいつも通りの笑顔を浮かべていた。向かったのは駅ビルの最上階にあるカジュアルなイタリアン。落ち着いた照明と、窓の外に広がる夜景。特別な夜にふさわしい雰囲気だった。料理は前菜、パスタ、肉料理とコースで出てくる。会話は途切れがちだったが、ぎこちない空気にはならなかった。というより、咲がうまく「いつも通り」を保っていた。けれど、俺には分かっていた。その笑顔の裏にある覚悟。この時間が終われば、関係も終わるという静かな区切りを。食後、最後のコーヒーが運ばれてきた頃、咲はカップを両手で包み込みながら、さらりと言った。「今日で終わりだね。」その言い方があまりにも自然で、まるで世間話のように軽い。なのに、俺の心に落とした影はどうしようもなく重くて。それに耐えきれなくなった俺は、思わず呟いてしまった。「やっぱ、この結婚間違ってたよな。」その瞬間、自分の発言の意味を理解して、後悔の波が押し寄せた。言いたかったのは、そんなことじゃない。本当は「終わらせたくない」って言いたかった。でも、口が勝手に、いつもの皮肉っぽい言い回しで話してしまった。最悪だった。咲は少しだけ目を見開いた後、笑った。その笑顔は、泣きたくなるくらい綺麗だった。「うん。間違ってたよね。あんたが私と結婚するなんて、最初っから間違ってた。」彼女はもう何も言わなかった。手にしたカップを静かに置き、テーブルの端に折りたたまれた紙ナプキンを整える。全ての仕草が、終わりを示していた。その後、部屋までの道乗りで、俺たちは一言も口を聞かなかった。部屋に着くと、咲はすぐに荷物をまとめ始める。どこにしまってあったのか、小さなスーツケースが玄関に現れた。二ヶ月前に買ったマグカップ、台所の隅に並べられたスパイスボトル、押入れに入っていた毛布。一つ、また一つと、部屋から咲の気配が消えていく。俺はそれを止めることもできず、ただ呆然としていた。荷物をまとめ終えた咲が、俺に向かって微笑む。「半年間、ありがとう。」小さな声だった。でも、その言葉には迷いがなかった。キャリーケースを引き寄せ、俺はドアノブに手をかける。「咲、待てよ。」やっと、それだけ言葉が出たけれど、言いたいことはまとまらなかった。止めたい、引き止めたい。だけど、「ここにいてくれ」なんて都合よすぎる。あんなことを言ったのは俺だ。彼女を傷つけたのは俺だ。「大丈夫。私はもう奥さんじゃないから。あんたも自由の身だよ。」咲は振り返らず、淡々と答えた。そして、静かに出ていった。目の前でドアが閉まる。咲がいなくなった部屋は、半年前と何も変わらないはずなのに、まるで他人の部屋のようだった。

翌日、なんとか出社はしたものの、職場の空気がやけに無機質に感じた。PCの画面に映る資料が全く頭に入らない。何かを考えようとすると、すぐに昨日の咲の顔が浮かんでくる。どうにか昼休みまで耐え抜き、自販機前でぼーっとしていると、長谷川が現れた。「おい、ゾンビかよ、お前。目の下のクマやばいぞ。」「うるせえ。」缶コーヒーを買ったつもりが、手にしていたのはオニオンスープだった。全く笑えない。長谷川は腕を組んで少し黙った後、言った。「もしかして、彼女出ていったのか?」「まあな。最初から半年限定の偽装結婚だったから。」俺の返答に、長谷川は珍しく真剣な顔になった。「それで、納得したのかよ。」「あ?いや、だから契約期間終わって…」「それで、すっきりしたかって聞いてんの。」うん。その問いに答えは一つしかなかった。でも、それを口にするのが怖かった。沈黙が続いた末に、ようやく喉が動いた。「間違ってたんだよ。あ、この結婚間違ってたって、俺。あいつに言ったんだ。」「でも、間違ってたのは」言葉が詰まった。奥歯を噛みしめて目を伏せ、そして絞り出すように言った。「別れる前提で結婚したことの方だったんだよ。」長谷川は黙ったまま、ただ俺を見ていた。俺も続ける。「最初から終わるつもりで始めたから、素直になれなかった。距離を詰めるのが怖くて、踏み込むのが遅くて、気づいた時にはもう本気であいつのこと好きになってたんだ。この結婚は間違ってた。そう言ったのは俺だ。でも、本当に間違ってたのは、好きにならないつもりでいた自分の方だったんだ。」缶を持っていた手に力が入る。少しぬるくなったスープの感触が、指先にやけに重たく感じた。誰よりも近くにいたはずの人を、自分の言葉で遠ざけたことが、今になって痛いほど胸に突き刺さる。長谷川がぽつりとついた。「で、どうすんだよ、これから。」その問いに、俺は何も言わなかった。けれど、ようやく彼女に向き合う覚悟だけは、胸に灯り始めていた。

翌日の午前、俺は霧島家の前に立っていた。門だけで一つ建物のような、洋風の屋敷。その存在感に圧倒されながらも、俺は無言でインターホンを押した。数秒後、姿を見せたのは九条さんだった。初老の執事で、小さい頃から世話になっている人だ。子供の頃に一度会っただけだったけれど、九条さんには俺が誰だか分かったらしい。彼はじっと俺の顔を見つめた。「お嬢様は、昨日からお部屋におこもりです。」「咲に合わせてもらえませんか?」「泣いておられました。」その一言が、ぐさりと胸に刺さった。無理もない。俺はあいつの心を踏みにじった。あのレストランで、「この結婚間違ってたよな」と本心を隠した言葉で、全部を終わらせてしまった。しばらくの沈黙の後、九条さんは微笑を浮かべて頷いた。「昔から不器用な方でしたね、あなたは。だからこそ、お嬢様はずっと気にかけていました。」そう言って、彼は玄関を開け、俺を招き入れた。静かな廊下。足音は敷き詰められた絨毯に吸い込まれていく。まるで、俺の緊張も後悔も、全てを包み込むような静けさだった。九条さんに案内されたのは二階の突き当たりにある一室。重厚な木製のドアの前に立つ。中からは物音一つしない。それでも、気配はある。唾を飲んで、俺はドアを叩いた。「咲。」返事はない。「咲、いるんだろ?中に入らないから、声だけでも聞いてくれ。」それでも返事はなかった。ドアの向こうにいる彼女は、俺の声すら聞きたくないのかもしれない。でも、それでもいい。俺が今言うべきことは変わらない。俺は大きく息を吸った。「昨日、俺、この結婚間違ってたって言った。でも、それって全然違ったんだ。間違ってたのは、別れるつもりで結婚したことの方だった。最初から終わらせる前提で、心を開かずにいた。そうやって、お前に甘えてたんだ。本当にごめん。」しばらく沈黙が流れた後、ドアの向こうから衣ずれの音がした。その気配だけで、咲がドアのすぐ向こうにいることが分かる。俺の声が届いていることも。そして、黙っているその時間が、彼女にとってどれだけ痛くて重たいものなのかも。「お前の優しさにずっと気づけなかった。料理を用意してくれた日も、帰りが遅い時待っててくれた日も、熱を出した夜にお粥作ってくれた時も。全部、契約だからって言ってたけど、本当は違っただろ。」返事はまだ帰ってこない。それでも構わず、俺は言葉を続けた。「ずっと分かってなかった。俺ばっかり、何も見えてなかった。大学の時の先輩の話。あれ、お前、俺のこと守ってくれてたんだよな。邪魔されたなんて思って、最低だった。」声が震えるのを抑えて、必死に言葉を絞り出す。「でも、あの夜、お前が『ずっと見てたのに』って言ってたのを聞いて、それがどんな気持ちだったのか、ようやく分かったんだ。遅いよな、俺。本当、バカだ。」俺はドアにもたれかかるようにして、深く息を吐いた。全身がじんじんと熱を持っていた。どれだけ言葉を尽くしても、全部を伝えきれる自信なんてない。でも、それでも諦めるわけにはいかなかった。「咲、お前がいない部屋、すげえ静かなんだ。洗濯機の音も、テレビの音も、何も響かなくて。お前がいたあの場所に、何もないのが怖くて。昨日、一瞬も眠れなかった。」ようやく、ドアの向こうからか細い声が聞こえた。「咲…」「どうして、あんなこと言ったの?間違ってた、って。あんな顔して、私のこと手放したくせに。」責めるというより、涙が滲んだつぶやきだった。その一言だけで、どれだけ彼女を傷つけたかを思い知るには十分すぎた。「怖かったんだよ。俺なんかじゃ、お前の本当の気持ちに答えられないって思ってた。好きになっちゃいけない結婚だって、自分で線引いてた。でも、好きになった。いや、とっくの昔に好きになってたんだ。」部屋の中の気配が、明らかに変わった。ゆっくりと、ドアのノブが回る音。それだけで心臓が跳ねた。静かに開いた扉の向こうに、咲が立っていた。パジャマ姿のまま、髪も少し乱れていて、目元は赤く、涙の跡がそのまま残っている。それでも、彼女は俺をまっすぐに見ていた。「本当に分かってるの?私たち、ただの偽装結婚だったんだよ。一度は終わらせようって、お互いに決めたんだよ。」その瞳には、不安と希望がごちゃ混ぜになって揺れていた。俺は黙って一歩前へ出る。そして、彼女の前で立ち止まり、ゆっくりと答えた。「もう、終わらせる前提で生きるのはやめるよ。俺、お前と本当の意味で夫婦になりたい。お前が俺を見てくれてた時間を、今度は俺が全部返していきたい。」その言葉に、咲の瞳が大きく揺れる。彼女は俯き、唇を噛んだまま、小さく震えながらつぶやく。「あんたのこと、ずっと好きだったのに。意地悪して、からかって、邪魔して。本当は気づいて欲しかったのに、全然振り向いてくれないから。だから、偽装結婚でもいい、って思っちゃったのに。」大粒の涙が、ポロポロと頬を伝って落ちた。俺はその肩をそっと抱きしめる。何も言わず、ただ強く。彼女は驚いたように少しだけ肩を震わせたが、すぐに俺の胸に顔を埋めてきた。「バカ。本当に、どうしようもないくらい、バカ。」「それ、今更気づいた。」咲がわずかに笑った。けれど、その笑いの中には、確かな安堵があった。ようやく本音でぶつかり合えた。ようやく素直になれた。ゆっくりと咲の背中を撫でながら、俺は言った。「この結婚、もう一度、ちゃんと始めよう。偽装結婚じゃなくて、本当に好きな人とする結婚として。」咲は小さく頷いた。胸の奥が、温かく満たされていく。そんな俺たちを、九条さんは満足げに微笑んで見守っていた。ちょっとだけ照れ臭くて、俺はそっと目をそらした。そうして、俺と咲の偽装結婚は終わりを告げた。代わりに始まったのは、好きな人と一緒に人生そのものを重ねていく、結婚生活だ。

入籍してからちょうど一年。俺たちは今、引っ越したばかりの新居で忙しい毎日を送っている。二LDKの角部屋で、風通しも良い。あのワンルームでの生活を思い出すと、笑えてくるほど広い。ダイニングに置かれた仮置きのダンボールテーブルの上には、結婚式のパンフレット、カタログ、旅行のガイドブックが山積みだ。「ねえ、このドレス可愛くない?ほら、レースのとこ。」「いや、白って全部一緒に見えるんだけど。」「はあ。信じらんない。じゃあ、もう一回最初から見せるから、ちゃんと見て。」「はい。すみません。」俺は完全に主導権を握られている。でも、決して嫌じゃない。むしろ、こうやって咲に怒られつつも、未来の話をしている時間が何よりも愛おしい。契約結婚の頃の咲は、必要以上に俺に近づかないようにと、どこか壁を作っていた。でも、今の彼女は違う。食事の時、そっと俺の箸を並べてくれる。夜、仕事から帰ると、「お帰り」とだけ言って、黙って俺の好きな豆腐の味噌汁を差し出してくる。言葉数は変わらないし、口も相変わらずだけど、仕草の一つ一つがこの上なく優しい。ただ、あの日以来、彼女が甘えた姿を見せることはなくなった。肩を預けてくることも、ぎゅっと腕を掴んでくることもない。まるで、あの夜に全てを使い果たして、それ以上見せるのは恥ずかしいとでも思ってるかのように。でも、俺は知っている。あの一瞬を知ってしまったからこそ、今まで通りの彼女の奥に隠された一面が、ますます愛おしくて仕方がない。誰にも見せない、甘えた咲。それは、俺だけが知っている。俺だけの宝物だ。ふと、咲が俺の顔を覗き込んだ。「何、急ににやけてるの?」「いや、なんでもない。」いや、その言い方も表情も、俺にはもう完全に照れ隠しだって分かっている。最初はあんなにも反発し合っていたのに、間違った結婚と言い合っていた二人が、今こうして未来を語っている。不思議だけど、この上ない幸せだ。もう迷わない。もう隠さない。この人と一緒に笑って、年を取っていく。それが、俺のこれからの人生だ。そして今日も、俺と咲の、偽りから始まった結婚は続いていく。ゆっくりと、確かに。幸せな時間の中で。

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