「立場をわきまえろよな。」
元同僚の騒井が、あざ笑いながらそう言って去っていく。警備員として元職場に配属になり、ある重大なリスクに気がついて忠告したのだが、この有り様だ。俺は確かに伝えた。後は知ったことか。
俺の名前は川北。36歳の会社員だ。セキュリティ関連の会社で警備員をしている。3年前までは、あるIT企業のセキュリティ部で働いていた。だが、わけあって退職した。仕事の内容は違えど、安全を守るという意味では通じるものがある。今の仕事にも、俺なりにやりがいを感じていた。
そんなある日、まさか再びここに来ることになるとは思わなかった。会社の指示で、今日からこの会社の警備をすることになったのだ。それ自体に文句はないが、よりにもよって俺の元職場。苦い思い出の残る場所だ。
スマホで時間を確認する。配属初日ということもあって、少し早く着きすぎたな。大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。
3年前まで、俺はこの会社のセキュリティ部の社員だった。俺は中卒だ。高校には進まず、早くから働きながら独学でITセキュリティを学んだ。資格も実績も、すべて自分の手で積み上げてきた。だからこそ、この会社に内定が決まった時は本当に嬉しかった。やる気に燃えていて、先輩方から期待の新人だと言われてもいた。年の近い騒井先輩がよくしてくれていたのも大きかった。大変なことも多かったが、充実した毎日だったと思う。
それが一変したのは、3年前の事件がきっかけだった。
「騒井先輩がそう言ったんですか?」
俺は息を呑んだのを覚えている。ある日突然上司に呼びつけられ、怒鳴りつけられたのだ。どういうことかと質問すると、騒井がすべて俺の責任だと言う。俺の記憶と上司の話を整理すると、こういうことだった。
事件より少し前、俺はある仕事を完了していた。車内セキュリティに脆弱性を発見し、その改善作業をやり遂げたのだ。あとは上司への報告書を提出するだけだった。
「お疲れ、川北。仕事を終えて疲れてるだろ。報告書は俺がやっといてやるよ」
俺は一度断ったが、騒井は「いいから」と微笑んだ。
「そうですか? それじゃあ、お言葉に甘えて」
ところが騒井は、俺は期限ギリギリまで作業が進まず、結局は騒井が8割も担当して完成させたという報告書を上司に提出したのだ。
「ありえない」と俺は反論した。俺が残業までして頑張っていたことは、他の同僚も知っているはずだ。しかし、誰もが口をつぐんでいた。
「確かに川北君が残っていたのは知っているが、内容まではな」
「騒井の報告書が本当だとしたら、作業に詰まって残っていたんじゃないのか」
先輩方も、上司も、報告書の内容を信じているようだった。
その後も騒井は、一見面倒見のいい先輩という顔をしながら、俺の仕事の成果を奪っていった。仕事のアイデアや発言を、さりげなく自分の意見として横取りしたり、俺への仕事の連絡を意図的に送らせてミスを誘発したりした。
あの頃、騒井はよく俺にこう言ったものだ。
「お前、中卒のくせに偉そうなこと言ってんな。誰かが手貸してやってるから、なんとかなってんだろ」
学歴など関係ない。仕事の結果で示せばいい。俺はそう信じて歯を食いしばっていた。だが、組織の中では結果だけでは届かないこともある。俺はだんだん誰も信じられなくなり、気持ちを病んで退職を選んだ。
退職届を出した時の騒井の表情は、今でも忘れられない。「やっとか」そんな言葉が聞こえてきそうなほど、満面の笑みだった。
過去は過去だ。仕事に集中しろ。そう自分に言い聞かせて、車から降りた。今の俺は警備員だ。制服の帽子をかぶっていれば、俺と気づかれることもそうないだろう。そう思っていたが、すぐにその淡い希望は打ち砕かれた。
「お前、もしかして川北じゃないのか?」
配属されて数日。車内を巡回する最中、不意に声をかけられた。過去の出来事がフラッシュバックして、俺は硬直する。恐る恐る振り返ると、騒井が立っていた。後ろに男性社員を2人連れている。1人は見覚えがあった。俺が辞める前、仲が良かった後輩の松だ。もう1人は分からないが、かなり若いところを見ると、新人か何かだろう。
「やっぱり川北だ。もしかしてって思ったんだよな。何、お前今警備員なんてやってんの? 落ちたもんだね」
「警備員なんて」という言い方に悪意が満ちていた。松は眉をひそめ、後ろから騒井を睨んでいる。揉め事を起こすべきではないと考え、俺は軽く頭を下げた。
「お久しぶりです。騒井さん」
「こいつさ、前は俺の後輩だったんだよ。でも、俺の優秀さに気を病んでやめちゃったの。つまり負け犬」
若い社員は「マジすか」と言いつつ、気まずそうに表情を引きつらせている。なるほど。どうやら騒井は後輩に好かれてはいないらしい。
これがきっかけで、俺の仕事の時間は憂鬱なものに変わった。夜間のシフトの時はさすがに会うことはないが、日勤の日は最悪だ。わざわざ俺を探しているのかと疑いたくなるほど、騒井は俺を見つけては嫌みったらしい言葉を浴びせかけてくる。
「俺さ、お前がいなくなったおかげで運が向いてきたっていうの。成果も認められるし、課長にも気に入られちゃってさ。今じゃおかげ様で係長だよ」
「今度結婚するんだぜ、お前は。ああ、ごめん。警備員に落ちたお前じゃ無縁な話だよな」
鬱陶しい。揉め事を起こすわけにはいかないので受け流していたが、騒井は飽きる気配がない。
「本当、あの人何なんですかね。川北さんを退職に追い込んだのも、きっと期待されてた川北さんが目障りだったに違いないですよ」
ある日の夜、松がぽつりとそう言った。俺は騒井と再会してから、密かに松とこうして夜飲みに行くことが増えていた。松は、俺が辞める時も「どうして俺が辞める必要があるのか」と別れを惜しんでくれた。
「俺が辞める時も、そう言ってたな。でも仕方ないよ。証拠が見つからなかったし」
俺が言うと、松がうなだれる。そう、俺はただ黙って騒井に嫌がらせをされていたわけではない。されたこと、言われたことは記録に取り、上司に訴えたこともある。しかし騒井は抜け目がなくて、決定的な証拠が残っていなかったのだ。
「君が今でもそう言ってくれて、それだけで嬉しいよ」
俺がそう笑いかけると、川北さんと松が申し訳なさそうな顔になる。
「そんな顔するなよ。ほら、飲もうぜ」
騒井の心ない行動に頭を悩ます中、一時の息抜きの時間だった。
そんなある時、俺はいつものように仕事をしていた。巡回の時間帯になり、担当の会を歩いて回る。社員の休憩所の前に差しかかり、俺は足を止めた。休憩所なので、不特定多数の社員がいても不自然ではない。しかし、そこから聞こえてくる声が騒井の声だと理解した瞬間、とっさに物陰に隠れてしまった。
情けないと一瞬思ったが、これもトラブル回避の手段だ。何せ毎度俺の顔を見るなり絡んできて、嫌みを吐きかけてくる。騒井に気づかれないうちに移動しよう。そう思って、密かに動き始めたその時だった。
「なんか最近、セキュリティシステムが何度もアラート出してきて困るよ。調べても何ともないのに」
騒井の何気ない一言が、俺の鼓膜を叩いた。若い男性の声が「マジすか? 面倒ですよね」と相槌を打っているのも聞こえてくる。
思いがけず立ち聞きとなってしまったが、俺の中である警報が鳴った。それってサイバー攻撃の予兆なんじゃないのか。確かに本当に不具合によるエラーの可能性もあるだろう。だが、そう何回も起きるなんて普通ではない。騒井の言葉には、他にも通信量が増えていたり、ログイン失敗のログが残っていたようだ。
バラバラに見れば些細なことだ。だが、俺はこういった兆候を教科書ではなく、実際の現場で体に染み込ませてきた。どれも一見通常の範囲に収まることかもしれないが、ここまで固まって起きるだろうか。
俺は思い切って騒井に声をかけることにした。俺は今や部外者だ。でも、嫌な予感が胸に渦巻いていた。少なくとも、俺がまだ社員だったら絶対に見過ごせない。
俺が意を決して話しかけた時、相槌を打っていたらしき男性はいなかった。おそらく仕事に戻ったのだろう。
「すみません。話が聞こえてしまったのですが、このままだと情報漏洩で大変なことになりますよ」
俺は真剣に告げたが、騒井は鼻で笑うのみだ。
「はあ? 情報漏洩? 何をいきなり。一体いくら損失するって言うんだよ」
俺は少し考えた。この規模の会社で顧客データと機密情報が流出した場合、過去に自分が携わった案件や業界の事例を頭の中で素早く照合する。賠償金、事態収集のための対応費。そして最も大きいのが、信頼喪失による売上の減少だ。取引先が離れ、新規契約が止まり、ブランドの毀損が長期に渡って尾を引く。中卒の俺が教科書ではなく現場で体に叩き込んできた計算だ。控えめに見積もっても、およそ12億。むしろこれでも足りないかもしれない。
「およそ12億円の損失になります。もしくは、それ以上かもしれません」
ざっくりと計算しただけでも、これだけの損失となるリスクがあるのだ。このまま放置するわけにはいかない。いくら騒井が人として最低だとしても、会社の危機なら動くだろう。そう思ったが、すぐにその期待は打ち砕かれた。
「12億? こいつはまずいな」
騒井は変わらず俺をあざ笑っていて、真剣さがまるでない。ひとしきり笑うと、俺に指を突きつけた。
「昔はここの社員だったとしても、今は違う。お前はただの警備員だろ。立場をわきまえろよな」
腹は立つものの、確かに俺が一介の警備員だというのは事実だ。それでもと、俺は騒井を見据えた。
「報告するべきです。私の勘違いだったら、その時はきちんと謝罪します」
不本意ではあるが、俺はあえて下手に出る。そうでもしなければ、聞いてもらえないだろうと思ったからだ。
「ああ、うるさいうるさい。本当お前って昔からそういうやつだよな。めんどくさい」
騒井は鬱陶しいハエでも払うように、しっしっと俺に向かって手を振った。
「とにかくお前には関係のない話だ。とっとと失せろ」
俺がまだ話を終えていないにも関わらず、騒井は去っていった。鼻で笑っていたが、笑い飛ばした話ほど後で頭から離れないものだ。あいつも内心では気になるだろう。俺はそう思いながら、巡回の続きへと戻った。
翌朝のことだった。俺が出社すると、何やら車内が騒がしい。
「おい川北、来た。お前のせいだぞ」
何だろうと思っていると、騒井が俺に詰め寄ってくる。
「セキュリティシステムに大きな異常が出たんだ。お前が余計なことを言うから、上が判子になって大騒ぎしたじゃないか。おかげで俺は大目玉だ」
話を聞いてみると、騒井は話を切り上げたものの、気になって上司に報告したらしい。するとあれよあれよと問題視され、今まで放置していた騒井はかなりの叱責を受けたんだとか。警備員に忠告されて発覚するなどどうだと、社長はかなりお怒りらしい。
「それってつまり、私の言っていたことは正しかったってことですね。教えてくださってありがとうございます」
あえて礼を言うと、騒井がカッと顔を赤くする。
「お前……」
騒井が俺の胸ぐらを掴んだ時だった。
「井君、それからそっちの警備員の君も来てくれ。社長がお呼びだ。おそらく用件か何かだろう」
初老の男性が俺たちに声をかけてきた。騒井は表情を歪め、俺から手を離す。複数の社員たちが、俺たちの様子を遠巻きに眺めていた。
男性の案内で通されたのは、社長室だ。
「呼び出して申し訳ない。システム異常の件、詳しく聞かせて欲しいんだが。川北さんについては、以前から人事記録で存じておりました」
社長は俺をまっすぐ見てそう言った。俺は答えようとしたが、騒井がすかさず割り込んだ。
「社長、申し訳ございません。昨夜の件はこの者が余計な騒ぎを起こしたせいで、決して社長が気にされるようなことは……」
「誰が君に聞いた? 私は今、こちらの川北さんに話をしている。それに、実際サイバー攻撃の予兆だったと判断できる内容だっただろう」
社長の鋭い口調が騒井を黙らせる。
「今は部外者の身で恐縮ではございますが、セキュリティシステムに真剣に向き合っていれば、すぐに気がつける内容だったかと」
俺は改めて、昨日の騒井の話を立ち聞きした時のことを順を追って説明する。アラートが繰り返し出ていたこと。通信量の異常、ログイン失敗のログ。どれもたまたま起こりうることだが、頻度が高すぎると感じたことを。
社長はちらりと騒井を見た。
「投げかわしい。本来、君たちセキュリティ部の者が一番に気がつかなければならないことを」
「じゃ、社長……」
騒井は顔を真っ赤にして震えている。
「それにしても、あなたほど優秀な方がどうして退職を? 何かご事情が?」
社長の問いに、俺は騒井を見る。騒井はまるで言うなと言わんばかりに俺を凝視していた。
「実は私は、以前こちらの騒井係長の元で働いていました」
俺が口を開くのとほぼ同時に、騒井は声を張り上げる。
「社長! 川北はミスを繰り返して、自分からやめていった人間です。そんな人間の話は……」
「さっきから何なんだね、君は」
騒井の喉の奥から、息を飲む音が聞こえた。社長は咳払いをする。
「続きをどうぞ」
社長が促し、俺はこの際だからと洗いざらい話すことにした。俺が3年前、なぜ自ら退職したのかを。
ちょうど話し終わる頃、社長と第三者の声が割り込んだ。俺たちをこの社長室へ案内した男性だった。
「川北さんについて話をしたいと言っている社員が来ています。松と名乗っておりますが、いかがなさいますか?」
松。思わず聞き返した。騒井も驚いて目を見開いている。
「お知り合いですか?」
「ええ。松君は騒井さんの部下で、私の元後輩です」
社長はしばし沈黙した。
「分かりました。お通しするように」
社長が男性に告げると、ほどなくして松が入室する。いつもの気さくな表情ではなく、何か決意を込めた険しい顔つきだった。
「サイバー攻撃の件で騒井係長と川北さんが呼ばれていると聞いて、それで……」
松の声は若干震えている。しかし、きっと騒井を睨みつけ、あるものを社長に向かって差し出した。小型の録音機器だ。
「ここに騒井係長の声が録音されています。最近撮ったものなんですが……3年前、川北さんを退職に追い詰めた自白の言葉が入っています」
「松! 社長、それは捏造された録音です。信じてはいけません!」
社長は松、俺、そして騒井の顔を順に見る。そして黙って録音の再生ボタンを押した。
『それにしても、まさか川北が警備員になってうちに配属されるなんてな。本当、落ちたもんだぜ。ま、期待の新人なんて持ち上げられて調子に乗ってたんだろう』
あざ笑う騒井の声が再生される。
『そうなんですか』
相槌を打つ松の声が混ざっている。騒井の声がさらに続く。
『ま、ちょっと俺が工夫すりゃ、ざっとこんなもんよ。警備員にまで落ちるとこまでは想定外だったけどな』
『工夫ですか? さすが騒井さん』
松が持ち上げるので気分が良くなったのだろう。そこから騒井はこま細かに、俺に対しての嫌がらせを暴露した。もちろん、奪った功績に関しても余すところなく。
「これは……」
社長は絶句していた。
「松君、これ……」
俺も驚きのあまり松を見る。
「僕、ずっと後悔していたんです。川北さんが辞めるなんておかしい。でも証拠がない。だから、再開できてもしかしたら今からでも何かできるかもって。それで……」
「そうだったのか」
まさか松がそこまで思い詰めていたとは思わなかった。松に感謝を込めて頭を下げる。
「ありがとう」
「こ、これは陰謀だ! 松が俺を嵌めたんだ。そうだ。川北と共謀して。そうか。サイバー攻撃もお前らが仕組んだことだな!」
騒井は言っていることがめちゃくちゃだ。
「騒井係長、もういい。君の話は聞くに耐えない」
社長が冷たく言い放つと、騒井は余計にあたふたする。
「社長、違うんです。私はそもそも課長や部長に気に入られたくて、それで……」
破れかぶれになった騒井は、聞いてもいないことを暴露し始める。そもそも発端は、新人の身で期待されていた俺への嫉妬だった。課長たち上司にも早くも気に入られていた俺を蹴落とし、自分が気に入られようと画策したのだという。
「見苦しい」
俺は思わずぽつりと呟いた。こんな男のために、俺は気持ちを病んで会社を去ったのか。
「どうやらセキュリティ部の人事そのものにも問題があるらしいな」
社長は大きなため息をつく。それから、俺に対して深く頭を下げた。
「この件は松君が持ってきた証拠も含めて、よく調査いたします。今回情報漏洩を未然に防げたのはあなたのおかげです。本当にありがとうございました」
社長が俺に頭を下げるのを目の当たりにして、騒井は口をパクパクさせるしかない。
俺は去り際、騒井の耳元でそっと呟いた。
「騒井さん、あなたは言いましたよね。立場をわきまえろと」
その瞬間、騒井はその場に崩れ落ちた。
その後、騒井は更迭された。俺の指摘を無視した結果トラブルが起きたせいもあるが、松が持ってきた録音データの存在が何より大きかっただろう。騒井の過去は暴かれた。俺は正式に会社から謝罪を受けた。戻ってこないかという声もあったが、俺は断った。
ITの仕事に未練がないかと言われれば、嘘になる。だが会社は元の職場の他にもたくさんあるのだ。学歴じゃない。肩書きの数でもない。本物の技術と積み上げてきた経験があれば、道は必ず開ける。中卒の俺が、それを証明してみせた。
「川北さん、お疲れ様です」
数ヶ月後、配属場所が変わった今も、松との交流は続いている。
「僕、いつか独立したいんです。その時もしも川北さんさえよかったら、力を貸してください」
俺は黙ってうなずいた。道は1つじゃない。俺はこれからも、自分の道を選び続けていく。



