「夜は私とあなたの2人だけってことですか?」
初めての民泊のお客さんにそう言われた時、俺は自分の準備不足を痛感した。
俺の名前は山川カイト。31歳。2年前まで都内のブラック企業で働いていた。残業地獄で心身ともにボロボロになっていたちょうどその頃、祖父が亡くなった。山奥にある古い祖父の家をどうするかで親族会議が開かれ、誰も引き取ろうとしない中、俺は幼い頃の楽しい記憶を思い出して手を挙げていた。
「俺がその家を引き取るよ。」
こうして俺の田舎暮らしが始まった。近所のおじいちゃんおばあちゃんたちは毎日のように様子を見に来てくれて、野菜をくれたり掃除を手伝ってくれたりした。心の傷は少しずつ癒えていった。だが2年も経つと貯金の残りが心配になってきた。
食料は自給できる。だが生活費はかかる。俺は思い切って民泊を始めることにした。都会で疲れた人に自然を体験してもらおうと思ったのだ。料理は近所のおばあちゃんが手伝ってくれることになり、SNSで「1日1組限定」と告知するとすぐに予約が入った。
初めてのお客さんは29歳のアネさん。都会から来た女性だった。最初は普通に会話していたのだが、彼女は何やら落ち着かない様子だった。
「ここの家の人は現在外出中ですか?」
「この家には僕しか住んでおりませんけど。」
「え、じゃあここの民泊は山川さんがお1人でされているんですか?」
「あ、ああ。でも料理に関しては近所の方にお願いしてあるのでそこはご安心ください。」
「ということは夜は私とあなたの2人だけってことですか?」
そこでやっと気づいた。彼女は見知らぬ男性と一晩を過ごすことに不安を感じていたのだ。その日は気まずい空気のまま、お散歩に誘って何とか雰囲気を変えた。自然の中で歩いていると、アネさんは子供のように目を輝かせた。
「私、都会っ子でこういう田舎での生活に昔から憧れているんです。」
「実は僕も仕事で体が壊れかけてしまったので2年ほど前にここに来たんです。」
さっきまでの緊張が嘘のように、俺たちは自然を楽しみながら会話をした。散歩の途中で出会う村の人たちは、アネさんを「彼女さん」と勘違いしてきゅうりを大量に持たせてくれた。その日、村の高齢化の話になった。
「このままだとこの村には誰もいなくなっちゃうね。」
きゅうりのおばあちゃんがため息をついた。アネさんは真剣な表情で言った。
「山川さん、私ここの村が好きです。絶対にまた来るのでここの民泊を続けてください。」
その言葉はとても力強かった。
数ヶ月後のある日、緊急の親族会議が開かれると連絡を受けた。だがその日は民泊の予約が入っていて参加できなかった。翌日、母から電話がかかってきた。
「いきなりだけど、あんた子供育てられる?」
想定外の質問に俺は思わず聞き返した。話を聞くと、母の従弟が1週間前に失踪したらしい。しかもその従弟には7歳の娘がいるという。問題はその残された女の子をどうするかということだった。
「それがね、おじさんはカイトの家で引き取って欲しいって言うの。」
「ちょっと待ってよ。俺は独身の30男だぞ。」
「お母さんたちも話し合いに参加できなかったもんだから、1度確定したことを強く否定もできなかったのよ。」
「え、嘘だろ?」
「お母さんだって何度も説得したのよ。代わりにうちで引き取ろうかとも聞いてみたんだけど、カイトの家は自然も多くて広いから1番いいだろうって。ああ、それにね、カイトが民泊を始めたのをなぜかおじさんも知ってたのよ。」
母は一方的に電話を切ってしまった。そして翌日、叔父が車でやってきた。叔父に手を引かれて車から降りてきた少女は、無言で俺に頭を下げた。ケイちゃん。7歳。俺はしゃがみ込んで笑顔を作った。
「ケイちゃん、初めまして。よろしくね。」
彼女は何も言わず、ただ俺を見つめるだけだった。叔父が小声で呟いた。
「この子は笑わないんだ。」
「え?」
「まあ、俺にも色々あってな。それにあの子は都会から離れた方がいいんだ。」
叔父はその言葉だけを残して帰ってしまった。俺が呆然としていると、ケイが俺のシャツの袖をぐっと引っ張った。振り返ると、彼女は涙を流しながら俺を見ていた。幼いながらも、自分が厄介扱いされていることを悟ったのだろう。
「大丈夫だよ。今日からはカイトお兄ちゃんが一緒にいるんだから。」
そう言って俺はケイの頭を撫でた。散歩に出ると、ケイは周りをキョロキョロと見渡しながら歩いていた。タンポポの綿毛を見つけてじっと眺めている。俺はその隣にしゃがんで、綿毛を吹き飛ばそうとした。だが張り切りすぎて息を吸い込みすぎ、むせてしまった。
「ゲホッ、ゲホッ…」
涙目になりながらケイの方を見ると、それまで閉じていた口が少しだけ震えていた。
「ケイちゃん、笑うのをこらえてない?」
彼女はこくりと頷いた。
「どうして笑うの?」
ケイは少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「笑うとママに怒られるから。」
「え、だから笑いそうになっても我慢してるの?」
ケイはまた頷いて、再びタンポポを眺めていた。子供が笑うのに叱るなんて、俺は会ったこともない母親のことを不審に感じた。挨拶回りを済ませて家に帰ると、玄関の前に一人の女性の姿が見えた。予約は入っていなかったはずだが…。携帯を取り出そうとした瞬間、ケイが突然その女性に向かって走り出した。
「お姉ちゃん!」
「え?」
慌てて駆け寄ると、そこにいたのはアネさんだった。アネさんも目を丸くしている。
「ケイちゃん、なんでここにいるの?」
「アネさんこそどうしてここに?というかケイちゃんのことを知っているんですか?」
俺は混乱しながらも、家の中に入って話を聞くことにした。アネさんは雑誌の編集者で、過去にケイにインタビューしたことがあるらしい。ケイは信じられないほどの記憶力を持ち、「天才少女」と呼ばれるほど有名だったという。俺はテレビを見ないので全く知らなかった。
「ちなみにどうしてそのケイちゃんが山川さんのところに?」
俺はケイの母親が失踪したこと、笑うことを禁じられていたことなどをありのまま話した。するとアネさんは深いため息をついた。
「やはり…。」
アネさんの話によると、ケイが有名になった途端、テレビ出演料などで巨額のお金が家に転がり込んできた。貧しい生活をしていた母親は金銭感覚が麻痺してしまい、金遣いが荒くなっていった。そしてブームが去り出演オファーが激減すると、貯蓄はすぐに底をつき、母親は精神的に不安定になって幼いケイに強く当たるようになったらしい。
「インタビューしていた頃に彼女のお母さんにもお会いしましたが、ケイちゃんがちょっと大きく笑っただけで激しく叱っていました。注目されている時だけ可愛がられてブームが去った瞬間に相手にされなくなる。ケイちゃんだって辛い経験をしているはずなのに、1番の身内である母親がその子を見捨てるなんてあまりにもひどすぎますね。」
アネさんは目を潤ませながらそう言った。すると庭で遊んでいたケイがこちらに歩いてきた。
「アネお姉ちゃんはここにいつまでいるの?」
その質問で、もう1つの疑問が再浮上した。そういえばアネさんはどうしてここに来たのだろう。するとアネさんは気まずそうに顔を赤くした。
「あの、実は元彼から逃げてきたんです。」
「え?」
彼女が初めてここに来た時、数日前に彼氏の浮気が発覚していたらしい。浮気相手はアネさんの職場の同僚だった。彼氏からも同僚からも騙されていたことにショックを受け、現実逃避のためにここに来たのだという。そして自然と人の温かみで心が癒されたアネさんは、思い切って別の雑誌編集者へ転職し、マンションも引っ越した。しかし元彼は新しい職場を調べて乗り込んできたという。
「このままでは住所もバレそうと怖くなって、必要最低限の荷物だけをまとめて改めてここに来たらしいんです。」
アネさんは話を終えると真剣な表情で俺の方を一度見て、突然頭を下げた。
「山川さん、一生のお願いです。しばらくここにいさせてくれませんか?家事でも何でもお手伝いしますから。」
俺の答えに迷いはなかった。
「アネさん、頭をあげてください。もちろんいいですよ。アネさんを騙しておきながら未だに追いかけてくるような勝手な男なら、次に何をしでかすか分かりません。まずは警察にも相談して、落ち着くまでここにいてください。」
「ありがとうございます。」
アネさんは涙を流しながら改めて頭を下げた。するとケイがアネさんの方に歩いていき、ぎゅっと抱きしめた。
「ケイもお姉ちゃんのこと守るね。」
「ケイちゃんありがとう。」
こうしてこの家は一気に賑やかになった。食料を買いに町へ出かけ、ケイを真ん中にして3人で手をつないで歩くと、まるで俺に家族ができたように感じた。ケイはまだ笑わないけど、「楽しい」「嬉しい」という言葉を言う頻度が増えてきた気がする。この幸せな時間がずっと続けばいい。俺はそう願っていた。
だが、それからわずか数日後。この家に突然アネさんの元彼がやってきた。畑から野菜を収穫して戻ると、玄関でアネさんと元彼が対峙していた。
「あなた、どうしてここに…」
怯えながら後ずさるアネさんに、元彼は笑顔で歩み寄っていく。
「ああ、俺が悪かったよ。もうあいつとは別れたからさ。もう一度よりを戻そう。」
俺は慌てて2人の間に入った。すると部屋の奥からケイが飛び出してきて、突然元彼のことを指さした。
「ケイ、この人知ってるよ。アネお姉ちゃんのインタビューの時に写真撮っていた。」
「誰だこのガキは?」
「ケイちゃん、よく覚えていたね。すごい。」
アネさんが状況を説明してくれた。元彼はアネさんの以前勤めていた会社でカメラマンをしていた。ケイの言う通り、元彼はケイのインタビューの時に撮影を担当していたのだ。男はケイを見つめると当時のことを思い出したらしい。
「ああ、あの天才少女とか呼ばれてたやつか。今じゃすっかり見なくなったと思ってたけど、こんな何もない田舎に住んでたんだ。だいぶ落ちぶれたね。」
元彼は子供相手にゲラゲラと笑っている。するとケイが続けた。
「この人、インタビューが終わった後に女の人とくっついてるのも見たよ。女の人の髪の毛は金色で、シャツはピンクだった。」
ケイの発言に、アネさんの表情は一瞬にして怒りへと変わった。
「その女の人ってリサのことでしょ?あなた、リサとの関係は先月からって言っていたけど、本当はそんな前からだったのね。」
「お、おい、そんなの人違いだろう。」
元彼が動揺していると、彼のズボンに入っていた携帯が鳴り出した。慌てて携帯を取り出した瞬間、俺は彼のスマホを奪い取った。
「あ、お前何するんだ!」
やはり携帯の画面には「リサ」という名前が表示されていた。俺は迷うことなく電話に出た。
「あ、もしもし。リサさんですか?今の彼氏がアネさんとよりを戻そうと家までやってきて迷惑なんです。もう2度とここに来ないように言ってもらってもいいですか?」
電話の向こうで何やら叫んでいるようにも聞こえたが、俺は全てを無視して電話を切った。そして勢いそのままに元彼の目の前に立った。
「俺の彼女だ。だからもう2度と彼女に近づくな。」
元彼は手を震わせながら携帯を受け取り、真っ青な顔で去っていった。するとアネさんは泣き崩れながら俺に感謝を述べた。
「山川さん、本当にありがとう。ケイちゃんもありがとう。ケイちゃんの力のおかげでお姉ちゃん助かったんだよ。」
「ケイ、お姉ちゃん守れたの?」
「うん。もう100点満点だったよ。」
するとケイの口角が少しだけ上がり、ちらっと歯が見えた。その瞬間、俺とアネさんは顔を見合わせて声をあげた。
「ケイちゃん、今笑ってたよ。」
「え、本当?」
ケイは驚きながら俺とアネさんを交互に見上げた。
「本当だよ。ケイちゃんの笑顔、とっても素敵だった。」
そう言ってアネさんはケイを抱きしめた。その瞬間から、ケイの中の何かが解放されたのか、可愛らしい笑顔を見せてくれるようになった。
その日の晩、夕飯の後片付けをしていると、アネさんが小声で俺に尋ねてきた。
「彼を追い返した時に言ったことって…。」
俺は自分の発言を思い出し、顔が熱くなった。
「ああ、あれはその場の勢いというかなんか…すみません。」
するとケイが突然割って入ってきた。
「でもカイトお兄ちゃんはアネお姉ちゃんのことが好きなんでしょ?」
「え?そ、それは…。」
しかし、ケイの言っていることは正しかった。アネさんとケイの3人での生活を始めてから、日ごとに俺のアネさんに対する気持ちは強くなっていた。俺は今しかないと思い、覚悟を決めた。
「アネさん、私と結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
俺は深く頭を下げ、手を差し出した。彼女からの返事が来るまでがとても長く感じたが、しばらくすると俺の手は温かさに包まれた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
またしてもケイのサポートによって、俺と彼女の交際が始まった。俺たちは安定した収入を確保するため民泊を再開した。山や畑の野菜などで宿泊客に料理を振る舞い、ケイは飛き切りの笑顔で観光名所のガイドを手伝ってくれた。こうして3人で協力していったことで、ここの民泊の予約は次第に増えていった。2年後には地元の人たちの協力もあり、手作りの結婚式を挙げることができた。俺たちは晴れて夫婦となり、ケイを養子として迎えた。家族のようだった3人は、本当に家族になれたのだ。
その後ケイは勉強に励み、都心部の大学へ進学した。「卒業したら絶対帰ってくるから。それまで待ってて。」ケイはキラキラと眩しい笑顔で言った。
「本当に帰ってきてくれたら嬉しいけどさ、1番はあの子がやりたいことをやらせてあげたいよな。」
「まだまだ先の長い若者にこんな山奥は物足りないだろうからね。」
俺がそう言うと、アネも寂しそうな表情をしながらも賛同してくれた。しかしそれから4年後、ケイは本当に帰ってきてくれたのだ。
「ケイちゃん帰ってきたんだね。みんなでお祝いしましょうよ。」
ケイを孫のように可愛がっていた村のおじいちゃんやおばあちゃんたちは、自分のことのように喜んでくれて、ケイの卒業祝いを開いてくれた。俺たちの家に村の住人たちがぞろぞろとやってくる中、ケイは大きな鞄の中からプロジェクターを取り出し、真っ白な壁に映像を映し出した。
「ねえ、みんな。この村で体験教室をやってみない?」
ケイからの突然の提案に会場は静まり返った。その後もケイが村人たちに向かってプレゼンを行うと、次第にみんなの表情が明るくなっていった。大学在学中、ケイはずっと村の過疎対策を真剣に考えてくれていたのだ。若者を集めるためには農業に変わる産業が必要と考えた彼女は、地域性を生かした体験型の観光をひらめいたのだ。
「山菜取りも流しそうめんも竹とんぼ作りも、地元料理を作ることも、この村ではあらゆることが体験できる。そして村人たちが先生となって観光客に教え、継承していく。私はね、この村の人たちからいろんなことを教わったの。山菜もそうだし、わらじの編み方だって。そう、この村の人たちはみんな何かの達人だったり職人だったりするの。私はそれが誇らしいから、もっと多くの人に知ってもらいたいんだよね。」
ケイの熱い気持ちに、その場にいた全員が拍手を送った。最初は民泊の宿泊客にオプションとして案内してみた。元々民泊の客層は自然を求めてくる人がほとんどで、体験教室の評判はそれなりに良かった。そして少しずつ観光客が増えていき、町から村へ走るバスも増えるようになった。もちろん体験だけで終わる人もいたが、この村への移住希望者も確実に増えていき、今では若者や子供の姿も見かけるようになった。昔からいる村の人たちも以前に比べて生き生きとしている。
「ケイ、ありがとう。ケイのおかげで村に活気が戻ったんだよ。村のみんなも本当に喜んでる。」
俺たちは縁側に3人並んで座り、ゆったりとした時間を過ごしていた。
「ケイは私とカイトを結んでくれたし、村の人たちにまで幸せを運んでくれた。あなたは幸運の女神だね。」
「女神だなんてやめてよね。私はお父さんもお母さんもこの村の人たちもみんな大好きで帰ってきただけなんだから。」
ケイの幸せそうな笑顔に釣られて、俺もアネも満面の笑みを浮かべたのだった。



