ショッピングモールでの楽しい時間はあっという間に過ぎ、俺と妻の楓は暗くなった裏道を歩いて家に向かっていた。
買い物袋を両手に提げた俺は、前から電話をしながら大股で歩いてくる男に気づいた。男はこちらに気づく様子もなく、すれ違いざまに興奮したように手を振り上げた。
その手が楓の体に当たった。
「楓、大丈夫か?」
「うん、平気」
楓は無言で立ち去ろうとする男を睨みつけると、追いかけてその腕を掴んだ。
「ちょっと、あなた」
男はだるそうに振り返る。楓は普段はおとなしいが、正義感が強い。マナー違反を見つけると注意しないと気が済まないのだ。
「今、手がぶつかったの、気づいてたわよね。謝るのが当たり前じゃない?」
「あ? なんかうぜえやつに絡まれたからかけ直すわ」
男は電話を切ると、楓に向き直った。
「うっせえ女だな。お前がちんたら歩いてるのが悪いんだろうが」
「私はちゃんと道を歩いてたわよ。あなたが道を寄らないで歩いてきた上に、すれ違いざまに腕を振り上げたからぶつかったんじゃない」
「周りが俺に道を開けるのが当然なんだよ。お前がいたから手を避けられなかっただけだ」
「悪いことをしたら謝るのが当然でしょ」
俺は楓を援護しようと男に近づいた。すると、俺の顔を見た男が口を開いた。
「あれ? あんた、田中さん?」
驚いて男の顔をじまじま見つめる。暗がりですれ違う時は気づかなかったが、よく見ると見覚えがある。確か男の名前は豊田大。俺の働く自動車修理工場に入ってきたばかりの新人だ。
「お前、豊田か。久しぶりだな」
「田中さん、困りますよ。自分の女のくらいちゃんとしといてもらわないと」
俺の挨拶を無視して、豊田は顔を寄せてきた。女性を見下すような発言に腹が立ったが、道端で揉めて周りに迷惑をかけるわけにはいかない。
「俺も見てたが、ぶつかってきたのはお前だ。お前が謝るのが筋だろう」
「なんで俺が女なんかに頭下げなきゃなんねえんだよ」
「調子に乗って偉そうに言ってんじゃねえぞ。常識の話をしてるつもりなんだが」
「俺にはお前ら凡人の考えなんて当てはまらねえんだよ」
そう言って豊田はニヤリと笑うと、隣にいた楓にビンタを食らわせた。
「ちょっと、あんた急に何すんのよ!」
俺が楓を庇うと、豊田は笑いながら言い放った。
「薬剤一家の俺は無敵。家の住所教えてやる。いつでもかかってこい」
こいつが偉そうにしているのは、ヤクザの家の出身だからか。だが、俺の父がヤクザを雇うわけがない。家族がヤクザってだけで、まるで自分が偉いかのように振る舞う豊田は、まさに虎の威を借る狐だ。
家族がヤクザだろうが知ったこっちゃない。大切な妻に手を上げられて、許すことなんてできるはずがない。
「おい、今すぐ組長を連れてこい。ガキが」
「は?」
「だから、さっさとお前の家族がいるヤクザの組長連れてこいって言ってんだよ」
「田中さん、自分の言ってること分かってんの? 人会を敵に回すつもりか」
「人会なら知ってる。組長の顔も分かる。この辺りではよく名前を聞く組だが、規模はそんなに大きくはない。いいから早く呼べ。なんならお前の家族も一緒でいい」
「くそ、舐めやがって」
豊田は吐き捨てるとスマホを取り出し、電話をかけ始めた。どうやら俺のことを「ヤクザに盾突く一般人」と説明しているようだ。
「組長と一緒に閉めて欲しい」と。
電話を切ると、豊田はまたニヤニヤ顔に戻った。
「今から俺の親父が組長連れてくるからな。お前、終わったな」
「さあ、それはどうだろうな」
「けっ、強がれやがって」
しばらくして、空き地の前に黒塗りの車が到着した。中からスーツを着た男性が二人降りてきて、俺たちの方に近づいてくる。
「お前が豊田の息子か?」
「はい、そうです。で、ヤクザを舐めてるっていうのは……」
豊田が答えるが、組長は俺の顔を見た瞬間、血の気が引いていくのが分かった。
「組長、どうされましたか? こいつが何か?」
「相手がこの人だと知っていたのか?」
「え? いや、俺はただ息子から、ヤクザに盾突くやつがいるから閉めて欲しいとだけしか…」
「馬鹿野郎が! この人のことを知らねえのか? 日本最大の暴走族・神連合の時期長だぞ」
豊田は驚いたように固まり、一気に顔面蒼白になった。豊田の父親も俺の顔を見て固まっている。
そう、俺は自動車修理工場で働いているだけでなく、神連合の時期長なのだ。俺が暴走族に所属していることは父も知っている。だが、ちゃんと仕事をするなら、プライベートで何をしていようが気にしないと言ってくれた。
神連合は日本最大の暴走族で、所属人数も人会なんて比にならないほど多い。さらに日本最大となった一番の理由は、喧嘩の強さにある。自ら喧嘩を売るようなことはしないが、売られた喧嘩で負けたことはない。
俺が神連合の時期長になる前、俺の腕を見込んだ人会の組長からスカウトを受けたことがあった。その時に断ったから、お互いの顔は知っている。
「お前、なんでそんな人に目をつけられたんだ?」
「いや、だってこいつの女が俺にちょっかい出してきたから」
「日本最大の神連合が動けば、俺らの組なんて一瞬で潰されちまうんだぞ。そんなことも分からねえのか」
「すみません。こいつが神連合の時期長なんて知らなかったから」
組長が俺に向かって頭を下げる。
「この度は組員のバカ息子がご迷惑をおかけしたようで申し訳ない。どうかここはお手柔らかに」
「あなたが悪いわけではないが、組員の家族が起こしたことへの監督不行き届きの責任はありますよね」
「あ、はい。それはもちろん。まずはそいつに妻への謝罪をさせてください」
「おい、お前、さっさと奥さんに謝れ」
「あ、悪かったよ。色々言われてついカッとなって手を出しちまって、本当に申し訳なかった」
豊田は楓に頭を下げた。楓が俺に向かって頷く。
「妻は謝罪を受け入れるようなので、俺はこのことを大事にするつもりはありません」
「あ、ありがとうございます」
「ただ、家族がヤクザだからって調子に乗ってるそいつを、このままにしておくつもりですか? 人会はそんな風に一般人を脅すのをよしとしているのですか?」
「そんなことはありません。こいつとこいつの息子の始末は、組として責任を持ってやらせていただきます」
「組長、ちょっと待ってくださいよ。悪いのは息子です。俺は関係ありません」
「親父、息子見捨てんのかよ」
「当たり前だ。お前も大人なんだから、自分のケツは自分で拭け」
「そ、そんな…。なあ、田中さん。頼むよ。謝ったんだし、助けてくれよ」
組長と父親に見捨てられた豊田は、泣きそうになりながら俺にすがってくる。
「なんで俺が助けると思うんだ? 妻に手を上げられたんだぞ」
「だ、だからそれは謝って奥さんも受け入れてくれたじゃねえか」
「妻が受け入れたから組長に任せることにしたが、本当なら俺の手でボコボコにしてやりたいくらいだ。この場で病院送りにされないだけありがたく思え」
「そ、そんな…。俺が組に始末されたら、あんたのとこの仕事どうするんだよ。人が減ったら困るのはそっちじゃないか」
「お前の勤務態度が良くないことは聞いてるから、いなくなったって困りはしないよ。他の社員たちも喜ぶだろうさ」
俺が豊田を覚えていたのは、豊田の勤務態度について部下から相談を受けたことがあったからだ。遅刻や無断欠勤が多く、何度注意しても改めず、怒られれば不貞腐れる。そんな奴がいては、他の頑張っている社員の足を引っ張るだけだ。
俺の言葉を聞いた豊田は絶望した顔になり、その場にへなへなと座り込んだ。
「それでは、組としてどう始末をつけたのか、後から報告してください。連絡先は分かりますよね」
「はい、大丈夫です。それでは後のことはお任せします。神連合を敵に回したくなかったら、それなりの対処をしてくださいね」
俺は組長にそう言い残し、楓を連れてその場を後にした。
後日、組長から連絡があり、豊田と父親がどうなったか教えてもらった。
豊田の父親は、息子が組の名を汚し、潰される危険を犯した責任を取らされ、組から追い出されたらしい。
豊田は俺の父の修理工場を辞めさせられ、最低でも5年は組の下働きとして24時間使われることになったそうだ。豊田には奥さんがいたらしいが、仕事をなくした上に、普段からの女性を見下す態度に嫌気が差したようで、離婚して欲しいと言って家を出て行ってしまった。
そして豊田から暴力を受けていたとして、奥さんから慰謝料を請求され、支払うことになった。豊田の父親は家を売って金を工面したのだとか。息子のせいで組を追い出され、家まで失うことになった父親は豊田と縁を切り、奥さんを連れて遠くに行ってしまったらしい。
豊田は孤立無援となったのだそうだ。
下働き期間を豊田が無事に終えることができるのか、それとも逃げ出して組に追われることになるのか。それは俺には分からないことだが、今回のことを教訓にして、豊田が少しでも自分の態度を改めてくれたらいいと思う。
「暴走族の龍一の顔、久しぶりに見られたな。このまま喧嘩が始まるんじゃないかってヒヤヒヤしたよ」
「怖い思いをさせてごめんな」
「違う違う。ヒヤヒヤしたのは、龍一が怪我するかもって思ったからよ。一人で何人も相手にして、しかもヤクザだし。さすがの龍一も怪我するかもって」
「それなら心配ないさ。あんな奴ら何人いようが負けはしないよ」
「私のために怒ってくれた龍一はかっこよかったけど、普段怒るところなんて見ないもの」
「楓に怒ることなんてないよ。大切な俺の奥さんなんだから」
「ありがとう。でもあんまり喧嘩しないでね。心配だから」
「承知しました」
俺が苦笑いを返すと、楓は面白そうに笑って俺の肩を叩いた。
俺がこうして幸せな日常を送れるのは、楓の存在があるからだ。数年前、俺がまだ特攻隊長として暴れ回っていた頃に楓と出会った。タバコを吸っていた俺が道端にポイ捨てするのを見かけた楓が、俺に注意してきたことがきっかけだった。明らかに暴走族だと分かる風貌の俺を前に、当たり前のように注意してくる楓に一目惚れした。
ポケット灰皿を当たり前のように持ち歩くようになり、俺も丸くなったなあとたまに思うが、そんな自分が嫌いではない。
あの時から楓はずっと俺の大切な人で、今は大切な妻だ。楓との幸せのためなら、俺はどんなことだってできる。楓とお腹の中にいる新しい家族のためなら、俺はこれからも自分の家族を守りながら、自分の信じた道を突き進んでいくつもりだ。


