夫の隣にいる見知らぬ若い女性。それが、私への離婚宣言の場面だった。義実家で「大事な話がある」と言われて連れて行かれ、夫と義母の前に座った私は、その光景に凍りついた。
「紹介するよ。新しい嫁の萌花だ」
萌花は勝ち誇ったように、少し膨らんだお腹を撫でながら私を見下ろした。妊娠5か月だと言う。義母もニヤニヤしながら頷いている。二人はすでにこの話を知っていたのだ。
「そういうわけだから、さっさと離婚してくれる?私の可愛い息子のためなの」
私は落ち着いて告げた。
「早く離婚してほしい?とっくに離婚済みですけど」
夫はヘラヘラと笑った。私が冗談を言っていると思ったらしい。でも、私は本気だった。
「残念だけど、本当のことなの。ずっと前から考えていたことだから」
私は務めていた出版社が倒産してから無職になった。夫はそれを馬鹿にして、喧嘩のたびに記入済みの離婚届をちらつかせて、私を従わせるようになった。「離婚したら一文無しで困るだろ」が口癖だった。私はうんざりしていた。だから、お望み通りにしたのだ。夫が用意した離婚届を探し出して、私も記入して、役所に届けた。
夫は目を丸くした。しかし、すぐに下品な笑みを浮かべた。
「なんだ、それなら好都合だ。今から役所に行く手間が省けたよ。すぐに萌花と再婚する。お前とはもう赤の他人だ。金がないからって、すり寄ってくるなよ」
義母は宝石を見せびらかしながら、私に歪んだ笑みを向けた。
「これでやっと、子供を産めない役立たずとおさらばね。最初からあなたはエリートの息子にはふさわしくなかったのよ」
「それに比べて萌花さんはダメ嫁とは大違い。見てよこの宝石。萌花さんがプレゼントしてくれたのよ」
三人は声を揃えて笑ったが、私の心には何も響かなかった。ここからが本番だ。私は背筋を伸ばし、堂々と言い放った。
「再婚する気満々のようだけど、許可してもらったの?萌花さんの旦那さんには」
夫は困惑した。
「旦那?どういう意味だ?萌花は独身だろうが」
「ああ、お母さんもご存知ないようだから教えてあげますね。萌花さんはすでに別の男性と結婚されてますよ。既婚者なんです。だから再婚なんてできません」
三人は一瞬固まったが、すぐにまた笑い出した。
「おいおい、嫉妬に駆られてそんな嘘をつくなんて、お前本当に器の小さい女だな」
萌花も「私は心が広いので、このくらいは許してあげます」と余裕ぶっていた。
私は躊躇なく私の言葉を否定した萌花を見て、やっぱりなと一人納得した。そう簡単に折れるような相手なら、そもそも浮気などしないだろう。私は鞄から一枚の紙を取り出して、夫たちに見せた。
「これは私が受けた不妊検査の結果です。夫婦で検査を受けようと提案したけど、あなたは拒否した。私はなんとか自分の検査だけは受けることができた。そして、調べてもらった結果、あなたが不妊だと判明したんです」
夫の顔色が変わった。
「そ、そんなはずはない。普通、そんな一大事は真っ先に話し合うだろう。これは偽物だ」
「伝えようとしたわよ、私だって。でもあなたはちょうどその頃から私を避け始めたじゃない。帰宅は遅くなるし、休日すら仕事だと言って出かける。電話やメールも無視されて、どうやって知らせろって言うのよ」
私の凄まじい剣幕に押され、夫は後ずさった。義母も驚いている。私は深呼吸をして落ち着きを取り戻し、続けた。
「そんな時だったわ。あなたの浮気を知ったのは。あなたがリビングで寝ている時、スマホにメッセージが届いたのよ。『この間の夜は楽しかったね。激しいさんも素敵』。送り主の名前は萌花」
夫も義母も黙り込んだ。私は彼らの前に立ち、怪しい笑みを浮かべた。
「夫が不妊なら、萌花さんのお腹の子は誰の子供なのかしら」
萌花は必死に自己弁護したが、夫と義母の目は冷たかった。検査結果に書かれていた病院は、夫も義母もよく知っている不妊治療で有名な病院だったのだ。
「この検査結果の信憑性に疑問があるなら、今からここに書かれた番号に電話してみましょうか」
私がそう言うと、萌花は俯いて黙り込んだ。しかし、さすがに既婚者でありながら浮気する女だ。すぐに顔を上げ、涙を浮かべて夫に訴えかけた。
「科学的な根拠があったとしても、私が独身なのは変わらない。検査では不妊でも、妊娠の望みがないとは言いきれないでしょ。私はさん一筋なの。全身全霊でさんを愛してる。その思いが奇跡を呼び起こしたのかもしれないじゃない」
夫はそれに乗せられた。
「そうだな。この世には科学で説明できないことがたくさんあるんだ」
ここだけ世界が切り離されてしまったかのような盛り上がりだ。はっきり言ってどん引きである。私は彼らの目を覚ます一言を口にした。
「お取り込み中悪いけど、萌花さん。あなたの旦那さんである誠也さんは、もう帰国しているわよ」
萌花は「え、誠也が帰国?」と叫んでから、両手で口を抑えた。時すでに遅し。夫は萌花の手を離し、軽蔑した表情で彼女を見つめた。
「私はあなたの浮気を確信して、探偵事務所に調査を依頼していたの。萌花さんが既婚者であることも、あなたの旦那さんが海外にいることも突き止めたわ。そして、あなたの旦那さんに全部教えてあげたのよ。共通の目的のためにね」
すると、タイミングよく私のスマホが鳴った。萌花の夫の誠也からだった。スピーカーに切り替えると、「今そちらの義実家の近くに来ています」と言う。萌花は青ざめ、絶叫しながら玄関へ走り出した。しかし、玄関の扉はロックされていた。それは私が仕掛けたのだ。義実家に着いた時に玄関で女性物の靴を見つけた瞬間、勘で閉めようと思ったのだ。
誠也が現れ、萌花の首根っこを捕まえて、丁寧に頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ございません。萌花の夫の誠也と申します」
全員が着席すると、萌花は弁解を始めた。
「誠也さん、誤解なのよ。私も寂しかったの。誠也さんは仕事で忙しかったじゃない。でも、私が心から愛してるのは誠也さんだけよ。さんとは、出来心で遊びに過ぎないの」
「言いたいことはそれだけか。実にお粗末な言い訳だな。でも、俺も一度は愛した女だ。初犯だったら許したかもしれないな」
「初犯だったら?」と夫が割り込んだ。誠也は夫の方を向いて深く頷いた。
「萌花には前科があるんです。彼女は僕に内緒で大量のブランド品や化粧品にお金を費やしたことがあります。そして、今回と同じように浮気をした経験があって、その時僕は彼女を許しました。次は絶対に許さないという約束をして、また夫婦として再構築を始めたところだったんです」
夫はようやく気持ちに区切りがついたようだった。
「最後までお前の負け惜しみだと思っていたかったけど、萌花が既婚者というのは本当だったんだな。俺が不妊で子供が望めないということも。何が奇跡だよ。俺はあいつに持て遊ばれていただけじゃないか」
義母は「じゃあ、萌花さんのお腹にいるのは本当に私の孫ではないの?」と泣き叫ぶ。私はきっぱりと言った。
「お母さん、まだ夢を見てらっしゃるんですか?萌花さんのお腹の子の父親は誠也さん。それが現実的な見方だとお気づきになりませんか?一番ひどい目にあったのは私だということをお忘れなく」
すると思いがけない展開になった。夫が私に向かって頭を下げたのだ。
「りこ、すまなかった。俺は本当に大切にするべき人間を間違えたようだ。萌花とは別れる。もう二度と会わないし連絡も取らない。だから、俺たちもう一度やり直せるよな」
私は呆れて声も出なかった。
「何を狂ったこと言ってるの?私はあなたを許す気なんてないもの。逆にどうして許されると思っているの?浮気だってうやむやにしないわ。しっかり慰謝料請求するから覚悟してちょうだい」
すると夫の目つきが変わった。やはり反省などしていなかった。
「ちっ、こんな地味な女とわざわざ結婚してやったってのに、感謝の一つもねえのかよ。エリートの俺が声をかけてやったんだぞ。浮気の一つや二つ見逃せよ」
夫は私だけでなく、萌花や誠也にも噛みつき始めた。三人は互いに胸ぐらを掴んだり、髪の毛を引っ張ったりして、その場は大混乱に陥った。義母は相変わらず自分の世界で悲しみに浸っている。
我慢の限界を超えた私は、両手で思いっきりテーブルを叩きつけた。
「いい加減にしてちょうだい。確かにあなたは同じ思いじゃなかったとしても、一度は夫婦の誓いを交わした相手なのよ。これ以上私に迷惑をかけないで」
夫は鼻で笑って、その場から去っていった。結局、私にも誠也にもきちんとした謝罪をすることなく。
誠也も未だ離婚を拒む萌花を引っ張っていき、私も義実家を後にした。その後、元夫の人生の転落劇は幕を開けた。誠也さんが経営する会社は、元夫が務める会社にとって重要なパートナー企業だった。誠也さんから直接苦情が入ったことで、元夫の会社は迅速な対応を取った。そもそも元夫は周囲からの評判が非常に悪く、今回の件が決定打となって、とうとう解雇を言い渡された。
さらに、浮気の代償として私と誠也さんの双方から代理弁護士を通して慰謝料を請求された。元々萌花に貢いで金を使い切っていた元夫には支払える額ではなく、借金をせざるを得なかった。どこの企業も元夫を雇おうとしない。結局、アルバイトで食いつぐしかなかった。その上、元夫は家事が何もできないから、部屋はゴミだらけになり、常にイライラして酒を飲む生活を送った。あんなに仲良し親子だった義母とも喧嘩が絶えなくなったらしい。
お金がなくなっていき、日々の生活にも困窮するようになると、最後にたどり着いた選択は同じだったようだ。あろうことか、二人は私に助けを求めようとしたのである。しかし、当然ながら私は家を出ているし、連絡先もしっかり変えていた。最後の望みもついえた二人がその後どうなったかは分からない。もう私とは関係のない人たちだ。
萌花と言うと、無事に出産はしたらしい。子供には何の罪もないから、新たな命の誕生自体は喜ばしいことだ。ただ、誠也さんから離婚を言い渡されたので、今は実家に戻って子育てをしているらしい。
最後に私はと言うと、実は会社を辞めた後からずっと趣味で書いていた小説に本格的に取り組んでいた。さらに離婚する直前には、ネットに発表した作品が大人気となって書籍化されたのだ。誠也さんは小説を読むのが好きだったらしく、ネットで小説を楽しむことが増えていた。そして、実は私が小説を発表した頃からのファンだったのだ。実に世間は狭い。
そんな縁もあり、誠也さんと私は良き友人として交流するようになる。元夫たちの追跡が思った以上に煩わしくなった私は、誠也さんの助言で外国に移住することを決意。新たな環境に身を置いたことで一層執筆活動にも力が入った。そして、海外で暮らし始めて一年後には、縁あって優しい日本人男性と再婚。子供を授かることができた。不妊と言われて遠回りしてしまったけれど、やっと幸せを手にすることができたのだ。
自分の身勝手な理由で身近な人をないがしろにすれば、結局自分が破滅するだけだということを私は身を持って知った。だから、今目の前にある幸せを大切に育んでいこうと思う。私は今日も、双子の寝顔を見ながら誓うのだった。



