会場の照明が眩しかった。俺は壇上に立ち、マイクの位置を直した。全国から集まった医師や教授たちが並ぶ最前列には、大学病院の幹部たちの顔があった。皆、最新のロボット支援手術の症例を聞きに来ている。俺の発表はその締めくくりだった。
「以上が、当院における過去5年間のロボット支援手術の成績です。」
スクリーンに最後のスライドが映り、拍手が起こりかけた。俺は一呼吸置いて、会場をゆっくりと見渡した。
俺の名前は美藤匠。39歳。大学病院では、いつしか“神の手”と呼ばれるようになっていた。
「最後に、ひとつだけ私の考えを述べさせてください。機械は意思を補助する道具に過ぎません。最後に患者の命を救うのは、人間の技術です。」
会場が一瞬静まり返った。控室に戻る廊下で、事務局の人間が小走りに追いかけてきた。差し出された封筒を握る手が、少し震えている。
「美藤先生、これを。」
中身は理事会からの異動通知だった。赴任先は海沿いの小さな町にある地方病院。初出勤日は2週間後となっている。俺は封筒をポケットにしまい、控室の机の上に置いていた古い工具箱を持ち上げた。父から譲り受けた、黒く塗られた金属の箱だ。廊下の窓から、夜の町の明かりが見えた。俺は何も言わず、ただ歩き出した。
左遷だと噂が立つだろうことは、もう分かっていた。
2週間後、俺は海風の匂う町にいた。病院までは車で15分ほどだという。着いた病院は3階建ての古い建物だった。壁の塗装は剥がれ、看板の文字も薄くなっている。玄関の自動ドアは半分しか開かなかった。委員長の佐藤正雄が、玄関で出迎えてくれた。
「遠いところ、本当にありがとうございます。美藤先生。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。今日からお世話になります。」
院内を案内されながら、俺は設備に目を通した。手術室の器械は20年前のモデルだ。CTも1台きりで、最新のロボット支援装置などあるはずもない。内科の医局を覗くと、若い医師がひとり、机に肘をついていた。パソコンの画面には、都市部の病院の求人情報が映っている。
「うちの朝倉です。優秀な男なんですが、最近少し元気がなくてね。」
「朝倉悠斗です。よろしくお願いします。」
「美藤です。若い力が一番頼りになる。これからよろしく頼みます。」
朝倉は曖昧に頷いただけだった。外来の処置室では、ひとりの看護師が黙々と器具を片付けていた。
「主任の森本さんです。彼女がこの病院を支えてくれています。」
「森本彩佳です。よろしくお願いいたします。」
俺は挨拶をして、近くの患者を診察させてもらった。腰を痛めたという男性だ。俺は脈を取り、腹部を触診し、足の感覚を確認した。そして、処置台の上の器具セットを手に取り、軽く整えてから元に戻した。その一連の動作を、森本がじっと見ていた。
「先生、失礼ですが、器具の置き方が普通の先生とは違いますね。」
「父の癖が映っただけです。すぐ次に使えるよう、刃先の向きを揃えるんです。」
「なるほど。そういうことですね。」
彼女はそれだけ言って、また手を動かし始めた。俺はその日の夕方、倉庫に向かった。ダンボールから父の工具箱を取り出す。中には古いメスや鉗子、自分で改良した補助器具が並んでいる。俺は柔らかい布を取り出し、1本ずつ磨き始めた。
1週間後、病院に大きな知らせが入った。大学病院の工藤教授が、地方医療の視察にやってくるという。事務は朝から落ち着かず、玄関のマットを何度も敷き直していた。朝倉もその日は珍しく、白衣のボタンをきちんと止めていた。
「工藤先生って、あのロボット手術の第一人者ですよね。俺、論文を全部読んでいます。直接話せるなんて、こんな機会、もうないかもしれない。」
「そうか。いい機会だ。聞きたいことは、遠慮なく聞くといい。」
森本は普段通りだった。そういう人だ。
午後2時、黒い車が玄関に着いた。工藤が車から降りてきた。仕立ての良いスーツの上に白衣を羽織っている。
「佐藤先生、お久しぶりです。相変わらず海風の強い土地ですな。」
「ようこそお越しくださいました。粗末な病院ですが、ご案内します。」
工藤の目が、俺の顔の上で一瞬止まった。俺は軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。」
院内の視察が始まった。工藤は手術室を覗き、CT室を覗き、医局を覗いた。眉間のしわが深くなっていく。手術室の前では、足を止めた。
「佐藤先生、率直に申し上げる。この設備では、救える命も救えません。ロボット支援装置も最新の画像診断もない。これでは現代医療とは言えない。」
「おっしゃる通りです。ですが、ここに通う患者さんがいる以上、我々はここに立ち続けるしかないのです。」
工藤はゆっくりと俺の方を向いた。
「美藤君、君ほどの腕を持つ男が、こんな場所で何をしている? まだ時代遅れの医療を信じているのかね? 」
朝倉が息を飲んだのが、背中越しにわかった。森本は廊下の隅でカートを押す手を止めている。俺は何も言い返さなかった。佐藤がぽつりと呟いた。
「工藤先生、明日は台風の余波で海が荒れるそうです。事故が増える季節になってきました。」
窓の外では、灰色の雲が低く流れていた。
翌日の午後、空は鉛色だった。海からの風が病院の窓を鳴らしている。工藤は院長室で佐藤と地域医療の話を続けていた。午後1時を過ぎた頃、けたたましい救急の電話のベルが鳴った。事務が受話器を握ったまま、声を張り上げる。
「高速道路で多重事故です! 重症者多数、搬送されます!

」
医局にいた朝倉が椅子から立ち上がる音が聞こえた。俺は白衣の袖を直し、すでに動き出していた。森本がカートを押して走ってくる。
「先生、現場の救急隊から連絡です。乗用車3台、トラック1台、重症4名、軽症6名。」
「分かった。処置室を2つ開けてくれ。輸血の準備も頼む。」
「はい、すぐに。」
サイレンの音が遠くから近づいてくる。病院の玄関前に、救急車が次々と滑り込んできた。最初に担架で運ばれてきたのは、まだ若い男だった。
「中西さん、30歳、会社員。胸部に鉄片の破片が貫通しています。血圧80の40、脈拍140、意識混濁しています。」
「先生、ご家族の連絡先、財布の中にあります。」
俺は脈を取り、瞳孔を確認した。肺と心臓の間、心膜のところを破片が走っている。工藤が院長と並んで、処置室に入ってきた。中西の状態を一目見ると、首を横に振った。
「これは無理だ。胸部外科の専門設備がいる。心臓装置もない。ここでは助けられん。大学病院へ搬送する。今すぐヘリを呼びなさい。」
佐藤が時計を見上げた。
「工藤先生、台風の影響でヘリは飛べません。陸路で大学病院まで、最短でも90分です。」
俺は中西の手を握った。冷たく、汗で湿っている。指先がかすかに何かを掴もうとして動いた。その時、若い女性が廊下を走ってきた。5歳くらいの女の子の手を引いている。妻だ。連絡を受けて駆けつけたのだろう。
「あなた、あなた、しっかりして! 」
俺は妻の方を向いた。
「奥さん、聞いてください。ご主人は、私たちが必ず助けます。少しだけ向こうで待っていてください。」
森本が妻と娘をそっと処置室の外へ連れ出した。俺は一度、目を閉じた。
「美藤君、私の話を聞いていたのか。この病院では無理だと言っているんだ。」
「90分待てば、この患者は持ちません。設備じゃない。時間で死ぬんです。」
工藤が何かを言いかけた。俺はもうその場を離れていた。向かう先は、倉庫だった。
倉庫の蛍光灯が、ジッと音を立てている。俺は棚の一番下から、父の工具箱を取り出した。蓋を開けると、見慣れた器具が並んでいた。父が20年使い込んだメス。俺自身が研ぎ直した鉗子。細部の血管を扱うために自分で改良した補助器具。俺は1本ずつ滅菌ケースに移し替えた。手が自然と動いていた。体が覚えている順番だ。
工具箱を抱えて手術室へ戻ると、工藤が腕を組んで立っていた。俺の手元を見て、口の端をわずかに歪めた。
「美藤君、まさか、その骨董品で手術する気か。正気の沙汰ではない。私は記録しておくぞ。この手術は、私が止めたとな。」
俺は答えなかった。ただ、滅菌ケースを手術台の脇に並べた。森本がすでに手術着を着て立っている。
「先生、執刀は私がやります。」
「頼む。血管修復に入ったら、視野確保最優先で頼みたい。」
「承知しました。器具の位置は、いつも通りに並べておきました。」
朝倉が手術室の入り口で立ち尽くしていた。顔は真っ青で、握った拳が震えている。俺は彼に声をかけた。
「朝倉、機械しに入ってくれ。お前の手が必要だ。」
「で、でも先生、俺、こんな大きな手術は… 」
「お前が読んできた論文は、今日のためにあったんだ。震えてもいい。手は私が導く。」
朝倉は息をひとつ吐いた。震える手で手袋をはめた。患者が手術台に移された。俺はマスクの上で目を細めた。
「これより、手術を開始します。1秒も無駄にしない。」
工藤がガラスの向こうに立った。腕を組んだまま、視線を手術台に注いでいる。俺はメスを取った。父の残した古いメスだった。柄の木の部分が、手に馴染んでいる。俺は心膜に、迷いなく一筋の線を引いた。
「鉗子を頼む。」
「鉗子です。」
「もう一本。森本さん、視野を頼む。」
「はい、分かりました。」
俺は破片の角度を見極め、ゆっくりと引き抜いた。血の勢いが一瞬出る。俺は素早く指で動脈を抑え、改良した補助器具で挟み込んだ。工藤の眉が、ガラスの向こうで動いた。彼がこれまで見たことのない手順だったのだろう。俺はそのまま、傷ついた血管壁を一針ずつ縫っていった。針の動きにはリズムがあった。父が言っていた。外科は音楽だ。リズムを乱すなと。朝倉が息を飲む音が聞こえた。俺の動きを目で必死に追っている。
「糸を変えてくれ。」
「はい。4号です。」
「血圧、戻ってきました。90の60です。」
「いいぞ。このまま閉じる。」
縫合を終え、胸を閉じるまで52分だった。モニターの音が、安定したリズムを刻み続けていた。俺は手袋を外し、汗で濡れた額を腕で拭った。
「中西さんの手術、終了します。次の患者を入れてくれ。」
すぐに次の重症者が運び込まれた。俺は休む間もなくメスを握り続けた。森本は涙ぐみながら器具を渡し続けていた。それでも手は1度も止まらなかった。朝倉はただ、俺の手元を見つめていた。工藤はガラスの向こうに立ち続けていた。両手は、だらりと体の脇に下がっている。
4人目の患者の手術を終えた時、外はすでに暗かった。俺は手術室を出て、廊下の壁にもたれかかった。中西の妻が長椅子で、娘を抱いて眠っていた。俺は森本に声をかけた。
「ご主人は無事だと、起きたら伝えてください。明日の朝には話せるはずです。」
「はい、先生。」
森本の目に、涙が一筋伝った。俺は何も言わず、軽く頷いた。廊下の向こうから工藤が歩いてきた。俺の前で足を止め、口を開きかけ、何度か言葉を探した。
「美藤、あの補助器具は、誰の設計だね? 」
「私です。父が残したものを、自分の手に合わせて改良しました。」
「そうか。そうだったのか。今夜はゆっくり休みたい。」
工藤はそれだけ言って、踵を返した。背中が来た時より小さく見えた。俺は工具箱を抱え直し、医局へ向かって歩き出した。窓の外では、風がようやく鳴りを潜めていた。
事故から3日が経った。地方紙の一面に見出しが踊っていた。「地方病院の神の手、10名全員の命を救う」。記事は地方紙だけでは収まらなかった。全国紙、テレビのワイドショー、ネットのニュースサイト。どの媒体も、設備の乏しい病院で奇跡が起きたと報じていた。病院の玄関には取材クルーのカメラが並んでいた。事務が対応に追われ、電話は鳴り止まない。俺は裏口から出入りするようになっていた。医局では、朝倉が新聞を広げていた。
「先生、また問い合わせです。今度はドイツの医学誌だそうです。」
「断っておいてくれ。私が話すことは、もう何もない。」
「はい。あの、先生、1つだけ聞いてもいいですか?
先生はどうして、この病院に来たんですか? あんな腕があれば、世界中どこでも働けたはずなのに。」
俺は朝倉の顔を見た。
「その答えは、君がいずれ自分で見つけるものだ。今は、目の前の患者を見てくれ。」
朝倉は頷き、白衣を羽織って病室へ向かった。背中が少し大きくなった気がした。
その頃、大学病院では工藤がひとり、執務室で資料を広げていた。机の上には海外の医学会の名簿が積まれている。彼は震える指で、1冊の英文資料をめくっていた。そこには10年前の国際学会の記録があった。「100年に1人の天才外科医」——心臓血管外科における新技術の発表者として、俺の名前が記されていた。工藤は別の資料を手に取った。5年前の大学病院の理事会議事録だ。そこには高額な医療機器の導入を巡る利権の記録と、それに異を唱えた俺の名前があった。工藤は深く息を吐いた。左遷ではなかったのだ。俺は患者を守るために、自ら大学を出ていた。彼は資料を閉じ、しばらく窓の外を見ていた。
翌日、工藤が再び地方病院を訪れた。今度は事前の連絡もなく、運転手も連れずに、ひとりで来ていた。玄関で出迎えたのは佐藤委員長だった。
「工藤先生、おひとりでとは珍しいですね。」
「佐藤先生、少し時間をいただけませんか? 美藤君とも話がしたい。」
院長室に通された工藤は、しばらく窓の外を眺めていた。やがてゆっくりと口を開いた。
「佐藤先生、あなたは知っていたんですね。美藤君の本当の経歴を。」
「ええ。彼が大学を去ると聞いた時、私は東京まで会いに行きました。この地方医療には、彼の腕と信念がどうしても必要だった。だから頭を下げて来てもらったんです。」
工藤は深く溜息をついた。やがて俺が呼ばれ、部屋に入った。工具箱は脇に抱えていた。工藤は椅子から立ち上がり、俺の前に進み出た。そして深く頭を下げた。大学教授が、40歳前の医師に対して、90度の礼をした。
「美藤君、私が間違っていた。私は機械ばかりを信じ、人を育てることを忘れていた。君の技術を地方の片隅に押し込んだのは、私を含めた大学病院の人間だ。本当に申し訳なかった。」
俺は工藤の前に歩み寄り、肩に手をかけた。
「工藤先生、頭をあげてください。」
工藤がゆっくりと顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。
「最高の設備は必要です。ロボット手術が救う命も、確かにあります。でも、設備だけでは命は救えません。最後に器具に命を吹き込むのは、それを握る人間の手です。先生が育ててきた若い医師たちが、いつかその両方を持つ時が来る。私はそれを信じています。」
工藤は内ポケットからハンカチを取り出し、目元を拭った。
「美藤君、1つ頼みがある。大学病院の若手を、この病院に研修に出させてくれないか。本物の医療を見せてやりたい。」
俺は頷いた。窓の外では、海風が穏やかに吹いていた。
季節が一巡した。病院の桜が満開を迎えていた。玄関前の古い看板も塗り直されて、新しくなっている。院内には、見慣れない若い医師たちの姿があった。大学病院から派遣された研修医たちだ。全国の地方病院からも見学希望者が後を絶たない。朝倉はもう若手ではなくなっていた。ひとりで執刀する手術も増えている。研修医たちに説明をする声には、確かな自信があった。
「いいか?
器具は、次に使う人間のことを考えて置くんだ。美藤先生から最初に教わったことだ。」
「それと、患者の家族とは必ず目を見て話せ。これも先生の教えだ。」
森本はいつも通り、カートを押していた。白衣の袖をきっちりまくっている。
その日の午後、玄関に1台の車が止まった。降りてきたのは、若い夫婦と女の子だった。俺が助けた中西誠と、その妻と娘だった。中西はしっかりとした足取りで歩いていた。胸の傷は服の下に隠れているが、もう走ることもできるという。娘の手には、白い花束が握られていた。
外来の廊下で、俺は中西と向き合った。彼は深く頭を下げた。
「先生、本当に、本当にありがとうございました。あの日、先生が諦めずに手術してくださったから、今こうして娘の手を引いて歩けます。」
妻が隣で何度も頭を下げていた。娘が花束を俺の方に差し出した。
「先生、ありがとう。パパを直してくれてありがとう。」
俺は膝を折って、娘と目線を合わせた。小さな手から花束を受け取る。
「お父さんを、大切にね。」
娘は大きく頷いた。中西の妻がこらえきれずに泣いていた。廊下の隅で、森本もそっと目頭を押さえていた。
夫婦と娘を玄関まで見送り、俺は医局へ戻った。机の上に父の工具箱を置く。鍵を回し、ゆっくりと蓋を開けた。中には、使い込まれたメスが並んでいる。俺はその1本を手に取った。柄の木の部分が、いつもの場所で手に馴染んだ。
朝倉が研修医たちを連れて廊下を通り過ぎていく声が聞こえた。森本が次の患者を呼ぶ声も聞こえた。窓の外では、桜の花びらがゆっくりと舞っていた。


