「おい、立花。ちょっと外に出ろ」
会議室に入った瞬間、課長が耳元で低くそう囁いた。何のことか分からないまま、言われるがまま廊下に出ると、次の瞬間、いきなり思いきり突き飛ばされた。
「常識知らずの無能は消えろ」
身に覚えのない言葉に、私は混乱するばかりだった。
私は立花優一、二十七歳のサラリーマン。大手メガネ会社・キーチグラスで企画開発を任されている。性格は温厚で、昔からのんびり屋。遺伝的な影響で生まれつき視力が弱く、物心ついた頃から眼鏡が体の一部だった。
入社してからというもの、私は「仕事ができない社員」として社内ではちょっとした有名人になっていた。商品に対して徹底的にこだわる性格で、納期に間に合わないことも度々あった。しかし、創業者であり現会長でもある五藤キーチ氏の「チャンスを仕事として生かす」という方針に私の提案が評価され、最近ではKPOPアイドルとのコラボプロジェクトを任されるまでになった。
私を否定し続けている人間が一人だけいた。直属の上司である企画開発課の課長だ。部下には常に高圧的で、上司には見え透いた愛想を振りまくタイプ。私のようなのんびり屋は気に食わないようで、何かにつけて「手を抜いてスピードを上げろ」と命令する。それは会長の方針に反する行為で、私は適当に返事をするだけでやり過ごしていた。
「これだから無能はなあ」
課長はいつもそう嘲った。
あの日、午後からは会長をはじめ重役たちも出席する大事な会議があった。私が提案した新型レンズを製造するかどうかの決定が下される。その日は朝から街頭でキャンペーンイベントが行われていて、スタッフが足りずに困った同期から急遽手伝いを頼まれた。資料は前日までに全て完成させていたので、私は快く引き受けた。
そして、急いでオフィスへ戻り、ギリギリ会議室へ到着した。キャンペーン中に着けていたサングラスを外す間もなく、そのまま席に着こうとした。
「おい、立花。ちょっと外に出ろ」
それが、あの始まりだった。
廊下で私は課長に突き飛ばされ、顎を掴み上げられた。
「サングラスをかけたまま会議に出席するなんて。お前は仕事が遅いだけじゃなくて、頭もおかしいのか。こんなものかけてチラチラしやがって。いつまでも学生気分でいられたら、上司であるこっちが迷惑なんだよ」
ようやく意味が分かった。私は急いでいたため、キャンペーンイベントで着用していたアイウェアをそのまま掛けていたのだ。
「お言葉ですが課長。この眼鏡は――」
説明しようとしたが、課長は私の言葉を遮り、同じ罵倒を繰り返した。私は下を向いて耐えるしかなかった。
会議室へ戻る直前、課長は私の眼鏡を無理やり奪い取り、没収した。視力の弱い私は、眼鏡なしでは目の前のものがすべてぼんやりとしか見えない。それなのに課長は、私の大事な眼鏡を悪戯する子供のようにあちこち触り、しまいにはフレームを力任せに曲げ始めた。
「なんだこのサングラスのフレーム。やけにぐにゃぐにゃ曲がるな。もしや他社の製品か? だとしたら、そんなものかけて会議に出るなんて、ますます生意気だ」
そう言って課長は私の眼鏡を胸ポケットに仕舞い込み、会議室へ入っていった。
悔しさと怒りで体が震えた。私はなるべく課長の方を見ないようにして、背筋をピンと正した。
それから三分ほど経った頃、会長がゆっくりと会議室に入ってきた。全員が起立し、深くお辞儀をする。会長が顔を上げるよう促し、私を見て不思議そうに尋ねた。
「あれ? 立花君、今日は霊の眼鏡かけてないんですか?」
「あの……それが、先ほど課長に没収されてしまいまして」
瞬間、会議室の空気が凍りついた。会長がただの一社員に話しかけること自体が異常事態なのだ。課長は私を睨みつけた。
会長が課長に経緯を問うと、課長は胸を張って「礼儀をわきまえずサングラスで会議に出ようとしたので没収しました」と自信満々に主張した。それを聞いた会長は大きなため息をついた。
「あれは、立花君が立ち上げたプロジェクトの新製品です。日常的に使用して耐久性をテストしていたのに、あなたはそれを邪魔するつもりですか?」
形勢が逆転した。課長は青ざめながらも「会長でもサングラスをかけて会議に出席するのはおかしい」と反論したが、会長は「あれはサングラスでもあり、同時に普通の眼鏡でもある」と説明した。
「基本的な商品説明は企画書に書いてあったはずです。室課長、ちゃんと読みましたか? もし読んでいないなら、企画開発の課長として大問題ですよ」
会長に促され、課長は胸ポケットから私の眼鏡を取り出した。その瞬間、課長は驚愕のあまり口を開けたまま固まった。レンズが透明に変わっていたからだ。
私は説明した。あのアイウェアは光の強さで色が変化する新型レンズを搭載した試作品だと。屋外ではサングラス用に暗く、屋内では透明になる。通常の調光レンズより薄型で、色の変化速度も従来の1. 5倍。フレームはKPOPアイドルとのコラボ商品の試作品で、特殊な高級素材を使い、柔軟性を持たせている。それらを日常的に着用して耐久テストをするように私に命じたのは、他でもない会長自身だった。
課長はもはや声も出なかった。会長は厳しい口調で告げた。
「自社のプロジェクトに情熱を持てない人間は、うちの会社には一人も必要ない」
さらに、試作品をケースにも入れず裸で胸ポケットに入れていたことへの非難も加えた。もし課長がフレームを曲げたり、レンズを触りまくっていたことを会長が知ったら……想像しただけで寒気がした。
課長はついに土下座した。
「申し訳ございませんでした。しかし首だけは……首だけはどうかご勘弁を。会長がお望みのことなら何でもいたします」
しかし、会長の追及は終わらなかった。課長がパワハの常習犯だという多くの社員からの苦情が寄せられていると告げたのだ。中には精神を病んで退職に追い込まれた社員もいる。営業部の同期も、課長のパワハから逃れるために異動を願い出た一人だった。
「そんな事実は一切ございません。全て捏造です」
課長は開き直った。その時、会議に出席していた上司の一人が声を上げた。廊下で課長が私を罵倒していた言葉を壁越しに聞いていたのだ。第三者によって証拠を突きつけられた課長は会長の足にすがりついたが、会長は首を振らなかった。
「処分は追って通告します。今すぐ出て行きなさい」
課長は私を恨めしそうに見ながら、会議室を出て行った。
その後、課長は数十件に渡るパワハ疑惑によって解雇された。被害者たちから多くの証拠音声やメールが提出されたことで、会長の決定は揺るがなかった。噂は業界中に広まり、課長は再就職先も見つからず、今では近所の居酒屋で昼から酒を飲み、酔うたびに「キーチグラスに戻りたい」と愚痴っているらしい。
一方、私のプロジェクトは大成功した。KPOPアイドルプロデュースと名打ったフレームは予約開始数秒で完売し、店頭でも入手困難となった。新型の調光レンズも好調で、もう「仕事ができない社員」と思う者は誰もいない。
私はこれからも、キーチグラスの社員としての誇りを胸に、画期的な商品を開発し続けていくつもりだ。



