暗い部屋で、俺は丸裸にされていた。
美人で胸も大きい彼女は、しかしひどいことを言う。
「これは危険ですね」
だが、その口元にはどこか嬉しそうな微笑みが浮かんでいる。俺は思わず生唾を飲み込んだ。一体、この後何が起こるのか。正常ではいられなかった。
俺の名前は清川富雪。今年で50歳になる。
妻の山川エツ子さんとは、俺が30代前半の頃、病院で知り合った。特別な患者同士とか、医療関係者とか、そういう話ではない。俺が患者で、エツ子さんが医者だった。ただそれだけのことだ。
エツ子さんは俺より10歳も年上。勤務先の市民病院では「美魔女」として有名だった。それに医者としての腕も立つと評判だった。
俺はその年、会社の健康診断で引っかかった。「少し気になるところがあるから再検査してくれ」と告げられたのだ。
そういうわけで、近くの市民病院の消化器科を受診することにした。山川先生の噂は俺も知っていたから、どうせなら、かつて美人の女医さんに診てもらおうという、どうしようもない下心があった。
当日、待合室で時間を潰していると、看護師が俺を呼んだ。診察室に入った俺は、そこで山川先生と念願の対面を果たす。
噂通りの美人だったし、胸も大きかった。だから俺は思わず入口で立ち尽くしてしまった。
「こちらへ」
山川先生は苦笑しながら俺を招き入れた。
「お名前、フルネームでお聞きしてもいいですか?」
「き、清川です。清川富雪」
「ありがとうございます。それではお座りください」
俺は落ち着かない様子で椅子に腰を下ろした。それと同時に、彼女は話し始めた。
「これが健康診断の結果ですね。今はまだ分かりませんが、何かしらの可能性があるので、一応カメラを入れましょう」
そう言って微笑む山川先生は、本当に美人だった。
俺は1週間後、内視鏡による検査を受けることになった。初めての経験で不安だった。それが顔に出ていたのか、帰り際に山川先生は言ってくれた。
「大丈夫ですよ。私、上手ですから、すぐに終わりますから」
ただ、俺はそれが違う意味に聞こえてしまって、妙な感情を覚えてしまった。
1週間後、検査当日がやってきた。俺は食事を抜いた状態で病院へ赴き、点滴を打った上で内視鏡室へ。そうして待つことしばし、いつも通りの格好をした山川先生が現れた。
「これを噛んでください。よだれが流れてくると思いますが、そのままで大丈夫ですから。飲み込むとしんどいので」
「あ、はい」
俺は言われた通り、マウスピースのようなものを噛まされる。続いて山川先生は内視鏡の動作確認を行い、準備が整うや、それが俺の中に入ってきた。
予想通り吐き気はあったが、そこまで苦しいわけでもなかった。
「食道が荒れてますね。これは細胞を取った方が良さそう」
俺の食道は、どうやら逆流性食道炎になる寸前だったようだ。しかもその中には、小さくない大きさの出来物まであるという。
「うーん。これは危険ですね」
山川先生は悪気のない様子で言うが、正直、勘弁して欲しかった。
だが、俺の不安に気づいたのか。
「大丈夫ですよ。すぐ良くなりますから」
そう言ってくれた。これは余裕から来る微笑みだったから、俺は溢れるよだれを思わず飲み込んで誤魔化してしまった。
検査の結果、食道に2つ、胃に1つ、ポリープのような出来物が確認された。それらの組織を採取し、検査に出してもらったのだが
——1ヶ月後、組織検査の結果を見て、山川先生は苦い表情をした。
「ステージ3ですね」
胃の出来物は良性のポリープだったが、食道の2つは癌で、しかもステージ3。つまり、少なからず悪い状態だ。
衝撃の事実を突きつけられた俺は、何を言ったらいいのか分からず黙り込む。だが、山川先生は「大丈夫ですよ」と優しく微笑んでくれた。
「何十年も前なら不治の病でしたが、今の癌は治ります。必ず私があなたを治してみせますから」
語る山川先生は自信に満ち溢れていた。俺はそれを見て思わず解きほぐれてしまう。吊り橋効果というやつだろうか。確実なことは、俺が山川先生に惹かれ始めていたことだ。
この後、俺は新卒で雇ってくれた会社と相談し、癌が治るまでの休職を許可される。6年間真面目に頑張ってきたこともあり、幸い休職手当ての給付も決まった。
「若いのに大変だね。仕事のことは気にしなくていいから、ちゃんと直しなさい」
社長はそんな風に優しく送り出してくれた。その励ましが本当に嬉しかった。
手術プランはこうだ。俺の食道には癌ができているので、まずはその周辺全てを切除。次に細めた糸でその傷跡を繋ぐ。もちろん担当は山川先生。
彼女は不安がある俺を、何度も励ましてくれた。
「私が担当しますから、大丈夫です」
一体どこからそんな自信が? 俺はそんな風にも思ったが、自信満々の笑顔で病室にやってくる彼女を、ますます愛しいと思うようになっていた。いつの間にか、彼女の回診が早く来ないかと感じるようにもなった。
だが、もし癌が治らなかった場合、俺は未練を残したままこの世を彷徨うのだろうか。そんな感情もあったから、俺は手術の前日、最後の勇気を振り絞って爆弾を投下する。
「いよいよ明日ですね。私も全力を尽くします。清川さんも今日はゆっくりお休みになってください」
「ありがとうございます」
そして俺は、立ち去ろうとする山川先生を「あの」と呼び止めた。
「どうしました?」
驚いた様子の山川先生に対し、俺は告げる。
「手術がうまくいって、元気になって退院できたら、俺とデートしてくれませんか?」
突然過ぎる言葉だったから、山川先生は一瞬硬直していた。しかしすぐに、いつも通りの微笑みを送ってくれた。
「じゃあ、私も頑張らなきゃいけませんね」
その時、不意に山川先生が近づいてくる。そして顔を近づけてきたと思った瞬間、彼女は俺にキスをしてくれた。
「他の患者さんには、言っちゃだめですよ」
そう言って山川先生は立ち去っていく。一方、放心状態の俺は病室に放置される形だ。
何をされたのかを悟った瞬間、俺は真っ赤になる。青春時代に恋愛をしてこなかったわけではないが、ああいう形のキスは初めてだ。それに相手はあの人気のある女医。その事実が俺をひどく混乱させてしまった。
「あれということは、デートもOKか」
大事な手術だというのに、俺はそれをすっかり忘れてガッツポーズ。それくらい本当に嬉しかったのだ。
翌日、山川先生が俺の病室にやってきた。
「回診ですか?」
俺がそう言うと、山川先生は少しだけ頬を膨らませる。
「手術前に、好きな人と会いたいと思うのは、いけないことですか」
そう言いながら、俺を抱きしめた。
「絶対に助けるから。だから、どうか手術、頑張ってね」
「ありがとう」
山川先生は続いて、俺に再びキスを送る。次にハンカチで涙を拭い、笑顔を作って俺を励ましてくれた。
「絶対にデートしましょうね」
「他の患者さんには、内緒でしたっけ?」
「絶対に内緒」
もしかすると、山川先生の笑顔もこれで見納めかもしれない。だが俺に後悔はなかった。
数時間後、俺は手術室に向かう。
「頑張って」
麻酔で意識が遠くなる直前、山川先生のその声が聞こえた気がした。
「ダメでも仕方ない。だけど、あの人を1人にはしたくない」
手術から半年が過ぎた。ありがたいことに経過は順調で、退院の日程も固まりつつある。数十年先だったらもっと簡単だったのだろうが、俺が受けた手術は再建手術だから、短くない入院生活を強いられてしまった。
「もう会えないのは寂しいですよ」
「これで終わりにするつもり? 本当はダメなんだけど」
2人きりの病室。その中で山川先生は、連絡先が書かれた紙切れを俺に差し出す。
「あ、ありがとうございます」
「退院したら、ドライブにでも行きましょう。運転、私がするから」
こう言って笑う山川先生は、いつも通りの素敵な笑顔だった。
退院から3ヶ月後、経過観察の期間を経て、ついにデート当日がやってきた。指定されたコンビニでミネラルウォーターとミルクティーを買う俺。そして山川先生の到着を待った。
やがて待ち合わせの時間が訪れると、自家用車に乗って山川先生が現れた。
「ごめんなさい。待ちましたか?」
「いや、俺が早く来ちゃっただけですから。楽しみで仕方ないから、待てなかった」
俺がそう言うと、山川先生は「可愛い人」と言って、助手席に乗り込んだ俺にキスしてくれた。
「山川先生って、スキンシップが多めな人なんですか?」
「好きな人には、触れたいんです」
半ばパニック状態に陥る俺の一方、山川先生は大人の余裕たっぷりだ。俺はもう成人しているが、30代の男なんで、40代の女性からしたらまだまだ子供なのだろう。
「飲み物、ミルクティーで良かったですか?」
俺はコンビニの袋からミルクティーを取り出し、山川先生に手渡す。
「ありがとうございます。でも、よく分かりましたね」
「診察室に、よく置いてあったので」
「なるほど」
山川先生は嬉しそうに笑い、ミルクティーのペットボトルをホルダーに。俺も同じようにミネラルウォーターのペットボトルをホルダーに入れたが、すぐには飲まない。ワンクッションとして、とろみをつける粉末を入れてからストローでかき混ぜた。
「まだとろみが必要ですか?」
「ええ、最初の頃よりはだいぶ楽になりましたが」
食道を切り、その先を繋ぐ手術を俺は経験した。飲み食いには不便が伴うようになり、いわゆるデブキャラ系だった俺は、いつの間にか20キロ近く痩せていた。
今は午後1時。
「昼は各自で済ませてある。夕飯は私が準備します。あと、明日も休みです」
そこまで言われて、察しない男がいるだろうか。
「泊まっても、いいんですか?」
「そのつもりで、色々と準備してありますよ」
俺は心底、この人が愛しいと思った。この人を絶対に幸せにしたい。
本来の予定では海沿いをドライブするはずだったが、俺たちはコンビニを出るなり、すぐに山川先生の自宅へ。そこはセキュリティが整った高級マンションだった。
リビングで出迎えてくれたのは、山川先生の飼い猫だった。早速彼女に甘えている。
「アレルギーは大丈夫ですか?」
「はい。実は自分でも買おうと思ったくらいには猫好きなので、良かった」
山川先生は飼い猫を抱き上げ、俺の目線まで上げた。
「僕も可愛がって言ってるみたい」
俺は山川先生を可愛がりたいです。何を思ったのか、俺はそんなことを言ってしまう。かなり踏み込んだセリフだと自分でも思う。
お互い真っ赤になって、気まずい時間が始まった。それでも最初に口を開いたのは山川先生だった。
「じゃあ、可愛がってください」
そのまま俺たちは寝室へ。人知れず愛し合った後、山川先生は俺の上半身をふと見つめた。
「どうしました?」
「初めて会った時はもっと肉付きが良かったのに、随分痩せましたね」
「あんな手術をしたら、仕方ないですよ」
俺は寄り添ってきた山川先生に告げる。
「5年後の定期検査で転移が確認できなかったら、結婚してくれませんか」
「じゃあ」
それを聞いた山川先生は、俺の手を握りしめる。
「じゃあ、そんな危ない人は、管理してあげなきゃいけないですね」
俺は何を言われているのか理解できなかったが、対照的に山川先生は笑ってくれた。
「美味しくて食べやすいご飯、私が毎日作ってあげます」
「それって、どうせ」
「あなたと一緒にいたいんです」
山川先生は俺に抱きついた。
この後、俺たちは同棲を開始する。やがて俺も仕事に復帰し、2人分の稼ぎで貯金や将来に向けた積み立てに励む。そして5年後、検査を受けた俺は経過順調と知らされるなり、その場で山川先生にプロポーズした。山川先生はプロポーズを受け入れてくれた。
その年に入籍した俺たちは、結婚から今年で15年目。それでも40代の頃、一度癌が再発した。しかし山川先生に勧められていた検診のおかげで早期発見に成功し、小さな手術だけで済んだ。
今、俺は病院を定年退職した山川先生と共に、穏やかな日々を過ごしている。仕事はなんだかんだ順調だし、それぞれ高校生と中学生の息子たちの反抗期に、時にはしんどさを覚える時もあるが、愛しい妻と子供たちに囲まれる生活は幸せだ。
俺たちの馴れ初めは、こんな感じだ。



