半年ぶりに夫の実家へ戻ったその日のことだった。夫の大貴は、隣に義母と、見知らぬ若い女性を従えて、開口一番離婚を突きつけてきた。
「しのぶ、お前が悪いんだぞ。娘を産んだお前がな。後継ぎの男が産めないなら、もう用はないんだよ。離婚届にサインして、さっさと出ていけ。」
大貴の隣にいた女性、柚月は勝ち誇ったように笑う。
「しのぶさんはもういらないんですって。これからは私が大貴さんを幸せにしますから。」
義母も追い打ちをかける。
「あなたがこの家にいること自体が我慢ならなかったのよ。役立たずがいつまでも居座らないで。早く出ていってちょうだい。」
普通なら取り乱す場面かもしれない。だが私は至って冷静だった。手に持っていたスマホを机に置き、ため息混じりに告げた。
「私のことなら、お気になさらず。一週間前から私は独身ですから。今日は娘と荷物をまとめて、家を出る準備をしていたところよ。」
私の言葉に、大貴は一瞬呆けた顔をしたが、やがて大声で笑い出した。
「お前、頭がおかしくなったのか?結婚していた事実をなかったことにするつもりかよ。」
その時、騒ぎを聞きつけた娘の朋花がリビングに現れた。
「もう、何なのよ、昼間から。あ、お父さん、帰ってたんだ。」
「ああ、そうだ。それでな、朋花。お父さんはもう、母さんとお前には今日で家を出ていくんだ。引っ越しはもう終わっててな。これから最後の荷物を取りに行くところだ。これからは母さんと二人で暮らすから、お父さんはもういらない。」
「いやいやいや、朋花まで何言ってるんだ?引っ越しなんて嘘つくなよ。」
そうやって笑っていられるのも、今のうちだ。私はこの夫を、一生許さない。娘を、私たちを傷つけたことを、徹底的に後悔させてやる。
「いつまで汚い笑い声をあげてるつもり?頭が悪くて理解できないのは、あなたの方でしょ。こんな離婚届は必要ないわ。さっきも言ったけど、私はもう独身よ。私と朋花はもう家を出ていくから、この家にも二度と帰ってこないわ。あとはあなたたちで、好きに男の子を産んで、会社の後継ぎにでもすればいい。」
はっきりと言い放つと、大貴はぴたりと笑い声を止めた。
「いつまでもわけのわからないことを言ってるんじゃねえぞ。俺はお前の離婚届になんて、サインしてないんだぞ。それなのに、どうやって離婚できるって言うんだよ。」
「いちいち説明されないとわからないの?あなたはいつも、離婚届を見せては私を脅していたでしょ。私はその離婚届にサインをして、もう何日も前に役所に提出してあるのよ。」
私と大貴の確執は、昨日今日に始まったことではない。私が娘を妊娠したその時からだ。女の子だとわかった途端、彼は私を徹底的に貶した。娘の面倒を見るどころか、育児そのものを放棄。私の復職すら許さず、夫婦仲は最悪だった。
「それも全部、お前のせいだろうが。次期社長の俺には、男の後継ぎが必要だったんだよ。」
「だからって、サイン済みの離婚届で脅してくるなんて、普通じゃないでしょ。それに、あなたは私や朋花にまで怒鳴り散らして、同じ人間として恥ずかしいわ。そればかりか、浮気までしてた。いい加減、我慢の限界だったの。だからあなたが今まで使ってきた離婚届を全部取っておいて、全部にサインして、役所に持っていったのよ。『離婚するには、離婚届は何枚必要ですか?』ってね。役所の人にはドン引きされたけど、事情を説明したらさすがに納得してくれたわ。」
「柚月さんのことも、探偵事務所に依頼して、調査は全部終わってるわ。今更あなたが柚月さんと再婚するって聞いたって、驚きもしないわ。」
話を聞き終えた大貴は、悔しそうに私を睨みつけていた。
「これまでの離婚届を全部取っておいたとは、驚きだよ。そういうネチネチしたところが、昔から大嫌いだったんだよ。」
「ネチネチ離婚を迫ってくるあなたよりマシでしょ。それに、感謝してほしいものね。離婚届を出す手間を省いてあげたんだから。」
スマホに表示した離婚届の画像を、指で弾く。イライラする大貴をフォローするように、義母が割り込んできた。
「そうよ。これで、すぐに柚月さんと再婚できるじゃない。ずっと役立たずだったしのぶさんだけど、最後にこうして役に立ってくれたのよ。これでようやく、念願の後継ぎが私たちのところに来てくれるわ。」
朋花は義母を睨みつける。義母は、昔から朋花を家族として扱ってこなかった。社長夫人であることを誇りに思う義母にとって、嫁の役目は男の子を産むこと。娘として生まれただけで、そんな扱いを受けてきたのだ。
私たちがやらなければいけないことは、このバカどもと縁を切ることだけ。私は静かに、一枚の小さな紙切れをテーブルの上に置いた。それは一枚の名刺だった。大貴と義母は軽蔑した表情で名刺を覗き込む。しかし、柚月さんだけは、表情を凍らせていた。
「『天間商事 鈴木静香 常務』…なんで、静香がこんなものを持ってるんだ?どこで名刺を拾ってきたの?あなたみたいな役立たずが会える人じゃないわよ。」
私は大貴と義母を無視して、すっかり青ざめてしまった柚月さんに目を向ける。
「これは、私が直接会っていただいたものよ。信じたくないことかもしれないけどね。柚月さん。あなたは、どうして隠しているんですか?自分が鈴木常務の娘だという事実を。」
「何?柚月が鈴木常務の娘だって?いやいや、嘘に決まってるでしょ。簡単に信じるんじゃないわよ。」
そう、天間商事は夫の会社の大口取引先なのだ。頭が上がらないほどのお得意様。その常務の娘が柚月さんともなれば、目眩がするほどの存在だ。
「残念ながら、本当のことよ。柚月さんは両親を早くに亡くしているの。鈴木常務は、そんな柚月さんを引き取って、実の娘として大切に育ててきたのよ。そんな子だとは知らずに浮気をしていたなんて、あなたたちは本当に呑気よね。」
「勝手なことばかり言わないでくれるかしら。鈴木常務なんて、私は知らないわ。しのぶさんが言ってるのは、ただの出まかせよ。私に旦那を取られるのが悔しくて、苦し紛れにデマを流してるだけよ。」
「誰が、こんな男を取られて悔しがるってのよ。」
さらっと毒づく。柚月さんは私を睨むが、朋花は涼しい顔だ。そして静かに、後ろに持っていたものを机の上に広げた。
「これは、お母さんに頼まれて探してきた新聞よ。小学校の友達も協力してくれたの。図書館を駆け回って、探すのは苦労したわ。数年前の新聞で、会社初の女性役員となった鈴木さんの談話が載ってるのよ。独身で、事故で亡くなった妹夫婦の子を育てている、って書かれてるわ。ここの写真に写ってる制服を着た女子高生、あなたじゃないの?お父さんの浮気相手さん。」
新聞に写っている女の子は、間違いなく柚月さんだった。鈴木常務は、全て知っていますよ。今回の件も、私から連絡を取って、必要なことは話し合っている。
「ば、バカバカしい。その記事が本物だって証拠はどこにあるんだ?パソコンで捏造したんじゃないか。」
「そうよ。しのぶさん、あなたパソコンに詳しいんだから、こんな記事、簡単に作れるでしょう。」
「あなたたちに、そんな手間をかけたりしないわ。まあ、別に信じなくても構わないわよ。私は事実を言ってるだけだから。」
私の落ち着き払った態度に、大貴と義母は顔を見合わせていた。柚月さんは明らかに落ち着きをなくしており、さすがの大貴たちも、疑い始めていく。二人の視線が、揃って柚月さんの方に向く。
「柚月、本当に鈴木常務の娘なのか?なんで、そんな重要なことを今まで隠してたんだ?」
「鈴木常務なんて、私たちが関わるだけでも恐れ多い方なのに…もしそうだとしても、私の家族のことなんて、あなたたちに関係ないでしょ。わざわざ言う必要もないし、あなたたちにとやかく言われることでもないわよ。」
「お前、いい加減にしろよ!」
その時、言い争いに割って入るように、インターホンが鳴った。
「朋花、出てきてくれる?」
「はい。」
朋花は、友達が来たかのように玄関に向かう。しばらくして、朋花は来訪者を伴ってリビングに戻ってきた。招かれた客に、私以外の三人は目を向ける。私は立ち上がって、わざわざ来てくれたその人を迎えた。
「今日はありがとうございます。鈴木さん。」
「お邪魔します。」
来客は、鈴木常務だった。仕事の合間を縫って来てくれたのか、びしっと決めたタイトスーツ姿で現れた。その鋭い眼光に、部屋の温度が数度下がったように感じる。鈴木常務の姿を見るなり、柚月さんはもちろん、大貴たちも慌て始める。
「鈴木常務、どうしてここに?」
「しのぶさんに呼ばれたんです。私も関係している、面倒なことが起きていると聞いてね。」
鈴木さんに睨まれた柚月さんは、口をつぐんで視線をそらした。大貴は途端に卑屈な態度になり、下手に出る。
「い、いやいや、鈴木常務が関係していることなんて、何も。これは、ちょっとした家族の問題でして…。」
「どんな話をしていたのか、気になるわね。話してもらっていいかしら?」
「え、えっと、どんな話だったかな…。」
私は机に置いていたスマホを手に取った。そして、音声データを流し始めた。それは、今日ここで会話が始まってからの、全ての会話を録音したものだ。
「しのぶ、お前、全部録音してたのか?」
「ええ、最初からね。鈴木さん、これが現状です。これが、私の元夫と、あなたの娘さんがやっていたことです。」
「鈴木常務、違うんです、それは…」
「少し、静かにしてもらえるかしら。」
鈴木さんは、部下に言うようにピシャリと告げる。柚月さんは何も言えなくなって、黙り込んでしまう。鈴木さんはこれまでのやり取りを静かに聞き入っていた。全ての録音を聞き終えた後、鈴木さんは深くため息をついた。
「大貴さん、それに、大貴さんのお母さん。男の子が産めないからと、お嫁さんをいびるなんて、あってはならないことです。それに、朋花ちゃんのことを考えたことはあるんですか?愛されて生まれてきたはずなのに、こんな酷いことを…。あんまりですよ。」
鈴木さんの厳しい言葉に、大貴と義母は一瞬で勢いを失った。
「さっき言ってたことを、もう一度言えばいいじゃない。『会社ってのは、男が担っていくもの』だったかしら。鈴木さんの前で、そんなことが言えるかしら。」
「しのぶ、お前は黙ってろ!俺と鈴木常務の会社じゃ、訳が違うだろうが。朋花に社長なんて、任せられるはずがない。」
「だから、お父さんは大嫌いなのよ。大して仕事もできないくせに、男だからってだけで。こないだだって、酔っ払って家まで送ってくれた人も、愚痴をこぼしてたわよ。」
「だ、誰がそんなこと言ったんだ!朋花、俺を馬鹿にすると…。」
怒鳴り声をあげようとした大貴だったが、鈴木さんがいることを思い出して、口をつぐんだ。
「あなた方の考えは、非常識で時代錯誤です。子どもを産めない人だって、たくさんいる。人として、やってはいけないことをしているのだと、よく理解してください。」
人としても、会社としても、敵わない人からの言葉。大貴はもちろん、義母も何も言えずに並んでいる。しかし、鈴木さんの娘である柚月さんだけは、黙っていなかった。
「立派なことを言ってるところ、悪いけどね、おばさん。おばさんは仕事にばかり夢中で、結婚もできなかった。私を引き取ったなんて大げさに言うけど、結局は仕事が優先で、私には何もしてくれなかったじゃない。家ではほとんど一人ぼっちで、寂しかったんだから。」
鈴木さんは、柚月さんの言葉を黙って聞いていた。柚月さんは鈴木さんの実の子ではない。だから、どこか遠慮があり、気持ちを打ち明けることはあまりなかったそうだ。おそらく今初めて聞く柚月さんの本音。それは、鈴木さんを鋭くえぐったようだった。
「確かにそうね、柚月。私は、あなたの気持ちを聞かずに、価値観を押し付けてしまっていたかもしれない。こんな形になってしまったけど、あなたの本心が聞けたことは、嬉しく思うわ。」
柚月さんは大貴に寄り添うと、その手を取った。
「これから、大貴さんと暮らすから。しのぶさんが家を出ていく準備ができてるように、私もおばさんの家を出ていく準備はできてるの。もう、おばさんの家には帰らないから。そのつもりで。」
大貴は柚月さんの手を握り返すと、さっきまでの自信を取り戻したように見えた。
「そうなんです、鈴木常務。確かに、俺と柚月さんの出会いは、間違いだったかもしれません。しのぶや朋花に、俺に多くの責任があったことは、認めます。それでも、今は絶対に柚月さんを幸せにしたいと考えているんです。これは、嘘じゃない。俺の本心です。」
まるで営業先にプレゼンをするように熱を込めて鈴木さんに向かう大貴。私からしたら何とも白々しい光景だ。
「いやいや、それはおかしいでしょう。いくら寂しかったからって、浮気をしていい理由にはならない。私はともかく、娘の気持ちを考えたことがありますか?大貴さんやお母さんから、散々な扱いを受けて、朋花がどんな気持ちになったと思いますか?」
「そんなこと、私の知ったことではないわね。自分は『朋花が』なんて言っておいて、本当は大貴さんを取られることが悔しいんでしょ。男の子が産めなかったことは、事実だもんね。負け犬の遠吠えよ。何を言っても、哀れなだけね。」
隠す必要もなくなったことで、柚月さんも容赦なく私を攻め立ててくる。見かねた鈴木さんと朋花が割って入ろうとするが、私はそれを手で制した。これらの人たちに、今更何を言っても、意味のないことだ。
「そういえば、しのぶがもう離婚届を出してくれてたんだったな。だったら、今日この場に集まったことも、無駄だったな。俺たちはこれから、三人で食事をすることになってるんだ。ちょうど、出ていく準備をしてたんだろう。俺たちが帰ってくるまでに、きちんと荷物をまとめて出ていってくれ。この家は、これから母さんと柚月と三人で暮らすんだ。」
「そうよ。早く出ていってちょうだい。」
「じゃあね、おばさん。一応、これまで育ててくれたお礼は言っておくわ。どうも、ありがとうございました。」
三人は好き放題言うと、私たちを馬鹿にしながら部屋を出ていった。静かになった部屋で、ようやく落ち着いて、私ははぁ、と肩を落とした。すると娘の朋花が、ケラケラと笑って私の肩を叩いた。
「もう、あの人たち、無茶苦茶すぎて、一周回って面白くなってきちゃうね。」
「とんでもなさすぎて、逆に笑っちゃうわね。」
「まあ、お母さん、気を落とさずに。」
一番心配していた娘が、全く堪えていないようで、そこだけは本当に安心した。鈴木さんは、私と朋花の前に来ると、深々と頭を下げた。
「しのぶさん、朋花ちゃん、今回はとんでもないご迷惑をかけて、本当にごめんなさい。柚月の言う通り、私は仕事ばかりしていたせいで、育て方を間違えてしまったのかもしれないわ。」
「気にしないでください、鈴木さん。女手一つで育てたのは、立派だと思いますよ。」
「お母さんの言う通りだと思う。それに、悪いのは絶対、あの二人だよ。」
「しのぶさんも、朋花ちゃんも、ありがとう。そう言ってもらえると、少しは気が楽になるわ。」
「本当は、この場で全てを言ってしまうのも、良かったのかもしれません。でも、そこまでの情けはかけなくて大丈夫ですよ。悪いことをしていれば、どうやっても、いつかは自分たちに帰ってくるものです。彼らは、私たちの話をちゃんと聞くべきだったのです。」
大貴たちは知るよしもないが、私たちは知っている。大貴と柚月さんが、いずれ間違いなく破局することを。しかし、わざわざそれを教えてあげる義理はない。私たちは、私たちのこれからのために、まだやることが山積みなのだ。
平穏な暮らしを取り戻した私は、朋花と共に新しい生活を楽しんでいた。引っ越しも無事に終わり、大貴たちと生活していた時とは比べ物にならないくらい、充実していた。家にいるだけで罵倒してくる夫もいなければ、会うたびに嫌味を言ってくる義母もいない。朋花も勉強に集中できるし、私も復職するための準備を続けていた。
そんな、ある日のことだ。大貴から電話がかかってきた。
「頼む、助けてくれ。」
「何よ、いきなり。私とあなたは、もう関係ないはずだけど。あなたは柚月さんと、よろしくやってればいいじゃない。」
私は突き放すが、それでも大貴は泣きついてくる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話だけでも、話だけでも聞いてくれ。」
「私も暇じゃないんだから、さっさとしてくれる?」
「柚月が、姿を消したんだ。俺の財産を持って、どこかに行ってしまったんだ。」
結婚式や新婚旅行の手付金、もういろんなものの支払いができなくて困っているという。私たちが家を出ていった後、大貴は柚月さんと共に、様々な準備を進めていたようだ。しかし、準備も大詰めというところで、柚月さんは忽然と姿を消したらしい。家の貴重品は全て持ち逃げされており、かつて私たちが住んでいた家には、ほとんど何も残っていないそうだ。
「大貴、残念だけど、あなたは柚月さんに捨てられたのよ。最後まで、彼女の心を引き止めることはできなかったようね。」
「違う!柚月がそんなことをするわけがないんだ!きっと、これは何か事情があって…」
「事情なら、あるわよ。柚月さんには、元々あなたとは別の、本命の人がいたのよ。お腹の子の父親も、あなたじゃなくて、その本命の男の子供だったんでしょうね。だから、あなたのところから逃げたんでしょう。」
「いい加減なことを言うな!そういうのはいいから、柚月が今どこにいるのか教えてくれ!」
「いい加減なことじゃないわよ。それに、残念ね。柚月さんが今どこで何をしてるかなんて、私は知らないわよ。」
「じゃあ、その本命の男っていうのは、誰なんだよ!お前は、なんでそんなことを知ってるんだ?」
「言ったでしょ。あなたの浮気がわかった時点で、私は探偵事務所に調査を依頼してたのよ。そこで、あなたの他に本命の男がいることがわかったのよ。しかも、相手は悪い男だったの。世間知らずの柚月さんは、その男に惚れ込んでいた。探偵事務所の人が言うには、柚月さんがあなたに近づいたのも、その男の指示だったんじゃないか、という話よ。つまり、これまでのこと全てが、柚月さんたちの計画だったんでしょう。そして、上手くいったところで、財産を奪って逃げていったってわけね。」
「どうして、鈴木常務に教えなかったんだ?そんなことになってたら、鈴木常務は止めたはずだろう!」
「全部、知ってるわよ。でも、鈴木さんがどれだけ説得しても、柚月さんは聞く耳を持たなかったのよ。鈴木さんが何度言っても、柚月さんは話し合いのテーブルにすら乗ろうとしなかった。そのまま連絡がつかなくなり、鈴木さん自身でも、どうにもならなくなってしまったの。深く後悔している鈴木さんには、私たちだって何もできず、悔しい思いをしてたのよ。」
「というわけで、柚月さんが、もうあなたのところに戻ってくることはないと思うわよ。私たちが止めてあげたのに、言うことを聞かないから、こういうことになるのよ。」
「お前、もしかして、最初から知ってたのか?」
「もちろんよ。だけど、私にはあなたとやり直す気なんて、最初からないからね。鈴木さんを家に呼んだ日、本当は話し合いの場を持とうとしてたのよ。一度は結婚した仲だしね。結局、それもぶち壊した。全て、あなたの責任よ。」
電話の向こうで、大貴は呆然としているようで、何も言わなくなった。困惑や後悔、許しを乞うような感情が、通話越しに伝わってくるようだ。
「俺は…騙されてたのか?」
「騙されていたと考えるかどうかは、あなた次第じゃないかしら。あなたも好き放題して、柚月さんも好き放題してた。探偵事務所の調べでは、柚月さんの相手は、ろくでもないやつよ。結局は、まともな最期にはならないでしょうね。あなたも、柚月さんも、『自業自得』って言葉がよく似合うんじゃないかしら。」
願わくば、鈴木さんに変なとばっちりがいかないことを祈るばかりである。しかし、大貴たちに関しては、どうなろうが知ったことではない。
「ようやく、俺は目が覚めたよ。俺は、悪い女に騙されてたんだな。しのぶ、やり直そう。朋花の父親として、心を入れ替えるから。」
まさか、そんなバカな提案をしてくるとは、さすがに思ってなかった。
「俺が悪かった。反省してるんだ。もう一度、一からやり直そう。俺は本気なんだ。会社の後継ぎなんて、もうどうでもいい。お前と朋花といられれば、それでいいんだ。」
「正直、私のことなんて、どうでもいいのよ。私があなたにされたことは、呆れてはいるけど、別に怒ったりしてないわ。でもね、あなたが朋花にしたことに関しては…何ひとつ許さないし、許せない。あなたは、朋花が一番父親を必要としてた時期に、あの子を傷つけた。あなたは知らないだろうけど、朋花は学校でいじめられたり、家で泣いてたりしたこともあったのよ。そんなことさえ、あなたは知らないでしょ。」
「それも、全部、これからちゃんとやるから。」
「朋花のこれからに、永遠にあなたはいらないの。私は、あなたを許すことはない。父親としての責任を放棄した人間に、私と朋花の家族としての居場所はないわ。」
ちょうどその時、玄関の扉が開いた。
「ただいま。お母さん、帰ったよ。」
学校に行っていた朋花が、帰ってきたようだ。電話の向こうでは、大貴が叫び続けている。
「頼む、しのぶ!もう一度、もう一度だけチャンスをくれ!」
「夫にも、父親にもなれなかった役立たずに、用はないの。私は、これ以上、朋花をあなたに関わらせたくない。」
大貴は未だに喚いていたが、私は構わず通話を切った。リビングに現れた朋花は、スマホを持っている私を見て首をかしげていた。
「あ、ごめん。誰かと電話してた?」
「うん。なんでもないの。ただ、ちょっとしつこい勧誘電話があっただけよ。するより、ご飯の準備できてるわよ。お風呂とご飯、どっちにする?」
「お母さんのご飯は美味しいから、ご飯で。」
「わかったわよ。とりあえず、手を洗ってきなさい。」
私たちは二人でやり直している。今更、大貴など必要ないのだ。
それからさらにしばらくした後、大貴の父親である義父から連絡があった。長きに渡り入院していたが、ようやく回復し、退院することができたというものだった。しかし、退院してみれば、私は離婚していなくなっている。大貴は財産をほとんど持ち逃げされて、憔悴しきっている。義母は、毎日のように喚き散らしているとか。義父にしてみれば、何事だという話である。
義父は、大貴たちとは違い、常識人だ。入院する以前は、大変お世話になっていた。退院したお祝いを言うために、朋花を連れて会いに行った。そして、何があったかを丁寧に説明する。義父は静かに私の話を聞いてくれていたが、その表情には、怒りと失望が浮かんでいた。
「そうか…。あいつらが、そこまでのことをしていたとは。」
全てを説明したことで、義父も腹を決めたようだった。それからの義父の行動は、早かった。小さな会社にも関わらず、これまで社長夫人として贅沢の限りを尽くしていた義母に愛想を尽かし、離縁を告げた。義父が入院している間も、ほとんど見舞いにも来ず、愛想をつかしたそうだ。大貴も、順調にいけば次期社長だったはずだが、これまでの役職から外され、外部の会社で平社員として修行に飛ばされることに。大貴のこれからの仕事関係は一変してしまうが、義父は「力があり余っている」と、むしろ乗り気だった。
さらに、柚月さんに関しても、その後の話を鈴木さんから聞いている。柚月さんの本命の男は、ついに悪事がバレたそうで、詐欺容疑で指名手配を受けていた。柚月さんも、共犯として警察に追われていた。しかし、逃亡生活に疲れて帰ってきた柚月さんを、鈴木さんが説得した。
「あなたは、私の娘だから。絶対に見捨てることはしない。罪を償って、また一緒に暮らそう。」
ようやく折れ、柚月さんは出頭したのだ。子供も生まれており、その子は鈴木さんが引き取ると言い、柚月さんが戻ってくるまで待つという。鈴木さんに迷惑がかからないといい、なんて考えていた私とは、器が違うと感じさせられた。
数年後、縁あって私は再婚した。過去のゴタゴタがあるので、問題はまだまだあるが、今度の夫は真剣に私たちに向き合ってくれる。私と朋花と、新しい夫で、同じ未来を見据えている。過去の苦しみを乗り越え、今度こそ幸せな家庭を築くことを、心に誓って。



