深夜二時の救命救急センターは、いつものように明かりが煌々と灯っていた。
俺は手袋を外し、ゴミ箱に投げ入れた。
俺の名前は佐藤誠、三十六歳。都内の救命救急センターで働く救命医だ。
「先生、これで三十六時間連続ですよ」
同僚の山田が、呆れた顔で声をかけてきた。
「本気で言いますけど、そろそろ倒れますよ、先生。まじで」
「次の少しを取れば大丈夫だ」
「その“大丈夫”が一番信用できないんですよ」
俺は苦笑して、白衣の襟元を緩めた。山田は俺より年下だが、遠慮のない物言いで昔から俺を気遣ってくれる男だ。
彼が差し出したのは一枚のパンフレットだった。沖縄の海の写真が印刷されている。
「先週も言いましたよね。有給、一日も消化してないでしょう。看護師長も心配してます」
「患者は待ってくれないだろう」
「先生が倒れたら、その患者を見る人間がいなくなるんですよ。休むのも仕事です」
俺は少し考えてから、パンフレットを受け取った。沖縄…。思えば医者になってから、きちんと海を見たことがない。
「三泊四日でも構いません。頼みますから行ってきてください」
「分かった。考えておく」
「考えるじゃなくて、行くんですよ」
数日後、俺は自宅で旅行の準備をしていた。着替えを詰め、洗面用具を放り込み、最後に本棚の前で足を止めた。
一冊の古い本を手に取る。背表紙は擦り切れ、ページの縁はすっかり黄ばんでいた。
『救命の現場から』著者・神崎匠。
学生時代、俺が救命を志すきっかけになった一冊だ。講演会にも足を運び、サインをもらい、擦り切れるほど読み返してきた。
神崎匠はもうこの世にいない。それでも、この本は俺にとって今も自信だった。
俺は少し迷ってから、その本をバッグの隅に入れた。
ホテルに着いた翌日、俺はダイビングの装備を借りて海へ出た。太陽の光が波を透かし、白い砂の海底まで届いている。魚の群れが目の前を横切っていく。久しぶりに、深く息を吐いた気がした。
一時間ほど潜った頃、視界の隅に違和感が走った。少し離れた岩場のそばに、水中でぐったりと沈みかけている人影がある。
中年の男性だった。レギュレーターが外れ、口から気泡が漏れていない。
考えるより先に、体が動いた。俺は男性を掴み、腰のウェイトを外しながら浮上した。
水面に顔を出し、岸に向かって泳ぐ。浜辺のライフガードが異変に気づいて駆け寄ってきた。
砂の上に男性を仰向けに寝かせる。
「心停止だ。AEDと救急要請、すぐに」
ライフガードが走り出す。俺は胸骨圧迫を開始した。
一、二、三、四。リズムを刻む。潮風が汗を運んでいく。男性の顔は青白く、唇は紫色に変わっていた。
「お父さん!お父さん!」
背後から高い悲鳴が響いた。三十代半ばくらいの女性が砂を蹴散らして駆け寄ってくる。俺の隣に崩れ込み、震える手で父親の肩を掴もうとした。
「触らないでください。処置中です」
「え、何?何してるんですか?やめてください」
「心臓が止まっています。今、蘇生をしているんです」
「勝手なことをしないでください!お父さんが…お父さんが痛がるじゃない!」
彼女は俺の腕を掴んで引き剥がそうとした。責める気にはならなかった。突然目の前で父親が倒れ、見知らぬ男が胸を強く押しているのだ。取り乱すのが当たり前だった。
俺は圧迫を止めずに、できるだけ静かに言った。
「お父さんを助けたいんです。少しだけ、俺を信じてください」
ライフガードがAEDを抱えて戻ってきた。パッドを貼り、解析。
「ショックが必要です」
「離れてください」
ボタンを押す。男性の体がわずかに跳ねた。
三十秒。一分。指先が男性の首筋に触れた瞬間、かすかな脈動を感じた。
「脈、戻ったぞ」
呼吸も少しずつ戻ってきた。浅いが、確かにある。
女性はへたりと砂の上に座り込み、両手で顔を覆った。遠くからサイレンが近づいてくる。
救急車が浜辺の入り口に止まり、隊員が走ってきた。
「佐藤さんですね。連絡いただいています。引き継ぎお願いします」
胸のネームには「日向」とあった。
「五十代後半男性。ダイビング中に意識消失、心停止。AEDショック一回で自己心拍再開。海水の可能性が高いです」
「あなたはお医者さんですか?」
「救命医です。東京から旅行できています」
日向は一瞬目を見開き、それから深く頷いた。
「引き継ぎます。ありがとうございました」
ストレッチャーに乗せられた男性は、島崎浩司と言うらしい。彼は救急車へ運ばれていく。娘は俺の顔を見ることもできず、父に付き添って救急車に乗り込んだ。
サイレンが遠ざかっていく。
しばらく俺は波打ち際に立ち尽くしていた。体はまだ熱を持っていた。
男性が倒れていた場所へ戻ろうとした時、砂の上に小さな黒いものが半分埋もれているのが目に入った。
拾い上げてみる。手のひらほどの防水ケースだった。角が擦れて白くなり、長年使い込まれていることが一目でわかる。事故の衝撃で、あの男性が落としたものだろう。
中に何が入っているかは気になったが、開ける気にはなれなかった。他人の持ち物だ。
俺はケースを握ったまま駐車場に戻った。日向から名刺をもらっていたのを思い出し、電話をかけた。
「もしもし、日向です。先ほどの佐藤です」
「浜辺に患者さんの持ち物らしいケースが落ちていました。俺が預かるより、そちらに渡した方がいいかと思って」
「わざわざありがとうございます。今夜、宿泊先まで受け取りに伺ってもいいですか?」
「助かります」
夕方、宿の前で日向と落ち合った。彼は制服のままで、少し疲れた顔をしていた。
「島崎さん、意識はまだ戻っていませんが、バイタルは安定しています。先生の処置がなければ、まず助かりませんでした」
「間に合ってよかった」
「あの、失礼ですが、東京のどちらの病院ですか?」
「都内の救命救急センターです」
日向は少し驚いたように頷いた。
「通りで動きに迷いがなかったわけです」
俺は防水ケースを彼に手渡した。
「必ずご本人に届けます」
その小さなケースが、後に俺自身の人生を大きく揺さぶることになるとは。この時の俺は知るよしもなかった。
翌朝、俺は宿のベランダで海を眺めていた。テーブルの上のスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、日向の名前だった。
「おはようございます。日向です。朝からすみません」
「いえ、起きていました。島崎さんはどうですか?」
「今朝方、意識を取り戻しました」
「そうですか。よかった」
「主治医の話では、後遺症の心配もほとんどないだろうとのことです。先生が水中から引き上げてくださったタイミング、AEDの使用…どれか一つでも遅れていたら、こうはならなかったと」
「間に合っただけです。運が良かった」
「いえ。運じゃありません。あれは技術です」
若い救命士は、はっきりとそう言い切った。
「実は、島崎さんの娘さん…島崎美佐さんとおっしゃるんですが、先生にどうしても直接お会いしてお話ししたいとおっしゃっていまして」
「昨日の方ですね」
「昨日のことをずっと気にしておられて。謝罪と、それから感謝を、どうしても自分の口で伝えたいと」
「気にしなくていいと伝えてください。あの場面で取り乱すのは当然のことです」
「そう申し上げたんですが…」
電話の向こうで、日向が少し困ったように笑った。
俺は少し考えた。今日は旅行の最終日で、夕方の便で東京へ戻る予定だった。午前中なら時間は取れる。
「分かりました。午前中にお見舞いに伺います」
「ありがとうございます。病院の場所、メールで送ります」
電話を切り、俺はもう一度海を見た。
タクシーで向かった病院は、市街地から少し外れた高台にあった。白い建物の三階。教えられた病室の前で足を止める。
引き戸を開ける。
ベッドで体を起こしていたのは、昨日砂の上で青ざめていたあの男だった。目には光が戻っていた。
その隣に立っていた娘の美佐が、俺の顔を見た瞬間、大きく息を飲んだ。彼女は俺の前まで歩いてくると、深く頭を下げた。
「父を助けてくださり、本当に…本当にありがとうございました」
「顔を上げてください」
「あの日は取り乱してしまって、先生の腕を掴んでひどいことを言いました。本当に申し訳ありませんでした」
頭を下げたまま、彼女の肩が小さく揺れていた。床に涙が一滴落ちた。
俺は少しの間、何と言えばいいか迷った。
「気にしないでください。目の前で家族が倒れたら、誰だってそうなります。俺があなたの立場でも、同じことを叫んでいたかもしれません」
美佐はゆっくり顔を上げた。目が真っ赤に腫れていた。昨夜ほとんど眠れなかったのだろう。
ベッドの上で、島崎浩司が穏やかに笑った。
「先生、娘が失礼を働いたそうで、本当に申し訳ありません。それから、命を助けていただいて…こうしてもう一度娘の顔を見られたのも、先生のおかげです」
声はまだ掠れていたが、言葉の一つ一つが丁寧だった。
「島崎さん、無理はしないでください。喋るのは、もう少し体力が戻ってからで」
「いえ。これだけは、今日言わせてください。ありがとうございます」
彼は深く頭を下げた。
俺は椅子に腰を下ろし、患者としての容態を改めて見た。バイタルの数値、顔色、呼吸の様子…自然と目が診察していた。
悪くない。むしろ、驚くほど回復が早い方だ。
美佐が涙を拭いながら言った。
「先生、東京から旅行でいらしていたと聞きました。せっかくのお休みだったのに…こんな」
「休暇中でも、目の前で人が倒れていたら動きます。それが仕事なので」
「仕事なんですか?」
「多分…処分でもあります」
少しだけ場が和んだ。美佐が枕元のサイドテーブルに手を伸ばした。そこには、あの黒い防水ケースが置かれていた。日向が約束通り届けてくれたのだろう。
「先生、これ…日向さんから伺いました。浜辺で拾って届けてくださったと。事故の時に落とされたようだったので」
「このケース、父が四十年以上、肌見離さず持ってきたものなんです」
俺は少し驚いてケースに目を落とした。角の擦り切れ方、金具の曇り方。なるほど、四十年と言われれば納得の行く風合いだった。
浩司が静かに口を開いた。
「先生、中を見ていただけますか?」
「よろしいんですか?大切なものでしょう?」
「先生になら、見ていただきたいんです」
美佐が留め具を外し、ケースを開けた。中から出てきたのは、透明なフィルムに包まれた一枚の古い写真だった。色は少し褪せて、周囲に細かい傷が入っている。
沖縄の海を背にして、二人の人物が並んで映っていた。一人は七つか八つくらいの、日焼けした少年。もう一人は二十代半ばに見える若い男性だった。白いTシャツに首からタオルをかけている。穏やかな目と、少し照れたような笑顔。
その顔を見た瞬間、俺は息を飲んだ。心臓が一つ、大きく跳ねた。
見間違えるはずがなかった。学生時代、講演会場の最前列で見上げた顔。擦り切れるほど読み返した本の著者の写真。
それは、若かりし日の神崎匠だった。
「この方は…」
浩司は写真の中の若い医師を慈しむように見つめた。
「私の命の恩人です」
俺はしばらく、写真から目を離せなかった。沖縄の光、若い神崎の笑顔…。
美佐がそっと言葉を継いだ。
「父はこの写真を毎年持ってきているんです。防水ケースに入れて、海に入る時も肌身離さず」
「毎年ですか?」
「私が物心ついた頃からずっとです。理由は、今日まで私もちゃんとは聞いたことがなくて」
浩司はゆっくりと目を閉じ、それから開いた。
「先生、この写真の話を、先生に聞いていただいてもよろしいですか?」
俺は写真から視線を上げ、浩司の目を見た。
四十年以上、海に持ち続けてきたもの。そこに映っているのが、俺が人生を捧げるきっかけになった医師だという事実。偶然という言葉では、どうしても片付けられなかった。
「是非、聞かせてください」
自分の声が、少し震えていた。
椅子に座り直した俺の膝の上には、あの褪せた写真が置かれている。若き日の神崎匠と、少年の島崎浩司。四十年以上の時を隔てて、この一枚が今、俺の手元にある。
浩司は静かに語り始めた。
「私が少年だった頃の話です。八つの夏でした。あの頃、私は沖縄の漁師町に住んでいましてね。海が遊び場でした。泳ぎは達者なつもりでいたんです」
美佐が父の手をそっと握った。初めて聞く話なのかもしれない。
「あの日、私は仲間と沖のほうまで泳ごうと言い出して、一人で先に出てしまいました。途中で潮に流されて、足がつって…それきり浮いていられなくなって。気がついたら口に水が入って、空も海も分からなくなっていました」
彼は少しだけ笑った。
「死ぬというのは、案外静かなものでね。怖いという気持ちすら、途中から消えるんです」
俺は写真の中の少年をもう一度見た。
「気が付いたら、砂の上に寝かされていました。胸が痛くて、喉が焼けるようで。それでも、生きていました。そばに、若いお医者さんが座っていたんです。たまたま学会か何かで沖縄に来ておられたそうです。休暇で海辺を歩いていて、騒ぎに気づいて走って飛び込んできてくださった。人口呼吸と、胸を押すあれを、ずっと続けてくださっていたそうです」
俺は黙って頷いた。四十年近く前、AEDなど普及していない時代だ。その状況で子供の心拍を戻すのがどれほど難しいことか。救命医の俺には、痛いほど分かった。
「その先生が、神崎巧先生でした。帰る前に一緒に写真を撮ってくださって、『元気で大きくなれよ』と。それだけ言って、東京へ帰って行かれました。私はその後、先生の名前を新聞で何度も見かけるようになりました。テレビにも出ておられて…ああ、あの日の先生は、本当にすごいお医者さんだったんだと知ったんです」
浩司の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「一度、東京の病院までお礼に伺おうとしたこともあったんです。でも、なかなか勇気が出なくて。そうしているうちに、先生は亡くなられて」
「お父さん…」
「だから、毎年この写真を持って、あの海に行くことにしました。あそこで、もう一度礼を言うつもりで。『先生のおかげで、今年も生きています』と」
俺は自分の膝の上の、その一枚をそっと持ち上げた。若い神崎の笑顔が、こちらを見ている。
俺はしばらく言葉を探した。言うべきことは山ほどあるのに、どれから口にすればいいか分からなかった。
「島崎さん、少し、俺の話をさせてください」
浩司と美佐が、静かにこちらを見た。
「俺が医者を志したのは、高校生の頃でした。進路に迷っていた時に、たまたま本屋で一冊の本を手に取ったんです。『救命の現場から』という、少し地味な装丁の本でした」
浩司の目が、わずかに見開かれた。
「著者は、神崎匠先生でした」
美佐が小さく息を飲む音が聞こえた。
「一晩で読み終えて、次の日にもう一度読み返しました。目の前で消えかけている命を、自分の手で繋ぎ止める。そんな仕事が、この世にあるのかと。俺はそれから、神崎先生の講演があると聞けば、どこへでも足を運びました。サインもいただきました。今回の旅行にも、鞄に入れて持ってきています」
浩司の唇が、僅かに震えた。
「先生も、神崎先生の…」
「はい。俺は神崎匠という医師に憧れて、救命医になりました」
美佐がゆっくりと両手で口を覆った。彼女の目から、堪えきれずに涙がこぼれていく。父の隣に立ったまま、肩を震わせている。
「そんなこと…あるんですか?」
彼女は俺と父を交互に見た。
「四十年前に神崎先生が助けてくださった父を、今度は神崎先生に憧れて医者になった佐藤先生が…」
彼女は父の枕元に崩れ、声を殺して泣いた。浩司はもう片方の手で、娘の頭にそっと触れた。その目にも、静かに涙が伝っていた。
「先生。私は神崎先生にお礼を言えないまま、ずっと生きてきました。それが、ずっと心残りだったんです。でも、今日分かりました。神崎先生は、こうして先生の中に生きておられたんですね」
俺は何も言えなかった。言葉にすれば、自分も泣いてしまう気がした。
「先生、ありがとうございます。父の命を二度救ってくださって。神崎先生と、佐藤先生と。お二人の先生に、私たち家族は生かされています」
俺は写真をそっと、浩司の手元に戻した。
四十年近く前、この人が繋いだ命が、こうして今日まで続いている。
「島崎さん、この写真を、これからも大切にしてください」
浩司はゆっくりと頷いた。
「先生、どうかお体を大事に。神崎先生の分まで、長く続けてください」
「はい。約束します」
その日の夕方、俺は羽田行きの便に乗った。窓の外を、夕焼けに染まった雲が流れていく。膝の上には、あの古い本があった。表紙の擦り切れが、いつもよりずっと愛おしく感じられた。
翌朝、俺は白衣に袖を通していた。救命救急センターの空気は、休暇前と何も変わっていない。消毒液の匂い。走り回る看護師たち。
それでも、俺の中では何かが確かに変わっていた。
ロッカールームで、山田と出くわした。
「お、佐藤先生、お帰りなさい。日焼けしてませんね」
「潜ってばかりいたからな」
「で、どうでした?いい休暇になりましたか?」
俺は少し笑って頷いた。
「ああ。行ってよかったよ。お前に感謝してる」
山田は目を丸くした。
「先生に真顔で礼を言われると、逆にちょっと怖いんですけど」
「たまには素直に受け取っておけ」
「なんか…雰囲気変わりましたね、先生」
俺は彼の肩を軽く叩いた。
命を救う思いは、人から人へ受け継がれていくものだ。
インターホンが鳴った。俺は白衣の襟を正し、処置室へ向かって歩き出した。
廊下の窓から、朝の光が差し込んでいる。



