「おっさん、1時間で全部訳しとけよ。」
せら笑いながら押し付けられた書類に、僕は静かに目を通した。
これは、今日から本社勤務となった僕、門田優一に与えられた最初の仕事だった。
僕は中学校を卒業してすぐ、この会社の工場で働き始めた。学歴のない僕に、現場の人たちは仕事だけでなく、計算や語学まで、体で覚えるやり方を教えてくれた。物の数と合わない数字は意味がない。言葉も、辞書の通りに話しても相手が動いてくれなければ通じたことにはならない。そういう確かめ方を、僕はあの現場で学んだ。
やがてその実力を認められ、僕は海外事業所の立ち上げを任された。言葉も通じない土地で、初めは誰も僕を信じなかった。「本社から来た人間はすぐに帰る」と思われているのは初日から分かっていた。それを言葉で否定しても仕方ない。否定できるのは、い続けることだけだった。
毎日現場に立ち続け、現地の社員たちと関係を築き、事業所は軌道に乗った。自分がいなくても回る場所を作ることが、駐在の仕事だったのだと思う。そして僕は、晴れて本社へ戻ることになった。
あれから数年。今日から僕は、この広々としたオフィスの一員だ。ニ田部長の紹介で、僕は営業部に配属された。そして、その日の午後、彼に紹介されたのが、期待のルーキーと呼ばれる春やという青年だった。
「かや、こちらが門田だ。しばらくお前について流れを覚えてもらう」
部長の言葉に、彼は不機嫌そうな顔をした。
「カドタさん、カドタでいいよな。ここでは俺が先輩だし」
初日から、彼の僕への態度は決まっていた。挨拶は返ってこない。仕事は任されない。彼は僕が隣にいるのに、僕のことを頭越しに話した。「こいつ、海外にいたらしいんですけどね。向こうで何やってたのか誰も知らないんですよ」。英語の電話をかけている彼に、相手の母国語が違うかもしれないと伝えると、「おっさん、英語できんの?」と馬鹿にされた。それでも僕は、彼に仕事を教わるという立場を守り続けた。
会議の資料をコピーするように言われ、投げられた書類を床に散らばらせた時も、「ああ、これだからおっさんは使えないな」と笑われた。何もできない日々が続き、肩が凝るほど暇な時間だけが過ぎていった。僕はノートに、彼が動かした案件と、それを知っている人が誰なのかを書き留めていた。抜けている情報がたくさんあることにも気づいていたが、それを伝える相手はいなかった。
ある日の会議。新商品を海外の大手企業に売り込むという、大きなプロジェクトが動き出した。中心にいるのは、もちろん春や君だ。しかし、彼は決めたことを誰にも共有しない。僕がその会議に参加しようとすると、「おっさんは会議に関係ないだろう」と追い出された。工場への確認も、彼が勝手に「問題ありません」と報告している。部屋の中では、何をすればいいのか分からず、手が止まっている社員が増えていった。
そして、ついにその日が来た。彼が取引先から持ち帰った契約書を、僕の机に投げ出したのだ。
「1時間で全部訳しとけ。中卒には難しいだろうけどな」
僕はその書類を手に取り、上から順に目を通した。そして、愕然とした。ありえない取引内容が記載されている。すぐに読める簡単な英文だった。
「ざっと目を通して読ませてもらったけど、こんな契約はありえないよ」
「はあ? どういうことだよ。そんなすぐに読めるわけねえだろうが」
彼が声を張り上げる中、僕は静かに指摘した。まず、金額の欄。他の行と字の大きさが違い、手書きで書き足されたように崩れている。しかも、行の下の方に小さく寄せられていた。よく見ると、数字の頭にはドルを示す記号が。日本円だと思っていた数百万円の契約が、ドル表記であれば数億円の話になってしまう。
「この印が1つ違うだけで、この1枚は我々が聞いていた話とは全く別の契約になります」
部屋が静まり返った。僕はすぐに工場へ電話をかけた。試供品を提供するという条項が、工場に一切伝わっていないことを確かめるために。中学を出てすぐ働いていた、あの工場へ。
「はい、こちら工場。どちらさんだい?」
「本社営業部の門田と申します」
「おう、あの門田さんかい? 変わってないねぇ」
工場長は、覚えていてくれた。僕が現場で教わったことを、今度は自分が生かす番だった。工場長は、今ある数と、今後増やせる数を教えてくれた。しかし、それは取引先が提示した数には足りていなかった。
電話を切り、僕はフロアの皆に伝えた。契約書の金額に不備があること、まだ署名が入っていないこと、工場には生産をお願いしたことを。そして、ニ田部長が到着する前に、契約書を日本語に訳し始めた。金額の欄と試供品の条項に線を引き、日本語で注釈を書き加えた。
部長が来た。かや君は逆上して「こいつが勝手に俺の契約を!」と叫んだ。しかし部長は、僕が渡した訳文を見ると、顔色を変えた。
「門田、頼めるか?」
「もちろんです」
僕はすぐに取引先へ電話をかけた。流暢な英語で、契約書の金額に認識の相違があること、話し直したい旨を伝えた。先方に非礼があったことを詫び、改めて会談の場を設けてもらった。部長と一緒に、すぐに取引先へ向かった。
会議室で、向こうの重役たちは最初、冷たい態度だった。名刺を机に置かれ、要件を急かされた。しかし、僕が「まずこちらの不始末についてお詫びに参りました。先日お会いした弊社の者が、貴社に対して失礼な話し方をしたと伺っています」と話し始めると、空気が変わった。彼らは、僕たちを試していたのだ。あの契約書は、通りそうなものとして出すことで、こちらの会社の体質を確かめるためのものだった。
「あの契約書は、通ると思って出したものではありません」
奥の席にいた人物が、ようやく口を開いた。
「前の担当の方とのやり取りで、こちらが何を心配しているかを1度も尋ねてこられなかった。そのような方と長い付き合いをするのは、正直怖いのです」
僕は、同じことをこちらも思うことがあると伝え、今後はお互いに困った時は、その場で言ってほしいと伝えた。彼らは、「次に困った時は、あなたに連絡します」と言ってくれた。
条件は、初めに話が出ていた通りの金額に修正され、試供品の数も約束通り出すことになった。取引先との関係は、むしろ良好なものになって、僕たちは本社へと戻った。
部長は車の中で言った。
「あの契約書を訳せと言われた時、断ろうとは思わなかったのか?」
「思いませんでした。渡されたものを読むのは、僕の仕事の範囲ですから」
「そういう話をしているんじゃない」
「あの人が持ってきた書類は、あの人の失敗である前に、うちの取引でした。取引に問題があるのなら、誰が持ってきたかは関係ありません」
部長はそれきり黙った。
本社に戻ると、僕は新しい契約が成立したことを告げた。オフィスに、安堵の空気が広がった。そして、工場への連絡窓口を決め、決まったことは紙に残して全員が見られるようにすることを伝えた。すると、若い社員が手を挙げた。
「私、工場さんへの連絡の窓口をやらせていただけませんか?」
「助かります。是非お願いします」
「…お願いしますって言ってもらえたの、久しぶりです」
彼女は少し驚いたような顔でそう言った。
自分の席に戻ると、春や君が立っていた。彼は何か叫んでいたが、誰も耳を貸さなかった。彼は自分の失敗を受け入れられず、僕に責任を押し付けようとした。そして、「俺以外に使えるやつなんていないだろう」とわめいた。
「いい加減にしなさい」
僕の声がオフィスに響いた。自分でもこんな声が出るとは思わなかった。
「いい大人が、自分の失敗を受け入れることもできないなんて。恥を知りなさい」
彼は声をなくして立ち尽くした。部長がフォローを入れた。「門田はな、海外事業所を立ち上げ、10年間支えた立役者だ」。それを聞いた社員たちは皆、驚いた顔をした。かや君の顔は、青ざめていった。
結局、会社は彼を解雇しようとしたが、僕はそれを止めた。あの人にはまだ行っていない場所がある。そう思ったのだ。彼は現在、工場勤務となり、現場の作業員として働いている。見下していた人たちができることを、彼はほとんどこなせないだろう。それこそが、彼にとっての罰だと思った。この会社に育てられた僕だからこそ、同じ場所で働いた彼を切り捨てたくはなかった。
あれから数ヶ月。仕事は無事に回っている。決まったことは紙に残り、それは誰でも見られる場所に置いてある。工場への連絡は、毎朝決まった人が名前を名乗ってからかけている。彼女は今では、工場の人の声を聞き分けるようになった。
僕はと言うと、営業部の部長に就任した。あの日、一番驚いた顔をしていたのは、多分僕自身だったと思う。今は現場へ足を運ぶことも増えた。立っているだけでも、機械の音が変われば何かが分かる。その耳を持っている人間が本社にいるというのが、今の僕の役目なのだと思う。
デスクに置いた、あの日引き出しから見つけた小さなサボテンに水をやり、会議へと向かう。そうして戻る頃、そのサボテンは、小さな花を咲かせていた。



