診察室の窓から午後の柔らかい光が差し込んでいた。ここは山あいの小さな町にある大山診療所。俺は白衣の袖をまくり、聴診器を胸のポケットに差した。名前は佐藤大輔。四十二歳。この診療所で週に三日だけ働く非常勤の医者だ。
「次の患者さん、どうぞ。」
受付の田村さんがのんびりした声で呼びかける。入ってきたのは近所の農家の吉川さんだった。七十を過ぎているが、まだ現役で畑に出ている。
「先生、また膝がなあ、冷たくてかなわん。」
「じゃあ、少し見せてくださいね。無理して畑に出ないでくださいって、前も言ったでしょう。」
「そう言われてもなあ。じっとしとると、余計にだめでな。」
俺は膝の腫れを丁寧に触診し、湿布と鎮痛剤を処方した。派手なことは何もしない。ただ話を聞き、ゆっくり診る。それがこの町で俺に求められていることだった。
昼過ぎ、患者の波が引いた頃、院長の大山先生が診察室に顔を出した。六十を超えても背筋の伸びた人だ。大学病院時代の恩師で、今も頭が上がらない。
「佐藤君、午後は少し暇になりそうだな。お茶でも飲もう。」
「はい。お願いします。」
応接室に入ると、大山先生は自分で急須にお茶を入れてくれた。湯気の向こうで先生が静かに笑った。
「町の連中がな、また君のことを話しとったよ。あの先生は週に三日しか来ないから、あまり真面目じゃないんじゃないか、ってな。」
「ええ、まあ、そう思われた方が楽ですから。」
「変わった男だよ、君は。あれだけの腕を持ちながら、こんな田舎で聴診器を当てて満足しとる。」
「満足してるんです、本当に。家に帰れば妻がいて、娘がいる。それで十分です。」
大山先生は、少しだけ寂しそうな顔で笑った。
「藤堂君から、また電話が来とるんじゃないか。」
「ええ。昨日も難しい症例が入ったそうです。」
「行くのか。」
「土曜日の朝、日帰りで。ひなの学芸会が来週なので、それまでには片付けます。」
先生は何も言わず、ゆっくり頷いた。俺の生き方を、この人だけは知っていた。
夕方六時過ぎ、俺は自転車で家に帰った。玄関を開けると味噌汁の匂いがした。ひろみが台所から顔を出す。
「お帰りなさい。今日は早かったのね。」
「ああ。患者さんも少なかったから。手伝おうか。」
「大丈夫よ。あと少しでできるから、座ってて。」
俺は上着を脱ぎ、居間のソファに腰を下ろした。テーブルの上にひなのランドセルが置いてあり、プリントが少し飛び出していた。学芸会のお知らせだ。四年一組、『白雪姫』。ひなはきこりの役をやるらしい。
再婚して二年になる。ひろみとは共通の知人の紹介で出会った。彼女は数年前にご主人を病気で亡くしていた。最初のご主人がどんな病気で亡くなったのか、俺は詳しく聞かなかった。ひろみも俺の仕事について、あまり深く聞かなかった。それが互いにとって心地よい距離だった。
「ただいま。」
ひなが帰ってきた。
「お母さん、お腹空いた。」
「まあ、すぐできるから、手を洗ってらっしゃい。」
ひなは洗面所に向かう途中、俺と目があった。
「ただいま。」
「おかえり。今日は学校どうだった?」
「うん、普通。」
それだけ言って洗面所に消えた。俺は苦笑した。まだ距離がある。無理もない。実の父親を亡くしてまだ数年しか経っていないのだ。「お父さん」と呼ばれる方が、俺には落ち着かない気がしていた。
夕食の食卓で、ひろみが思い出したように言った。
「そうだ、ひな。学芸会の日、お父さんも来てくれるって。」
「え、来るの?」
「ああ。その日は診療所も休みだから、ちゃんと見に行くよ。」
「ふうん。」
ひなはご飯を口に運びながら、小さな声で言った。
「お父さん、いつもあんまりお仕事してないから、暇なんだね。」
ひろみが慌ててひなを嗜めた。
「ひな、そんな言い方しないの。」
「だって、みんな言ってるもん。あの先生は週に三日しか来ないって。宮本君のおじいちゃんも言ってたよ。」
俺は箸を止めた。少しだけ胸の奥がざわついた。
「まあ、そう思われているなら、それでいいさ。ちゃんと見に行くから、きこり役、頑張れよ。」
「うん。頑張る。」
ひろみが申し訳なさそうな顔で俺を見た。俺は小さく首を振った。
夜十時過ぎ、ひろみとひなが寝室に入った後、俺は居間で書類に目を通していた。大山先生から預かった来週の患者の紹介状だ。その時、机の上の携帯が震えた。画面に「藤堂」と表示されている。
俺は書類を置き、廊下に出てから電話に出た。
「藤堂か。こんな時間にどうした。」
「佐藤先生、夜分すみません。今、救急で運ばれてきた患者さんなんですが、大動脈解離のスタンフォードA型で、しかも複雑な分枝の絡みがあって、うちのチームだけでは判断がつかない状況です。」
藤堂の声は落ち着いていたが、その奥に張り詰めたものがあった。彼が俺に電話をかけてくる時は、いつもそうだ。本当に困った時にしか、彼はこの番号を鳴らさない。
「画像、送れるか。」
「はい。今すぐ送ります。」
数秒後、携帯にCT画像が届いた。俺は画面を拡大し、じっと見つめた。確かにこれは難しい。分枝の走行が普通ではない。通常の術式では、命を落とす可能性が高かった。
「患者はいくつだ。」
「五十四歳の男性です。奥さんと、まだ高校生の娘さんが待合室で泣いていて……」
俺は少し目を閉じた。高校生の娘。父を失うということがどういうことか。俺はひろみとひなのそばで、日々感じている。
「分かった。土曜の朝一番で行く。それまで保存的に持たせられるか。」
「はい。なんとかコントロールします。先生、本当に助かります。」
「準備しておいてくれ。俺が着いたら、すぐ入れるように。」
「了解しました。」
電話を切って、俺は廊下の壁に背中を預けた。静かに寝室を覗くと、ひろみとひなが並んで眠っていた。ひなの枕元には、きこりの衣装らしき布が畳んで置かれていた。
俺はこの光景を守るために、あの町で頼りない非常勤医でいることを選んだ。それでいい。誰にも知られなくていい。ただ、この家族のそばにいつも帰って来られれば。
俺は静かにドアを閉めた。
土曜の朝、俺は始発のバスに乗り、そこから特急に乗り換えた。窓の外をまだ薄暗い田んぼが流れていく。鞄の中には術式のメモと、藤堂が送ってきた最新のCT画像を印刷したものが入っていた。車内で俺はもう一度画像を広げた。分枝の走行、解離の進展、患者の全身状態。何度見ても難しい症例だった。
家を出る時、ひろみは寝巻き姿で見送ってくれた。
「今日は日帰りで戻れるの?」
「ああ、夜には帰る。夕飯は先に食べていていいから。」
「気をつけてね。」
彼女は俺が大学病院で、少し手伝いを頼まれたとだけ聞いている。それ以上は聞かない。俺もそれ以上は言わない。
八時過ぎ、俺は大学病院の裏口から入った。救命救急センターの通用口には、藤堂が立って待っていた。
「佐藤先生、来てくださって、本当に助かります。」
「顔色が悪いぞ。少し休んでから入る。俺が着いたんだから、もう大丈夫だ。」
「はい。患者さん、朝方に一度血圧が落ちてひやっとしたんですが、なんとか持ちこたえています。」
更衣室で手術着に着替えた。青い布に袖を通すと、体の中の空気が少しだけ変わる。町の白衣とはまた違う感覚だった。洗面台で手を洗い、鏡を見た。そこに映っているのは、非常勤の佐藤大輔ではなかった。
手術室に入ると、若い医師たちが緊張した顔で並んでいた。麻酔医と目線をかわす。モニターの数値を確認する。患者の胸を消毒液で拭く。一連の動作に迷いはない。
「藤堂の合図で、開始してくれ。分枝の再建は俺がやる。お前は左手のサポートに集中してくれ。」
「了解しました。」
メスを握った瞬間、時間の流れが変わった。指の先まで神経が通り、術野の中の血管が立体的に見える。解離した内膜を丁寧に剥がし、人工血管を吻合していく。一針一針、確実に。
途中で分枝の一本が、想定よりもろかった。若い医師が息を飲む音が聞こえた。
「大丈夫だ。慌てなくていい。ここは糸を細くして二重にかける。影像を少し引いてくれ。」
「はい、分かりました。」
手術は六時間に及んだ。最後の糸を結び終えた時、麻酔医が静かに頷いた。
「先生、バイタル、問題ありません。」
「ありがとう。皆さん、お疲れ様でした。」
手術室を出ると、藤堂が壁にもたれて涙ぐんでいた。不器用な男だ。俺は彼の肩を軽く叩いた。
「よく持たせたな。お前が電話をくれたから、あの人は助かった。」
「先生、本当にいつもすみません。先生がいなかったら、うちのチームは半分の患者さんを見送るしかありません。」
「大げさなことを言うな。俺は非常勤だ。呼ばれた時に来るだけの、ただの助っ人だよ。」
俺は着替えを済ませ、正面玄関ではなく裏口から病院を出た。待合室の家族に会うつもりはなかった。
夕方の特急に飛び乗ると、車窓の景色はもう山の色に変わっていた。家に着いたのは夜の九時前だった。玄関を開けると、ひろみとひなが居間にいた。テーブルの上に、きこりの衣装が広げられている。
「お帰りなさい。今、衣装の最終確認をしていたの。」
「ただいま。お、それがきこりの服か。」
「うん。ちょっと大きいの。お母さんが直してくれてる。」
俺は上着をかけてテーブルに座った。ひなが緑色のベストを着て、鏡の前でくるりと回った。少し照れくさそうな顔をしている。
「似合ってるよ。斧はどうするんだ?」
「あのね、ダンボールで作るの。まだできてないんだ。」
「じゃあ、明日一緒に作るか。こう見えて、工作は得意なんだ。」
ひなは、少しだけ驚いた顔をした。
「本当にお父さん、そんなの作れるの?」
「作れると思う。銀紙を貼って、それらしく仕上げてやる。」
「じゃあ、お願いしようかな。宮本君のお父さんが作ったやつ、すごくかっこよかったから、負けたくないの。」
俺は少し笑った。
「今日は大学病院、大変だったの?」
「まあ、少しな。難しい患者さんで、時間がかかった。もう落ち着いたよ。」
「あなたが呼ばれるなんて、珍しいのね。」
「昔の同僚に頼まれてな。人手が足りない時は、たまに手伝ってるんだ。」
ひろみはそれ以上聞かなかった。俺のお茶を注ぎ、湯呑みを差し出した。
「お父さん、学芸会、絶対来てくれる?」
「ああ、絶対に行く。前の方に座って、しっかり見てるよ。」
「あのね、きこりのセリフ、三つあるの。ちゃんと聞いててね。」
「三つもあるのか。それは大変だな。今、言えるかな?」
ひなは少し咳払いをして、真面目な顔で立ち上がった。そして、覚えたてのセリフをゆっくりと口にした。俺とひろみは静かにそれを聞いた。ひなは照れくさそうに座り込んだ。
「変じゃなかった?」
「変じゃない。むしろ上手だよ。当日、あの通りに言えたら、お父さん、多分泣くぞ。」
「え、泣かないでよ。恥ずかしいから。」
そう言ってひなは笑った。
「分かった。泣かないように我慢する。約束するよ。」
ひろみが横で、そっと目を潤ませていた。
学芸会の当日、朝から秋晴れだった。俺は久しぶりにネクタイを締めた。ひろみが「そんなにちゃんとしなくてもいいのにと」笑った。ひなは衣装の袋を抱えて、玄関で靴を履いていた。
「斧、忘れてないか?」
「うん、ちゃんと入れた。お父さん、ありがとね。銀紙、すごく光ってる。」
「本番、頑張れよ。」
学校に着くと、体育館の前に町の人たちが集まっていた。受付の脇に小さなテレビが置いてあり、朝のニュースが流れていた。俺はぼんやりと画面を見た。その時、耳を疑うような言葉がアナウンサーの口から流れた。
「先日、大学病院で行われた極めて難易度の高い大動脈解離の手術が成功し、患者さんが一般病棟へ移られました。執刀に当たった佐藤大輔医師は……」
俺の名前だった。続けて画面に藤堂が映った。彼はカメラを前に少し困った顔で、しかしはっきりと言った。
「佐藤先生は、全国から集まる難しい心臓の患者さんを、これまでに何十人も救ってこられた、我々の柱です。普段は地方の診療所で地域医療に当たっておられます。」
体育館の前が、しんと静まった。数人の保護者がテレビと俺を交互に見た。ひなが俺の袖を掴んだ。
「お父さん、今の、お父さんのこと?」
「ひな、後でちゃんと話す。今は学芸会だ。」
ひろみも俺を見ていた。何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ顔だった。俺は二人の背中に軽く手を添え、体育館の入り口に向かおうとした。
その時、受付の辺りで鈍い音がした。人が倒れる音だった。振り返ると、宮本君の祖父、宮本一郎さんが床に崩れ落ちていた。胸を押さえている。周囲の人たちが悲鳴をあげた。
俺は走った。ネクタイを緩めながら、宮本さんの傍らに膝をついた。指を頸動脈に当てる。脈が触れない。
「救急車を呼んでください。それからAEDです。学校にあるはずです。」
受付の女性が慌てて電話を取った。俺は宮本さんの胸に両手を重ね、圧迫を始めた。遠くでひなが俺を見ているのが分かった。体の芯にリズムが染みついている。集まった保護者たちが遠巻きに息を飲んでいた。少し離れたところで、ひながひろみの手を握りしめていた。
受付の女性がAEDを抱えて走ってきた。
「先生、これを。」
「ありがとう。パッドを開けて、そこに置いてください。」
俺は宮本さんのシャツのボタンを引きちぎるように外し、パッドを胸に貼り付けた。機械の音声が流れる。
「皆さん、下がってください。」
短い電気が流れ、宮本さんの体がわずかに跳ねた。俺はすぐに胸骨圧迫を再開した。額に汗がにじむ。
三分後、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。もう一度、AEDが解析を始めた。今度は、宮本さんの胸に微かな動きが戻った。指を頸動脈に当てる。脈が触れた。細いが、確かに触れていた。
「戻った。呼吸を確認します。皆さん、少し場所を開けてください。」
救急隊が到着すると、俺は簡潔に状況を伝え、宮本さんを託した。隊員が救急車に運び込まれる。俺は運転席の隊員にもう一度言った。
「大学病院に、私も向かうと伝えてください。佐藤大輔です。」
「分かりました。ご一緒されますか?」
「いえ、後から追います。まず娘の学芸会を最後まで見てから行きます。」
隊員は少し驚いた顔をして、それから深く頷いた。サイレンが遠ざかっていく。振り返ると、体育館の入り口にひろみとひなが立っていた。ひなの目には涙が浮かんでいた。
学芸会は予定より少し遅れて始まった。体育館の中は、いつも通りの保護者たちの笑い声と拍手に包まれていたけれど、俺の周りだけは少し空気が違った。隣の席の男性が、そっと会釈をしてきた。その斜め前の女性も、俺と目が合うと慌てて前を向いた。俺はネクタイを直し、パンフレットを膝に置いた。ひろみが隣に座り、俺の左手にそっと自分の手を重ねた。
四年一組の『白雪姫』が始まった。幕が上がると、森の場面から始まる。ひなはきこりの役だ。出番は二番目だと言っていた。俺はプログラムを何度も見返した。手のひらに、まだ胸骨圧迫の感触が残っていた。
幕が二番目が始まった。森の奥から、緑のベストを着たひなが出てきた。ダンボールの斧を担いでいる。銀紙が天井の照明を受けて光った。ひなは舞台の中央に立ち、深く息を吸った。そして、三つのセリフをゆっくりと言った。少し早口だけれど、真面目な声。俺はこらえきれずに目頭を押さえた。ひろみが俺の手をぎゅっと握った。
劇が終わり、拍手が鳴り響いた。俺は立ち上がり、ひろみに耳打ちした。
「悪い。これから病院へ行ってくる。宮本さんの手術、多分、俺が入ることになる。」
「行ってらっしゃい。ひなには、私からちゃんと伝えるから。」
「帰ったら、全部話す。今まで黙っていたこと、全部。」
「うん。待ってる。」
ひろみは俺の背中を押した。
大学病院に着いたのは、午後二時過ぎだった。藤堂が救命の入り口で待っていた。
「先生、宮本さん、やはり大動脈解離でした。上行から部分にかけて、範囲が広いです。」
「分かった。すぐ入る。家族には話したか。」
「息子さんが来られています。手術の同意はいただきました。ただ、ご高齢で、リスクはかなり……」
「分かっている。だからこそ、俺がやる。」
手術は五時間に及んだ。血管は思っていたよりずっともろかった。一針縫うごとに、糸をかける場所を選び直した。若い医師がじっと俺の手元を見つめていた。藤堂は左手のサポートに徹し、余計な言葉を挟まなかった。
最後の吻合を終え、人工心肺から離脱する瞬間、心臓は自分の力で動き始めた。弱いが、確かなリズムだった。麻酔医がモニターを見ながら、小さく息を吐いた。
「先生、白出、安定してきました。」
「ありがとう。あとはゆっくり戻してやってください。」
手術室を出て、家族控室に向かった。宮本さんの息子さんが立ち上がって、深く頭を下げた。俺は簡潔に伝えた。息子さんは途中から言葉にならなくなり、両手で顔を覆った。
「先生、朝、体育館で父を助けてくださったのも、先生だと聞きました。学芸会の日に、こんな……本当に、何と言っていいか。」
「たまたま、その場に居合わせただけですよ。」
俺は少し笑って控室を出た。藤堂が廊下で待っていた。
「先生、今日のことがニュースに出たこと、本当にすみません。取材を断りきれなくて。」
「もういい。いつかは、こうなる日が来る気はしていた。」
「奥さんと娘さん、大丈夫でしょうか。」
「これから帰って、話す。」
夜の特急に揺られながら、俺は窓の外を見ていた。田んぼの向こうに、家の明かりが見えてくる。玄関を開けると、居間から光が漏れていた。ひろみとひなが、テーブルに座って俺を待っていた。
ひなが立ち上がり、少しためらってから、俺のそばに寄ってきた。そして、シャツの袖をぎゅっと握った。
「お父さん、宮本君のおじいちゃん、助かった?」
「ああ、助かった。しばらく入院はするけど、また会えるよ。」
「よかった。」
ひなはそう言うと、俺の胸に額を押し当てた。小さな肩が、少しだけ震えた。俺は右手で、ひなの頭にそっと触れた。
「あなた、ご飯、食べられる?」
「ああ、食べるよ。腹が減った。」
ひなが顔をあげ、俺を見上げた。目が赤かった。
「お父さん、明日、学校でみんなに言ってもいい? うちのお父さん、本当はすごいお医者さんなんだって。」
「行ってもいいけど、お父さんはこの町で聴診器を当てる方が性に合ってるんだ。だから、明日もまた診療所に行くよ。」
「うん。行ってらっしゃい、って明日言うね。」
俺は頷いた。ひろみが味噌汁を温め直した。台所から湯気といつもの匂いが立ち上る。窓の外、田んぼの向こうから虫の音が聞こえていた。



