孫が涙を流すのを見たのは、生まれて初めてだった。会社の創立50周年パーティーの最中、酔った上司の男が、私の孫を「中卒」と呼び、蹴飛ばし、そして最後には食べ残しの皿を目の前に叩きつけて、「中卒社員にはこれで十分」と大笑いした。あれだけ堪えていた孫が、その瞬間、泣いてしまった。私は静かに立ち上がり、その男に言った。「人事について社長に相談がある」と。その男はまだ気づいていない。私こそが、彼の会社…

孫が涙を流すのを見たのは、生まれて初めてだった。会社の創立50周年パーティーの最中、酔った上司の男が、私の孫を「中卒」と呼び、蹴飛ばし、そして最後には食べ残しの皿を目の前に叩きつけて、「中卒社員にはこれで十分」と大笑いした。あれだけ堪えていた孫が、その瞬間、泣いてしまった。私は静かに立ち上がり、その男に言った。「人事について社長に相談がある」と。その男はまだ気づいていない。私こそが、彼の会社...

「中卒社員にはこれで十分だ」

そう言って、酔った男が私の孫の前に食べ残しの皿をどさっと置いた。孫はそれまで何も言わずに耐えていたのに、その瞬間、涙をこぼした。

私は急いで孫のもとへ駆け寄った。そして、心の中で勝ちを確信しながら、孫に静かに微笑んだ。

「明日が楽しみだな」

私の名前は古賀正隆。77歳だ。生まれてこの方、ずっとこの村で米を作り続けてきた。我が家は代々米農家を営み、私は3代目にあたる。

幼い頃から田んぼの中で遊び、土の匂いとともに育った私にとって、農業は単なる仕事以上のものだった。苦労も多いが、それ以上に大地から得られる喜びは大きく、この土地で米を育て続けることに誇りを持っている。

だが、私は娘や孫に無理にこの仕事を継がせるつもりはなかった。時代が変わり、農業の形も変わってきている。今の若者たちにはもっと広い世界を見て、自分の好きなことを追求してほしいと思っていた。

そんな中、孫の恒樹が農業に興味を持っていると知った時は少し驚いた。彼は幼い頃からよく田んぼで遊んでいたが、まさかそのまま農業に関心を持つとは思わなかった。

彼が選んだ道は、現代の技術を駆使した農機具の取り扱いだった。新しい時代の農業を支える仕事だ。私も年齢を重ね、農業のあり方が変わっていくのを感じていたので、彼の選択に心から賛成した。

恒樹が務める会社は、農業機械の分野で名の知れた企業であり、私も昔から付き合いがある。だから、彼がその一員として働いていることを誇りに思っていた。

今日、その会社が創立50周年を迎えるということで、記念パーティーに招待されたのだ。

会場に入ると、華やかな装飾と賑やかな雰囲気が広がっていた。懐かしい顔ぶれとの再会に、話が弾んだ。

そんな中で、恒樹も他の若手社員と共に動き回っているのを見かけたが、私は特に声をかけることなく、彼が今の仕事に専念している姿を見守ることにした。彼はまだ会社の中では下っ端で、責任のある仕事を任されることは少ないだろう。しかし、私が見たところ、彼は自分の仕事に誇りを持ち、一生懸命取り組んでいる様子だった。それが何より嬉しかった。

しばらく彼の働く姿を見守っていると、ふと一人の男が目に止まった。

その男は40代前半で、中肉中背、どこにでもいそうな普通のサラリーマンに見えた。しかし、彼の態度には何か違和感を覚えた。パーティーはまだ始まったばかりだというのに、すでにかなりの量の酒を飲んでいるらしく、顔を赤くしている。彼はしきりに孫の恒樹に命令を出しているようだった。

「おい、中卒。酒持ってこいって言ってんだろ」

私はその声に一瞬耳を疑った。立花と呼ばれるその男は、孫のことを「中卒」と呼んでいるのだ。まるで学歴だけで人を評価するかのようなその言葉に、胸の中で苛立ちが湧き上がった。

「立花部長、乾杯の挨拶もまだですし、これ以上は…」

恒樹は穏やかな口調で応じている。しかし、立花の反応はさらにひどいものだった。

「中卒の分際で意見するな。いいから持ってこい」

そう言い放つと、立花はなんと孫を蹴飛ばした。

恒樹はバランスを崩し一瞬よろけたが、すぐに立ち直り、冷静にその場を処理しようとしている。孫がこんな屈辱を受けているとは思いもしなかった。

彼は中学を卒業した時、進学せず働くと言い出した。学歴が重視されるこの時代にその選択を取ることに少し見上げたものを感じた私は、娘が反対する中、恒樹の背中を押した。その決断が彼の人生にどう影響を与えるのかは分からなかったが、彼の意思を尊重することが大切だと考えたのだ。

そして、恒樹は誰の後ろ盾もなくこの会社への入社を取り付け、すでに10年ほど務めている。それは私にとって非常に誇らしいことであり、彼の努力の結果でもある。

しかし、目の前で起こっているこの光景は、そんな孫が直面している現実を突きつけていた。私はその場で立ち上がりかけたが、ぐっとこらえた。年寄りの出る幕ではないし、今ここで何かを言ったところで事態が良くなるわけではない。このような困難に立ち向かう覚悟も、彼自身が持っているはずだ。私が過保護に手を出すのは、彼の成長を妨げるだけだと自分に言い聞かせた。

立花はさらに言葉を続け、孫を侮辱するような言動を繰り返す。

「中卒の役立たずが偉そうにしてるんじゃねえぞ。お前みたいなのがいるから会社がダメになるんだ」

この言葉にはさすがに私も限界を感じた。だが、恒樹はただ立花の言葉を受け流し、淡々と命令をこなしている。

自分の力で困難を乗り越えるのは大切だが、時には大人が手を差し伸べることも必要だろう。私の出番だ。

「おい、中卒」

その言葉が再び孫に向けられた。私は静かに立ち上がり、その場にいる全員の視線を引き寄せるように、立花に向かって返事をした。

「はい。何でしょう?」

立花は一瞬驚いたように私を見たが、すぐにニヤリと笑った。

「なんだじいさん。あんたも中卒か?」

私は穏やかな微笑みを浮かべ、立花の言葉を肯定した。

「ええ、戦後すぐでしたので、働くしかなくて」

その言葉に、周りの社員たちからも笑いが起こった。立花も私の返答を面白がっているようだ。だが、立花が私に興味を持ったことで、孫への攻撃は一旦止まった。

「部長さんはさぞかし立派な大学をご卒業なんでしょう。東大、それともハーバード?」

この質問には、立花が一瞬固まる。彼は慌てた様子で返事をした。

「あ、いや、俺は大学には行ってないんだよ」

私の予感は的中した。自分も大した学歴ではないくせに、他人の学歴を蔑んでいる姿がさらに情けない。自分より学歴が低い人間を見下すことで自己満足に浸るなんて、何とも哀れだった。

「いやはや。部長さんは立派なお役職につかれておられる。大学を出ていないなんて関係ないですな」

立花は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに笑みを浮かべて私に向かって言った。

「いいこと言うじゃねえか、じいさん。こっち来て飲め」

彼の言葉に、周りの社員たちも私を手招きしている。立花の懐に入りすぎたようだが、今は孫のために付き合ってやるとしよう。

私が立花の隣に座ると、彼はすぐに私に酒を進めてきた。彼は酔いが進んでいるせいか、すっかり機嫌が良くなっている。私は酒を受け取り、一口飲んでから、ゆっくりと立花に向かって言葉を続けた。

「学歴なんて結局のところ後からついてくるものです。大切なのは自分が何を成し遂げるかだと思っています。部長さんのように大学を出ずとも立派な役職につくことができるのは、努力の賜物でしょう」

立花は私の言葉に満足したのか、笑顔で頷いた。

「そうだ。じいさん、結局のところ俺たちがどれだけ稼げるか、それが全てだ」

その言葉を聞き流しつつ、私は心の中で嘲笑した。彼の言うことも一理あるが、それだけが人生の全てではない。学歴にしがみつくことなく努力と実績で道を切り開く姿勢は確かに大事だが、それが他人を見下す理由にはならない。

しばらくの間、立花に付き合って酒を飲んでいると、彼の酔いがさらに深くなり、周りの社員たちも私たちのやり取りに興味を持ち始めた。

私は会話を締めくくるように、静かに微笑んだ。

「学歴なんて関係ないですな」

立花は満足そうに頷き、さらに酒を注ごうとしたが、私はそれを断り立ち上がった。これで孫への当たりが少しは緩和されるだろう。

パーティーは順調に進行し、乾杯の挨拶をきっかけに、豪華な料理がテーブルに次々と並べられた。どの料理も見事な出来で、会場全体に華やかな雰囲気が漂っている。私も久しぶりにこんな豪華な食事を目にし、少しばかり心が浮き立つのを感じた。

その時、視線の先に恒樹がいることに気づく。彼は一段落ついたようで、自分の席に座り、ようやく食事にありつける様子だった。心の中で「お疲れ様」と声をかけながら、彼がようやく休息を取れることに安堵する。

しかし、次の瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。さらに酔いが回った様子の立花が、フラフラとした足取りで孫の方へ近づいていくのが見えたのだ。立花の顔には悪意に満ちた笑みが浮かんでおり、彼が何かしでかそうとしていることは明らかだった。

「おい、中卒。何サボってんだよ」

立花は恒樹に向かって、酔っ払った口調で絡み始めた。私は立花の行動を止めるべきかどうか一瞬迷ったが、少し様子を見ることにした。恒樹が自分の力で対処することを信じる。

恒樹は困ったように笑みを浮かべながら、冗談めかして答えた。

「僕にも食べさせてくださいよ」

彼は相手の挑発に対して軽く受け流そうとしていた。

しかし、立花はそれに対してさらにひどい屈辱を準備していたようだ。

「いいだろう。でもお前の食事はこっちだ」

立花はどこからか残飯を持ち出し、それを恒樹の前にどっさりと置いた。それは他の社員たちが食べ残したもので、まるで人間の食べ物とは思えないほどひどい状態だった。私の胸に怒りが湧き上がるのを感じた。

「中卒社員にはこれで十分」

立花はその言葉と共に大声で笑い出し、彼の取り巻きたちもそれに続いて大爆笑した。その光景は、まるで自分たちが何か大偉業を成し遂げたかのような錯覚に陥っているようだった。

恒樹はこれまで立花のどんな発言にも耐えてきた。しかし、今回の仕打ちはこれまでとは異なっていた。彼の目に涙が浮かんでいるのが、遠目にもはっきりと分かる。

「おいおい、そんなに嬉しいか。お前の大好物だもんな」

立花はさらに追い打ちをかけるように、孫を嘲り続けた。その言葉がどれほど残酷でどれほど無神経かを考えもしないで。

恒樹はついに顔を伏せ、涙を流し始めた。私の胸に鋭い痛みが走った。これまで立花のどんな言葉にも耐えていた孫が、こんな形で屈辱を味わわされるとは。彼の泣き顔を見るのは、祖父として何よりも辛かった。

私は立花の愚行に耐えられず、急いで孫の元にかけ寄る。立花はその様子を見て、さらに嘲りを強める。

「おいおい、じいさん。横取りしに来たのか?」

立花の取り巻きたちも、たとえず大爆笑だ。彼らの笑い声が、私の心にさらなる決意を燃え上がらせる。だが、私は感情を押し殺し、恒樹の顔を見つめた。

「頑張った。あとは任せなさい」

私は優しく孫に声をかける。恒樹は涙で濡れた顔を上げ、私を見つめ返す。

私は立花の方に向き直った。

「あのう、社長に人事について相談がある」

私は意識的に大きな声を出し、この騒ぎの中心に社長の麻生を呼び出す。騒ぎを聞きつけた麻生が慌てて駆けつけてくる。その表情には、ただごとではないことを訴えているのを察した様子が見て取れた。

「古賀さん、一体どうされました?」

麻生の顔には心配と戸惑いが入り混じっていた。私は彼の顔をじっと見つめ、落ち着いた口調で返す。

「今日はこのパーティーに招待してくれて、本当にありがとう。おかげで可愛い孫の働きぶりを知ることができたよ」

「お孫さんがうちの会社にいらしたとは」

麻生は驚きの表情を見せる。彼は私の孫がこの会社で働いていることを知らなかったのだろう。しかし、私はさらに言葉を続ける。

「お節介かもしれないが、人事に関して提案がある」

その言葉に、立花は顔色を変えて口を開く。

「ちょっと待てよ、じいさん。あんた一体何者なんだ?」

立花の声には明らかな動揺が混じっている。私がただの中卒の老人ではないことに、ようやく気づき始めたのだろう。

「立花さん、あんたは中卒の私のことなんて気にしなくていいよ」

立花はますます困惑した表情を見せたが、私は彼を無視し、再び麻生に向き直った。麻生は状況を理解し始めた様子で静かに頷いた。

「わかりました。立花に関する人事ということでしょうか?」

私は再び孫の方に目を向け、彼に向かって力強く声をかけた。

「明日が楽しみだな」

その言葉に、恒樹の表情が少しだけ明るくなったのを見逃さなかった。彼はまだ若い。これからどんな困難が待ち受けていようとも、それに立ち向かう力がある。私の言葉は彼の心に新たな希望と決意を植えつけるためのものであり、また立花に対しての『宣戦布告』でもあった。

麻生は私の言葉を真剣に受け止め、立花に対して何らかの処置を取る覚悟を決めたようだ。立花は一瞬、何が起こったのか理解できないという表情を浮かべていたが、次第にその顔色が青ざめていった。彼もこれ以上のブレーキが許されないことを、ようやく悟ったのかもしれない。

「じ、冗談だろ、じいさん」

実は、代々続く米農家の名家である我々古賀家は、この会社の創設にも深く関わっており、この会社は古賀家と共に歩んできた。社内政治において絶大な発言権を持っており、現社長の麻生は、私の後押しで社長になった人物だ。私の一声で、立花程度の人事はいくらでも変更できる。

私は麻生に向かって軽く頷き、彼も同じように頷き返してきた。

パーティーの翌日、私は社長の麻生に時間を取ってもらい、パーティーで起こった一連の出来事を詳細に報告。孫の恒樹が受けた屈辱と立花の振る舞いについて正直に話し、社内での対応を求める。

麻生は私の話を真剣に聞き、すぐに立花に関する社内調査を開始することを約束した。

その調査は迅速に進められ、立花が孫をはじめとする部下たちに対して行っていた数々のパワハラ行為が次々と明るみに出た。立花の下で苦しんでいた社員たちが勇気を持って証言し、その結果、立花の行為が広く認知される。

麻生はこの事態を重く受け止め、立花の処分を決定した。

立花のパワハラを黙認していた取り巻きたちも、社内での責任を問われる。彼らは降格する者、出世の道が閉ざされた者、警告を受ける者など、厳しい処分を受けることとなった。退職者も少なくなかった。

立花自身もその責任を問われ、最終的には退職を余儀なくされた。彼はこれまでの行いの代償として、職と職場での地位を失うこととなった。彼の退職は社内に大きな衝撃を与えたが、これによって職場の風通しが良くなり、社員たちが安心して働ける環境が整った。

こうして、私の孫を苦しめていた問題は解決に向かい、恒樹も再び前向きに仕事に取り組むことができるようになった。私はこれでようやく一息つけると感じながら、彼のこれからの成長を楽しみにしていた。

パーティーでの一件が解決し、立花が社を去った後、孫の恒樹から感謝の言葉をもらう。彼は真剣な表情で私の前に立ち、頭を下げる。

「じいちゃん、本当にありがとう。このままだったら、きっと仕事を続けられなかった。おじいちゃんが助けてくれたから、今もここで頑張ることができる」

その言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。私は彼の肩に手を置き、ゆっくりと目を見つめながら言う。

「お前がこうして真面目に頑張っている姿を見られることが、何よりも嬉しい。だが、今回の件で分かったことは、どんなに辛いことがあっても、決して1人で抱え込んではいけないということだ。困った時はいつでも俺に相談しなさい。お前には仲間がいる。家族がいる。それを忘れずに、これからも頑張れ」

恒樹は私の言葉を聞き、少し涙ぐんでいたが、すぐに力強く頷いた。彼の瞳には、これまで以上に強い決意と自信が宿っているのが見えた。

彼が選んだ道は決して容易なものではないが、彼が持つ熱意と努力があれば、必ずや成功するに違いない。これからも彼の成長を見守り、必要な時には手を差し伸べるつもりだ。孫の幸せが私にとって何よりの喜びであり、そのためならばどんなことでもする覚悟だ。

「お前は俺の誇りだ。これからも全力で自分の道を進め」

恒樹は私の言葉をしっかりと胸に刻み、笑顔で新たな一歩を踏み出した。私もまた、彼の成長を楽しみに、これからの彼の人生を全力で応援していくつもりだ。

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