「なぜ高卒を採用した?上場したから底辺は会社の恥だ」
本社から来たばかりの二代目社長、大沼の言葉を聞いて、上司の開発部長・石川は「大変申し訳ございません」と頭を下げた。
俺は何のことかさっぱり分からなかった。
確かに会社は少し前に上場した。だが、それが俺が高卒だということと、いったい何の関係があるというのだ。
俺は物づくりに精を出していれば、それでいいはずじゃないのか。
「出ていけ。ここはお前のような高卒社員がいる場所ではない」
「お言葉ですが、この会社には高卒が結構いますよ。社員全員に出ていけというおつもりですか?」
「平井君、社長のおっしゃることに何を言い返すんだ!」
「ああ、その通りだ。中卒や高卒の社員には出ていってもらう」
なんと、大沼は学歴主義だった。
俺は思わず「ふうん」とだけ呟いた。それから、なんだか胸くそが悪くなった。
先代の社長は、そんなことを口にする人じゃなかった。どんな学歴であっても、受け入れてくれる人だったのに。残念な息子を持ったものだ。
「じゃあ、退職します」
即断即決だった。
これからずっと邪魔者扱いされるくらいなら、いっそ辞めた方が楽になれるだろうと思ったのだ。
俺の名前は平井正。今の会社に転職して2年目になる、40歳の開発部社員だ。高卒で社会人デビューしてから、もう22年が経とうとしている。
俺は物づくりが大好きで、あちこちの会社で特許を取ってきた。いわゆる転職族だ。出世には全く興味がなく、管理職として他人の上に立つなんて考えただけでぞっとする。とにかく物づくりができてさえいれば、それで問題ないと思っていた。
俺はその日中に退職届けを出すことを社長と約束し、昼休みになると会社近くのコンビニへ向かった。白い封筒と便箋を買うためだ。
「平井さんじゃないか。昼に会うなんて珍しいな」
レジの前に並んでいたのは、工場勤務の島田だった。彼はカップ麺とおにぎりを手にしている。交代で昼休みを取る工場だから、俺の昼休みと重なるのは確かに珍しい。
「昼飯を買うんじゃないのか? その封筒、何に使うんだ?」
「ああ、これですか。退職届けを書くんですよ」
なるべく軽いノリで言ってみたが、島田はごまかされなかった。
「退職? 平井さん、あんた、退職するのか?」
俺はしばしの沈黙の後、午前中に起きた出来事を島田に話した。
「高卒以下は、今の会社にはいらないそうですよ」
俺の話を聞いた島田は、ひどく驚いた顔をした。
「冗談じゃねえ。俺ら工場なんて、大卒なんか数えるくらいしかいないってのに。新社長は俺らも切り捨てるつもりなのか?」
大沼が工場の人間の学歴についてどう考えているのか、俺には分からない。だが、俺に言ったことが本音なら、工場の人間にも同じことを言うはずだ。
「正しい選択をしてくださいね、島田さん」
「それはあんたと同じく退職しろってことか」
「そうは言いません。でも、独身の俺と違って、島田さんには家庭があるでしょう? 闇雲に退職したって、次の仕事が決まっていなければ生活が苦しくなる一方です」
「難しいですよね」
結局のところ、どうするのが最善かなんて、他人じゃなく自分で決めることだ。そう思った。
それにしても、社長というのは偉いものだ。たった一言で、人の人生を変えてしまうくらい大きな権限を持っている。その分、会社経営において責任も重大なのだろうが、それは俺の知ったことではなかった。
俺は島田との話を終えると、開発部に戻って退職届けを書き始めた。別に誰に見られても構わないので、自分の机の上に書類を広げ、堂々と書き上げた。
そして最後に、白い封筒に「退職届」と書いて、石川のもとへ届けに行く。
「本当にやめてしまうのか? さっきのは売り言葉に買い言葉に聞こえたぞ」
石川は上には媚びへつらう傾向があるが、下に対して意地悪というわけではない。大沼が俺に言ったことについて、全面的に正しいとは思っていないようだった。
だが俺と石川が話をしていると、外から戻ってきた社員が驚くべきことを口にした。
「大変だ! 人事の前に長蛇の列ができているぞ!」
俺は嫌な予感がして、人事部へと走った。
「平井君、どこへ行くんだ?」
背中から石川の声が追いかけてくるが、今はどうでも良かった。
人事部の前には、思った通り、工場の正社員たちが列をなしていた。その列の一番前にいたのは、工場長の島田だった。
「島田さん、こんなところで何をしてるんですか?」
「何って、退職しようとしてるんです。今、人事が社長に問い合わせるから待てって言われて、待ってるんですよ」
よくよく聞けば、大沼はあれから工場にも足を運び、学歴主義について語ったのだという。俺のように「出ていけ」とは言われなかったが、「君たちも邪魔な存在だ」と言われたのだそうだ。
「そこまで言われて働く義理はねえんだよ。なんたって俺たちは邪魔なんだからな」
全く、大沼という社長は何を考えているのだろう。そう思ったその時、人事から男性が出てきた。
「皆さん、落ち着いてください。今、大沼社長がこちらへ来るとのことですので、お待ちください」
「俺たちは大沼社長と話がしたいんじゃなくて、退職届けを受け取れって言ってるんだよ!」
島田の声が荒くなる。大声で人事と島田が口喧嘩をしていると、大沼が慌てて人事部に駆けつけた。
「これはどういうことだ? 島田工場長」
「どうもこうもないでしょう。あんたが俺らを邪魔物呼ばわりするから、退職しようってんです。あんたにとっては嬉しいことなんじゃないですか」
「待ってくれ。君たち全員にやめられたら、製造ラインが動かなくなってしまう」
それを見越しての退職だったんだろうに。
大沼は押し切られた。島田たちの数の勝利と言ってもいいだろう。とにかく人事は、工場在籍者の40名から退職届けを受け取り、受理することになった。そして、俺の退職届けも石川経由で人事部へと渡されていった。
これからどうしようかとは考えていなかった。俺はその日をただ過ごし、その日になったら今後の身の振り方を考えることにした。
ああ、特許商品。
俺が特許を取った商品が、まだ製造されているはずである。あのラインを止めてもらい、販売を中止してもらわなければならないな、と考える。この時、俺は会社側が特許に気づいて、製造販売を中止してくれるだろうと勝手に思い込んでいた。
俺は退職してから1週間、特に何かをするわけでもなく、ただダラダラと過ごしていた。その間、会社からは離職票や雇用保険の案内などが届いていたが、開封する気もなくテーブルに置いておいた。
だが、そんな生活を続けるわけにもいかず、栄養をつけなくてはとスーパーに買い出しに出かけた時、俺は自分の開発した髭剃りが店頭で売られているのを見つけた。
敏感肌用の髭剃り。俺はこれについて特許を取っており、会社はもうこの製品を作ることも販売することもできないはずである。
「なんで出回っているんだ?」
もしかしたらこのスーパーだけで売っているのかと思い、隣のドラッグストアにも足を運んでみたところ、こちらでも普通に売られていた。
おかしい。
会社は特許のことを知らないのではないか。俺は真っ先に社長の大沼を疑った。
俺は会社の代表番号に電話をし、大沼につないでもらえるよう交換に頼んだ。少し待つと、大沼が電話に出た。
「ああ、開発にいた高卒か。あんな脅しで退職するとは、随分と根性がないじゃないか」
「そんなことはどうでもいいんです。今日は俺の特許商品についてお伺いしたくて電話をしました」
「はっ、特許? 高卒のお前が笑わせんな」
「特許に高卒も大卒も関係ないでしょう」
詰め寄ると、大沼は電話の向こうで黙り込んだ。
「俺の特許のこと、知らなかったんですね。だったら今すぐ製造も販売も止めてください。このことを受け入れていただけないのであれば、こちらは弁護士を立てます」
その夜、俺は一つの考えについてあれこれ考えていた。
俺には前職のみならず、他の会社でも特許を取った経験があり、普通の社員よりは収入も貯蓄もある。それを会社の経営資金とすることができるかどうか、という考えだ。
高卒だ、大卒だと煩く言われるのであれば、いっそ雇う側に回ればいいのではないか、と思ったのだ。
俺はこの考え方が客観的に見てどう思われるのだろうと思い、俺と同じ日に退職した元工場長の島田に電話をしてみた。
「おお、平井さんか。もう転職先は見つかったのか?」
「俺はまだですよ」
そう答えた後、自分が会社を起こすという考えについてどう思うかを島田に問いかけてみた。
「ああ、いいんじゃないかな。平井さんは天才的なひらめきがあるし、案外会社を起こしたら繁盛するかもしれんな」
「本当にそう思います?」
「もちろんさ。まあ、もし会社を立ち上げるようなことがあれば、声をかけて欲しいですな」
そこで電話が切られそうになるのを、俺は全力で止めた。そして電話口で大声で言った。
「島田さん、やりましょう! 会社を! 学歴に囚われない実力主義の会社を立ち上げましょう!」
それから、俺たちは力を合わせて会社を立ち上げた。
初めてで分からないことだらけなので、弁護士や経営コンサルタントのアドバイスに耳を傾ける。全てが滞りなく進み、俺は全財産を投資して、念願だった会社を設立した。
従業員を学歴で差別しない、差別されない、という理念のもと、とうとう俺たちの会社ができたのである。
俺と島田はしっかりと握手を交わした。
学歴主義を徹底的に排除した新会社にするべく、俺が社長に、そして島田が副社長として登記した。最も、島田は「副社長と言っても現場にいたい」ということなので、建設中の工場が完成すればそちらに入り浸るようになる予定だった。
とうとう初出社の日を迎えた。
まだ社内に従業員は少ないものの、俺が彼らの生活を成り立たせるのかと思うと、表情が引き締まる。
俺は家を出て、オフィスに出社した。今日は早速やらねばならないことがある。
社長室の前では、すでにこの会社の顧問弁護士である相川裕子が待っていた。
「相川先生、おはようございます。お待たせしてすみません」
「大して待っていませんよ。社長、参りましょうか」
俺たちは連れ立って、以前の会社の社長室へと向かう。俺の特許を未だ使い続けている、あの会社へ。
会社に着くと、俺たちは社長室のあるビルの最上階へ向かう。大沼とのアポイントメントはもう取ってあるので、彼も社長室内にいるはずだった。
俺は社長室のドアを2度ノックした。「はい」と聞こえると、ドアを内側へと押し開ける。
「君は……そうか、君が平井だったのか」
よくよく聞けば、大沼は「平井って誰だ」という状態で予定を入れていたのだという。
「自分が首にしたことなど、いちいち覚えていませんでしょう」
俺は皮肉を込めて返してやった。
「大沼社長、特許製品の製造販売を止めて欲しいんです。この相川弁護士のお名前で警告文が発行されていたはずですが、まさかまだ作っているのではないですよね」
「君、あれはうちの主力商品なんだぞ。やめたらどうなるのか分からないのか?」
「特許を取っているのは私です。あなたが『底辺』扱いした、高卒の私の特許商品です。お返しいただきますよ」
そこで相川が損害賠償金について大沼に話したところ、大沼としてはギブアップするしかなかった。
「次なる特許でも見つけて、儲かるといいですね。では」
俺と相川が社長室から出ようとすると、俺はスラックスの裾を引っ張られ、転びそうになった。小さく振り返れば、大沼が床にうつ伏せになって、俺のズボンを引っ張っている。
「君に、我が社に戻ってきてほしい。君は他社の商品でも特許取得した過去があるそうじゃないか」
「私は高卒ですが、あなたの会社に『底辺』は必要ないとおっしゃっていましたよね」
「だから、それが悪かったと言っている。君ほどの逸材を切り捨てた私が愚かだった」
「そのセリフ、俺が退職する前に聞けたら良かったんですけどね」
俺はそう言って、社長室を後にした。
「平井社長、本当に『底辺』なんて言われたんですか? 今時、そんな経営者がいるんですね」
相川はなかなか信じられない様子だった。
「私も仕事柄、いろんな会社の方とお話ししますけど、大沼社長のような学歴主義にはなかなかお目にかかれませんね」
それから大沼は、俺への損害賠償金を支払うと同時に、特許商品の製造販売を止めた。そうすることで、大沼の会社は一気に経営危機に陥った。
「平井君、助けてくれ」
主力商品の製造販売が取りやめになったことで、大沼の会社には金が入らなくなった。売上は下がり、資金は枯渇し、やがて不渡り手形を2度出したことで倒産となった。
時間の問題だとは思っていたが、本当に倒産しちまうとはね。あの会社が倒産したことで、島田は少しはショックを受けているようだった。
「特許に頼った経営は危険ですね。うちはあの会社の失敗を教訓にして、一つの商品に頼りすぎる戦略は避けるようにしましょう」
「そこは心配してねえな。なんたって、うちの社長は特許を取るのが得意だもんな」
「からかわないでくださいよ」
俺が笑うと、島田は「謙遜しなさんな」と俺をからかってきた。
この倒産を受け、俺の会社には思いがけない影響があった。職を失った従業員たちが、うちの会社にこぞって応募してきたのである。
だが、その中で一番びっくりしたのが、大沼が応募してきたことだった。
書類審査で突っぱねたのだが、なんと俺の会社のビルで「平井に合わせろ」と騒いだそうで、やむなく社長室で面接をすることにした。
まず、履歴書と職務経歴書を拝見した。
「なるほど。お坊っちゃん系の私立大学を出て、以前働いていた職場で10年ほど修行してから、新社長として就任とある。嘘偽りはなさそうだな」
俺は応募書類を机の上に置いた。
「では大沼さん、簡単な自己紹介をお願いします」
「大沼義博、50歳以上」
「いえ、『以上』ではなくてですね、あなたの今までのことを、この書類に肉付けして教えていただきたいんです」
「そんなことはすでに書類に書いてあるだろう。高卒の君には読み取れんのかね」
また学歴主義が始まったな。俺は思わず息を吐いた。
「大沼さん、うちは実力主義なんです。あなたより若い方があなたの上に立つこともありますし、中卒の方と机を並べていただくことだってあるんです。そういうことに耐えられますか?」
「中卒なら高卒認定を取ればいい。高卒なら大卒認定を取ればいい。そういう努力をするのなら、俺は認めてやってもいい」
俺は自分の表情筋がおかしくなるのを感じた。
こちらが何度実力主義と言ったところで、大沼は学歴主義に書き換えようとする。これは面接するだけ無駄だったな、と俺は判断した。
「なぜ俺を採用しないんだ!」
わめく大沼を、警備員に連れて行ってもらった。
この話を島田にしてみたところ、彼は腹を抱えて笑っていた。
念願の工場が完成すると、俺と島田は新しい工場に足を踏み入れた。少しオイルの匂いが気になるが、どこか懐かしい光景だ。
俺は新商品の図面をいくつか持ってきており、その中には特許を取ったものも入っている。今はまだ全商品を生産ラインに載せられないが、少しずつ設備投資を重ねて、大きな工場へと育てるつもりだ。



