手術室の照明が灯り、モニターの数値が小さく揺れていた。俺は麻酔機のダイヤルにそっと指をかけ、患者の血圧と心拍を読む。その揺れを読むのが俺の仕事だった。
加藤浩、42歳。この地方総合病院で麻酔科医として10年になる。無影灯の向こうで若い外科医がメスを走らせていた。原田洋介、35歳。この病院の心臓外科のエースだ。腕には自信があり、その自信を隠そうともしない男だった。
「加藤先生、血圧もう少し上げてもらえますか。術野が見にくいんですよ」
「今の数値で問題ありません。上げれば出血が増えます。このまま維持します」
穏やかに答えたが、原田は鼻で笑った。
「まあ、麻酔の言う通りにやってくれればいいんですけどね」
俺は何も返さずモニターに目を戻した。言い返す気力はとうに失せている。3時間後、手術は無事に終わった。原田は勝ち誇ったように部下たちと出ていく。俺は最後まで残り、患者の覚醒を見届けた。まぶたが震え、指先が動く。その瞬間が俺にとって一番大切な時間だった。
更衣室に戻ると、ロッカーの前で原田たちの声が聞こえた。
「あの人さ、なんで麻酔にいるんだろうな」
「外科でやってけなかった口だろう。窓際ってやつですか」
「まあ、麻酔は麻酔で必要だからな。せいぜいおとなしくしててくれって話だよ」
笑い声が響き、そして消えた。俺はロッカーの扉を静かに閉めた。鏡に映った自分の頭に白いものが混じり始めている。10年か。呟いてみても、何の感慨もわかなかった。
昼過ぎ、ソファに腰を下ろしてコーヒーを飲んでいると、誰かが近づいてきた。心臓内科の白石みさと、36歳。この病院で一番信頼できる医師と患者から言われている女性だ。
「加藤先生、少しよろしいですか?」
「ええ、どうしました?」
白石はカルテを一枚テーブルに置いた。昨日、俺が麻酔した患者のものだった。
「この症例、途中で右心系にかなり負荷がかかってましたよね。加藤先生、投薬のタイミングを絶妙に落とされてました。あれ、普通の麻酔の判断じゃないと思うんです」
「たまたまです。モニターの数値通りに動いただけですよ」
「モニターの数値だけであの判断はできません。私、内科として何百件も心臓の患者を見てきましたけど、あの流れを読める先生はそう多くはないと思います」
まっすぐな目だった。褒めているのでも探っているのでもない。ただ事実を確かめたいというような目だ。
「買いかぶりですよ、白石先生」
「そうでしょうか」
彼女は以前から俺の麻酔記録を何度か見ていた。その度にこうして声をかけてくる。気づかれるのは正直少し困るけれど、不思議と嫌ではなかった。
「先生、以前はどちらにいらしたんですか?」
「いろいろです。あちこち回って、ここに落ち着きました」
「そうですか」
それ以上彼女は踏み込まなかった。代わりに笑った。
「私、加藤先生の麻酔、好きです。患者さんが目を覚ました時の顔がとても穏やかで」
「それは患者さんの体力のおかげです」
「先生って、褒められるのが下手ですね」
そう言って彼女はカルテを持って立ち去った。窓の外、桜の枝がまだつぼみのまま揺れている。俺は冷めかけたコーヒーを飲み干した。胸の奥に、忘れかけていた何かがほんの少しだけ浮いた。
夕方、内線電話が鳴った。高瀬委員長からの呼び出しだった。院長室のドアを開けると、68歳の高瀬一郎が窓際に立っていた。いつも通り静かに笑っている。この人だけが、俺の過去の全てを知っている。
「呼び立ててすまんな、加藤君」
「いえ、何かありましたか?」
高瀬は椅子に腰を下ろし、俺にも座るように促した。
「今夜、救急で重症の患者が一人、うちに搬送されてくる。かなり重い。大動脈に大きな問題を抱えている」
「大学病院に送った方がいいのでは?」
「本来ならそうだ。だが、本人がここを希望されている」
俺は首をかしげた。この地方病院をわざわざ指名する重症患者は珍しい。
「患者の名前は大杉さん。60歳」
その名前を聞いた瞬間、俺の指先がわずかに冷たくなった。高瀬はそれを見逃さず、静かに続けた。
「覚えているかね?」
「ええ、もちろんです」
忘れるはずがなかった。10年前、俺がまだ大学病院にいた頃、事務を務めていた男。あの医療事故の、あの現場に居合わせた数少ない関係者の一人だった。
「本人がここを指名した理由までは分からん。ただ、担当は原田君になるだろう。麻酔は、君に頼みたい」
「委員長、私でいいんですか?」
「君だからいいんだ」
即答だった。迷いのない声だった。俺は少しの間黙っていた。10年前、俺は全てを失ったつもりでいた。神の手と呼ばれた過去も、心臓外科医としての名前も、自分から捨ててきた。
「わかりました。麻酔科医として務めさせていただきます」
「頼んだよ」
短い返事の中に、10年分の重みがあった。院長室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。白衣の裾を揺らして白石みさとが歩いてくるのが見えた。
「加藤先生、今夜の搬送、聞かれましたか?」
「ええ、たった今、委員長から」
「大杉さんという方ですね。私、内科側で見させていただくことになりました。よろしくお願いします」
彼女は頷き、少しだけ声を落とした。
「先生、なんだか今日、いつもと少し違いますね」
「そうですか」
「はい。気のせいならいいんですけど」
俺は答えなかった。答えようがなかった。
夜、救急搬送口に赤いランプが灯った。ストレッチャーの上に横たわる男の顔を、俺は遠くから一度だけ見た。10年ぶりに見る大杉の顔だった。痩せて、髪が薄くなっていた。それでも間違いなく、あの日あの場所にいた男だった。俺は白衣のポケットに手を入れ、深く静かに息を吸った。何かが動き始めようとしている。
翌朝、カンファレンス室にいつもより多くの医師が集まっていた。昨夜搬送されてきた大杉修造の症例検討会だ。モニターには拡張した大動脈の画像が映し出されている。
「大動脈基部拡張。大動脈弁の閉鎖不全。加えて石灰化あり。弁置換手術に冠動脈バイパスの併施が必要でしょう」
原田の説明は明快で、確かに的を射ていた。
「執刀は原田君に任せる。麻酔は加藤君に」
その一言に、原田の眉がわずかに動いた。
「委員長、この症例なら大学病院に増援を頼むのが筋ではないですか? うちの加藤先生に失礼ですが、荷が重い気がします」
穏やかな言い方だったが、言葉の端に棘があった。俺は資料に目を落としたまま何も言わなかった。
「加藤君で大丈夫だ。私が保証する」
高瀬委員長はそれ以上何も言わせなかった。原田は不機嫌そうに口を閉じ、ホワイトボードに視線を戻した。
会議が終わり、席を立とうとした俺の隣に白石が来た。
「加藤先生、大杉さんの内科的なデータをこちらにまとめました。腎機能もかなり落ちていて、術中の輸液管理はシビアになると思います」
「ありがとうございます。助かります」
資料を受け取ると、丁寧に色分けされた数値の表が並んでいた。彼女の仕事はいつもこうだ。必要なものを、必要な分だけ、静かに差し出してくる。
「先生、大杉さんとは、ご面識があるんですか?」
思わず資料をめくる手が止まった。
「昔、少しだけ。今の彼を患者としてしか見ませんよ」
「そうですか」
彼女はそれ以上聞かなかった。
昼過ぎ、俺は大杉の病室に足を向けた。麻酔科医として患者に説明する。それ以上でもそれ以下でもない。病室に入ると、ベッドに横たわる大杉がゆっくりと顔をこちらに向けた。一瞬、その目が大きく見開かれた。
「加藤先生……加藤先生ですか?」
「ええ、麻酔を担当します加藤です」
淡々と答えた。できるだけ事務的な声で。
「まさか、あなたにこんなところでまた会えるとは」
声が震えていた。俺は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。
「大杉さん、今日は手術の説明に来ました。麻酔についてお話しさせてください」
「先生、私はあの日からずっとあなたに謝りたかった」
彼の目には涙が滲んでいた。痩せた手がシーツの上で震えていた。
「その話は今はしません。今は、あなたの体を無事に手術台から下ろすことだけを考えてください」
「先生……」
「明日の麻酔は、私が責任を持って管理します。眠っている間のことは、私に任せてください」
大杉はしばらく何も言わず、天井を見上げていた。やがてぽつりと呟いた。
「私はね、先生、ずっと持っていたんです。あの日のカルテの原本を」
その一言に、俺の指先が止まった。
「黒田先生が書き換えるように指示したものではない、本来のカルテです。私が事務として金庫にしまっておいたんですよ。誰にも渡さないまま、10年」
「大杉さん……」
「もし私がこの手術を乗り越えられなかったら、あれは無駄になる。だから私はここに来たんです。加藤先生、あなたのいるこの病院に」
俺は何も言えなかった。言葉が喉の辺りで固まっていた。10年間、俺が封じ込めてきた扉が、この男の手によって静かに押し開けられようとしていた。
「大杉さん、今は体のことだけ考えてください」
やっとそれだけ言って、俺は立ち上がった。病室を出た瞬間、廊下の壁に手をついた。胸の奥が鈍く痛んだ。
夕方、俺は屋上に出ていた。時々、こうして風に当たりたくなる時があった。背後で扉の開く音がした。振り向くと、白石が立っていた。
「探しました」
「すみません。少し風に当たりたくて」
白石は隣に来て、フェンスに軽く手をかけた。
「加藤先生、私、調べてしまいました」
「何をですか?」
「10年前の大学病院の医療事故のこと。当時、心臓血管センター長だった加藤浩先生のこと」
静かな声だった。
「白石先生……」
「先生を追い詰めるつもりはありません。ただ、私は知っておきたかったんです。私が信頼している麻酔の先生が、どんな道を歩いて、今ここに立っているのか」
俺は空を見上げた。
「あの事故は私の責任だと発表されました。それが公式な記録です」
「公式な記録」
彼女は繰り返した。
「先生、もし真実が別にあるのだとしたら、私はそれを聞きたいです。今すぐでなくてもいい。いつか、話せる日が来たら」
「……はい」
「待ちます」
それだけ言って、彼女は微笑んだ。その時だった。二人のPHSが同時になった。俺と白石、二人ともほぼ同時に取り出した。
「加藤先生、白石先生、大変です! 原田先生が病棟で倒れられました!」
「原田先生が?」
「意識はありますが、右半身に力が入らないと。今、CT室に運んでいます」
俺と白石は顔を見合わせ、屋上を駆け出した。エレベーターの中で、白石が短く息を吐いた。
「あの手術、どうするんですか?」
CT室の前に着くと、ストレッチャーに横たわった原田が青ざめた顔で天井を見つめていた。普段の傲慢さは消え、ただの一人の怯えた男の顔だった。
「加藤先生……」
「喋らなくていい。今、見てもらうから」
「明日の手術が……」
「大丈夫だ。今は、あんたの体のことだけ考えろ」
彼はそれ以上何も言えなかった。
夜、高瀬委員長の部屋に俺は再び呼ばれた。委員長は机の上で両手を組み、静かに言った。
「原田君は軽い脳梗塞だ。命に別条はないが、明日のメスは握れん」
「大学病院から応援を呼びますか?」
「間に合わん。大杉さんの容態は今夜が山だと、白石先生も言っている。明日を逃せば、次はない」
俺は黙って委員長の顔を見た。
「加藤君、執刀を君に頼みたい」
その言葉が部屋の中に落ちた。
「委員長。私はもう10年、心臓には触れていません。腕が錆びているのは、私が一番よく知っている。もし私がまた失敗したら……」
「その時は、私も一緒に責任を取る。今度こそ、君一人には背負わん」
窓の外で夜風が枝を揺らしていた。白衣の裾を握る手に、静かに力が入った。
「わかりました。執刀、務めさせていただきます」
「頼んだよ、加藤君」
その声には、10年前と同じ静かな信頼があった。
院長室を出ると、廊下の突き当たりに白石が立っていた。何も聞かず、ただ小さく頷いた。俺もまた、頷き返した。10年間閉じていた扉が、今、完全に開いた。明日、俺はもう一度あの場所に立つ。
当日になった。手術室の扉の前で、俺は一度立ち止まった。消毒液の匂いが鼻の奥に染みる。自動扉が開き、白い光の中に足を踏み入れた。
無影灯の下、ストレッチャーに大杉修造が横たわっている。
「加藤先生、器械台確認、お願いします」
「はい。監視機器、確認しました。糸のサイズも問題ありません」
声は思ったより落ち着いていた。対面には白石みさとが立っている。今日は内科医としてではなく、循環管理を補助する役として、俺の希望で入ってもらった。麻酔は、大学病院から急遽駆けつけた若い麻酔科医の松井が担当している。
「加藤先生、麻酔導入、いつでも行けます」
「お願いします。導入はゆっくりで。血圧の下降だけは絶対に避けてください」
「わかりました」
大杉がマスクの下からこちらを見ていた。乾いた唇がわずかに動く。
「先生、よろしくお願いします」
「大杉さん、眠っている間のことは、私が全部引き受けます。安心して眠ってください」
薬剤が静かに注入され、大杉のまぶたがゆっくりと落ちていく。俺は手袋をはめ直し、器械台の前に立つ。指先にメスが渡された。握った瞬間、手の中に金属の冷たさが伝わる。一瞬、指が止まった。
「加藤先生」
「それでは始めます」
皮膚に一本の線を引いた。想像していたよりもはるかに悪い状態だった。血管壁は薄く、破れてもおかしくない。
俺の手の動きが早くなっていく。無駄は一つもない。糸を渡す、結ぶ、切る。その全てが吸い込まれるように嵌まっていく。
白石が小さな声で言った。
「先生、少し石灰化がありますね」
「見えています。ここは避けて、こちらに人工血管を吻合します。バイパスは内胸動脈を使いましょう」
「はい、わかりました」
若い研修医は俺の手元から目を離せなかった。針がまるで生きているように動いている。臨床工学技士が隣の看護師にそっと囁いた。
「この先生、麻酔の人だよね」
「はい。加藤先生です」
「本当に……」
看護師は答えられなかった。彼女もまた、目の前の光景が信じられずにいる。
手術開始から4時間が経とうとしていた。最大の山場、時間との勝負になる場面だ。
「人工心肺開始してください」
「心停止液、ゆっくり注入を」
「はい、注入します」
手術室が水を打ったように静かになる。その静けさの中で、俺の針だけが動いていた。一針、また一針。糸がまるで測ったかのように等間隔で並んでいく。
研修医は原田先生のメスさばきを何度も見てきた。確かに原田はうまい。けれど、目の前の光景はそれとは違う何かだった。
白石がふと顔を上げて俺を見た。涙が浮かんでいた。彼女もまた、初めて見ているのだ。噂の中でしか知らなかった、かつての「神の手」を。
「白石先生、復温始めてください」
「はい、了解です」
心臓が再び動き始めたのは、午後3時を回った頃だった。ゆっくりとリズムを取り戻していく。一拍、二拍、三拍。その度に手術室にいた者が小さく息を漏らした。
「人工心肺離脱に入ります」
若い医師の手が追いつかないほどの速さだった。離脱を終え、俺が手袋を外したのは、日が傾き始めた頃だ。6時間を超える手術だった。
手術室を出ると、廊下に高瀬委員長が立っていた。涙が滲んでいる。
「加藤君」
「委員長。大杉さん、無事に手術を終えられました。あとは経過を見ます」
「ありがとう。本当にありがとう」
委員長は深く頭を下げた。
3日後、大杉が意識を取り戻した。1週間後、ICUから一般病棟へ移った。そして10日後、彼はベッドの上で、一本の古い封筒を俺と白石、高瀬委員長の前に差し出した。
「これが、あの日の本物のカルテです」
封筒の中には、黄ばんだ書類が数枚入っていた。10年前、大学病院の心臓血管センターで書かれた、書き換えられる前の記録だった。
「あの手術で亡くなった患者さんの死因は、術中の判断ミスではありません。術後、ICUに移った後の管理で、当時の主治医が指示を誤ったのが原因です」
「先生は、最後の最後まで正しい判断をされていました」
大杉の声は震えていた。
「黒田先生、つまり、今の大学病院の院長、黒田先生が、事務だった私に命じたんです。カルテを書き換えろと。責任は、若かった加藤先生に負わせると」
白石が隣で唇を噛んでいた。高瀬委員長は目を閉じたまま何度も頷いていた。俺はただ静かに、その書類の束を見つめていた。
「大杉さん、この10年、あなたも辛かったでしょう?」
「先生、もう十分です。あなたはこうして真実を持ってきてくださった。それでいいんです」
窓の外で、桜が満開になっていた。
1ヶ月後、大学病院で調査委員会が開かれた。大杉の証言と原本のカルテによって、10年前の医療事故の真相が明らかになった。黒田誠は病院長を辞任した。俺の名誉は回復された。
新聞に小さな記事が載った日の夕方、俺はいつも通り手術室にいた。患者の覚醒を見届け、モニターを片付ける。それが俺の仕事だった。
更衣室を出ると、廊下の端に白石が立っていた。
「加藤先生、大学病院に戻られるんですか?」
「いいえ、私はここに残ります。ここで麻酔をやります」
「そうですか」
「白石先生、あなたがいてくれたから、私はもう一度メスを握れました。ありがとうございました」
白石は少し驚いた顔をして、それから笑った。
原田はリハビリを終えて、半年後に病院へ戻ってきた。俺の前に立って、深く頭を下げた。
「加藤先生、私は何も見えていませんでした」
「顔を上げてください、原田先生。また、この病院で一緒にやりましょう」
窓の外で風が桜の花びらを運んでいた。



