「お前、学費をどこにやった?」と私が尋ねたら、夫はニヤリと笑って言い放った。「ああ? それなら俺が使ったぞ。新車代としてな。問題あるか?」…

「お前、学費をどこにやった?」と私が尋ねたら、夫はニヤリと笑って言い放った。「ああ? それなら俺が使ったぞ。新車代としてな。問題あるか?」...

「私、あの十五畳の部屋がいいわ。あそこ、私の部屋ね。あんたの部屋なんて物置きで十分よ。どうせ何もしないじゃない。食べて寝るだけでしょ。」

私は堪忍袋の緒が切れた。

「何もしないのはあなただと思いますけど。それに、あなたは何も分かっていない。さっきから疑問に思ってたんですけど。あなた、誰の家の話をしてるの?」

彼女は一瞬立ち止まった。まさか私が言い返すとは思わなかったのだろう。

「私の家の話よ。お兄ちゃんの家は私の家でもあるの。だからあの部屋を使う権利が私にはあるの。偉そうな口を聞かないでくれる?」

「私の家の話ね。」

私は山積みのダンボールを指さして言った。

「あなたの荷物は、ここにはないわ。」

私の名前は白崎里。夫の清と、夫の両親との同居生活を送っている。夫は優しく穏やかな人で、義両親も私のことをまるで娘のように扱ってくださる。私は毎日幸せに日々を過ごしていた。

幸せな毎日の結果、お腹には新しい命が宿った。これを機に新居へ引っ越し、親子三人の生活を始めようかと、最近夫と話している。目標は新築の家に住むこと。十五畳くらいの部屋を作って、寝室兼書斎にしたいという話もしている。そんな未来のこと、夢のこと、子供のことを考える時間がすごく幸せだった。

早く赤ちゃんに会いたい。そして三人の生活をスタートさせたい。私はいつも大きくなったお腹を撫でて、穏やかな気持ちで時を刻んでいた。

ある日のこと。夫には三つ下の妹のレイ子がいる。彼女は高校から家を出ており、早くに結婚して、あまり実家にも寄りついていなかった。そのレイ子が突然訪ねてきたのだ。

「お母さん、ちょっと聞いてよ。旦那がさ、すごく私をこき使うようになったの。本当にひどくって、出てきちゃった。もう帰りたくない。」

レイ子はアイラインが濃く引かれた目に大粒の涙をためながら、義母にすがりついていた。義母にとっても、レイ子との対面は久しぶりのことだった。急なことで驚きを隠せない。

「助けてよ、お母さん。旦那が怖くて仕方ないの。ここに一緒に住まして。お願い。」

足元で崩れ落ちるレイ子。久しぶりに見たレイ子の姿がこれでは、義母もショックを隠しきれないようだ。ただ、どんな状態であっても我が子を抱きしめた。

「分かったわ、レイ子。大変だったのね。」

レイ子の話によると、旦那は亭主関白なところがあって、冷たく当たってくるという。それが最近はひどくなってきて、手を上げることもあるらしい。私たちはそんなレイ子の境遇を聞いて不憫に思い、レイ子にはしばらくここにいてもらうことにした。

レイ子と私が会ったのは結婚式以来のことだったので、正直、あまり詳しく知らない。もちろんレイ子の旦那さんも、結婚式で見た時はすごく優しそうな人だったのに。しかしレイ子のことは、時々義両親や夫から聞かされていた。昔はかなりやんちゃをしていたらしい。

なかなか手がつけられない人で、高校卒業と同時に家を飛び出して、男の元を点々と渡り歩いた。そこでも悪さをするものだから、義親は何度警察に迎えに行ったか分からないと言っていた。何を言っても変わらない子に頭を抱える義両親。ただ、レイ子が結婚したと聞いた時は内心ほっとしたという。これで落ち着いてくれるだろう、と。

それなのに、旦那さんと喧嘩して家から飛び出し、同居することになるとは。

私は以前からそんな話を聞いていたからか、レイ子に対して少し壁を感じていた。なんだかすんなり受け入れることが難しい。この人とうまくやっていけるんだろうか。ただ、そんな心配は無用だったようで、レイ子は心を入れ替えたのか、とても献身的で明るく、私たちに丁寧に接してくれていた。

「お姉さん、お茶入れるわね。」

そう言って温かいお茶を入れてくれたり、お腹が大きくなって動きにくくなってきた私に変わって掃除をしてくれたり。私が勝手に壁を作っていただけなのかもしれない。私はレイ子に心を開き始めていく。

しかし、事態は変わっていった。

レイ子が来て一ヶ月が経った頃から、レイ子の態度が大きく変わっていったのだ。あの時感じたレイ子との壁は、やはり確実に存在していたんだと確信するようになる。

「ちょっとお姉さん、お腹空いたんだけど、なんか作ってよ。」

「タバコ切れたから、コンビニ行ってきてくれる?」

「レイ子さん、たまには外に出ないと。ずっと家でダラダラしててもね。気分転換に行ってきたらどう?」

「お姉さん、私がめんどくさくてダラダラしてるとでも言いたいの? 私は今、心の傷を癒してるの。それに私、お姉さんと違ってすぐ疲れるんだよね。いいじゃん、それくらい。お姉さんこそ運動しなきゃ。赤ちゃんのためにね。」

レイ子は一ヶ月前の献身的なレイ子とは変わっていた。本性を表し始めたというのだろうか。

「レイ子、里さんに失礼な言い方するんじゃないよ。それに夜遊んでばかり、一体何してるの? 仕事は行かなくていいの?」

「何? この年になってまで、どこに行くとか親に言わなきゃいけないの? 一日中家にいたら息が詰まるから、外に遊びに行くだけよ。仕事は今、長期休暇中なの。」

「レイ子、何してもいいけど。でも里をこき使うのはもういい加減やめてくれ。里も一人の体じゃないんだ。ちょっとは遠慮してもいいじゃないか。お前の甥っ子が生まれるんだぞ。かっこ悪い姿を見せるなよ。」

「はいはい。お兄ちゃんは鬱陶しいことしか言えないんだから。じゃあ仕方ないし、自分で行ってくる。今日は帰らないかもしれないから。じゃあね。」

そう言って出ていったレイ子。何の仕事をしているか分からないが、おそらく給料が相当いいんだろう。全身ブランド物に身を固めている姿を見て、私はそう思った。

それからも、レイ子の私へのいびり、妬み、嫌味は日に日に強くなっていった。夫も義両親も私のことを思ってレイ子に注意してくれるんだが、レイ子は全く聞く耳を持たない。少しは変わったかと期待していたところに、高校時代と全く変わらないレイ子の態度。義両親も気持ちが落ち込んでいるようだ。

私はお腹の子に触れてはいけないと穏やかな気持ちを保とうと必死だったが、だんだんとそれもストレスとなってきていた。

さらに驚いたことに、レイ子は私たち夫婦がもうすぐ新しい家に引っ越すと伝えると、「私も新しい家に住みたい」と言い出す。さすがにこれには私も頭を悩ませた。

「お兄ちゃん、いつ引っ越すの? 私にも準備があるからさ、早めに言ってよね。」

「その家は僕と里と子供のための家なんだ。お前は実家にいろ。それか、帰れ。」

「何よそれ。お兄ちゃんは変わったわね。昔は優しかったのに。里さんが来てから、里さんのことばかり。私のこと人間扱いしてないじゃない。私は嫌よ。里さんばかりいい思いして、綺麗な家にまで住んで。私も行くからね。」

そんなレイ子に困り果てていた中、義親に電話がかかってきた。義両親はびっくりした表情をした後、深々と頭を下げている。一体何の電話なんだろうか。

しかし、この電話が今後の運命を変えることとなる。電話の内容を聞いた私たち夫婦は、あることを思いつくことになるのだ。

時は流れ、引っ越しの日がやってきた。私たちは朝から荷物を運び、忙しく過ごしていた。私が妊婦であるため重い物も持てないので、義両親も手伝いに来てくれていた。私は私ができることを、新しい家に胸を膨らませながら片付けていた。

レイ子はと言うと、結局最後まで新居に住むと言って、自分の荷物を新居に入れるだけ入れて、すぐに外に遊びに行ってしまった。

夜になり、それなりに荷物も片付きほっと一息。義両親と引っ越しそばでも食べようかとしていた時、レイ子は厚化粧で派手な格好をして遊びから帰ってきた。そして、レイ子は信じられないことを口にした。

「私さ、あの十五畳の部屋がいいわ。あそこ、私の部屋ね。」

うちで一番広く大きい間取りの部屋を、いきなり自分の部屋にすると言い出したのだ。

「あの部屋は私たちの寝室兼書斎にするのよ。レイ子さん一人には大きすぎる部屋だし。」

「ああ、あんたの部屋なんて物置きで十分よ。どうせ何もしないじゃない。食べて寝るだけでしょ。」

私は堪忍袋の緒が切れた。

「何もしないのはあなただと思いますけど。それに、あなたは何も分かっていない。さっきから疑問に思ってたんですけど。あなた、誰の家の話をしてるの?」

レイ子は一瞬立ち止まった。まさか私が言い返すと思わなかったのだろう。

「私の家の話よ。お兄ちゃんの家は私の家でもあるの。だからあの部屋を使う権利が私にはあるの。偉そうな口を聞かないでくれる?」

「私の家の話ね。」

私は山積みのダンボールを指さして言った。

「レイ子さん、見て。あなたの荷物はここにはないわ。」

「はあ? 今日の朝、荷物入れたじゃない。あんた何したのよ。どこに持っていったのよ。勝手なことすんじゃないわよ。」

レイ子は今にも掴みかかってきそうな勢いだ。私だって負けてはいない。私の家族のために、子供のために、怒ることはできない。

「あなたの荷物は、あなたの旦那さんの実家に送ったわ。」

「なんでそんな勝手なことすんのよ。私はあいつにこき使われて傷ついて帰ってきたのよ。それなのに、なんであいつのところに送るわけ? あんた、鬼じゃない? 私にまだ地獄を見せたいの? 家族なら助けるんじゃないの? ありえない。」

レイ子の顔は真っ赤になった。怒り心頭だ。そんな中、全ての様子を見ていた夫が口を開いた。

「レイ子、もう全部バレてんだよ。これ以上騒いでも見苦しいだけだよ。」

「何がバレてるって言うのよ。何? 次は脅し? 私がここにいるのがそんなに嫌なのね。でもここに住むって決めたんだから。あんたたちだけ、こんな新居に住むなんて絶対許さないんだから。」

「お前、勝手に仕事辞めて、勝手に家を飛び出してきたんだろ。旦那さんがこき使うとか、手を出すとか、そんなこと嘘なんだろ。」

夫は静かにレイ子に詰め寄る。ここまで怒っている夫を見るのは初めてだ。

「お前の旦那さんから電話があったんだよ。旦那さんはお前をこき使ってなんかいなかった。それどころか、お前のしたいようにさせてくれていたはずだ。なのに勝手に仕事辞めて、勝手に家を出て。何年ぶりに帰ってきたと思ったら、人の家までごちゃごちゃにして。お前はどういう神経してんだ?」

「お兄ちゃんに分かるわけないでしょ。私だって辛かったのよ。もっと裕福な生活ができるって思ってたのに。あいつ、甲斐性ないし、好きなものも買ってくれないし。育児放棄のろくでなしなのよ。」

「お前はあんなに大切にしてくれている旦那さんを裏切ったんだ。旦那さん、心配してたぞ。一ヶ月もお前と連絡が取れないって。その気持ち、分かってんのか? ここには住まわせるわけにはいかない。出ていってくれ。ほら、さっさと荷物を持って出ていけ。」

「もういいわ。」

レイ子は急いで荷物をまとめ、走り去るように家を出ていった。

あの時、義親にかかってきた電話は、レイ子の旦那さんからの電話だった。その電話で、レイ子が勝手に仕事を辞めて、勝手に出ていったことを知ったというわけだ。そして私たちは、レイ子をこらしめるために、今日のこの日まで電話があったことは黙っていた。引っ越しで荷物をまとめたこのタイミングで、レイ子の荷物を旦那さんの実家に送る計画を立てていたのだ。

旦那さんは結婚式での第一印象の通り、優しい人だった。亭主関白どころか、むしろ全ての家事もやってくれて、レイ子をこき使うなんてことは全くなかったようだ。逆にレイ子は旦那さんをこき使い、やりたい放題やっていたらしい。旦那さんが稼いできたお金は、レイ子のブランド物と遊びのお金に、全て消えていったそうだ。

仕事は長期休暇中なんて言っていたが、あれは真っ赤な嘘だったのか。全身ブランド物に身を固めていたのも、自分の給料じゃなくて旦那さんの給料を使っていたなんて。

そんなレイ子に嫌気がさしていた旦那さんだったが、なかなか帰ってこないレイ子を心配して、知人に連絡をしていたという。実家に電話をするのが遅くなったのは、レイ子が高校卒業と同時に飛び出していたことを知っていたから、実家には帰っていないと思ったんだろう。

私たちはそんな勝手で嘘つきで、人のことを普通に傷つけるレイ子のことを許すことはできなかった。一緒に暮らすなんて、もっとありえない。それを分からせるためにも、今日のこの日を選んだのだ。あなたのいる場所はここではないと。あなたを受け入れることはできないと。そう分からせるために。

その後のレイ子はと言うと、ひとまず旦那さんの元に帰ったようだ。旦那さんはもちろんのこと、旦那さんの両親も大激怒。今まで溜まっていた鬱憤もあったんだろう。しかし、レイ子にチャンスを与えた。レイ子を教育しようとしてくれたらしい。もちろんその教育はとても厳しいものであったが、レイ子の今後のことを考えて、旦那さんのお母さんが主導でレイ子を育て直そうと努力してくれた。

しかし、あのレイ子がその教育に耐えられるわけがない。さらに、あのレイ子には人の温かみも分からない。あの女、最初は頑張っている素振りを見せていたが、一ヶ月ほど経つとまた本性が出始め、サボるようになった。そしてまたいつものレイ子に戻り、朝から晩までただひたすら遊んでいた。

それを見て、とうとう旦那さんと旦那さんの両親から見捨てられたレイ子は、離婚されることになった。まあ、当たり前のことといえば当たり前のことだろう。これを機にうんと反省すればいいと思っていたが、行くところがなくなったレイ子は、考えられないことにまたうちにやってきたのだ。

「お兄ちゃん、聞いてよ。あいつ、私のことすごくこき使った上に、離婚届け突きつけてきたの。慰謝料もなしってありえないんだけど。もう最悪。私が何したっていうのさ。私は一生懸命、嫁をやってきたのよ。誰も分かってなんてくれないのよ。」

レイ子は前と変わらず言いたい放題、好き勝手なことを言い放つ。本当に何も変わっていない。何も分かっていない。

黙って聞いていた夫も、いい加減呆れ果てた。

「お前とは今後、一生合わない。妹だとも思わない。ちなみに父さんや母さんもそう言っていたよ。お前のことはもう知らないってね。」

「なんでよ。私悪くない。」

「まだ分かってないんだな。頭冷やして、一からやり直せ。お前とは絶縁する。もう二度と来るな。もちろん、父さんや母さんのところにも行くな。二度と顔を見せるな。」

レイ子は俯いたまま、その場を後にした。その後のレイ子の状況は誰も知らない。どこで何をしているのか、誰も知ろうともしなかった。

しばらく経って、私たちの新居に新しい家族がやってきた。可愛い女の子だった。私たちは夫と娘の三人の生活を新居で始めることができた。十五畳の部屋は三人の寝室となり、私もその片隅で大好きな読書をしたり、夫も絵を描いたりと、予定通り新婚寝室兼書斎として活躍している。もちろん大好きな義両親はよく遊びに来てくれて、娘にいつもおもちゃを買ってくる。もう買いすぎだというのに、それが今の幸せなんだそうだ。

私と夫と娘、そして義両親。今、私はとても幸せだ。

――それは、これから起こる別の話の始まりだった。

「あー、今日から両親と同居な。そのためにLDKも新調したんだからな。」

「は? 何、勝手に決めたの。同居なんて絶対に無理なのに。」

「なんだその言い方は。同居は決定事項だ。お前に相談する必要なんてない。嫁が夫の両親を介護するのは常識だしな。」

新居への引っ越し当日。夫のタダシは悪びれることなく言い放った。当然、私は呆れ果てた。しかし、驚きはしない。

「もう一度言うわね。同居なんて絶対に無理よ。だって、今日で離婚するから。嫁をやめるので、介護は別の人に頼んでね。」

「は? 離婚とか何言ってんだ? 一人で生きていけない専業のくせに。」

ふと周りを見渡すと、窓の外から見えた人と目が合う。大声で笑う夫の声が聞こえてしまっているようだったが、彼は構わず笑い続けていた。

本当にバカな人。私は全て知っているというのに。あなたは必ず後悔することになるわ。必ずね。

私はごそごそとあるものを取り出すと、それを夫の元に突きつけた。白地に緑で枠などが書かれている。それは――離婚届。

すでに私が記入すべき部分は埋まっており、夫が書き終えれば役所に提出できる状態になっている。

「はい。ペンも用意してあるから、今すぐに書いてちょうだい。」

そう言いながらボールペンも差し出すと、彼は手を払いのけた。

「おい、なんだよ。ふざけてるのか。」

「ふざけているわけがないでしょう。さっきも言った通り、今日で離婚よ。分かったら、さっさとそれにサインしてちょうだい。」

鋭く染めた目。きゅっと引き結んだ唇。そこまで大きくないながらもしっかりと相手の鼓膜を振わせる声。それで、いかに私が本気なのかようやく伝わったらしい。

私とは対象的に、夫はわなわなと唇を小刻みに震わせ、目線を室内の至るところにうろうろと彷徨わせている。なんて分かりやすい人なのだろうか。

しかし、そもそも離婚を突きつけられたことが気に食わなかった彼は、「そんなの認めるわけがないだろうが」と叫ぶなり、離婚届を破いてしまった。ビリビリビリという、心地よくはない音が響いている間、私は焦ったりショックを受けたりすることなく、ただ黙ってその様子を見守っていた。

「離婚なんかするわけないだろうが。そんな寝ぼけたこと言ってないで、大人しく親父やお袋の面倒を見てればいいんだよ。」

もしかして夫は、私が義両親の介護をしたくないから離婚を要求したとでも思っているのだろうか。それなら、事前に記入済みの離婚届なんて用意できるはずがないというのに。

「あなたが離婚届を何枚破いても、私の意思は変わらないから、いい加減諦めてくれない? ここにサインするしか、あなたに残された道はないんだから。」

私がそう言いながら二枚目の離婚届を取り出すと、余裕綽々とでも言わんばかりに口元をほころばせていた夫が、あんぐりと口を開けた。マジックでも見ているかのごとき驚きようだ。

「うるせえな。離婚は認めないって言ってるだろうが。もうすぐ親父とお袋が来るんだから。ギャーギャー喚いてないで、黙ってろよ。」

離婚届を破いたところで無駄だと悟ったのか、夫は義両親の話題を出してきた。彼は大声を出して威圧するオーラをまとうことにより、言うことを聞かせようとしているようにしか見えなかった。いい年をした大人の振る舞いとは思えない。

私はそんな幼稚な人間にひるむことなく、まっすぐに彼の目を見据えて、再三に渡り離婚届を記入するよう求めた。

「いい加減にして。これはあなた自身の行動が招いた結果なのよ。あなたはそれほどまでに、今まで散々私のことを苦しめてきたの。自分を大切に扱ってくれず、見下してくるような相手と、誰がこの先も一緒にいたいと思うだろうか。」

私が淡々と詰め寄ると、だらりとぶら下がっていた夫の両手の拳に力がこもり、ぶるぶると震え出したのが見えた。怒りを抑えきれずに私に飛びかかってくるつもりか。それともまた離婚届を破こうとしているのか。

「馬鹿にしやがって。何が私のことを苦しめてきただよ。」

最初はため息混じりですぐに切れてしまいそうなほど小さな声だったが、徐々に声が激しいものになっていった。続いて発せられたのは、耳を塞ぎたくなるほどの怒号。

「お前、今まで自分が誰のおかげで生活できていたか理解していないのか。俺が養ってやったんだろうが。その立場として、お前が俺の言うことを聞くのは当たり前だろ。」

その声は窓ガラスも震わせているかのようだった。余韻がしばらく残り続け、頭の中でぐるぐると回り、目の前の景色がにやりと歪みそうになったのを、眉間に力を入れて目をさらに細めることで耐えた。

その仕草を見た夫は、睨みつけられたと感じたのだろう。鬼のような形相になって怒鳴り声をぶつけてきた。

「まだ反抗的な態度を取るつもりか。いい加減にしろよ。お前なんて、家事ができることとちょっとばかり顔がいいことぐらいしか取り柄がないだろうが。俺が稼いでこなきゃ生活できないくせに。お前は優秀な夫に助けられている立場なんだからな。」

まあ、確かに彼は職場では真面目で通っており、周りの社員からも信頼されている。出張なども多く任せられていることから、優秀な人材として上の人間からも期待されているのだろう。だからと言って、私のことを見下していいというわけでは全くないのだが。

彼からの罵倒を右から左に受け流しつつ、私はぼんやりと頭の片隅で過去の記憶を振り返っていた。

私の実の両親は、私が高校生になった頃に失踪してしまった。

「お父さん、お母さん、どこに行ったの?」

呼びかけながら家を探しても、足音や気配など、自分が発する音は何も聞こえない。来る日も来る日も二人のことを待ち続け、カーテンを締め切った薄暗い部屋の中で膝を抱えて顔を埋めていたが、玄関の扉が開く音が聞こえてくることはなかった。メッセージを送ったり電話をかけたりもしたが、当然、一度だって応答はなかった。

突然一人の生活が始まってから数ヶ月もすれば、私の中には諦めの気持ちが生まれ、自分の力だけでどうにかしなくてはと思うようになったのである。どうにかして高校は卒業することができたが、大学には進学せず、そのまま働くことに。生活費を稼ぐための仕事の日々。休日も外に出かけることなどはせず、家で持ち帰った仕事をしたり、資料を作成したりなど、平日とほとんど変わらない行動をしていた。

人付き合いも苦手だったため、友人と呼べるような存在もおらず、強いて話し相手を挙げるとすれば会社の同僚や上司くらいのもの。しかし、その同僚も上司も地元から離れてしまい、とうとう私の周りには人がいなくなってしまった。楽しいことなど何もなく、無意識に目に入る景色はモノクロだった。どんな音楽を聞いても、どんな美味しいものを食べても、心は踊らなかった。私は人の形をしたロボットのようになってしまっていたのである。

そんな私を変えたのは、夫との出会いだった。彼と関わるようになり、凍りついていた私の心はゆっくりと溶け出したのだ。それだけではなく、固まっていた表情筋も動き出し、笑顔を取り戻すことができた。初めて人前でぎこちない笑顔を見せた際には、「笑ってる!」とでも言わんばかりのリアクションをされたのをよく覚えている。

夫は私にとって、紛れもなく特別な人間だった。そんな彼が、私を“試していた”なんて。知った瞬間、私の胸のうちには怒りの炎が吹き出し、それが原動力となって復讐のための準備を進めることができたのだ。

「生き汚い目をしやがって。お前が俺に謝って済むわけがないだろうが。」

鋭い目で睨まれようが、下に見られようが、私は表情を崩さない。私も私で彼のことを睨みつけているため、きっと漫画やアニメの世界だったら、二人の間にはバチバチと火花が飛び散っているだろう。

そんな時――

ピンポーン

と、インターホンの音が空気を切り裂いた。義両親がやってきたのだろう。二人に凶悪な表情を見せないようにするためか、夫は一瞬にして眉間に深く刻まれたしわを消し、細めていた目を戻した。

私が玄関の方に顔を向け、パタパタと小走りで扉を開けに行くと、そこに立っていたのは予想通りの人物。義母は目元が、義父は鼻や唇の形が夫とそっくりである。だが、まとう雰囲気は全く違っており、二人の方が夫よりもはるかに優しげだ。

「あー、恵さん、お邪魔するわね。」

彼らは最初、柔らかく微笑んでいたものの、私の様子がいつもと違うことに気がついたのか、目を丸くして訝しげに首をかしげた。

私たちがなかなか玄関から移動してこないことにしびれを切らしたのだろう。後ろからドタドタと夫が足音を立てて近づいてくる。

「ああ、親父、上がろう。」

私は声の方を振り向くことなく、義両親のつま先あたりに視線を落としていたが、視界に入らずとも、彼がうさん臭い笑顔を浮かべていることだけは容易に想像ができた。そう、彼は外面を作り繕うのがうまいのだ。

「恵さん、何かあったのかい? ちょっと元気がないように見えるけど。」

と、義両親に顔を覗き込まれた。まだ詳しい事情は話していないが、私が必死に夫の方を見ようとしないこと。そして遠い目をしていたことから、何かあったことは容易に想像がついたに違いない。

ひとまず玄関で立ち話をしてもな、と思った私は、二人を部屋に通すことにした。座ってもらおうとしたが、入口でぴたりと足を止める二人を見て、はっと思い出す。そうだ。夫が破った離婚届が、床に散らばったままではないか。

「こ、これは……二人とも、何があったのか聞かせてくれる?」

戸惑いながら互いに私と夫を見る義両親。その目の奥には混乱とほんの少しの恐怖が滲んでおり、この状況を異質だと思っていることがひしと伝わってくる。

義両親からじっと視線を送られても、夫は居心地悪そうに頭をかきながら説明した。

「いや、あの……突然離婚を切り出してきたんだよ。でも、俺たちと同居したくないみたいでさ。」

眉を八の字に下げて引きつった笑みを浮かべるその姿からは、強引な妻に手を焼く夫を演じたいという思いが透けて見える。私に責任をなすりつけようとする調子だ。

それを聞き、私の胸のうちにはさらに彼への苛立ちが募った。こう伝えればきっと義両親は自分の味方をしてくれるとでも、夫は考えていたようだが、それは違った。

「恵さん、そう思った理由とかってあるかしら?」

「言いづらいかもしれんが、もしよかったら聞かせてくれないだろうか。」

二人は彼の言い分だけを鵜呑みにすることなく、私の話も聞こうという姿勢を示してくれたのだ。私はゆっくりと顔を上げ、二人の目をまっすぐに見据える。そして頭を下げた。

「お父さん、お母さん。本当にごめんなさい。」

突然の謝罪に彼らは息を飲んだが、それとは違う、ふっと息を漏らしたような音が違うところから聞こえてきた。夫が笑いをこぼしたのだ。大方、私が彼に楯突いたことを悔い改めているとでも思い込んでいるのだろう。勘違いもはなはだしい。

「お二人とは同居できません。私はタダシさんと離婚するつもりです。」

離婚届を視界に入れた時点で察しはついていたのだろうが、私は自分の口からしっかりとそう報告した。頭の上にクエッションマークが浮かぶ彼らに対し、私はこの決断をするに至った経緯を説明していく。

「実は今回の同居について、私は一切知らされてなかったんです。」

「え? ど、どういうことだ?」

私の告白に、義両親は揃って戸惑いの声を発する。夫婦でしっかりと話し合って決めたと思っていたからこそ、驚きに襲われたのだろう。

「元々タダシさんは、私のことを介護要員にするつもりだったんです。でも、それを知らされたら私が断ると思ったから、こうして黙って同居を強行するつもりだったんでしょうね。」

緊張感が漂う室内に、私の淡々とした声が響いた。義両親の困惑は深まるばかりで、口をパクパクと開閉させているが、そこから言葉が漏れ出てくることはない。

「な、何を言い出すんだよ。俺がいつ、そんなことを言ったっていうんだ。」

相変わらず彼は口元に笑みを張り付けたまま、いい夫を演じつつ、全てを私のせいにしてやり過ごすつもりなのだ。だが、よく見ると、まぶたがぴくぴくと震えており、動揺していることが分かる。

この調子で行けば、鉄壁を崩し、彼の本性を義両親の前でさらすことができるかもしれない。私は息を整え、もう一つ衝撃的な事実を二人に告げることにした。

「お父さんとお母さんには、言わなければならないことは他にもあります。実はタダシさんは、浮気をしていたんです。」

なぜそれを知っているのかと、夫は反射的に言いそうになっていたが、その言葉を口にすることで認めているようなものだと気がついたのか、言葉を止めた。

二人ともわなわなと肩を震わせる。顔に真っ赤になった顔や唇だけを見ると、で虫でも食べてきたかのようだ。

「俺がそんなことするわけないじゃないか。だって俺はお前のことを世界一愛してるぞ。他の女によそ見するとでも思っているのか。なんて薄汚いやつなんだ。」

ヒステリックに話を飛躍させ、自分の非を認めずに逃げるつもりか。夫の薄汚さが言葉にもよく現れている。それに、愛しているだなんて、よく吐けたものだ。結婚してから全くと言っていいほど伝えてこなかったくせに。

「おい、お前はきっと疲れているんだよ。だから、俺が浮気をするだなんて、くだらない妄想を展開させてしまうんだ。ちょっと休んだ方がいいんじゃないか。」

そう言いながら彼はグイグイと肩を押して、私をこの部屋から出て行かせようとしてきた。これ以上、自分にとって都合の悪いことを言わせないようにするために違いない。義両親に見られないよう、二人に背中を向けながら私を睨みつけてきていることからもよく分かる。

私は夫の手を払い落として、あるものを取り出し、「これを見てください」と言いながら義両親に手渡した。びっしりと文字が記載されている書類と写真の束だ。そのほとんどに、夫の姿が映り込んでいる。

「な、なんだよ、それ。」

「なんだよって。自分が一番よく分かっているでしょ。どれも見覚えがある場面よね。」

そう、私が出したのは、彼の浮気調査をした際の報告書。そして、浮気現場を捉えた写真だったのだ。決定的な証拠を出されて動揺したのか、それともまだ祈れしようとして慌てたのか分からないが、覇気のない声で「ち、違う。これは俺じゃないんだ」と言った。

義両親の手はがっちりとそれらを掴み、穴が開くほど凝視している。

「もちろん、探偵事務所に依頼して集めてもらった証拠もあるけど、ほとんどは自分で用意したの。私が近くにいたことにも気がつかないくらい、浮気相手に夢中だったのよね。」

私がはっと鼻を鳴らしながら問い詰めると、痛いところを突かれたのか、夫はがっくりとうなだれた。

彼は営業職についているということもあり、出張が多いのは理解していたが、あまりにも頻度が高いことに、私は次第に違和感を抱くようになっていた。なんでもない日ならまだしも、お互いの誕生日や結婚記念日までドタキャンしていたのである。

疑い始めた私は、隙を見計らって彼のスマートフォンやパソコンをチェックすることにした。その結果、他の女性の影に気がついたというわけだ。

もちろん、ショックを受けて目の前が真っ暗になった。どうして、私の何が悪かったのか。と呪文のように繰り返していたのだが、しばらく経って目が覚めたのである。浮気をする方が一〇〇%悪いに決まっているではないか、と。

その瞬間、私の心からは急速に彼への愛情が失われていった。こんなことをされて黙っていられるはずがない。何が何でも離婚してやる。そう決意した私は、自分に有利に進められるよう準備を始めた。

そのために彼を尾行した結果、出張だと言って出かけていった先が、女性の元だったと判明したのである。相手に惜しげもなく披露している、私には向けないような飛び切りの笑顔。甘い言葉をためらうことなく囁いている光景。それらを見せつけられるに、怒りの炎は大きくなっていき、発狂しそうにもなったが、どうにか耐えて写真に納めていった。

浮気だけでも許せないというのに、夫はさらに私を侮辱するような言動を取っていたのである。彼は浮気相手に対し、こんなことを言っていた。

「なんで嫁と別れないのかって? そんなの決まってるだろう。あいつを介護要員にするためだよ。」

ことの経緯を話し終えた私は、じっと彼に視線を注いだ。未だ顔を上げておらず、体をぴくりとも揺らす気配がない。

「タダシ、お前はなんてことを! 恵さんを傷つけた自覚があるのか?」

義父がそう詰め寄ると、夫はぐるりと首を回してからこちらを向いた。ゆっくりと開かれた口から出てきたのは、浮気を認める言葉でも謝罪でもなく、深いため息だった。

「だから、俺は浮気なんてしてねえって。全部、そいつの妄想だよ。」

なんて往生際が悪いのだろう。私は呆れ返り、先ほど彼が漏らしたものよりも深く長いため息をついた。

「そう。じゃあ、この人を見ても、そんな強気のことを言ってられるかしら?」

私は彼に答え合わせをするべく、ある人物をこの場に呼んだ。気まずそうに眉を寄せ、下唇を噛んで、ややうつむきがちになった女性。

「な、なんでここに?」

そう、この女性こそ、浮気相手のルナだ。夫の裏返った情けない声を受け、彼女は咎められるかのように肩を縮こまらせる。

「お父さんとお母さんが来るずっと前から、家の外で待機してもらっていたのよ。そう、私が同居の話を切り出して『専業主婦のくせに』と夫から笑われた時に、窓の外に見えた人物は彼女だった。」

まさかここに登場するとは夢にも思っていなかったのだろう。夫は目を白黒させ、餌を求める金魚のように口をパクパクとさせる。

「どう? これでもまだ言い逃れを続けるつもり?」

私からの問いかけに、返す言葉もないようで、彼は開けていた口を閉ざした。頭の中で反論でも組み立てているのか、低い唸り声が聞こえるが、ちゃんとした意味のある言葉は私の耳には届いてこない。

「なんで私が独自に浮気調査を進められたか、教えてあげましょうか。あなたは忘れていたかもしれないけど、ルナさんは私の元同僚でもあったからよ。当然、彼女の連絡先も所持している。証拠を十分に集めた私は、彼女にコンタクトを取ったの。『あの人はあなたのことを、介護要員を確保するためだって聞いてるのよね。もしあなたがあの人と結婚するつもりなら、介護を押し付けられると思うけど。それでもいいってことよね』って。」

言葉じりを被せるかのような勢いで、ルナはもちろん、と頷く。夫と一緒にいられるのであれば、何でも喜んでするとのことだ。

「良かったじゃない。介護でも何でもしてくれるらしいわよ。じゃあ、もう私たちが夫婦で続ける必要性は、全くないわよね。」

シンと、室内を沈黙が包む。その場をゆっくり見渡していると、義両親が顔を真っ赤にして、両手の拳をぎゅっと握り込んでいる姿が目に入った。

「ふざけやがって! この恥知らずが!」

義父が絶叫し、夫に掴みかかる。夫の方が背が高く体格もがっしりしているというのに、この瞬間だけ義父の体がかなり大きく見えた。それほどまでに迫力があったのである。

「お前がやったことは間違っているんだぞ! お前にできるのは、明けに土下座して謝り、離婚することだ。さっさと彼女を解放すべきなんだよ! 浮気するくらいだったら、どうして結婚したんだ! 信じられないくらいに不誠実だ!」

私を味方してくれる二人。私を貶している私ではなく、実の両親からの言葉を聞いて、少しでも反省してくれるかと思いきや、夫が取った行動はとんでもないものだった。

「うるせえな! ああ、分かったよ。俺は離婚する。それで、ルナと再婚するんだ!」

彼は大股でルナに近づき、彼女の方を私たちに見せつけるかのように抱き寄せた。

すると、つい数秒前まで縮こまっていた彼女が、態度を一変させ、得意げにニンマリと笑顔を浮かべたではないか。明らかに勝ち誇ったような目。『あんたは私に負けたのよ』とでも言いたげに、私を見つめてきている。

「もうお前とは絶縁する! 二度と姿を現すなよ!」

「ああ、別にいいよ。俺にはルナさんがいればいいからな。」

義父の絶縁宣言にも特にダメージを受けた様子はなく、夫は私と義両親の背中を強く押し、無理やり家から追い出してきた。『じゃあな』という捨て台詞と共に、強く閉められた扉と鍵。

義父はその方向を睨みつけていたが、数十秒ほど経つと私の方に体を向け、

「恵さん、あのバカが本当に申し訳ない。謝っても許されることではないと思うが……」

と、代わりに謝罪をしてくれたのである。それに続き、義母も「私からもごめんなさい」と頭を下げてきた。

私はすぐさま「顔をあげてください」と告げ、二人を安心させるように声をかけた。

「大丈夫です。すぐにあの二人は、地獄を見ることになりますから。」

――それから数日後。

ブーブーと、私のスマートフォンが震えて着信を告げてきた。こうなることが分かっていた私は、にやりと不敵に唇の端を持ち上げる。通話ボタンを押して「もしもし」と言葉を発したが、その声は自覚できるほど弾んでいた。

「助けてくれ! 頼む!」

少し前までの夫なら、何がおかしいんだと怒鳴り声でもあげそうなものだが、もうそんな余裕もないらしい。切羽詰まった様子で助けを求めてくる。きっと電話の向こうの彼は、冷や汗を浮かべ、唇から血の気を失わせているに違いない。

「今になって、ようやく分かったんだよ!」

頭の中で思い浮かべていた展開と全く同じで、高の見物である私の口からは、勝手に笑い声が漏れてきた。それでも、やはり夫は気づいてこない。

「頼む。助けてくれよ。実は浮気相手のルナも、既婚者だったんだ!」

しかも、その相手は職場の上司だった。つまり、私の元上司でもあるということだ。彼女は既婚であることを隠していたようだが、私は調査の過程で気づき、元上司に全てを話したのだ。

「なんだと? あいつ、いい気になって!」

当然のごとく逆上のように怒り狂う元上司。我慢ならなくなった彼は、夫とルナが暮らす家に押しかけたという。その状況から夫はなんとか抜け出し、今、私に電話をかけてきているのだろう。

私に助けを求めたって意味がないというのに。

「相手はすごい切れてて、俺たちの話なんかまともに聞いてくれないんだよ。お前が来たら、ちょっとは落ち着くと思うんだ。頼む。今すぐ来てくれ。」

どうして浮気をした分際で、話を聞いてもらえると思っているのだろうか。自己中心的な性格は治らないんだな、と私はため息をつく。ここで少々痛い目を見せておくべきだろう。そう思った私は、「行くわけないでしょ」と突き放し、夫の言葉を待たずして、プツッと電話を切ったのだった。

実は私は、元上司と打ち合わせ済みだった。そのため、夫とルナの元に押しかけていると聞いても、特に驚きはなかったのである。元上司は、私が助けに行かない前提で、夫たちをこらしめるために、謝罪を要求していた。私の分の怒りも込めて、二人に罵声を浴びせていたのだ。

後日、私は夫に、そして元上司はルナに、高額な慰謝料を請求した。向こうもしっかり離婚したという。浮気の話が職場で広まらないわけもなく、夫たちは周りの社員から白い目で見られるようになり、片身の狭い思いをしているそうだ。慰謝料の支払いと新居のローンがあるため、辞めるわけにはいかないだろう。

一方、肩の荷が降りて体が軽くなった私は、一人暮らしを始める前に、義両親にお礼を伝えに行った。

「お父さん、お母さん。私のことを信じてくれて、そして味方をしてくれて、本当にありがとうございました。自分ごとのように夫に怒りをぶつけてくれた二人を見て、私はあの状況にも関わらず、少し嬉しさを覚えてしまったのです。」

二人は「恵さんは何も悪くないんだから、当然だ」と言った後、顔を見合わせて、驚くべき話を口にした。

なんと、失踪した私の両親を見つけたというのだ。義父は出張が多い人なのだが、ある時、京都に行った際にそれらしき人物を発見したそうだ。それから合間を縫って写真を見せるなどして目撃情報を集め、詳しい場所を突き止めたらしい。

「これが、今、恵さんの両親が暮らしてる場所だ。」

差し出してきたのは、住所が書かれた小さなメモ。それを目にした瞬間、ドクドクと心臓が早鐘を打つ。お父さんとお母さんがここに。二人の顔を見れるかもしれないってこと。

私を苛んでいた苛立ちや悲しみ。両親の居場所をついに知らされたことによる驚き。色々な感情が混ざり合い、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。

「恵さん、京都に行ってみるのはどうかしら? 今でも会いたいという気持ちがあるんだろう。」

遠慮がちに言ってくれた義両親の目を、しっかりと見据える。確かに、両親を恋しく思う気持ちは存在している。だが、私にとって今の家族は、義両親だ。

「とりあえず、しばらくは会わなくていいかなと思っています。」

そう答えて、メモを義父の方にゆっくりと戻した。今は、両親と会って何を話すべきか分からない。それでも、いつか本当に会いたいと思った時は、夫と共にその場所へ向かいたいと思っている。そう伝えると、二人は切なそうに微笑みながらも、「もちろん」と頷いてくれたのだった。

――そして、数年後。

息子は大学を卒業し、義姉と同じく弁護士になった。並々ならぬ努力でその夢を叶えたのだ。夫とは離婚したものの、義姉とはまだ繋がりがある。息子のサポートもしてくれた義姉には、本当に感謝してもしきれない。

改めて思うけど、息子はよく頑張ったよ。父のせいで辛い目にもあったのに。実はね、前に息子が私にだけ話してくれたことがあったの。

「弁護士になりたいのは、母さんのような人を助けたいから。そのためならいくらでも努力する。俺は母さんの子になれて、本当に幸せだ。」

私と息子は、血が繋がっていない。でも、私たちが親子であることは揺るがない。親子とは、心が決めることだと思うからだ。きっとこれから息子は、弁護士として多くの人の助けとなるだろう。それは巡り巡って、息子の助けにもなるはずだ。

結婚は失敗してしまったけど、息子と出会えたこと。息子のそばで成長を見守れること。それが何よりも幸せだ。

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