玄関を開けたら、スーツ姿の銀行員が何人も並んで立っていた。うちのような貧しい家に、なぜこれほどの人数が来るのか。頭が真っ白になる。先頭の女性銀行員は、申し訳なさそうに言った。「驚かせてすみません。今日は、お子様の信託口座の確認で」――亡き妻が残した口座。俺は生活費にも困り、給料日前に自分の飯を抜く毎日だ。それなのに、3歳の息子の名義で2400万円が眠っていた。しかも、妻は俺に何も言わず、あの…

玄関を開けたら、スーツ姿の銀行員が何人も並んで立っていた。うちのような貧しい家に、なぜこれほどの人数が来るのか。頭が真っ白になる。先頭の女性銀行員は、申し訳なさそうに言った。「驚かせてすみません。今日は、お子様の信託口座の確認で」――亡き妻が残した口座。俺は生活費にも困り、給料日前に自分の飯を抜く毎日だ。それなのに、3歳の息子の名義で2400万円が眠っていた。しかも、妻は俺に何も言わず、あの...

ドアを開けた俺の前に、スーツ姿の銀行員が何人も並んで立っていた。うちのような貧しい家に、なぜこれほどの人数が来るのか。頭が真っ白になり、立ち尽くすしかできなかった。この朝が俺と息子の人生を大きく変えることになるとは、この時は思いもしなかった。

俺の名前は間優人、34歳。狭い台所で息子の茶碗にご飯を盛る。自分の茶碗はない。コップに水を注いで腹を満たすのが、最近の朝だ。

「パパ、お腹空いたよ」

3歳の息子、空が俺の足にしがみついてくる。

「よし、今日は卵焼きだぞ。うまいのを作ってやるからな」

フライパンに卵を流し、箸で巻こうとした時、縁が茶色く焦げてしまった。

「ああ、ちょっと焦げたな。ごめんな」

「パパの卵焼き、食べたい」

そう言いながらも、出来上がった卵焼きを空は小さな口で美味しそうに頬張る。その姿を見ているだけで、胸の奥が温かくなった。

妻の春香が病気で亡くなって、もう1年半になる。以来、空と2人きりの暮らしが続いていた。残業と出張ばかりの会社は、空を育てるために辞めた。今は配送倉庫で短時間勤務をしている。融通は利くが、その分給料はぐっと減った。貯金は日々の暮らしで底をつき、財布の小銭を数える朝も珍しくない。

夜になると、空は決まってうさぎの絵が登場する絵本を持ってくる。

「パパ、絵本読んで」

下手な読み聞かせでも、空にとっては大切な習慣だった。前の会社では数字や記録の細かい部分にまで目を通し、契約書の金額の食い違いもよく見つけた。なのに、家のことは春香に任せきりで、通帳の中身さえ知らずにいた。

空の寝顔を見下ろす。まつ毛が明かりにわずかに光っていた。このままで大丈夫なのか。答えてくれる人はもういない。

空を寝かしつけて、俺は台所の椅子に腰を下ろした。暗い部屋に、絵本の表紙だけがぼんやり白く浮かんでいる。空に読んだ絵本を見ていると、まだ独身だった頃のことがゆっくりと蘇ってきた。

あれはよく晴れた休日の午後だった。予定もなく、たまたま駅前の図書館に入ると、子供向けのコーナーからたくさんの笑い声が聞こえてきた。読み聞かせのボランティアが来ていた。低い椅子に若い女性が1人座って絵本を広げている。その前に数人の子供が座って彼女の話を聞いていた。

女性は絵本を読みながら、手元の画用紙に物語に出てくるうさぎをその場でどんどん描いて動かして見せる。子供たちが喜ぶたびに、女性の手は止まらずに次々に描いていく。俺は思わず本棚の影で足を止めていた。人をこんな風に笑顔にできる仕事があるのかと、素直に驚いていた。

読み聞かせが終わると、子供たちが親に手を引かれて帰っていく。女性は1人で絵本や散らばった画用紙を片付け始めた。落ちた色鉛筆が俺の足元まで転がってくる。俺はそれを拾って手渡した。

「あの、これ落ちましたよ」

「あ、すみません。ありがとうございます」

そのまま片付けを手伝うことになった。

「さっきの絵、すごいですね。絵の仕事をされてるんですか?」

「いえ、描くのが好きなだけです」

彼女は少し照れたように画用紙を胸に抱えた。

「俺なんか、毎日数字と契約書ばかり見てますよ。ああいう風に人を笑わせるなんて、逆立ちしてもできない」

そう言うと、彼女はくすっと笑った。その笑い方が柔らかくて、忘れられなかった。

「私、間と言います」

「あ、苗字が同じ。俺は間優人です」

「本当だ。偶然ですね。私は間春香って言います」

2人で顔を見合わせて笑った。それが春香との始まりだった。

その日から、俺は休みのたびに図書館へ足を運ぶようになった。読み聞かせのすみっこに座って、春香の描く空色のうさぎを遠くから眺めていた。

ある日、帰り道に彼女に聞いてみた。

「春香さんは、どうして絵を描くんですか?」

「うーん。うまく言えないんですけど」

春香は少し歩みを緩めて空を見上げた。

「絵で誰かの心を温められたらいいなって。それだけなんです」

飾らない言葉だった。けれど、その一言はずっと俺の耳に残った。

図書館で初めて出会って半年後、俺と春香は付き合うことになった。付き合い出してしばらくすると、お互い結婚を意識するようになった。

ある夜、春香はいつもより口数が少なかった。

「あのね、優人さん。ずっと言えずにいたことがあって」

「どうした、改まって」

「私、絵を描く仕事をどうしても諦めきれないの」

言ってから、春香は俯いた。

「こんな年になって夢を追うなんて、わがままだよね。ちゃんと働いて家計に足しにしなきゃいけないって、頭では分かってるの」

俺は少し考えて、すぐ近くの小さな公園に彼女を誘い、街灯のそばのベンチに2人で並んで座った。俺は春香の方へ体を向けてまっすぐに言った。

「春香の絵は、きっと誰かを笑顔にする。俺はあの図書館で子供たちの顔を見て、本気でそう思ったんだ。だから、わがままなんかじゃない。俺が支えるから、書き続けてほしい」

春香の目がみるみる潤んでいった。

「いいの?」

「ああ。俺は数字を数えるくらいしかできないけど、君が描くのを守ることならできる。だから春香、俺と結婚してほしい」

「私、稼ぎになるかも分からないのに」

「それでも。金のことは俺がなんとかする。君は描くことに集中していいよ」

「ずるいな、そういうの」

春香は手の甲で目元を押さえて、ようやく笑った。

「あなたとなら、書き続けられる気がする」

その時、俺は心の中で誓った。この人の夢を一生かけて支えていくと。けれど、その誓いはあっという間に遠いていった。

結婚してからの俺は忙しかった。出張が増え、帰りは日付が変わってから帰宅することが多くなった。休みの日も接待や書類に追われて、家のことはすっかり春香に任せきりになっていた。守ると言ったのに、俺は自分の仕事のことしか頭になかった。

ある日、俺が仕事から帰宅すると、春香が何かを胸に抱えて玄関に立っていた。

「お帰りなさい。あのね、見て欲しいものがあるの」

その手には大事そうに抱えた何かがあった。だが、俺は疲れていてそれに目を向けようともしなかった。

「悪い。今日はクタクタなんだ。今度な」

俺は上着を脱ぎながら、春香に顔も上げずにそう言った。

「うん。そうだよね。ごめんね、疲れてるのに」

春香が抱えたものを、俺は気にも留めなかった。あの時、彼女が何を見せようとしていたのか、考えようともしなかった。

別の日、机に向かっているのを見て何気ない声をかけた。

「また書いてるの?」

「うん。ちょっとね」

「ほどほどにな。夜更かしすると体に悪いぞ」

「そうだね。ありがとう」

その「ありがとう」にどんな気持ちがこもっていたのか、今なら少しは分かる気がする。思い返せば、春香はそれから次第に俺の前で絵の話をしなくなっていった。前は目を輝かせて話していたのに、いつの間にか一言も口にしなくなった。俺はその変化にすら、全く気づかなかったのだ。

春香がいなくなったのは、空が1歳半の頃だった。空は今、押入れの前の壁に貼った自分の絵を指さして言う。

「パパ、見て。ママのうさぎ描いたの」

「上手だな。ママはきっと喜ぶよ」

「ママにも見せる?」

「ああ。後で写真のママに見せような」

その押入れの奥には、春香の私物を詰めたダンボールが眠っていた。開ければ春香の匂いや気配が一気に溢れ出てくる気がして、怖かったのだ。

ある日、空が熱を出した。保育園から連絡が来て、俺は急いで迎えに行くと、見知らぬ中年の女性が空のそばにいた。伊藤さんと名乗るその女性は、春香の知り合いで、読み聞かせのボランティアをしていると言った。

「はるかさんの、よく書いていたうさぎの絵を持っていたので、話を聞くと『ママのうさぎ』って言っていたので、お父さんが来るまで空君に絵本を読んでいたんです」

春香の名前が出て、俺は言葉に詰まった。俺は彼女のこういう関係を、ほとんど何も知らずにいたのだ。

「すみません。俺、何も知らなくて」

「いいんですよ。はるかさんは、私たちのことなんて話さなかったでしょう。私たちにも、家族の話ばかりでしたもの」

「そうなんですか」

「ええ。それはもう幸せそうにね」

その言葉に、俺は返す言葉をなくした。

伊藤さんは、立ち去る前にこう言い残した。

「間さん、落ち着いたら、今度は春香さんの話を聞きに来てください。あなたの知らない春香さんが、きっといますよ」

その言葉の意味が、その時の俺にはまだよく分からなかった。ただ、心の奥に小さな問いだけが残った。俺の知らない春香とは、一体何なのだろうと。

空の熱が下がって数日後、俺は空を連れて伊藤さんの元を訪ねた。古い一軒家を解放した小さな集まりの場で、伊藤さんは長く読み聞かせの会を開いているという。

「春香は、ここに来ていたんですか?」

「ええ、もう何年も前から。子供たちに絵本を読んで、そのお話に合わせてさらさらっと絵を描いてくれてね。みんな、春香さんのうさぎが大好きだったの。春香さんが来る日は、特に子供たちが多かったのよ」

そうだったのか。俺は俯いて、正直に打ち明けた。

「恥ずかしい話ですが、俺、彼女がそんな活動をしていたこと、全く知らなかったんです」

「そうだったの」

伊藤さんは少し意外そうにした後、柔らかく続けた。

「春香さんね、自分のことはほとんど話さない人だったの。でも、絵の話をする時だけは、別人みたいに目が輝くの。ああ、この人は本当に絵が好きなんだなって、こっちまで嬉しくなった」

その言葉が、俺の耳の奥に静かに残った。結婚してからの俺は、その輝く目を見ようともせず、絵の話を遠ざけてしまっていた。

「1度ね、春香さんが言ったの。『いつか一人前になって、驚かせたい人がいるんです』って。それはもう幸せそうな顔で」

「驚かせたい人…」

驚かせたい人。誰なのかまでは教えてくれなかったけど、よっぽど大切な人なんだろうなって思えた。春香がそんなことを言っていたなんて。俺は湯飲みを握ったまま、しばらく動けなかった。

帰り道、俺の心にはっきりとした思いが芽生えていた。春香のことをもっと知りたい。彼女がいなくなった後、一度も抱かなかった思いだった。

家に帰ると、俺は押入れの前に立った。奥に眠る春香の遺品のダンボール。1年半ずっと開けられずにいた箱だ。俺はその蓋に手をかけるも、すぐに手が止まった。隣で空が俺の顔を覗き込んだ。

「パパ、開けないの?」

その小さな声が、迷っていた俺の背中を押してくれた。

「うん。ちょっと勇気を出してからにしようかな」

俺は大きく息を吸って、蓋にかけた指に力を込めた。今夜、この箱を開けよう。そう決めた。

空が寝付いたのを確かめて、俺は押入れからダンボールを引き出した。蓋を開けると、春香の匂いがふわりとした。畳んだままのカーディガン、使いかけの手帳、小さなアクセサリーの箱。1つ1つに触れるたび、しまい込んでいた記憶が蘇って、何度も手が止まった。

衣類とアクセサリーの下から、見覚えのない古い小型のスマホが出てきた。俺の知らないスマホを彼女が持っていた。その事実だけで胸がざわついた。電源は切れていたが、ダメ元で充電につないでみると、しばらくして画面がぽつりと明るくなる。ロック画面で手が止まってしまった。パスコードが分からない。

もう諦めかけていた時、ふと箱の中の手帳が目に止まった。何気なくページをめくると、一番最後のページに春香の字で数字が並んでいた。その下に短い一言が添えてある。

「これで開けてね」

その瞬間、忘れていた記憶が蘇った。確か、春香が何でもない風に言ったことがあった。

「もし私に何かあっても、大丈夫だからね」

あの時、俺は深く考えもせずに聞き流していた。まさかこんな形でその言葉の意味を知ることになるとは。俺は震える指で手帳の数字を打ち込んだ。画面がすっと開いた。

見慣れないアプリがいくつも顔を出した。通話のアプリも電話もない。どうやらこれは電話としては使われていなかったらしい。俺は画面に並んだものを見て、思わず息を飲んだ。絵を描くためのアプリ。スケッチを蓄めた大量のフォルダー。物語の下書きらしきメモ。指先で1つ開くたびに、うさぎの絵や様々な背景が現れる。どれも俺の全く知らない春香の世界だった。

1つのフォルダーを開くと、あの空色のうさぎがこちらを見て笑っていた。図書館で見たあのうさぎだ。あれから何年も、春香はこのうさぎを描き続けていたのだ。俺の知らないところで、たった1人で。

その時だった。画面の上に通知が1つポンと現れた。絵本の作者向けのアプリからのお知らせだった。

「新しい売上があります」

俺はその1から目を離せなくなった。春香がいなくなってもう1年半になる。それなのに、何かが動いている。俺は思い切ってその通知を開いた。開いたのは「絵本の森」という電子書籍のアプリだった。そこには何冊もの絵本が表紙の絵と共に並んでいた。そして、1冊ごとにこれまでの売上と印税の記録が表示されている。

春香は絵本を世に出していたのだ。俺は最初、その状況が飲み込めなかった。春香はもう1年半も前に亡くなっている。それなのに、今日も昨日も本が読まれて、お金が動いていた。誰かが春香のふりをして売ってるのか?そんな不安が頭をよぎった。だが、記録を1つずつ辿っていくうちに、それは間違いだと分かった。作品を作り上げていたのは、紛れもなく生前の春香自身だった。どの絵本も俺の知らないペンネームで発表されている。

表紙の1冊に目が吸い寄せられた。空色のうさぎ。タイトルには「空うさぎ」とある。俺はその名前の前で完全に固まった。うさぎに、息子と同じ「空」という名前がつけられていたのだ。

空が生まれたのは、春香がこのキャラクターを書き始めた後だった。つまり春香は、息子の名前をこのうさぎに与え、空の成長を重ねるように、このうさぎの物語を描き続けていたのかもしれない。そう気づいた瞬間、俺は何も言葉にならなかった。

売上のグラフに目を移す。春香がいなくなってからも、線は緩やかに、しかし確かに右肩上がりに伸びていた。この1年半で読者はむしろ増えている。読者たちはこの絵本を書いた人が誰なのかを知らない。ましてや、その人がもういないことも知らない。ただ面白いから、優しいから、口コミで広がっていった。それだけのことだった。だからこそ切なかった。春香は自分の絵がこんな風に広がっていく様子を、一度も見ることができなかったのだ。

さらに画面を送ると、印税の振り込み先が表示されていた。名前の欄に並んだ文字を見て、俺は目を疑った。そこにあったのは、息子の名前「間空」だった。

なぜ空の名義に。頭が追いつかなかった。春香は俺に何1つ言わないまま、たった1人でここまでのことをやっていた。絵を描いて本にして世に出し、そのお金の行き先まで静かに整えていたのだ。なぜ何も言ってくれなかったんだ?

制作のメモに、こんな一文があった。

「いつか一人前になったら、優人と空をびっくり驚かせたい」

俺はその一文を何度も読み返した。伊藤さんが言っていたあの「驚かせたい人」。それは俺のことだったのだ。

さらに記録を遡ると、サポートが手厚い出版社に作品を持ち込んだこともあったようだ。だが記録には「断られた」と残っている。「素人の趣味だ」と片付けられたようで、そっけないやり取りが残っていた。それを読んで、俺は自分のことのように悔しくなった。それでも春香は諦めていなかった。出版社に頼らず、自分の手で電子の本という形にして書き続けていた。

それからの俺は、少しずつ春香のスマホの中を辿るようになった。空を寝かせた後の時間が、春香の残した世界を歩く時間になった。読者から寄せられたコメントの数々。俺は1つずつそれを読んでいった。

「眠れない夜にこの絵本を読むと、うちの子が不思議と泣き止みます」

「入院中の娘が、空うさぎの絵本で久しぶりに笑ってくれました」

見知らぬ人たちの言葉が画面いっぱいに並んでいた。どれも心からの感謝だった。春香の絵が、こんなにも多くの人たちに届いているのだ。読み進めるうちに、目の奥が熱くなってくる。

ある日、伊藤さんが煮物を持って訪ねてきてくれた。

「それとね、間さん。春香さんの読者さんの中に、どうしてもあなたに会いたいって言ってる人がいるの」

「春香の読者さんが?」

「ええ。春香さんの絵本に随分救われたんですって。彼女がいないのもお伝えしたんだけど、直接お礼が言いたいって」

約束の日、俺は空を連れて待ち合わせの喫茶店へ向かった。相手は、幼い我が子が長らく入院していたという母親だった。母親はゆっくりと話し始めた。

「うちの子、長いこと病院にいて、検査も治療も、小さいのに辛いことばかりで、何をしても泣き止まない日が続いていたんです。でも、空うさぎの絵本を読む時だけは、あの子、ケラケラ笑ってくれて。あの絵本が、うちの子のたった1つの楽しみだったんです」

母親の声が少しずつ震え始めた。

「私も、眠れない夜に何度もあの本を読みました。うさぎが『大丈夫だよ』って言ってくれてる気がして、この子はきっと元気になれるって、そう思えたんです。親子であの絵本に救われました」

俺は胸が熱くなるのをこらえながら、その話を聞いていた。春香の絵は、現実に苦しんでいる子供と親の心を確かに支えていた。それを俺は今、この人の言葉で肌で感じていた。

帰り道、空が俺の手を握って誇らしげに言った。

「パパ、ママのうさぎ、みんな好きなんだね」

「そうだな。空のママは、すごい人だったんだよ」

「僕、ママのこともっと好きになった」

そうか。父ちゃんも、もっと好きになったよ。

その夜、俺は改めて春香の絵本を最初の1冊から読み直した。どの絵本にも、家族や子供を思う優しい眼差しが描かれている。そして「空うさぎ」の物語を辿るうちに、俺は手が止まった。うさぎが少しずつできることを増やしていく順番が、空の成長とそっくりだった。初めて立った日、転んで泣いた日、空を見上げて笑った日。春香は息子の育つ姿を、この物語の中にそっと記していたのだ。

ある1冊の中で、うさぎが初めて自分の足で立つ場面があった。そのページの隅に、小さな日付が書き込んである。空が初めて歩いたあの日だった。春香は息子の「初めて」をそのまま絵本に残していた。俺が仕事で見逃した瞬間を、春香は1つ残らず物語の中に留めていたのだ。

全てを読み終えた時、俺の頬を涙が流れていた。そうか。春香が残したのは、お金なんかじゃなかったんだ。春香が俺たちに残したのは、思い出だった。会ったこともない子供たちの心さえ優しく照らす光だった。

俺の中に、新しい思いが芽生えていた。春香のこの作品をもっと多くの人に届けたい。そんな俺の隣で、空がスマホの絵を覗き込んできた。

「パパ、僕もママみたいに絵本を書きたい」

「そうか。空ならきっと描けるよ」

「パパも一緒に書く?」

「ああ。父ちゃんも一緒に書くよ」

「やった。パパと僕とママで一緒」

俺は込み上げるものをこらえて、大きく頷いた。

その夜、俺は写真の春香に語りかけた。

「なあ、春香。君の絵は、きれいで上手なだけじゃなかったな。あの時、ちゃんと見なくてごめん。ずっと、ごめん」

初めて声に出して、春香に謝った。春香には届かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。

その夜、俺はスマホのフォルダをいつもより奥まで探った。すると、これまで開いていなかったフォルダが1つ静かに眠っていた。フォルダ名には「最後の下書き」とあった。

そこにあったのは、色のついていない線だけのうさぎだった。3枚もの下書きと、物語の断片が並んでいる。物語の終わりの方に、誰かに宛てたような一文があった。だが、それは途中でぷつりと途切れていて、肝心の宛て名が読み取れなかった。俺は想像を巡らせた。これは誰のために書いたんだ?完成させずに置いてあるということは、まだ伝える相手が決まっていなかったのか。それとも、伝えることができなかったのか。俺はそっとフォルダを閉じた。

ある日のこと。伊藤さんがふと、こんなことを教えてくれた。

「春香さんね、『いつか自分の絵をちゃんとした本にして、空君に渡したいの。あの子が大きくなったら読めるように』って言ってたのよ。とっておきの1冊を、こっそり用意するんだって、嬉しそうにね」

その「いつか」は、果たされないまま終わってしまった。だが、同時に俺の中で1つの直感が生まれた。もし春香が息子に渡したい本を書こうとしていたのなら、どこかにまだ何かが残されているのではないか。あの「最後の下書き」のフォルダは、きっとそれだ。

俺は、はるかの作品を正式な本にするため、「翼出版」という出版社を訪ねた。かつて彼女が持ち込みを断られたあの会社だ。応接室で待っていると、40代半ばの編集者が現れた。名刺には「沢村」とあった。話すうちに、この人こそ生前の春香の絵本を「素人の趣味」と切り捨てた当人だと分かった。

「以前、間春香という女性が絵本を持ち込んだと思うのですが」

「相田さん?さあ、持ち込みは山ほどありますからね。いちいち覚えてはいませんよ」

沢村は春香の名前を聞いても、覚えていなかった。あれほど心を込めた彼女の絵が、この人にとっては「その他大勢」の1つでしかなかったのだ。それでも俺は事実を伝えた。妻の絵本が亡くなった後に口コミで広がり、多くの読者に支持されていること。その印税で、入院した子供たちへ絵本を届ける仕組みまで生まれたこと。

「妻の絵本は、今も読者が増え続けています。誰に頼まれたわけでもなく、読んだ人が次の人に伝えて」

「まあ、電子出版がたまたま当たることもありますからね」

「まぐれですか?1年半の間、ずっと読者が増え続けているのに」

「失礼ですが、その程度の素人作品が、うちで商業出版するほどの打ち出しがあるとは、とても思いませんな」

その言葉に、俺の中で静かな怒りに近いものが込み上げてきた。春香の絵を頭から軽く見ている。それが悔しかった。だが、俺はこらえた。ここで感情をぶつけても、この手の相手には響かない。数字と動かぬ事実。それだけがこういう人間を動かす。俺は冷静に構え直した。

「分かりました。では、後日、きちんと資料を持って、改めて説明させてください」

「まあ、お好きにどうぞですが。期待はしないでくださいよ」

「事実を見て判断していただければ」

帰り道、俺は自分に言い聞かせた。春香の作品の価値を、俺がちゃんと証明する。絶対に、このままにはしておかない。

その夜から、俺は証拠を集め始めた。柊さんも力を貸してくれた。

「売上がどう広がったか、記録を全てお出しします。銀行として数字の裏付けはできますから」

売上がどう広がっていったかの記録。読者から寄せられた感謝の声。寄付の実績。そして、妻の専用スマホに残された制作の記録。1枚の絵をいつ書き始め、何度書き直したか。その日付の1つ1つが、どれだけの時間と手間をかけたかを裏付けていた。伊藤さんや、絵本に救われた読者たちも、証言を寄せてくれると申し出てくれた。

「春香さんのためなら、いくらでも協力するわ。あの人がどんなに一生懸命だったか、みんな知ってるもの」

味方が少しずつ集まってくる。俺はそれを、春香が結んでくれた縁の力だと感じた。

翌日、俺は資料の束を抱えて再び「翼出版」を訪ねた。今日は柊さんも銀行の立場から同席してくれることになっていた。応接で向き合うと、沢村は腕を組んだまま相変わらずの態度だった。

「わざわざお越しいただきましたが。正直、亡くなった後に売れたなんて話、少し大げさに持っておられるのでは?」

「大げさじゃありません。全て記録に残っていることです」

「まあ、身内が熱心になる気持ちは分かりますがね。電子書籍は狭い読者の間で回ってるだけの話でしょう」

春香を安く見る言葉が、1つ1つ俺の神経を逆撫でした。それでも、ここで声を荒げれば、この人の思う壺だ。俺は奥歯を噛んでこらえた。

「1つ伺ってもいいですか?数年前、妻が作品を持ち込んだ時の記録は、御社に残っていますか?断った時のやり取りが知りたいのですが」

その一言に、沢村の眉がぴくりと動いた。

「どうでしょう?随分前のことなんで、いちいち古い記録まで掘り返しては…」

明らかに言葉が詰まっていた。当時、ろくに中身も見ずに断ったのだろう。後ろめたさがその顔をよぎるも、沢村はそれを認めようとはしなかった。

「仮に断ったとして、それが何か。世に出ないものは、電子書籍の程度のものだったということです」

「本当にそうでしょうか?」

俺は感情ではなく、春香がやってきたことそのものを静かに語り始めた。

「妻は、1枚のうさぎを描くのに何度も何度も書き直しました。育児の合間のわずかな時間を削って。子供が笑ってくれる、その一点のために。趣味なんかじゃない。全身全霊で取り組んだ作業でした。それをあなたは、ちゃんと見ようとしなかった。いや、見なかったのはあなただけじゃない。俺も同じでした。一番近くにいた俺が、見ようとしなかった」

その言葉は、沢村に対してというより、自分に向けたものだった。

「感動的なお話です。ですがね、相田さん。証拠がなければ、それはただの残された者の美談に過ぎない。これは気合でやっていく仕事ではないんですよ。数字が、結果が、全てなんです」

その言葉を、俺は待っていた。俺は膝の上の資料の束にそっと手を置いた。

「では、ただの美談ではないと。動かぬ証拠をお見せします。あなたが言う、その数字で」

隣の柊さんが静かに口を開いた。

「私はひまわり銀行のものです。これからお見せする内容については、銀行の立場からも、間違いなく事実だと裏付けできます」

「銀行の方が、なぜこんなところに?」

「奥様が残された数字と思いを、正しくお伝えするためです。それも、私の仕事ですから」

その落ち着いた声が、場の空気をわずかに引き締めた。沢村の目に、初めて微かな戸惑いがよぎった。

俺はまず、1枚目に売上の移り変わりをまとめたグラフを置いた。

「これは妻の絵本が読まれてきた記録です。見てください。妻がいなくなった後も、線はずっと右肩上がりに伸びている。宣伝もしていない。作者が誰かも、すでにいないことも、読者は知りません。それでも、読んだ人が次の人に勧めて、こうして広がっていった。これがまぐれで説明できますか?」

沢村はグラフに目を落としたまま、何も言えなかった。俺は2枚目を置いた。読者や病院の関係者から寄せられた感謝の言葉。そして入院した子供たちへ絵本が届けられた寄付の実績。さらに、俺は春香のスマホの画面を開いて見せた。

「制作アプリに残された、作った日付の記録です。この1枚のうさぎを描き始めてから仕上げるまで、4ヶ月かかっています。同じ場面を何十回も書き直している。妻がたった1人で、どれだけ手をかけたか。日付が全て物語っています」

俺は1つずつ順を追って、これが偽りのない本物の仕事だと、筋道を立てて示していった。沢村は何度か反論を試みた。だが、日付と描かれた中身の流れには、1つも綻びがなかった。

最後に、俺は感謝の手紙の束を差し出した。柊さんが、その中の一通を静かに読み上げる。あの入院していた子の母親から届いた手紙だった。

「うちの子は、この絵本に生かされました。作者さんに、心からありがとうと伝えたい」

その一文が読み上げられると、応接室の空気が、すっと変わった。作品が現実に人の心を救ったという事実が、その場で語られた。読み上げる柊さんの声も、途中でわずかに震えていた。

「信託の仕組みも、寄付のことも、全て奥様ご本人が生前に設計されたものです。これは間違いなく事実だと、申し上げます」

沢村の顔から、血色が引いていった。俺はまっすぐ沢村の目を見て、静かに言い切った。

「妻の絵は、本物です。俺はそれを証明しに来ました。あなたを言い負かすためじゃない。ただ、春香の絵を正しく見て欲しかった」

沢村の中で、傲慢な態度だったものが音もなく崩れていくのが分かった。

「相田さん。申し訳ありませんでした。私は奥様の作品を、ろくに見もせずに断った。その上、今日もずっと『素人のお遊び』だと、そういう目で見ていた。作品を見る目より、肩書きや素人だという先入観で人を決めつけていました。編集者として、恥ずかしい限りです」

その謝罪に嘘はなかった。俺の中には、責める気持ちよりも、妻の価値を認めてもらえた安堵の方がずっと大きかった。

「頭を上げてください。俺はあなたを責めに来たんじゃない。妻の絵を認めて欲しかっただけです」

「奥様の絵本を、きちんとした本として世に出すお手伝いをさせてください。今度こそ、全力で協力させていただきます」

その言葉を聞いて、俺はふと思った。この人もまた、大切なものを見誤っている1人なのかもしれない。そう思うと、不思議と恨めなくなった。俺も柊さんも、同じ後悔を抱えている。結局、沢村も大切なものから目を背けていた、その1人だったのだ。

俺は意を決して、あのことを打ち明けた。

「実は、妻が残した最後の下書きがあるんです。まだ仕上がっていない一冊が」

その画面を見せると、沢村は身を乗り出し、やがては息を飲んだ。

「これは本にすべき作品だ。未完成なのに、絵だけでもこんなに人を引きつけられるとは」

「この物語の終わりには途切れたままの一文があり、絵にはまだ色も入っていない」

俺たちは、その未完成の絵と静かに向き合った。

「間さん。差し出がましいようですが、これを完成させられるのは、あなたしかいないのではありませんか?」

「俺が?しかし、俺は絵の素人です。妻の作品を汚してしまうかもしれない」

「奥様が、一番近くにいたあなたに託そうとしていた。私にはそう感じます」

その言葉に、俺は息を詰めた。俯いた俺の背を押してくれたのは、同席していた柊さんと、空と一緒に待ってくれていた伊藤さんだった。

「間さんなら、きっと喜ぶわ。あなたが描いてくれること」

「俺で、いいんでしょうか?」

「あなたじゃなきゃダメなのよ。空君のお父さんで、春香さんの旦那さんなんだから」

その言葉に、俺は言葉を失った。今の俺には、春香の絵を理解してくれる人たちが大勢いる。春香の残した縁が、こうして支えてくれているのだ。

家に帰る途中、俺は決めた。答えを出す前にもう一度、あの最後の下書きと彼女の制作メモを読み返そう。春香が本当に望んでいたことは何なのか。それをこの目で確かめてから決めるのだ。

その夜から、俺は最後の下書きとその周りに残された制作メモを、時間をかけて読み解いていった。線だけのうさぎが辿る物語を順に追っていくと、少しずつその筋が見えてきた。それは、大好きなお母さんうさぎがいなくなっても、泣きながら前を向いて歩いていく小さなうさぎの話だった。俺はここで気づいた。これは妻が、自分のいなくなった後、空のために用意した物語ではないのか。母を失った息子が、いつかこの絵本に励まされるように。春香はそこまで見通して、この1冊を描こうとしていたのだ。

1枚のページで、小さなうさぎが空を見上げて笑う場面があった。お母さんうさぎはもういない。それでも、うさぎは前を向いている。俺はその絵の前で、しばらく動けなかった。

作業を進めていくたびに、迷いもまた深くなっていった。俺のような素人が勝手に完成させれば、春香の作品を汚してしまうのではないか。そう思う反面、別の考えもよぎる。未完成のまま、誰の目にも触れずに埋もれさせてしまう。その方がよほど、彼女の思いに答えられていないのではないか。2つの思いが、俺の中でぶつかり合った。

答えの出ないまま画面を見つめていると、空がとことこと近づいてきた。

「パパ、ママのうさぎのお話の続きは?」

「続きはまだできてないんだ」

「どうして?早く読みたいな。うさぎさん、この後どうなるの?」

「うん。父ちゃんが続きを作るよ」

「本当?約束だよ」

そのたった一言が、迷っていた俺の心を前へ押し出した。そうだ。春香はきっと、この物語を誰よりこの子に届けたかったはずだ。俺はそう確信し始めていた。

翌日、柊さんにこの迷いを打ち明けると、彼女は静かに言った。

「あなたが継ぐことを、春香さんはきっと望んでいると思います。私は昔、目の前のことに迷って足踏みしているうちに、一番大切な関係を失いました。もっと早く行動しておけばよかったと、今も悔んでいます。だから間さん、もし迷っているなら、どうか動いて欲しいんです。迷って何もしないより、動いてくれる方がずっといい」

その言葉には、彼女自身の痛みがこもっていた。

俺は心を決めた。春香の描いた線には手を加えない。ただ、色のないその絵に、俺が色だけを入れていく。線は春香、色は俺。そうすれば、春香の作品を汚すことにはならない。2人で1冊を作り上げるのだ。

俺は空の色鉛筆の箱を手に取った。初めて下書きに向き合う。だが、いざ色を入れようとすると、緊張で手が止まって動かなかった。本当に俺の色を重ねていいのか。緊張で指先が震えた。

俺は棚の上の春香に語りかけた。

「なあ、春香。君の描いた続きを、仕上げるよ。下手でも許してくれよな」

写真の春香はいつものように静かに微笑んでいた。まるで「いいのよ」と言ってくれているようだった。

季節は4月。新しい年度の始まりだった。

翌朝、玄関の呼び鈴が鳴った。ドアを開けて、俺は驚いた。玄関前の狭い通路に、スーツ姿の銀行員が何人も並んで立っていたのだ。その数に俺はすっかり面食らってしまった。一体何事かと頭が真っ白になる。先頭にいたのは柊さんだった。俺の顔を見て、彼女は少し申し訳なさそうに笑った。

「驚かせてすみません。ちょうど4月で新人研修の時期なんです。この子たちは見習い中で、私の仕事について回っているんです。実際の手続きをするのは私1人です。他の者は見学だと思ってくださいね」

「な、なんだ。そういうことでしたか」

俺はようやく肩の力を抜いた。大勢に囲まれて、何が始まるのかと身構えてしまっていた。若い職員たちがぺこりと頭を下げる。部屋に上がってもらい、柊さんは静かに切り出した。

「間さん。子供教育信託の確認と手続きが、全て正式に整いました。口座の中身を、今日はきちんとお伝えします」

柊さんが示した書類には、印税と信託が長い時間をかけて積み上げてきた残高の全額が記されていた。

2400万円。それは全て、空の将来のために春香が残したものだった。その数字を聞いて驚いたが、それと同時に春香の思いの強さを知った。そして柊さんは、一通の封書を両手で俺に差し出した。

「これは奥様が信託を組まれた時に、銀行にお預けになっていたお手紙です。『もしもの時は、ご主人に渡して欲しい』と」

俺は震える手でそれを開いた。中には、見慣れた春香の字がびっしりと並んでいた。

「優人さんへ。黙っていてごめんなさい。理由が3つあります。1つ。いつか一人前の絵本作家になって、あなたと空をびっくり驚かせたかったの。2つ。毎日クタクタになるまで働くあなたに、これ以上負担をかけたくなかった。3つ。もし私に何かあっても、空が困らないように。母として、それだけはしてあげたかった」

俺はその一行一行を読みながら、涙が止まらなくなった。その全てが、愛だったのだ。隠していたのではない。守っていたのだ。俺と空を。

手紙の最後には、こう書かれていた。

「ねえ、覚えていますか?いつか見て欲しいものがあるといった、夜のこと」

その一文を読んだ瞬間、指先がすっと冷たくなった。あの「今度な」と俺が押し返してしまった夜、妻が見せたかったもの。あの図書館で、春香は言っていた。「ぴったりの名前が見つかったら、優人さんに一番に教えますね」と。そして、その名前は「空」だった。あの「今度な」の夜、春香が見せようとしていたのは、きっとこの最後の下書きだったのだ。この本を。後に入るはずだった名前。それはきっと「空へ」そして「優人さんへ」だ。俺はそう確信した。春香は空と俺の2人に、この最後の1冊を送ろうとしていたのだ。

見習いの若い職員たちも、いつの間にか目に涙を溜めて立ち尽くしていた。俺は手紙を胸に泣いた。もう春香に直接ありがとうを言うことはできない。その事実がたまらなく重かった。だが、後悔してもいられない。俺はそばにいた空をぎゅっと抱き寄せた。

「空。ママがな、お前のためにたくさんのものを残してくれてたんだよ」

「うん。ママ、ありがとう」

その小さな声を聞きながら、俺は溢れる涙をもう隠さなかった。

それから1年が過ぎた。俺は春香の最後の下書きをついに仕上げた。線は春香、色は俺。2人で完成させた1冊の絵本だ。初めて色を入れた夜のことは、今でも忘れない。手が震えて、うさぎの耳から色がはみ出した。それでも、俺は最後まで塗り続けた。春香が描いた絵が色づいて、少しずつ命を持っていく。振り返ると、その時間が何より愛しかった。

沢村さんが編集として支えてくれて、その本は「翼出版」から正式な絵本として世に出た。母がいなくなっても前を向く、小さな空うさぎの物語。表紙には、春香と俺、2人の名前が並んでいる。

それから、俺は絵本の印税と春香が残した信託をもとに、新しい活動を始めた。親がいない子や、暮らしに困っている家庭。そして病院の子供たちへ、絵本を届けていく。春香が願った寄付の仕組みを、俺の手でより大きく育てているのだ。やるべきこと、やりたいことを見つけた俺は、時間の融通が利く働き方を選び、絵本を届ける活動と両立させている。悩みはしたが、結局正社員には戻らなかった。稼ぎが極端に多くなったわけではない。それでも、空と過ごす時間だけは手放さずにいられる。春香が守ろうとしたものを、俺も守っていく。

4歳になった空は、母の絵本を自分で少しずつ読めるようになった。相変わらず空うさぎが大好きだ。ある日、友達に絵本を見せて、空は得意げに言っていた。

「これね、僕のお話なんだよ。ママが僕のために書いてくれたの。パパが色を塗ったんだよ」

「すごい!いいなあ」

その姿に、俺は目を細めた。春香のような柔らかい色遣いには、とても及ばない。今では、それでもいいと思えるようになった。下手でも、俺の色でいい。それが、俺たち夫婦の形なのだから。

そして、柊さんは仕事帰りに時々ふらりと顔を出すようになった。絵本を届ける活動を、一緒に手伝ってくれている。

「柊おばちゃん、今日も来た!」

「うん。空君に会いたくて、来ちゃった」

「今日は絵本配るの手伝う!」

「頼もしいわね。じゃあ、一緒に頑張ろうか」

俺たち3人で過ごす時間は、いつの間にか自然な温かさに満ちていた。春香を失った悲しみが消えたわけではない。今もふとした瞬間に胸を掴まれる。それでも、俺は前を向いて歩けるようになっていた。悲しみは忘れることではなく、抱えたままでも少しずつ柔らいでいくのだと知った。

俺と空は、春香の写真の横に完成した絵本を備えた。

「春香。やっと完成したよ。君の絵本。ちゃんと空に、たくさんの人たちに届いたよ。君の絵は、今たくさんの人を笑顔にしてる。ありがとう。本当に、ありがとうな」

窓から入った風がそっと吹いて、備えた絵本のページを優しくめくっていった。まるで、春香が答えてくれたように。

俺は空と遊ぶ柊さんに、思い切って声をかけた。

「柊さん。ずっと支えてもらって、感謝しています。でも、それだけじゃないんです」

「間さん…」

「俺はこれからも、ずっとあなたと一緒に過ごしていきたい。空と3人で、だめでしょうか」

まっすぐに告げると、柊さんは大きく目を見開いた。春香への思いは、これからも消えない。それでも、俺は前へ進もうと思えるようになった。この一歩が、俺にとってのそれだった。柊さんは込み上げるものをこらえるように、少しだけ唇を結んだ。そして、窓から入る優しい風に吹かれながら、柔らかく微笑んだ。

一生懸命絵本を読んでいた空が、俺たち2人に話しかける。

「パパ、柊おばちゃん、見てみて!」

俺と柊さんは顔を見合わせて笑った。俺たちは、空が読む絵本へと視線を落とす。俺たち3人の、新しい日々が静かに始まろうとしていた。

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