大晦日の夜、命の境をさまよう生まれたばかりの子猫の前で、26年ぶりに声が出なくなりました。必死で処置をしようとするのに、喉が閉まり、手が震え、器具さえ掴めない。小学4年生の教室で、クラス全員の前で何も話せなかったあの日の自分に、タイムスリップしたみたいでした。昔、あの川原で子猫を救ってくれた女の子が、今は目の前で、「大丈夫。あったかい」と言って、震える私の手を握っていました。ただ声を出せなく…

大晦日の夜、命の境をさまよう生まれたばかりの子猫の前で、26年ぶりに声が出なくなりました。必死で処置をしようとするのに、喉が閉まり、手が震え、器具さえ掴めない。小学4年生の教室で、クラス全員の前で何も話せなかったあの日の自分に、タイムスリップしたみたいでした。昔、あの川原で子猫を救ってくれた女の子が、今は目の前で、「大丈夫。あったかい」と言って、震える私の手を握っていました。ただ声を出せなく...

猫がお腹を空かせて泣いている。周りの大人たちは、その声を誰一人として聞いていなかった。

女性が頭を下げ続けている。その足に、泣き声の主らしい幼い女の子がしがみついていた。

「困るんだよね。増えるんだよ。野良猫ってのは」

そのやり取りを聞き、気がつくと、俺は思わず前に出ていた。その日、俺がかったその女性が誰なのか。その時は、それを知らずに。

俺の名前は秋山かず。35歳。町の外れで「手のひら動物病院」という小さな動物病院をやっている。

「はい、もう大丈夫ですよ。この子は痛いのを隠すのがうまいので、これからはより気をつけてあげてください」

「はい。先生、夜でも見てくださって、本当にありがとうございました」

「気にしないでください」

開業して4年目になる。獣医は俺1人で、看護師は3人。夜の休診を断らないことで、近所の評判はいいらしい。

ただ、俺には人に言っていないことがある。飼い主さんに説明するのも重要な仕事の1つなのに、俺は声を出す前に、必ず1度だけ喉に手を当てる。ちゃんと声を出すためのおまじないのようなものだ。

35にもなってと、自分でも思う。それでも、手が勝手に動く。

子供の頃、俺は学校でまともに声が出せなかった。家では母と普通に話せた。それなのに、教室に入った途端、喉の奥が閉じて、息だけが通る。誰にも理由を説明できなかった。自分にも分からなかったからだ。

そんな俺に、動物のお医者さんという仕事があるんだと教えてくれた子がいた。だが、仲良くしてくれたその子の名を、結局、俺は1度も呼べなかった。

ある10月の末の夕方だった。遠くの農家まで往診に行った帰り。俺は駐車場に車を置いて、古い木造アパートの前を歩いていた。角を曲がったところで、足が止まる。

複数の人の声がした。年配の男性の怒鳴る声と、それを取り囲む何人かのざわめきと、小さな子供の鳴き声だった。

見ると、住人が輪になっていた。その真ん中で1人の女性が頭を下げ続けている。汚れたスニーカーの足元に、幼い女の子がしがみついて泣いていた。

「だからね、あんた1人の気持ちでやっていいことじゃないんだよ。匂いでこの辺り一体が臭くなるんだよ」

「すみません。本当にすみません」

「それに、この前は車のボンネットに傷が入ってたんだ。あれは猫の爪の後だよ。誰の金で直すと思ってるんだ」

「すみません」

「困るんだよね。餌をやるなら、最後まで責任持って飼いなさいよ。野良猫ってのは増えるんだから。去年は2匹だったのが、今は何匹いると思ってるんだ」

「本当に申し訳ありません」

「申し訳ないで済むならね。警察も裁判所もいらんのよ」

「あの、そのくらいで……あんたんとこは家が離れてるからいいけどね。うちはすぐ裏なんだ。朝、臭くて窓開けられないんだよ」

俺は少し離れたところで足を止めたまま、動けずにいた。男性が言っていることは、間違っていなかったからだ。

匂いも傷も、本当のことだろう。野良猫が地域の問題になっているのも事実だ。ただ餌をやるだけでは、猫は減るどころか増えてしまう。それを俺は仕事で嫌というほど知っている。

集まっていた人の1人が、小さい声で話しているのが聞こえた。

「あの小さい子が最初に餌付けし始めたのよ。猫がかわいそうって。お母さんも初めはダメって言ってたんだけどね」

「大体、あんた、自分とこの子だって、ろくに食べられてなさそうだが。猫の心配してる場合なのか」

頭を下げ続けていた女性の肩が、止まった。その時、女性にしがみついていた女の子が顔を上げた。涙で顔中を濡らしたまま、周りの大人たちを見上げていく。

「猫ちゃん、お腹空いたよです」

そのか細い声を、誰も聞いていなかった。

「猫ちゃん、足が痛いって、ずっと泣です」

それを聞いて、思わず俺は前に出ていった。

「すみません。獣医です。そこの通りで手のひら動物病院をやっているものです」

この時だけは、すぐにはっきりと声が出たのを覚えている。

「その猫を見せてもらえませんか? 足が痛いと聞こえたので」

「なんだよ。急に」

「すみません。獣医として、放っておけません」

「1匹直して。それで何が変わるんだね」

「何も変わりません。それでも、目の前にいるので、見ます」

「勝手にしなさい」

女性が驚いた顔でこちらを見た。女の子が俺の白衣の袖を引いた。

「こっちです」

アパートの裏に回ると、隙間にダンボールが置いてあった。中に、茶色い痩せた母猫がいて、その腹に子猫が3匹ついている。母猫は俺を見て逃げようとしたが、右の後ろ足を引きずっていて、早くは歩けない。

傷は化膿していた。毛が抜けて、傷口が黒くなっている。俺はしゃがんで、ため息をついた。

「これは、放っておいたら数日も持ちません」

「そんなに悪いんですか? 」

「そうですね。今日、うちで預からせてください。子猫もまだ乳離れしていないので、一緒に連れて行きます」

「あの……この子たち、どうなるんですか? 」

「先のことは何も。とにかく母子の命が優先です」

後ろから、年配の男性の声がした。

「先生、その費用は誰が出すんだね」

俺は振り返った。

「保護したこの分は、うちの病院で負担します。誰にも請求しません」

男性は、不満そうにまだ何か言いたげな表情のまま去っていった。その奥で、集まった人の輪がばらけていくのが見えた。

女性が俺の前に立って、頭を下げた。

「あの、ありがとうございます。私……」

そこで初めて、その女性の顔をしっかり見た。夕方の光が、まっすぐその顔に当たっていた。俺は動けなくなった。

知っている顔だった。痩せて、目の下に影があって、髪を後ろで無造作にまとめている。雰囲気は違っていたが、それでも間違いようがなかった。

26年前、小学4年の教室で、俺の隣の席に座っていた子だ。獣医という仕事を教えてくれた、あの子だ。

その人は俺の顔をまっすぐ見て、それから改めて丁寧に頭を下げた。

「本当にありがとうございます。助かります」

女性の表情には、懐かしさも戸惑いも引っかかりもない。向こうは、俺のことには全く気づいていないようだった。

「あの、失礼ですが、お名前を」

「矢野と言います。矢野えり子です。このアパートの1階に住んでいます」

矢野えり子。1年間ずっと隣に座っていて、俺が1度も口に出せなかった名前だった。

「秋山です。秋山かずと言います」

「秋山先生、ご迷惑をおかけしてすみません」

「迷惑だとは思っていません」

「あの、費用のことなんですけど、後で必ず、少しずつでも……」

「その話は、今しなくていいです。今は猫の心配だけしましょう。矢野さん」

「ありがとうございます」

矢野さんはもう一度そう言った。俺のことを覚えてる?

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あの時、親切にしてくれてありがとう。たったそれだけのことが言えなかった。俺はまた、喉の奥が固まって、声が出なくなっていた。

女の子が母猫の入った箱を覗き込んで、俺の白衣をまた引っ張った。

「先生、早くでしょ? 」

「そうだな。急ごう」

「猫ちゃん、治りますか? 」

「絶対に直す。だから、先生のとこに来てもらう」

「みお、もう行っていいですか? 」

「みお、だめよ。今日は無理だ。でも、良くなったら会いに来てあげて」

「約束ですか?

「約束だ」

俺は急いで猫たちを連れて、病院へ戻った。

処置室で、母猫をタオルごと抑えて、足の傷を洗った。膿を出して、また洗って、消毒をする。母猫は暴れなかった。暴れる力が、もう残っていなかったのだ。

抗生剤を打って、栄養剤を入れて、点滴の針を固定する。子猫3匹は大きな外傷はなかったが、保温箱に移した。2匹は元気に泣いていた。1番小さい1匹だけが、目やにで両目が塞がったまま、ほとんど泣かなかった。

処置が一通り落ち着くと、主任看護師が声をかけてきた。

「先生、この子たちの費用、どう記録しましょうか? 」

「いつもみたいに、保護の分で記録しておいてください。費用はうちで持ちます」

主任は諦めを含んだ笑みを浮かべ、ため息をついた。

「もう先生、今年これで4件目ですよ」

「そうでしたっけ? 」

「6月の犬と、8月の亀と、それから先月のカラスです」

「亀は数えなくて良くないですか? 」

「亀も生き物です」

「それはそうですけど。去年は6件でした。病院の経営を心配しているのは、私だけですか?

「すみません」

主任はやれやれと言った顔で微笑み、疲れた様子で横たわる母猫を見ていった。

「先生、この母猫、何歳くらいですかね? 」

「歯を見た感じだと、3歳か4歳。もっと若いかもしれません」

「痩せすぎですね。子猫3匹に、栄養全部持っていかれてます」

「そうですね。この体で、よく産んで、よく育てました」

主任はそれ以上何も聞かなかった。ただ、温かいまなざしで猫たちを見つめていた。この人はいつもそうだ。

「先生、この子たち、こんなに小さいのに」

「また泣いてるのか。しんた。今夜は俺が一晩ついてるから、大丈夫だって」

看護師のしんたは、涙で目を真っ赤にしていた。動物が好きすぎて、処置のたびにこうなってしまう。24にもなってと毎回思うが、俺はしんたの泣き顔を嫌いになれない。

母猫の毛を拭いていて、ふと手が止まった。首の周りだけ、毛が薄くなっている。輪のように、ぐるりと。これは、昔首輪をしていた後だ。

この子は、どこかの家の猫だったのか。それがどうして外で、こんな風に子を産むことになったのか。俺には分からなかった。分かる日が来るとも思えなかった。

みんなが帰って、病院には俺1人が残った。診察室の椅子に、白衣のまま座り込む。保温箱の中で、子猫が母親を呼んで泣いている。母猫は保護室のケージの中で、弱々しい呼吸で苦しそうに眠っている。

その母猫を見て、なぜか俺はさっきの矢野さんの姿を思い出した。

「矢野さん」

声に出してみたら、あっけないほど自然に名前を呼ぶことができた。昔の俺は、この4文字がどうしても言えなかったのに。

俺が子供の頃、母は朝から夜まで働いていた。父は遠くに単身赴任をしていて、2ヶ月に1度帰ってくればいい方だった。家に帰っても、誰もいない。学校でうまく話せない俺は、誰とも1度も話さないまま1日が終わることが、いつの間にか珍しくなくなっていた。

授業中に先生が俺を当てても、俺は声を出せなかった。俺が立ったまま黙っていると、教室が何とも言えないしらけに包まれた。そのうち、先生は積極的に俺を当てなくなった。それは楽になったはずなのに、俺の存在までなくなったような虚しさでいっぱいになった。

同級生は、俺のことを「話しかけても無視する奴」だと思っていた。3年生の終わりには、もう誰も俺の机に近づかなくなっていた。

4年生の2学期のことだ。学期の日に転校してきたばかりの女の子が、俺の隣の席になった。彼女は初日から、俺が返事をしないことをまるで気にしない様子だった。

「秋山君、消しゴム貸して」

俺は黙って首を縦に振った。彼女はそれを不思議がることもなく、俺の机の消しゴムを取って「ありがとう」と言った。それだけのことなのに、その日の帰り道、俺は妙に足が軽かった。

その日も、その次の日も、彼女は俺に話しかけてきた。

「秋山君、これ何色に見える? 青、水色? 」

「秋山君、ここのお答え、合ってる?

「秋山君って、鉛筆の持ち方、綺麗だよね」

俺はいつも、声に出して返事ができなかった。それでも、彼女はゆっくり俺の反応を待ってくれた。

「秋山君は、給食でどっちが好き? 右手がパンで、左手が麺。指さして」

俺が指をさすまで、彼女は本当に待っていた。30秒でも、1分でも待っていた。決してせかすことはなかった。

当時の掃除時間、クラスの男子が彼女に言ったことがある。

「そいつ、喋んないよ。話しかけるだけ無駄だって」

「待ってれば、ちゃんと答えてくれるよ。ジェスチャーで」

彼女は雑巾を絞りながら、男子の方を見もせずにそう言った。

「待つって、何分? 」

「何分でもいいじゃん。急ぐことじゃないし」

「変なやつ」

「あんたの方が変だよ。なんでそんなにかうんだよ」

「かうってないよ。意味わかんない」

「わかんなくていい」

その後、何事もなかったように掃除を続けた。その日、家に帰って俺は母に学校の話をした。積極的に友達の話をしたのは、生まれて初めてのことだったと思う。隣の席に転校生が来たこと。その子は足が速いこと。俺の反応をずっと待ってくれること。

母は洗い物の手を止めて、こちらを向いて俺の話を聞いた。相づちの声が少し変だった。後から思えば、あれは泣きそうな声だった。

それからも、彼女は毎日俺の名前を呼んで話しかけてきた。なのに、俺は1度も彼女の名前を呼べなかった。呼ぼうとするたびに、喉が閉まって、声が出ない。

そのうちに、冬が来た。家の方向が同じだと分かってから、俺たちは一緒に帰るようになっていた。

それは、12月の風の強い日だった。帰り道、土手を降りたところの川に、古いコンクリートの土管が転がっていた。その入り口の手前に、灰色の小さいものが落ちている。

子猫だった。元気がなさそうに、ぐったりしていた。俺は土手を降りて、子猫の前にしゃがんだ。胸がかすかに上下している。生きている。

それが分かったのに、手が出せなかった。触ったら、壊れてしまいそうだった。俺は固く拳を握ったまま、何もできずにただつったっていた。

すると、後ろから足音がして、彼女が土手を降りてきた。

「うわ、ちっちゃ」

彼女は俺の横にしゃがむと、迷いもせずに自分の手袋を両方脱いだ。その手袋で優しく子猫をすくい上げて、包む。あっという間だった。そして、俺の顔の前に差し出した。

「ほら、あったかいよ。撫でてあげて」

彼女は俺の顔を見ずにそう言った。俺は子猫の背中にそっと手を置いた。子猫のぬくもりが、じんわり伝わる。

「……あったかい」

声が出た。かすれていて、消えそうな声だった。彼女はこっちを向いて、一瞬目を丸くして、それから笑った。

「でしょ」

それだけだった。「すごい」とも「喋れたじゃん」とも言わなかった。

「この子、うちじゃ飼えないんだよね。お父さんが転勤あるから。秋山君のうちは? 」

俺は首を横に振った。母は朝から夜までいない。飼っていいと言われるとは、とても思えなかった。

「じゃあさ、2人でここでお世話しよう。この子が元気になるまででいいから」

それから、俺たちは毎日その川へ通った。お小遣いを出し合ってミルクを買って、子猫に飲ませた。タオルをダンボールに敷いて、土管の中に置いて、風を避けた。

「昨日より、この子ちょっと体温上がったと思わない?

秋山君も触ってみなよ。ほら」

俺は毎日その背中に手を当てた。手を当てるたびに、少しずつ痩せた体に肉がついていくのが分かった。10日ほどして、子猫が自分の足で立った。

「秋山君、知ってる? こういう子を助けてくれる人がいるんだよ。動物のお医者さん」

「動物の……? 」

「そう。この子だってさ、本当はお医者さんに見てもらった方がいいんだよ。私たち、この子が病気かどうかも、何も分かってないもん」

俺はこくりと頷いた。その通りだ。子猫を助けた気でいるけれど、この子はまだ本当に安心できる状態なのか、分からない。

「秋山君ってさ、そういうの、得意そう」

その言葉を聞いて、俺は矢野さんの顔を見た。

「秋山君、動物のお医者さんになればいいじゃん」

「無理」

「なんで」

「……うまく喋れないから」

「動物は喋んないよ」

「でも……」

「でもじゃなくてさ。この子、秋山君が先に見つけたんだよ。私、気づかず通りすぎてたもん。こういう子を見つけられる人がなるんだと思う。お医者さんって」

その時、俺は初めて将来のことを思い描いた。9歳まで、「なりたいもの」なんて1度も浮かんだことがなかった。人と話せない自分の夢なんて、とても考えられなかったからだ。

俺はふと呟いた。

「……名前、どうしよう」

「やめとこ。名前つけたら、離れられなくなる」

そういうことを、9歳のこの子は分かっていた。

子猫は、年明けには走れるまでに回復した。川の上の家の人が「うちで飼ってやる」と言ってくれた。受け渡しに行った日、彼女は玄関先で長いこと話し込んでいた。

その帰り道、俺は寂しそうな彼女を一生懸命励ました。短い言葉だった。なかなか言葉が続かなかった。それでも、彼女の前でだけは、以前より間違いなく声は出せるようになっていた。

学校では、まだ声が出なかった。教室に入れば、元通りだった。

それでも、俺は学校が楽しみだった。来年も、この子の席の隣がいいな。そう思っていた。

学期が始まってすぐだった。

「あのさ、私、3月で引っ越すんだ」

給食の時間。彼女はいつもの調子で言った。

「お父さん、また転勤なんだって。ここから電車で4時間くらいのとこ」

4時間って、どれくらい遠いのかな。俺は牛乳の蓋を開けようとして、指を止めた。何か言わなければいけない。でも「行かないで」というのは違う。それとも、何か他に。かける言葉が見つからない。

家に帰って、俺はノートを開いた。うまく喋れないなら、書けばいい。そう思って、鉛筆を持った。1行目に「ありがとう」と書いた。そこから先が、1文字も出てこない。

書いては消して、また書いては消して、紙が薄くなって破れた。俺はそのノートを、机の引き出しの奥に入れた。結局、その手紙を渡す日は来なかった。

その後の彼女の様子は、いつもと変わらなかった。たび重なる転校で、こういうことは彼女自身慣れきっているのだろう。俺は何も伝えられないまま、3月最後の日を迎えた。

彼女は教室の前に立って、みんなに挨拶をした。

「楽しかったです。よかったら、手紙ください」

と大きい声で言って、笑った。

その日の帰り道は、彼女と2人で過ごす最後の時間だった。

「秋山君、川原にいた子猫さ、ちゃんとお家でご飯もらってたよ。今朝、窓のとこにいたの、見えた」

俺は首を縦に振った。

「太ってたよ。ちょっとご飯やりすぎだと思う」

「秋山君、たまに見に行ってあげてね。私、行けなくなるから」

俺は、もう一度首を縦に振った。

「あとさ、手紙書いてよ。秋山君、字上手だし。1行でいいから。元気ですって。それだけでいいから。私も書くから。字は下手だけど。約束ね」

俺は俯きがちに、何度も頷いた。

「じゃあね、また」

声が出なくなっていた。最後の会話も、まともにできなかった。

引っ越しの朝、俺は何も言わずに家を出た。誰かに行けと言われたわけじゃなく、自分の足で彼女の家の前まで行った。9歳の俺が自分で決めて動いたのは、あれが初めてだったかもしれない。

荷物を積んだ車の横で、彼女の家族が近所の人に頭を下げていた。彼女は俺を見つけると、走ってきて目の前に立った。

「来ると思ってた」

俺は口を開いた。息だけが出ていった。声にならなかった。

矢野さん。そのたった4文字が、どうしても喉から出なかった。

父親が彼女を呼ぶ声がした。彼女は乗り込んで、窓を開けて、大きく手を振った。俺も精一杯手を振った。それしかできなかった。

車が角を曲がって見えなくなってからも、俺はしばらくそこに立っていた。帰りに1人で川原に寄った。土管の中のダンボールは、そのまま残っていた。タオルも、ミルクを入れた皿も、まだ置いてある。

俺はそれを1人で片付けて、袋に入れて持って帰った。2人で作った思い出が、跡形もなく消えてしまった気分だった。

その年の夏、俺は1度だけ便箋を買った。書き出しはあの日のノートと同じところで止まった。半年経つと、住所を書いた紙をどこへやったのか分からなくなっていた。

矢野さんが去ってから、また退屈な元の日常が始まった。ただ、不思議と、あの時彼女が言った「動物のお医者さんになればいいじゃん」の言葉が、俺の背中を支えてくれているような気がした。俺は自然と獣医を目指すようになり、勉強に力を入れるようになった。獣医という夢の存在が、自分自身を勇気づけ、奮い立たせてくれた。

それから、不思議と俺の声は少しずつ出るようになった。5年生の秋には、授業中に当てられれば、ぎこちないながら答えられるようになっていた。中学に上がる頃には、もう普通に友人と話すこともできるようになった。高校に進学し、慣れない部活動に汗を流す中で、また少しずつ自分の世界は広がっていった。大学受験の時はそのプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、矢野さんの言葉が心の奥底で静かに自分の背中を押し続けていたことは、いつだって変わらなかった。

時間は流れ、俺は晴れて獣医になった。大学でも、勤めた病院でも、自分の病院を開いてからも、あの冬の出来事は誰にも話していない。話す相手がいなかったわけではない。話してしまえば、やるせない後悔まで一緒に思い出すからだ。

その相手が、今日、俺の目の前で頭を下げていた。運命的な再会だと思った。

うちの病院には、主任としんた、そして井上さんという看護師が3人。そして受付の佐藤さんが働いている。佐藤さんは50代のベテランで、この町で生まれ育っている。町のことなら何でも知っているというか、知りすぎている。

「先生、昨日のアパートって、裏の通りの角の? あそこで怒鳴ってたのって、多分大川さんでしょ」

「名前までは聞いていませんが、自治会の方だとは言っていました」

「じゃあ、大川さんよ。あの人ね、昔は猫飼ってたのよ。今はいないみたいね。いつからいないのか、聞いたことないけど」

「飼ってた人が、あんなに猫に怒るものですか?

「飼ってた人ほど、起こるもんなのよ。ああいうのは、何にも知らない人は、そもそも興味ないもの」

「なるほど」

「ま、あの人は言い方がね……言ってることは間違ってないんだけど」

その日の午前、16年飼ったという老犬を連れた飼い主が来た。老犬はもう自分では立てない。飼い主の老夫婦が2人がかりで抱えてきた。

「先生、この子はね、もううちの子供みたいなもんなんですよ」

「長いですね。16年だと、そうなりますよね」

「そうなんです。この子の方が、うちの主人より話を聞いてくれますよ」

「余計なこと言うな」

「本当だもの。それに、この子がいるから、主人との会話も生まれるんです」

その会話に俺は相づちを打ちながら、老犬の診察を行った。

「股関節が固まってきていますね。散歩は無理にさせないで。家の床は滑らないように、マットを敷いてあげてください」

「まだ長生きできますか? 」

「まだ行けます。この子、まだまだ目がしっかりしてます」

俺は毛布の上でこの老犬の足を伸ばして、関節をゆっくり曲げた。夫婦はその様子を、祈るような目で見ていた。

午後になって、母が病院にやってきた。月に1度、うちの母は病院に顔を出す。何か用があるわけではない。休憩時間に少し掃除をして、さっさと帰っていく。

「かずちゃん、ちゃんと食べてるの? 」

「食べてるよ」

「顔が痩せてるわよ。洗い場の下、ぬめってたわよ。若い子は見ないところなのよ、あそこ。看護師さんに言っといて」

「母さんが言うのも変でしょ。俺だって言いづらいよ」

「もう昔からそうなんだから」

母は、俺の子供の頃の話になるといつも声のトーンを落とす。

「母さんね、あんたが学校で喋れなかったこと、ずっと知らなかったのよ。4年生の終わりの面談で、先生に言われるまで。朝から夜まで働いてたんだから、しょうがないよ」

「しょうがなくないの。毎日一緒にいたのに」

その話はもう何度もした。俺は返事の代わりに、カルテの束を揃えた。

「あんた、家でだけはうるさいくらい喋る子だったじゃない。テレビの人のものまねまでしてね」

「覚えてないよ」

「母さん、それで安心してたの。この子は学校でもこうなんだろうって」

「…………」

「そういえば、あんたの隣の席にいたあの元気な子。あの子をどうしてるかしらね。ほら、足が速いって言ってた子」

手が止まった。矢野さんのことだ。

「母さん、そこの棚は触らないで。消毒液こぼれるから」

「はいはい」

夕方、俺は保護室のケージを覗き込んだ。母猫は奥の隅から動いていなかった。皿の餌はそのままだ。水も、あまり減っていない。

点滴のおかげで数字の上では持っているが、自分で食事ができない猫は、自力で生きていくことができない。ケージの奥から、金色の綺麗な目がじっとこちらを見ていた。

次の日も、その次の日も、母猫は餌を食べなかった。朝の体重は2. 1キロ。前の日より60グラム落ちている。看護師がおやつを口の横に塗り付けても、舌で拭って、吐き出してしまう。足の傷を洗おうとタオルごと抱えると、全身を硬く強張らせて、爪も立てて、ただただ耐える。

怯える姿を見るくらいなら、噛みつかれる方がまだましだった。

「先生、この子、目開いてるのに、何も見えてない感じがします」

「見てるさ。ただ、俺たちを警戒してるんだ」

「強制給餌やりますか?

「あの体力じゃ、それすら危険だよ」

「じゃあ、どうするんですか? 」

「なんとか、自分から食べてもらうしかない」

主任は黙って、ホットマットの温度を1℃分上げた。それからケージの札を見ながら言った。

「先生、この子を見つけた女の子は、この子に餌をあげてたんですよね」

ああ、そうか。確かに。俺は手を止めた。あの女の子は、この猫たちに餌をあげていた。その子からもらった餌は、食べていたということになる。だが、連絡先を聞いていない。猫を保護したアパートの場所しか、分からない。

翌日、俺は白衣のまま車を出した。アパートの1階の、1番端の部屋だった。「矢野」という表札を見つけた。インターホンを押すと、しばらくして矢野さんが出てきた。エプロン姿のまま、俺の顔を見て少し身構えた。

「先生、あの、本当にすみません。治療費のことでしたら、少しずつでもお支払いします。今すぐは無理ですけど、来月から必ず」

「違います。保護したこの費用は、うちの病院で負担します。あれはその場を納めるために言ったんじゃありません。元々そうしています。うちで決めていることなので」

矢野さんは口を閉じた。納得した顔ではなかった。まっすぐ立ったまま、玄関のドアの取っ手を黙って握っている。

「餌やりは、うちの子が始めたことなんです。私が止めれば、済んだ話でした」

「止めなかったのは、なぜですか? 」

「あの子が毎日泣くので……それだけですか? 」

「あと、私も、あの猫たちを放っておくのが、どうしても無理でした」

この人は、何も変わっていなかった。26年前も、人の世話を焼いてばかりの子だった。

奥からパタパタと足音がして、女の子が母親の後ろから顔を出した。俺の白衣姿を見た瞬間、その目が丸くなる。

「あ、猫ちゃんの先生です!

覚えてくれたのか。

「猫ちゃん、名前つけましたか? 」

「いや、君……あの子に名前をつけなかったのか」

「だって、名前をつけたら、バイバイする時寂しいから」

昔、矢野さんが言ったことと同じだった。矢野さんが、困ったような笑顔で娘の頭を撫でた。ふと、俺は本題を切り出した。

「そうだ。今日はお願いがあって来ました。あの母猫が、うちで何も食べないんです。3日、一口もです。このままだと、足が治る前に体が持ちません」

「…………」

「あの子猫たちが、唯一心を許したのは、みおちゃんでした」

「うちの子ですか? 」

「夕方、30分でいいので、2人で来てもらえませんか? 」

「私たちが来て、変わるものなんですか?

「変わるかどうかは分かりません。他に手がないんです」

「先生が、そんな言い方をするんですね」

「何でもいいので、やれることをやってあげたいんです」

矢野さんはしばらく、俺の顔を見ていた。

「先生、うちの子、あの猫のことが心配で、最近食欲もなくなっちゃって」

「みおちゃんがですか? 」

「はい。だから、みお、行くよね? 」

「行く! 」

「みお、行くでしょ」

矢野さんはみおを見て、それから俺を見て、少しだけ長く黙ってから、頭を下げた。

翌日の夕方5時を少し回った頃に、2人は来た。矢野さんは入り口で何度も頭を下げていた。みおの方は、挨拶もそこそこに猫を探した。

「猫ちゃんは、ここにいる」

みおはケージの前にしゃがみ、隙間に人差し指を1本だけ入れた。教えたわけでもないのに、母猫の鼻に指を近づけた。みおの匂いを嗅いで、母猫が顔を上げた。

「猫ちゃん、みおです」

母猫の体が動いた。足を引きずりながら、ゆっくり立って、その指に顔をすり付けた。母猫は安心したような、すっかり甘えた顔つきになった。

しばらくそうしていると、ふとそのまま横向き、餌に顔を近づけた。カリッと音がした。俺の後ろで、主任が息を止めているのが分かった。しんたは口を両手で抑えて、何も言えないまま肩を震わせている。廊下の入り口で、矢野さんが手すりを握ったまま立っていた。

母猫は皿の半分の餌を食べて、水を飲んだ。

「食べた……食べましたね」

「猫ちゃん、いっぱい食べるです!

「みおも、朝ご飯全部食べたです」

母猫は顔を上げて、みおの方を1度だけ見た。それから、また皿に戻った。

「先生、この猫ちゃん、うちのこのことが分かってるんですか? 」

「匂いを覚えたんでしょう。毎日餌をもらっていたので」

「それだけのことでですか? 」

「猫にとっては、それが全てのようなものです」

「匂いだけで覚えるんですか? 」

「猫は顔をあまり見ません。匂いと、声の高さと、足音です」

「じゃあ、私のことも覚えますか?

「覚えていると思います」

その日から、すんなりと傷の消毒ができるようになった。みおがケージの横で名前を呼んでいる間だけ。母猫はリラックスした様子で足を投げ出して、俺の処置を受け入れた。

「猫ちゃん、名前つけていいですか? 」

「いいよ。みおちゃんがつけて」

みおは天井を見て、真剣に30秒くらい考えてから言った。

「プリンでしょ」

「先生、この子、プリンが好きなんです。プリンって言ってるつもりなんです」

「なるほど。プリン、ご飯美味しいですか? 」

「みおちゃん、それ、プリンだよね。プリン」

「プリン」

「プリン、プリン」

「プリンですね。プリンでいいじゃない」

以来、この病院でのあの母猫は「プリン」になった。カルテの名前の欄にも「プリン」と書かれていた。

帰り際、矢野さんは受付の前で足を止めた。

「先生、毎日、私たちが来た方がいいんでしょうか? 」

「来てもらえるなら、その方が良いですが。ただ、お仕事は大丈夫ですか?

「行かせてください」

はっきりした声だった。昨日、玄関先で身構えていた人とは、まるで別人みたいだった。

「午前がクリーニング屋のパートで、その後少し空くんです。30分なら来られます。保育園のお迎えの後なら、1時間は行けます」

「助かります。本当に」

「その代わり、お願いがあります」

矢野さんは俺の顔を見ないで言った。

「治療費を受け取っていただけないなら、掃除をさせてください。床でも、ケージでも、外の草むしりでも。何もしないで通うのは、私には無理です」

「ここまでしていただかなくても……」

「無理なんです」

矢野さんは頭を下げた。下げたまま、動かない。俺は断ろうとして言葉を探して、結局見つけられなかった。

「じゃあ、お願いします。時間は決めません。手が空いた時だけでいいです」

「ありがとうございます。みおもお掃除するです」

「みおちゃんは、プリンのお世話係な」

「お世話係? 」

「お世話係の仕事は、毎日名前を呼ぶことだ。それだけでいい」

「それだけでいいですか? 」

「それが1番大事なんだよ」

こうして、2人は毎日うちの病院に通うようになった。

11月の半ばになると、朝は白い息が出るようになった。矢野さんは最初の3日間、プリンがいる保護室の中に入ろうとしなかった。みおだけを保護室に行かせて、自分はドアの外に立っている。俺が声をかけても「ここで大丈夫です」と言って動かない。

「寒いですから、中にどうぞ」

「いえ、汚れた靴ですし」

「ここは動物病院ですよ。普段から毛だらけです」

4日目に、やっと保護室に入ってプリンの様子を見るようになった。だが、5分もしないうちに、矢野さんはモップを探し始めた。

「ここを拭きますね」

「今日は掃除の日じゃないですよ」

「手が空いてると、落ち着かなくて。それに、ゆっくりしてると、追い出されそうな気がして」

「誰が追い出すんですか? 」

「癖なんです。すみません」

言い訳のつもりらしかった。俺は何も言わずに、モップを渡した。

みおは初日から、待合室の1番隅の椅子を自分の席に決めていた。プリンに会って戻ってくると、必ずそこに座る。

「先生のお家はどこですか?

「この病院の2階だ」

「じゃあ、ずっとプリンと一緒ですね」

「そうなるな」

「いいな」

しんたはみおに、ミルクやり道具を作ってやっていた。みおはそれで、ぬいぐるみに毎日ミルクを飲ませている。

「あの子、保育園で言ったらしいんです。大きくなったら猫のお医者さんになるって」

「うちの後継ぎができましたね、先生」

「間に受けないでください」

「半分本気ですよ。人手が足りないので。20年先の話じゃないですか」

「20年、待ちますよ」

矢野さんはふっと笑っていった。

「あの子、毎日プリンに会いに来るのが、本当に楽しみみたいで」

「それはプリンも同じですよ。みおちゃんが来る時間になると、ケージの前で待ってます」

「嘘。本当です。時計なんて読めないのに、ちゃんと分かってるんです」

ある夕方、矢野さんが俺の胸の名札をじっと見ていた。

「先生って、秋山かず先生でしたよね」

「そうですけど」

「変な話なんですけど、そのお名前、どこかで聞いた気がして、ずっと引っかかってるんです」

手に持っていたカルテが、指から滑りかけ た。今だと思った。

「まあ、よくある苗字と名前ですから」

「そうですよね。すみません。変なこと言って」

矢野さんは笑って、また床を拭き始めた。その背中を見ながら、俺は自分の口の中で、言いたかった言葉が溶けていくのを感じていた。

11月の終わりの夜、休診の札を出した直後に、自動ドアが開いた。男性が、血のついたバスタオルごと中型犬を抱えて、立っていた。散歩中に車に接触したという。飼い主の腕は震えていた。犬の方は、目だけでこっちを見ていた。

「そのまま処置室へ。台の上に置いてください」

矢野さんが動いた。帰ろうとして着かけたコートを椅子に投げて、そのまま奥へ走った。

「しんたを奥から呼んでください」

「ああ。えっと、その前に、急いで湯を沸かしてください。あと、そこの棚の下からタオルを全部」

「はい! 」

「みお。みおちゃんは、向こうの椅子で待つのが仕事だ」

「待つのもお仕事ですか? 」

「大事な仕事だ」

「分かったです」

骨は折れていなかった。皮膚が大きく避けていて、そこを縫うのに時間がかかった。しんたと2人で処置を終えたのが、夜の10時前だった。飼い主の男性は犬の頭を優しく撫でながら、俺に何度も頭を下げた。

片付けが終わって、俺は電話で出前を取ろうと言った。この時間に開いているのは、駅前の中華屋だけだ。

「私、いいですよ。家で食べますから」

「もう10時ですよ。先生、いただきます」

「こら、みお」

みおの素直な言葉に、緊張が切れたように笑いが起きた。俺は中華屋に電話をかけて、ラーメンを4つ注文した。

「先生は、ご飯ちゃんと食べてるですか? 」

「食べてるよ。毎日」

「まあ、大体何食べたですか?

昨日」

「えっと……覚えていなかった」

矢野さんが立ち上がって、診察室のゴミ箱を覗いて、戻ってきた。

「先生、ゴミ箱、コンビニの袋しか入ってません」

「そんなの見ないでください」

「毎日コンビニですか? 」

「まあ……」

「ちゃんとしたものを食べなきゃ、体を壊します」

母と同じことを言うんだなと、俺は心の中で思った。

「とか言って、人のこと言えないんです。私も」

「そうなんですか? 」

「うちのご飯、もやしと卵と豆腐ばっかりなんです。もやし炒めと湯豆腐。次の日は豆腐と卵焼き。同じ材料で、調理を変えてるだけなんですよ」

矢野さんは冗談っぽくだが、どこか切ない表情で話した。

「ママのご飯、毎日違うです! 」

矢野さんはにこりと笑い、娘の口の周りを拭いた。俺も、何も言えなかった。

みおは食べ終わると、うつらうつらと寝てしまった。矢野さんはみおをソファーに寝かして、自分のコートをかける。

「先生……うち、養育費もらってないんです」

急に、そんなことを言った。俺の方を見ないで、コートの上から娘の背中を撫でながら。

「元の夫と別れたのも、喧嘩したわけじゃないんです。話し合って、2人で決めて、最後まで穏やかでした。だから、養育費のことも、きっちり決めてなかったんです。毎月大体これくらい……口約束しただけで」

「そうなんですか」

「初めの半年は、しっかり振り込まれました。でも、あの人の会社が変わった頃から、徐々に間が開くようになって、そのうち一切なくなりました。電話番号は知ってますが、かけたことは1度もありません」

「かけない理由が、何かあるんですか?

「責めなかったんですよ、私。別れる時に、1度も。だからこそ、今更電話してお金の話をするのは、なんか違う気がして。あの人が悪い人だったなら、多分、電話できたと思うんです。悪い人じゃなかったんですよ。ただ、その時はきっと、余裕がなかっただけで」

「……優しいんですね」

それはお人よしすぎるとか、みおのためにならないとか、言うこともできた。でも、俺は何も言わなかった。何も言えなかった。

休憩室の蛍光灯が1つ切れかけて、さっきからずっと、かすかな音を立てていた。

12月に入って、突然、矢野さんが病院に来なくなった。何があったのか分からない。連絡もなく、丸2日間、姿を見せなかった。心配になった俺は、3日目の休憩中、矢野さんのアパートを訪れた。

玄関先で、矢野さんは俺の顔を見るなり、また何度も頭を下げた。顔色を見る限り、体調を崩したわけではなさそうだった。

「突然行けなくなってしまい、本当に申し訳ありません」

「それはいいんですが、一体どうされたんですか? ただ、心配で」

「先生……私、ここにいられなくなりそうなんです」

「え? どういうことですか? 」

矢野さんはしばらく黙ってから、答えた。

「アパートの管理会社に呼ばれました。猫の件で、苦情が来ていると。これ以上苦情が増えるようなら、今後は部屋を貸せないかもって」

「……出ていけと?

「いえ、はっきりとは。でも、そういう話だと思います」

はっきり言って、古くて狭いアパートだった。それでも、この人にとっては、やっと見つけた部屋なのだと分かる。この立地で家賃が安い部屋は、この町には他にそう何件もない。

「みおちゃんには、何と言ったんですか? 」

「まだ、何も言えていません。あの子は、何も知りません」

それを聞き、俺は思わず大きな声を出した。

「俺が、一度管理会社と話します」

「え? 」

「俺が直接、管理会社の人の話を聞きたいんです」

「いや、でも、関係ない先生に迷惑をかけられません」

「俺は獣医です。猫のことなのに、関係ないとは言えない立場です。それに、みおちゃんの居場所を守らないと」

その言葉に、矢野さんは黙ってしまった。しばらく考えて、また頭を深く下げた。

「本当に申し訳ございません」

翌日、俺は管理会社の応接室に座っていた。担当者は若い男で、悪い人ではなかった。紙を1枚出してきて、住民から届いている苦情を、そのまま読み上げた。

車のボンネットの傷。花壇を掘り返されること。匂い。夜の鳴き声。

いずれも、当然の苦情だ。反論はできなかった。ただ、俺は1つの提案をした。

「猫を減らす方法があります。地域猫と言って、まず全ての猫に不妊手術をします。これ以上増えないようにした上で、餌をやる場所と時間を決めて、掃除当番を有志で回す。そういうやり方です」

「はあ……それは、先生のところでやってくださるんですか? 」

「うちでやります。数ヶ月ください。必ず、数は落ち着きます」

「でも、先生。正直、うちも困ってるんです。苦情の電話を受けるのは、こっちなので。分かります。まあ、矢野さんは家賃を1度も払わせたこともないですし、信頼はしていますが。ただ、これ以上苦情が続けば、うちも守りきれません」

「分かっています。でしたら、半年だけ、なんとか待っていただけませんか?

担当者は少し考えてから、「少し上に相談します」と言った。

この冬を超えれば、猫はまた春に子を産む。数が増えれば、同じ苦情が再び。いや、今度はもっと来るかもしれない。地域の猫の手術をするには、周りの人の協力もいる。俺1人の力では、そこから先へ一歩も進めない。それでも、どうにかして協力を得て、この問題を解決しなければならない。

しばらくすると、担当者が応接室に戻ってきて言った。

「半年だけ待ちます。ただし、その間に苦情が増えるようなことがあれば、すみませんが、ご容赦ください」

年末の30日、うちの病院は例年、朝から大掃除をする。その朝、自動ドアが開いて、矢野さんとみおが入ってきた。

「掃除の日ですよね。言いましたっけ? 」

「先週、主任さんが話してました」

「雑巾持ってきたです! 」

「ありがとう。気合いが入ってるな。みお、窓をやるです」

「みおちゃんの背じゃ、下半分しか無理だぞ」

「先生、私たち、お邪魔じゃないですか? 」

「人手が足りないので、正直助かります」

「よかった」

その年の大掃除は、うちの病院で1番賑やかに、そして1番早く終わった。

大晦日の夜、病院にいたのは俺としんたの2人だけだった。入院している犬が1頭と、保護室の猫たち。大晦日でも、この子たちの面倒を見なければならない。テレビもつけていない病院は、世間の賑わいとは反対に、驚くほど静かだった。

「先生、年越しそば買ってきました。カップのやつですけど」

「大晦日なんだし、帰ってもいいんだぞ。病院には俺がいるから」

「いいんです。僕も動物たちが心配で、そばにいたいんです」

「そうか。じゃあ、一緒にそば食べるか」

時計が10時を回った頃、しんたが保温箱の前で声をあげた。

「先生、この子がおかしいです」

1番小さい子猫だった。3匹のうち、1番体が弱かった子だ。他の2匹は気持ちよさそうにくっついて寝ている。この子だけが、腹を上にして横たわっていた。呼吸が早くて浅い。体温を測ると、かなり低くなっていた。

みおは毎日、この子を特に気にかけていた。

「1番小さい子、今日は元気になったですか?

俺はそのたびに、「まだだけど、頑張ってるよ」と答えていた。

「小さい子、みおと同じです」

「同じって、何がだ? 」

「みおも小さいです。でも、元気です。だから、みおの元気の子に分けてあげるです」

昨日、みおはそう言って帰っていった。

「保温箱の温度上げて。それと、ミルクは一旦片付けて、輸液にしよう」

「はい。先生、この子、朝まで持ちますか? 」

「分からない」

「…………」

「そんな点滴、行きますか? 」

「そうだな。準備を……」

そこで、言葉が止まった。この子は体重が200グラムもない。血管を探しても、細すぎて見つからない。そもそも、この体で処置に耐えられるかどうか、俺には分からなかった。判断がいる場面だった。

器具の入った引き出しを開けて、手を伸ばした。もしダメだったら、明日、みおに何と言おう。そう思った瞬間だった。

指先の感覚がなくなった。手が震え出して、器具を取り落としそうになる。治療台に手をついた。こんなことは、初めてだ。

「先生?

返事をしようとした。喉が急に狭くなっていく。声が出なかった。小学校の時と同じ現象だった。名前を呼ばれて、立って答えようとして、そのまま何十秒も立ち尽くしていた時と同じだ。26年ぶりに、その感覚が戻ってきた。

「先生、どうしたんですか? 先生! 先生、聞こえてますか? 指示ください。体調が優れませんか?

俺は首を横に振ることも、頷くこともできなかった。しんたが俺の顔を覗き込んで、それから慌てて携帯を取り出した。

「主任、すみません。子猫の処置中なんですが、先生の様子がおかしいんです。倒れてはいません。気分が悪そうで、返事がないんです。はい。1番小さい子です。息が浅くて、体温が低くて」

保温箱の中で、子猫の小さい体が上下していた。さっきより、呼吸が浅くなっている。時計を見た。時刻は10時半だった。大晦日のこの時間に開いている動物病院は、近くにない。車で運べる状態でもない。この部屋にいる人間で、処置ができるのは、俺だけだった。

やらなければいけない。分かっていた。分かっているのに、体が他人のものみたいに動かない。何もできずに、俺は冷汗をかいていた。

その時、処置室のドアが開いた。

「先生」

ここにいないはずの人が、そこに立っていた。矢野さんは、何があったのかを聞かなかった。ドアを閉めて、まっすぐ俺の横まで来た。そして、俺の右手を下から持ち上げた。そのまま、保温箱の中の小さい体の背中に、俺の手をそっと押し当てた。

手の下で、背中が細かく上下していた。薄い皮の下で、心臓が信じられない速さで動いていた。

「大丈夫。あったかい。この子、まだ大丈夫」

時間が戻ったかのようだった。あの、26年前の川での出来事と同じだった。あの時と違うのは、矢野さんの手が荒れて、ひどくひび割れていることだけだ。

俺は顔を上げて、矢野さんを見た。俺は安心感に包まれた。俺を理解しようと寄り添ってくれる人のぬくもりから生まれたもの。小学生の時に感じたのと同じ、あのぬくもりだった。

喉の奥が、すっと開いた。

「しんた。酸素。しんた、酸素と保温上げて」

「はい! 」

「27度まで。急に上げるな。あと、シリンジの1番細いのと、ブドウ糖」

「はい! 」

声が出た。いつもの、俺の声だった。そこから先は、体が勝手に動いた。皮膚の下に針を入れて、ぬるく戻した輸液を少しずつ流す。血管は取れないので、腹腔に落とす。呼吸を数えて、体温を測る。

「先生、私は、何をすればいいですか? 」

「保温箱の温度を、5分ごとに、紙に書いてください。時間と数字だけでいいです」

「はい」

「先生、この子、助かりますか?

「分かりません。ただ、さっきよりは息が深くなっています」

「よかった」

「まだです。朝まで、かかるかもしれません」

矢野さんは、俺の指示を1度も聞き返さなかった。書いた数字は、驚くほど丁寧な字だった。

「呼吸が浅いままだ。2分ごとに数えてくれ」

「はい」

「体温が上がりきるまでは、俺が持つ。お前は手を止めるな」

みおは待合室の隅の椅子で眠っていた。絵本を枕にして、丸くなっている。矢野さんはその上に自分の上着をかけて、また戻ってきた。

11時過ぎに、主任が来た。家から車を飛ばしてきたらしく、コートの下が部屋着だった。

「先生、変わります」

「いや、俺がやる。母猫と他の2匹を見ててくれ」

主任は俺の顔を見て、それから「はい」とだけ言った。それ以上は、何も聞かなかった。

「先生、手、震えてませんね」

「震えてました。さっきまで」

「そうですか」

「主任呼び戻して、すみません」

「呼んだのは、私の部下です。先生じゃありませんから」

主任はそれだけ言って、隣の保温箱の2匹を見に行った。この人は、本当に余計なことは聞かない人だ。

呼吸が30を切って、また戻る。体温が36度台に乗って、また落ちる。ライフラインが落ちるたびに、しんたが息を止める音がした。かすかに、外の道で人が行き交う声がした。そのうちに、遠くの方で除夜の鐘が聞こえた。それでも、誰も何も言わなかった。

俺は子猫の口元にシリンジを当てていたし、矢野さんは数字を書いていたし、しんたはタオルを温め直していた。年が変わったことに、この部屋の誰も気づかないまま、手だけを動かしていた。

夜中の3時を回った頃、小さい体の呼吸が落ち着いた。4時には、体温が上がりきって、安定してきた。

「よかった……」

俺はため息をつきながら、どかっと椅子に座った。その時初めて、自分の白衣の裾が、さっきからずっと誰かに握られていたことに気づいた。矢野さんが、手を離した。

「すみません。私、力入ってました」

「いえ」

窓の外が、少しだけ白くなり始めていた。元日の朝、7時前だった。俺が指を近づけると、小さい体がもぞっと動いて、自分から首を伸ばした。そして、自分の力でミルクを飲んだ。しんたが涙目で、ため息をついた。主任は保温箱の縁に手をついたまま、俺の方を向いて、深く頷いた。

廊下を走る足音がした。待合室で目を覚ましたみおが、靴下のまま子猫の前まで来て、しゃがんだ。

「…………小さい子、飲んでるでしょ! 先生、見てください。自分で飲んでるです! 」

「飲んでるな」

「みおちゃんです」

「先生は寝てないですか? 」

「一晩中起きてたな。先生の目が真っ赤でしょ。みおちゃんも、寝癖がすごいぞ」

みおは髪を手で押さえつつ、また保温箱に顔を寄せた。しんたが、そこでとうとう声をあげて泣いた。いつものように、人目もはからずに。

保護室のケージで、プリンが立ち上がった。引きずる足で歩いてきて、ケージの入り口から、保温箱の方を見た。

「プリン、小さい子のこと、心配してるですか?

「してる。夜の間、ずっとこっちを見てた。寝てなかったですか? 」

「寝てないな。母さんてのは、そういうものらしい」

矢野さんが、廊下の方で小さく笑った。俺は矢野さんの方を向いた。昨日のことを、聞きたかった。26年前のことを、覚えていないのだろうか。

「昨日の、あの……」

「はい? いえ、私、邪魔じゃなかったですか? 忘れ物を取りに。そしたら開いていたので、勝手に入ってしまって。助かりました」

「良かったです。この子が無事で、とにかく良かった」

8時になって、佐藤さんがやってきた。

「聞いたわよ。大変だったみたいね。お疲れ様。差し入れ」

コンビニで、おにぎりを人数分より多く買ってきてくれた。元旦にコンビニのおにぎりを、病院でみんなで食べた。ラップを剥がす音だけが、休憩室にしばらく続いた。

「先生、目が赤いわよ」

「そちらもです」

「私はただの寝不足。孫が朝までゲームしてたの」

「あ、あけましておめでとうございます」

「そうか。おめでとうございますね」

小さな笑いが、部屋に響いた。俺は矢野さんの方を向いて言った。

「そうだ。プリンのことなんですけど」

「はい」

「あの子、首の周りだけ毛が薄いんです。あれは、首輪の後です。昔は、どこかの家の猫だったのだと思います」

矢野さんはおにぎりを持ったまま、手を止めた。

「捨てられたということですか?

「分かりません。プリンが脱走したのかもしれないし、飼い主が施設に入ったのかもしれない。はたまた、事故に遭って、誰にも見つけてもらえなかったのか。調べる方法はありません」

「そうですか……多分、ずっと分からないままです。それでいいと思っています」

「はい。私もその方がいいです。なんだか、知りたくないです」

矢野さんは保護室の方へ目をやっていった。

「誰が悪いのかを調べても、この子は治らないので。それに、この子、ちゃんと生きてきたじゃないですか。あんな細い体で、3匹も育てて、ここまで来たんですから。今、生きていること。もう、それだけでいいです」

窓の外に見える白い町は静としていて、冷たい風が吹いていた。

1月半ばに、1番小さい子猫の目が、やっとしっかり開いた。子猫の目は、普通、生まれて7日から10日で開く。この子は猫風邪をこじらせて、それがずっと遅れていた。3匹を保護室から出すと、すぐに部屋を走り回るようになった。

「名前つけていいですか? 」

「いいぞ」

「1番元気な子が、おにぎり! 」

「おにぎりな」

「太ってる子が、たまご。卵。小さい子が、もも」

「全部、食べ物じゃないか」

「全部、みおが好きなもの」

「先生、すみません。この子、好きなものからしか名前つけられなくて」

「プリンの子だからな。まあ、食べ物で統一されてていいかもな」

その日から、カルテには「おにぎり」「たまご」「もも」と並んだ。佐藤さんが真面目な顔で読み上げるたび、しんたが吹き出していた。

みおは3匹を毎日抱いて帰りたがった。矢野さんはその度に、なんとか宥めていた。

1月の終わり、俺は病院のメンバーを集めていった。

「子猫3匹の里親を探します。うちで譲渡会をやりましょう」

「うちでやるんですか? 」

「待合室を半日、空けます。ポスターも作ります」

「先生、それ、私も手伝わせてください」

2月に入る前、みんなで病院の裏の物置を片付けた。長いことダンボールを積んでいただけの部屋だ。棚を運び出して、床を洗って、保護猫専用の部屋にした。矢野さんは重い棚を1人で持ち上げようとして、俺としんたに止められた。

みおは壁に、自分の絵を張った。猫の絵だった。3匹とも、足が5本ある。その部屋で、みおは動物病院ごっこを始めた。

「はい、診察しましょう。お腹見せてください」

「みお先生、その子、耳が痛いって言ってますけど」

「お腹見せてください。お腹なんですね。全部、お腹でしょ」

みおの中では、診察するのは必ずお腹と決まっている。何度教えても変わらない。その姿を横目に、矢野さんは床に雑巾をかけながら、独り言みたいに言った。

「私、こういう仕事をしてみたかったのかもしれません」

「こういう仕事と言うと?

「あ、いえ、掃除の話です。すみません。変なこと言いました」

矢野さんは笑ってごまかして、そのまま廊下の方へ雑巾を押していった。俺は何も言わずに、その背中を見送った。

譲渡会のポスターの絵は、みおが描いた。3匹の猫と、多分俺らしき白衣と、なぜか大きな魚が1匹書いてある。

「みおちゃん、この魚は何だ? 」

「お魚です」

「それは分かる。猫ちゃん、お魚好きですから」

佐藤さんがそれをコピーして、町内の掲示板と駅前のスーパーに貼らせてもらった。日時と病院の名前は大人が書き足し、猫たちの写真も貼った。

譲渡会の当日、待合室に住人ほどが来た。そこで俺は、真顔で3匹の名前を読み上げるはめになった。

「こちらが1番元気な、おにぎりです。それから、人懐っこいのが、たまご。1番小さいのが、ももになります」

「先生、それ、先生が名付けたんですか? 」

「ここにいる、みおちゃんが命名しました。以降、うちの病院では、これが正式な名前として通っています」

その場が笑いに包まれて、空気が和んだので、結果的には良かったのだと思う。

おにぎりの譲渡を希望したのは、60過ぎの1人暮らしの男性だった。半年前に、犬を天に送ったばかりだという。正直に言えば、俺は一度断るつもりだった。ペットを失ってすぐの人は、前のこの代わりを探してしまうことがある。それは、猫にとっても、その人にとっても、辛い場合がある。

その男性のポケットから、古い犬の首輪が覗いていた。

「それ、いつも持ち歩いておられるんですか? 」

「入れっぱなしなんだ。捨てられなくてね。あんまり見ないようにはしてるんだが」

「猫は、犬ほど飼い主の後を追いませんよ」

「知ってる。だからいいと思ってな。同じにはならん方がいい」

「1つだけ、約束してください。合わないと思ったら、必ずうちに連絡をください。ご自分で何とかしようとしないでください」

「それは、返してもいいということかね」

「1度、相談してもらうためです。返すのは、最後の手段です」

「わかった。約束するよ」

「もう1つ。名前は変えていただいて構いませんよ」

「おにぎりのままでいいよ」

「そうですか?

「その子がつけてくれた名前なんだろ。だったら、そのままがいい」

俺は書類を出した。たまごは、小学生の子供が2人いる家庭に決まった。面談の途中、親が足切りにしていた。

「うち、うるさいんです。子供が走り回るし、大声出すし。猫がびっくりしませんか? 」

「たまごは、賑やかな方が好きな子ですよ」

「そんな猫、いるんですか? 」

「はい。たくさん遊んであげてください」

ももだけが、なかなか譲渡先が決まらなかった。猫風邪の後遺症で、片方の目に濁りが残った。見えていないわけではないが、見た目は生涯、そのままだ。俺は面談に来た全員にももの事情を全て説明した。もし下手に隠せば、後で返されることになるかもしれない。

そして俺は、3匹の引き渡しを3月まで待つと決めた。ももの目の経過をもう1ヶ月見て、はっきりしてから渡したかった。それに、3匹一緒に育った子たちを、日をバラバラにして連れ出すのが嫌だった。

矢野さんにそう伝えた時、みおが俺の白衣を引っ張った。

「先生、全部、うちの子にできないですか? 」

矢野さんがしゃがんで、娘と目の高さを合わせた。

「みお。うちのアパートはね、動物を飼っちゃいけない決まりなの」

「ママが決めたんじゃなくて、あそこに住む人、みんなの決まり」

「決めた人にお願いしたら、いいです」

「お願いしたよ。ダメだった。ごめんね」

「それとね、ママ、朝から夜までお仕事してるでしょ?

猫は病気になったら、すぐ病院に連れて行ってあげないといけないの。ママは、仕事でそれができない日があるの」

みおは、わがままを言わなかった。最後まで黙って聞いて、それから小さく頷いた。

3月の第1日曜日が、引き渡しの日になった。前の晩、みおは病院から帰りたがらなかった。3匹と一緒に寝ると言って、子猫部屋の床に座り込んで、動かない。矢野さんが本気で困っていた。結局、9時まで粘って、3匹が寝てしまったので、帰った。

当日の朝、みおは用紙を3枚持ってきた。

「これ、箱に入れるです」

「絵を入れるのか」

「これ見たら、みおのことを思い出しますから」

3枚とも、猫とみおらしき女の子が並んでいる絵だった。

「3枚とも、みおちゃんが描いたのか」

「みおと、おにぎりと、たまごと、ももです」

「1枚ずつ、ちゃんと分けて書いたんだな」

みおは1枚ずつ、キャリーバッグの底に自分で敷いた。

おにぎりを迎えに来た男性は、キャリーの中を覗いてから、ポケットの中の古い首輪を取り出した。

「先生、申し訳ないけど、これ、ここに置いて行っていいかね? 」

「うちにですか? 」

「この子と暮らすのに、持って歩くのは、違う気がしてな。かと言って、家に置くのも、捨てるのも、まだできん」

「分かりました。うちで預かっておきます」

男性は頭を下げて、キャリーを大事そうに抱えて出ていった。あの首輪は、今もうちの診察室の棚の上にある。

たまごの家からは、数日後にひらがなだけの手紙が届いた。たまごが遊びに夢中でカーテンを破ったと書いてあった。みおはその手紙を、しばらく毎日持ち歩いていた。

引き渡しの間、プリンは受付の下の段ボールで丸くなっていた。子猫が3匹とも運び出されても、顔を上げなかった。泣きもしない。鳴きもしない。

「プリン、見てないです」

「見てないな」

「悲しくないですか? 」

「猫はな、子供が大きくなったら、もう自分の子じゃなくなるんだ。ちゃんと育てあげたら、もう終わりって決めてるんだよ」

「冷たいんじゃない。そういう生き物なんだ」

みおはしばらく、段ボールの中を覗いていた。

「みおも、そうします」

「そうするって、何をだ?

「泣かないです」

「泣いてもいいんだぞ。今日くらいは。プリンが泣いてないですから」

「プリンは泣いてないんじゃない。泣き方が違うだけだ」

「どうやって泣くんですか? 」

「じっとしてる。ああやって、ずっとじっとしてる」

みおはもう1度、段ボールの中を覗いた。みおは自動ドアの前に立って、3台の車を全部見送った。最後の車が角を曲がるまで、手を振り続けていた。

矢野さんとみおが病院を出た後、俺は駐車場の外まで出て、2人を見送った。歩道の途中で、みおが立ち止まっていた。矢野さんが、その場にしゃがんで、両手でみおを抱きしめた。みおの鳴き声が、ここまで届いていた。俺は病院に戻って、そっとドアを閉めた。

受け渡しからしばらくすると、各家庭から写真が届いた。おにぎりは、あの男性の膝の上で寝ている写真だった。写真の裏に「この子はよく食べます」とだけ書いてあった。たまごは、子供の体操服の袋に入り込んで、怒られている写真だった。佐藤さんが待合室の掲示板を開けて、写真が届いた順に貼っていった。

子猫部屋には、ももだけが残った。その部屋の前に、みおの椅子がそのまま置いてある。部屋が急に広くなった気がして、俺は何度も覗きに行った。

その週、母が月に1度の顔出しに来た。ちょうど、矢野さんが受付の床を拭いているところにはち合わせた。

「あら、新しい方」

「いえ、あの……はい。猫のことでお世話になっていて、お礼にお掃除を。あ、矢野と言います」

「そう。お若いのに、よく働くのね。ありがとう」

母は雑巾を借りて、一緒に窓を拭き始めた。しばらく世間話をして、そのうちに、母の動きが止まった。

「矢野さん、あなた、もしかして、この辺の生まれ? 」

「子供の頃、少しだけ住んでました」

「そう。学校はどちらだったの? 」

「少しの間なので、あまり覚えてないんです。4年生で転校しちゃって」

母は、雑巾を持つ手を止めた。その後、俺の顔を、少し長くじっと見つめていた。

月が変わり、散り過ぎた桜の花びらが舞う頃、みおは4歳の誕生日を迎えた。その誕生日の翌々日だった。子猫部屋の前で、こう言った。

「先生、もも、今日はよく食べてます」

俺は手を止めた。「デシュ」ではなく、「デス」になっていた。この間までは、そうだったはずだった。いつの間にか、普通の言葉になっている。プリンも、もう半分くらいは「プリン」と言えるようになっていた。

誰も指摘しなかった。矢野さんもしんたも、気づいていないのか、気づいて黙っているのか、分からない。俺も、何も言わなかった。おめでとうでもないし、寂しいというのも変だ。ただ、確かに時間が過ぎたことを実感した。

アパートの管理会社との約束。その期限も、確実に迫ってきていた。もしこの春、再び外で猫たちが子を産み、苦情の波が押し寄せてくれば、矢野さんとみおは、アパートをいよいよ追い出されてしまう。あの場所を失えば、2人はこの町を去ることになるかもしれない。そんなことは、絶対に阻止しなければならなかった。

ある日の診療後、遅くまで残った診察室で、俺はカルテの束を整理しながら、無意識のうちに右手を喉元へと当てていた。ちゃんと声を出すためのおまじない。頭では分かっているのだ。もう、昔の声が出なくて怯えていた子供ではないのだと。それでも、長年の習慣というのは、恐ろしいほどに根深く、体の記憶として刻み込まれている。

「先生、まだ残ってるんですか?

電気消しちゃいますよ」

背後から声をかけてきたのは、主任だった。疲れた顔をしながらも、どこか温かい目を俺に向けている。俺は喉から手を離し、ゆっくりと振り返った。

「ああ、ちょっと自治会の件で、集会の資料をまとめておこうと思いまして」

「ああ、大川さんの。先生、自治会の方向けに説明をされるんでしたよね」

主任の言葉に、俺は胸が重く沈むのを感じた。佐藤さんが言うには、大川さんはかつて自分の家で長年、猫を飼っていた過去がある。想像するに、失う痛みを恐れるあまり、目の前の野良猫たちが引き起こすトラブルに過剰に反応し、全てを排除しようとしているのだろう。けれど、彼を単なるクレーマーとして切り捨てることはできなかった。彼が抱えている苛立ちや恐怖もまた、この町の猫問題が長年放置されてきた歪みの1つなのだ。大川さん自身も、どこかで救いを求めているのかもしれない。

「ですが、先生。私、少し心配なんです。あの自治会の集まりに、先生が出席されることに。この議題に、文句が飛びかうのは想像できます。それに、先生は……」

主任はグッと言葉を飲み込んだ。俺の心と声のことが心配だと、顔に書いてあるようだった。

「主任。ありがとうございます。ただ、このままじゃ、この町の猫たちも、みおちゃんたちも守れない。俺がきちんとみんなの前で説明をしないと。逃げてちゃ、何も変わらないです」

かつて小学校の教室で、周囲の冷ややかな視線に押しつぶされ、ただ立ち尽くすことしかできなかった。おとなになり、自分の病院を持ち、獣医として多くの命に向き合えるようになった。今でも、人の前で自分の意見を堂々と語ることから、心のどこかで逃げ続けてきた。けれど、もう逃げない。あの時、川の土手で矢野さんが俺に寄り添い、俺の声を引っ張り出してくれたように、今度は俺が、自分の声で、この町の未来を変える番なのだ。

「そうですか。先生がそこまで言うなら。でも、気をつけてくださいね。あそこの人たち、手ごわいですから」

「覚悟しておきます。ありがとうございます」

主任は小さく微笑むと、先に奥へと引っ込んでいった。静まり返った診察室で、俺は窓の外に広がる景色を見ていた。街灯の光が、暗緑色の外路樹をぼんやりと照らしている。今週末は、いよいよ自治会の集会の日だった。

迎えた金曜日の夜、指定された公民館の和室の扉を開けると、大川さんを含む自治会の役員や組長など10数人の大人たちが腕を組んで、苦い空気を醸し出していた。室内に充満するタバコと古い畳の匂いが、独特の緊張感をさらに高めている。そのまま足を踏み入れた俺に、部屋中の視線が一斉に突き刺さった。

「先生、お疲れ様です。早速、猫の議題から始めますので、こちらへ」

世話役の老けた男が、俺を前に促した。俺は前で足を止め、背筋を伸ばして、深く一礼した。その瞬間、喉の奥がキュッと閉まる感覚が走る。反射的に右手が喉に伸びかけたが、俺はその手を強く拳に握りしめ、白衣のポケットの奥へと深く押し込んだ。逃げるな。自分の声で、しっかり話すんだ。

「秋山です。お忙しいところ、お時間をいただき、ありがとうございます」

最初の声は、わずかに震えた。俺は咳払いをし、心を落ち着けようとした。

「皆様がこの町の衛生面や環境を心配されているのは、痛いほど分かっています。猫の糞の匂い、駐車場の車の被害、夜中の鳴き声。どれも無視できず、改善すべき事実です。それは、間違いありません」

「分かってるなら、もうさっさと保健所に連絡しないか。獣医として、そういうやり方が気に食わないのは分かるが、こっちは実害があるんだよ」

大川さんが、我慢できないといった様子で言った。彼の言葉に同調するように、周囲からざわめきが広がる。その瞬間、俺の脳裏に、かつて経験したあの冷たい教室のしらけがよぎった。みんなが俺を見ている。声を出せない俺を、不思議そうな顔で、あるいは冷めた目で見ていた、あの日の恐怖が、冷たい水のように背筋を這い上がる。

だが、その恐怖を打ち消すように、あの日の夕暮れ、小さな女の子が俺の白衣の裾を引っ張ったぬくもりと、隣の席でずっと自分の言葉を待ち続けてくれた少女の姿が、胸の奥で鮮やかに蘇った。

待ってれば、ちゃんと答えてくれるよ。

俺はもう一度、肺の奥底まで深く息を吸い込み、ざわめく部屋の中で、大川さんの目をまっすぐに見据えた。

「処分では、何も解決しません。仮にここで一掃したとしても、別の場所から必ず新しい猫が流れ込んできます。いたちごっこです。根本的な解決にはならない。だから、提案させてください」

「何をする気だね」

「地域猫活動を、この町で本格的に始めさせてください」

俺はさらに一歩前へと踏み出た。その声は、和室の隅々まで力強く響き渡った。

「私の病院の負担で、既にいる全ての猫に不妊手術を施します。これ以上、絶対に数を増やさないために。そして、餌をやる場所と時間を限定し、私と、この町のボランティアの協力者たちで、責任を持って毎日の清掃と見守りを行います」

「そんな、うまくいくのかよ。大体、ボランティアの協力者なんて、いるとは思えない」

「うまく行かせます。私が、責任を持ちます」

俺の言葉に、部屋の空気がわずかに変わった。

「野良猫たちが適正に管理され、数が減り、街が綺麗になれば、皆様のストレスも消えるはずです。そして、大川さん」

突然名前を呼ばれた大川さんが、ぎょっとしたように目を見開いた。

「あなたがこれほどまでに猫を疎ましく思い、怒りを感じるのは、昔ご自身が飼っていた猫との別れが、あまりに辛かったからではありませんか? 」

室内が、文字通り完全に静まり返った。大川さんの顔面から、血の気が引くのが、遠目にも分かった。

「何を……言っている? 」

「分かったようなことを言って、すみません。でも、かつて命を慈しんだ温かい気持ちがある人だからこそ、現状を直視できないのではないかと。許せないのではないかと」

大川さんは言い返す言葉を失って、唇を震わせるだけだった。

「皆さん。どうか、私に力を貸してください。私の力だけでは、この問題を解決できません。地域の皆さんのご協力が必要です」

静寂が、公民館の空気を支配した。壁にかけられた掛け時計の秒針の音が、夜けに大きく重く響く。

長い沈黙の後、最前列の隅に座っていた高齢の女性が、ぽつりと言った。

「私ね、あの若いお母さんと、小さなお嬢ちゃんがね、かわいそうな猫を見かねて世話をして、毎日掃除もして、そういう姿をしばらく見てきたの。迷惑している人もいるって分かってたから、今まで何も言えなかったけど。ゆくゆくは、この町のためにもなることだし。地域猫活動、みんなで協力してやってみても、いいんじゃないかしら」

その言葉をきっかけに、別の男性が小さく頷いた。やがて、大川さんが複雑な表情のまま、しかしどこか諦めたような、そして肩の荷が降りたような、深いため息をついた。

「……勝手にしなさい」

「はい。ありがとうございます」

深く頭を下げた俺の背中は、心地よい汗と、これまでにないほどの晴れやかな充足感に包まれていた。

自治会の集会でのあの夜以来、病院をあげた地域猫活動は、まさに堰を切ったように一気に加速していった。これまで傍観的だった住民たちも、俺が自ら矢面に立って住民の不満を受け止め、具体的な解決策を示したことで、ようやく本当の意味での協力体制になってくれた。活動は、俺が責任者となり、矢野さんとみおを中心となって進められた。矢野さんは猫の餌やりと周辺の清掃の手順書を作成し、地域の掲示板でボランティアを募った。集まったボランティアの数は、予想をはるかに超えていた。しんたや主任も、不妊手術を終えた猫たちのカルテの管理を、休日返上で行ってくれた。

地域猫活動は、とても地味な活動だった。活動が身を結ぶのはまだまだ先だと思っていたけれど、その過程で着実に、俺たち病院スタッフや地域の一体感が育っていくのを感じた。そして、季節が巡り変わる頃、活動は目に見える確かな成果となっていった。

「先生、これ見てください」

ある日の診療後、しんたが処置室へと飛び込んできた。

「どうした? そんなに慌てて」

戸惑う俺に、しんたは満面の、まるで花が咲いたような笑顔を向けた。しんたが差し出したのは、今月分の自治会からの報告書だった。

「今月の猫に関する苦情の件数、なんと0です!

0件だったそうです! 」

「本当か? 」

俺は報告書を受け取って、まじまじと見つめた。掃除をしていた矢野さんも、驚いた表情で口に手を当てた。

「やりましたね、先生」

「しんた君、矢野さん」

主任が、穏やかな笑顔で呟いた。俺たちの様子を見ていたみおが、不思議そうに尋ねた。

「ゼロって、何人か? 」

「町のみんなが、猫たちのことを許してくれたんだ。これからは、猫たちと一緒に暮らしていこうって」

「本当?

もう、猫に怒ったりしませんか? 」

「そうだ。みおちゃんが、頑張ってくれたおかげだよ」

矢野さんは涙を浮かべながら、俺の前へ来て、頭を下げた。

「先生、本当に、本当にありがとうございます」

「やめてください。これは、猫と街のためなんです」

「そうですね。でも、それもそうなんですが……私たちの居場所を守ってくれて、本当にありがとうございました」

後日、管理会社からは、矢野さんとみおがこれまで通りのあの部屋で暮らし続けて良いという連絡が入った。そして、あんなに固くて棘のある言葉ばかりを吐いていた大川さんでさえ、最近では毎朝の散歩のついでに、猫の餌場の周りを自発的に箒で掃いてくれているという。町の空気が、確実に変わっていた。

そんな穏やかで満ちたりた、ある日の午後のことだった。すでに午前中の診療時間が終わり、静かな時間が流れる待合室の向こうで、自動ドアのチャイムが鳴った。

「ごめんください」

控えめだが、どこか聞き覚えのある声が、待合室に響いた。顔を上げてみると、あの大川さんが、1人でそこに立っていた。

「こんにちは」

驚きと少しの警戒心を胸に抱きながら、待合室の椅子に座るよう促すと、彼は普段の小声とは違い、どこか気まずそうに目を泳がせていた。椅子に腰かけると、俺は緊張しながら尋ねた。

「大川さん、どうされましたか? 猫たちのことで、また何かトラブルでも? 」

「いや、そうじゃないんだ。その……ずっと前の譲渡会にいた、あのももって猫のことだよ」

大川さんは視線を床に落としたまま、どこか照れ臭そうに、しかし真剣な声で続けた。

「先生が、あの時自治会の集まりで言った通りかもしれない。俺は、ずっと過去から逃げていただけだったんだ。昔、大切にしていた猫を事故で失ってから、2度とあんな辛い思いをしたくなくて。かわいそうな猫を見ていると、すごく辛い気持ちになるんだ。目を背けたくて、排除しようと思ってしまった」

大川さんは、膝の上で拳を握っていた。

「でも、先生たちや、あの親子の一生懸命な姿を見て、ようやく目が覚めた。もう一度、あの小さな命と、まっすぐ向き合ってみたいんだ」

「大川さん……」

大川さんの言葉に、俺は言葉を失った。彼にとって、とても大きな決断なんだということが、その一言一言の重みから伝わってくるようだった。

「それで、だ。こう言っちゃなんだが、引き取り手がまだ決まってないんだろう。俺が引き取っても、いいだろうか。責任を持って」

あの頑なに心を閉ざしていた男が、自らの過去の傷と向き合い、受け入れようとしている。それは、地域猫活動がもたらした奇跡のように思えた。

「ああ。ただ、大川さん。ももは目が……」

「分かってる。譲渡会のポスターで、写真を見たからな。それに、昔飼ってた猫に、あそこが似てるんだ」

俺は大川さんを、保護猫部屋に案内した。ケージからひょっこりと顔を出したももが、大川さんを見て、不思議そうに小さな耳をピクッと動かした。片方の目は少し濁っているが、その足取りはしっかりしている。ももはとことことゆっくり歩み寄ると、大川さんの匂いをかぎ、それからふにゃっと小さく鳴いて、彼の膝にそっと頭をすり寄せた。

大川さんの手が、わずかに震えた。彼はゆっくりとしゃがみ込み、その小さな体をそっと手のひらで包み込んだ。俺は自分の胸が熱くなるのを感じた。

「……ハナ」

大川さんはそう呟いて、はっとした表情をした。

「すまん。昔の猫の名前だ。お前は、ももだもんな」

「いいんですよ。大川さんが、名前をつけていただいて」

「いや、この子は、ももだよ」

数日後、大川さんがももを大切そうにキャリーに入れ、自宅へと誇らしげに連れて帰る姿を、矢野さんとみおと一緒に見送った。みおは両手を大きく広げ、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、元気いっぱいに手を振っていた。その目には、もう以前のような別れの涙はなかった。

「良かったね、もも。本当に良かった。大川さんなら、絶対大切にしてくれる」

矢野さんは、みおの成長した姿を、温かいまなざしで見ていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の少し伸びた髪と美しい横顔を、優しく包み込んでいる。その笑顔を間近で見ていると、胸の奥でずっとくすぶり続けていた、言葉にできない熱い思いが溢れてくるのを感じた。

夏の日差しが、動物病院の大きなガラス窓を明るく、そして力強く照らし出すようになった。子猫部屋は、賑やかだったのが嘘のように、今はすっかり静まり返っている。おにぎりも、たまごも、そしてももも、それぞれの新しい家族の元へと旅立ち、誰もいないケージがただ並んでいる。

今日も矢野さんとみおが、2人で病院の扉を開けてやってきた。自動ドアが心地よいチャイムの音を鳴らし、2人が入ってくる。もうすっかり見慣れたその光景が、俺の日常を温かく満たしていた。

「先生、プリンのお皿、洗っておいたよ」

「ありがとう、みおちゃん。今日も助かった」

みおは誇らしげな笑みを浮かべ、待合室の隅にある自分の特等席へとかけていく。その小さくも頼もしい後ろ姿を見送りながら、矢野さんは掃除道具を準備していった。

「先生、なんだか最近、静かすぎて、少し寂しいですね」

「そうですね。子猫たちがいた頃は、毎日が騒がしかったですから」

「でも、みんな幸せなところに行けて、本当に良かったですね。それに、ここにはまだプリンがいますし」

矢野さんの微笑みには、出会った頃にまとっていた影が嘘のように晴れやかで、見ているこちらの胸まで解きほぐされるようだった。その横顔を見つめていると、心の奥底にしまい込んできた気持ちが、ふつふつと音を立てて動き出した。

今日こそ、伝えよう。

「今から、少しだけ時間をもらってもいいですか?

「え? はい、大丈夫ですけど。どうしたんですか? 」

戸惑う矢野さんを促し、まだ診察の始まっていない静かな診察室へと、彼女を招き入れた。ドアが閉まる音が、室内の静けさを一層際立たせる。俺は一瞬喉に手を当てかけたが、すぐにそれをぐっと我慢した。もう、おまじないなど必要ない。しっかり、自分の声で伝えるんだ。

「あの……ずっと言いたかったことが、あったんです」

「もしかして、私、何か失敗しちゃいましたか? 」

「いや、そうじゃないんです。驚かないで聞いて欲しいんですが……俺たち、去年の10月に初めて会ったわけじゃないんです」

矢野さんは一瞬目を丸くして、それから首を傾げた。

「やはり、そうですか。どこかで聞いたお名前だなとは思ってはいたんですが……すみません、でも、思い出せなくて」

少し首をかしげた矢野さんに向かって、俺は言葉を続けた。

「26年前、小学4年の時、俺の小学校に転校してきましたよね」

その言葉に、矢野さんの動きがぴたりと止まる。

「え……」

「俺たち、隣の席だったんです。覚えてないですか?

いつも声が出なかった俺に、いつも優しく接してくれましたよね」

そう口にした瞬間、矢野さんの目がますます大きく見開かれた。彼女の記憶があの教室の光景へと、一気に巻き戻されていくのが、その表情から手に取るように分かった。

「秋山先生って……あの、秋山君? あの土管の場所で、子猫を一緒に育てた……」

「あの……そうです」

矢野さんは手で口を押さえた。

「私……忘れてなんて、なかったのに。今まで気づかなくて、ごめんなさい」

俺は黙って頷いた。そして、ゆっくりと話を続けた。

「学校では話せなかった俺に、毎日話しかけてくれた。返事も絶対にせかさず、俺が答えられるまで、何分でも待ってくれた。川で凍えていた子猫を差し出して、『あったかいよ』って教えてくれた」

矢野さんは手で口を覆ったまま、「うん、うん」と何度も頷いて、話を聞いていた。

「あの時、『動物のお医者さんになればいいじゃん』って言ってくれたから。だから、俺は今、獣医になっています」

その言葉で、矢野さんの顔は泣きそうな表情に変わった。

「嘘……そのことで、獣医さんに……」

「はい。それから、俺は獣医を志しました。あなたが、俺の声を取り戻し、夢を持たせてくれたんです。だから、俺、ずっと言いたかったんです。この言葉を。矢野さん。ありがとう」

矢野さんの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

「……初めて、名前呼んでくれましたね」

「遅くなって、すみませんでした」

矢野さんが、俺の手を両手で包んだ。かつて、彼女が子猫を包み込んだように。ぬくもりが、まっすぐ伝わってくる。矢野さんは、潤んだ瞳のまま、少しだけ言葉をつまらせた。

「あの……本当は、私もずっと、伝えたかったことがあるんです」

「え? 」

矢野さんはそこで1度言葉を切り、まっすぐ俺の顔を見上げた。

「あの時、私たちがアパートを追い出されそうになった時。本当に、どうしていいか分からなくて、怖くて仕方がなかった。あの時、先生が自分のことのように怒って、管理会社へ行ってくれたでしょう」

「あれは……放っておけなかったから」

「それまで、私、誰にも頼っちゃいけないって。離婚だって、自分で決めたことでもあるんだから。みおのために、1人で強く生きなきゃって、ずっと気を張ってきたんです。みおを守るためには、弱音なんて吐いちゃいけないって」

矢野さんは、俺の手をさらに強く握りしめ、絞り出すように続けた。

「でも、先生が私たちの居場所を守ってくれて、心の底から救われました。助けてくれる人がいるってことが、本当に嬉しかったんです。久しぶりに、ほっとしたんです」

「矢野さん……」

「それから、この病院に通うようになって。毎日、先生が動物たちをまっすぐ救おうとする姿を見ていて、いつの間にか、掃除や恩返しのために毎日ここに来てるんじゃないって。そういう、自分の本当の気持ちに、気づいちゃったんです」

矢野さんは、涙を拭うこともせず、少しだけ俯いた。俺は、思いがけない。しかし、あまりにも温かい彼女からの思いに、言葉をなくして立ち尽くしていた。しばらくして、自分の思いを口にしてしまったことに気づいたのだろう。矢野さんは息を飲むと、パッと俺の手を離した。そして、気まずさを隠すように、わざと明るい声で振る舞った。

「ごめんなさい。急におかしなこと言って。記憶の中の秋山君が、こんな素敵な先生になって、目の前に現れるなんて。私、運命みたいなものだって、勘違いしちゃってました。今のは、忘れてください。掃除に戻ります」

早足で診察室を去ろうとする、矢野さんの腕を掴んで、俺は急いで引き止めた。

「待ってください。勘違いなんかじゃないです。俺も、運命だと思います」

「え……」

「ずっと、俺を救ってくれた相手が。俺の人生を変えてくれた相手が、あの日、俺の前に現れたんですよ。奇跡的に。普通でいられるわけないでしょう、こんなの」

少し動きが止まった後、矢野さんの肩が震えて、すり泣きが聞こえた。

「先生……もし、いつかプリンの引き取り手が決まっても、私、毎日掃除に来てもいいですか? 」

俺は、震える矢野さんの背中を見ながら、答えた。

「もちろんです。ただ、掃除という理由は、いらないです。ただ、毎日、あなたと、みおちゃんに、そばにいて欲しいんです」

それから、季節はいく度も巡っていった。気がつけば、もう矢野さんとの再会から5年もの月日が流れていた。

ある日の診療後、静けさを取り戻した動物病院の待合室に、元気いっぱいの大きな声が響いていた。

「ねえ、お父さん!

プリンてば、もうこのおもちゃ、飽きちゃったみたい」

診察室から出てきた俺に向かって、声をかけるのは、あの頃よりもすっかりお姉さんになったみおだ。小学生高学年になり、少し大人びた表情を見せることも増えたが、動物を愛する優しい心は、そのままだった。

ふと、小さくて可愛らしい声がした。足元を見下ろすと、そこにはふっくらと、見事に成長したプリンが、体をすり寄せて甘えている。あの出会いの日の面影を残しつつも、今やこの動物病院の不動の看板猫として、すっかり貫禄を身につけていた。

初めてこの病院を訪れる、怯えた子犬や、具合の悪そうな猫たちも、待合室でどっしりと構えているプリンの姿を見ると、不思議と緊張を解いて、落ち着いてしまうようだ。プリンは、まるで自分がこの病院のスタッフの一員であると自覚しているかのように、診察室のドアの隙間から中を覗き込んで、不安そうな動物たちを、そっと見守ったりしている。

あの時、あのアパートの裏で弱っていた命が、今では数えきれないほどの傷ついた心を癒す存在になっている。その奇跡のような巡り合わせに、俺はいつも胸が熱くなるのだった。

そして、そのプリンの隣で、いつも優しく微笑んでいるのは、妻となった矢野さん。いや、えり子だった。

「みお、あんまりお父さんのお仕事の邪魔しないの」

「はい。ねえ、それより早くご飯行こうよ」

えり子が受付で仕事を片付けながら、みおに「はいはい」と返事をする。現在、えり子は佐藤さんと共に、受付スタッフとして病院を支えてくれている。彼女が受付に立つようになってから、この病院の空気が、より一層温かなものに変わった。言葉の端々に滲み出る思いやりと、飼い主の不安な気持ちに寄り添う細やかな気配りは、獣医師である俺よりも頼もしいほどだ。

佐藤さんがカルテの束を整理しつつ、隣のえり子にそっと声をかける。

「えりこちゃん、今日もお疲れ様。あとはいいわよ。今日くらい、早く上がって、みんなでご飯行っておいで」

「すみません。佐藤さん、ありがとうございます」

えり子と共に佐藤さんに頭を下げて、俺は白衣を脱いだ。

「お待たせ」

俺はみおの頭を優しく撫でながら、えり子の隣にそっと並んだ。えり子は鞄を肩にかけながら、俺の腕に自分の腕を自然に絡ませた。

「お疲れ様、かずさん。今日も本当に忙しかったね」

「ああ。でも、おかげで今日も無事に終わったよ。そういえば、譲渡会の件はどう? 」

「順調、順調。みんな、チラシ配りに協力してくれるって、張り切ってたわ」

えり子の声は、いつでも優しく、そして、この世界で1番心地よく、俺の胸に響く。かつて小学生の頃、人の名前すら呼べなかった俺が、今こうして最愛の妻と娘の名前を、毎日呼べている。

ふと、夕暮れの窓の外を見ると、秋の涼しい風が、街路樹の葉を優しく揺らしている。そばのベンチでは、地域猫が昼寝をしてくつろいでいる。この町は、本当に変わった。誰もが心に小さな傷や痛みを抱えながらも、手を差し伸べ、支え合って、生きている。

俺は、あの時、子猫を抱いた少女が俺に声と夢をくれたように、この町の全ての人と動物たちに、居場所というぬくもりを与えられているのだろうか。そうであればいいと、常に考えている。

「じゃあ、プリン。ちょっとだけ、お留守番よろしくね」

帰るとき、みおがプリンを撫でていた。プリンは気持ちよさそうに、小さく「にゃーん」と返事をした。えり子が嬉しそうに笑い、俺にアイコンタクトを取った。

「さ、行きましょう」

あの日の川の子猫と、プリンがつないだ俺たちの奇跡は、こうして1つの形となった。夕闇がゆっくりと町を包み始める中、つないだ手から伝わるぬくもりが、明るい未来を約束してくれている気がした。明日からも、またこの町と、人と動物たちの日々は、温かい笑顔と共に続いていくのだろう。