「お前の夢は今日で終わりだ。」
閉店後の店に、夫・直の声が冷たく落ちた。テーブルの上には離婚届。伸びてきた手が、私の通帳、家の鍵、そして店の鍵を順に奪っていく。
「返して。それは私のお金よ」
「店も家も俺の名義だ」
二十年連れ添った夫が、ついに目を合わせようとしない。そこにいたのは、知らない男の顔だった。
「この店も、お前の夢も終わりだ」
理由を尋ねても、直はもう答えなかった。私は震える指でペンを握り、署名欄に「杉浦弓」と書いた。その名前を書いたのは、あの夜が最後になった。店を出る扉が閉まる寸前、背中の向こうで何かが崩れるような音がした。私は振り返らなかった。
夜道では、答えの出ない問いだけが回り続けた。二十年のうち、一体どこで間違えたのだろう。
それから三年後、閉店したはずの店の前で、私は立ち尽くすことになる。真新しい看板に刻まれていた名前。その意味と向き合う日が来るなんて、あの夜の私は思いもしなかった。
私は弓、四十九歳。三年前まで「杉浦弓」という名前だった。話はあの夜よりずっと昔から始めなければならない。私の原点は、母の台所にある。
母の名は片岡房子。海辺の隣町の古い一軒家に住んでいた。決して裕福ではなかったのに、母の台所からはいつも湯気が上がっていた。一人暮らしのおじいさんに肉じゃがを届け、学校の子供たちには芋の煮転がしを振る舞う。そういう人だった。
「料理はね、お腹だけじゃなく、寂しい心も温められるのよ」
お玉を片手に母は笑った。幼い私は、その隣で味見係を任されるのが誇らしかった。
忘れられない光景がある。連れ合いをなくしたばかりの近所のおじいさんが、母の肉じゃがを一口食べて、俯いたまま動かなくなった。泣いているのだと、子供の私にも分かった。帰り際、おじいさんは言った。
「房子さん、わし、明日も生きるわ」
料理は人を生かすのだ。あの日の玄関先の光景が、私という人間の根っこを作った。いつか自分の店を持ちたい。夢はあの狭い台所で生まれた。
高校を出て、私は町の料理屋で働き始めた。皿洗いから始めて、コツコツと厨房へ上がった。オムライスの卵の巻き方も、デミグラスソースの寝かせ方も、体で覚えた。
直と出会ったのは、その店だった。週に三度、閉店間際にやってくる会社員。頼むのはいつもオムライス。食べ終わると必ず厨房に向かって頭を下げた。
「ごちそうさまでした。今日もうまかったです」
不器用で口数が少なくて、でも誠実な人だった。土砂降りの晩、看板を下げかけた店に駆け込んできて、濡れた鞄から潰れたお煎餅を出したことがある。
「これ、皆さんで。いつも遅くにすみません」
「あら、うちはお客さんを選ばないんですよ。いつでもどうぞ」
「じゃあ、ずっと通ってもいいですか?」
前の晩に貸した傘も、一括り返しに来る。そういう人だった。
通い始めて三度目の春、その人は言った。
「俺と結婚してください」
二十六の春だった。私は片岡弓から杉浦弓になった。式はあげていない。その分のお金も、いつかの店のために取っておこうと二人で決めた。
役所からの帰り道、母が私のバッグに小さな包みを押し込んだ。開けると、桜色の軸の印鑑が出てきた。掘られていたのは「弓」。苗字ではなく、名前の判子だった。
「あんたの名前の判子よ。銀行の届けにしなさい。苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のままだからね。お守り代わりに、いつも持っておくの」
母らしい贈り物だった。言われた通り、銀行の届け印にして以来、その印鑑は私のバッグから離れたことがない。カードは作らなかった。通帳とこの判子があれば足りる。それも母の教えだった。
結婚して五年目の夜だった。ビールのグラスを傾けながら、直がぽつりと言った。
「いつか、弓の名前をつけた店を出そう」
「私の名前なんて、恥ずかしいわよ」
「君の料理を食べに来る店なんだから、当然だろう」
冗談めかして返したけれど、直の目は本気だった。その翌月から、夫婦の貯金通帳の表紙に「店」と書かれた紙が貼られた。
安月給の中から一万円ずつ、二万円ずつ。ボーナスが出れば十万円。私の給料からも同じ額を入れた。外食を減らし、旅行を我慢して、夢はゆっくりと、でも確かに積み上がっていった。
「あと十年。いや、七年で届くかもしれないぞ」
「気の早い人ね」
「夢の話をしている時の弓は、いい顔するんだよ」
そんなことを真顔で言うから、私は照れ隠しに味噌汁のお代わりをよそった。
母は、店を見ることなく亡くなった。私が三十四の冬のことだ。あの海辺の家と、桜色の印鑑と、台所の教えだけが残された。
棺の前で、私は約束した。
「お母さん、あなたの台所みたいな店を、必ず作るから」
四十九日を終えた夜、直も仏壇に手を合わせて言った。
「お母さんの味、弓がちゃんと引き継いでますから」
開店の日を迎えたのは、それから三年後、十二年前の五月だった。見つけたのは商店街の外れに立つ、古い店舗付きの家。一階が店で二階が住まい。前は蕎麦屋だったという建物はあちこち傷んでいたけれど、南向きの窓から午後の光が床に長く伸びていた。
「ここだわ」
内見の日、私は即決した。この光を見た瞬間、母の台所を思い出したのだ。
改装は業者に頼むお金を惜しんで、自分たちの手も使った。壁のペンキは直が塗り、私は母の台所と同じ木の板を注文した。中古の厨房機器を磨き上げ、椅子は不揃いのまま並べる。それが、帰って来たくなる家みたいだと言われる店になった。
貯めた八百万円を頭金にして、残りはローン。売買契約書も銀行の書類も保健所に出す営業許可の申請書も、名前の欄は全部「杉浦直」だった。経営も名義も夫。私は厨房。名義なんて気にしたこともなかった。夫婦なんだから、どっちの名前でも同じこと。あの頃の私は本気でそう思っていた。
店の名前は「日向」にした。
「本当は『弓』の店にしたかったんだけどな」
「やめてよ。お客さんが恥ずかしがるわ」
「恥ずかしがるのは弓だろ」
照れくさくて、私は答えずにのれんをかけた。
開店の日、真っ先にのれんをくぐってくれたのは、呉服屋の女将の八重さんだった。当時六十代、着物姿の背筋がピンと伸びた人で、オムライスを綺麗に食べ終えると帯から小さなカメラを取り出した。
「ご夫婦、看板の下にお並びなさいな。最初の日の写真は、後で宝物になるんだから」
照れながら並んだ一枚。直は硬い顔で、私は笑いすぎて目が線になっていた。八重さんは後日、焼き増しした写真を額に入れて持ってきてくれた。レジ裏の壁が、その額の定位置になった。
とはいえ、商売は甘くなかった。開店の物珍しさが消えると、客足はパタリと落ちた。雨の火曜日など、一人も来ない日があった。仕込んだハンバーグが十個丸ごと残った夜、二人でカウンターに並んで、冷めたそれを黙って食べた。
「うまいな」
「こんなにうまいのに、なんで客が来ないんだろうな」
「宣伝が下手なんじゃないの? 営業担当さん」
「違いない」
力なく笑い合った。悔しかったけれど、不思議と絶望はしなかった。母の言葉が体の中にあったからだと思う。
「お腹と寂しい心を温める相手は、目の前の一人からでいい」
だから私は、来てくれる一人一人の顔を覚えた。一人暮らしのお年寄りにはご飯を柔らかめにして、その分のおかずの野菜を一品足した。野菜嫌いの子供には、人参を星型に抜いてハンバーグの脇に隠した。お金のない学生には、大盛を無料にした。
そして、常連さんの誕生日には小さなプリンをそっと出した。八重さんの誕生日が最初だった。
「あら、頼んでないわよ」
「お誕生日でしょ? お店からです」
八重さんは目を丸くして、それから帯の辺りを押さえて笑った。
「この店は、料理と一緒に別のものを出すのね」
大盛無料に通い詰めた大学生が就職して、初給料の日に来てくれたことがある。伝票の裏に千円札を挟んで走って帰ろうとするから、捕まえた。
「多いわよ」
「いや、あの、足りなかった分です。四年分」
「じゃあ、利子は出世払いね。また食べにいらっしゃい」
直と二人、角を曲がるまでその背中を見送った。ああいう夜のために店をやっている。心からそう思えた。
それからは、常連さんの誕生日を手帳に書き留めるのが私の癖になった。八百屋のご主人が形の悪い野菜を安く回してくれたり、向いの花屋さんが毎週カウンターに小さな花を生けてくれたり、商店街の人たちにも店は育ててもらった。毎月のローンは重かったけれど、二人で返す借金はちっとも怖くなかった。
そんな毎日を重ねるうち、雨の火曜日にもぽつりぽつりと傘が並ぶようになった。二年目には常連さんの顔ぶれが揃い、三年目には夕方の仕込みが追いつかなくなった。夫婦二人では手が回らない。そう思い始めた矢先、この店に一人の青年が転がり込んでくる。
その青年が店の戸を叩いたのは、開店から三年が過ぎた冬。九年前のことだ。
「求人の貼り紙見たんですけど」
のっそりと入ってきたのは、痩せた若い男の子だった。年齢を聞くと二十二だという。名前は水島翔太。高校を途中でやめて、工場や引っ越し屋を点々としてきたらしい。履歴書の職歴の欄は、どれも一年と続いていなかった。
面接の間、翔太君は一度も目を合わせなかった。俯いたまま、ぼそりと言う。
「言っときますけど、俺なんかすぐやめますよ」
客席の椅子で、私は思わず笑ってしまった。
「やめるかどうかは、働いてから決めればいいでしょう。さ、まずは、明日も来なさい」
その日の晩ご飯のつもりで、私はオムライスを出した。翔太君はスプーンを持ったまま固まって、それから一気に食べた。食べる間、鼻をすするような音が混じる。理由は聞かなかった。
翌朝、翔太君は開店の二時間前に来た。それから毎朝続けた。最初の仕事は皿洗いと包丁研ぎ、次が玉ねぎの皮むき。キャベツの千切りが板につくまで半年。ソースの味加減を任せるまで二年。焦がしてしょっぱくして、その度に私と直の雷が落ちた。それでも翔太君は翌朝、開店二時間前に店に立っていた。
一度だけ、翔太君が無断で休んだことがある。電話にも出ない。直が自転車でアパートへ走ると、熱を出して寝込んでいた。おかゆを届けた翌日から、翔太君はどんな小さな不調も申告するようになった。
「働く人間の体は、店の一部ですから」
生意気な口を聞くまでになった。ある夜、片付けの途中で翔太君が口を開いた。
「俺、初めてだったんです。『明日も来い』って言われたの。どこ行っても、『もう来なくていい』って言われてばっかりだったから」
手を止めずにそう言うから、私も手を止めずに答えた。
「じゃあ、私は明日も言うわね。明日も来なさい」
「はい」
背中しか見えなかったけれど、声が濡れていた。
接客は直が仕込んだ。グラスの置き方、常連さんの名前の覚え方、お年寄りへの声の大きさ。閉店後の客席で直が客の役をやって、翔太君に練習させる。真面目な顔で「いらっしゃいませ」を繰り返す二人がまるで親子みたいで、私は厨房で笑いを噛み殺した。
「翔太、お前、笑うと結構いい顔なんだぞ」
「勘弁してくださいよ」
そう言いながら、翔太君の「いらっしゃいませ」は日に日に明るくなった。働き始めて四年目には、翔太君の作るナポリタンに常連さんの注文がつくようになった。
店は育っていた。土曜の開店前には、通りの隅まで列が伸びるようになった。八重さんが列の整理を買って出て、常連さん同士が列の中で世間話を始める。パートの奥さんを二人お願いして、それでも昼時は戦場だった。
夜、二階の住まいに上がる階段で、直がよく言った。
「なあ、弓。俺たちの店、すごいことになってきたな」
「私たちの店じゃなくて、みんなの店よ」
「違いない」
正月には店の座敷に八重さんやパートの奥さんたちの家族も呼んで、新年会をやった。翔太君が照れながら雑煮を作り、八重さんが着物で乾杯の音頭を取る。誰かの笑い声が絶えない座敷で、直がそっと耳打ちしてきた。
「お母さんの台所って、こんなだったのかもな」
「そうね。きっとこんなだった」
夫婦で始めた小さな夢は、翔太君が育ち、常連さんの笑い声が重なり、確かな形になっていた。あの頃が私の人生で一番幸せな時期だったと思う。そして幸せの絶頂で、あの人が店に現れた。
四年半前の春、町の情報誌に店が載った。見開きの写真には、湯気の立つオムライスと照れ笑いの直が映っていた。発売日には常連さんが買い込んで持ってきてくれた。遠くの町から来る新しいお客さんも増え、嬉しい悲鳴の毎日だった。
その雑誌を片手に、あの人は現れた。
「おお、直、繁盛してるらしいじゃないか」
昼時の店に、不意に大きな声が響いた。派手なスーツ、金色の腕時計。直の五つ上の兄、隆さんだった。食品卸の会社「杉浦食品」を経営していて、法事の度に景気のいい話ばかりする人だった。亡くなった親の思い出話さえ、最後は金の話に変わる人で、私はどうにも苦手だった。
隆さんはカウンターの奥まで勝手に入り、厨房を見回した。
「狭いが、まあ小綺麗にやってるな」
「兄さん、今は昼時だから」
「おい、水だ。気が利かないな、この店は」
翔太君が慌ててグラスを出す。隆さんは礼も言わずに飲み干して、直の肩に腕を回した。
「なあ、直。客が入ってるなら、仕入れも経理も身内に任せた方が安心だ。うちは卸のプロだぞ。他の業者に中間で抜かれてるのが、俺には見てられんのだよ」
「いや、今の八百屋さんとは開店からの付き合いで…」
「付き合いで商売するから、個人店は潰れるんだ。素人の経理なんて、穴だらけだしな。弟の店は、俺の店みたいなもんだろ。悪いようにはせん」
直は曖昧に笑って、はっきり断らなかった。断れない理由を、私は知っていた。兄弟は早くに父親をなくしていて、直の高校の学費は働きに出た隆さんが出したのだという。
「兄貴には頭が上がらない」が直の口癖だった。恩は本物だったのだと思う。ただ、恩を盾にされた時、人は正しい判断ができなくなる。
隆さんは返事を待たず、翌日から店に出入りするようになった。
最初に変わったのは、野菜だった。開店からの付き合いだった八百屋さんが、申し訳なさそうに頭を下げに来た。取引は「杉浦食品」に一本化すると、隆さんから通告されたのだという。
届くようになったダンボールを開けて、私は手が止まった。玉ねぎの箱の底が、うっすら傷んでいる。豚肉の色も悪く見えた。
「お兄さん、この玉ねぎ、下の段が痛みかけています。お客さんに出すものですから、前のところと同じものを入れてください」
勇気を出していった私に、隆さんは鼻で笑った。
「いい女将は分からんよ。味なんて、客には分からんのだ。原価を下げるのも経営のうちだぞ、奥さん」
「分かりかねます。うちのお客さんには、分かります」
「ああ、じゃあ聞くがね。粗利率はいくつだ? 人件費比率は? 答えられんだろう。奥さんは厨房だけ見てりゃいいんだよ」
言い返せなかった。数字は全部、直に任せてきたから。悔しさで、その夜は仕込みのキャベツを刻みすぎた。山になった千切りを、翔太君が黙って袋に分けてくれた。
配達に来る杉浦食品の若い運転手さんが、段ボールを落としただけで、通りに響く声で怒鳴られていた。うちの店の前で、うちのお客さんが見ている前で。あの怒鳴り声を聞く度に、私は自分の店の空気が濁っていくのを感じた。
それでも、私は傷んだ野菜を黙って使う気にはなれなかった。痛みを外して芯を取り分け、いつもの味になるまで手間を倍かけた。それでも隠しきれない日はある。ある昼下がり、八重さんがスプーンを置いて首をかしげた。
「弓さん、ハンバーグの味、変わった?」
背筋が冷たくなった。ごまかしは、この人には通じない。
「ちょっと仕入れ先が変わって。すぐ戻します。必ず」
「そうならいいの。この店の味はね、弓さん、あなたの味なのよ。誰にも触らせちゃだめ」
帯をポンと叩いて、八重さんは笑った。
私はその夜から、届いた食材の検品を自分の仕事にした。ダメなものはダメと伝票に書いて突き返す。隆さんの機嫌は目に見えて悪くなった。
「高が玉ねぎで、いちいちうるさい奥さんだ」
「玉ねぎで店は傾くんです」
「だったら単価を上げろ。メニューを二割値上げりゃ済む話だ。年寄りの常連なんて、どうせ他に行く店もない」
「うちのお客さんを、そんな風に言わないでください」
睨み合いになりかけたところで、直が間に割って入った。仲裁はいつも同じ。兄には謝り、私には目で詫びる。その繰り返しだった。
調理場の隅で、翔太君が吐き出すように言った。
「弓さん、あの人、うちの店を何だと思ってるんですか?」
「…直のお兄さんよ。でも大丈夫。直がちゃんと見てるから」
そう、直が見ている。そのはずだった。だが、帳簿はいつの間にか店の棚から消えていた。経理は杉浦食品の事務所で預かると隆さんが決め、月末の数字さえ、私は見られなくなった。試しに売上の集計を尋ねたら、「奥さんに言っても分からんよ」の一言で片付けられる始末だ。
ある夕方には、レジの引き出しを開けた隆さんが、直の実印と店の銀行印を無造作に鞄へ入れるのを見た。
「お兄さん、印鑑まで持っていくんですか?」
「経理を預かるってのは、そういうことだ。いちいち取りに来るのは、二度手間だろう」
その夜、私は初めて直に強く言った。
「帳簿も印鑑も、店の外に出すなんておかしいわよ。いくら身内でも」
「兄貴にも悪意はないんだ。昔から俺の面倒を見てきた人だから。でも、会社のことは俺に任せて。弓は料理に集中してくれな。それが一番、店のためだ」
直がそう言うなら、と私は自分に言い聞かせた。夫を信じることと、目を瞑ることの区別が、あの頃の私にはついていなかった。秋風が立つ頃、直の背中に、私は見慣れない影を見るようになる。
最初に気づいたのは、夜中の音だった。二階の寝室で目が覚めると、隣の布団が開いている。階段を降りると、店の明かりが漏れていた。カウンターの端で、直が電卓を叩いている。広げているのは、コピー紙の束だった。
「どうしたの? こんな時間に」
「ああ、いや、棚卸しの計算だよ。すぐ寝る」
紙の束を裏返して、直は笑った。その笑い方が、嘘の下手なこの人の精一杯の嘘だと分かった。思えばその半年ほど前の春、建物のローンをようやく払い終えたばかりだった。最後の返済を終えた日、直は通帳を仏壇に備えて、柄にもなく手を合わせた。
「これで、店も家も本当に俺たちのものだ」
あんなに晴れやかだった顔が、秋には別人のように曇っていた。秋の彼岸を過ぎた頃から、直は昼の営業を私と翔太君に任せて出かけることが増えた。行き先は言わない。ある日、銀行の名前が入った封筒を小脇に抱えて帰ってきて、そのまま店の裏に一時間こもっていた。出てきた顔は、髪みたいに白かった。
「銀行に何の用だったの?」
「ローンの手続きの残りだよ」
ローンは春に終わったはずだ。喉まで出かかった指摘を、私は飲み込んだ。問い詰めて壊れそうなほど、直の顔は追い詰められていた。
ある晩、私は無言で直の好物のオムライスを作った。直は半分だけ食べてスプーンを置いた。
「ごめん。うまいよ。うまいんだけどな」
「うまいんだけど」の続きは、最後まで語られなかった。電話も増えた。店の裏で、押し殺した声。
「兄さん、この請求書は何だ? うちはこんな量仕入れてない」
「店の登記がどうとか、俺は聞いてないぞ」
「おい、兄さん」
戻ってきた直に何の電話かと聞くと、「仕入れの調整だ」という。目が合わない。食も細くなった。私のハンバーグを残して、味の感想も言わなくなった。二十年以上、どんなに疲れた日も「うまいな」だけは欠かさなかった人が。
一度だけ、店の裏で兄弟が向かい合っているのを見た。ゴミ出しに行った私に気づかず、直が低い声で言っていた。
「印鑑、返してくれ。経理ももう自分でやる」
「おいおい、今更何を言い出すんだ、お前は」
「兄さん、俺は兄さんを信じてたんだ」
「信じてりゃいいだろう。悪いようにはせんと言ったはずだが」
隆さんは笑いながら車に乗り込み、窓を開けて私に気づいた。
「おお、奥さん。景気の悪い顔した夫で大変だな。まあ、うちの弟をよろしく頼むよ」
何がおかしいのか笑い声を残して、車は消えた。直は私に見られたのかとも聞かず、無言で店へ戻った。その背中に声をかけられなかった自分を、私は後々まで悔むことになる。
「ねえ、何かあるなら話して。夫婦でしょ」
「何もないよ。心配するな」
「私、数字は分からないけど、働くことなら手伝えるわ」
「弓は、店のことだけ考えてくれ。頼むから」
その言い方が、突き離すというよりすがるように聞こえて、私はそれ以上踏み込めなかった。そういえば、あの頃直が妙なことを聞いてきた。
「弓さん、お母さんの家の権利書って、どこにある?」
「実家の仏壇の引き出しよ。どうして?」
「いや、大事にしまっとけよ。誰にも渡すなよ」
海辺の家は、母が私に残してくれた家だ。誰にも渡すはずがない。変なことを言う人だと、その時は聞き流した。
十月に入る頃、隆さんの出入りがパタリと減った。ほっとするどころか、直の顔色は一層悪くなった。二階へ上がらず、店の座敷で朝を迎える日もあった。夫婦の会話は、業務連絡だけになっていく。布団の中で背中を向け合う夜。私は天井を見ながら考えた。夫婦って、何だろう。同じ屋根の下に住み、同じ店に立って、それでも言えないことが、この人にはあるのだ。
翔太君も異変には気づいていた。
「弓さん、社長、大丈夫ですかね? 夕べ、閉めた店で一人で座ってました。レジ裏の、開店の日の写真をじっと見て。俺にできることないですか?」
「翔太君はいつも通りでいて。いつも通りが一番の薬だから」
そう答えながら、私自身がいつも通りの作り方を見失いかけていた。ある閉店後のこと、翔太君と厨房を磨きながら、私はぽつぽつと話した。
「翔太君、お店ね、多分今大変なの。詳しいことは私にも分からないんだけど」
「はい」
「でもね、この店は、何があっても守るわ」
磨き上げたステンレスに、自分の顔が映っていた。直が困っているなら、私も一緒に背負う。それが夫婦でしょ。
「翔太君、お給料のことは心配しないで。あなたの分は、私が畑を耕してでも払うから」
「畑、持ってないじゃないですか」
「借りるなよ」
翔太君がやっと笑った。その時だった。店と住まいをつなぐ廊下の床が、きしんだ。直には、誰もいなかった。階段の上で、寝室の戸が閉まる音だけがした。なんだ、いたなら顔を出せばいいのに。その程度に思って、私は掃除に戻った。あの床の音の意味を、私が本当に理解するのはずっと後のことになる。
数日後の朝、直が背中を向けたまま言った。
「弓、今夜、閉めた後で話がある」
一瞬、耳を疑った。直が私を「弓」と呼び捨てにすることも、「閉めた後で話がある」と切り出すことも、二十年の中で初めてのことだった。
「話なら、今聞くわ」
「…今は、いい。閉めた後だ」
直は振り返らず、のれんをくぐって店の外へ出て行った。朝の光の中で、その背中はやけに小さく見えた。私はカウンターの上がったまま、しばらく動けなかった。昨夜の廊下の床の音。あれは、何だったのだろう。
一日中、胸騒ぎが消えなかった。オムライスの卵を、九年で初めて破いた。八重さんに「顔色が悪いわよ」と心配される始末だった。
そして、夜が来た。のれんを仕舞い、看板の明かりを落とし、私はテーブルに着いた。向かいに腰を下ろした直の手には、折り畳まれた一枚の紙があった。夜の店は、別の建物みたいによそよそしかった。夕方までお客さんの笑い声で満ちていた空間に、冷蔵庫の低い唸りだけが響く。
直は、向かいの椅子でしばらく口を開かなかった。テーブルの一点を見つめる横顔は、この数ヶ月で一番疲れて見えた。やがて直は、その紙をテーブルの上で開いて滑らせた。緑色の枠、見慣れない書式。理解が追いつくまで、数秒かかった。
「何、これ?」
「見れば分かるだろう。離婚届だ」
「どうして? 私、何かした?」
「もう、お前と店を続けるつもりはない」
「冗談なら、笑えないわ」
「冗談で、こんな紙を出すか」
「お兄さんに、何か言われたの?」
「兄さんは関係ない」
即答だった。あまりに早すぎる即答だったけれど、その意味を掘り下げる余裕は、あの夜の私にはなかった。お前、さっきから。この人が私を「お前」と呼ぶのは、結婚してから一度も使われたことのない呼び方だった。冗談だと言って欲しくて夫の顔を見たけれど、直は窓の外の暗がりを見ていた。
「ちょっと待って。話が全然見えないわ。『店を続けない』って何? この店をどうするの?」
「閉める。もう、決めたことだ」
「決めたって、二人の店でしょ。翔太君は? パートさんたちは? 常連さんたちは、どうなるの?」
「関係ない。お前には、もう関係のないことだ」
直が立ち上がった。レジ裏の引き出しを開け、深緑の通帳を取り出して戻ってくる。母の家の分も入れてある、私名義の通帳だった。続けて、レジ横に置いていた私のキーホルダーから、家の鍵と店の鍵が指の力で外されていく。
「返して。それは私のお金よ」
「店も家も、俺の名義だ」
「名義の話なんてしてないでしょ。ねえ、私の顔を見てよ。何があったのか話してよ。お兄さんのこと、お金のこと。私も一緒に…」
「…お前には、話すことはない」
直は、やはり私を見なかった。テーブルの木目だけを睨んで、石みたいに動かない。私は尚も続けた。
「翔太君たちには、何て言うの? あの子、ここしか居場所がないのよ」
「俺から話す。お前が心配することじゃない」
「八重さんには? 商店街のみんなには?」
「もういいだろう」
テーブルを直の拳が打った。水のグラスが跳ねて、水が広がった。
「うるさいな」
低い声だった。初めて聞く声だった。
「この店も、お前の夢も、終わりだ」
息が止まった。「夢」という言葉を、この人はそういう風に使う人ではなかった。いつか私の名前をつけた店を出そうとまで言った人が、私の夢をゴミみたいに床へ払い落とした。
「お前の夢は、今日で終わりだ」
とどめのように、直は繰り返した。私の中で、何かの糸が切れた。怒りではなかった。悲しみとも違う。二十年かけて積み上げてきたものが、音もなく崩れていく感覚だった。頭の片隅で別の私が呆然と数えていた。ほんの半年前まで、この人は普通に笑って「おはよう」と言い、コロッケの試作を並んで味見していた。あの日々のどこにも、こんな夜の前触れなんてなかった。人の心は、こんな風に変わってしまうものだろうか。
「一つだけ教えて。私の料理も、この店で過ごした時間も、全部いらなかったの?」
「ああ。二度と、ここへ戻ってくるな」
直は、やはり私を見なかった。争う気力は、もう残っていなかった。何を言っても、この人はもう戻らない。長年連れ添った勘のようなものが、そう告げていた。直は私のバッグへも手を伸ばしかけたけれど、その手は途中で止まり、力なく下ろされた。バッグの中身は財布と携帯、それに母の形見の桜色の印鑑。通帳は奪われて、印鑑だけが手元に残った。あのため息が何を意味していたのか、その時の私に考えられるはずもなかった。
ペンを取るまでに、随分長くかかった。書けば終わる。書かなければ、何かが守れるのか。守れるものなど、もう何ひとつ思いつかなかった。私は震える指でペンを握り、署名欄に「杉浦弓」と書いた。その名前を書くのは、それが最後になった。
財布と母の形見の印鑑が入ったバッグと、着ていた服。持って出たのは、それだけだった。二階のタンスも、母から譲られた鍋も、レジ裏の壁の開店の日の写真も、何もかも置いたまま、私は九年間立ち続けた店の床を横切った。翔太君の顔が浮かんだ。「明日も来なさい」と言い続けた私が、翌朝からもういない。せめて一言、と思ったけれど、こんな顔では会えない。
戸口で、一度だけ振り返った。
「さよなら」
「…ごちそうさまも、言ってくれないのね」
直の肩が揺れた気がした。それでも、言葉は帰ってこなかった。店を出る。扉が閉まる寸前、背中の向こうで何かが崩れるような音がした。椅子でも倒れたのか。確かめる理由は、もう私にはなかった。振り返れなかったのではない。振り返らないと決めたのだった。
秋の夜風が、エプロンのままの体に染みた。商店街はもう眠っていて、街灯だけが感覚的に足元を照らした。九年間毎朝歩いた道。八重さんのシャッター、花屋さんの水の匂い。どの角にも思い出が張り付いていて、涙は駅の改札を抜けるまで待ってくれなかった。
その晩は、隣町の駅前の小さなホテルに泊まった。眠れないまま天井を見ていたら、鞄の中の桜色の印鑑のことを思い出した。
「苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のまま」
母の声が聞こえた気がして、私は声を殺して泣いた。泣きつかれてまぶたが落ちる寸前、ふと思った。あの人は最後まで、一度も「嫌いになった」とは言わなかった。その違和感に形を与えるには、あの夜の私は疲れすぎていた。
こうして私は、店と家と夫と、そして夢を一晩で失った。杉浦弓は、あの夜に死んだ。しばらくの間、本気でそう思って生きることになる。
翌朝、私は高校時代からの友人、八重子に電話をかけた。
「もしもし、弓? どうしたの、朝から」
「…八重子」
「弓?」
事情を話す途中で、声が出なくなった。八重子は最後まで聞かず、「住所、教えて」とだけ言った。その日の夕方には、彼女の家の食卓で、私は湯気の立つ雑炊を前にしていた。
「話は、それからでいい」
人に作ってもらったご飯で泣いたのは、母が亡くなって以来だった。夜、布団を並べて、八重子はぽつりと言った。
「ねえ、悔しくないの? 二十年よ。財産分与だって慰謝料だって、争えば取れるものがあるはずよ」
「悔しいって思う元気も出ないのよ。それにね、争う相手があの直なのよ。想像できる? 法律とかお金とか、そういう場所にあの人と並んで座るの。無理よ。私、あの人の作るナポリタンの味も、もやしの炒め方の癖も、知ってるのよ」
八重子は何か言いかけてやめ、私の布団を軽く叩いた。
「分かった。今はね、眠れなくても、目をつぶって」
八重子の家には三週間いた。その間に、離婚の後始末は淡々と進んだ。役所で手続きをして、私は杉浦弓から片岡弓に戻った。窓口の人が事務的に書類を切る間、母の印鑑のことを考えていた。苗字が変わっても、あんたが誰になっても。母は最初からこうなることまで見通していたのだろうか。まさかね。
八重子の家を出る前に、一度だけ実家へ行った。海辺の隣町の、母が残してくれた古い家。窓を開けると、塩の匂いと一緒に母の台所が目を覚ました。磨き込まれた流し、年季の入ったお玉。何一つ変わっていないのに、そこに立つ私だけが空っぽだった。
仏壇に手を合わせて、私は報告した。
「お母さん、ごめんね。店、なくなっちゃった。あなたの台所みたいな店にするって約束したのに、守れなかった」
仏壇の引き出しには、この家の権利書がそのままあった。直に言われた通り、誰にも渡さなかった家。売れば当面は暮らせる。でも、それだけはどうしてもできなかった。母の台所まで失ったら、私という人間の根っこが、今度こそ折れてしまう。だから家はそのままにして、自分の食いは自分で稼ぐと決めた。家の固定資産税だけは、新しい勤めの給料から納め続けた。
通帳のことも、考えなかったわけではない。私名義の口座だ。銀行に紛失を届け出れば、作り直せたのかもしれない。でも、あの銀行はあの商店街の隣にある。店の前を通らずには行けない場所だ。その町に戻る気力も、直と争う気力も、私には残っていなかった。それに、どうせと思ってもいた。店を閉めるほどのお金の問題があったのなら、私の預金なんてとっくに借金の穴埋めに消えているに違いない。そう思い込むことで、諦めの理由にした。
携帯には、翔太君からの着信が何度も残った。留守番電話も入っていた。
「弓さん、今、どこにいるんですか? 一度だけ、話せませんか?」
再生する度、指が通話ボタンの上で止まった。何を話せというの? 店を捨てて出ていった女が、今更あの子に何を? 結局、一度も出ないまま、私は番号を変えた。誰かの声を聞くたびに、あの町の暮らしを思い出してしまうから。翔太君の番号が最後まで画面に残っていて、消す時、指が震えた。ごめんね。あなたの明日を作ってあげられなくなった私に、かける言葉なんてないの。
一ヶ月後、私は電車で一時間離れた隣の県に、六畳一間のアパートを借りた。四十六歳。道具はダンボール三つ。それが私の再出発だった。
初めての一人暮らしの部屋は、時計の秒針の音が夜けに大きく聞こえた。夕方になると、隣の部屋から味噌汁の匂いが流れてくる。誰かの夕飯の匂いというものが、こんなに人を寂しくさせるなんて、知らずに生きてきた。
仕事はまず、飲食店を探した。二十八年、料理だけやってきたのだ。それしかできることがない。面接を受けた料理屋で、「試しに一品作って欲しい」と言われた。厨房に立ち、包丁を握った。まな板の上には玉ねぎ。いつも通り、何万回もやってきた仕事のはずだった。
できなかった。玉ねぎの白い断面を見た瞬間、日向の厨房が蘇った。隣で鍋を振う直の背中。翔太君の「いらっしゃいませ」。八重さんの笑い声。潰れかけの玉ねぎを取り分けたあの意地。全部が一度に押し寄せて、手が動かなくなった。
「大丈夫ですか?」
店長の声で我に返った。まな板の上に、涙が落ちていた。私は包丁を置いて頭を下げ、その店を出た。それから、料理の仕事は探さなくなった。
スーパーの品出しの仕事を見つけた。夜は、オフィスビルの清掃。黙々と棚に牛乳を並べ、黙々と床を磨く。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済んだ。一度だけ、弁当売り場の応援に回された日があった。並べる商品の中に、オムライス弁当があった。ラップ越しの黄色い卵は、機械で巻いた綺麗な卵焼きだった。
「この形、じゃないのね」
そんなことを思った瞬間、目の奥が熱くなって、私は慌てて別の棚に移らせてもらった。
ある夜、清掃先の管理人さんに声をかけられた。
「片岡さんの磨いた床は、艶が違うね。手際もいいし。あんた、前は何か商売でもやってたの?」
「いえ」
「そうかい。料理とかやらせたら、うまそうな手をしてるがなあ」
何気ない世間話に、その夜は眠れなかった。やらせたら、やっていたんです。九年、自分の店で。喉の奥で言えなかった言葉が、もう痛かった。パートの小さな台所には、鍋の一つもなかった。夕飯は切り身の惣菜。母が知ったら、悲しむだろう。分かっていても、火の前に立つ気力が湧かなかった。料理は人を生かすなら、料理を失った私は、何で生きればいいのだろう。
八重子は月に一度、電話をくれた。話すことなんて何もないのに、欠かさず三十分付き合ってくれる。
「今度の休み、映画でも行かない?」
誘いは毎回、やんわり断った。楽しむということが、うまく思い出せなかった。
品出しの休憩室では、パートさんたちの雑談を聞くともなしに聞いた。誰かのお姑さんの話、誰かのお孫さんの話。相槌だけ打って、自分の話は何もしなかった。
「片岡さんは、聞き上手ね」と笑われた。違うのよ。話せることが、何もなかっただけ。
そうやって一年が過ぎた。そして、冬の初め。風の便りが、とどめを刺しに来た。その知らせは、八重子からの電話で届いた。
「弓、あのね、落ち着いて聞いてね。日向、閉めたんだって」
「え?」
「商店街の知り合いから聞いたの。もうだいぶ前から、シャッターが降りたままなんだって」
スマートフォンを持ったまま、私は台所の床に座り込んだ。閉める、とあの夜、直は確かに言った。でも、心のどこかで信じていなかったのだ。あの人は、あの店を私と同じくらい愛していたはずだから。翔太君がいる。パートさんたちがいる。常連さんたちの毎日の笑い声が、あそこにはあったはずだから。
「ねえ、それで、直さんのことなんだけど」と八重子は言いにくそうに続けた。「杉浦食品って、お兄さんの会社だったわよね。あそこ、潰れたらしいのよ」
「潰れた?」
「それだけじゃないの。警察が入ったとか、社長が捕まったとか、そんな噂まであって。本当のところは、誰も知らないんだけど」
「警察? 捕まった?」
言葉の意味が、うまく像を結ばなかった。あの、いばり散らしていた隆さんが。
「だったら、直は? あの人は、今どこで何をしているの?」
「直さんの行方は、誰も知らないって。家も店も、人手に渡ったって聞いた」
「弓、大丈夫? 私、余計なこと言ったかしら?」
「うん。教えてくれてありがとう。知らないでいるより、ずっといい」
「あんたがそういう時は、大丈夫じゃない時よ」
八重子の声は、閉めっていた。お礼を言って電話を切った後、私は長いこと動けなかった。不思議なことに、隆さんが捕まったかもしれないと聞いても、「ざまあみろ」とは思えなかった。胸に広がったのは、暗い穴のような感覚だけだった。あの店を追われ、家を失い、それで悪い人にバチが当たったとして、私の九年は戻らない。誰かの転落は、私の何も埋めてくれない。
それよりも頭を離れないのは、店のことだった。誰も彼も行方が分からないのなら、あの建物は、あの厨房は、誰にも磨かれない鍋たちは、どうなってしまったの? 南向きの窓、不揃いの椅子、母の台所と同じ木の板。八重さんの指定席だった窓際の二人掛け。あの空間が、暗がりの中で埃りをかぶっている。想像しただけで、体の芯が冷たくなった。
電話の最後に、八重子は言ってくれた。
「ねえ、うちに来ない? 部屋、余ってるのよ。一人でいるの、良くないわ」
「ありがとう。でも、大丈夫」
強がりばっかり。強がりでもなかった。人の温かさに触れると、崩れそうだったのだ。堤防は、遠くから守るくらいでちょうど良かった。
年が明けて、離婚から二度目の正月は、海辺の実家で一人で越した。母の台所で煮物を焼くつもりだったのに、結局コンビニのおにぎりを二つ食べて、火は使わなかった。夜、仏壇の前でぼんやりしていたら、遠くで除夜の鐘が鳴った。
「お母さん、私、何のために生きてるのかしらね」
仏壇の母は、写真の中で笑っているだけだった。
一度だけ、店を見に行こうとしたことがある。二年目の春。電車に乗って、あの町の二つ手前の駅まで行った。そこから先へ、足が動かなかった。ホームのベンチに一時間座って、上りの電車で帰った。シャッターの降りた店を見てしまったら、今度こそ立てなくなる。それが分かっていたから。
職場では、片岡さんの名前にもすっかり慣れた。新しく入った若いパートの子に品出しを教えると、その子は「片岡さんの教え方、分かりやすいです」と笑った。
「まずは、明日も来なさい」
喉まで出かかったあの言葉を、私は飲み込んだ。あの言葉は、私が使っていい言葉じゃない。もう教える店を持たない私が、使っていい言葉じゃないのだ。
八重さんの誕生日も、忘れられなかった。店の手帳に書き留めた常連さんの誕生日のうち、八重さんのそれだけは、手帳がなくても覚えていた。三月の初め、その日、私は仕事帰りにスーパーでプリンを一つ買い、アパートで一人で食べた。
「八重さん、お元気ですか? あの店の誕生日プリンは、もうどこにもないんです」
プリンの容器を洗いながら、気づいてしまった。人のために作る料理どころか、誰かと囲む食卓すら、私の毎日から消えて久しい。母が見たら、一番悲しむのはきっとそこだろう。
生活は変わらず続いた。品出しと清掃と、見切り品の惣菜。だけがめくれていく。四十七歳になり、四十八歳になった。白髪が増えた。手の甲の火傷の跡だけが、料理人だった頃の名残りだった。風呂で湯に浸かる度、その跡が目に入る。フライパンの縁で作った古い跡。翔太君に「勲章ですね」と笑われた跡。消えてくれたら忘れられるのに、体は覚えて痛がった。
直を憎んでいたかと聞かれたら、今も答えにつまる。憎もうとした。憎めたら、どんなに楽だっただろう。でも、夜中にふと浮かぶのは、ひどい言葉を吐いたあの夜の顔ではなく、湯気の向こうで「うまいなあ」と笑った顔の方だった。それが一番、苦しかった。
夜、布団の中でたまに夢を見た。夢の中で、私はいつも厨房にいて、オムライスを巻いている。卵は綺麗な俵形になって、誰かが「うまいな」と笑う。目が覚めると、六畳の天井があった。私の夢は、本当にあの日で終わったんだ。声に出さずにそうつぶやく朝が、いつからか癖になっていた。つぶやく度、桜色の印鑑がバッグの底で小さく鳴った。弓は弓のまま。母の声も、遠くなっていた。
三度目の夏には、清掃の契約が一つ増えた。貯金通帳の数字は、少しずつだが増えていく。生きるためだけの数字。夢のための「店」と書かれた紙が貼られたあの通帳とは、違う数字だった。
そして、季節が三度巡り、三度目の秋が来た。金木犀が香る頃だった。その日、アパートの郵便受けに、一通の封筒が入っていた。白い、何の変哲もない封筒だった。宛名は「片岡弓 様」。丁寧な、でもどこか力強い字。裏を返して、手が止まった。差出人の名前がない。判だけが押されていて、そこにはあの町の名前があった。
部屋に上がるのも忘れて、玄関先で封を切った。中から出てきたのは、一枚の写真と一枚のメモだった。写真を見て、息が止まった。若い直と若い私が、真新しい看板の下に並んでいる。直は硬い顔で、私は笑いすぎて目が線になっている。開店の日、八重さんが撮ってくれたあの一枚だ。レジ裏の壁に、九年間かかっていた額の中の写真。私が置いてきてしまった、思い出の一番深いところにあった一枚だ。
添えられたメモには、宛名と同じ丁寧な字で、一行だけこう書いてあった。
「あなたの夢は、まだ終わっていません」
それだけだった。説明も、署名も何もない。誰が、何のために、閉めたはずの店の写真を今更。
分からないことだらけなのに、たった一言が、動かなくなっていた私の心を指先でついた。夢は終わっていない。終わったのだ。あの夜、あの人がそう宣告して、私も署名して、全部終わったはずなのに。
それなのに、その夜は眠れなかった。次の日も、その次の日も、封筒はテーブルの上に置かれたままだった。仕事へ行き、帰ってきて封筒を見る。写真を出してしまい、メモを読んで伏せる。三日目の夜、私はとうとう声に出した。
「見るだけ。見るだけよ」
その同じ夜、八重子にも電話で打ち明けていた。
「写真とメモ? 何それ。誰から?」
「分からない。分からないから、怖いの」
「弓、行ってきなさいよ」
「え?」
「三年間、あんたはあの町から逃げてきた。逃げるのが悪いとは言わない。でもね、差出人はきっと、あんたに来て欲しい人よ。悪意のある人間は、開店の日の写真なんて選ばない」
受話器の向こうの声は、迷いがなかった。
シャッターの降りた店を一目見て、それで終わりにする。この空白の日々に、自分でけじめをつけるのだ。そう自分に言い訳をして、四日目の昼、私はあの町へ向かう下りの電車に乗った。
電車で一時間。窓の外の景色が、駅ごとに記憶と重なっていく。二つ手前の、あの引き返した駅を過ぎる時には、膝の上で拳を握っていた。降りてしまえば楽になれる。そんな弱気は、窓に移る自分の顔ごと振り払った。膝の上のバッグには、あの封筒と母の印鑑が入っていた。お守りは、ちゃんと持ってきた。
昼下がりの車内は空いていた。あの夜、泣きながら改札を抜けた自分を思い出す。あの夜の私は、エプロンのままだった。今の私は、よそ行きのブラウスにアイロンをかけてきた。どうしてそんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。
改札を出ると、金木犀の匂いがした。何一つ変わらない、あの町の秋の匂いだった。商店街は、記憶より少し古びていた。八百屋さんの店先には変わらず段ボールが積んである。花屋さんの水の匂いも、そのままだった。うつむき加減に歩く私に、気づく人はいなかった。
八百屋さんの店先で、ご主人が客と立ち話をしていた。とっさに、私は電柱の影に身を寄せた。合わせる顔がない。三年前、挨拶一つなく消えた人間に、この商店街を歩く資格なんてない。ご主人が店の奥へ引っ込むのを待って、私は足早に通りを進んだ。
角を曲がれば、店が見える。足が止まった。心臓が痛いほどなっていた。シャッターと、色褪せた「日向」の看板。見えるのは、そのはずだった。三年間、想像の中で描いてきた、誇りをかぶったあの姿の、はずだった。
私はゆっくりと角を曲がった。
そこにあったのは、まったく別の光景だった。建物が、生きていた。同じ場所で、呼吸を取り戻していた。外壁は塗り直され、木の窓枠は新しくなり、入り口では見覚えのない藍色ののれんをかけようと、誰かが脚立に乗っている。窓越しの店内には明かりが灯り、白いシャツの人影がいくつも立ち、働いていた。テーブルを拭く音、椅子を並べる音。あの南向きの窓から、午後の光が床に伸びているのまで見えた。
呆然と見上げた視線の先に、それはあった。真新しい木の看板。掘り込まれた文字に、西に傾き始めた日差しが当たっていた。
「弓の料理屋 帰り道」
読み間違いかと思った。瞬きをしてもう一度読んだ。読み直しても、同じ文字がそこに並んでいた。私の名前が、看板の一番上に、一番大きく掘られていたのだ。二十年近く前、恥ずかしいからと私が断った、あの名前が。
「どうして…」
声が勝手に漏れた。弓。私の名前だ。見間違いでも、同じ名前の誰かでもない。その証拠に、看板の隅には小さく、この俵形のオムライスの絵が掘られていた。私が九年焼き続けた、あの俵形だった。
どうして。誰が。私の名前を。立ち尽くす私の前で、店の扉が開いた。白いコックコートの男の人が、飛び出すように出てきて、そして固まった。記憶よりずっと逞しくなった。でも、間違いのない顔だった。
「…弓さん?」
翔太君だった。目に見る見る涙が盛り上がって、彼は深々と頭を下げた。
「やっと、やっと来てくれたんですね」
翔太君。それ以上は、言葉にならなかった。翔太君は店の中へ振り向いて、大声で叫んだ。
「みんな、来て! 弓さんが、帰ってきた!」
窓の向こうの人影が、一斉にこちらを向いた。飛び出してきたのは、パートだった雅代さんと恵さんだった。二人ともエプロンのまま、私に抱きついて、わんわん泣いた。
「弓さん、弓さん、心配したんですよ! どこにいたんですか!」
三年ぶりに立つ店の前の通りだった。通りがかりの人が何事かと振り返る。私はもみくちゃにされながら、まだ看板を見上げていた。弓の料理屋。誰が、どうして?
「翔太君、教えて。これ、どういうこと?」
「中で話します。全部、最初から。お帰りなさい、弓さん」
導かれるまま、私は三年ぶりに店の敷居をまたいだ。のれんをくぐる一歩に、これほど勇気のいる日が来るなんて。息を飲んだ。新しくなっていた。でも、同じだった。壁は塗り直され、床板は張り替えられ、椅子もテーブルも新品になっている。それなのに、配置がそっくりそのままだった。
南向きの窓のそばに四人掛けが二つ。奥に座敷。カウンターは同じ木の色。窓際には二人掛けの席。八重さんの指定席だ。厨房を覗けば、コンロも作業台も、私が使っていた頃と同じ場所に収まっていた。目をつぶって歩いても、どこにもぶつからない自信があった。
厨房の壁を見て、また涙腺が緩んだ。私の古いエプロンが、洗い上げられてかけてあった。この夜着ていた一枚とは別の、厨房にかけたまま出た洗いだ。洗いすぎて色の抜けた布地に、焦げ穴が一つ。捨てられて当然のボロ切れを、誰かがずっと洗って守っていた。
「座ってください。お茶、入れますから」
雅代さんが座敷に座布団を並べ、恵さんが湯呑みを運んでくる。翔太君は私の向かいに正座して、膝の上で拳を握った。
「どこから話せばいいのか…」
「『最初から』って言ったでしょ」
「はい。最初からですね」
翔太君は一度目を閉じて、話し始めた。
「あの日の翌日です。社長が、直さんが、俺たちを店に集めました」
閉店を告げられると思ったと、翔太君は言った。売上は落ちていないのに店の空気はおかしかったし、何より私が消えた。只事じゃないことくらい、誰にでも分かった。
「直さんは俺たちの前で、床に手をつきました。土下座なんて、あの人がするところを初めて見ました。そして、こう言ったんです。『弓を守るため、店を一度閉めます。俺は弓に恨まれることをしました。でも、あの人の夢だけは、終わらせたくない』」
意味が分からなくて、俺、直さんの胸ぐらを掴んだんです。と翔太君は言った。
「『弓さんを守るってなんだ? あんたが弓さんを追い出したんじゃないのか』って。そしたら、直さん、抵抗もしないで。ただ、『その通りだ』って」
退職金は最後の一円まで払われた。次の職場も、直が紹介する「報恩」へ頭を下げて世話をした。翔太君は隣町の料理屋に移った。その別れ際、直は翔太君にだけ、こう頼んだのだという。
「いつか、必ず弓の店をもう一度開ける。その時、あの人の味を隣で支えられるのは、お前しかいない。だから頼む。腕を落とさないでくれ」
「俺、わけも分からないまま、約束しました。それから三年、隣町で働きながら給料を貯めました。向こうの親方はいい人でしたけど、俺、賄いを作るたびに思うんです。『味の直し方、弓さんならどう言うかな』って。忘れないように、弓さんに教わったことは全部、ノートに書きました。三冊になりました」
翔太君は、使い込まれた大学ノートを三冊、卓の上に積んだ。表紙には「日向の味」と書いてあった。ページの端はどれも油を吸って丸くなっていた。働く人間の手が繰り返し開いてきた形だった。
「雅代さんも恵さんも、同じです。みんな、いつかこの店に戻るつもりで、散らばったんです」
雅代さんがお茶を注ぎ足しながら言った。
「私たちね、月に一度はここに集まってたんですよ。閉まったままの店の前を掃除して、いつ再開してもいいようにって。八重さんも、杖をつきながらいらしてね。看板が上がった日なんて、あの人、通りの真ん中で泣いてらして」
「八重さん、お元気なの?」
「ええ。口の達者なのも変わらず。弓さんが帰ってきたって知ったら、飛んでいらっしゃるわよ」
湯呑みの中で、お茶が揺れていた。私の手が震えているせいだった。
「でも、でも、店は人手に渡ったって…」
「はい。建物は一度、売られました。買ったのは、駅前の不動産屋さんです」
翔太君が続けた。
「黒田さんが、銀行の支店長さんが、間に立ってくれました。事情を全部話して、『いつか店として貸して欲しい』って。不動産屋の社長さん、うちの常連だったんですよ。初カレーの大盛を毎週金曜日に食べに来てた。あの、カバンが大きい人です。福神漬け大盛が合言葉だった。あの人が、この建物を買って、待っていてくれたんです」
「開店資金は、俺たちの三年分の貯金です」
「開店資金? だって、それは…」
「開店の資金は、弓さん名義で貸し出されるように、黒田さんが銀行の融資を整えてくれています。あとは、店主が戻るのを待つだけでした」
「どうして…」
声が裏返った。どうして、そこまで。翔太君たちには、迷惑しかかけていないのに。
「迷惑?」
翔太君は初めて、怒ったような顔をした。
「弓さん、俺はこの店に拾われたんです。『すぐやめます』と言った俺に、『明日も来なさい』と言い続けてくれた人がいたから、今の俺があるんです。この店は、俺たちに料理を教えてくれた、弓さんの店です。だから、看板には弓さんの名前が必要だったんです」
それから翔太君は、あのメモと同じ丁寧な字で「あなたの夢は、まだ終わっていません」と書かれた下書きの紙をポケットから出して、広げた。
「写真も、俺です。勝手にすみませんでした。住所は、商店街の八百屋のご主人に頼んで、八重子さんって方を探し当てて、頭を下げて教えてもらいました。看板が上がるまでは、弓さんに黙ってて欲しいって、俺がお願いしたんです」
そうだったのか。八重子も、全部知っていたのか。
「ただ、これだけは先に言わせてください」
翔太君は畳に手をついて、頭を深く下げた。
「直さんが何を守ろうとしたのか、俺の口からじゃなく、ちゃんと順番に聞いて欲しいんです。もうすぐ来ますから」
守る。また、その言葉だった。あの夜、私から全てを奪った人が、一体、私の何を守ったというのだろう。
それから三十分も経たないうちに、店の前に一台の車が停まった。降りてきた人を見て、私は座敷で腰を浮かせた。白髪の紳士。商店街の隣の銀行の、黒田支店長だった。店の口座を作った日からの付き合いで、月末になると窓口の奥から「弓さん、今月もご苦労様です」と声をかけてくれた人だ。
「弓さん、お久しぶりです。お帰りなさい」
黒田さんは深々と一礼して、座敷の向かいに正座した。翔太君から知らせを受けて、前の日から連絡を入れていたらしい。六十歳になったというその人は、三年分年を取ってでも、目の光は昔のままだった。
「翔太君から、どこまで聞きましたか?」
「店を閉めた経緯と、この店の再開の準備のことまで。でも、肝心なことはまだ何も」
「直が私の何を守ったのか、あの夜、何があったのか」
黒田さんは頷いて、湯呑みを置いた。
「三年前の夏です。直さんが、閉店後の私を尋ねてきました。顔色は、今も忘れられません。髪のように白かった」
直が最初に手にしたのは、よその銀行から届いた一通の書類だったそうだ。直名義の借入金の返済予定表。身に覚えのない額だった。血の気が引いて調べ始め、行き着いた先が、実の兄だった。直が差し出したのは、その借入金の書類の束だったという。
「お兄さんは、店の経理と印鑑を預かる立場を利用していました。直さん名義の借入金が、二千万円。店とご自宅が担保、つまり返せなければ、建物ごと取られる形です。杉浦食品からの仕入れには、実態のない水増し請求が上乗せされていました」
そして、黒田さんはそこで一度言葉を切った。
「連帯保証人の欄に、弓さん、あなたの名前がありました。あなたの筆跡を真似た、偽物の署名です。印鑑も、勝手に知らないものにすり替えられていました」
私の、自分の声が他人のもののように遠く聞こえた。印鑑を預かるというのは、そういうことだったのだ。名前も、指一本動かさないまま、私は二千万円の借金を背負う「紙の上の人間」にされていた。
「はい。あなたは何も知らないまま、保証人に仕立て上げられていたんです。それだけじゃありません。隆さんは、弓さん名義の預金や、お母様が残された家のことまで調べていました。いざとなれば、そちらも差し出させればいい。そういう目論見だったようです」
「権利書、どこにある?」「大事にしまっとけよ」「誰にも渡すなよ」。あの妙な注意の意味が、三年越しに音を立てて繋がった。あの人は、あの時もう気づいていたのだ。母の家にまで伸びかけていた、義兄の手に。
「直さんは、隆さんを問い詰めたそうです。帰ってきた言葉を、私は直さんから聞きました。『夫婦なんだから、借金も一緒に背負えばいい。店が潰れたら、弓の実家を売れば済む話だ』」
それを聞いて、直さんは覚悟を決めたと言っていました。と黒田さんは静かに続けた。
「実の兄は、弟の家族を財布としか見ていなかった。恩を返し続けてきた相手の正体が、それだった」
それから直さんは、弁護士の真辺先生を交えて、何度も相談を重ねた。真辺先生の事務所で、一晩中一言も喋らなかった日もあったそうです。真辺先生の見立ては、こうです。署名が偽物である以上、争いは勝てる。ただ、争いになれば時間がかかる。その間、弓さんの口座やご実家が仮差し押さえ、つまり裁判の間凍結されて、動かせない状態にされかねない。
「だから」
「はい。店を畳んで、証拠を固めて。隆さんの手が届く前に、弓さんを店の経営からも、杉浦の家からも、切り離す。それが、直さんの選んだ道でした」
「待ってください」
私は言った。
「守る方法なら、他にもあったはずでしょう。どうして、離婚まで?」
黒田さんは、すぐには答えなかった。翔太君と、目を見交わした。
「それは、私の口からお答えすることじゃない。ただ、事実だけお伝えします。真辺先生があげた選択肢に、離婚は入っていました。ですが、先生は最後まで、進めてはいません」
含みのある言い方だった。進められてもいないのに、あの人は選んだということか。
その後のことは、黒田さんが淡々と教えてくれた。直は警察に告訴し、騙し取られた側の銀行も被害届を出した。隆さんは、私が町を出た年の暮れ、書類偽造などの疑いで逮捕された。会社は破産し、裁判で実刑になり、今も刑務所の中にいるという。
「騙し取られた金は、裁判で杉浦食品側へ請求されました。それでも足りない分は、直さんが財産を売って、最後の一円まで弁済したな。最難でしたな。それで、済ませてはいけないのでしょうが、隆さんの悪意は、一つ残らず記録の上で清算されました。弓さんが手を汚す必要も、心を抉られる必要もない相手です」
不思議なくらい、胸は波立たなかった。隆さんの転落は、遠い国の出来事のように聞こえた。それよりも、たった一つの問いが胸の中で膨らみ続けていた。守られていた。それは分かった。でも、どうして直は、私に一言も話してくれなかったんですか?
黒田さんと翔太君が、また目を見交わした。
「それをお伝えするには、まずお返しするものがあります」
黒田さんが膝元の鞄を引き寄せ、中から布の包みを取り出した。両手で、うやうやしく。包みの中から出てきたものを見て、私は目を疑った。通帳だった。深緑の表紙の、あの銀行の通帳。角が少し丸くなった、十年以上使い込んだ、私名義の通帳だった。
「これ、私の…」
「はい。弓さんの通帳です。あの夜のままの」
受け取る手が、うまく動かなかった。この深緑の表紙を最後に見たのは、あの夜、直の手の中に消えていく瞬間だった。諦めて、忘れたことにして、思い出の底に沈めた一冊だった。
「あの夜、直さんが奪ったものです。離婚の翌朝、一番に直さんは、真辺先生の事務所へこれを持ち込みました。預かり証を交わして、金庫で保管してもらうためです。ご自分の手元には置かない。兄の手にも、絶対に渡さない。弓さんが取りに来られる日まで、第三者の金庫で守る。それが、条件でした」
「守る? だって、あの人、私のお金だって分かってて、私から取り上げて…」
「ええ、取り上げなければならなかったんです。あの家から一番先に、消えるべきものだったから」
黒田さんは、静かに言った。
「考えても見てください。印鑑も帳簿も握っていた隆さんの、目と鼻の先に、弓さんの通帳が置かれたままだったんですよ。印鑑がお手元にある以上、簡単には下ろせません。ですが、相手は人の署名を偽造して金を奪う男です。手がかりの一つでも、あの家に残しておきたくなかったのでしょう」
言われて、ぞっとした。あの人は、レジ裏の引き出しも、二階のタンスも、我が物顔で開ける人だった。
「今朝、真辺先生の了承を得てお預かりしましてね。その足で、記帳を済ませてきました。三年分まとめて、間違いがないよう、窓口で一行ずつ打たせました。随分、長くかかりましたよ」
黒田さんはそこだけ、口元だけで笑った。
「中をご覧なさい」
震える手で、私は表紙を開いた。見覚えのある数字の並びの最後に、あの十月の残高がある。三百二十万円。母の家の固定資産税や修繕のために取り分けてきたお金と、料理屋の勤め時代からコツコツ貯めた、私のお金。借金に消えたと思い込んで、諦めた数字だった。それが、そっくりそのまま、そこにあった。
その下に、数字は続いていた。翌月の十五日、杉浦直。その翌月の十五日、杉浦直。そのまた翌月も、同じ名前が、定規で引いたように毎月十五日の行に並んでいる。ページをめくっても、めくっても途切れない。金額は月ごとに増減しながら、一度も、ただの一度も欠けることなく、三年分。
二年目からは、夏と冬に一回り大きな数字が並ぶ。ボーナスの月だと気づいた瞬間、視界が揺れた。ボーナスなんて出る暮らしじゃなかったはずだ。それでも、その月だけは、余計に入れずにいられなかったのだ。最後の行の残高は、六百八万円になっていた。
減るどころか、増えてる。
「どうして…」
「直さんの言葉を、そのままお伝えします」
黒田さんは背筋を伸ばした。
「『このお金は、一円も俺のものじゃありません。弓が店で働いて得た金と、まだ渡せていなかった弓の取り分です。何年かかっても、必ず本人に返してください』。そう言って、あの人は毎月、振り込み続けました」
「取り分」というのは、店の建物を処分したお金のうち、私に渡るべき分という意味だそうだ。
店の名前のことも、黒田さんは教えてくれた。「日向」の名前は、真辺先生が先に商標の出願だけ済ませて抑えていて、私の名義に移す手続きは、私の承諾を待って仕上げる形にしてあるという。誰にも、二度と店の名前を勝手に使わせないために。
「私、そんなこと、何も頼んでいません」
「ええ。だから、何一つ完了していないんです。お金も、名前も、この店も。あなたが受け取ると決めるまで、全部が途中で止めてある。あなたの人生を、あなたの承諾なしに動かさない。それが、直さんなりのけじめだと、私は受け取りました」
遅すぎるけじめだ。そう思った。あの夜に同じことができたなら、三年なんていらなかったのに。
「直さんはね、弓さん」
黒田さんの声が、初めて凄んだ。
「三年間、一番安い部屋に住んで、一番安い飯を食って。それでも、十五日の振り込みだけは、欠かさなかった。私はね、銀行員として四十年、いろんなお金を見てきました。綺麗な金も、汚い金も。でも、この通帳の三年分ほど、人の祈りみたいな金は、見たことがない」
通帳のページの間に、小さな紙が挟まっていた。折りたたまれたメモ用紙。開くと、見慣れた下手くそな字があった。伝票の裏に、メニューの思いつきを書き殴っていた、あの字だった。
「これは、君の人生だ。俺には、奪う権利はない」
文字が、滲んで読めなくなった。メニューの試作を書きつける時、あの人はいつも語尾の棒を跳ねる。この字の最後も、癖のまま跳ねていた。こんな短い走り書きにまで、あの人の二十年が滲んでいた。
気づけば、私は通帳を胸に抱きしめていた。声を上げて泣くのは、三年ぶり。分かっているのに、止まらなかった。翔太君も、雅代さんたちも、誰も何も言わずに、私が泣き止むのを待っていてくれた。
「勝手よ…」
しゃくり上げる合間に、言葉がこぼれた。
「勝手だわ。あんまりだわ。守るなら、守るって。どうして一言…。私、一緒に背負いたかった。背負わせて欲しかったのよ」
誰も答えなかった。答えは、この場の誰のものでもなかったから。
窓の外は、いつの間にか夕暮れになっていた。南向きの窓から差し込む茜色が、テーブルの木目を照らしている。九年間、何千回も見た店の夕方の光。その光の中で、私は通帳を抱えたまま、長いこと座っていた。
奪われたと思っていた。全部、奪われたと思っていたのに。お金も、店の名前も、そして夢も。何一つ欠けないまま、ずっと守られていた。
それでも、涙の底から、小さな棘のような問いがもう一度、頭をもたげた。だったら、なおさら。どうして。どうしてあの夜、一言言ってくれなかったの? 一緒に戦わせてくれなかったの?
「直さんが、今どこで何をしているのか」
それも含めて、黒田さんは厨房の方へ目をやった。
「あと一つだけ、弓さんにお渡しするものがあります」
翔太君が立ち上がって、厨房を指さした。
「厨房に、手紙が置いてあるんです。直さんから、弓さんへの。厨房の作業台の引き出しに、それは入っていました。白い封筒。表には『弓へ』とだけ。裏には何も書いていないけれど、差出人は間違いようがなかった。語尾の棒を跳ねる、あの下手くそな字だった」
「直さんから預かったのは、半年前です。店の開店が決まった日でした」
翔太君がそっと、言った。
「『弓さんが来たら、厨房で渡して欲しい』って。『ここが、弓さんの帰る場所だから』って」
みんなが座敷へ下がって、厨房には私一人が残された。夕方の光の中で、私は封を切った。便箋が、何枚か折り重なっている。
「弓へ」
この手紙を君が読んでいるなら、君はあの店の厨房に立っている。それだけで、俺には十分すぎる。三年前の夜のことを、順番に話す。言い訳になることを承知で、それでも君には全部を知る権利がある。兄の不正に気づいた経緯、偽物の署名、母の家まで狙われていたこと、真辺先生と黒田さんに相談したこと。そこまでは、昼間に聞いた話と重なっていた。そして、手紙はあの問いに触れた。
「真辺先生は、離婚しろとは一度も言わなかった。弓と二人で戦う道もあると、最後まで言ってくれていた。それを選ばなかったのは、俺だ。あの秋の夜、廊下で聞いてしまったんだ。君が翔太に言っていた。『この店は、何があっても守る。直が困っているなら、私も一緒に背負う。それが夫婦でしょう』」
あの、廊下の床の音。やっぱり、あの夜の廊下に、この人はいたのだ。
「嬉しかった。そして、心の底から怖くなった。君に事情を話せば、君は必ず『一緒に戦う』と言っただろう。借金も、裁判も、兄の悪意も、全部半分に背負おうとしただろう。君はそういう人だ。二十年隣にいた、俺が一番よく知っている。裁判は何年かかるか分からないと言われた。その間、君を差し押さえの恐怖と、警察と、兄の顔と同じ世界に立たせておくのか。お母さんの家まで担保にされかけている事実を、君に背負わせるのか。考えるほど、分からなくなった。だから俺は、君が俺を嫌いになる方法を選んだ。憎ませて、遠ざけて、あの泥沼から君だけを外へ出す。それしか、思いつかなかった。守ったつもりだった。でも、本当は君を信じる勇気がなかっただけかもしれない。一緒に戦おうと言ってくれる君を信じて、隣で戦い抜く勇気が、俺にはなかった」
便箋の上に、ぽたりと落ちるものがあった。自分の涙だと、一拍遅れて気づいた。
「兄が捕まった後、すぐにでも君に話に行くべきだった。それも分かっていた。だが、行けなかった。店を潰し、君の人生を勝手に決めた男が、どの面下げて会いに行く。せめて店を、君に返せる形に戻すまでは。そう決めて、翔太たちと準備をしてきた。振り込みの金は、最初の一年は俺の蓄えから。建物を売ってからは、残った金と今の職場の給料から出している。心配しないでほしい。兄を告訴する書類に判をした夜、初めて酒に酔えなかった。血の繋がった人間を、警察に売る。そうしなければ、君を守れない。あの夜の俺には、どちらの顔も残っていなかった。建物を明け渡す前の晩は、一人で厨房を磨いた。九年分の油の焦げつきを落としながら、ここで君が焼いたオムライスの数を考えた。数えきれなかった。明け渡しの朝、鍵を不動産屋に渡す手が、離婚届に判を押した時より震えた。お母さんの仏壇には、まだ手を合わせに行けていない。台所みたいな店を作ると誓った娘の店を、俺は一度潰した。合わせる顔ができたら、真っ先に詫びに行く。店も通帳も鍵も奪った俺を、許して欲しいとは言わない。翔太たちには、返しきれない借りができた。生意気だが、あいつらは本物だ。あいつらを、頼む。ただ、君の夢だけは、君に返したかった。いつか看板に君の名前をつけるという約束だけは、守らせてほしい。あの夜、君が出て行った後、俺は床に座り込んで立てなかった。扉の向こうの君に聞こえていないことだけを祈った。あんな音を残して、すまなかった」
あの、何かが崩れるような音。ずっと耳の底に残っていた音の正体は、崩れ落ちた夫の体の音だった。
手紙の最後に、短い一文があった。
「俺は今、南の港町の水産加工場で、社員食堂の調理場に立っている。元気でやっている。君が幸せなら、それでいい」
工場の名前と、町の名前が書き添えてあった。
読み終えて、もう一度、最初から読んだ。二度目は、ぼんやりしていた。一番安い部屋で、この便箋に向かう、猫背が見えた。書いては消し、消しては書いたのだろう。所々、擦れて薄くなっている。私は手紙を折りたたんで封筒に戻した。それから厨房を見回した。磨かれたコンロ、真新しい作業台、壁にかかる私のエプロン。そして、ここへ帰ってくるはずのない私を待ち続けていた人たち。
守られていた。それは、もう疑いがなかった。でも、と私は思う。手紙を胸に当てたまま、はっきりと思う。守るためだったとしても、何も説明せず、私の人生を勝手に決めたことは、間違いだ。一緒に背負うと言った私の言葉を、あなたは聞いていたくせに、信じなかった。私から奪ったのは、店でも通帳でもない。あなたの隣で戦う、その資格だ。
会いに行こうと思った。怒るためなのか、礼を言うためなのか、自分でも分からないまま。それでも、会って、この目を見て、言わなければならないことがある。
座敷へ戻ると、翔太君たちが心配そうに私を見上げた。泣きはらした顔のまま、私は言った。
「翔太君、私、行ってくるわ」
「はい。行ってらっしゃい」
行き先は、聞かれなかった。聞くまでもなかったのだろう。
その晩、アパートに帰って、八重子に電話をかけた。順番に全部話すと、受話器の向こうで鼻を噛む音がした。
「何よそれ。何よそれ? バカじゃないの? あんたの元旦那、バカなのよ。とびっきりのね」
「…で、会いに行くんでしょ?」
「ええ。言いたいことが、山ほどあるから」
翌週の休みの日、私は南へ向かう電車に乗った。電車を二本乗り継いで、二時間。窓の外の田んぼが流れていく。言うべきことを、道中いくつも組み立てた。ありがとうが先か、バカ野郎が先か。組み立てては崩し、崩しては組み立て、結局まとまらないうちに、車窓に海が見えた。
着いた港町は、塩の匂いと魚の匂いが混ざる、小さな町だった。カモメの声。防波堤の向こうに、青い海が広がっている。母の家のある隣町の海より、ずっと新しい海だった。
水産加工場は、港のすぐそばにあった。門の脇の詰所で「人を尋ねて来た」と伝えると、年配の警備員さんが食堂の場所を教えてくれた。
「ああ、杉浦さんね。昼のピークは過ぎたから、今なら手も開いてるでしょう」
昼下がりの社員食堂は、作業着姿の人がまばらに残るだけだった。配膳台の奥、湯気の向こうに、その人はいた。白い調理服、ネズミ色の混じった髪、頬がこけて一回り小さくなった背中。それでも、鍋を振る腕の角度は変わっていなかった。皿を下げに来た若い作業員に「お疲れさん」と頭を下げる。その立ち姿も。
三年ぶりの直が、あそこにいた。壁際の献立表に「今週のおすすめ」の文字があった。木曜オムライス。あの、俵形のオムライスは、海の町でも巻かれ続けているのだろうか。
その手前で、ニット帽の年配の女性が私に気づいて、直に声をかけた。
「杉浦さん、お客さん、お知り合い?」
直はまだ、私に気づかない。手元の鍋を見たまま答えた。
「え? ああ、どんな方でしょう?」
「ほら、あそこの、綺麗な方よ」
呑気なやり取りに、離れていた年月を思った。この人は、ここで誰にも過去を話さず、湯気の中で生きてきたのだ。
私は、配膳台の前に立った。気配に気づいた直が、顔を上げる。
「いらっしゃい。定食でいいか…」
言葉が、途中で消えた。お玉を持った手が、途中で止まる。目が、私の顔に釘付けになったまま、動かない。
「どうして、ここに…」
「『二度と戻るな』と言ったのは、あなたでしょ」
声が震えないように、腹に力を入れた。
「『戻るな』と言われたのは、店よ。ここは、初めて来たもの。約束は、破ってないわ」
直は、お玉を置いた。調理服の裾を握りしめて、俯いて、それから深く腰を折った。配膳台に、額がつきそうなほど深く。
「すまなかった」
厨房の若い人が、何事かとこちらを見ている。私は構わず、言葉を待った。三年分待つのは、慣れている。
「翔太から、聞いたんだな」
「全部。手紙も読んだわ。通帳も受け取った。看板も見た」
「そうか」
直は顔を上げられないまま、絞り出すように言った。
「君を守りたかった。それは、嘘じゃない。でも、守ると言いながら、君の気持ちも人生も、勝手に決めた。ひどい言葉で傷つけて、三年放り出した。俺のやったことは、兄貴と同じだ。君の署名を、君に無断で書いたのと同じことだ」
「そこまで分かってるのね」
「毎晩考えた。考えない夜は、なかった。俺に会いたくないなら、それでいい。面会は求めない。ただ…」
「これだけは、許さないわよ」
直の言葉を、私は遮った。顔を上げた直と、ようやく目があった。あの夜、一度もこちらを向かなかった目だった。
「あなたのおかげで守られたものはある。母の家も、お金も、店の名前も。それは、ちゃんと分かってる。ありがとうとも、思ってる」
直が、何かを言いかけた。
「でもね、あの日から三年間、私は自分に価値がないと思って生きてきたのよ。二十年が全部いらないものだったって、あなたに言われたと思って生きてきたの。料理も作れなくなった。包丁を持つと、手が止まるの。私から料理を取ったら、何が残るのよ」
言いながら、目の縁が熱くなるのを、止められなかった。
「守るためなら、どんな言葉で傷つけてもいいわけじゃない。『一緒に背負う』と言った私の言葉を、あなたは廊下で聞いていたくせに、信じなかった。それが、一番悔しい」
直は、言い訳をしなかった。もう一度、頭を下げた。
「すまなかった。本当に、すまなかった」
下げられた頭のてっぺんに、白いものが増えていた。この三年を、この人はこの人で、罰のように生きてきたのだろう。それでも、と私は思う。それでもだ。泣くのは、渡すものを渡してからだ。
食堂の窓の外で、カモメが鳴いた。私は息を整えて、バッグからあるものを取り出した。真新しい、銀色の鍵。前の日に店へ寄って、翔太君から預かってきた、新しい店の鍵だった。窓からの光を受けて、手のひらで小さく光っている。
差し出された鍵を見て、直は後ずさった。
「翔太たちが、どうしてもと言うんだな。気持ちだけで十分だと、伝えてくれ。それは受け取れない。俺に、あの店へ戻る資格はない」
「ええ、ないでしょうね」
私は頷いた。
「夫としての資格は、ないわ。あなたが自分で捨てたんだもの。だから、これは『夫』として渡す鍵じゃないわ」
私は、差し出した鍵を一旦、手のひらに握り込んだ。これが、道中で組み立て続けた末の、私の答えだった。許すのでも、切り捨てるのでもない。私の店の、私の決め方で、もう一度始める。
「翔太君に聞いたわよ。『煮込みから揚げ物まで、何でもできる調理員さんがいる』って。うちは今、人手不足なの。店で働きたいなら、一人の料理人として、面接に来て」
直が、目を見開いた。
「面接?」
「そう、面接。この鍵は、採用が決まった日に渡します。履歴書も、書いてきてね。言っておきますけど、時給は安いわよ。新人ですから」
「…いつ、来ればいいですか?」
「世界一の、オムライスを作ってもらうわ。面接の日、厨房に立って、私の前で作って見せて」
直の喉が、上下に動いた。二人でカウンターに並んで食べた、冷めたハンバーグの夜を、この人も思い出している。根拠はないけれど、確信があった。
「取るかどうかは、店主が決めます」
私は背筋を伸ばして、今までで一番綺麗に笑ってみせた。
「私の店ですから。店主は、私よ」
湯気の向こうで、直の顔がくしゃりと歪んだ。笑ったのか、泣いたのか。多分、両方だった。この人のこんな顔を見るのは、初めてだった。
「はい」
かれた声で、元夫は店主にそう返事をした。
駅までの道で、一度だけ振り返った。食堂の窓の向こうで、白い調理服が、まだ深々と頭を下げていた。
帰り道、港の防波堤によって、私は通帳を開いた。最後のページの、幾百もの数字の列。風がページをめくろうとするのを、指で抑えた。返してもらったのは、お金じゃない。三年分の「十五日」という日付。あの人が積み続けた、折れない何かだ。今度はそれを、私の見ている場所で積んでもらう。
海に向かって、私は小さく声に出した。
「面接、待ってるから」
カモメが、一羽返事みたいに鳴いた。帰りの電車では、窓の外が暗くなるまで海を見ていた。悔しさと温かさ、置き場の定まらない二つの気持ちは、まだ胸の中で言い合いを続けている。それでも、電車はまっすぐに、私の店のある町へ向かっていた。
それから、季節がいくつか巡った。私は弓、五十歳になった。弓の料理屋「帰り道」の店主だ。開業の届けも、保健所の営業許可も、銀行の融資の書類も、今度は全部、私の名前で出した。ペンを握るたび、母の印鑑がバッグの中で鳴る。
「苗字が変わっても、あんたが誰になっても、弓は弓のまま」
お母さん、あなたの言う通りだったわ。
開店までの数ヶ月は、あっという間だった。翔太君の三冊のノートを二人で読み直し、雅代さんたちとメニューの試食会を重ねる。黒田さんの支店で融資の書類に判をし、真辺先生の事務所では店名を私の名義に移す承諾書に署名した。どちらの判も、桜色の印鑑だった。母の言ったお守りは、こういう日のためにあったらしい。
開店の初日、開店前の通りには行列ができた。先頭は、杖をついた八重さんだった。
「遅いわよ、弓さん。三年も待たせて」
「すみません。仕込みに、時間がかかりました」
「うまいこと言って」
八重さんは窓際の二人掛けに座り、オムライスを綺麗に食べ切って、それから小さなプリンに目を丸くした。
「あら、頼んでないわよ」
「三年分の、お誕生日です。お店からです」
「もう、この店は昔から、料理と一緒に別のものを出すのよね」
八重さんは、ハンカチで目元を押さえながら笑った。
列の中には、八重子もいた。「私、この店の御恩人なんですって」と言うので、特等席に案内して、大盛のナポリタンを出した。黒田さんは春に定年を迎え、今は月末の客として顔を出す。
「弓さん、今月もご苦労様です」
窓際の席からの、決まり文句になった。
厨房は、料理長の翔太君が仕切っている。ホールは雅代さんと恵さん。そして、新入りの仕入れには、面接を経て採用された新入調理員がいる。履歴書を持ってきた日の直は、別人だった。緊張で膝の落ち着かない五十二歳に、私は店主として告げた。
「採用します。ただし、皿洗いからです。返事は、『はい』以外受け付けません」
「はい」
仕入れを任された直が、真っ先に頭を下げに行ったのは、あの八百屋さんだった。野菜はまた、あの店から届く。
その八百屋が、先日、煮込みの鍋に口を出しかけた。デミグラスの味加減が、昔の癖で気になったらしい。私はお玉を持ったまま、にっこりと振り返った。
「店主は、誰でしたか?」
「…弓、店主です」
「よろしい。皿、溜まってますよ」
厨房の隅で、翔太君が吹き出していた。あの雷を落とされていた青年が、今は落とす側の顔で笑う。
賄いの時間には、みんなで座敷の卓を囲む。誰かが冗談を言い、誰かが翌日の仕込みの話をする。湯気の向こうの顔ぶれを眺めながら、私は思う。ここは、もう母の台所に似てきた。
隆さんは、今も刑務所の中にいると聞く。杉浦食品は後継もなく、出所しても帰る場所はないらしい。彼のことを考える時間が、私の毎日から綺麗に消えた。それが一番の決着だと思っている。
レジ裏の壁には、あの額が戻っている。開店の日の、若い夫婦の写真。その横に、私は母の言葉を小さな木の板に書いて、かけた。
「料理は、お腹だけでなく、寂しい心も温める」
ある日の午後、常連の親子連れの女の子が、看板を指さして聞いた。
「ねえ、『弓』って誰?」
皿を下げていた直が、腰をかがめて答えた。
「この店を作った人だよ」
「違うでしょ。みんなで作った店よ」
思わず口を挟んだ私に、直は首を横に振った。
「でも、守りたかった夢は、弓の夢だった」
全く、この人は皿洗いのくせに、時々そういうことを言う。夫婦に戻るかどうかは、まだ決めていない。信頼は、通帳の数字みたいに、少しずつしか積み上がらない。それでいいと思っている。あの人は今、逃げずに、一月ずつ積んでいる。今度は、私の見ている場所で。
閉店後、一人で表に出て、看板を見上げるのが日課になった。「お前の夢は、今日で終わりだ」。あの夜、この場所で、私はそう宣告された。同じ場所に、今、私の名前がかかっている。夕日に照らされた「弓」の名前と、俵形のオムライス。
私の夢は、あの日、終わらなかった。憎まれ役を選んだ不器用な人と、「明日も来なさい」を守り続けた青年と、帰りを待っていてくれた町の人たちが、終わらせなかったのだ。
だから、私は明日ものれんを出す。お腹を空かせた誰かの、寂しい心まで温められるように。この店を、母の台所のような場所に、育てていきたい。



