受付にいた男は、作業服姿の俺を一瞥するなり、まるで害虫でも見るかのように口を歪めた。
「本日は株主総会でございます。取引業者のご来場はご遠慮いただいております」
言葉は丁寧だったが、目が笑っていなかった。胸のバッジには「総務部長 久保」とある。
俺は答えた。「株主として来ている」
久保の眉がぴくりと動いた。スーツの男が作業着の胸元から足元までを舐めるように見下ろし、再び顔を上げる。
「念のため、ご経歴をお伺いしております。ご学歴は?」
学歴が株主かどうかの確認に関係するわけがない。名簿を開けば一秒で済む話だ。
「中学卒業だ」
その言葉を口にした瞬間、四十年間、土と泥の中で積み上げてきたものが、この男の嘲笑で踏みにじられる気がした。
久保は見下すような目を向けて吐き捨てた。
「ここは中卒の現場職人が来る場所じゃない。下請けの貧乏人は間違いだ。帰れ」
娘の夏が一歩前に出る。「私たちは株主です」
久保は呆れた顔で夏を見る。「あんたも中卒か? 二人揃って冗談は学歴だけにしろ」
そして警備員に命じた。「この二人をつまみ出せ」
背を向けて歩き去る久保の背中を、俺は見送ることしかできなかった。
俺は里崎、六十二歳。小さな土木工事会社の社長だ。中学を出てすぐに現場見習いとして土木の世界に入り、二十二歳で独立して四十年。今日は俺が仕事を受けている元請け、松岡建設の株主総会に出席するために来た。この会社が創業するとき、俺は出資者の一人だったのだ。
娘の夏はファイナンシャルプランナーで、今日の総会で測られる合併の特別決議について、俺にこう教えてくれていた。
「賛成派と反対派が拮抗しているの。お父さんの十五パーセントが天秤の振り子になってる状況なんだよ」
松岡建設は同業他社との合併を総会で決めようとしていた。可決には三分の二以上の賛成が必要で、俺の持ち株は全体の十五パーセント。合併先の会社は過去に三社を吸収し、どこでも従業員を大量にリストラし、下請けへの単価を下げているらしい。
「なぜそんな会社と合併する必要があるんだ? 社長は何をやってるんだ」
「合併を強く押しているのは、最近株を買い集めた一部の株主グループらしいわ。社長は慎重派だっていう話よ」
あの会社が創設された時、俺は松岡を信じて金を出した。無口だが仕事に丁寧な男だった。現場でのミスを自ら申告し、材料を自費で買って休日に仕上げ直すような男だった。その松岡の会社が別の会社に吸収されて終わるのを黙って見ていられるか。
だが今、俺はその会社から追い出されようとしている。昔、現場の仕事を支えてきたこの身体を、久保はわずか数分で否定したのだ。
ビルの外に連れ出され、正面玄関から少し離れた場所に立ち止まると、夏は即座にスマホを取り出して証券会社に電話をかけ始めた。
「書面での議決権行使の期限は昨日まで。今日の総会に出席できなければ、うちの十五パーセントは無効扱いになるって」
俺は黙った。株主名簿を一度も確認しないまま、あの男は俺たちを外に追い出した。それは疑いようのない事実だ。
じっと俺の顔を見ていた夏が言った。「お父さん、もう一度行こう。今度は追い出させないから」
夏はバッグを開け、株式の保有証明書を取り出した。証券会社の社印が押された書面に、俺の名前と保有株数が明記されている。続けて、夏はスマホの画面を見せた。
「さっきのやり取り、録音してある。あの男が近づいてきた時から、ポケットの中で録音を起動させてた」
「夏、お前、録音してたのか?」
「あの男が来た時から嫌な予感がしてたの。言いがかりをつけられると思ってね」
もう一度、俺は正面玄関を見た。「よし、行くか」
受付に戻ると、先ほどの警備員がまた来たかという顔をした。夏は淀みなく言った。「受付の担当者を呼んでいただけますか? 株主として正式な申し入れがあります」
警備員は一瞬戸惑い、無線機を手に取った。やがて自動ドアが開き、若い社員が出てきた。総務のバッジを付けた男だ。夏は株式の保有証明書と招集通知の控えを差し出した。
社員は書類を両手で受け取り、名前と保有株数の欄を確かめるように見た。次の瞬間、手が止まる。顔が硬直していくのがわかった。「少々お待ちください」声が上ずっていた。彼は書類を持ったまま、早足でビルの中へ消えていった。
しばらくすると、ドアが開いた。先ほどの若い社員の後ろに、白髪混じりの大柄な男が続いている。俺はすぐにそれが社長の松岡だとわかった。白髪は増え、体つきも変わっていたが、あの頃の真面目な目はまだそこに残っていた。
松岡は俺の顔を見て動きを止めた。「里崎さん…」
夏が口を開いた。「株主として出席を申し出ましたが、担当の方に名簿の確認もされないまま外に出されてしまいました」
松岡が書類に目を落とす。里崎という名前と十五パーセントという数字。創業の時から株主名簿に載っている名前だ。その数字が今日の採決を左右する重みを持っていることを、松岡はすぐに理解したのだろう。顔から血の気が引いていくのがわかった。
「受付の担当は久保だったな。今すぐここに連れて来い」
やがて廊下の奥からスーツ姿の男が出てくる。久保だ。状況が読めないのか、困惑した顔で近づいてくる。
夏が久保に向き直った。「先ほどここにいる私の父は、株主として総会への出席を申し出ました。あなたは株主名簿を一度も確認せず、私たちを外へ追い出しましたね。株主の総会出席権は法律で保護されています。あなたは私の父の権利を侵害しています」
「それは、外見から判断して…」久保はろれつが回らないまま言葉を続けた。「以前にも業者の方が間違ってお越しになり、総会が混乱したことがありまして、それ以来、作業着姿の方は慎重に対応していまして…」
夏はスマホを手に取り、再生した。久保の声が流れ出す。「冗談は学歴だけにしろ」
久保の口が半開きになった。額と首筋に汗が浮き始め、無理に保っていた表情が崩れていく。
「もう一つ伺います。名簿を確認していれば、父が発行済み株式の十五パーセントを保有する株主だと分かったはずです。確認しなかったのは見落としではありません。確認するという判断を、あなたがしなかったということです」
俺は久保を見たまま、松岡に向かって言った。「松岡社長。あんたの会社が旗揚げした時、俺も金を出した一人だ。久保さんのような人間がいる会社を作るために俺は出資したんじゃない。建設業で飯を食いながら、作業着の人間を格好だけで追い返す。これがあんたの会社の総務部長か」
松岡はしばらく何も言わなかった。やがて深く頭を下げた。「里崎さん、本当に申し訳ございません」
顔を上げると、松岡は久保に向き直った。「久保。里崎さんに謝れ」
久保は絞り出すように言った。「誠に申し訳ございません」それ以上、言葉は続かなかった。
俺は松岡を正面から見据えて言った。「ところで合併の件だが、俺は株主として反対するつもりだ」
松岡はすぐに答えた。「わかりました。とにかく中へお入りください。正式に議決権を行使していただきます」
議場に入ると、席に着いた株主たちの視線が一斉に俺たちに集まった。廊下でのやり取りがどこまで聞こえていたのかはわからない。それでも場内は静まり返っていた。俺と夏が前方の席に腰を下ろすと、隣の株主がちらりと俺の作業着に目を向けた。
合併承認の特別決議が諮られ、俺は指定された用紙に「反対」と記入した。俺がここへ来た理由は、これで果たされる。
しばらくして集計が終わると、議長が結果を読み上げた。「合併承認の議案は否決されました」
場内に静寂が落ちる。俺は静かに息を吐いた。松岡の会社が、松岡の会社のままでいられる。現場を支えてきた職人たちの仕事も、今日のところは守られた。
席を立ち、議場を出た。出口に向かいかけた時、背後から声がかかった。「里崎さん」
振り返ると、松岡が追いかけてくるところだった。「なぜ反対票を入れられたのか、聞かせてもらえますか?」
俺は少し考えてから答えた。「合併先がコスト削減に動けば、下請けの単価が下げられる。これは俺一人の問題じゃない。現場を支えている職人全員に関わる話だ。俺はこの会社に職人を大事にして欲しいだけだ」
松岡はしばらく黙り、俺に向かって深く頭を下げた。「ありがとうございます」
数日後、松岡から電話が入った。久保を解任したこと、会社として正式に謝罪したいということだった。
電話を切り、事務所にいた夏を呼んで内容を伝え、俺は娘に言った。「お前がいなければ、ああはならなかった」
夏ははにかむように笑った。「お父さんの思いは間違っていないもの。私は少し手伝っただけよ」
あの時、黙って引き返すことなどできなかった。権利があるからだけじゃない。あの場で黙っていれば、久保のような男が下請けの者を見下し続けるだろう。現場の職人たちが積み上げてきたものが、あの会社の土台にある。それを変えるべきではない。これからも、俺はそれを守り続ける。そう強く思うのだった。



