「資料室の者が、何の用だ」—…

「資料室の者が、何の用だ」—...

午前九時、創業五十二年を数える食品メーカーの八階大会議室に、低い声が響き渡った。

「資料室の者が、何の用だ。」

楕円の机を囲む役員たちの視線が、入り口に立つ俺に一斉に集まる。仕立てのいいスーツの群れの中で、俺の吊るしの上着だけがやけに浮いていた。

無理もない。ほんの一週間前まで、俺は地下の資料室でダンボール箱を数えるだけの男だったのだから。

「私が呼びました。」

神座の専務を正面から見据えて、若い女社長が静かに言い放つ。張り詰めた空気の真ん中で、俺は疑似資料の箱を音を立てずに机の上へ置いた。この箱の中には、十三万件の炎上の正体と、封じられてきた真実。そして、一人の男の罪が入っている。

誰も知らない。この日のために俺が何を積み上げてきたのかを。そして、四十七歳の窓際社員がかつて何をしていた人間なのかを。この部屋の誰一人として知らない。

全ては、二週間前の夜に始まった。

その頃の俺は、人事から子会社への出向を言い渡された、どこにでもいる崖っぷちの中年だった。朝は誰とも目を合わさずに出社し、昼は非常階段で一人、握り飯をかじる。古い書類の山を整理して、夜は二間のアパートへ帰るだけの毎日。

着せられたままの無実の罪も、出ていった家族のことも、もう取り返せないと諦めていた。

そんなある日の深夜、枕元のスマホが立て続けに震え出した。会社の名前がSNSの急上昇に踊り、若き女社長への誹謗中傷がなだれのように流れ込んでいく。

誰もが逃げ出していくその火事場で、俺の中の何かだけが密かに目を覚ました。

火は一晩で消える。消し方を知っている人間が、たった一人だけこの会社にいた。

そして翌日の夕暮れの社長室で、俺は人生を丸ごと変えることになる一言を聞くことになる。

これは、そこに至るまでの物語だ。

地下一階の資料室には、季節を問わず朝の光がほとんど届かない。蛍光灯の白い明りの下で、古い髪と埃の匂いだけが今日も変わらず俺を迎える。

俺の名前は平田哲也。今年で四十七になる。創業五十二年の食品メーカー、俺カンパニーの地下で、ダンボール箱の背表紙を眺めて一日を終えるのが俺の仕事だ。

四十四歳の冬、苦情報告書を握りつぶしたという無実の罪を着せられて資料室へ追われた。給与は同期の七割まで下がり、部下はいない。内線が鳴るのは月に数回で、それも棚下ろしの問い合わせばかりだ。

社内で「資料室の平田」といえば、関わると損をする人事の見本として通っている。

昼飯は非常階段の踊り場で、家から持ってきた握り飯を二つかじるのがいつもの流れだ。それで困らないと感じる程度に、俺はこの地下の湿気にすっかり慣れてしまっていた。

資料室に来るまでの俺は、本社四階のお客様相談室で十年かけて出世の席まで進んだ人間だった。だが、ある日、大口取引先に関わる苦情の報告書を握りつぶしたという濡れ衣が俺に着せられた。

やっていないと言い続けた声は、調査委員会の議事録の隅にさえ残らなかった。かばってくれる者がいなかったわけではない。だが、声を上げた者から順に左遷へ回されるのを見て、誰もが口を閉じていった。

その年の冬に退職勧告が出て、翌年の春には妻が娘を連れて家を出ていった。玄関の靴箱に残された便箋の冷たさだけが、あの春の記憶の全てと言っていい。

午前十時、滅多に開かない資料室の扉が軋んで、人事課長がファイルを抱えて入ってきた。目を合わせないまま机の端に置かれた一枚の紙には、子会社・俺感物流サービスへの出向内示と、十日後の発令日が記されていた。

給料はここからさらに二割減る。誰が見ても分かりやすい厄介払いの指図だった。

「平田さん、門前払いされるより、席がある方が気楽なこともあるでしょう。あなたのためでもあるんですよ」

俺は判を押す手前で止めて、無言のまま紙を裏返す。

「考える時間をもらえますか」

人事課長は小さく息を吐き、期限は発令日までだと言い残して階段を上がっていった。扉が閉まると、資料の山の沈黙が肩に積もった。

四十七年生きてきて、自分の値段が二割引きの評価書一枚で示される朝が来るとは思わなかった。

午後になって、珍しい客が地下に降りてきた。広報部長の堀口進だ。磨かれた革靴の音を響かせて棚の間をゆっくり一周すると、彼は思い出したように振り返る。

「平田君、保管期限の切れた相談記録があるだろう。出航の前に処分しておけ」

返事を待たずに、革靴の音は階段の上へ消えた。

処分を命じられた箱の中には、俺が相談室で受け取った十年分の声が眠っている。電話口で震えていた声も、受話器の向こうに滲んでいた怒りも、一頁ずつ綴じてある。「クレーム」という言葉で呼ばれるものの中身が、本当はどれほど静かな祈りに似ているかを、俺は相談室で教わった。

俺は相談記録の入った箱を台車に乗せ、シュレッダーの前まで運んでやめた。なぜ手が止まったのか、その時の俺はうまく言葉にできない。ただ、台車の手を握り直していた。

机に戻って一番下の引き出しを開ける。そこには色褪せた取材ノートが一冊、書類の奥に沈んでいた。記者だった頃の最後の一冊。最終ページだけは白紙のまま、十四年が過ぎた。

俺は引き出しを閉め、処分するはずの箱の蓋をもう一度開けた。期限切れと判を押された誰かの声を、俺は読み続ける。この箱が十日後、会社の運命を分けることになるとは、まだ知らないままで。

水曜の朝、資料室の内線が珍しくなって、月に一度の役員会議の資料回収を言いつけられた。文書の保管と廃棄は資料室の仕事のうちで、この日だけは俺も八階の役員フロアへ上がることを許される。

絨毯敷きの廊下は地下と違って足音を吸い込み、人の気配だけを残す。会議室の前で資料の戻りを待っていると、両開きの扉が開いて役員たちが順に出てきた。満足げに頷き合う年配の役員たちの後から、書類の束を自分で抱えた女性が一人。

社長の瀬はかだった。今のスーツに後ろで束ねた髪。薄い横顔には、三十八歳という年齢よりも深い影が差している。二年前に先代が亡くなった後、この会社を継いで以来、ずっと八階で一人きりの戦いを続けている。

挨拶を交わす距離でもなかったので、俺は資料の束を抱え直しながら壁際で頭だけを下げた。

廊下を遠ざかっていくヒールの音は、誰かと並んで歩くにはあまりに早すぎる音だった。あの靴音の速さが何を意味するのかを、俺は相談室の十年で嫌というほど学んでいる。人は、味方のいない場所でだけ、ああいう足音になる。

会議室の中から聞き慣れた低い声が漏れてきたのは、その時だった。

「会社のためだ。お嬢さんにはもう少し勉強してもらわんとな」

恰幅のいい体を仕立てのいい背広に包んだ専務の犬井剛が、取り巻きの笑いを従えて出てくる。犬井剛、六十三歳。前社長の右腕と呼ばれた男で、社内の決裁の半分は今もこの男の判で決まると言われている。

犬井の背後の後ろには、広報部長の堀口が影のように付き従っていた。

「若い社長には試練も必要だろう」

廊下の角を曲がる手前、犬井は堀口にだけ聞こえるつもりの声量でそう言って、低く笑った。壁際の俺は置物と同じ扱いで、最初から誰の視界にも入っていない。

会議室に残された資料を回収していると、差し戻しの判を押された企画書が目に入った。表紙には「若年層向け健康食品シリーズ ブランド案」とある。提案者の欄には社長の名前が書かれ、賛同者の連署が並ぶべき欄は白いままだった。

散り散りになった資料を整えている間に、嫌でも中身が目に入ってくる。企画案の収支表の後ろには、外部コンサルタント名義の反対意見書が分厚く綴じられていた。反対の根拠は経費と市場規模の二点に尽きるのに、ページ数だけが妙に立派だった。

数字の体裁を整えた感情というものを、俺は記者の仕事で山ほど見てきた。会議の度にこういう紙が積み上がって、社長の企画書は二年間どこにも届かなかったのだろう。

地下にいると、会社の本音の流れが紙の形で見える。資料室とは、そういう場所だ。

役員フロアからの帰り、エレベーターの前で書類の束を抱えた瀬はかに追いついてしまった。俺が箱を抱え直す気配に、彼女は振り向いて扉を抑えてくれた。

「どうぞ。資料室の方ですよね。記録の整理、いつも助かっています」

地下の置き物の作業を、この人だけが仕事として認めてくれた。礼を言って箱を乗せ、八階から地下までの長い箱の中で、俺たちはそれ以上何も話さなかった。ただ、降りる間際に彼女の抱える書類に差し戻しの判が三つ並んでいるのが見えた。

昼休み、社員食堂の隅の席で経理課長の美吉と向き合った。美吉は中途入社で俺と同期の間柄だ。俺が地下に回されてからも、変わらず同じテーブルに座ってくれる数少ない男でもある。

無言で味噌汁を吸った後、美吉は前を向いたまま口を開いた。

「平田、あの件、まだ調べてるのか」

「あの件とは」

箸を持つ手は止めないまま、美吉は声だけを低くこちらへ寄こした。

「とぼけるならそれでいい。ただ、妙な動きをするなら、今は時期が悪い」

それだけを言い残すと、美吉は盆を持って混み始めた食堂をさっさと出ていった。あの目は、俺の知らない何かを知っている人間の目をしていた。「時期が悪い」という言い回しが喉に刺さった小骨のように残って、午後の仕事は半分も手につかなかった。

午後になると、総務から出向手続きの案内書が机に届いた。貸与品の返却リストが一枚と、私物を詰めるための畳まれたダンボールが二枚。後任の補充はどこにも書かれておらず、代わりに資料室を縮小して外部倉庫へ移管する計画書が添えられていた。

俺が消えるのではなく、俺のいた場所ごと消える。そういう段取りらしい。返却リストの下書きでは、十年分の相談記録の箱が「廃棄予定文書」の六文字に束ねられていた。

夕方には総務の若手がやってきて、棚の位置から壁の点検表まで几帳面に写真や採寸を納めていった。立ち退きの痕跡を逃がさないための作業を、立ち退かされる側が黙々と進める夕方というのは、存外に長いものだ。

仕事の後、階段の踊り場で広報部の若手二人とすれ違った。声を潜めたつもりの会話というものは、狭い吹き抜けでは存外によく響く。

「地下の人、まだいたんだ」

「来月で消えるらしいよ」

それから二人分の短い笑いが、吹き抜けの上の方へ軽やかに登っていく。俺は無視だけして通り過ぎたが、怒る資格まで捨てた覚えはなかった。

アパートに帰りついたのは夜の八時を回った頃だった。テレビをつけると、ちょうど俺カンパニーの古いCMが流れているところだった。画面の中で食卓に「まっすぐ」の七文字が、湯気の向こうにぽつりとともる。先代の時代から変わらない、標語のような短いコピーだ。

俺はこの七文字を相談室の電話口で何百回も思い浮かべてきた。苦情の声に詫びながら、この言葉に恥じない返事を探し続けた。

鞄の底から、職場から持ち帰った一冊の綴じ込みを取り出したのは、その時だった。処分を命じられた箱の中にあった、俺が相談室にいた頃の受付帳だ。お花の柄の便箋で始まる一連の手紙には、丁寧な字で商品への問い合わせと返事を待ち続けた日々の記録が綴られている。

その手紙の束には「返信不要」の四文字が走り書きされたメモが挟まれていた。「返信不要」と書いた人間の名前を、俺はまだ知らない。

日付が変わる前に布団へ入った。枕元のスマホが立て続けに震え出したのは、深夜一時を回った頃のことだ。寝ぼけたまま画面を開いて、一瞬で目が覚めた。

SNSの急上昇の欄に、勤め先の名前が上がっている。上位には「俺カンパニー異物混入隠蔽」の文字が並び、発端らしい投稿にはカレーパックの写真が添えられていた。文面は「商品から金属片が出たのに、会社は確認できないの一点張り。小さな子供が食べていたらと思うとぞっとする。拡散希望」と結ばれていた。

数字は見ている間に千の単位で膨らんでいく。そこへ社長の顔写真を切り抜いた投稿が束になって流れ込んでいた。「現場を知らないお飾り社長」「先代が泣いている」「会見から逃げるな」。知らない誰かの言葉が、昼間にエレベーターの扉を抑えてくれた人の顔を削っていく。

火はもう屋根まで回っていた。炎の燃え方には、実のところ順序というものがある。最初の火は一枚の写真で付き、二番目の薪は正義感のリポストで積まれ、三番目からは火を見に来ただけの野次馬が酸素を送り込む。

午前二時を過ぎるとまとめ記事の速報が三本立ち、見出しはどれも疑惑を断定の形に書き換えていた。このまま朝を迎えれば、昼のワイドショーのテロップになるのはまず間違いない。「社長の進退」という四文字まで、気の早い投稿の中ではもう泳ぎ始めていた。

会社の公式アカウントも開いてみたが、三日前の新商品の告知を最後に沈黙したままだ。初動の沈黙は、ネットの世界では肯定と同じ意味に取られる。燃える画面のどこを探しても、火を消そうとする側の声がまだ一つもなかった。

画面の隅を見覚えのある商品が流れていった。炎上しているカレーシリーズは、相談室の十年で俺が苦情の窓口を務め続けた主力商品だ。パウチが何百の検品を経て店頭に並ぶのか、工場のライン風景を俺は今でも言える。「金属片」という三文字がどれほど重く、そしてどれほど軽々しく使われやすい言葉なのかも。

布団の上に座り直して、俺は燃え上がる画面をひたすら遡り続けた。怖いもの見たさで指を動かしているのではなく、止まらない理由はもっと別のところにあった。この日の燃え方に、俺は覚えがあった。

オフィスへ向かった。深夜の本社ビルは、八階の役員フロアにだけ点々と明かりが残っていた。地下の資料室の扉を開けて蛍光灯を半分だけつける。慣れた古い髪の匂いが、今夜だけは違うものに感じられた。

俺が最初に開いたのは、製品ロット台帳の棚だった。発端の投稿に添えられた写真には、カレーパックの裏面がわずかに映り込んでいる。画像を拡大していくと、隅に「KP」で始まる製造記号が辛うじて読み取れた。台帳の数字と突き合わせて手が止まる。

KP2147。半年前のパッケージ切り替えで終盤になった旧仕様のロットだった。投稿者は昨日スーパーで買ったと書いていたが、この商品は半年前から店頭に存在しない。書いた人間は古い在庫の写真をどこかで手に入れ、「買った」話を後から作ったことになる。

炎の写真は偽造だった。

次に、俺は燃え広がり方を追った。発端の投稿を最初に広めたアカウントを古い順に五十ほど駆け出すと、投稿時刻が五分刻みでほとんど機械のように揃っていた。プロフィールはどれも当たり障りのない趣味の言葉が三つ並ぶだけの、同じ型で作られた顔のない群れだ。

こういう群れを金で動かす商売が存在することを、俺は記者の頃の取材で知っている。つまり、この火事は放火だった。

ただ、燃え盛る声の山の中には、一つだけ毛色の違う声が混ざっている。その投稿には「私は問い合わせの手紙に三年間、お返事をいただけませんでした。今度のことが本当なら悲しいです」とだけあった。

アイコンは、お花の写真だった。

俺は鞄から受付帳を引き寄せ、机の明りの下で丁寧に表紙をめくった。お花の柄の便箋、丁寧な返事を待ち続けた日々の記録。差出人の名前は、米倉文とあった。

処分しておけと堀口に言われた箱の中で、長い間眠り続けていた本物の声だった。偽物の仕掛けで膨らんだ火事の真ん中で、この人の悲しみだけがたった一つの本物に見えた。

消す順番が見えた。

資料室の階段を降りてくる足音がしたのは、時計の針が午前三時を回った頃のことだ。明かりに気づいたのだろう。扉の隙間から覗いた瀬はかの顔は、昼間よりも白かった。

「あなた、どうしてこんな夜中に会社にいるの?」

「古い記録の整理です」

声には疲れの膜が張っているのに、こちらを見る目だけは鋭くするどかった。

「こんな夜に期限が迫っているもので。嘘ではない」

処分の期限も、出向の期限も、本当に迫っている。はるかは数秒黙って俺を見てから、机に広げられた台帳と画面に目を落とした。

「それ、今度の投稿の写真ね。何か分かるんですか」

俺はロット番号の矛盾と五分刻みの群れの正体。そして一通だけ本物の声が埋もれていることを順番に説明した。全てを聞き終えたはるかは、長い息を一つ吐いて資料室の書棚に背中を預けた。それから、法的措置を検討するという文面を出すと言う。

「それを出したら火に油です。やめさせてください」

資料室係が社長に意見している。その自覚は言葉より一歩早くやってきた。

「理由を聞かせて」

「炎上に対して反論した会社は、燃え続けます。事実と謝罪と対応。この三つを分けて出すのが鉄則です。それに、世間より先に謝らなければならない相手が一人います」

俺はお花の便箋を取り出して、はるかの見ている机の上へ滑らせておいた。はるかはその場で広報へ電話を入れ、当局声明を出すことをその一本で差し止めた。

朝の五時、空の底がわずかに白み始めた頃、俺とはるかはタクシーで郊外の住宅街へ向かった。米倉さんの住所は綴りの封筒の裏にそのまま残っている。電話番号は解約されていて、直接尋ねる以外に声の届く手段がなかった。朝の六時に他人の家の呼び鈴を押す非常識は、二人とも承知の上だった。

玄関に出てきた米倉さんは、六十七歳という年齢よりも小さく見えた。社長の瀬ですと名乗ったはるかを見て、米倉さんは驚くより先に困ったように両手を組んだ。俺は名刺を差し出した。肩書きのない、資料室の名刺だ。

「三年間、お返事を差し上げられませんでした。お手紙は読まれないまま、箱の中にありました」

俺は玄関先の沓脱ぎに膝を折り、上がり框に手をついて頭を下げた。長い沈黙の後で、米倉さんは「座布団を持ってきますね」と小さく呟いて腰を上げた。

「怒っているんじゃないんですよ。ただ、誰も呼んでいないのなら、私の三年は何だったのかしらと思っただけで」

膝の上に置かれた手紙の束には、輪ゴムで丁寧に二つに括られた跡が残っている。

「あなたは読んでくださったんですね。それならもういいんです。お茶も出さずにごめんなさいね。私はただ、誰かに聞いて欲しかっただけなの」

「もういい」という言葉の柔らかさが、どんな罵倒よりも深く刺さった。帰り際にはるかは深々と腰を折って、検品記録の全面開示と相談窓口の作り直しを約束した。

会社に戻ると、俺は会議室の隅を借りて声明の下書きを描いた。事実、当該ロットは半年前に終売しており、通記録と検品記録の全てを公開する。謝罪、過去の問い合わせ対応に不備があり、お一人のお客様へ直接お詫びに伺った。対応、相談窓口を社長直通に改め、体制には外部の監査を入れる。文句も言い訳も一言も入れない。

はるかは最後の行に自分の名前を入れ、午前九時ちょうどに自分の言葉で公開した。「逃げない。それだけは父に誓ったので」

風向きは昼前から目に見えて変わり始める。ロット番号の一覧表がじわりと浸透して、発端の投稿は昼過ぎにひっそりと削除された。正義の群れはバラバラと崩れ、夕方のまとめ記事は見出しを「対応が誠実すぎる」と書き換え始めている。

火は消えた。

夕方、俺は社長室に呼ばれた。八階の一番奥の部屋は先代の頃から造りが変わっていないらしく、机の上の小さな写真だけが新しかった。はるかは夕暮れの窓を背にして立ったまま、しばらくの間こちらを見つめている。

「相談室の回答記録、就任した年に全部読んだの。お客様への手紙がどれも誠実だった。元室長が地下にいると知ったのは昨日のことだけど」

はるかは机の上の小さな写真立てに一度だけ目をやり、言葉を探すように一拍置いた。

「終盤のロットを一目で疑い、群れの時刻を数えて、本物の一通を拾い上げた。その上、夜明け前に詫びに行く。うちの役員の誰にもできなかったことよ」

そこで一度言葉を区切ると、はるかは机を回り込んで一歩こちらへ近づいてきた。

「あなた、何者なの」

窓の外はもう夕暮れの色で、燃え尽きた一日の終わりをそのまま映している。

「ただの、資料室のものです」

そう答えるのが精一杯だった。何者かと問われて胸の奥で軋んだものの正体を、この時の俺はまだ直視できていなかった。

社長室を出ると、廊下の薄明かりに影が立っていた。経理の男がこの時間にいる理由を聞くより先に、美吉は声を落としていった。

「平田、経理から一つだけ言っておく。広告宣伝費に妙な伝票がある。半年分で二千四百万。相手は『トレンドリンク』。聞いたこともないコンサルだ」

言うだけ言って、美吉は階段の方へ消えた。偽物の炎上と妙な金の流れ。二つの線が頭の中で一本に重なった瞬間、背中を冷たいものが這い上がっていった。

火は、外じゃない。

翌朝の出社と共に内線が鳴って、俺はまた八階の社長室へ呼び出されることになった。部屋にはるかの他に、広報部の若手が控えていた。旗中千尋、二十六歳。昨日の声明の公開作業を、堀口の横で最後までやり切った社員だ。

「正式な事案は出せない。出せば潰される。だから、これは社長預かりの頼み事。金の流れを調べて欲しいの」

「資料室の人間が動き回れば目立ちます」

はるかは返事の代わりに窓のブラインドを少しだけ下ろしてみせた。

「だから表向きは文書移管の準備で各部署を回っていることにする。あなたの出向の話は、私が止めた」

隣で控えていた旗中が一歩前に出る。

「あの声明の日、初めて会社の仕事をしたって思えたんです。手伝わせてください」

真っ直ぐな言葉の中に、堀口の下で吸い込んだはずの淀みは見当たらなかった。俺は二人に連絡の段取りだけ先に決めさせてもらった。社内のメールは使わず、打ち合わせは社外で短く済ませ、調べたことは紙に書いて直接手渡すことにする。

俺は二人に、美吉から聞いた伝票の話を伝えた。広告宣伝費の名目で半年に二千四百万。相手は聞いたこともないコンサルティング会社。聞き終えたはるかの眉が見る間に寄っていく。

「私、そんな決済をした覚えがない」

「おそらく伝票は、一見当たりの金額が役員の決裁枠に収まるよう几帳面に分割されているはずです」

決裁の仕組みというのは、社長の椅子より古くからその会社に住みついている。どの金額なら誰の判だけで通るのか。その線引きを知り尽くした人間には、社長の机を迂回する道がいくらでも見えるのだ。

調査を始めた。トレンドリンクの登記を取り寄せてみると、設立は四年前で代表者の欄には「入田涼」という四十四歳の男の名前が載っていた。事業目的の欄にはマーケティング支援。代表の名前で検索を重ねるうち、古い業界記事に行き当たった。まとめサイトの広告で稼ぎ始め、その後は炎上対応のコンサルタントに転じた男。放火を商売にする人間は、消化も売る。マッチポンプという言葉が、画面の向こうで笑っていた。

午後、伝票の原本を確かめようと経理へ向かいかけて、俺は廊下の角で足を止めた。来客用の応接室の扉が開いて美吉が出てきたからだ。その後に続いて出てきた二人の顔を見た途端、心臓が嫌な音を一つ立てた。犬井の側近で通っている総務担当の役員と、堀口。美吉は二人に深々と一礼して、何事もなかったような足取りで経理へ戻っていく。

「あの件まだ調べているのか」という食堂での声が、耳の奥で別の意味に形を変えた。俺に探りを入れたのは心配からだったのか、それとも。

味方だと思っていた輪郭が急にぼやけた。伝票の件をはるかに伝えたことを美吉はまだ知らない。知らないままにしておくべきだと、この時の俺は判断した。

入田に会いに行ったのは、週が開けてすぐの月曜日だった。トレンドリンクのオフィスは駅裏の雑居ビルの五階に入っていた。ガラス扉の向こうは、白い壁と大型モニターだけの生活感のない部屋だった。受付で名刺を出すと、待たされることもなく入田本人が現れた。細身のジャケットに、季節を無視して肌を焼いた軽い笑顔。

「俺カンパニーさんへ珍しいな。うちに何のご用です」

「経理の確認で伺いました。御社へのお支払いについて、業務の実態を教えていただきたいんです」

名刺を一瞥した入田の目が、肩書きのない余白で一瞬だけ止まった。

「マーケティング支援ですよ。SNSの分析とか世論の調査とか。今時は、どこの会社さんもやってることです」

「分析ですか? それはKP2147のような数字も扱う仕事ですか」

軽い笑顔が、三秒だけ止まった。

「その番号、何ですか」

「いえ、こちらの話です。お時間を取らせました」

俺は深く腰を折って、それ以上は何も聞かずにオフィスを後にした。揺さぶれば、どこかが軋む。沈んだ音の行き先を辿っていけば、糸はいずれ仕掛けた人間まで伸びる。記者の頃に覚えた古い手だった。

だが、この古い手は悪い方に転んだ。エレベーターが一階に着くより早く、入田はどこかへ電話をかけていたはずだ。俺は敵の懐の深さを測りに行ったつもりで、自分の顔と名前を先に晒しただけだった。証拠より先に顔を見せるな。駆け出しの記者が二年目までに骨の髄まで仕込まれる鉄則を、十三年のブランクは綺麗に錆びさせていた。

二日後の朝、火の手はこちらへ向かって上がった。出社するとフロアのコピー機の上に、一枚の紙が置いてあった。「社内有志より」と題された文章には、俺の名前と顔写真が刷り込まれていた。「窓際社員が社長に取り入って復権を画策し、社内情報を週刊誌に売った疑いまである」。文面はそう結ばれていた。同じ文書が昼前にはSNSにも流れ出す。発信元は「俺感謝社内有志」を名乗る、作られたばかりの顔のないアカウントだった。

添えられた写真に息が詰まった。朝焼けの住宅街でタクシーに乗り込む俺とはるかの姿。米倉さんの家を尋ねた、あの朝のものだった。つまり、奴らはあの朝からずっと俺たちのことを見ていたことになる。

「女社長と窓際社員の癒着」という見出しが、また琢間に正義の薪を集め始めた。一夜で火を消した会社という昨日までの賞賛が、できすぎていたという疑いに裏返っていく。賞賛は裏返るために積まれていたのだ。そこまで含めて設計図だったのだとしたら、盤の前に座っている人間は相当に手慣れている。

廊下の視線が変わった。挨拶が帰ってこなくなるまでに、半日もかからなかった。夕方には人事課長が降りてきて、出向の保留を告げる代わりに「調査次第では懲戒もありうる」と平坦な声で言い添えた。

あの濡れ衣の冬と同じ流れだった。だが、一つだけ違うことがある。今度は俺一人ではなく、社長まで一緒に燃やされかけていることだ。

夜、知らない番号からの着信が二件。留守番電話も残さずに切れていた。代わりに資料室の郵便受けには、見覚えのある花の柄の葉書が一枚届いていた。裏を返すと、差出人は米倉文さんで、文面は飾り気のないたった二行だった。「テレビで色々言われていますけど、私はあなたを信じます」。その言葉の重さに、俺はしばらくの間動けなかった。

その日の終わり、俺はアパートの机で辞表に向かい、「退職」の二字を書いた。三年間、書かずに耐え続けてきた二字だった。

社長室の扉をノックすると、はるかは窓際に立ったままスマホの画面をじっと見ていた。俺は机の上に辞表を静かに滑らせる。

「俺が消えれば、火は消えます。狙いは俺とあなたを繋げて燃やすことだ。薪を一本抜けば、それで終わる」

はるかが振り向いた目は、疲れてなどいなかった。怒っていた。

「あなたが消えて、私が守られて、それで誰が救われるの?」

「会社と、あなたの椅子が」

即答した瞬間、自分の声の薄さに自分で気づいた。

「違う。あなたが守りたいのは、これ以上傷つかずに済む自分でしょ」

いつも廊下を急ぎ足で鳴らしている靴音が、窓際でぴたりと止まっている。

「あなたは謙虚なんじゃない。逃げてるだけよ。地下に隠れて、本物を見抜く目を眠らせて」

言葉が出なかった。反論の形をしたものが喉まで何度も上がってきて、そのどれもが言い訳の顔をしていた。俺は辞表を机に残したまま一礼して、社長室を後にした。

廊下がいつもの倍の長さに感じられたのは、打たれた場所が急所だったからだ。「逃げてるだけ」というその言葉を、エレベーターの中で何度も指で数え直した。記者を辞めたあの選択を、自分の中では筋を通したつもりでいた。しかし、そう思おうとしていただけだった。

その夜、資料室の明りを半分だけつけて、俺は引き出しの取材ノートを机の真ん中に置いた。色褪せた表紙を、何年ぶりかに開く。

階段を降りてくる足音が聞こえたのは、日付が変わる少し前だった。

「辞表は、受け取らないから」

そう言いながら辞表を置いたはるかは、机の上の古いノートに目を止めた。

「それは、俺が何者なのかの答えです」

俺はノートを開いたまま、ぽつりぽつりと話し始める。十四年前、俺は全国紙の社会部で企業不祥事の取材を担当していた。ある食品偽装の事件が起きて、俺は一つの会社の品質管理課長を追った。沢井正美という名前の、五十六歳になる現場一筋の人だった。会見場のフラッシュの中で、沢井さんは何度も深く腰を折り、言い訳を一つも口にしなかった。

翌朝の紙面に、俺は署名入りで書いた。「あなたのような中間管理職の沈黙が会社を腐らせるのだ」と。その記事は社内で大いに褒められて、年間の報道賞の候補にも上がった。

沢井さんが会社を追われたと聞いたのは、その年の暮れのことだ。年が明けてから、俺は知った。偽装の指示は役員から出ており、沢井さんは部下のミスを一人で被って、頭を下げ続けていたのだと。俺が腐っていると書いたあの沈黙は、部下を守るための沈黙だった。

詫びに行く勇気は出ないまま、代わりに俺は辞表を出してペンを置いた。

「俺は燃やす側だったんです。人を見抜く目があると思い上がって、一番見るべきものを見なかった」

はるかは長いこと、何も言わなかった。

「その人には、謝れたの?」

「いえ。あの人は、もういません」

ノートの最終ページは白紙のままだ。その白紙に書くべきだったたった一行を、俺はあれからずっと探し続けたまま今日まで来た。

はるかは机の上の写真立てへ、ゆっくりと視線を滑らせる。

「父もよく言ってた。苦情は宝の山だ。読まずに捨てる会社から順に潰れていくって。あなたの回答記録が父の書斎にファイルで残っていたから、私は就任した年にそれを読んだの」

知らなかった事実が、ストンと胸の底へ落ちていった。地下へ追われた人間の手紙の控えを、先代は最後まで書斎に置き続けていた。

「なら、決まりね」

顔を上げると、はるかは机の上の辞表を半分に畳んで、背広のポケットにしまった。

「これは預かる。あなたは逃げない。私もよ。今度は燃やす側を捕まえましょう」

翌朝、俺は経理の島の真ん中に立ち、フロアの全員に見える形で美吉に頭を下げた。

「力を貸してくれ」

「来るのが遅いんだよ、お前は」

美吉はメガネの奥の目を細めて、長い長いため息をついた。伝票の写しを正式に出してほしいと頼むと、美吉は長い沈黙の後で「考えさせろ」とだけ言って眼鏡を押し上げた。頭は下げた。あとは、あの応接室の一件が俺の味方であることを祈るだけだ。

昼休み、旗中が資料室へ降りてきて、菓子パンの袋を机の隅に置いた。

「広報の共有サーバー、おかしいんです。炎上が始まる前の日に、カレー商品のフォルダーへアクセスした記録が残っていて」

若い目は正面からこちらを見ていた。アクセス記録の主は、ログの上では退職者の残した共有アカウントになっていたという。幽霊の指紋を使える人間は、サーバーの管理権限を握る部署にしかいない。

旗中はそこまで言うと、誰の名前も口にしないまま唇を結んだ。口にすれば戻れなくなる名前だと、互いに分かっていたからだ。

反撃は派手な暴露からではなく、火消しの定石を丁寧になぞるところから始めた。事実と謝罪と対応。偽物の火事が相手だろうと、消し方の骨組みは変わらない。

まず旗中が、広報の正規の窓口から騒動の時系列を整理した表を公開した。タクシーの写真の朝は、苦情を寄せられたお客様への謝罪訪問だったこと。週刊誌への情報提供なるものは、日付も媒体名も特定されていない噂に過ぎないこと。そして最後に、一枚の陳述書が添えられた。差出人は米倉文、実名だった。「謝罪に来たお二人の頭の下げ方に、嘘はありませんでした」。そう綴られた文面が、顔のない社内有志の千の言葉を、たった一枚で塞いだ。

一人の実名は、千人の匿名より強い。相談室の十年が教えてくれたことを、旗中の若い手が証明してくれた。

第二の火は、三日で目に見えて勢いを失っていく。正体不明の正義は、実名の前では長持ちしない。誹謗中傷の紙は、いつの間にか応接室のゴミ箱で湿っていた。

廊下で目をそらしていた連中の何人かは、すれ違い様に小さく会釈をするようになった。俺は別に、許すとも許さないとも言わなかった。人の風向きと一緒に揺れるのは弱さだが、その弱さを攻める資格は、長く黙っていた俺にはない。

週明けの朝、資料室の扉が開いて美吉が分厚い封筒を机に置いた。

「伝票の写し、半年分、発注書も全部つけた」

「いいのか? お前の判断で出せば、後戻りできなくなるぞ」

美吉は答える代わりに、封筒の口をこちらへ向けて、ずいと差し出した。

「数字は覚えてる。覚えてる数字に嘘の判を押すのが、俺は一番嫌いなんだ。うちの経理は良くないんでな」

それから美吉は、応接の一件を自分から話した。決算を前に、総務担当役員から広告宣伝費の科目組換えを匂わされていたこと。断れば経理ごと干されると踏んで、表向きは従う顔のまま記録を集めていたこと。

「監査役に持ち込むつもりだった。だが、お前と社長の方が早く動いた。乗るなら、早い船がいい」

応接室の扉の向こうにいたのは、敵の顔をした味方だった。疑っていたことを詫びると、美吉は「詫びる暇があったら書類を読め」と笑った。

封筒の中身は想像していたより有能だった。トレンドリンクへの発注品目は「ブランドモニタリング業務」。ところが、発注書に対応する報告書の納品が半年分、どこにも存在しない。おまけに発注者の欄には、見慣れた班が並んでいた。広報部長、堀口進。

広告の名目で出ていった金の出口と、火事の入り口が一本の判で繋がった瞬間だった。

残るは、俺自身の濡れ衣だった。旗中が辿ってくれたサーバーの記録は、最後に残ったもう一つの扉も開けてくれた。三年前、調査委員会に提出された苦情報告書のファイルには、提出前夜に差し替えられた更新履歴が残っていたという。差し替えを行った端末は、広報部長席。そして、差し替え前の正本は、「処分しておけ」と命じられたあの箱の中で、受付印を押されたまま眠っていた。

正本には、大口取引先の製造委託工場に関する苦情と、俺が上げた対応記録がそのまま綴じられている。委員会に出された改竄版では、苦情の宛先が書き換えられ、俺が報告を握りつぶした形に整えられていた。

正本を処分させようとした理由が、ようやく分かった。正本が残っている限り、改竄はいつでも露見する。俺を地下へ落とした罪の証拠を、奴らは俺自身の手で始末させようとしていたのだ。

受付印の残る正本を手にしたまま、俺はしばらくその場から動けなかった。これさえ表に出ていれば、俺の毎日はまるで違うものになっていた。妻と娘が出ていくこともなかった。積み上がってきたのは怒りというより、置き去りにされた時間への慚愧に近い何かだった。指先が小さく震えるのを、俺は紙の束を強く持ち直すことでどうにか抑え込んだ。

証拠が三つ揃ったその夜、俺たちは社長室のソファーで短い作戦会議を開くことにした。

「取締役会の前に堀口部長を抑える。その意味を聞かせて」

「黒幕は証拠を残していません。実行した人間の口を先に開かせないと、蛇の尻尾も残らない」

はるかは資料の山の一番上を指先で一度だけ撫でてから、顔を上げる。

「実行犯でいいの? 私が欲しいのは、頭よ」

その言い切り方は、もう就任当初に世間が言った「お飾りのお嬢さん社長」の声ではなかった。父の椅子を守るためではなく、父が大事にしたものを守るために怒れる人なのだと、この夜ようやく分かった気がした。

翌日の午後、俺ははるかの了承を取り付けた上で、本社三階の会議室に堀口を一人で呼び出した。机の上には、三つの紙の山だけを並べておいた。ブラインドの隙間から刺す午後の光が、紙の山に縞模様の影を落としている。

呼び出しの内線を入れてから現れるまで、十二分。その十二分で、この男は言い訳を考えていたのだろう。

「資料室の平田君が、随分大きな会議室を使うんだな」

「お借りしたのは部屋じゃなく、時間です。事実が先だ。言い訳は、紙を見てからにしてください」

静まり返った会議室に、紙をめくる音だけが続いて、それが三度止まった。三度目に止まったのは、受付印のページだった。堀口の指の震えが、紙の白さに照らされてゆっくりと、確かに剥がれていく。

「これを、どこまで?」

「監査役と社長と顧問弁護士まで。今のところは」

「今のところは」という言葉を聞くなり、堀口の指が紙の端を強く掴んだ。

「待て、待ってくれ。私は、私は指示されただけだ」

単に回る速さだけは、濡れ衣を着せたあの冬から少しも変わらない。

「専務だ。犬井の指示だ。炎上の段取りもトレンドリンクも、私が選んだんじゃない。言われた通りにやっただけだ」

「この指示を、書面か録音で証明できますか」

堀口の口が開いたまま止まった。現金と証拠の違いを、広報部長を長くやってきた男が知らないはずはない。それでも、実行犯の自白には別の使い道がある。崩れた駒が盤の上に残っているだけで、王の選べる手は確実に減っていくのだ。

犬井は証拠を残さない。発注は全て堀口に押させ、電話は秘書を通さず、社内メールには指示の一行も書かない。実行犯にだけ手を汚させておいて、自分は会議室の神座で「会社のためだ」と言い放つ。

堀口は最後に、絞り出すように言った。

「証言する。処分が軽くなるなら、何でも話す」

「何でも話す」の中身が保身の通過でしかないことに、この男はおそらく最後まで気づかない。会議室を出ると、廊下の窓の外で秋の夕日が沈んでいた。実行犯は落ちた。だが、黒幕の椅子にはまだ指の一本も届いていない。

その夜のうちにはるかは腹を決めて、臨時取締役会の招集を全役員へ通知した。議題は「ガバナンス体制の検証」。日付は翌週の月曜。招集の通知が八階を回った直後、犬井の側近の役員から監査役へ会食の誘いが届いたという。さらにこの夜を境に、入田のトレンドリンクからは当社への請求が一件も来なくなった。切り捨ての気配というものは、いつだって金の流れが一番先に教えてくれる。

月曜の会議室が、最後の対決の場所になる。決戦までの数日間、俺たちは紙の要塞を積み上げた。美吉は伝票の流れを時系列の表に起こし、旗中はサーバーの記録に照合の日付をつけた。俺は堀口の証言を顧問弁護士と詰め、はるかは監査役を一人ずつ訪ねて、根回しという名の成功法を歩き切った。

入田からはるかの携帯に連絡が入ったのは、決戦を翌日に控えた夜のことだ。「切られる前に売る」。あの男の商売の流儀が、こちらの最後の駒になった。

決戦の月曜の朝、八階の大会議室には全役員と監査役に顧問弁護士までが顔を揃えた。楕円の机の上座には犬井が深々と腰を下ろし、その正面の席ではるかがただ一人、立ち上がっていた。俺は疑似資料の箱を抱えて、はるかの斜め後ろに影のように控える。ここへ来るまでの廊下で、あの「早すぎた靴音」は俺の足音と並んで歩く速さに変わっていた。

「資料室の者が、何の用だ」

「彼は、私が呼びました」

低い嘲りが楕円の机を一回りして、それから水を打ったように引いていった。はるかは手元の資料に視線すら向けず、議題を読み上げた。議題はガバナンス体制の検証。具体的には、当社を狙った二度の炎上と、社内資金の不正な流出について。

犬井の眉は一ミリも動かず、湯のみへ伸びる手にも揺らぎ一つ見えなかった。役員の半分は犬井の息がかかった顔ぶれで、この部屋は今もこの男の城だった。城を落とすなら、外堀からだ。

資料の箱から最初の束を配りながら、俺は相談室の電話口を思い出していた。詫びる側から事実を述べる側へ。長い回り道の果てに、ようやく言葉が役目を変えた。

「お手元の一枚目をご覧ください。広告宣伝費として半年間で二千四百万円、株式会社トレンドリンクへの支払いがあります。発注者は全て広報部ですが、対応する納品物がどこにも存在しません」

資料をめくる乾いた音が、波のように楕円の机の端から端まで渡っていく。

「二枚目。トレンドリンクはSNS上の世論誘導を受け請け合う会社です。炎上の発端となった投稿の写真には、半年前に終売したロットが映っていました。最初の炎上は自然発生ではなく、金で作られた放火です」

堀口の指先が机の下で、小さく動いたのが見えた。

「三枚目は三年前、当社の苦情報告書が調査委員会への提出前夜に差し替えられた、サーバーの更新履歴です。差し替えた端末は広報部長席。そして、改竄前の正本もここにあります」

視線が一斉に堀口へ流れた。堀口は顔を上げないまま、用意してきた文面を読むように言った。

「全て、犬井の指示で行いました。陳述書は監査役へ提出済みです」

部屋の空気が音を立てて割れた。だが、それでも犬井は湯のみを静かに置いただけだった。

「証拠はそれだけかね。読み物としては、よくできているが」

この男は慌てるそぶりすら見せずに、ゆっくりと役員たちの顔を見回している。

「伝票の判は全て堀口君。サーバーの端末も広報部長席。陳述書とやらは、追い詰められた男の虚言だろう。私の名前が書かれた紙が一枚でもあるのかね」

証拠はない。この男は四十年あまり、この城の中で証拠を残さずに生き延びてきた。だが、記録は紙だけではない。

会議室の扉が外から開いて、こちらが招いておいた最後の出席者が悠然と入ってきた。細身のジャケット、季節外れの日焼け。入田涼だった。

「どうも、トレンドリンクの入田です。ああ、皆さん怖い顔。安心してください。今日は商売じゃなく、証言に来ました。うちみたいな商売はね、切られる時のために保険をかけるんです。発注の際の録音ですよ」

ざわつきの中で入田はスマホを机の中央に置いた。再生しても、犬井が何かを言うより早くはるかが頷いた。スピーカーから流れてきたのは、聞き間違いのない低い声だった。

「燃やせ。小娘の看板も、平田という男の口も構わん。それが会社のためだ」

凍りついた部屋の中で、録音は誰にも止められないままなおも先へ続いていく。オートパートナーズという投資ファンドの名前と、再編後の売却益の取り分けと、そして先代の名前。

「ついでに申し上げると、その売却話は先代がご存命の頃から、専務がお一人で進めていたものです。うちはその頃からの雇われですから、よく知ってます。データの原本はもう監査役さんへお渡し済みですので」

はるかの横顔から、色が引くのが分かった。父の椅子を狙っただけでなく、父の生前からこの男は会社を売り物として値踏みしていた。

「出鱈目だ」

声が初めて揺れた。

「私は間違っていない。五十年かけて、私が支えてきた会社だ。小娘の玩具にされるくらいなら、高く売って何が悪い」

それは告白と同じだった。稲光が走るように、役員たちが一人また一人と、気まずそうに犬井の顔から目をそらしていく。監査役が低い声で決議を求めると、賛成の挙手は予想外の速さで、残らず揃った。

専務取締役の解任。退職慰労金の全額不支給。会社に与えた損害一億二千万円の賠償請求と、刑事告訴の手続き。堀口は懲戒処分を受けて会社を去り、退職金は一円も出ない。

立ち上がった犬井は、最後まで頭を下げなかった。「私は間違っていない」。腰から力が抜けたように一度よろけて、それでも椅子の背を杖のように掴んで、男は会議室を出ていった。謝罪のない背中を、誰も追わなかった。五十年この会社にいた男の最後の足音は、絨毯に吸われて何も残らない。ただ、廊下の先で重い扉の閉まる音だけが、妙にはっきりと耳の奥に残った。

許す機会すら受け取らずに去る人間へ、用意しておく言葉はない。胸が救くという感覚より先に来たのは、長い長い息だった。

午後の記者会見には、付き添いの役員を断ってはるかがたった一人で立った。

「今回の騒動では、十三万件を超える拡散がありました。その一つ一つに当社への期待と失望が込められていたと受け止めています」

はるかは事実関係を淡々と説明し終えると、最後に父の書斎の古い手帳を開く。

「信用は実に資本であって、商売繁盛の根底である。渋沢栄一の言葉で、父が手帳の一ページ目に書き写していた言葉です。当社には、お客様の声を読まずに捨てた時期がありました。二度と繰り返さないために、組織を一つ作ります」

最前列の記者が手を上げて、社長ご自身も標的だったことへの気持ちを尋ねた。

「個人としての気持ちは横に置きます。会社としては、二度と声を捨てない。それだけです」

ここで発表されたのは、「お客様価値室」という聞き慣れない名前の新しい部署だった。苦情と相談の全てが社長直通で集まり、商品開発と検品に直結する組織だという。室長として読み上げられたのは、俺の名前だった。これで「資料室の平田」という呼び名も終わりだ。旗中が広報から名乗りを上げ、美吉は予算の半分は俺が預かると笑う。地下の箱たちは、新しい部屋の棚へ移ることになった。十年分の声が、今日まで捨てられずに残った。

地下でダンボールを数えていた男の人生は、一夜の火消しから始まって音を立てて変わっていく。トレンドリンクの件は警察と弁護士に委ねられ、主要取引先十七社が契約を切ったと後の報道が伝えた。数日のうちに最初の炎上の発端アカウントも特定されたと、弁護士から報告が届いた。雇われた投稿の主は、買ったこともない商品の写真と引き換えに一万二千円を受け取っていたという。

お客様価値室立ち上げの日、廊下ではるかが小さく笑った。

「最初の仕事は決まってる?」

「ええ。ただ、その前に行かなければならない場所があります」

はるかは何も聞かずに、ただ深く頷いた。

週末、俺は始発の電車を乗り継いで郊外の霊園へ向かった。沢井正美さんの墓の場所は、当時の同僚だった記者に無理を言って教えてもらった。丘の中腹の、海の見える区画。電車の窓から見えた海は灰色だったのに、最寄り駅に着く頃には薄い青へ変わっていた。

道中ずっと、膝の上の鞄が重かった。入っているのはノートが一冊だけなのに、十四年の重みが丸ごとそこへ乗っていた。霊園の入り口で買った花は、白い小ぶりの菊にした。派手な飾りは、あの人には似合わない気がしたからだ。

墓石は小さく、けれど隅々まで丁寧が行き届いていて、誰かが通い続けていることが分かる。俺は花を備えて、桶の水で墓石を丁寧に清めてから、鞄の中の取材ノートを取り出した。

「平田です。遅くなりました」

後の言葉が続かなかった。謝罪の言葉なら、この日のために何百通りも考えてきた。だが、言葉で詫びる資格を俺は当の昔に使い切っている。だからこそ、行動で示すと決めていた。

俺は墓碑にしゃがんで、ノートの白紙の最終ページを開き、ペンを握った。どうしても書けなかったたった一行を、震える手でゆっくりと書く。

「あなたは誰よりも会社を守った人でした」

俺はそのページを墓碑に向けて、両手で開いて見せた。

「記事は取り消せません。あなたの職場も時間も返せません。だから俺は、これからの仕事で書き直します。苦情を読む側は、燃やされる人の隣に立つ側の仕事で」

風が丘を登ってきて、ページの端を小さく揺らした。返事はない。これから先も永遠にない。それこそが、俺がこれからの人生で背負い続けていくと決めた結末そのものだった。許される機会は、人が生きているうちにしか巡ってこない。その当たり前のことを、俺は長い月日と一つの墓から教わった。視界が滲んで、墓に刻まれた名前の文字が揺れた。

帰り際、霊園の管理人に声をかけられた。

「沢井さんのお知り合いですか。初めてですよね。いつも見えるのは、昔の部下さんだという方たちだけなので」

聞けば、命日になると数人の男たちが連れ立ってお参りに来るのだという。部下を守った沈黙は、これだけの時が流れた今も、こうして人を呼び続けている。俺の記事が燃やしたものの大きさと、それでも燃やせなかったものの強さを、同時に見せられた気がした。

俺は最後にもう一度だけ深々と礼をして、丘を降りた。ノートは持って帰ることにした。最終ページまで書き切った今、これはただの過去の遺品ではない。明日からの仕事の、最初の一冊になる。

帰りの電車が町へ戻る頃、俺は迷った末にはるかへ短いメールを打った。行ってきました、とだけ。返信は驚くほどすぐに来て、画面には「お帰りなさい」の文字。それで十分だった。

月曜の朝が来る。新しい部署の、最初の朝だ。完全に償われた人生など、多分どこにもない。それでも欠けた場所を抱えたまま歩く人間にも、月曜の朝は等しくやってくる。俺はもう、その朝に背を向けないと決めていた。

あれから半年が経った今も、俺は週に一度、地下の資料室に降りている。古い髪の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、不思議と背筋が伸びる。追われた日々の匂いだったはずのものが、今では始まりの匂いに変わっている。

お客様価値室には、毎日百件を超える声が届く。旗中は苦情対応の記録を一冊のノートにまとめ始めていて、表紙には「心へ」と大きく書いてある。

先週の深夜、取引先の若い広報担当から泣きそうな声で電話が入った。小さな炎上が始まって、どうしていいか分からないという。俺は朝まで付き合って、「事実と謝罪と対応を分けること」だけを繰り返し伝えた。翌朝に出たその会社の声明は、誠実だと報道で賞賛されていた。

電話を切る間際になって、「平田さんみたいな人がうちの社内にもいてくれたら」と彼は言った。

「なら、あなたがなればいい」

俺はそれだけを返した。

昼休み、俺は久しぶりに八階の社長室へ呼び出された。はるかは机の引き出しから一通の古い封筒を取り出して、こちらへ差し出してくる。表には、先代の字で「平田君へ」とある。

「遺品の整理で見つけたの。あなたに渡すべきか、ずっと迷ってた。でも、今なら父も『渡せ』っていう気がして」

封筒はまだ開けていない。開けるのは、この仕事で胸を張れる日でいいと決めている。

「ねえ、平田さん。あなたは私の、灯台だった」

「ええ。これからも、灯台という古い言葉の続きを」

はるかは、言わなかった。言わない続きごと、俺は受け取った。来週の金曜には、二人で食事に行く約束がある。

苦情の手紙の束を抱え直し、俺は再びお客様価値室の扉を開く。小さな声を一つもこぼさない。その全てと向き合うことだけが、沢井さんへの唯一の償いだ。

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