冬の夜に、最も冷たいものは何か。窓の外の雪でも、古い部屋の隙間風でもない。ポストに静かに落ちてくる、赤いスタンプの押された1枚の封筒だ。それは音もなく届き、その夜のうちに、一人の人間の人生を静かに変えていく。
北海道の小さな港町。2026年11月、今年初めての北風が吹く朝。67歳の黒川千津は、燃えるゴミ袋の口をきつく縛り終えた。背筋は定規で引いたようにまっすぐで、白いものが混じった髪は、一本の乱れもなく後ろで束ねられている。
ゴミ出しは完璧だった。ペットボトルのラベルは全て剥がし、キャップは外し、中を軽くすすいで乾かしてある。牛乳パックは開いて洗い、指定の束ね方で縛った。この町ではゴミの出し方を見れば、相手の暮らしぶりが分かると誰もが無意識に信じている。だから千津は毎週、誰よりも完璧にゴミを出す。見られているからではない。見られていないと確信できないからだ。
背後から近づいてきたのは、町内会の組長を務める胃石ふさ子だった。5年以上の付き合いだが、親しいというわけではない。この町特有の距離感の中で続いてきた関係だ。
「おはようございます。胃石さん。寒くなりましたね」
声は柔らかく、聞くものを緊張させない穏やかさを持っていた。
胃石は一瞬、千津の手元のゴミ袋に視線を落とし、それからゆっくりと目を上げた。
「ええ、本当にもう冬ねえ」
それだけを言って、彼女は足を止めずに歩き過ぎた。
自宅に戻り、千津は台所に立って夜釜を火にかけた。朝食は、前の夜に炊いて残しておいた米を温め直したものに、梅干が1粒と、スーパーの特売で買った薄切り鮭が2枚。それだけだった。
図書館の清掃は午前10時から午後2時まで。仕事の内容は細かく把握してあり、手順は全て頭に入っていた。食器を洗い、布巾で丁寧に拭いてから、千津は外出の準備を始めた。コートのボタンを全て止め、マフラーを首に巻き、底の厚いウォーキングシューズを履く。玄関を出る前に、靴箱の上の小さな鏡で自分の髪を確認した。乱れはない。いつも通りだ。
図書館までは歩いて30分かかる。途中、コンビニの前を通った。ガラス張りの店内が明るく、レジの前に若い女性が並んでいるのが見えた。千津はそちらを見ないようにしながら通り過ぎた。
図書館は築40年近い古い公共施設で、千津がここで清掃の仕事を始めたのは3年前のことだった。週5日、1日4時間、時給950円。定年退職した夫の残した貯金と自分の国民年金だけでは、家の維持費と生活費が足りなくなってきたため、近所の人に紹介してもらった仕事だった。
清掃カートを引き出し、モップを取り付け、千津は仕事を始めた。1階のフロアから順番に、床の間を1列ずつモップを動かしていく。本棚の下の埃を落とし、読書テーブルの足元を丁寧に拭く。自分の仕事が誰かに見られているとは思っていないが、だからと言って手を抜くことはしない。モップの跡が真っ直ぐになるよう、進む方向を変えるたびに体の向きを整える。
午後1時を過ぎた頃、学習スペースの隣の床を清掃していた時、高校生の2人組がひそひそと話しているのが耳に入った。
「あのおばさん、ずっといるよな」
「毎回来るたびに同じとこ拭いてる」
もう1人が笑いをこらえた声で返す。
「パートじゃない? かわいそう」
千津はモップを動かす速度も、体の向きも何も変えなかった。聞こえていないふりをするのではなく、聞こえていたとしても、それが自分に影響を及ぼすことを許さないかのように、ただ黙って手を動かし続けた。
午後2時ちょうどに作業を終え、高階衣室で私服に着替え直した。帰りは別の道を通った。スーパーによる必要があったが、自宅の近くの店ではなく、3つ先の駅の隣にあるスーパーを選んだ。少し遠いが、自宅近くの店では顔見知りに会う可能性が高い。
店内に入り、小さなかぼちゃともやしの袋と豆腐を一丁カゴに入れた。それから鶏肉コーナーで鶏胸肉の特売品を手に取り、値段を確認してから戻した。198円。今日は買えない。レジに向かいながら千津は頭の中で今月の残高を計算した。年金の振り込みは先週あった。月に8万4000円。そこから家賃として1万5000円を毎月積み立てている。電気代と水道代を合わせれば8000円前後。食費は1万円以内に収めたい。計算すれば分かることだった。足りない。ずっとじわじわと足りない。
レジで会計を済ませ、千津は布の買い物袋に商品を自分で詰めた。隣のレジで見知った顔が視界に入ってきた。同じ町内会の女性、奥山さんだった。彼女は千津の買い物袋を目にした瞬間、目を輝かせた。
「あら、黒川さん。こんなところで。何買われたの?」
千津は自然な笑顔を作った。長年の習慣で、その表情はほとんど自動的に出てくる。
「少し足りないものがあって。今日は寒いですものね」
奥山が千津のカゴの中をさりげなく見た。もやしと豆腐とかぼちゃ。
「黒川さん、最近はお1人で買い物されてるんですか? 息子さんは東京でしょう」
「ええ、あちらも仕事が忙しいようで」
千津はそれだけ答えた。
家に帰り着いたのは夕方の4時を少し過ぎた頃だった。玄関の扉を開ける前に、千津はポストを確認した。ポストを見るのは、この家で唯一嫌いな動作になっていた。いつからそうなったのかは正確には覚えていない。しかし、夏の終わりから、この行為が少しずつ怖くなってきた。
ポストの蓋を開けた。中に一通の封筒があった。白い長封筒。表には千津の名前と住所が印刷されており、左上に送り主として「株式会社 写真は審判」という社名が入っていた。右端の切手の代わりに、赤いスタンプで「重要書類」と押されていた。
台所に入り、電灯のスイッチを入れた。蛍光灯が1度瞬いて、寂しい光で台所を照らした。千津は天井の明かりではなく、作業台の下についた小さな手元灯をつけた。こちらが電力が少ない。
封筒の糊付けフラップを、ゆっくりと丁寧に剥がした。破らないように、切り口が真っ直ぐになるように。こういう時でも癖が出る。中から折りたたまれた紙が出てきた。2つ折りにされたA4サイズの書類だった。
開いた書類の上部に、横書きで「債務返済請求書」と書かれていた。千津の視線がゆっくりと文をなぞった。難しい法律用語が並んでいたが、その意味は十分に理解できた。むしろ、理解してしまった。
7年前、息子の健一が東京で開いた小さなカフェの開業資金の一部を、千津は連帯保証人として銀行から借り入れた。健一は自信満々だった。腕も良く、料理の腕もあり、すぐに軌道に乗ると言っていた。千津も疑わなかった。息子を信じることが、母親としての唯一の形だと思っていたから。
カフェは3年後に閉店した。健一からは「処理する」という短いメッセージが来ただけで、その後の具体的な説明は1度もなかった。千津がいくら電話をしても、出ないか、出ても「忙しい」で話すという返事しか帰ってこなかった。
そして今年の夏、一通の書類が届いた。滞納した借入れ金の返済を求める通知だった。千津はその時初めて、健一が借金の返済を長期間放置していたことを知った。
手元の書類には、元金と利息と延滞損害金を合算した金額が記されていた。
216万円。
千津は書類を読み終えた後もしばらく、そのまま台所に立っていた。両手が冷えていた。書類をもう1度畳んだ。元の折り目に沿って、丁寧に正確に折り直した。それを封筒に戻し、台所の引き出しの奥に滑り込ませた。
夕方5時を過ぎると、日本海側の冬の空はあっという間に暗くなる。千津は、テレビの上に置いてある黒い固定電話を見た。受話器を手に取り、健一の番号を押した。長年使ってきた番号で、押さなくても指が覚えている。呼び出し音が鳴り始めた。1度、2度、3度——止まらない。5回、6回、7回と呼び出し音が続いた後、自動に切り替わった。
「お客様のおかけになった電話は、ただ今繋がりません。しばらくしてから、お掛け直しください」
千津は受話器を元の場所に戻した。特に強くでも弱くでもなく、ただ元の場所に戻した。台所に戻り、かぼちゃを切り始めた。皮が熱くて固く、包丁を入れるのに力がいった。途中で一度、包丁を置いた。窓の外で風の音がした。千津はもう1度包丁を手に取り、かぼちゃを切り続けた。
食卓に並べ、椅子に座った。外は完全に暗くなっていた。手元だけの薄暗い台所で、千津は1人で食事をした。箸がどこか自動的に動いている気がした。食べているのに、食べている実感がない。かぼちゃの甘みも豆腐の柔らかさも、いつもより遠くにある気がした。
食べ終わった後、千津は食器を洗い、台所を拭き清め、ゴミ袋の口を縛った。全ての動作が正確で丁寧で、いつもと変わらなかった。
寝室に移り、布団の縁に腰かけた。胸の奥に何かが詰まっているようで、それが何なのかうまく表現できなかった。怒りとも悲しみとも違う。恐怖にも近いが、正確には違う気がする。ただ、呼吸が普段より少し浅くなっていて、息を吸うたびに胸の真ん中の辺りがかすかに引きつった。
枕に頭をつけ、千津は天井を見上げた。
216万円。その数字が頭の中でもう1度浮かんだ。
年金が月8万4000円、仕事の収入が月に約7万円。ただし、今後は減る可能性がある。家の固定資産税、光熱費、食費。全て計算しても、216万円には到底届かない。健一に電話は繋がらなかった。千津はそのまま目を閉じた。
12月に入ると、北海道の冬は本格的な顔を見せ始める。黒川千津は朝の5時50分に目を覚ました。布団の中でしばらく天井を見ていた。眠れたのか眠れなかったのか、自分でもはっきり分からないまま朝になっていた。6時になれば窓を開けて換気をする。それは30年以上続いてきた習慣で、体の調子がどうであれ変わらなかった。
図書館まで歩いて向かう道の途中、千津は石油ストーブの灯油を売っているガソリンスタンドの前を通った。今年は1リットル128円だった。去年より10円高い。千津は自宅の石油ファンヒーターのことを考えた。11月の終わりから使い始めなければならないはずの時期に、まだ1度もスイッチを入れていない。代わりに厚手のセーターを3枚重ねて着て、台所では鍋を火にかけながらその湯で部屋を温めた。
図書館につき、清掃を始めて1時間ほど経った頃。館長補佐の佐田という30代の男性が、申し訳なさそうな表情で近づいてきた。
「黒川さん、少しよろしいですか?」
千津はモップを壁に立てかけ、両手を前で重ねた。
「はい。何でしょうか?」
佐田は一度視線を床に落としてから、千津の方を向いた。
「えっと、来月のシフトのことなんですが——。令和8年度の予算案が正式に決まりまして、公共施設の委託費が削減されることになったんです。それで、黒川さんの勤務日数を来月から週2日にさせていただくことになりまして」
千津は佐田の言葉を、一言一言丁寧に受け取った。週5日が週2日になる。月に約7万円あった収入が、3万円を切る水準になる。
「そうですか?」
千津は言った。声の高さも速さも変えなかった。
「ご連絡いただいてありがとうございます」
佐田が困ったように眉を下げた。
「本当に申し訳ないんですが、うちだけじゃなくて、町内の公共施設全体でこういう方針になってしまって」
午後2時に仕事を終えた帰り道、千津はいつもと別のルートを歩いた。目的は、三つ先の駅の隣にある大型スーパーだった。夕方遅い時間帯には、生鮮食品の値引きが大きい。店内に入ったのは午後6時過ぎで、まだ値引きシールは貼られていなかった。千津は急ぐ様子を見せず、野菜コーナーをゆっくり回り、時計の針が7時に近づくのを待った。
7時15分を過ぎた頃、千津は総菜コーナーへと移動した。棚には半額シールの貼られたパックが数種類並んでいた。千津は一度だけ全体を見渡し、豚の生姜焼き弁当と総菜のパックを手に取った。それをカゴの底に入れ、すぐ上からキャベツの4分の1カットを重ねた。見た目はキャベツを買いに来た人間だ。
レジに向かいながら、千津の視線が自然にレジ回りを確認した。2番レジに見知った横顔があった。先本という女性だった。千津と同じ町内会で、子供が同じ小学校に通っていた時代から顔を知っている。先本は買い物カゴを持ち、背中をこちらに向けていた。千津は3番レジに並んだ。先本のいるレジの隣だった。
「あら、黒川さん」
先本が目を丸くしていった。
「こんな遠くのスーパーまで」
「ちょっと用事がありまして、ついでに」
千津は穏やかな声で答えた。先本の視線が一瞬、千津のカゴの中に向いた。千津はその視線を皮膚で感じた。キャベツが最も目立つ位置にある。
「黒川さん。お体の方はお変わりなく? 最近あまり顔を見なかったから」
「ええ、おかげ様で。先本さんはお元気そうで」
「息子さんは東京でしたよね。お正月は帰ってくるんですか?」
千津の唇の形は変わらなかった。微笑みのまま、目が2度ほど瞬きをした。
「そうできれば嬉しいんですが、あちらも忙しいようで。今年は難しいかもしれません」
帰り道を歩きながら、千津は先本の言葉を頭の中で繰り返した。帰ってこない。健一から正月の連絡が来たのは、いつが最後だったか。3年前か4年前か。カフェが閉まってからは、ほとんど連絡がなかった。
自宅に着き、買ってきた弁当はまだ温かかった。レンジで温め直す必要はない。台所の手元灯だけつけて、弁当の蓋を開けた。豚の生姜焼きと白飯。量は少ないが、この数週間で1番まともな夕食かもしれなかった。箸を手に取った時、固定電話が鳴った。
千津は箸を置き、受話器を取った。
「はい。黒川です」
「黒川千津様のお電話でよろしかったでしょうか?」
男性の声だった。落ち着いた低い声で、言葉の区切りが平板だった。
「私、神話審判の債権管理部と申します。本日はご確認のためにお電話させていただきました」
「先日お送りいたしました返済請求書はご確認いただけましたでしょうか?」
「はい。受け取りました」
千津は言った。声は静かだった。
「誠に恐れ入りますが、現在の滞納額と延滞損害金を合算した金額は、216万4000円になっております。返済請求書にもございました通り、来月末までに最低限の弁済として20万円のご入金がない場合、担保物件——つまり黒川様のご自宅の競売手続きを開始させていただくことになります」
「現在、少し手続きを進めているところです」
千津は言った。
「もう少しお時間をいただけますでしょうか?」
「具体的にはどのようなご予定でしょうか? 書類のご準備でしょうか? それとも、資金的な目途が立ちつつあるということでしょうか?」
「はい。息子とも相談をしておりまして」
電話の向こうで、男性がわずかに間を置いた。
「承知しました。では、来週また改めてお電話させていただいてよろしいでしょうか?」
通話が切れた。千津は受話器をゆっくりと置いた。「息子とも相談をしておりまして」といったその言葉を、今更のように頭の中で聞いた。健一に電話をかけ続けて、1度も繋がっていない。相談などできていない。ただ、他に言える言葉がなかった。
台所に戻り、弁当の前に座った。半分ほど食べたところで箸を置いた。胸の下あたりに何かが詰まっているような感覚があって、それ以上のものが通らなかった。
今に移り、椅子に腰を落とした。ストーブはつけていない。セーターを3枚着ていたので、しばらくは体温が保てた。窓の外では雪が降り始めていた。細かい粒の雪で、街灯の明かりに照らされると白く光って見えた。
千津は固定電話を見た。健一にもう1度かけてみようかと思った。何度かけても出ない番号に、また同じことをする意味があるかどうかは分からなかった。それでも、かけずにいることの方が難しかった。
受話器を持ち上げ、番号を押した。呼び出し音1度、2度、3度、4度目の途中で電話が繋がった。千津は思わず息を止めた。繋がるとは思っていなかった。しかし、聞こえてきたのは健一の声ではなかった。
「はい」
女性の声だった。健一の妻、冬の声だった。
「もしもし、千津です。健一はいますか?」
短い間があった。
「今、席を外しています」
冷静な声だった。感情の起伏が感じ取れない。
「そうですか。あの、少し急ぎの件があって。実は銀行から——」
千津の言葉の途中で、冬が遮った。
「健一には伝えておきますが、今は難しい状況で。景気が良くないのはお母さんもご存知ですよね。子供の学費も来年から上がるし、うちも余裕がないんです」
口調は丁寧だったが、その丁寧さが壁のような効果を持っていた。
「お金のことは、私たちにはどうにもできません。それに、あの借金は元々、お母さんが判を押したことですから」
千津は何も言えなかった。
通話が切れた。千津は受話器を耳に当てたまま、しばらく動かなかった。「元々、お母さんが判を押したことですから」という言葉が、頭の中で静かに繰り返された。確かにそうだった。判を押したのは千津自身だった。健一が頼んできた時、断れなかった。断る方法が分からなかった。息子が夢を語る時、母親は背中を押すものだと、そう信じていた。
1月という月は、日本が正月の余韻に浸っているように見えて、その実、静かに人を追い詰める性質を持っている。黒川千津の通帳残高は、1月の第2週に入った時点で15万円を割り込んでいた。銀行からは年末に再び電話があり、1月末までに20万円の入金がなければ手続きを進めると改めて告げられた。千津はその時も穏やかに返事をした。少し待ってほしい。検討している。そう答えながら、何を検討しているのかは自分でも分からなかった。
図書館の勤務はすでに週2日に減っていた。家にいる時間が増えると、寂しさが濃くなる。夫が生きていた頃は、この家はもう少し音があった。テレビの音、新聞をめくる音。小さな音の集まりが家の温度を作っていたのだと、いなくなってから気づいた。今は自分が動く音しかない。
その週の木曜日、千津のポストに1枚の葉書が届いた。差出し人は町内会だった。内容は、翌日日曜日に行われる新年会の案内だった。会費は4000円。
千津はその葉書を台所のテーブルの上に置き、しばらく眺めた。4000円という金額が、今月の千津にとって何を意味するか。それは計算するまでもなく分かっていた。4000円は、もやしと豆腐と卵を買い続ければ1週間分の食費に相当した。もしくは、目薬を3本買えた。ストーブの灯油を3リットル入れられた。
しかし同時に、この新年会を欠席することが何を意味するかも千津には分かっていた。この町で町内会の行事を正当な理由もなく欠席するということは、見えないところで様々な推測を生む。欠席すれば不在が目立つ。出席すれば4000円を失う。どちらを選んでも、何かを失う。
千津は翌日、出席の返事を出した。
日曜日の朝、千津は普段より丁寧に準備をした。タンスの引き出しを開け、1番上に畳んである紺のカーディガンを取り出した。鏡の前で髪を確認し、一本の乱れも出ないようにヘアピンを増やした。口元には、引き出しの奥にある薄いピンク色のものを取り出し、唇に軽く乗せた。何年前に買ったものか覚えていない。玄関を出る前に財布を確認した。1000円札が3枚と小銭。会費の4000円は昨夜のうちに封筒に入れて用意してあった。
町内会館まで歩いて10分ほどかかった。道は昨日の雪がうっすら残っていて、日陰の部分が凍って光っていた。千津は歩幅を小さくして、慎重に足を置きながら進んだ。転ぶことより、転びそうになる格好を誰かに見られることを警戒していた。
会館の中は暖房が効いていて、畳の広間にテーブルが並べられ、すでに30人ほどが座っていた。胃石ふさ子が上座の近くに座り、組長として場を仕切っていた。千津を見つけると、軽く頭を下げた。千津も同じように頭を下げ、甕際の席に腰を落ち着けた。
隣に座ったのは、70代の岡田という女性だった。夫を早くになくし、1人で畑仕事をしながら暮らしていると聞いていた。千津とは顔を合わせれば話す程度の付き合いだったが、穏やかな気性の人で、千津は嫌いではなかった。
「寒かったでしょう。今日は黒川さん、歩いてきたの?」
「ええ、近いので。岡田さんはお変わりなく」
「まあね。去年より腰がいうことを聞かなくなってきて、難儀してるけど」
岡田は笑った。しわだらけの目が細くなった。
「でも、来年もここに座っていたいから、なんとか動いてるわよ」
料理が運ばれてきた。おせち料理の盛り合わせと温かいお吸い物。千津は料理に箸を伸ばしながら、自分が今月、ほとんどまともな食事をしていないことに気づいた。蓮根の煮物の甘辛い味が、思いの外染みた。しかし、それを素直に楽しむ気持ちにはなれなかった。4000円分の食事だという意識が、頭の隅から離れなかった。
会話が弾み始めたのは、料理が一通り出揃った頃だった。向いのテーブルに座っていた50代の主婦数人の話し声が、千津の耳に届いてきた。
「ねえ、聞いた? 北三条目の桑原さんのところ」
「ああ、あそこ先月急にいなくなったでしょう」
「夜逃げよ。夜逃げ」
千津の手が止まった。
「旦那さんが事業で失敗したらしくて。借金ができて、それで逃げたって話よ。子供も一緒に」
「でも、近所迷惑よね。黙っていなくなって、荷物も少し残ったままらしくて。後始末をどうするのか、大家さんも困ってるって」
「そういう育て方をするから、そういうことになるのよ。親がだらしないと、子供がかわいそう」
「まあ、大体分かるのよね。こういうことになる家って、前から様子がおかしかったもの」
「挨拶はしてくれてたけど、目が泳いでるって感じで」
話し声は続いていたが、千津はそれ以上細かく聞いていなかった。「夜逃げ」「借金」「黙っていなくなった」「近所迷惑」「目が泳いでいた」。それが自分のことを言われているわけではないことは分かっていた。しかし、頭の中でそれぞれの言葉が、千津自身の状況に重なった。重なってしまった。「挨拶はしてくれてたけど、目が泳いでる」という言葉が、特に頭に刺さった。もし千津が今と同じ状況のまま家を失えば、この人たちは同じように話すだろう。自分が席を外した後で、きっと同じ声のトーンで話すだろう。
「黒川さん、お顔の色が悪いけど、大丈夫?」
岡田が横から低い声で聞いた。心配そうに眉を寄せて、千津の顔を覗き込んでいた。千津はすぐに微笑んだ。
「少し今朝から目がしょぼしょぼして。目薬をさしてきたんですが、効かなくて」
「冬は乾燥するからね。私もそれで困ってるわ。ちゃんと温かくして帰りなさいよ」
会が終わりに差しかかったのは正午を少し過ぎた頃だった。胃石が締めの言葉を述べ、手締めをしてお開きになった。帰り支度をしながら、千津は上着を羽織り、財布をバッグに戻した。今日使ったのは4000円の会費だけだった。出口に向かう途中で、胃石と目があった。
「黒川さん。今年もよろしくね」
胃石は短く言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします。今日は良い会でした」
千津は丁寧に頭を下げた。胃石がちらりと千津の顔を見た。何かを言いかけるような間があった。千津はその間に気づいたが、何も言わなかった。
帰り道を歩きながら、千津はさっきの会話を何度か頭の中で反芻した。自分はあの人たちと違うと思いたかった。あのような形で逃げ出すつもりは、千津にはない。それだけは確かだった。しかし、違うのはそこだけだった。お金がなく、家を失いかけており、頼れる者もいない。状況の細部は同じだった。違いは、千津がまだここにいて、挨拶を続け、会費を払い、髪を整えていると言うだけだった。それがいつまで続けられるか、千津には分からなかった。
家に帰り着き、コートを脱ぎ、カーディガンを丁寧に畳んでタンスに戻した。台所に立ち、お湯を沸かした。緑茶の安いティーバッグをマグカップに入れて、お湯を注いだ。今に移り、椅子に腰を落とした。
千津は健一にもう一度電話をかけようと思った。年末年始、かけ続けたが1度も出なかった。受話器を手に取り、番号を押した。呼び出し音が始まった。1度、2度、3度、4度、5度目で電話が繋がった。今度こそ、男性の声だった。
「はい」
健一の声だった。低くて、少し眠そうな声。千津はその声を聞いた瞬間、喉の奥がかすかに震えた。
「健一? お母さんよ。久しぶりね」
短い間があった。
「ああ」
という声があった。
「元気にしてた?」
「まあな。年末年始、何度かけたんだけど、繋がらなくて」
「忙しかったから」
それだけだった。理由も謝罪も、それ以上の言葉もなかった。
千津はそこで1度、息を整えた。
「あのね、銀行から連絡が来ていて。カフェの件の、保証金の話なんだけど」
電話の向こうが静かになった。
「来月末までに20万円を払わないと、家が競売にかけられるって言われているの」
「あの家は、お父さんと一緒に建てた家で、もうローンも終わっているし。私にはここしかなくて」
「分かってる」
健一が遮った。
「じゃあ、どうするの? あなたが立て替えてくれれば、私もできる限り少しずつ返すから。せめて今月末の分だけでも」
「無理だよ」
千津は何も言えなかった。
「こっちも余裕がない。冬も言ったと思うけど、子供の学費もあるし、今の仕事も安定してないし。正直、俺も限界でやってるんだよ」
声に怒りはなかった。疲れているか、あるいは面倒だと感じているか。そのどちらかのように、千津には聞こえた。
「でも、あの借金は、あなたのカフェのために——」
「知ってる」
健一の声が少し低くなった。
「それは分かってる。でも、俺には今、どうにもできない。弁護士に相談してみたら? 自己破産とか、任意整理とか、そういう方法があるって聞いたから」
「破産——」
千津はその言葉を口の中で繰り返した。健一が短く言った。
「俺、今日これから予定があって。また連絡する」
「待って——」
「また連絡する」
もう1度同じ言葉を繰り返した。通話が切れた。
受話器を膝の上に置いた。持ったままでいた。「また連絡する」という言葉が頭の中に浮かんでいた。いつ連絡するのか、何について連絡するのか。そのどちらも言わなかった。ただ、電話を終わらせるための言葉だった。千津はそれを理解していた。理解したくなかったが、理解してしまった。
窓の外は午後の光が薄くなり始めていた。暖房はつけていない。千津はしばらく動かなかった。健一の声を久しぶりに聞いた。しかし、何も変わらなかった。繋がらなかった電話が1度繋がったことで期待したものが、何もなかった。繋がらない方が、まだ「もしかしたら」という余地があった。繋がって「無理だよ」と言われれば、その余地も埋まった。
「自己破産」。その言葉がどういう意味を持つか、千津は漠然とは知っていた。財産を手放し、一定期間は一部の資格を持てなくなり、官報に氏名が掲載される。この町の誰かが官報を見るとは思えないが、知らないとも言えない。破産したという事実が、何らかの経路でこの町に届く可能性を、千津は完全には否定できなかった。家を失うことと、破産が知られることを同じ天秤に乗せている自分の頭が、どこかずれているような気もした。それでも、恐れは消えなかった。
1月の最終週。千津は決断した。役所に行くことにした。健一には頼れない。銀行への返済はできない。来月末に手続きが進めば、この家を失う。今、千津に残っている選択肢は、自分の力ではどうにもならないことを認めて、公的な窓口に相談することだけだった。
生活保護。その言葉を頭の中で声に出してみると、胸の奥でざらりとした感触があった。負けたという感覚に近かった。何に対して負けたのかは分からない。ただ、その言葉を口にすることが、今まで千津が積み上げてきたものをひっくり返すような気がした。
前の夜、千津は翌日の準備を丁寧にした。タンスの中で1番きちんとして見える服を選んだ。黒いウールのスカートと白いブラウス、その上に紺色のジャケット。葬儀の時に使う組み合わせだった。しわがないか確認し、目についた場所に軽くアイロンをかけた。首にシルクのスカーフを巻いた。夫から贈られたものだった。今では特別な日にしか出さない。役所に行く日が特別かどうかは分からなかったが、千津はそれを選んだ。
朝、鏡の前に立って自分を見た。背筋はまっすぐだった。髪に乱れはなかった。スカーフが首元を整えていた。しかし、それが何かの役に立つかどうか、千津には確信が持てなかった。鏡の中の自分の目が、いつもより少し落ち着きをなくして見えた。
役所は徒歩で20分ほどの場所にあった。千津は遠回りをして大通りを避け、住宅の間の細い道を選び、なるべく人の少ないルートを歩いた。役所の建物が見えてきた時、千津は1度立ち止まった。誰も千津のことを見ていなかった。見ていないのは分かっているのに、全員が自分を見ているような気がした。
深く息を吸い、千津は自動ドアに向かって歩き出した。受付の案内板を見て、「生活支援相談窓口」の場所を確認した。1階、突き当たりを右に曲がった先にある。千津は案内板を見る時間をなるべく短くした。長く見ていると、何を探しているか分かってしまう気がしたから。
廊下を歩いた。床がリノリウムで、歩くたびに靴底が小さな音を立てた。蛍光灯が白く均一に空間を照らしていて、どこにも影がない。公共施設の明るさには温度がない。用事をこなすための光で、人間を照らすための光ではない。
突き当たりを右に曲がると、正面に「生活支援相談窓口」と書かれたプレートが見えた。その向こうに、若い男性の職員が1人、書類を確認しながら座っていた。30代の前半か、あるいはまだ20代かもしれない。眼鏡をかけていて、首に細いストラップでIDカードを下げていた。表情は穏やかだったが、千津に気づいた時、その穏やかさに職業的な均一さがあった。
千津はカウンターの前に立った。
「失礼します」
職員が顔を上げた。
「はい。どのようなご要件でしょうか?」
事務的な声だった。
「生活保護の相談をしたいと思って、来たのですが」
千津が「生活保護」という言葉を声に出したのは、これが初めてだった。自分の声が少し小さかったのを感じた。音量の問題ではなかった。言葉を口にしたことで、それが現実の形を取ったような感覚があった。
職員に案内され、奥の小部屋に通された。部屋は小さく、窓がなかった。テーブルを挟んで向かい合うように椅子が置かれていて、テーブルの上には、担当者の石田という40代の男性が持ってきたファイルと、千津が記入した用紙が置かれていた。
「黒川さん、今日は生活保護のご相談ということで来られたんですね」
「はい。実は、家の方が来月末に競売にかけられることになっていて」
石田がメモを取り始めた。
「競売というのは、抵当権の実行ということでしょうか」
「はい。息子のカフェの借金を保証人として。その返済が滞っていて、担保として家が差し押さえられています」
「息子さんがいらっしゃるんですね。同居は?」
「いいえ。東京に住んでいます」
石田が千津を見た。眼鏡の奥の目が、事務的な観察をしていた。感情が見えなかった。この部屋でこういう話を何十回も聞いてきた人間の目だと思った。
「息子さんに、扶養してもらうことはできないんですか?」
千津の指が密かに膝の上で動いた。
「息子の方も、今余裕がないと聞いていて」
「生活保護の申請の際は、扶養義務者への確認が原則になっていまして。具体的には、行政の方から息子さんへ書類をお送りして、扶養の可否について回答を求めることになります」
千津は何も言えなかった。健一に、役所から手紙が届く。それがどういうことを意味するか。健一がその手紙を冬に見せる。冬が何か言う。あるいは言わずに、ただ冷たくなる。そのどちらにしても、千津と健一の間の距離が、もう少し広がる。
「また、生活保護の申請にあたっては、資産の確認が必要です。黒川さんはご自宅をお持ちですが、担保に入っているとはいえ、まず物件を換価してからということになります。つまり、家が売れた後でないと——状況によりますが、そういうことになる場合が多いです」
千津はテーブルの上の用紙を見た。自分が書いた数字が並んでいる。この数字が、1つの人生の全量に見えた。
「通帳の方は、今いくらくらいですか?」
石田がそのまま続けた。
「14万円ほどです」
「そうですか」
石田はメモに書いた。
質問は続いた。生命保険の有無、車の有無、田畑と呼べるものがあるか、親族の連絡先。千津はその1つ1つに、正確に短く答えた。答えながら、千津はこの部屋の圧迫感に気づいていた。窓がないこと、蛍光灯の光が頭頂からまっすぐに当たること、石田の声が感情を持たない平板さで続くこと。それが威圧的なのではなく、ただ無感動に事実を処理していく機械のような動きが、千津には息苦しかった。
「息子さんとの関係は、今どのような状態ですか?」
「疎遠とは言えませんが、連絡がなかなか取れない状態です」
「最後に話されたのは、いつですか?」
「先月、1度だけ電話が繋がって。それ以降は、出ていません」
石田が顔を上げた。
「お孫さんはいらっしゃいますか?」
「息子に子供が1人います」
「同居はされていない」
「はい」
「黒川さん。今日の段階では相談という形でお話を伺っていますが、正式に申請される場合は追加の書類が必要になります。お持ちいただきたいものをリストにして、今日お渡しします。それと、先ほど申し上げた扶養紹介についても、申請と同時に進めることになります」
「分かりました」
千津は言った。
「担保物件の競売については、現在の進捗状況を、弁護士か司法書士に相談されることをお勧めします。法テラスという機関があって、費用の負担が難しい方でも相談できる制度があります。ご存知でしたか?」
「いいえ」
石田がパンフレットを1枚、テーブルの上に出した。千津はパンフレットを受け取った。両手でそれを持ちながら、文字を読もうとした。しかし、目の前の文字が頭に入ってこなかった。頭がいっぱいで、新しい情報を受け取る余地がなくなっていた。
「他に何かご質問はありますか?」
千津は首を横に振った。
「いいえ。今日はありがとうございました」
立ち上がると、足に少し力が入らない感覚があった。千津は気づかれないように力を入れて、体を支えた。石田に案内されて廊下に出た。石田は名刺を差し出した。千津は受け取り、「ありがとうございます」と頭を下げた。
廊下を歩きながら、今し方話した内容が断片になって頭の中を流れていた。扶養紹介、資産の換価、法テラス。それぞれの言葉の意味は理解していたが、全体としてどう繋がるのかが、今すぐには整理できなかった。足だけが前に動いていた。
角を曲がって、廊下の途中に差しかかった時、千津の視界に人影が映った。反射的に顔を上げた。胃石だった。胃石は書類を手に持ち、別の窓口に向かおうとしていた。しかし、次の瞬間、胃石の視線が千津の方に向いた。2人の目があった。
胃石の視線が、千津の少し後ろにある「生活支援相談窓口」のプレートに一瞬移った。プレートの文字は大きく、明確だった。見間違えようがなかった。そしてまた、千津に戻った。その1秒にも満たない時間の中で、千津の胸が止まるような感覚があった。胃石の表情が、何かを読み取った時の人間の表情に変わった。驚き、それを隠そうとする動き。その下にある何か。好奇心でも、同情でもない、何か複雑なものが一瞬で組み合わさって、顔に出た。長年の付き合いの中で、千津が1度も見たことのない胃石の表情だった。
千津の手が動いた。気づいた時には、テーブルの上に置いていた書類とパンフレットを胸の前で交差して抱いていた。バッグの中にしまう時間もなかった。ただ、とにかく書類が見えないようにしなければ、という反射だった。しかし、それ自体がすでに、何かを見せていた。
「あら、黒川さん」
胃石が言った。声に明らかな動揺があった。動揺を隠そうとしているのも分かった。
千津は頭を下げた。不自然な角度の礼だった。
「胃石さん。こんにちは」
声は出た。掠れていなかった。それだけが奇跡のように思えた。
「こちらに、何か——」
胃石が続けかけた。
「少し、書類の手続きを」
千津は言った。それ以上は言わなかった。
胃石がもう1度、千津の後ろのプレートを見た。今度は1秒ほど視線を止めた。戻した時、その目には、千津が最も恐れていたものが宿っていた。知ったという確信だった。
「そうですか」
胃石は言った。声のトーンが、すっと1段落ちた。
「では、お気をつけて」
胃石はそれだけ言って、廊下の先へ歩いていった。
千津はその背中を見ていた。足が動かなかった。廊下の真ん中で、千津は動けなかった。書類を胸の前に抱えたまま、1歩も動けなかった。今夜、胃石が誰かに話すかもしれない。明後日、誰かの耳に入るかもしれない。来週の買い物の帰りに、誰かがすれ違い様に少し声を落とすかもしれない。黒川さんが、役所に、あの窓口に。そして、それが広まる速さは、千津が予測するより必ず早い。
海沿いの道に出ていた。風が正面から吹きつけてきた。千津は目を細めながら、それでも歩き続けた。100メートルほど歩いたところで、千津の足が止まった。近くにガードレールがあったので、千津はそこに片手をついた。海を見た。冬の海は灰色で、水平線の向こうまで一面に広がっていた。波が低く寄せては返していた。
千津は海を見ながら、何も考えようとしなかった。考えることをやめると、体の奥から何かが上がってくる感覚があった。悲しみというより、疲れに近かった。長い時間、ずっと何かを抑えていて、それが今、少し緩んでいる感じだった。緩んでいるのに、何も出てこなかった。泣けなかった。声も出なかった。ただ、力が抜けている。それだけだった。
胃石が今見たことを、この町の誰かに話す。千津はそれが確実に起きると思っていた。胃石が悪意のある人間だとは思っていない。ただ、話す。こういう町では、知ったことは話される。悪意がなくても話される。それが情報の動き方で、個人の意思とは別のところにある力だった。千津が何十年かけて積み上げてきた「黒川さん」のイメージが、今日の1場面によって書き換えられる。そのことに対して、千津は今、何もできなかった。
家に着いた。鍵を閉めた瞬間に、外の世界が遮断されたような感覚があった。千津はコートを脱がずに、しばらく玄関の三和土の上に立っていた。靴を脱ぐことも、廊下に上がることも、今すぐにはできなかった。
やがて、石田からもらった名刺と法テラスのパンフレットをバッグから出して、テーブルの上に置いた。パンフレットを開いた。今度は文字が目に入ってきた。役所の中では頭に入らなかった文字が、静かな台所の中では少し読めた。
「法テラスは、法的な問題を抱えている方に情報を提供し、弁護士や司法書士を紹介する機関です。収入や資産が一定の条件を満たす方は、費用の立替え制度を利用できます」
千津はその1段落を2度読んだ。弁護士に相談することで、競売を止められる可能性があるのか。止められないとしても、少しでも条件を変えられる可能性があるのか。千津には分からなかった。分からないまま、パンフレットだけが手元にある。
台所に立ち、夜釜を火にかけた。お湯が湧くのを待ちながら、ティーバッグをマグカップに入れた。いつもの動作だった。体が覚えている動作だった。役所に行った日も、胃石に見られた日も、体はいつもと同じ順番で、夜釜を置き、ティーバッグを入れた。
お湯が湧き、注いだ。湯気が立った。マグカップを両手で包んだ。手のひらに温度が伝わってくる。冷えていた指先が、じわじわと温まってくる感覚があった。朝から続いていた体のこわばりが、初めて少しだけ溶けだした。千津はそのまましばらく、お茶を飲まずにマグカップを持っていた。温度だけを感じていた。他のことは、少しの間考えなかった。考えないことが、今できる最大のことだった。
通知書が届いたのは、2月の第1週の火曜日のことだった。千津は朝の6時に、いつも通り窓を開けた。外は雪が積もっていた。朝食を終え、食器を洗い、台所を拭いた。午前9時を少し過ぎた頃、千津は郵便受けを確認した。広告の折り込みが2枚と、白い長封筒が一通入っていた。差出人のところに、「株式会社 写真は審判」と印刷されていた。
台所に戻り、椅子に腰を下ろした。封筒の糊付けフラップを、ゆっくりと剥がした。破らないように、折り目に沿って開けた。いつも通りの動作だった。中から書類を取り出した。2枚あった。1枚目には、「競売開始決定通知」と書かれていた。
文を読んだ。
「黒川千津所有の不動産について、競売手続きの開始が決定されたこと。2週間以内に、物件を明け渡すための準備を始めること」
2枚目は、手続きの説明と問い合わせ先の一覧だった。千津は2枚の書類を読み終えてから、テーブルの上に置いた。しばらく、そのまま動かなかった。何かが終わったと思った。しかし、その何かが何なのかを言葉にしようとすると、うまくいかなかった。家が競売にかけられる。それは事実だった。2週間以内に出ていかなければならない。それも事実だった。しかし、それ以上のことが、今の千津の頭ではまだ形にならなかった。
書類をもう1度手に取り、2枚を重ねて揃え、封筒に戻した。それを、銀行からの最初の返済請求書が入っている引き出しの中に、同じ場所に並べて入れた。引き出しを閉めた。
翌日から、千津は動き始めた。まず、市営住宅の申し込み窓口に電話をした。役所に行った日に石田が渡したパンフレットの中に、高齢者向けの市営住宅の案内が入っていた。状況を確認すると、町の別の地区に1室空いているとのことだった。家賃は月に2万3000円。小さな1Kで、エレベーターのない3階建ての2階だった。千津はその場で申し込みの予約を取った。
次に、荷物のことを考えた。この家に引っ越してきたのは、健一が小学校に上がる前の年だった。それから30年近く、夫と2人で暮らし、健一が巣立ち、夫が亡くなり、千津1人になっても、この家の中のものはほとんど変わらなかった。食器棚。和ダンス。夫の書棚。どれも動かしたことがなかった。
千津は今に立って、部屋を見回した。何を持っていって、何を残していくか。1Kの市営住宅に運べる量は限られている。千津は部屋を歩き回りながら、1つ1つのものに視線を当てた。食器棚の中の食器は、普段使いのもの以外は持っていかない。夫の書棚の本は、ほぼ全て残していく。重くて運べないし、置く場所もない。縁側の飾り棚にある陶器の置き物は、捨てる。買った時は高かったが、今の千津には必要がなかった。和ダンスは大きすぎて運べない。衣類だけを取り出して、まとめる。
判断は思ったより早かった。迷いがないのか、と自分に問いかけた。夫と一緒に選んだ食器を捨てる時、本当に何も感じないのか。縁側の陶器をダンボールに入れる時、惜しくないのか。感じないわけではなかった。しかし、感情を展開している時間がなかった。2週間以内に出なければならない。やるべきことが順番に並んでいて、それを1つずつこなすことだけが、今の千津にできることだった。
その日の午後から、千津は荷造りを始めた。台所から始めた。よく使う鍋とフライパン1枚と、使い慣れた包丁と、普段使いの食器を選んだ。残りは新聞紙に包んでダンボールに入れ、玄関脇に積んだ。
次の日も、その次の日も、千津は少しずつ荷造りを続けた。朝に目が覚めると、今日はどこから片付けるかを考えた。食器棚が終われば押入れ、押入れが終われば箪笥の引き出し。手順を立て、1つずつこなした。これまでの人生で、整理してこなかったものが思ったより多くあった。夫の遺品の一部は5年前に整理したが、それでもまだ残っていた仕事の書類や、健一が子供の頃に描いた絵の入ったファイルがあった。
健一が子供の頃に描いた絵のファイルを、千津は開いた。クレヨンで描いた家の絵があった。赤い屋根と黄色い窓。人物が3人。大きさの違う棒人間として描かれていた。一番大きいのがお父さんで、真ん中がお母さんで、一番小さいのが自分、とどこかに書いてあったのを、千津は覚えていた。千津はそのページを1枚だけ取り出した。残りのファイルは、持っていくものの箱ではなく、処分するものの箱に入れた。取り出した1枚だけを、千津は手元に残した。
作業の合間に、胃石から電話があった。着信に気づいた時、千津はすぐには出なかった。3回目の呼び出しの間、受話器を手に持ったまま考えた。出ても出なくても、胃石は何かを知っている。出ないことで疑念を膨らませるよりも、出る方がいいかもしれなかった。
「はい。黒川です」
「あら、よかった。出てくれて」
胃石の声だった。いつもと、ほんの少し違う声の質があった。
「最近どうされているかと思って。先日、役所でお見かけして。なんか、大変そうだったから」
千津は一瞬だけ間を置いた。
「ご連絡ありがとうございます」
「何かあったんですか? もし、差し支えなければ」
千津はどう答えるかを考えた。隠す必要は、もうないのかもしれなかった。いや、隠すことが、もう意味を失っている気がした。
「実は、家を出なければならなくなりました。息子の借金の保証人になっていたもので。家が——」
電話の向こうが静かになった。胃石が何か言おうとして止まった気配があった。
「今月中に、別の場所に移ります。長い間、お世話になりました」
「黒川さん」
胃石の声が、普段より低くなった。
「なんでもっと早く、言ってくれなかったの?」
千津は何も言わなかった。
「言えなかったのよね。そうよね。あなたは、そういう人だから」
短い沈黙があった。
「引っ越し先は決まってるの?」
「市営住宅に申し込みました。別の地区ですが、入れていただけそうで」
胃石の声が、何かをこらえているような湿り気を帯びた。
「落ち着いたら、連絡して」
「ありがとうございます」
電話を切った後、千津はしばらく受話器を手に持ったままでいた。胃石が「なんで早く言わなかったのか」と言った。それは責めているのではなかった。しかし、答えは千津自身にもうまく言えなかった。言えなかったのではなく、言わないことが千津の生き方の一部だったから、という方が近かった。誰にも見せない。きちんとしている自分だけを見せる。それが千津の習慣であり、誇りであり、呪いだった。
引っ越しの日は、2月の半ばになった。当日の朝は、5時に目が覚めた。布団の中で、天井を見ていた。この天井を、あと何時間か見ることができる。色が黄ばんでいた。雨漏りが1度あって、直した後が薄く残っていた。それが今、はっきり見えた。30年近く、毎晩この天井を見ていたのに、雨漏りの後のことは意識したことがなかった。
いつも通り、6時に窓を開けた。今日の外は曇っていた。雪は降っていなかったが、空の色が重く、後から何かが来るような気配があった。千津は30秒窓を開け、閉めた。最後だった。明日からは、別の部屋の窓を開ける。
台所で最後の朝食を作った。冷蔵庫の残り物を全部使った。豆腐と卵ともやしの少し残ったものをまとめて鍋に入れ、薄い出汁で煮た。皿に盛り、座って食べた。食べながら、千津はこの台所を見回した。手元灯の黄色い光が壁を照らしている。タイルの目地が細かく黒ずんでいるのが見えた。千津が毎週こすって掃除しても、目地だけは完全には白くならなかった。それでも、拭き続けた。
食器を洗った。最後なので、丁寧に、いつもより時間をかけて洗った。水を止め、タオルで拭いた。その食器は、ダンボールの中にしまった。
午前9時に、運送屋が来た。2人の男性が来た。若い方がダンボールを次々に台車に積み、年配の方が千津と確認しながら作業を進めた。会話は最小限だった。千津が示す場所のものを、彼らは黙って運んだ。運び出せないものは、残していく。和ダンスと夫の書棚と台所の棚と縁側の置き物台。これらはこのまま置いていく。競売で家が売れれば、新しい所有者が処分するか、千津に連絡が来るかもしれなかった。
運送屋が荷物を運び出し終えるまで、約に時間かかった。その間、千津は部屋の隅に立って、物が運び出されていく様子を見ていた。荷物がなくなるにつれて、部屋が広くなっていく気がした。いや、広くなるというより、空洞になっていく感じだった。物があることで部屋だった場所が、物がなくなると、ただの空間になっていく。
運送屋が全部の荷物を車に積み終え、確認書にサインをして去った。千津は1人、ガランとした今に立った。畳には、家具の足跡が残っていた。長年そこにあった和ダンスの跡が、くっきりと畳に刻まれていた。書棚の跡も、食器棚の跡も。物はなくなっても、そこに何かがあったという証拠だけが残っていた。
縁側に移動した。縁側の窓から外を見ると、小さな庭が見えた。庭と言っても、狭い土のスペースに千津が植えた低い低木が数本あるだけだった。夏は緑になり、秋に葉を落とし、今は枯れ枝だけになっていた。来年の春に、誰かがここで暮らすのかもしれなかった。あるいは、建物ごと壊されるかもしれなかった。それは千津の知るところではなかった。
台所に戻り、最後に引き出しを開けた。銀行からの返済請求書と、競売開始の通知書が入っていた。それをバッグに移した。他には何も入っていなかった。引き出しを閉めた。
玄関に行き、上着を着た。コートを羽織り、ショルダーバッグを肩にかけた。手に持つのは、この家に残すことのできなかった小さな布のトートバッグだけだった。中には、今日すぐ必要なものが入っていた。着替えが1組と、目薬と、健一が描いた1枚の絵。
玄関のドアを開けた。外は曇っていた。気温は低く、吐いた息が白くなった。千津はドアの前に立ち、振り返った。廊下が暗かった。電気は朝のうちに全部消してある。窓からの光だけが薄く入って、ガランとした廊下を照らしていた。靴箱の上の鏡が見えた。30年。毎朝、その鏡で髪を確認した。今も癖で、視線がそこに向いた。千津は前を向いた。ドアを閉めた。鍵を回した。鍵は、後で管理会社に返却することになっていた。千津はその鍵を、バッグの外ポケットに入れた。
歩き始めた。引っ越し先の市営住宅までは、バスで30分ほどかかった。千津はバス停に向かいながら、今日初めて、バスに乗ることを意識した。いつもは、歩くか、知り合いに見られないようにするために、わざわざ遠い停留所を使っていた。今日は、一番近いバス停から乗った。
バスが来た。乗り込み、座席に腰を下ろした。窓の外に、千津がずっと暮らしてきた街の景色が流れていった。スーパーの前を通った。総菜コーナーの値引きシールを待って立っていたことを思い出した。このスーパーには、もう来ない。別の地区に行けば、別のスーパーがある。図書館の前を通った。今週は出勤日ではなかったが、建物が見えると、体が少し反応した。来月からの勤務は、新しい住所から通えるかどうかを確認しなければならなかった。続けられるなら、続けたかった。町内会館の前を通った。新年会の日に歩いた道だった。あの日、4000円を払って座って、蓮根の煮物を食べた。岡田が笑っていた。胃石の締めの言葉があった。もう、あの会館に来ることはないだろう。
バスが別の地区に入った。景色が変わった。千津が長年暮らした地区よりも、少し新しい建物が多い場所だった。道が広く、コンビニが2件見えた。
市営住宅の建物は、バス停から歩いて5分ほどの場所にあるはずだった。バス停で降りた。地図を確認しながら歩いた。5分ほどで、3階建ての住宅の建物が見えた。外壁は薄い黄色で、年数が経って色が褪せていた。入り口に小さなポストが並んでいた。
管理人室によりカを受け取った。管理人は60代の女性で、簡単な説明をしてから鍵を渡してくれた。2階の205室だった。階段を上がった。廊下は外に面した作りで、風が吹き抜けた。205号室の前に立ち、鍵を差し込んだ。ドアを開けた。
中に入った。6畳一間と小さな台所。ユニットバスが奥にあった。窓が1つ、南側に向いていた。壁は白く塗られていたが、所々に以前の入居者がつけたと思われる薄い傷があった。床はフローリングで、古い木材の色をしていた。暖房器具は、エアコンが1台あった。
千津は部屋の真ん中に立って、部屋を見た。小さかった。以前の家と比べると、広さは3分の1以下だろう。しかし、小さいことは今の千津には何の問題もなかった。1人で暮らすには十分だった。掃除する範囲が少なくて済むし、管理しやすい。
窓の方に歩き、外を見た。向いに別の建物があった。その向こうに、遠く低い山の稜線が見えた。海は見えなかった。以前の家からは、天気のいい日に水平線が見えた。ここからは見えない。それだけのことだった。
午後になって、運送屋が荷物を届けてきた。ダンボールを運び込み、設置場所を確認して、彼らは去った。千津はダンボールを開け始めた。台所のものから順番に出して、棚に並べた。いつも使う鍋をコンロの横に置いた。包丁を引き出しに入れた。食器を棚に並べた。見慣れたものたちが、見慣れない場所に並んでいく。
布団を敷いた。枕の位置を決めた。目薬を枕元に置いた。健一が描いた絵を、どこかに貼ろうとして、貼る場所を考えた。壁に画鋲を打っていいかどうか。管理規約を確認しなければならなかった。とりあえず、今日はダンボールの上に立てかけておいた。
夕方になった。千津は外に出た。近所を少し歩いて、コンビニの場所を確認した。スーパーは、バスの運転手から聞いていた。薬局も同じ通りにあるらしかった。
コンビニに入った。夕食のものを買おうと思って、棚を見た。弁当が並んでいた。値引きシールはまだ貼られていなかった。時計を見ると、夕方の5時だった。値引きが始まるのは、まだ早い時間だ。千津は弁当を1つ手に取った。鮭の弁当だった。580円。値引きシールはない。定価だった。
千津はそれをカゴに入れた。棚の前に立ったまま、少しの間、何も動かなかった。値引きシールが貼られるのを待つべきかどうか。そう考えた自分に気づいた。値引きシールを待つことが、悪いわけではない。しかし、今日だけは、待たなくてもいいかもしれなかった。カゴを持って、レジに向かった。会計を済ませ、店を出た。外は暗くなっていた。街灯がついていた。知らない町の、知らない街灯だったが、明るさは同じだった。
部屋に戻り、弁当の蓋を開けた。鮭の切り身と白飯と漬け物と、ほうれん草のおひたしが入っていた。温めなかった。レンジはまだダンボールの中に入ったままだった。箸を手に取り、食べ始めた。鮭の味がした。塩が少し強かった。白飯は冷えていたが、それほど気にならなかった。
食べながら、千津は窓の外を見た。向いの建物の窓に、いくつか明かりがついていた。誰かが帰宅したのだろう。台所らしき場所に、人影が動いているのが見えた。誰なのかは分からない。名前も年齢も知らない。しかし、この建物の中に、今夜は同じように誰かが夕食を食べている。
食べ終わった後、ゴミの分別方法をまだ確認していなかった。明日、管理人に聞こうと思った。洗い物がなかった。箸だけを洗って、台所のタオルで拭いた。タオルは、昼間に引き出しにしまったものだった。
部屋に戻り、布団の横に座った。静かだった。以前の家も静かだったが、この静かさは少し質が違った。以前の家では、30年分の生活の音の記憶が静けさの中にあった。ここには、まだ何もない。新しい静けさだった。
千津は、ダンボールの上に立てかけておいた絵を見た。健一が子供の頃に描いた、クレヨンの家の絵。赤い屋根、黄色い窓、3人の棒人間。健一は今、東京にいる。子供がいて、妻がいて、電話に出ない生活を送っている。千津が今、小さな部屋に来たことも、知らないだろう。知らせなかった。知らせることで何かが変わるとは思えなかったし、知らせないことで何かが変わるとも思えなかった。ただ、知らせる必要がないと思ったから、しなかった。それだけだった。
千津は立ち上がり、窓のカーテンを引いた。エアコンのスイッチを入れた。暖房だった。以前の家では、ほとんど使わなかったストーブの代わりに、ここにはエアコンがある。電気代がどのくらいかかるかはまだ分からなかった。しかし、今夜だけは、つけることにした。
布団に入った。天井を見た。白かった。傷もシミもなかった。以前の家の天井は黄ばんでいた。雨漏りの跡があった。しかし、あの天井には30年分の時間があった。ここには、まだ何もない。
目を閉じた。エアコンの音がした。低い、安定した音だった。風が部屋に広がっていく感覚があった。少しずつ、温かくなっていく。
今日1日のことを考えた。布団を畳んだこと。朝食を食べたこと。荷物が運び出されたこと。ガランとした今間に立ったこと。バスに乗ったこと。この部屋の鍵を受け取ったこと。弁当を定価で買ったこと。どれも小さなことだった。しかし、今日はそれだけのことで、1日が終わった。
明日は、荷物の残りを片付けなければならない。市営住宅の管理規約を読まなければならない。図書館への通勤方法を確認しなければならない。目薬を買い足さなければならない。やることは、明日もある。明後日もある。
千津は目を閉じたまま、しばらくそのことを考えていた。やることがある、というそれだけのことが、今夜の千津には何か確かなものに感じられた。家を失い、息子との距離は縮まらないまま、この小さな部屋に来た。しかし、明日の朝、この部屋の窓を開けることができる。6時に、いつも通り。エアコンの音が続いていた。どこかで、風の音がした。外の風が、建物に当たる音だった。千津はゆっくりと呼吸をした。眠れるかどうかは分からなかった。しかし、それを気にしなかった。今夜は、気にしなくていいと思った。眠れなければ、天井を見ていればいい。この天井は、白くて何もない天井だった。
最後に千津が思ったのは、明日の朝に窓を開けることだった。6時に、この部屋の窓を開ける。外の空気が入ってくる。それがどんな空気かは、まだ分からない。しかし、開けることはできる。それだけが、今夜確かなことだった。



