葬儀の受付の白い菊が、蛍光灯の光を受けて安っぽく光っていた。エアコンの効きが悪いのか、喪服の背中がじっとりと湿る。外では梅雨の雨が静かに降り続いていた。
長谷川竜一は、家の前に一人で立っていた。妻の顔が、艶のない安物の額縁の中に収まっている。五年前に撮った写真で、妻はわずかに微笑んでいた。こんな笑い方をする女だったかと、今更のように思った。
妻が死んで十日が経つ。突然だった。脳の出血で倒れてから三十時間も持たなかった。葬儀の準備も役所の手続きも、全て竜一が一人でこなした。息子の大樹は、電話を折り返すのに六時間かかった。そういう男たちだった。
特別式が終わり、仮通夜が終わり、骨を拾い、骨を抱えて帰った。その夜、竜一は缶コーヒーを三本飲んで、何も食べずに眠った。そして今日、初七日の集まりの後で食事をするという話になった。
小料理屋の座敷は八人用の個室だった。テーブルの上には仕出しの弁当ととっくりが並んでいた。竜一の兄、長谷川克己が上座を占めていた。克己の妻の節子がとっくりを傾けながら、もう少し召し上がれなどと言っていた。その隣に柴田直樹が座っていた。三十五歳で竜一の甥に当たる。高いスーツに細いネクタイピン、髪はワックスで丁寧に撫でつけてある。電子機器の卸会社で営業部長を務めており、去年新型のアルファードを買ったとかで、克己が何かにつけてその話を持ち出した。直樹の妻の七子は、大人しそうな見た目だが話し方に好きがなかった。
竜一の正面には、息子の大樹がいた。三十五歳で直樹と同い年だった。スーツを着ておらず、シミのついた黒いジャケットにネクタイもない。体付きはひょろりとしていて、前髪が目にかかったままだった。派遣の入力業務を掛け持ちしていると妻から聞いたのはいつだったか。
食事が始まって三十分ほどは、誰もが当たり障りのないことを話していた。とっくりが二本目になった頃、克己が少し声を大きくした。直樹の会社が今期の売上目標を達成したこと。アルファードの燃費が思ったより良いこと。孫が来月から幼稚園に上がること。それを聞くたびに節子がニコニコと頷き、直樹は謙遁しながらも口元を緩め、七子は満足そうだった。
竜一の指が無意識にゆっくりと曲がった。関節が鳴った。誰も気づかなかった。
克己が「直樹は本当によくやってくれてる」と言った。続けて何かをほのめかすような間があった。その間が竜一には聞こえた。誰も言葉にしなかったが、その座にいた全員が、言葉にしなかったものを受け取っていた。
直樹のような息子がいれば、と竜一は弁当の蓋を閉じた。半分も食べていなかった。大樹はまだ煮物をつついていた。顔を上げなかった。
竜一の中で何かが動いた。それは怒りとも違った。悲しみとも違った。長年かけて積み上げられてきた言いようのない重さのようなものが、今夜この場所で急に臨界点に達したような感覚だった。妻が死んだ。十日前にそれだけのことが起きたのに、この息子は何も変わっていない。
竜一が自分が立ち上がっていることに気づいたのは、テーブルに手をついた後だった。座敷の障子が振動し、とっくりが一本倒れた。節子が小さな声をあげた。
竜一は大樹を見た。大樹が顔を上げた。初めて正面から目があった。
「大学も出ていない。嫁もいない。家も持っていない。三十五にもなって何をやってきたんだ。直樹を見ろ。同じ年だぞ。あいつはちゃんと家庭を持って、車を持って、仕事で結果を出している。それが普通の大人のやることだ。お前は一体何なんだ?この家の恥じゃないか」
言い終えてから、竜一は自分の指が机の縁を強く掴んでいることに気づいた。節子がとっくりを直した。直樹は表情が動かなかった。大樹は下を向いた。両手を膝の上に揃えて、ただ下を向いた。肩が一度だけ小さく揺れた。
何か言い返してくれれば楽だった。怒鳴り返してくれればそれで良かった。だが大樹は何も言わなかった。ただ膝の上で手が握られていくのが見えた。ゆっくりと、それでも確実に拳の形になっていく。爪が手のひらに食い込んでいるのが遠目にも見えた。
その時だった。直樹が椅子を引いた。立ち上がる音が静かな座敷に大きく聞こえた。竜一は直樹を見た。甥の顔が、思っていたものと全然違った。誇らしげな顔ではなかった。頬がこけていた。目の下に深い隈がある。口元がわずかに引きつっていた。
直樹は竜一を見て、それからゆっくりと口を開いた。
「おじさん。おじさんは、『普通』って毎日俺を殺してるって知ってますか?」
克己が何か言いかけた。直樹が父親の方へ片手を向けて制した。その動作が、息子が親を黙らせるというよりも、もう黙っていられないという切迫感から来ていることは、その場にいた全員に分かった。
直樹の手がキーホルダーを握りしめた。それから力を抜いた。また握った。その繰り返しが止まった時、直樹はもう一度だけ、低くしっかりとした声で言った。
「俺の話を聞いてください」
直樹はテーブルの上にあったアルファードのキーを取り上げ、指でそれをしばらく持ったまま何かを測るようにしていた。それからテーブルの真ん中に静かに置いた。金属の小さな音が座敷の中に響いた。
「この車、俺の金で買ったんじゃないです。家もそうです。あの家は妻の父親が頭金を出した。俺が毎月返してるのは向こうの家のルールで決めた金額で、それ以上でも以下でもない。俺の名義じゃない。向こうの資産です」
七子が顔を上げた。夫を止めようとしている目だった。しかし直樹は七子の方を一度も見なかった。
「俺がやってる営業部長っていう肩書きも、岐阜の会社の取引先を回るための飾りみたいなもんです。売上目標が達成できるのは、向こうが根回しするからです。俺の実力じゃない」
克己の顔が徐々に赤から蒼白に変わっていった。竜一は何も言えなかった。直樹はキーを見つめたまま話し続けた。声が少しずつ変わっていった。抑制していたものが少しずつ表面に滲み出てくるような変化だった。
「結婚して七年です。最初の一年は良かった。でも義父は最初から俺を自分の会社と娘を守るための道具として見てた。それに気づいた頃には、もう全部の資産が向こうの名義になってた」
直樹の手がテーブルの縁を掴んだ。
「毎朝七時に家を出て、帰るのは夜の十一時か十二時です。向こうの家族の顔色を伺いながら仕事して、週に一回は義父二人で飯を食って『君はまだまだだね』って言われながら黙って聞いてる。子供のことも学校のことも習い事も、全部向こうが決める。俺に決定権はない」
直樹が初めて笑った。しかしその笑いは、竜一がこれまで見てきた笑いとは全く別のものだった。唇の端が歪んだだけで、目は笑っていなかった。
「おじさんが言う『普通の生活』って、今の日本でどういうことか知ってますか?今年の春、帝国データバンクの調査で東京の勤労世帯の可処分所得が十年前より実質十三パーセント下がったって出てた。物価は上がってる。俺の手取りは十年前と額面は変わってないけど、実際には下がってるのと同じです。その状況で家を持って、車を持って、子供を育てて、親戚に顔向けできる家族の体裁を保つには、誰かに頼るしかない。自力でやろうとしたら体が持たない」
直樹の声が初めてかれた。
「俺、去年の健診で二つの影があるって言われました。精密検査して、今のところ悪性じゃないって話でしたけど、先生には『このストレスレベルが続いたら、いずれ何かが壊れる』って言われた。それでも止められなかった。止めたら全部崩れる」
七子がひっそりと息を飲む音がした。克己が低い声で言った。
「直樹、もういい。ここで言う話じゃない」
直樹は父親を見た。その目が今夜見た中で一番静かな目をしていた。静かすぎて、それが却って怖かった。
「父さんは知ってたんですか?俺の状況」
克己は答えなかった。直樹は少し待った。それからゆっくりと座敷の天井を見上げた。蛍光灯の光が直樹の顔を白く照らした。
「知ってて、何も言わなかったんですね」
直樹が突然、ゆっくりと自分の腹に手を当てた。服の上から脇腹の辺りに手のひらを添える。ただそれだけの動作だった。しかし次の瞬間、直樹の顔色が変わった。頬の肉が一瞬たるんだように見えた。直樹の体が前に傾き、テーブルに両手をついた。その手がガタガタと震えている。
節子が「直樹さん!」と声をあげた。直樹は答えなかった。唇が動いていたが、声が出ていなかった。口の端に薄く赤いものが滲んだ。最初、誰もそれが何か分からなかった。
直樹がテーブルに崩れ落ちた。白いテーブルクロスの上に顔が沈み、同時に口から一筋、鮮やかな赤が流れた。
節子が悲鳴を上げた。克己が椅子を蹴倒して立ち上がった。七子が「直樹!」と叫んだ。座敷の中が一瞬で変わった。克己は直樹の肩を揺さぶった。誰も動けていなかった。
動いたのは大樹だった。竜一が気づいた時には、大樹はすでに直樹の隣にいた。椅子をどかして直樹の体をテーブルから引き離すように支えた。その動作に迷いがなかった。大樹は直樹の顔を上向きにした。気道を確保するような角度だった。大樹は自分が着ていた黒いジャケットを脱ぎ、それを畳んで直樹の口元に当てた。克己がその腕を掴んで「救急車を呼べ!」と叫んだ。大樹はすでにポケットから電話を出していた。
通話しながら大樹は直樹に声をかけ続けた。
「直樹さん、意識あるか?痛いのどこだ?腹か。答えなくていい。頷くだけでいい」
直樹がわずかに顎を引いた。大樹は電話に状況を伝えた。三十五歳男性、意識あり、腹部の痛みあり。住所を告げる時だけ七子に視線を向けた。七子がすぐに答えた。
通話を切った大樹が克己に言った。
「救急車来ます。店の人に表で待つよう頼んでください」
克己はしばらく大樹を見ていた。息子に言われているのに、指示された内容を処理するのに時間がかかっているようだった。大樹は繰り返さなかった。克己が動くまで待った。克己が座敷を出た。節子がその背を追った。
座敷に残ったのは竜一と大樹、直樹、七子の四人になった。大樹は直樹の体の向きを変え、横向きにして床に下ろした。直樹の背中に手を当てて、ゆっくりとさすった。声はかけなかった。ただ手を動かし続けた。七子がその隣にしゃがんだ。
「ごめん」とだけ言った。それ以上言葉が続かなかった。
竜一はその息子の背中を見ていた。シャツ一枚になった大樹の腕が細かった。しかしその腕には、今夜初めて見る何かが宿っていた。確かさというものだった。迷いのない確かさ。
遠くで救急車のサイレンが聞こえ始めた。サイレンが近づくにつれ、竜一はさっき自分が言った言葉を一つ一つ思い出した。大学も出ていない。嫁もいない。家も持っていない。その言葉が今もこの座敷の空気の中に漂っているような気がした。
救急隊員が座敷に入ってきた時、大樹は自分から横に退いた。説明を求められると、手短に、しかし必要なことだけを正確に答えた。搬送の準備が整った。隊員の一人が「付き添いは誰か」と聞いた。七子が夫の名前を呼びながら立ち上がった。直樹が乗せられたストレッチャーが座敷を出る時、直樹の目が一瞬大樹の方を向いた。何かを言おうとしている目だった。しかし声が出なかった。大樹はただ頷いた。それだけだった。
座敷の中が急に静かになった。克己と節子が戻ってきた。テーブルの上に、直樹が置いていったアルファードのキーがある。白いテーブルクロスに赤いものが染みていた。克己が椅子に座った。背中が丸かった。七十歳の男の背中が、今夜初めてその年齢に見えた。
大樹はテーブルの端にある自分の弁当の前に戻って立っていた。竜一は大樹を見た。大樹の手に、先ほどまで直樹の口元に当てていたジャケットがあった。赤いものが袖口についていた。大樹はそれを見ていた。どうすべきか迷っているようではなく、ただ見ていた。大樹が顔を上げた。竜一と目があった。さっきの正面から目があった時とは違った。さっきは追い詰められた目だった。今は違う。何かを通りすぎた後の静かな目をしていた。
竜一はその目の前で、缶コーヒーのプルタブを引いた。プシュという音が座敷に響いた。間抜けな音だった。竜一は缶コーヒーを一口飲んだ。苦かった。いつもより苦く感じた。
サイレンが完全に聞こえなくなってから、竜一はようやく椅子に腰を下ろした。骨がきしむ音がした。
克己が立ち上がった。病院に行くと言った。節子がすぐに鞄を持った。克己が大樹の方を向いた。何かを言いかけた。しかし結局何も言わずに頭を下げただけで座敷を出た。
座敷に竜一と大樹の二人が残った。しばらく誰も話さなかった。板前が片付けていいかと障子に声をかけてきた。大樹が「もう少し待ってください」と答えた。その声のやり取りだけが、この座敷の中で唯一普通のことのように感じた。
大樹が椅子を引いた。座った。ジャケットを膝の上に置き、袖についた赤いものがジャケットを畳んだ内側に来るように、ゆっくりと畳んだ。その動作を竜一はずっと見ていた。
大樹が口を開いた。
「病院、行きますか?」
竜一は少し間を置いた。
「行く」と言った。
二人で座敷を出た。店の外に出ると雨が降っていた。傘を持っていなかった。二人は並んで雨の中を病院の方へ歩き始めた。
病院の待合廊下の端にある長椅子に竜一は腰を下ろしていた。隣に大樹が座っていた。シャツ一枚のままだった。店を出る時から雨に濡れて、シャツの肩の辺りがまだ乾いていなかった。大樹はそれについて何も言わなかった。竜一も言わなかった。
克己と節子は一つ前の長椅子に並んで座っていた。七子は受付の係員と何か書類のやり取りをしているのが遠目に見えた。竜一はコートのポケットに手を入れた。缶コーヒーがあった。もう中身はない。それでも取り出して指先で表面をなぞった。金属が冷たかった。消毒液の匂いがした。
大樹が膝の上で指を組んだ。その手を見た。先ほど直樹の背中をさすっていた手だった。指の関節にうっすらと赤いものが残っていた。
しばらくして、節子が竜一の方を向いた。
「竜一さん。今夜、直樹がああいうことを言いましたけど。あの子は昔から大げさなところがあって。本当のことも言いますけど、半分は気が立ってたせいで。あんまり真に受けに受けないでください」
竜一は何も言わなかった。節子はもう少し何かを言おうとしたが、竜一の顔を見てやめた。竜一は節子の横顔を見ていた。この女は今、何をしているのかと思った。息子が処置室の中にいて、何が起きているか分からない夜に、親族への根回しをしている。それが節子という女の体に染みついたやり方なのだろうと思った。悪意ではなく習慣だった。それが却って何か深いところを突いた。
大樹が静かに立ち上がった。廊下の突き当たりにある水道場に向かった。蛇口をひねって、手を洗っていた。時間をかけて丁寧に洗っていた。大樹が戻ってきた。椅子に座った。また膝の上で手を組んだ。今度は指の間に赤いものがなかった。
壁の時計が十一時を回った。処置室の扉が開いた。医師が出てきた。七子が立ち上がった。医師は七子に近づいて小声で何かを話した。七子が頷いた。医師が書類を渡して、また扉の中に消えた。七子が克己と節子の方へ歩いてきた。
七子は言った。
「急性胃潰瘍です。内視鏡で止血処置をしました。今夜は入院になります。命に別状はないと言われました」
節子が息を吐いた。七子は続けた。
「先生から話がありまして。慢性的なストレスと過労が原因だと。胃壁がかなり荒れていたそうで、今すぐ仕事と生活環境を変えないと、次はもっと重くなる可能性があると」
その言葉が廊下に落ちた。誰も何も言わなかった。
竜一は立ち上がった。大樹に「外に出よう」と言った。病院の裏手に出ると、小さな駐輪場とコンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれた狭い空間があった。屋根の一部が張り出していて、雨はほとんど当たらなかった。街灯が一本だけ、うすぼんやりとした光を落としていた。
竜一はコートのポケットから空の缶コーヒーを出して足元に置いた。それから新しい缶を出してプルタブを引いた。大樹が壁に背中を預け、腕を組んでいた。夜の空気は湿っていて、六月の深夜にしては肌に当たる温度が低かった。しばらく二人とも何も言わなかった。
大樹が先に口を開いた。
「直樹さん、助かってよかった」独り言のような静かな声だった。大樹は続けた。「あの人、ずっとしんどかったんだと思う。今夜の顔見てたら」
竜一は何も言わなかった。缶コーヒーを持ったまま壁の向こうの暗い空を見た。雨は上がっていた。雲が低く垂れ込めていて、星は見えなかった。
大樹がジャケットを持っていた方の手をゆっくりと上着のポケットに入れた。何かを探しているような動作だった。出てきたのは、くしゃくしゃに折りたたまれた紙だった。大樹はその紙を広げようとした。手が少し震えていた。紙が広がった。A列の白い紙が三枚重なっていた。字が細かく印刷されている。一枚目の上部にロゴのようなものがあった。金融機関の書類の体裁をしていた。
大樹がその紙を両手で持ったまま、地面を見ながら言った。
「三年前のことです」
竜一は何も言わずに待った。大樹は続けた。
「三年前、一度だけ家を買おうとしました。当時付き合ってた人がいて、その人と将来の話をしてた。二人で住む場所があれば、ちゃんとした形にできると思って。でも俺の収入だと住宅ローンの審査が通らなかった」
大樹が紙を少し持ち直した。
「それで、その人の知り合いが紹介してくれた投資の話があって。少し増やせば頭金に足りるって。消費者金融とノンバンクの二箇所から借りて、合わせて六百万円を投資に回した」
竜一は息を止めた。
「半年後に、その投資案件が詐欺だったことが分かった。運営会社が消えて、金は全部なくなった。それだけじゃなくて、その頃には家の頭金の名目で彼女と一緒に物件の仮契約もしてた。違約金が出た。それも借金になった」
大樹が初めて顔を上げた。街灯の黄色い光が大樹の横顔を照らした。目が乾いていた。泣いているわけではなかった。それよりももっと、枯れた後のような目をしていた。
「彼女はそれが分かった時に消えた。連絡が取れなくなった。口座に残ってた俺の貯金も一緒に」
竜一は缶コーヒーを足元に置いた。立っているのが急に辛くなった。しかし座る場所もなかった。竜一は壁に手をついた。
大樹は紙を見た。
「今の残ってる借金が、元本だけで二千万円を超えてます。利息を入れるともう少し多い。消費者金融の分は返済が近い。でもノンバンクの分と違約金の処理で使った分が残ってる。今、三つ掛け持ちして、全部返済に回してます」
三つ。竜一はその言葉を頭の中で繰り返した。派遣の入力業務という話は妻から聞いていた。しかしそれが一つではなく三つだとは聞いていなかった。いや、聞いていなかったのではなく、聞こうとしていなかったのだと、今になって思った。
大樹が紙を折り始めた。丁寧に元の折り目に沿って畳んだ。それをポケットに戻した。
「母さんには言えなかった。言ったら体に触ると思って。父さんにも言うつもりはなかった。でも、今夜直樹さんのことがあって」
大樹が言葉を切った。しばらく、排水溝に流れる雨水の音だけがした。
「今夜直樹さんのことがあって、何か言わないといけない気がして」
竜一は壁に手をついたまま息子を見た。大樹はまた地面を見ていた。肩が一度だけ上下した。
「普通の男になれなくて、すみません」
その言葉が竜一の胸に入ってきた瞬間、竜一は自分の喉が詰まるのを感じた。違うと言いたかった。今夜のお前を見ていたと言いたかった。直樹の隣に一番最初に駆けつけたのはお前だったと言いたかった。しかし言葉が出なかった。
大樹が続けた。
「三つの仕事を掛け持ちしながら、毎月の返済を続けてます。食費は削れるだけ削って、家賃は安いところに移りました。今の部屋は六畳一間で、駅から二十分歩きます。洗濯機は壊れたまま放置してます。コインランドリーに行く時間が惜しいから、手洗いしてます」
竜一は黙って聞いた。
「ここまで話せたのは、今夜が初めてでした。三年間、誰にも言ったことがなかった。言ったところで何にもならないと思ってたから。でも、言ったらなんか少し軽くなった」
大樹がようやく竜一の方を向いた。目が潤んでいた。泣かないとしているのが分かった。顎に力が入っていて、唇を薄く結んでいた。それでも目の縁がじわりと赤くなっていた。
「お父さん」
竜一はその言葉を聞いた。何年ぶりか分からなかった。大樹が自分をそう呼んだのが、いつ以来なのか思い出せなかった。
大樹が続けた。
「俺、死ぬつもりはないです。逃げるつもりもない。全部返して、それで何も残らなくても、それでいいと思ってます。ただ、返し終わるまでは倒れるわけにいかないから、それだけで毎日やってます」
竜一の方が動いた。壁についていた手がゆっくりと下りた。竜一は大樹の前に立ち、息子の顔を正面から見た。三十五歳の息子の顔は、竜一が思っていたよりも疲れていた。肌が荒れていた。目の下にうっすらと影があった。頬の肉が薄かった。それでも目は生きていた。
竜一は右手を上げた。何をするつもりかは自分でも分からなかった。その手が大樹の頭に触れた。最後に触れたのがいつか、分からないくらい昔のことだった。大樹が体を強ばらせた。それからゆっくりと力が抜けた。竜一の手が息子の頭の上にあった。白髪の混じった、少し硬い髪だった。手のひらにその重さが伝わってきた。
竜一は声を出せなかった。何も言えなかった。言葉を探したが、何も見つからなかった。だから何も言わなかった。ただ手だけをそこに置いた。
大樹は下を向いていた。肩がゆっくりと上下し始めた。音は出ていなかった。呼吸が乱れているだけだった。竜一には息子が今どういう状態にあるかが、手のひら越しに分かった。
三十五年前、この子に何を言い続けてきたか。その問いが今夜初めて竜一の胸の中に収まった。答えを出せる問ではなかった。しかし収まったということだけは確かだった。
やがて竜一は手を下ろした。大樹が顔を上げた。目が赤かった。唇をきつく結んだまま、短く息を吸った。
「中に戻るか」と竜一は言った。大樹が頷いた。
二人で病院の入口へ歩いた。待合廊下の長椅子に克己と節子がまだ座っていた。七子は受付の近くに書類を膝の上に置いて座っていた。誰も何も言わなかった。竜一は元の椅子に戻って座った。大樹も隣に座った。時計は深夜一時を過ぎていた。廊下は静かだった。竜一はポケットに手を入れた。缶コーヒーは外に置いてきたままだった。何もない手のひらを膝の上で広げた。さっきまで息子の頭に触れていた手だった。指をゆっくりと折り曲げた。いつもならここで関節が鳴る。今夜は鳴らなかった。
翌朝、病院の廊下は昨夜とは別の場所のように見えた。蛍光灯の色は同じだった。リノリウムの床も消毒液の匂いも変わっていない。しかし朝の光が窓から入ってきて、夜中の重さが少しだけ薄まっていた。
竜一は病院の正面玄関の外にある段差に腰を下ろしていた。始発で帰宅して着替えてきた大樹が、自動販売機で買った缶コーヒーを黙って差し出した。竜一はそれを受け取った。プルタブを引いて一口飲んだ。昨夜より苦かった。空腹のせいだと思った。
自動ドアが開いて七子が外に出てきた。二人に気づいて少し立ち止まった。それから「おはようございます」と言った。声がかれたいた。
竜一が頷いた。大樹が「直樹さんの様子はどうですか」と聞いた。七子は「落ち着いてます」と答えた。「さっき少し話しました」それだけ言って、また黙った。
少しの間、三人が外の空気の中に並んだ。今朝は雨が止んでいた。曇りの白さが空を覆っていた。
七子がまた口を開いた。
「昨夜、直樹が言ったこと。全部本当のことです。私も気づいていました。でも止められなかった。私が止めようとすると、父が黙らせた。私の言葉より父の判断が優先される家だったから、それに慣れてしまっていた」
声に感情がなかった。疲れ果てた人間の声だった。
「直樹さんが倒れて、初めて怖くなりました。このまま続いたら、次は死ぬかもしれないと思って。それで、今朝父に電話しました」
七子は言った。
「父は、今から来ると言いました」
その言葉を聞いた瞬間、竜一の背筋に何かが走った。大樹が缶コーヒーを持つ手を止めた。七子は「申し訳ありません」とだけ言って、中に戻った。
黒沢吉尾が病院に着いたのは、それから四十分後だった。黒沢は六十八歳で、薬局チェーンの経営者だった。小柄で太り気味の体に仕立ての良いスーツを着ていた。目が細くて表情が読みにくかった。廊下で黒沢と顔を合わせた時、竜一は頭を下げた。黒沢は「ああ」と言っただけだった。妻の親族だと認識はしているが、それ以上の関心はないという態度だった。黒沢は直接病室の方へ向かった。
十分ほどして、七子が廊下を走るように戻ってきた。顔色が変わっていた。
「竜一さん、来てください」
病室に入ると、直樹がベッドの上に起き上がっていた。体を起こすのも辛そうだったが、それでも起きていた。顔が青かった。点滴の管が腕から伸びていた。黒沢は直樹のベッドの横に立っていた。病室の中には白いサイドテーブルがあった。その上に書類が置かれていた。A判の用紙が数枚、クリップで留められていた。上部に「離婚届」という文字が見えた。
黒沢が直樹に向かって静かに言った。
「サインするだけでいい。手続きは全部こちらでやる。家は引き払ってもらう。車も返してくれ。子供の親権はうちが持つ。慰謝料は請求しない。それだけだ」
言葉は完結だった。まるで取引の条件を読み上げるような口調だった。感情がなかった。それが逆に重かった。
直樹の手がシーツの上で動いた。拳を作りかけて開いた。また作りかけて開いた。竜一はその手を見た。昨夜、座敷でアルファードのキーを握りしめていた手と同じ動きをしていた。
直樹がゆっくりと手を伸ばした。竜一が一歩前に出た。気がついたら動いていた。思考より先に体が動いていた。黒沢の腕を掴んだ。書類を持っていた黒沢の手首を、竜一の指が掴んだ。力が入った。工事現場で長年鍛えた手だった。細い手首が簡単に止まった。
黒沢が竜一を見た。細い目がわずかに見開かれた。驚いているというより、計算が狂ったという顔だった。
竜一は言った。
「入院してる人間に、書類を突きつけるのか」
黒沢は手首を引こうとした。竜一の手が離れなかった。黒沢が言った。
「身内の方ですよね。ご親族がこういうことをされると困ります。これは当事者間の話です」
竜一は手首を離した。しかし知らなかった。黒沢の正面に立ったまま動かなかった。黒沢は竜一を見上げた。それでも黒沢は笑った。薄い笑いだった。
黒沢が言った。
「パートのお仕事をされているんでしたっけ?ホームセンターの資材売り場でしたかね。妻から聞きましたよ。息子さんもご苦労されてると聞きました。でもね、その立場の方がうちの家庭のことに口を出すのは筋が違うんじゃないですか。うちはうちで、きちんとやっていく。あなた方には関係のないことです」
言葉が一つ一つ丁寧だった。怒鳴ったわけでも、侮辱的な言葉を使ったわけでもない。それなのに、その言葉の配置が相手を確実に下に置くように設計されていた。
竜一の中で何かが動いた。昨夜、大樹の頭に手を当てた時に胸の中で何かが静まったと思っていた。しかし今、また別の何かが動き始めていた。怒りとも違う、もっと冷たくて重いものだった。大樹が竜一の腕に触れた。後ろから静かに袖を引いた。竜一は大樹を見た。大樹は首を横に振った。一度だけ、はっきりと。その目が父親に言っていた。ここで何を言っても、この人には届かない。
竜一は息を吸った。ゆっくりと一歩引いた。黒沢がまた書類を直樹の前に置いた。直樹はその書類を見ていた。しばらく誰も動かなかった。七子がベッドの反対側に立っていた。夫を見ていた。父親を見ていた。また夫を見た。黒沢が娘の方を向いた。その目線だけで、七子は視線を伏せた。七年間で積み上げられた力関係が、その一瞬に現れていた。
直樹がボールペンを取った。竜一はそれを止めなかった。止める権利が自分にあるかどうかが分からなかった。直樹がサインした。書類をめくって、必要な箇所に順番にペンを走らせた。手が震えていたが、止まらなかった。
黒沢が書類を取り上げた。内容を確認するように一枚ずつめくった。それからクリップで留め直した。
「手続きは追って連絡する。退院したら荷物を取りに来てくれ。それだけだ」
黒沢が病室を出た。廊下に出る前に一度振り返り、竜一を見た。何かを言うかと思ったが、何も言わなかった。ただ見て、それから扉を出た。
病室に残ったのは、竜一と大樹、直樹、七子の四人だった。直樹がベッドに倒れ込んだ。体を保つ力が尽きたように、ゆっくりと枕に頭を預けた。七子が夫の横に歩み寄った。
「ごめん。今朝父に電話したのは私だった。でも、こうなるとは思っていなかった」
直樹は天井を見ていた。七子の方を向かなかった。直樹が言った。
「分かってる」
声がかれたいた。それだけだった。七子が夫の手に触れた。直樹は手を引かなかった。しかし握り返しもしなかった。
直樹が天井を見たまま言った。
「おじさん」
竜一は直樹を見た。
「昨夜は、言いすぎました。みんなの前で」
竜一は何も言えなかった。
「でも嘘はなかった。全部、本当のことだった」
竜一は「うん」と言った。声が出たのが自分でも少し意外だった。直樹がわずかに首を動かして、竜一の方を見た。
「おじさんが抱えてる苦しさも分かる。俺だって、大樹の立場なら怒鳴りたくなるような親がいたら、怒鳴るかもしれない。でも、大樹は昨夜、一番最初に俺のそばに来た。それだけは覚えてる」
病室の中が静かになった。大樹は病室の床を見ていた。顔を上げなかった。七子が夫の手をそっと離した。立ち上がって窓の方へ歩いた。曇り空を見た。雨がまた降り始めていた。
竜一は直樹のベッドに近づいた。直樹の目がまた天井に戻っていた。
竜一は言った。
「すまなかった」
直樹は何も言わなかった。
「お前のことを、ちゃんと見ていなかった。見たいものだけ見ていた」
直樹の喉が小さく動いた。
「謝る相手が違う」と直樹は言った。声が低かった。
「俺じゃなくて、大樹に行ってやってください」
竜一は頷いた。
「そうだな」と言った。それだけだった。
しばらくして直樹が眠り始めた。点滴の薬が効いてきたのか、まぶたが重そうになって、やがて呼吸が静かになった。七子が夫の顔を確認して、竜一に小声で言った。
「少し休ませてあげてください」
竜一は病室を出た。大樹がついてきた。廊下に出ると、窓から雨が見えた。さっきより強くなっていた。大樹が廊下の壁に背を預けた。
「さっき直樹さんが言ってたこと、聞こえてました」
竜一は大樹を見た。大樹は壁を見ていた。
「昨夜のこととか、今朝のこととか。自分でも、まだ整理がついていないです」
竜一は「そうか」と言った。大樹は続けた。
「ただ、直樹さんが助かってよかった。それははっきり分かります」
竜一は廊下の先を見た。黒沢はもういなかった。自動ドアの向こうに雨が降っているのが見えた。
「黒沢のことを、止められなかった」と竜一は言った。大樹は何も言わなかった。
「止めるべきだったかもしれない。でも、止め方が分からなかった」
大樹がゆっくりと壁から背を離した。
「父さんが止めようとしたの、見てました。腕を掴んでたの」
竜一は何も言わなかった。大樹は続けた。
「それで十分だと思います」
その言葉が竜一の胸のどこかに当たった。十分という言葉。昨夜、自分が大樹に向かって言い続けてきた言葉は、何が足りないかという言葉ばかりだった。三十五年間、何が足りないかを言い続けてきた。なのに息子が言ったのは、それで十分だという言葉だった。
二ヶ月が経った。八月の東京は、今年も容赦がなかった。アスファルトが熱を吸い込んで、夕方になっても地面から湯気のようなものが立ち上がった。竜一はホームセンターの資材売り場で、その日も立っていた。作業着の背中は午前中にはすでに汗で張り付いていた。
二ヶ月前の六月の夜から、いくつかのことが変わり、いくつかのことは変わらなかった。変わったことから言えば、まず柴田直樹が退院した。退院してから一週間、直樹は克己と節子の家に身を寄せた。その後、直樹は自分で部屋を探した。東京の東側、江戸川区の古いアパートに一人で入った。家賃が五万二千円の、六畳と三畳の二間だった。黒沢の家から持ち出せたのは、衣類と数冊の本、小さなデスクランプだけだった。竜一は一度だけその部屋を訪ねた。直樹は新しい仕事を探し始めていた。前の会社には戻れなかった。黒沢の影響が及ぶ範囲が広かった。それでも直樹は別の業界で、自分の力で数字を作れる仕事を探していた。簡単ではないと自身も言っていた。でも、今はそれでいいと思ってるとも言った。
竜一はその言葉を、帰りの電車の中でずっと考えた。今はそれでいいと思ってる。そういう言葉を、自分は息子に一度でも言ってやったことがあったか。答えは出なかった。出せなかった。
この二ヶ月で、大樹に会ったのは三回だった。一回目は直樹が退院した翌週だった。大樹が竜一の家に来た。一緒に夕飯を食べた。竜一が作ったのはインスタントの味噌汁と、冷凍の餃子を焼いたものだった。妻が死んでから、料理というものをほとんどしなくなっていた。大樹は文句を言わずに食べた。その夜、大樹は仕事の話を少しした。三つの仕事を掛け持ちしているが、そのうち一つが今月末で契約が切れると言った。更新の見込みは薄い。そうなると月の返済額が若干厳しくなる。でも、何とかなるとも言った。竜一は何と言えばいいか分からなかった。金の話を持ち出すことも考えた。しかし自分のパートの収入では焼け石に水にもならなかった。結局「また来い」と言った。大樹は頷いた。それだけだった。
二回目に会ったのは七月の半ばだった。大樹が近くを通ったついでに寄ったという電話があって、竜一は仕事帰りにコンビニの前で落ち合った。二人でベンチに座って、缶ビールを一本ずつ飲んだ。話らしい話はしなかった。大樹が近所で見つけた安いうどん屋の話をした。竜一が職場の後輩の話をした。それだけだった。
三回目は先週だった。大樹が来た時、顔色が悪かった。竜一が何も聞かないでいると、大樹の方から言った。先週、仕事中に少し気分が悪くなった。座っていたら治った。大丈夫だと思う。竜一は「そうか」とだけ言った。本当は別のことを言いたかった。無理をするなとか、体を壊すなとか。しかしそれを言う前に大樹の顔を見た。無理をしていると分かっていて、それでもやめられない理由を、この子は三年前から一人で抱えていた。今更「無理をするな」といったところで、何の意味もないと分かっていた。だから竜一は「飯は食えてるか」とだけ聞いた。大樹は「まあ」と言った。「まあ」の中身が何なのかは聞かなかった。聞いたところで、大樹は正直には言わない。それも分かっていた。
その三回目の翌日、竜一はいつもより早く仕事に出た。ホームセンターから帰りに、大樹の部屋の近くのコンビニに寄った。おにぎりと菓子パンと栄養補助食品のゼリーをいくつか買った。大樹の部屋のポストに入る袋に詰めて、ポストに入れた。それだけのことだった。大樹からは翌朝、ありがとうという短いメッセージが来た。竜一は返信しなかった。する必要がないと思った。
その日の夕方、仕事を終えて着替えて外に出たところで、竜一の電話が鳴った。知らない番号だった。出ると、しばらく間があった。それから「長谷川大樹さんのお父様でしょうか」という声が来た。女の声だった。落ち着いていたが、早口だった。竜一の体が止まった。
「はい」と答えた。声が続いた。
「私、大樹さんが務めておられる会社の者ですが。今日、長谷川さんが職場で倒れられまして、救急搬送されました。今、都立の病院に」
竜一は何も言えなかった。病院の名前を聞いた。繰り返させた。それをコートのポケットに入っていたレシートの裏に書いた。ペンが滑って、最初の一文字が読めなくなった。もう一度書いた。電話を切って駅に向かった。走ろうとして、足がうまく動かなかった。歩いた。早足で歩いた。
駅の改札を通りながら、竜一は二ヶ月前の夜を思い出した。直樹が倒れた夜、座敷の中で誰も動けなかった瞬間、一番最初に動いたのが大樹だった。今夜は、自分が動かなければならなかった。
電車の中で体が揺れた。吊り革を持ちながら、竜一は窓の外を見た。夕暮れの町が流れていった。病院に着いたのは電話から一時間後だった。救急外来の受付で名前を告げた。待合いに案内された。二ヶ月前と同じ種類の椅子に座った。同じ消毒液の匂いがした。同じ白い光が天井から降りてきた。しかし今夜は、隣に誰もいなかった。竜一は一人だった。
三十分ほどして処置室の扉が開いた。看護師が出てきた。
「大樹さんのご家族の方ですか」
「はい」竜一は言った。
看護師が言った。
「意識はあります。心筋梗塞の疑いがあったんですが、検査の結果、今のところ梗塞は確認されていません。ただ、心電図に不整脈の所見があります。過労と栄養不足が重なっているようで、今夜は入院していただきます」
竜一は聞いた。
「危ないのか」
看護師は少し間を置いた。
「今夜は安定しています。ただ、この状態が続いていたら、次はもっと重くなっていた可能性があります」
「そうか」竜一は言った。それだけだった。
看護師が書類を持ってきた。保険の確認と入院手続きの書類だった。竜一は一つ一つ確認して、必要な場所に記入した。手が少し震えた。書類を返して、また椅子に座った。しばらくして、大樹が病室に移されたと告げられた。廊下を歩いて、エレベーターに乗って、三階の病室の前に来た。扉をノックした。
「どうぞ」という声がした。大樹の声だった。扉を開けると、大樹はベッドの上に半身を起こしていた。点滴の管が腕から伸びていた。顔色が悪かった。目の下が、この二ヶ月で一番暗く見えた。竜一を見て、大樹は少し表情を動かした。
「来てくれたんですか?」
竜一は病室に入った。ベッドの横に置いてある丸椅子を引いて、座った。
「心配かけて、すみません」と大樹は言った。竜一は何も言わなかった。しばらく二人とも黙っていた。病室は四人部屋だったが、今夜は大樹しかいなかった。点滴の機械が一定のリズムで音を立てていた。竜一は大樹の腕を見た。点滴の針が入っている部分にテープが貼られていた。腕が細かった。手首から肘にかけての線が、竜一の記憶の中の息子よりずっと細かった。いつからこんなに細くなったのか。答えは分かっていた。三年前からだ。しかし三年間、竜一はその細さに気づかなかった。気づこうとしていなかった。
大樹が窓の外を見た。夜の病院の窓からは、向いのビルの灯りが見えた。
「仕事、どうなるかな」大樹は言った。独り言のような声だった。
竜一は大樹を見た。大樹は続けた。
「明日、連絡しないといけない。今月の返済が、来週で間に合うかどうか」
竜一は言った。
「それは後で考えろ」
大樹が竜一を見た。
「今夜は寝ろ」と竜一は言った。それだけだ。大樹は少し間を置いた。それから「はい」と言った。その返事が、子供の頃の返事に似ていた。竜一はそう思ったが、口には出さなかった。
大樹が目を閉じた。すぐには眠れなかった。まぶたの動きで、まだ起きているのが分かった。しかし目を閉じたまま動かなかった。竜一は椅子に座ったまま、息子の横顔を見ていた。三十五歳の顔だった。自分が三十五歳の頃、何をしていたかを思い出した。現場監督の見習いで、毎日泥だらけで帰ってきた。大樹はまだ小学校に上がったばかりで、よく走り回っていた。妻が夕飯を作ってくれた。あの頃のことを、普通だと思っていた。普通ではなかったのかもしれないと、今になって思う。あれは運だった。タイミングだった。自分の力だけで作ったものではなかった。それを当然のことのように思って、息子にも同じことを求め続けた。
大樹の呼吸が少し深くなった。眠り始めているのかもしれなかった。竜一は大樹の手を見た。シーツの上に、力が抜けた状態で置かれていた。指先に古いペンだこがあった。入力業務を長年やってきた指だった。爪が短く切られていた。竜一はその手に触れようとして、やめた。眠り始めているところを起こしたくなかった。だから触れなかった。ただ、その手の近くに自分の手を置いた。触れない距離に、ただ置いた。
病室の中が静かだった。廊下からナースの足音が通り過ぎた。点滴の機械が音を立て続けた。窓の外のビルの灯りが、いくつか消えた。竜一はこれからのことを考えた。考えても答えの出ないことばかりだった。大樹の借金は残っている。二千万円を超えるその数字は、今夜も明日も消えない。大樹が三つの仕事を掛け持ちして、食費を削って六畳一間に暮らして、それでも完済には何年もかかる。その間に体がどうなるか、今夜の出来事が一つの答えを出していた。直樹は江戸川区の古いアパートで新しい仕事を探している。離婚した後の生活を、一から組み直している。子供には会えていない。竜一自身はパートの収入でどうにか生活している。妻が残した貯金が少しある。それを崩せば、何かできるかもしれない。しかし何ができるのか、竜一にはまだ分からなかった。
何もかもが宙に浮いていた。しかし今夜、竜一にできることは、この椅子に座っていることだけだった。それは二ヶ月前の病院の廊下と同じだった。違うのは、今夜は大樹が眠っているこの部屋の中に、自分がいることだった。
大樹の呼吸がさらに深くなった。眠れているようだった。竜一はゆっくりと息を吐いた。自分の手を見た。関節のごつごつした、血管の浮いた、六十五年分の手だった。指を曲げた。関節は鳴らなかった。二ヶ月前の夜から、あの音が出なくなっていた。意識してやめているわけではなかった。ただ出なくなった。それが何を意味するのか、竜一には分からなかった。ただ、出なくなったという事実だけがあった。
病室の中の時計が、午後十時を指した。大樹が眠っていた。竜一は椅子の背に体を預けた。眠るつもりはなかった。眠れるとも思っていなかった。ただ、ここにいた。
妻が死んで二ヶ月と少しが経った。あの夜の食事会があって、直樹が倒れて、大樹の話を聞いて、黒沢が病室に来て、それから今夜ここにいる。全部が繋がっているようでいて、繋がりの意味が何なのか、竜一にはまだ分からなかった。ただ、妻の家の前で一人で立っていた六月の夜より、今夜の方が自分がどこにいるのかを知っている気がした。
借金はある。仕事は不安定だ。体は壊れかけている。直樹はまだ立て直しの途中にいる。何も解決していない。何も変わっていない。明日もそれは変わらない。それでも大樹は今夜、ここで眠っている。竜一は息子の手の近くに置いた自分の手を見た。触れない距離のままで、そこにあった。病室の灯りが天井から静かに降っていた。



