義妹のナナが、私の結婚相手を奪おうとしている。彼女が壊した高級骨董品の代わりに、姉である私を押し付けたんだ。私たちは、もう帰る場所もお金もない状態で、麓元に放置されて。すると、夫が財布から1万円札を10枚も出して、こう言ったんだ。「これで好きなものを食べて」と。その瞬間、私は悟った。この家に嫁いだ時点で、復讐は完了している。でも、もっと残酷な復讐の方法を思い付いてしまった。「新一、この隙に、…

義妹のナナが、私の結婚相手を奪おうとしている。彼女が壊した高級骨董品の代わりに、姉である私を押し付けたんだ。私たちは、もう帰る場所もお金もない状態で、麓元に放置されて。すると、夫が財布から1万円札を10枚も出して、こう言ったんだ。「これで好きなものを食べて」と。その瞬間、私は悟った。この家に嫁いだ時点で、復讐は完了している。でも、もっと残酷な復讐の方法を思い付いてしまった。「新一、この隙に、...

「帰ります。新婚さんを邪魔したくないので」

残念だな、せっかく来てくれたのに。新一が寂しそうにする。私は気を遣って声をかけた。「ナナのことはいいから、ご飯にしましょう。今日の夕飯は鹿肉よ」

「鹿肉とか、受けるんだけど」と笑うナナをよそに、新一の答えを待つ。

「いや、これで好きなもの食べて。麓元まで妹さんを送っていったついでに」

そう言った新一は、財布から1万円札を10枚ほど出していた。

彼と結婚した時点で、私の復讐はほとんど完了している。家に縛りつけようとした家族から逃げ出せたのだから。けれど、たった今、別の復讐方法を思いついてしまった。新一に協力してもらえれば、私を苦しめたナナをどん底に突き落とせる。さらには、父や祖父にも仕返しができる可能性もあった。長年の恨みを晴らすチャンスだ。この機会は絶対に逃さないと、私は新一が出した1万円札を1枚だけ受け取った。

私は藤倉洋子、25歳。1週間ほど前に婚姻届を提出したばかりだ。夫の新一は30歳の漁師だが、私が知っているのはそれだけ。理由は、妹のナナの代わりに彼と結婚したからだ。ただ、私には新一との結婚に大きなメリットがあった。

何も知らないナナは、こんな風に笑う。「田舎の漁師と結婚とか最低。私だったらごめんだわ。でも、地味で不細工なお姉ちゃんは相手を選べないから仕方ないわよね」

結婚話の発端が自分の失態だったことを忘れたようだ。自分に都合がいいように考え、人を馬鹿にするナナが、私は昔から嫌いだった。しかし、彼女の性格については家族にも責任がある。特に父と祖父は、ナナを幼い頃から甘やかしていた。何をするにもナナが一番。誕生日もクリスマスも、テーブルの上には彼女が好きなものばかり並ぶ。旅行の行き先を聞かれるのも、彼女の役目だった。そんなナナと対象的に、私の意見はそっちのけ。おねだりをしてみたけれど、最後は「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と父に言われた。

「ナナの方が可愛いからだよね」

幼い私が気づいた結論がこれだ。それ以来、私は家族に期待するのをやめた。長女というだけで家事を手伝うように言われ、自由な時間はほとんどない。休日に出かけるナナを横目に、私は家の手伝いをしていた。

二つ下のナナが中学を卒業した日のことだ。私の高校では進路調査表が配られた。「話を聞いてくれそうなのは、お母さんだけよね」とつぶやきながら家に帰る。リビングではナナが得意気に話していた。「見て、卒業式の後、お父さんと正門の前で写真を撮ったのよ」

「そう、よかったわね。ごめんなさいね、行けなくて」と母が申し訳なさそうに言う。季節の変わり目で、母は風邪を引いていた。「いいえ、具合悪かったんでしょ?」「ええ、でも、一度きりのことだから。平気だって。この写真もプリントアウトして、卒業アルバムに挟んでおくね」

私のアルバムに、家族との写真は1つもない。自分と友達だけの写真が、私の大切な思い出だった。

高校を卒業したら、家を出てやる。当然の結論だと思っている。やがて高校卒業が迫り、私はこっそりと家を出る準備を始めた。まずは担任教師に相談し、就職先を探す。見つけたのは、実家からかなり遠い場所だった。次に、一人暮らしができるアパートを借りる。これだけは、親の力を借りるしかなかった。

「ねえ、お母さん、ちょっと相談があるんだけど」

母が一人の時に相談してみる。意外にも、すんなりと一人暮らしを受け入れてくれた。「じゃあ、手続きはお母さんがするわね。就職面接は自分で頑張るのよ」「うん、分かってる」。面接は根性で乗り切る。結果、私は地方の会社に就職が決まったけれど、そんな中で父が異変に気づいてしまう。

卒業式の一ヶ月前になり、父は家に祖父を呼んだ。私がリビングへ行くと、父と祖父がこちらを睨みつけている。「どこへ行きたいのか、分かってるな」「何のこと?」私は顔を背けた。その途端、祖父が声を荒らげる。「とぼけるな。どうして勝手に就職先を決めたんだ?」「勝手じゃないわよ。学校で相談したわ。お母さんにも」「そういうことじゃない」。ドンと祖父がテーブルを叩いた。思わずビクッとしてしまう。視線を戻すと、私を睨む父と目があった。

「お前の将来のことは、私たちがちゃんと考えていたんだぞ」「何?お金持ちと結婚させるとか?」自分で言っておきながら、悲しくなる言葉だ。しかし、それさえも父に一笑されてしまう。「バカ。器量が悪いお前が、お金持ちと結婚できるわけがないだろう。就職先のことだ」「就職先?」「秀明の会社と取引がある工場だ。本条社長には、私からも頼んでおいたのに」

秀明というのは父の名前だ。父が勤務する会社には、以前祖父も在籍していた。今の社長とも面識があり、互いに骨董品が趣味ということもあって、仲がいいそうだ。「余計なお世話よ。就職先くらい自分で探せるわ」「そうじゃない。親父は、育ててやった恩を返せと言ってるんだ」

父が声を張り上げる。私は呆然とした。母はまだしも、父や祖父に恩を感じたことは一度もない。いつもナナばかり可愛がり、私はほったらかしだったからだ。腹が立った私は、思わず反論した。「恩を返せって、恩義を感じたことはないけど。具体的に何をしてほしいの?」「それが親に対する口の聞き方か」横から祖父が怒鳴る。けれど、もう何も怖いものはなかった。「聞いてるだけでしょ。すぐに怒鳴るけど、今時は通じないわよ。何かあったら警察沙汰になるんだから」

私の言葉に、祖父も父もひるむ。思い当たることがあるようだ。「近所で恥をかきたくなかったら、落ち着いて話してくれる?」少し煽るように言ってみる。父は悔しそうに唇を噛みしめた。「もういい。勝手に出ていけ。その代わり、家には金を入れてもらうからな」「悪いけど、前提が矛盾してるわよ」。正論をぶつけると、父は視線を横へ動かし、隣の祖父に助けを求めた。

「お前の就職先の会社に、断りの連絡を入れてもいいんだぞ」「脅すつもり?それが家族のすること?」「どうなんだ?」。こちらの質問は無視して、祖父は答えを迫ってくる。少し考えた私は、「仕送りをすればいいんでしょ」と答えていた。妥協したわけではない。そう答えておけば、丸く収まると思っただけだ。問題は家を出るまで。何とでもなると考えていた。

やがて高校を卒業した私は、家を出る。引っ越し先は誰にも言わなかった。ただ、手続きをした母は知っている。「絶対に言わないでよね」「大丈夫よ。手続きの時の書類は処分しちゃったから。その代わり、あなたが連絡してこない限り、助けることもできないわよ。いいのね。逆に念を押されたけど」「もちろんよ」「じゃあ、初めは何度か家にお金を入れなさい。油断させておいて。貯金ができたら、別のところへ引っ越すのよ」

思いもよらないアドバイスに、涙が溢れる。最後に「ありがとう」と母に告げ、私は家を出た。

就職後、最初の半年ほどは素直に仕送りをする。貯金ができた後は、別のアパートへ引っ越した。新居の住所は、母にも告げていない。引っ越してからは実家との連絡を絶ち、携帯電話の番号も変更した。こうして、母のおかげで私は実家から逃げることができたのだった。祖父や父が怒る姿が目に浮かぶけれど、下手に確認もできない。当然、地元の友達と連絡を取るのも難しい。何かすれば、こちらの居場所がバレるかもしれないからだ。「当分は我慢よね。我慢」。自分に言い聞かせながら、懸命に働いた。

そして、3年ほどが経った時のことだ。職場に電話がかかってきた。「もしもし。ご要件は」仕事の電話だと思ったのだが、通話口の向こうから聞こえたのは、ナナの声。「あ、お姉ちゃん、私だよ。ナナ」「え?ナナ?」「そう、やっと見つけた」。背筋が寒くなる。返答に困っていると、ナナが私にこう言った。「なんで居場所がバレたのか、って思ってるんでしょ。あ、えっと、教えてあげようか。ヒントはSNSよ」

SNSと言われて、色々と考えを巡らせる。アップロードした写真から居場所がバレるという話は聞いたことがあった。だから、私はSNSを活用していない。「自分が写真をアップロードしなくても、周囲の人がやったら同じだよね」。ナナの言葉に納得した。同僚の中には、SNSに写真を載せている人が多い。車内で撮影した写真に、私が映り込んでいた可能性はあった。「誰かのSNSから特定したの?」恐る恐る聞いてみると、ナナは笑いながら答えた。「残念でした。正解は、お姉ちゃんの友達に聞いたのよ」「え?」「お母さんが病気だから連絡したいって言ったら、簡単に教えてくれたわ」

あけらかんと話すナナ。何を考えているのよ。「親が病気とか、嘘にもほどがあるわ」「あ、知らないわよ。そんなこと」。平然と答える様子に腹が立つ。ただ、会社の電話を使っている以上、下手なことは言えなかった。怒鳴りたい欲望をこらえて、静かにナナに告げる。「とにかく、用事は何なの?」「あ、そうだった。お姉ちゃん、帰ってきて」「え?帰る?どこに?」反射的に聞いてしまった。ナナは大声で笑う。「うちに決まってるじゃん。断ってもいいけど、どうなるか分かるわよね」「脅すつもり?」「別に。ただ、会社に迷惑がかかっちゃうかもって話よ」

どう考えても、私だった。就職して3年。周りにいるのは、お世話になった人ばかりだ。会社に何かすれば、咎められるのはナナだろう。だが、多少なりとも会社の業務に影響を及ぼすのは明らかだった。「家に帰ればいいのね」確認すると、ナナは軽く答えた。「会社はやめてね」「どうして」。思わず大きな声が出る。周囲の視線が私に集中した。引きつった顔で、声のトーンを落とす。「会社をやめる必要はないでしょ」「あるわよ。だって、こっちの工場で働いてもらわないと都合が悪いから。なんでずっと仕送りしなかったでしょ?だから、うちに働きに出させて、家にお金を入れてもらおうって話になったのよ」

目の前が真っ暗になった。せっかく逃げ出したのに、これでは元の木阿弥だ。「なら、会社に迷惑がかかるかも。分かったわよ。とにかく今は仕事中だから、夜になったら電話するわ」「待ってるね。でも、逃げたら本当に会社に迷惑をかけるから、覚悟してて」。ナナが強い口調で言ってくる。もう逃げられないと、私は観念するしかなかった。

結局、ナナの脅しに屈し、私は会社に退職願いを提出する。上司は納得のいく理由を聞いてきた。私が家を出た理由を知っていたからだ。「すみません。母が体調を崩して、そばにいたいと思いまして」。とっさに嘘を並べ立てた。上司は私の嘘に気づいていたかもしれないけれど、最後は無言で送り出してくれた。自ら会社と交渉して、少し多めの退職金を勝ち取ってくれたくらいだ。本当に感謝しかない。「お世話になりました。ありがとうございます」。丁寧に上司や同僚にお礼を言い、私は思い出のある会社を後にした。

実家に戻ったのは、それから2週間後のことだ。最初の1週間は旅行をした。実家に戻れば、もう自由はない。そんな覚悟から、最後の思い出作りをしたのだ。残りの1週間は、家の片付けと引っ越し作業だ。辛い日々がまた始まる。毎日ため息ばかりついていた。

引っ越し業者に荷物を預け、私は一足先に電車に飛び乗る。暗く淀んだ空を眺めているうちに、地元の駅に到着していた。そこからタクシーで約20分。二度と帰らないと決めていた実家が見えてきた。家の前でタクシーを降りた私は、気合を入れ直す。「よし、頑張ろう」。玄関のチャイムを押すと、すぐにナナが飛び出してきた。「お帰り、お姉ちゃん」。普通の姉妹なら、感動的なシーンだろう。しかし、私は表情を曇らせていた。「ただいま」「どうしたの?元気ないけど」。当然のことを聞かれ、思わずむっとしてしまう。「当然でしょ。帰りたくなかったんだから」嫌味を言うように告げる。ナナは不思議そうに首をかしげていた。彼女も理由は分かっているはずだ。それなのに、知らないふりをしているなら、本当に腹が立つ。私は彼女に背を向け、家の中へ入った。

まっすぐに自分の部屋に向かう。扉を開けると、部屋の中はガランとしていた。ただ、汚れている感じはしない。「掃除はしておいたわよ。荷物はいつ届くの?」背後から、懐かしい母の声がする。私は背を向けたままで答えた。「明日」「そう、じゃあ明日は片付けを手伝うわね」「ありがとう」。母の顔を見ずに部屋に入り、扉を閉める。部屋の隅に鞄を置き、小さくため息をついた。

「頑張るから。もう一度」。部屋は狭いけれど、一人になれる。悔しさや寂しさから逃げてきた、私だけの空間だ。私にとっては、掛け替えのない相棒と言えばいいのだろうか。そういう場所だと考えていると、部屋の前で父の声がした。「おい、洋子。帰ったら挨拶くらいしなさい」「はいはい」。干渉的になる暇もない。私はため息をつきながら部屋を出た。扉の前で父と鉢合わせになる。「何か言うことはないのか?」「ただいま」「他には?」「別に。話があるのはそっちでしょ」。父は不愉快そうに顔をしかめると、声を荒らげた。「なんだ、その言い方は?」「当然でしょ。帰りたくなかったのに、強引に帰るように仕向けられたんだから」。睨み返す。父は深いため息をついた。「本当にお前は」「何?私が嘘をついているっていうの?」図星ばかりに反論する。何も言い返せない父は、沈黙していた。「とりあえず、どいてくれる?」「なんだと?」「どうせ家事も私の仕事なんでしょ。邪魔しないで」。冷たく言い放った私は、父の横をすり抜ける。背後で何か言おうとしていたようだが、無視した。

そのままキッチンへ行く。母が夕食の準備を始めたところだった。「手伝うわ」「いいのよ。今日くらいは平気。どうせ座っていたら、お父さんが文句を言うから」。キッチンに父が来ることはほとんどない。家の中でも、数少ない心が休まる場所だ。「じゃあ、始めましょう」。一声かけてから料理を始める。しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。「おい、洋子は帰ってきたか?」祖父の声がする。先ほどのチャイムは、彼が鳴らしたものだったようだ。「おお、来たのか」「当然だ。あのバカな孫を叱ってやらんと」。グダグダと文句が聞こえてきて、思わずため息が漏れる。「洋子、大丈夫?」「え?平気。私だって、この数年で少しは成長したから」。ただの強がりではない。社会人を経験して、非常識なクレームに対処する術も身につけている。

食事の用意を終えた私は、堂々とリビングへ行った。「洋子か。お前、どうして仕送りをしなかったんだ?」真っ先に祖父が聞いてくる。私は平然と答えた。「送りをする義務がないからですけど」「なんだと?お前は、育ててもらった恩を返すつもりがないのか?」「恩を返すとか、そんなことは仕送りとは関係ないと思いますよ」。真正面から言い返す。祖父は少し悔しそうに顔をしかめた。「生意気になりよって」「ありがとう。褒め言葉と受け取っておきますね」。ニコリと笑う。祖父はますます顔をしかめる。「まあ、親父、その辺にしておけよ。これからは、どうせ逆らえないんだから」。悪い笑みを漏らす父。やはり、私のことは実の娘とは思っていないのだろう。そう考えると、少し寂しさを覚えた。

「ところで、仕事のことは分かってるか?」「ナナから少し聞いただけよ」「そうか。じゃあ、俺が詳しく話してやる。お前が働くのは、工場だ」。父は食品包装資材を販売する会社で働いている。食品トレーとか、そういうものを取り扱っているところだ。取引先は食品関係の会社で、私が働くのはその中の一つ、地元の食品加工工場だという。「本条社長に頼み込んで、融通してもらったんだからな。ありがたく思いなさい」。高校卒業時も同じような話をしていたことを思い出す。話を聞きながら、私はため息をついた。「それで、工場で働けばいいのね」

「ああ、そうだ。工場で働き、給料は全て家に入れろ」祖父がこちらを見る。私は笑顔で応じた。「お断りします。給料は、私が働いて得たお金ですから」「断るなら、強引にもらうだけだ」「どうぞご勝手に。そしたら私は強盗で訴えますから」。祖父の顔色が変わる。「他にも、恐喝や脅迫で訴えることもできます。覚悟はいいですか?」。反対に、脅すような言い方をした。父と祖父が顔を見合わせる。その後、父が私に言った。「そんなことができると思っているのか。お前も、まだまだ子供だな」「親族例を知らないとは」「知ってるわよ。家族間で勝手にお金を使ったり取ったりしても、罪にはならないという話でしょ」「知っているなら」。口元が緩む父。私は視線をそらしたままで続けた。「強引に奪えば、話は別よ。脅迫や暴力が伴えば、親族の対象外になるわ」

父は言葉を失う。「ここに住む以上、多少のお金は家に入れるけど、それだけ。必要以上のお金は一切渡さないから、ちゃんと覚えておいて」「お前、それが親に対する」「親だったら、子供のお金を奪うようなことをしないでくれる?私は本気だからね」。強い口調で言い返した。ここで負けたら、搾取されるだけの人生に逆戻りだ。絶対に勝たなければならない。「ふざけたことを言いやがって」祖父が拳を握る。高ぶっている私は、彼の手を指差した。「暴力に訴える?いいわよ。すぐに警察に通報するから」。くっ、と祖父は手を引っ込める。一つ深呼吸をした私は、毅然と言い放った。「言われた通りの仕事はするけど、それだけだから。勘違いしないでね」「はいはい。そこまで。お父さんたちの負けよ」

そこで急に、ナナが割り込んでくる。彼女は私を見ながら、こう聞いてきた。「お姉ちゃんも、家にはお金を入れるのよね」「一応ね。家賃分くらいは」「じゃあ、私と同じ額でいい?」「同じ額?」首をかしげる。そういえば、ナナは今何をしているのだろうか。年齢的には大学生という可能性も十分にあったが、高卒で働いていれば、もう社会人のはずだ。疑問に思った私は、ナナに聞いてみた。「ナナ、あなたは何をしているの?」「え?私、社会人よ。お父さんと同じ会社で働いてるの」。間違いなく。だけれど、そんなことはどうでもよかった。働いているなら、ナナも家にお金を入れているのね。「ええ、月5万。多くはないけど、家賃って感じかな」。得意げに語るナナ。私にも同じ額を家に入れろと。「いいわよね。別に、それくらいは」。断るのは簡単だ。しかし、一円も家に入れないのは気が引ける。「分かったわ。5万でいいのね。お父さんもおじいちゃんも、文句ないわよね」。ナナが祖父と父を振り返る。二人は静かに頷いた。こういう時はナナに甘くて助かる。私は安堵していた。

翌日、私が向かったのは就職先の工場だ。父からは地図をもらっただけ。「一緒に行く」とは言っていたが、余計な話をされるのは面倒だから、置いていった。「よろしくお願いします」。上司に挨拶をして、早速仕事の説明を受ける。工場勤務ということもあり、業務内容は単純作業だった。以前と比べると覚えることは多いけれど、かなり簡単だ。危惧していた給料も、悲観するほどではなかった。様々な手当てもあり、以前の水準と同程度はもらえる。私はすぐに新しい生活に慣れていった。

そんな時、同僚との立ち話から妙案を思いつく。「そっか。そういう手があったわね」。早速、アイディアを実行に移した。結果が出たのは、一ヶ月後だ。ある書類を受け取った私は、嬉々として家に帰った。「ただいま」。明るい声で告げる。家にいたのは、ナナと母。真っ先に反応したのは、ナナだった。「どうしたの、お姉ちゃん?なんか嬉しそうだけど」「ああ、うん。ちょっとね」ごまかすように話す。怪しんだナナは、深く追求してきた。「何よ、その言い方。気になるでしょ?」「そう?じゃあ、教えてあげるわね。実はね、寮に入ることになったの」。ナナが首をかしげる。「そうよ。会社の寮。職場に近いし、家にいるよりもずっといいわ」「は?どういうこと?」私に掴みかかってくるナナ。何をされても平気だ。もう、家を出ることは決まったのだから。「断ってよ、そんな話」「無理よ。今後は夜勤や残業で遅くなるって理由で、会社に命じられたんだから」。会社が私の安全に配慮してくれたのは事実だ。けれど、「命令された」というのは少し大げさだった。「じゃあ、家にお金は入れないの?」「当たり前でしょ?一緒に住んでいないもの」。私としては満足だ。ただ、父や祖父はまだしも、ナナが不満に思う理由は分からなかった。そこへ父が帰宅する。騒ぎを聞きつけた彼は、一目散に私たちが話しているリビングへ来た。「どうしたんだ?」大声で。「お父さん、聞いてよ」「お姉ちゃんが」「なんだ、また妹をいじめたのか」。こちらを睨みつける父。私はふんと鼻で笑った。「そんなわけないでしょ」「じゃあなんだ?」「家を出るって話していただけ」。堂々と答える。次の瞬間、父の顔色が変わった。「なんだと?お前、また逃げるのか?」「違うわよ。会社の命令で、寮で暮らせって」。さすがの父も予想外だったようで、もごもごと口ごもっていた。「今後は夜勤とかが増えるから、会社の寮で暮らせって。安全のために」「断れ。そんなもの」「どうして会社の指示を、理由をなんて説明するのよ」「そ、それは」。視線を泳がせる父。適当な理由が思いつかないようだ。そういえば、どうして私を家に縛りつけていたがるのだろうか。同居して手に入るのは、わずかばかりのお金だ。何か理由があるのだろうかと考えていると、父が大声をあげた。「とにかく、私は許さんからな」「じゃあ、今の会社もやめさせる」。「さすがに最終職は難しいわよね」「いや、仕事は俺が」「見つけてくれるんだ?じゃあ、夜の仕事でも何でも構わないわよ。それこそ、家を出る口実になるだけだから」。当然、そういう仕事をするつもりはない。売り言葉に買い言葉だった。じっと父を見る。彼は何も言わず、こちらを睨んでいた。「じゃあ、来週には寮へ引越すから」「ちょっと」「何か文句でもある?」父を睨み返しつつ、訪ねてみる。最後まで返事はなかった。

嫌々ながら、寮へ引っ越す日が訪れる。引っ越し業者が出入りする中、祖父が姿を表した。「秀明から話を聞いた。どういうことだ、洋子。相談もなく、勝手に決めて」。祖父の家があるのは、実家から車で10分ほどの場所だ。外を見ると、家の前に彼の車が止まっていた。「会社の命令なので、相談するも何もないと思いますけど」丁寧な口調で答える。祖父はカッとなった。「それでも、相談するべきだろう」「部外者が口を出すことはできないと思いますが」「私が部外者だと」。こちらを睨んでくる祖父に、私は大きく頷いた。「へらず口を叩きよって」。祖父は悔しそうにする。だが、部外者というのは事実だ。「そういうことですから、ここで失礼しますね」「絶対に後悔するからな。覚悟しておけ」。祖父がこちらを指差す。私は視線をそらすことで答えた。その後、引っ越し業者の車に同行して、会社の寮へ向かう。

引っ越し先の寮は、見た目は普通のマンションだ。単身者向けのマンションを、一括で借り上げているようだ。私の部屋は、マンションの3階の一番奥。前の住人が結婚したため、空いた部屋だった。やがて引っ越しが終わり、一人になる。「やった。やっと逃げられた」。ようやく実感できた。ほっとした私は、窓際のソファーに座った。「さすがに、これ以上は手出しできないわよね」。会社の寮だけに、部外者は立ち入り禁止。親しい人でも、中に入るには許可が必要になる。要するに、私の生活を邪魔する人はもういないということだ。思いきり叫びたい気分だった。

寮に引っ越してからは、穏やかな日々を過ごす。父や祖父から電話がかかってきても、無視すればいい。会社に連絡してきても、私が出るのは難しかった。簡単に席を外せるような仕事ではないからだ。私は本当に平穏に過ごしていた。そんなある日のことだ。仕事終わりに、ある人が私を尋ねてきた。「君が洋子さんだね。あなたは、お父さんの会社の本条です。確か、社長の名前だ」。私は丁寧に頭を下げた。「父がお世話になっております」「いや、そんなにかしこまらなくていい。今日はちょっと話があって、きただけだから」「話ですか?」反射的に眉をひそめてしまう。本条は表情を崩して、話を続けた。「今度、君たちの家族をうちに招きたいと思っていて。どうだろうか?」「どう、と言われましても」。答えに困る。端的に言って、私自身は本条とは無関係だ。断っても差し支えないと思った。ただ、私が務めている会社は、彼のところと取引がある。ここは波風を立てない方がいいと感じた。「本来は、社員のお父さんや、君だけを誘うべきだが。君の就職の件でも、色々とあったから」。遠回しに、「就職を世話したから、顔を出せ」と言われているようだ。仕方ないと、私は覚悟を決めた。「分かりました。お招きありがとうございます」「よかった。君には、色々と、あ、いや、なんでもない」。途中まで言いかけていたが、何の話だったのだろうか。首をかしげる私の前で、本条はゆっくりと頭を下げた。「では、次の日曜日。時間は午前10時。都合はいいかな?」「はい、お休みですので、お伺いします」再度丁寧に頭を下げる。「ああ、楽しみにしているよ」。本条は笑いながら帰っていった。

色々と気にかかることがある。中でも、わざわざ私を呼ぶ理由が分からなかった。「本当はお断りしたいんだけど、今更断るのは無理だ」。私は諦めのため息をついた。そして日曜日。寮を出た途端、目に入ったのは祖父の車だった。運転席から、私の方を見ている。「どうしてここに」「本条社長に呼ばれたからな」「おじいちゃんも」眉をひそめる。祖父は嬉しそうに頷いた。「さっさと乗れ。行くぞ」「はい」。しぶしぶ祖父の車に乗る。助手席には父、後部座席にはナナが座っていた。「なんでお姉ちゃんも呼ばれているのよ」「本当よね」とっさに呟いてしまう。不機嫌そうにするナナに気づき、私は目をそらした。走行するうちに、車は住宅街から山手の方へ走っていく。「社長の家、どこにあるの?」「この先だ。高台にあるから、見晴らしがいいぞ」。定年退職後も、祖父は本条と交流があるらしい。骨董品という同じ趣味があるのが理由だそうだ。「私は骨董品とか分からないし、話題を探すのが難しい」。そんなことを呟いていると、助手席から父が突っ込んできた。「お前みたいな子供が、話に入る必要はない。黙っていろ」「はい、分かりました」。適当に返事をする。父はむっとしていた。やがて、車が止まる。窓の外を見ると、大きな家の壁が見えていた。周辺の家はどれも似たような感じだ。高級住宅街と言えばいいのか。そういう雰囲気を醸し出していた。私たちが降りたところで、祖父は少し先へ車を走らせる。そこには、来客用の駐車場と思われる場所があった。「こっちだ。ぼんやりするな。洋子」。父に声をかけられて、はっとする。急いで父とナナの後を追いかけた。門をくぐると、広い庭が見える。

大きなウッドデッキがあり、そこに本条の姿があった。「よう、待っていたよ、田君」。父の本名は田秀明。当時は私の名前も田洋子だった。「本条所長、本日はお招きいただき、ありがとうございます」「そんなにかしこまるなよ。さあ、こっちへ来てくれ。バーベキューを楽しもうじゃないか」。ふと見ると、庭にバーベキューの準備がしてある。近くには、使用人と思われる女性が数名いた。「私が『お金持ちの家は違うな』と実感した瞬間だ」。初めこそ緊張していたが、気づいた時には私もバーベキューを楽しんでいた。飲み物を片手に、本条の話に耳を傾ける。内容は、大半が骨董品のことだった。「この間、実に見事な小鉢りを手に入れて」「本当ですか?是非、拝見させていただけますか?」「いいと思う。この後、向こうで飲みながら」。祖父は楽しそうだが、父は適当に作り笑いをこぼすだけ。私と一緒で、何一つ理解していないと思われた。「あ、すみません。ちょっと手洗いを」。ナナが席を立つ。本条は笑いながら家の中を指さした。「そこから家に入れるよ。扉を出て、左の突き当たりだから」「ありがとうございます、社長」。媚を売るような笑顔を見せるナナに、私は思わず顔をしかめてしまった。「じゃあ、ちょっと失礼します」。子供のような言い方をして、ナナが席を外す。ウッドデッキに繋がっている部屋に入り、中へ姿を消した。

その数分後のことだ。部屋の中から、ガチャンと何かが割れる音が響いてきた。「お、何の音だ?」真っ先に本条が立ち上がる。彼は音がした方へ視線を向けた。釣られて、私もそちらを見る。すると、部屋の中からナナが顔を覗かせた。「す、すみません。社長、あの、割れちゃいました」。彼女が手にしていたのは、鮮やかな色の焼き物の破片だ。ギョッとしたのは、本条だった。すぐにナナにかけ寄り、大きな声をあげる。「な、なんてことをしてくれたんだ」。本条はナナから破片を奪い取り、小刻みに震える。急いで家の中に駆け込み、再び悲鳴のような声をあげた。「うわあ。ああ、私の大事な小鉢りが」。ようやく私は納得した。何かハプニングがあり、ナナが本条の自慢にしていた骨董品を壊したのだと。「だ、大丈夫ですか?本条社長」。祖父が家の中に飛び込む。続け様に、彼の悲鳴も聞こえてきた。ナナが壊したのは、随分と高価な白物だったのだろう。骨董品に詳しい祖父でさえ、悲鳴をあげるくらいだ。「そんなに高いんですか?それ」そっと近づいた父が声をかけるけれど、全く話にならなかった。本条が落ち着いたのは、一時間後のことだ。憔悴しきった彼は、ソファーにもたれかかったまま、こちらが何を言っても返事もできないようだった。

「なんでこんなことになったのよ、ナナ」小さな声で訪ねる。ナナはごまかすように笑っていた。「床に散らばった破片は、使用人の手で既に片付けられているけれど。私は現場を見て、すぐに妙なことに気づいた。それは、小鉢りの破片が落ちていたのが、部屋を抜けてトイレに行くだけなら通るはずがない場所だったことだ」「すみません。通った時に、服に引っかかったみたいで」。ナナはそう答えている。しかし、私は嘘だと思った。おそらく、ナナは本条の骨董品を盗もうとしたのだろう。手に取った直後、彼女が持ち損ねた骨董品が床に落ちた。結果的に、盗むつもりの小鉢りが割れてしまう。慌てたナナは、「服が引っかかった」と言い訳をした。これが事実だと、私は思っている。本条たちの話を聞いていれば、骨董品の知識がない私でも、高価なものだと分かる。お金に汚い人間なら、盗もうと考えるのも当然の白物だ。ナナがそんなに強欲かどうかは知らない。だが、そう考えれば辻褄が合う。

「本条社長、本当に孫が申し訳ないことを。謝っても済む話ではありませんが、何か責任を取らせていただかないと、私の気が済みません」祖父が懸命に話す。本条が何か思い出したように言う。「そうか。それなら、彼女に責任を取ってもらおうか」。ナナに視線を向ける本条。彼女は自分を指さしながら呟いた。「私が責任を?」「ああ、そうだ。実は、知り合いの息子さんが、結婚相手を探していてね」。本条が語り始めた内容は、こうだった。本条の知り合いに、藤倉という人がいる。その人の息子が、今年30歳になった。漁師で、年齢的にも親御さんが結婚させようとしているらしい。ただ、仕事のせいか、なかなか結婚相手に恵まれないとのこと。「彼と結婚してくれないか?ナナ君」「は?結婚?」露骨に嫌そうな顔をするナナ。引きつる顔を隠しつつ、彼女は本条にこう聞いた。「そのお相手のご職業は?」「確か、漁師だと聞いている。最近は熊の被害も多いし、大切な仕事だ」。ナナが視線をそらす。「無理に結婚しろとは言わない。相手がいれば、という話だから」「そ、そうですよね」。大げさにため息をついているナナ。安心したのが見え見えだ。「じゃあ、こちらを弁償してもらおうか」「え?弁償?」。途端にナナの顔が引きつる。本条は笑顔で答えた。「状態が良かったから、50万の値がついていた。給料から引こうか」「50万も。それは」「じゃあ、結婚するかね。なかなか相手が見つからず、困っていたから助かるよ」。ニンマリとする本条。困ったナナは俯いていたが、すぐにはっとして顔をあげる。私の方を見ながら、彼女は本条にこう提案した。「うちの姉はどうですか?お相手が30歳なら、姉の方が年齢も近いですし」
「は?なんで私が」。反射的にナナを睨みつける。彼女は平然と続けた。「釣り合いも取れますし。姉はモテないので、恋人もいないはずです」「なんですって」「それに、私は彼氏がいるので、心苦しいと言いますか」。うすら笑みを浮かべるナナ。本条は納得したように頷いた。「そうか。恋人がいるなら、仕方ないな」「ですから、うちの姉をどうぞ」。ナナが自分の手のひらを私の方へ向ける。とっさに私は、その手を払いのけていた。「勝手なことを言わないで」「何よ。可愛い妹を助けようと思わないの?」「思うわけがない。むしろ、憎たらしいだけだ」。言い合っていると、本条が私に聞いてきた。「それで、どうかな?」「いえ、でも、私は結婚とか。お見合いならまだしも、結婚というのは、さすがに無理だ」。しかも、話を聞く限り、一度でも会えば断るのが難しい気がした。「いいじゃないか。洋子、お前が結婚しなさい」「そうだぞ。いい話じゃないか。社長の知り合いの方の息子さんなんだから」。祖父も父も、勝手に進めてくる。やがて、祖父が本条にこう言った。「そのお話、是非ともお願いします。孫の洋子と結婚させてください」
「は、待ってよ」「うるさい。お前は黙っていればいいんだ」。怒鳴りつけてくる祖父。言い争う間に、本条との間で合意が結ばれていた。「では、そういうことで。分かった。話を進めておこう。助かるよ、洋子さん」。本条が笑顔で言う。その瞬間、あることをひらめいた。結婚すれば、合法的に家から逃げ出せる。仕事が漁師なら、家は田舎に違いない。祖父や父、ナナが押しかけてくる心配もないし、都合がいいのではないか。一瞬で、そんな思いが脳内を駆け巡った。「大丈夫かな?洋子さん」「承知しました」。嫌々ながら承諾するという雰囲気で答える。ナナは満面の笑みで喜んでいた。

そこからは、話が早かった。早々に新一の方から連絡があり、数日後、食事会をする。こちらは両親が同席し、その場で婚約が成立。翌日には婚姻届を書くはめになった。「本当にいいんですか?こんなに早くて」「あ、はい。家族も。新一さんがこちらにいる間にと。弁償するのが嫌だった祖父が、結婚を進めていたのは言うまでもない」。結局、私は新一と数日で結婚したのだった。そのまま新一は家に戻り、私は引っ越しの準備をする。荷物を先に送って、私は荷物を出した一週間後に、彼の元へ行った。

新一の家は、随分と田舎にある。山の上の方で、近くには店もなかった。ナナは馬鹿にしようと思ったのか、彼の家へ行く私についてくる。家を見るなり、お腹を抱えて笑っていた。「最悪、ど田舎じゃん」「うるさいわね。さっさと帰りなさいよ」。ほっぺを膨らませて怒鳴りつける。そこへ新一が家から出てきた。「妹さんはどうする?泊まっていく?お茶でも」。気を利かせた新一が、ナナに尋ねる。彼女は笑いながら答えた。「帰ります。新婚さんを邪魔したくないので」「残念だな。せっかく来てくれたのに」。新一が寂しそうにする。私は気を遣って声をかけた。「ナナのことはいいから、ご飯にしましょう。今日の夕飯は鹿肉よ」「鹿肉とか、受けるんだけど」。笑うナナをよそに、新一の答えを待つ。「いや、これで好きなもの食べて。麓元まで妹さんを送っていったついでに」。そう言った新一は、財布から1万円札を10枚ほど出していた。彼と結婚した時点で、私の復讐はほとんど完了している。家に縛りつけようとした家族から逃げ出せたのだから。けれど、たった今、別の復讐方法を思いついてしまった。新一に協力してもらえれば、私を苦しめたナナをどん底に突き落とせる。さらには、父や祖父にも仕返しができる可能性もあった。長年の恨みを晴らすチャンスだ。この機会は絶対に逃さないと、私は新一が出した1万円札を1枚だけ受け取った。

「食事するだけなら、そんなに必要ないわ」「え、そう?」不思議そうにする新一。隣で目を見張っているナナを確認しながら、答えた。「そうよ。でも、せっかくだから、新一と一緒に食べたいわ。だから、食材を買ってくるわね。今日は私が作るわ」「いいの?」「当然よ。夫婦なんだから」。笑顔で答える。そんな私を見ていたナナは、顔をしかめた。「何よ、その顔は」「別に。実の姉がベタベタする様子に、嫌気が刺しただけ」「はあ。普通に話していただけでしょ」「あ、そう。完全に二人の世界だったってわけね。ご馳走様」。むっとした私は、追い払うような仕草をした。「帰ったら、さっさと帰ってくれる?」「送ってくれないの?」「勝手についてきたのはあなたでしょ?タクシーでも呼んで、自分で帰りなさい」。厳しい口調で告げる。ナナは鼻を鳴らした。「どうせ買い物に行くんでしょ。麓元まで送ってくれてもいいじゃない」「それが人に物を頼む態度かしら」「お願いします、お姉様」。嫌味な言い方をされる。少し腹は立ったが、今日のところは許しておこう。その方が、都合がいいからだ。「分かったわよ。送っていくわ」「じゃあ、俺の車を使ってよ」。新一が車の鍵を渡してくれた。「え、これ」。鍵を見た途端、ギョッとする。私でも見覚えのある、高級車のエンブレムがついていた。「これ、高級車の」「ああ、普段はそれに乗ってるけど、別の車にする」。そう言いながら、新一はポケットに手を入れる。キーケースを出し、別の車の鍵を取り出した。「普通車もあるけど、軽自動車がいいよね。運転しやすいし」「えっと、何台もあるの?」思わず聞いてしまう。新一は軽く頷いた。「ここには3台だけ」「ここには?」「ああ、うん。実家にもあるから」。これ以上は、怖くて聞けない。ナナに復讐できるなどと軽く考えていたが、とんでもないことになりそうだった。「とりあえず、軽自動車を借りようかな」「じゃあ、これ。車は裏に止めてあるから」鍵を渡される。「ありがとう。夕食は何がいい?リクエストがあったら聞くけど」「じゃあ、カレーがいいかな?俺、好きなんだ。辛口カレー」「オーケー。カレーにするわね」。言いながら、ナナの背中を押す。「何よ?まだ話の途中でしょ?」「ちょっと、もう終わりよ。ほら、送っていくから、裏に行って」。強引にナナを裏手に連れて行った。家の裏側は、広い駐車場のような場所になっている。その向こう側には、山肌が見えていた。「山と家が離れているし、これなら安心ね」。広いスペースを確認して、納得。そんな中、ナナは裏手に止まる車を見て、ため息をついていた。「本当に高級車がある」。ほら、車に乗って。高級車に見とれるナナを、軽自動車の方へ向ける。そちらは、ごく普通の車だった。簡単に出せる金額ではないけれど、私でも手が届く範囲のものだ。「行くわよ」「ああ、こんなことなら、私が結婚すればよかった」。ふてくされるナナは、しぶしぶ軽自動車に乗り込んだ。車内でも、文句を言い続けるナナ。私は聞こえないふりをして走らせた。やがて麓元に到着する。私は繁華街に近い場所で、ナナを下ろした。「ここでいいわよね」「は?私に帰れっていうの?」「自分で言ったんでしょ?新婚さんの邪魔をしたくないって」。嫌味のつもりだったのだろうが、私は聞き逃していない。ナナを睨むと、彼女は不満そうに頬を膨らませた。「じゃあ、その辺のホテルに泊まるから、お金」。こちらに手のひらを向けるナナ。私は小首をかしげた。「どういうことかしら?」「だから、お金よ。出して」「なんで?」聞き返すと、ナナはむっとした。「だって、お金がないんだもの」「持ってこなかったの?」「ええ、お姉ちゃんにもらうつもりだったから」。当然のように答える。本当に呆れた。「悪いけど、私もお金は持っていない。財布はあるけれど、中身は新一にもらった1万円のみ」。どうしようかと考えていた時、ナナがこう言った。「さっきのお金、ちょうだい」「あ、これは私たちの夕食代よ」。とっさに、財布が入っているポケットを押さえる。「いいじゃん。減るもんじゃないし」「減るわよ」「じゃあ、どうするのよ。泊まるところもないし」。まるで怒られている気分だ。深いため息をついた後、私は静かに言った。「悪いけど、あなたもいい大人なんだから、自分で何とかしなさい」「そんなの、無理に決まってるじゃん」「携帯電話があるでしょ。それで何とかしなさい。じゃあね」。勢いよく車のドアを閉める。それから窓を開けると、ナナが顔を寄せてきた。「ちょっと待ってよ」「じゃあね、気をつけて帰るのよ」「待って。話はまだ」。何か言っていたけれど、完全に無視して、私は車の窓を閉めた。トントンとナナが窓を叩いている。私は軽く手を振った後、車を発進させた。すぐにナナの姿が遠くなる。冷たい気もするが、自業自得だろう。散々私のことを馬鹿にしておいて、お金を借りられると思うのが間違いだ。

少し車を走らせた後、実家に電話をかける。対応したのは、父だった。「どうだ?田舎は。周囲に家とかあるのか?」。嘲笑の顔が思い浮かぶ。ナナと全く同じだ。「返事もできないとは、残念だな。ゆっくり田舎暮らしを楽しめよ」「ありがとう。私からも、一つだけ」。前置きをする。父は鼻で笑っていた。「なんだ、早速泣き言か?」「うん。ナナのこと。私についてきたけど、お金がないんだって。繁華街に放置してきたから、助けてあげた方がいいわよ」「はあ?」。父の声が大きくなる。私は少しだけ携帯電話を耳から遠ざけた。その状態のままで、話を続ける。「早くしないと、大変なことになるわよ。帰りの電車も、ホテル代もないみたいだし」「お前、そんな状態で放置したのか?」「ええ。だって、私が助ける義理はないもの。ナナを買いかってるお父さんか、おじいちゃんが助けてあげれば」。平然と言った。その後、父が通話口の向こうで怒鳴り散らす。聞くのも面倒だったので、私はすぐに電話を切った。ついでに、電源もオフにする。「しばらくは、このままでいいかな。同じ話を繰り返されても面倒だ」。当分は携帯電話を使わないと心に決め、ポケットにしまった。それからナビを頼りに、近くのスーパーへ向かう。店では適当にカレーの材料を買い、まっすぐに新一の家に帰った。

帰宅後、腕まくりをしてカレーを作る。特別なレシピでもないのに、新一は随分と喜んでくれた。「旨い!これ、本当に旨いな!」。それが本当に嬉しくて、涙が出そうになる。家では、どんなに家事を頑張っても、褒めてもらえなかった。唯一、母が「ありがとう」と言ってくれていたくらいだ。しかし、新一はどんなことにも感謝してくれる。「ありがとう」とか「お疲れ様」とか、「助かるよ」と言ってくれたこともあった。感謝されるのが、こんなに嬉しいと思ったのは初めてだ。彼と結婚できてよかったと、私は心の底から感じていた。

そうして2週間ほどが経った日のことだ。部屋の掃除をしていると、ふと誰かが訪ねてきた。「いるんでしょ?出てきなさいよ」。玄関先で、大きな声を出している。「この声は」と思いながら、大急ぎで玄関へ向かった。近所迷惑だから、大きな声はやめてもらえませんか。「は?隣なんて、かなり離れてるじゃん」。玄関で言い争う新一とナナの姿が目に入る。私は慌てて割って入った。「ナナ、何を騒いでいるのよ」「あ、お姉ちゃん。こないだ、よく置き去りにしてくれたわね」。こちらを睨んでくるナナ。新一が首をかしげながら、そっと聞いてきた。「何の話だい?」「こないだナナがうちに来た時の話を」「あの時は、洋子が送っていったはずじゃ」。そう言った新一は、ナナの方へ顔を向ける。彼女はむっとして反論した。「繁華街で放置されたのよ。お金がないって言ったのに」「それは自業自得でしょ」「あ、姉妹なら、普通はお金くらい貸してくれるでしょ」。ナナは私の鼻先に指を突きつける。少しのけぞりながら、私は彼女の意見を否定した。「悪いけど、人のことをからかっておいて、お金を貸してもらえると思っていたの?世の中、そこまで甘くはないわよ。分かるでしょ?」「別に、からかってないわよ」。自分がしたことも忘れたのかと、呆れてしまう。「ともあれ、私は丁寧に指摘した。『ど田舎だって大笑いしたのは誰かしら?鹿肉を受けるって言ったのも、それは全部あなたよね』。念を押すように聞く。バツが悪いのか、ナナは顔を背けた。「そういう言動を、からかうっていうのよ。少しは反省しなさい」「何を偉そうに」。ふてくされるナナ。空気が悪いと思ったのか、新一が割って入ってくれた。「まあまあ、立ち話もあれだから、中に入ってもらおうよ」「いいの?」「新一、当然義理とはいえ、彼女は妹なんだから」。微笑む新一。彼は優しすぎる。私は呆れていた。「優しいお兄さんでよかった。それじゃあ、お邪魔します」。私を無視して、家に上がり込むナナ。「ちょっと待ちなさい、ナナ」「はいはい。ちゃんと話を聞いてあげるから、さっさとお茶でも出して」。からかうような言い方をされ、ムッと来た。「ナナ、いい加減にして」「まあまあ。後でガツンとやればいいから」。取りなす新一をじっと見る。「大丈夫だよ。俺も分かってるから」「それなら、いいけど」。この2週間、私はちゃんとナナへの対抗策を講じていた。最初に手をつけたのは、新一への説明だ。結婚した経緯や、私が家でどんな風に扱われてきたかを、彼には話している。ただ、話を聞いた新一の反応は薄かった。簡単に共感しないと言えばいいのか、安易な慰め方はされていない。よく話を聞いた上で、彼はこう確認してきた。「洋子は、ナナちゃんに復讐したいの?」「それは、まあ」「じゃあ、俺も手を貸すよ」。結論はそうなったけれど、具体的に何をしてくれるかは聞いていない。少し不安は残るが、今は彼を信じるだけだ。

二人でリビングへ行く。部屋の中では、ナナがくつろいでいた。足を投げ出し、だらしない格好をしている。「ちゃんと座りなさい」「これくらいは、いいでしょ。あのね」。思わず手が出そうになる。それを抑えたのは、新一だった。落ち着かせるかのように、私の頭を軽く撫でる。ナナの向かい側に私を座らせ、自分は隣に腰を下ろした。「それで、ナナちゃん。今日は何をしに来たんだい?」「何って?今回の結婚を、やり直しに来たの?」「結婚のやり直し?」新一が首をかしげる。私も同じ気持ちだった。「だから、お兄さんと結婚するのは、本当は私だったの。それを、お姉ちゃんが勝手に奪い取ったんだから」。「押し付けられた」というのが正しいと思うが、私が間違っているのだろうか。新一の方を見ると、彼は呆れたようにため息をついていた。「俺が聞いた話とは、少し違うようだけど」「どうせ、お姉ちゃんに嘘を吹き込まれたんでしょ。全部、出たらめよ。私が言ってることが本当だから、私を信じて。お願い」。ナナがお願いポーズをして見せる。私は鼻で笑ってしまった。「何それ?猿芝居?」「うるさい。お姉ちゃんは、余計な口出しをしないで」。テーブルを叩きながら、声を荒らげるナナ。私はすぐに席を立った。「お茶を入れてくるわ。飲んだら、さっさと帰って」「いやよ。帰りません」。ナナの返事は無視して、私はキッチンへ行く。内心、かなり不安だった。「とりあえず、俺が聞いた話をしようか」「何を言われたの?」。リビングで話す二人の声が聞こえる。私はお茶を入れながら、彼らの話に耳を済ませた。

「ことの発端は、君が本条社長の家で骨董品を壊したことだ。社長は何も言わなかったが、どうせ盗んで売ろうと思っていたんだろ」。新一の言葉に、ギョッとする。私と同じことを、彼が考えていたからだ。当たり前だが、そこまで詳しい話はしていない。私が彼に教えたのは、ナナが骨董品を壊した件と、その流れで新一との結婚の話が出たことだけだった。「なんで、そんなことを」。思わず口を滑らせた。ナナも同じことを思ったのか、新一にこう質問していた。「お姉ちゃんが、そんな出たらめを言ったんでしょ?」「あれは違うよ。不可抗力と言えばいいのか?悪いけど、嘘じゃないよ。その話をしたのは、本条社長だ」「え、社長が」。目を見張るナナ。新一は少し笑いながら、話を続ける。「本条社長は、最初から君を疑っていたようだね。そのうち、窃盗で訴えられるかもしれないね」「ま、まさか」「ないとは言えないよ。彼の自宅には、防犯カメラもあるからね」。ナナが息を飲む。防犯カメラの存在は、私も知っていた。隠すどころか、堂々と設置されていたのだから、当然だ。「まさか、気づいていなかったのかい?」「あ、外にはあったけど。部屋の中には」「あっただろ。普通にカメラが」。新一が確認する。ナナは何も答えなかった。本当に、彼女は防犯カメラに気づいていなかったようだ。「君の中で、防犯カメラといえば、天井からぶら下がっているタイプだった。違うかな?」「それは」「だから、分かりやすく置いてあるカメラにも、気づけなかったんだろうね」。確かに、本条社長の室内にあった防犯カメラは据え置きのもの。ウェブカメラとしても一般的なもので、大抵の人は一目で防犯カメラだと判別できる。私でも分かったのだから、気づかない人の方が少ないはず。ナナは、その少数派だったということか。「そんな泥棒と、俺が結婚するわけがないだろ。結婚のやり直し。冗談はやめてくれ」「何よ。私のこと、馬鹿にして」。奥歯を噛みしめ、ナナは悔しそうに新一を睨みつける。「馬鹿にしてないよ。ただ、犯罪者はお断りだと言っているだけ。でも、こないだ俺が洋子にお金を渡すところを見たからだろ?金目当てで結婚しようとした。そんな人間は、おさらばお断りだよ」。新一はきっぱりと告げる。ナナは無言で俯いていた。胸の辺りがスッとする。私は何くわぬ顔で、お茶を片手にリビングへ戻った。「お待たせ。ナナ、あら、どうしたの?元気がないわね」。分かっているけれど、わざとらしく尋ねる。ナナは、私に厳しい目を向けた。「これを飲んだら、帰ってくれる?」「いやよ。彼と結婚するのは、私なんだから」。ちらりと新一の方を見るナナ。私はため息混じりに答えた。「彼と結婚すれば、あなたが壊した骨董品の弁償をしなくていいから」「そ、そうよ」「そうなの。私は、また新一の正体に気づいたからだと思ったわ」「うるさい。黙れ。そんなのは関係ないわよ」。「反応が如実」という言葉がぴったりなほどに騒ぐナナ。この様子を見る限り、新一の本当の仕事に気づいたようだ。「もう知っていると思うけど、新一はただの漁師じゃないわよ。普段は実家の食肉加工会社を手伝っている、会社員でもあるわ」「黙れ。それ以上言うな」。よほど、「新一の本当の姿を知ったから結婚を迫っている」と思われたくないらしい。懸命に否定するナナは、随分と滑稽だった。「しかも、実家から仕入れた肉を提供する焼肉店も経営している、実業家。店では、自分が捕まえた獲物料理として提供しているそうよ」「だから、そんなことは関係ないわ」。声を荒らげる彼女。私は強く叱りつけた。「じゃあ、大人しく帰りなさい。責任逃れで人に押し付けて、今度は返せ。本当に都合が良すぎるのよ。いい加減にしなさい」。ビクッとするナナ。私は構わずに続けた。「昔から甘やかされてばかりで、そろそろ大人になってくれない?迷惑なのよ」「でも、うるさい」「泣き言は、お父さんかおじいちゃんに言いなさい。きっと、今までみたいに慰めてくれるわよ。ほら、さっさと帰って」。外を指差す。ナナは無言で俯いていた。「叩き出してあげましょうか?」「うるさい。分かったわよ。帰る。帰ればいいんでしょ。覚えてろ」。バンとテーブルを叩いたナナ。彼女は持ってきた鞄を手にすると、大きな足音を立てて出ていった。勢いよく、玄関が閉まる音がする。リビングの窓から外を見ると、不愉快そうな顔で帰っていくナナがいた。「本当にもう」「あんな言い方をして、よかったの?」新一が聞いてくる。「当然よ。新一には迷惑をかけたわね。変なことも言わせちゃって」「何のこと?」首をかしげる新一。ナナを泥棒呼ばわりしたことは、私には秘密にしておきたいようだ。「これなら」と、私は小さく頷いた。「なんでもない。ご飯にしよっか」「そうだね」。テーブルの上を片付ける。それから、二人で一緒に食事をした。

ナナの襲来から一週間、私たちには平穏な生活が戻っていた。新一は、部屋でパソコンに向かう時間が続いている。「ねえ、漁師なのに、狩りはしないの?」コーヒーを持っていったついでに、純粋な疑問をぶつけてみた。彼は少し考えてから答えた。「月1くらいかな?漁師の仕事は」「え、そうなの?じゃあ、残りは実家の手伝いか、自分の店の仕事かな?」「8割ぐらいが、自分の店のことだけど」。手元のパソコンの画面を見せてくれる。表示されていたのは、店のシフト表だった。経営者の新一が店に顔を出すのは、月に数回。抜き打ちで店の様子を確認する時だけだった。「じゃあ、普段は」「お店は県内に3店舗あるけど、それぞれの店長に任せてる。実家の食肉加工会社から仕入れた肉を販売する専門の店もあるし」。私が考えていた以上に、手広くやっているようだ。食事のために10万円をポンと出すのも、分かる気がした。「とりあえず、頑張って」「ああ、洋子のために頑張るよ」「私のために?」聞き返すと、新一は力強く頷いた。「当然だろ。俺の奥さんだから」「そういうことね。ありがとう。じゃ、私も食事の用意を頑張るわ」。笑顔で告げてから、彼の部屋を後にする。

思い返せば、私が追い返した後、ナナは全く干渉してこない。彼女にきつく言ったからか、父も祖父も沈黙を貫き、こちらとしては本当に穏やかだった。一つ気になるのは、ナナの捨て台詞だろうか。彼女は私に「覚えてろ」と言った。何かするつもりかもしれない。それだけが不安だった。「思い過ごしなら、いいけど」。買い物から戻った後、夕食の支度を始める。冷蔵庫の中のものを確認していると、ふとポケットの中の携帯電話が鳴った。ここ最近、誰からも連絡がなかったと思いつつ、電話に出る。相手は、ナナだった。「もしもし。ナナ?」「何か用かしら」。低い声で尋ねる。ナナは明るく答えた。「実はね、お姉ちゃんにいい話があるのよ」。こないだあれだけ攻め立てたのに、懲りていないのか。違和感を覚えた私は、通話を録音することにした。ただ、アナウンスが流れるので、ナナも気づくはず。案の定、彼女は大声をあげた。「録音って、どういうつもり?」「記録されたら、何か不都合でもあるのかしら?」「それは、別にないわよ」。おそらく強がりだろう。しかし、録音の許可を得られたのは幸運だ。「じゃあ、録音を続けるわね。それで、話って何?」「お兄さんのことだけど。焼肉店を経営してる」「そうね。ええ。それがどうしたの?」「もし、お店に問題が起きたら、どうする?」。自分の感情が大きく動くのを感じる。私は詳細を問いただした。「どういうことかしら?」「例えば、お店で食中毒が出たとか。ネットで広まったら、大変よね」「それが事実ならね。嘘だったら、偽計業務妨害という罪になるわよ」。釘を刺す。しかし、ナナは全く気に留めていないようだ。「噂が一人歩きするかもしれないじゃない。そしたら、どうするのかなって」「法的手段を取るんじゃない」。きっとどんな対応するかは私には分からない。だから、一般的な話をした。「あ、そう。仮にでも広まったら、取り返しがつかないわよね。何?この仕返しがしたいの?別に、謝るなら今だけど。どうする?」。急に話が変わる。背筋が少し冷たく感じた。「ナナ、あなた、本当に嘘を広めるつもりじゃないでしょうね」「さあ。警告はしたわよ。じゃあね」。そこで、電話が切れる。録音を止めた私は、急いで新一のところへ向かった。「新一、ちょっといい?」「なんだよ。急に」。眉間にしわを寄せる新一。私は手短に事情を話した。さらに、録音したばかりのナナとの会話も聞かせる。「なるほど。これは面倒なことになりそうだ」「どうする?でも、なんとかなるかもしれないかな」。新一は余裕の笑みを漏らす。一抹の不安を覚えた私は、尋ねた。「本当に大丈夫?」「問題ないよ。実家の会社には、顧問弁護士もいるから」。冷静に答える新一を、私は信じることにした。

事件が起きたのは、数日後のことだ。とある投稿が、ネットで急激に拡散された。投稿は、こう書かれている。「焼肉店で食事したら、お腹が痛くなった。店はここ」。添付されていた画像は、新一の焼肉店だった。レストランの予約サイトの写真を使っているのか、店名まではっきりと確認できる。「大丈夫なの?これ」「すぐに、なんとかするよ」。そんな話をする間にも、次から次へと投稿は増えていく。投稿を見た人が、拡散しているようだった。やがて日が暮れるが、不安で眠れない。事実でないとしても、噂が広がれば客は一気に減る。ネットの炎上騒ぎで閉店に追い込まれたケースは、珍しくもない。新一の店がなくなったら、どうしよう。不安の中、朝を迎えていた。

ゆっくりと起き出す。時刻は、午前7時少し前。そこで、携帯電話が鳴った。「7?あの子」。電話をかけてきたのは、ナナだ。すぐに通話ボタンを押し、彼女を怒鳴った。「ナナ、どういうつもりなの?」「うるさいな。急に大声を出して」。緊張感のない返事に、カチンと来る。私は少しだけトーンを落とした。「ちょっと聞きたいんだけど、新一のお店に関する投稿って、あなたの仕業じゃないわよね」。あらかじめ、ナナには偽計業務妨害になると伝えている。私としては、彼女が犯人ではないと思いたかった。「ああ、あれ、私よ。散々馬鹿にしてくれたお礼だから、受け取って」。電話口の向こうから、ナナの笑い声がする。カッとなった私は、思わず叫んだ。「何を考えてるのよ。無関係のお店に迷惑をかけて」「無関係?違うわ。私を馬鹿にした人間の店よ。そんな店、全部潰れてしまえばいいんだわ」。もうダメだ。ナナは、最後の一線を超えてしまった。厳しい口調で、彼女に告げる。「あなた、本当に犯罪者になるわよ」「犯罪者?私は何もしてないわ。事実を投稿しただけだもの」「事実ですって」私が聞き返すと、ナナは平然と答えた。「ええ、事実よ。店で食事をしたら、腹痛になった。別に、何が原因とか、そんなことは触れていないわ。勝手に想像されただけ。あなたも、原因は食べすぎだったのかもしれないわ。でも、勘違いした人が悪いのよね。何にしても、私には関係ないことだわ」。大声で笑うナナ。私が言い返そうとしたところで、電話は切れた。どうすればいいのか、私は分からなくなっていた。

仕方なく、朝食の準備を始める。調理するうちに、新一が起きてきた。「おはよう」。彼の顔をまともに見ることもできない。私は無言で俯いていた。異変に気づいた新一が、近づいてくる。私の顔を覗き込み、彼は声をかけてきた。「洋子、何かあったの?」「あ、うん。その」。ネットの騒ぎは、ナナが原因だったと言うべきだ。そう思うけれど、どうしても言葉にできない。ためらいがちに、新一の顔を見る。やがて、彼は首をかしげながら聞いてきた。「何か言いたいことがあるんだろ?ゆっくりでいいから、話してよ」「うん」。私が頷いたところで、新一が手を握ってくれる。そのまま手を引かれ、リビングへ連れて行かれた。自分が先に腰を下ろし、私に座るように目線で促してくる。仕方なく、私は彼の隣に腰を下ろした。「話しにくいなら、俺が当てようか」「え?」「多分、昨日のネットの投稿の件だろ」「当たり」。私は観念したように、首を縦に振る。途端に、新一は笑顔になった。「やっぱり、そのことか。そうだと思ったよ」「ごめんなさい。あれ、やっぱりナナの仕業だったみたいで」「その件ね。平気だよ。多分、もう収まってるんじゃないかな」。そう言いながら、自分の携帯電話を取り出し、簡単にSNSをチェックしているようだ。「どう?新一」。不安から、つい新一に尋ねる。やがて、彼はこう答えた。「やっぱり、収まってるよ」「嘘」。急いで新一の手元を覗き込む。昨日の騒ぎが嘘のように、SNSには別の話題が溢れていた。「なんで?」「簡単な話だよ。だって、今うちの店で食事とかできないからね」「え?」。後で考えると、自分でも随分と間抜けな返答だったと思う。けれど、そんな言い方をするくらいに驚いたのだから、仕方がない。「実はさ、うちの店、今は全店一斉に改装中なんだ」「改装中?」「うん。先週の頭から休んでて、本格回転は来月の初めだから。食事したって話は、すぐに嘘だってバレるんだよ。ほら」。新一は、あるSNSの投稿を見せてくれる。そこに書いてあることを、声に出して読み上げる。「あのチェーン店、今は改装中だぞ。食事したとか、大嘘にもほどがある。バレる前に消した方がいい。集団に訴訟起こされるぞ」。私に話してくれた通りの内容が、投稿されている。他にも類似の投稿があり、一気に拡散が収束したようだ。「よかった」。ほっとする。一気に体から力が抜け、新一に寄りかかっていた。「大丈夫よ。平気」「でも、本当に良かったわ」。深いため息をつく。その様子を見ていた新一が、ぽつりと呟いた。「まあ、今回はうまくいったけど、次もうまくいくとは限らないよな。この辺で、少し厳しいお仕置きをしておこうか」「厳しいお仕置き?」「ああ。二度と逆上せないような、大目玉を食らわせようかなと」。新一が笑う。かなり怒っているのか。珍しく、彼は悪い顔をしていた。その後、彼はどこかへ出かけてしまう。帰ってきたのは、夜になってからだった。どこへ行っていたのかと聞いても、答えてくれない。ただ、「私の復讐に手を貸すつもりだ」と、新一は答えた。「どういうこと?」。その夜は、首をかしげただけ。理由が分かったのは、一週間後のことだった。

朝食を食べ終えた新一が、私にこう告げる。「今日は、一緒に出かけようか」「どこに?」「君の実家だよ」「え?なんで?」聞き返すが、答えてくれない。しぶしぶ、彼が運転する車に乗り込んだ。駅前で車を降り、そこから電車で移動する。数時間かけて移動した私たちは、夕方近くに実家へ到着していた。「こんにちは」。新一が玄関のチャイムを鳴らしながら、声をかける。家の中から出てきたのは、母だった。「あら、新一さん、お久しぶりですね」「お母さん、ご無沙汰しています。入っていいですか?」「ええ、どうぞ」。簡単に中へ通される。何か妙だと思っていると、母が私に囁いた。「彼を信じなさい」「え?」。尋ねるが、母は微笑むだけで、あとは何も言わなかった。そんな母が、私たちを案内したのはリビング。中にいた父は、私たちを見るなり大声でまくし立て始めた。「なんだ、デモか。お前の居場所なんて、ないぞ」「別に、帰ってきたわけじゃないわ」「じゃあ、何をしに来たんだ。金の無心か」口元を緩める父。むっとした私は、よそを向いた。そんな私の代わりに、新一が口を開く。「お久しぶりです」「なんだ、洋子の旦那か。何の用だ」。不機嫌な言い方は、相変わらずのようだ。父の口調が不愉快な私とは違い、新一は平然と話を進めていく。「本日は、先日のお礼に参りました」「何の話だ?」「先日、お父さんの娘さんが、私の店にとんでもない失礼を働いてくれたんですよ。そのお礼に」。分かりますかね?新一の質問に、父は首をかしげた。どうやらナナの件には、無関係だったらしい。意味が分からないという顔で、聞き返してきた。「よくわからんが、要件は何だ?」「お礼ですよ。とりあえず、娘さんを呼んでいただけますか?」「娘のナナのことか?」。新一が頷く。父はため息をつき、大きな声を出した。「おい、ナナ。ちょっとこい」。返事はない。代わりに、2階の部屋の扉が開く音がした。おそらくは、ナナの部屋だ。階段を降りる足音も聞こえる。やがて、ナナが姿を表した。「何よ、私も忙しいんだから」。言いかけたナナが、口をつむむ。彼女は私たちを見て、目を白黒させていた。「先日はどうも」。新一が先に口を開く。ナナは額に汗を滲ませ、少しずつ部屋の外へ出ようとしていた。「おい、ナナ。お前に用事があるみたいだぞ」。父がナナの腕を掴む。慌てた彼女は、腕を振りほどこうとした。驚いた父が尋ねる。「どうした、ナナ?そんなに慌てて」。「あ、え、別に」。ナナはよほど後ろめたいのか、私たちとは視線を合わせようともしなかった。「ナナさん、俺が来た理由、分かりますよね」「は?知らないわよ」「またまた。とぼけても無駄ですよ。こっちは、例のSNSの投稿について、開示請求までしたんですからね」。言いながら、新一は手にしていた鞄に手を入れる。中から書類の束を取り出し、それをテーブルの上に放り投げた。「開示請求の結果、嘘の投稿をしたのが君だと判明しましたよ。何か申し開きはありますか?」「ふん。私じゃないわ」。この後に及んでも、まだとぼけるつもりのようだ。呆れた新一は、テーブルの上の書類を広げた。「否定するなら自由に。でも、こちらには証拠があります。少なくとも損害賠償請求を行いますので、覚悟しておいてくださいね」「そ、損害賠償」「ええ。今回は被害がありませんでしたが、放置はできません。世間的にも、会社は厳しい姿勢を見せたいですから」。新一はピシャリと言った。ひどく視線を泳がせたナナが、反論する。「私は何も知らないわ。関係ない」「もういいですよ。あなたの話は、嘘ですから」「嘘?また私を馬鹿にするの?」。ナナが声を荒らげる。次の瞬間、普段は温厚な新一が怒鳴り返す。「反論なら、法廷で聞いてやる。黙らないなら、偽計業務妨害で告訴するからな。逮捕されるのが嫌なら、少しは大人しくしていろ」「いいかた、逮捕?」「ああ、そうだ。君がやったことは、偽計業務妨害という立派な犯罪。ネット上には証拠も残っている。絶対に逃げられないから、覚悟しておけ」。ああ、とナナが崩れ落ちる。そんな彼女を、新一は睨みつけていた。「偽計業務妨害がどうの、何の話だ?答えろ、洋子」。父が割り込んでくる。説明しようとする私の前に、新一が手を広げた。反射的に黙った私の代わりに、彼が事情を話し始める。「詳しいことは、資料にあります。先日、ナナさんが私の経営する店に対して、無根拠な情報を流したんです」。新一の言葉に耳を傾ける父。全てを聞き終えた後、黙って資料に目を通していた。やがて、事情を理解したのか、父の手から数枚の資料がこぼれ落ちる。「そんな、これじゃあ」「理解できましたか?」「ああ。頼む。ナナのことを、許してやってくれないか」。新一にすがりつく父。随分とみっともない。「お断りします。それよりも、こちらとしては、彼女をこんな風に育てた家庭環境にも問題があると思っていまして」「家庭環境?」「ええ。ナナさんに損害賠償を請求するだけではなく、あなたをはじめとしたご家族にも、少しお仕置きをしておこうかと」。新一の口元が緩む。父は真っ青な顔をしていた。「俺にも?」「ええ、お父さんにも」。そう言った新一は、自分の鞄から資料を取り出す。数枚目を通した後、写真が印刷されている部分が見えるように、父の前に置いた。「これが、何の写真か分かりますよね」「あ」。小さな声を漏らした父。額からは、滝のように汗が流れている。「そこの会社で受付をされている、橋本さんでしたか。こちらの方と、随分仲良くされているようですね」。気になった私も、新一の目の前の資料を覗き込む。若い女性と、父が腕を組んで歩いている写真が目に入る。一目で、浮気中の男女だと分かるから不思議だ。軽蔑の目を父に向けると、彼はさっと視線をそらした。「お父さん、これ、浮気中の写真?」。父は懸命に首を横に振った。「や、違いますか?」「では、他の写真もお見せしましょうか。確か、繁華街のホテルに入るところの写真が」。資料をめくる音だけが、リビングに響く。この時点で、父が有罪というのはほぼ確信していた。「じ、違うんだ。きっと彼女が気分が悪いというから、仕方なくホテルに入った。そんな言い訳、通じないわよ」。父はうろたえ、必死で言い訳を考えている。しかし、何を言っても無駄だった。新一は次から次へと、証拠の写真を提示する。父が陥落したのは、5枚目が出た時のことだった。「もう許してくれ。俺が悪かった」「じゃあ、まずは彼女に謝ってくれますか?」。新一が指差したのは、私だ。突然のことに、驚きを隠せない。目を白黒させていると、父が声を張り上げた。「なんで洋子に謝るんだ?俺の浮気とは、関係ないだろう」。確かに、私もそう思う。すると、新一はこう告げた。「あなたの性格が歪んでいるから、娘さんのナナさんがこんな風になったんです。その一番の被害者は、洋子ですよね。違いますか?」「あ、そうか」。首をひねる父。本人である私でさえ、少し無理がある理論だと思ってしまうけれど、新一は真面目に話を続けた。「じゃあ、どうして彼女ばかりを買いかっていたんですか?」。今度はナナを指差す新一。父は言葉をつまらせながら、白状した。「え、別に。ナナだけを買いかっていたわけじゃない」「父さんがナナを買うから、父親の言いなりになるんです。いい年をした大人が、くだらない」一笑し、さらに新一は続けた。「あなたは何もかも、父親の言う通りにしてきた。彼に逆らうことはできない。結婚も、父が決めた相手とした。ただの人形じゃないか」「なんだと?」。カッとなった父が、立ち上がる。「違いますか?じゃあ、どうして洋子をないがしろにしていたんですか?」「それは」。父は、何も答えられなかった。実際、新一が指摘した通りだったのだろう。彼は祖父の言いなりで生きてきた。つまり、ナナだけが可愛がられていた理由は、祖父のみが知る事実。「浮気は、親に対する小さな反抗ですよね。自分の意志で、できることがあるという」「うるさい。お前には関係ないことだ」「ええ、それで構いませんよ。でも、責任はきちんと取ってくださいね」。新一の視線が、部屋の隅の方へ向けられる。そこには、母が無言で私たちの方を見ている。「みち子、俺は」。みち子というのは、母の名前だ。そんな母は、無表情でこう言った。「私と、少し話しましょうか?」「あ、えっと。嫌とは言いませんよね。大事なことですから」。すっと私たちのそばに、母が来る。彼女はそのまま席につくと、テーブルの上の資料を手にした。新一が父の浮気の証拠だと提示した写真を、眺める。無言のまま。しばらく見た後、母は静かに言った。「これ、浮気ですよね」「はい」。父には、認める以外の選択肢はない。ゆっくりと資料をテーブルに置いた母は、笑顔で2本の指を立てた。「私の要求は、2つ。1つは、私と離婚して、慰謝料を払うこと。もう1つは、洋子に謝罪することよ。嫌なら、この浮気の証拠を、会社でばらまくわ」。笑顔で、えげつないことを言うものだ。思わず、顔をしかめてしまう。浮気の証拠を会社でばらまかれたら、父も「橋本」という相手の女性も終わりだ。向こうは会社から逃げればいいが、父はどうなるか。若い女性と違い、再就職は難しい。離婚の慰謝料も払わなければならないため、仕事を辞めることもできない。白い目を向けられる中、最悪の状態の会社に残ることになるだろう。「さあ、どうするの?私の要求を飲める?」。優しい表情が、妙に怖い。父もそう思ったのか、私の方に向き直り、勢いよく深々と頭を下げる。「洋子、申し訳なかった」。素直に謝る父の姿に、戸惑ってしまう。答えに困っていると、隣から新一が支えてくれた。「お父さんに対する復讐は、これくらいでいいかな」「あ、そっか」。新一は、こうなることが分かっていたのか。全てを理解していて、父の浮気を追求した。私への謝罪を引き出しただけでなく、離婚の慰謝料という形で、父にダメージも与えてくれている。「ありがとう、新一」「当然だ。洋子、俺の奥さんだからね」。本当に、この人と結婚してよかった。深呼吸をしてから、頭を下げ続けている父を見て、私は静かに言った。「もういいわ。今頃になって謝られても、嬉しくないから。私は新一と結婚したから、この家を出たってこと。この先何があっても、お父さんのことは無視するから。関係ないって言ってるのよ」。事実、結婚を決めた時、二度と家族とは関わらないと誓っていた。母は別として、父に何かあっても無視する。祖父についても同じだ。仮に病気だと言われても、知らん顔をすると決意していた。「そういうことだから、形だけの謝罪は不要よ。もう二度と、私と関わらなければ、それでいいから。じゃあね」「あ、待てよ。洋子」。それじゃあ、と父の視線が母に移る。彼女は小さくため息をついていた。「仕方ないわね。洋子が許してくれないなら、代わりに私があなたに鉄槌を下しましょうか」「うっ」「離婚の慰謝料は、500万。絶対に譲らないから」。相場とはかけ離れている気がするが、父は同意するしかないと思った。先ほど、母は浮気の証拠を会社でばらまくと脅している。本当にやるかどうかは別として、父は怯えているはずだ。「少し、高くないか?」「全然。洋子の心の傷は、これくらいじゃ埋まらないわよ。自業自得だと思って、払ってちょうだい。いいわね」。睨む母。父は、その場に崩れ落ちた。「それと、ナナ。あなたも、覚悟しておきなさい」「お母さん、どういうこと?」「偽計業務妨害の件、忘れたの?お父さんは私への慰謝料で手一杯だから、損害賠償金は自分で払いなさい、ってこと」。母は冷静に告げる。急に真っ青になったナナが、母にすがりついた。「嘘でしょ?無理。私、貯金とかないし」「知らないわよ。社会人なんだから、給料から払うことね」「無理よ。払えない」。損害賠償金も決まっていないうちから「無理」というのは、少しおかしい気もする。だが、泣き叫ぶナナを見ていると、胸がすく思いだった。

その後、私たちは実家を後にする。残された両親とナナがどうなったのか、もう私にはどうでもいいことだった。家を出ると、すぐに母が飛び出してくる。彼女は私を抱き寄せ、耳元でこう囁いた。「ごめんね、洋子。長い間、苦労させて」「うん。もういいよ。それに、お母さんはずっと優しかったし」。これは、偽りのない本音だ。辛い日々を何とか乗り越えられたのは、母がいたからだった。ナナは新一の会社から制裁を受け、父は離婚の慰謝料で苦労する未来が待っている。もう十分に復讐できたと、半ば満足していた。「お父さんと正式に離婚したら、また連絡するわね」「うん。待ってるね」。私の背中を、母はポンポンと優しく叩いてくれる。幼い頃、母の腕の中でそうされた記憶が蘇った。母と別れた後、私たちは二人で駅へ向かう。道中、新一がこんなことを言った。「洋子は、おじいちゃんにも復讐を考えてる?」「えっと」。祖父に対しても、復讐したい気持ちはある。私をないがしろにしたのは、祖父の主導だったと判明したからだ。しかし、父に対する復讐でさえも、私は思いつかなかった。自分でできたことは、ナナへの仕返しくらい。「できれば、何か仕返しをしたいけど、私は思いつかないかな」「じゃあ、俺に任せてくれる?」。新一が、自分の胸をドンと叩く。「何か考えがあるの?」「まあね」。随分と自信があるように見えた。思わず、疑いの目を向けてしまう。「もしかして、疑ってる?」「ええ、まあ」「じゃあ、行こうか。洋子のおじいちゃんのところへ」。新一が、近くのバス停を指差す。幼い頃、何度か利用した祖父の家方面に向かうバスの停留所だ。「本当に、仕返しができるの?」「もちろん。さ、行くよ」。新一が手を繋いでくれる。少し恥ずかしいけれど、彼の手を握り返した。二人でバスに乗る。祖父の家までは、バスで約15分。車で直行するよりも時間はかかるが、私が覚悟を決めるには、それくらいの時間がある方がいいと思った。やがて、最寄りのバス停に着く。そこからは、歩いて祖父の家へ向かった。

祖父が住むのは、小さな団地だ。祖母はいない。私が幼い頃、病気で亡くなったからだ。つまり、祖父は一人暮らしをしている。随分と訪ねていないけれど、家の中は片付いているだろうか。そんなどうでもいいことばかりが、頭に思い浮かんでいた。玄関のチャイムを鳴らすと、中から祖父の声がする。扉が開いた途端、彼は眉をひそめた。「なんだ、よ。何しに来た?」。この反応を見る限り、実家での一件はまだ知らないようだ。どう切り出そうかと考えていると、新一が代わりに口を開いてくれた。「お久しぶりです。おじいさん」「お前は、洋子の旦那か」「はい。藤倉新一です。近くまで来たので、ちょっと寄らせてもらいました」。胡乱げに新一を見る祖父。少し考えてから、顎で部屋の中を指した。「こんなところで立ち話も悪いからな」「ありがとうございます。じゃあ、お邪魔しようか」「ええ、そうね」。適当に新一に合わせる。家の中は、意外にも片付いていた。「お一人で暮らしているとお聞きしましたが、綺麗に片付いていますね」「当然だろ。私を馬鹿にしているのか」「いやいや、とんでもない」。笑ってごまかす。不愉快そうな表情を見せた祖父は、私たちを居間へ案内した。「適当に座れ。お茶くらいは入れてやる」「ああ、手伝おうか」そんな言葉が口をついて出たが、祖父に鼻で笑われた。「こっちにおいで」大人しく、新一の隣に座る。ほどなく、祖父がお茶を入れて戻ってきた。「それで、本当は何か用事があるんだろう」「さすがですね。そうだと思った。何もなければ、わざわざ来ないからな」。ハラハラする私の前で、新一は自分の鞄を手にした。「実は、見ていただきたいものが、ありまして」「なんだ、骨董品か」。祖父が口元を緩める。「残念ながら、借用書です」。言うが早いか、新一はテーブルの上にコピーされた書類を置いた。思わず、目を見張る。新一が言った「借用書」という言葉が、引っかかったからだ。「借用書って、どういうこと?」新一の耳元で囁く。彼は「そのままだよ」とだけ言った。テーブルの上のものに目を移すと、確かに「借用書」と書いてあった。色々と細かい数字や文字を読んでいく。その間に、新一は祖父に話しかけていた。「こちら、あなたの名義で間違いありませんよね。旗田清さん」。旗田清は、祖父の本名だ。新一が、私が眺めているテーブルの上を指差す。そこには、祖父の名前が書いてあった。「確かに、私の名義のようだが、こんなものは知らんぞ」「知らないでも、あなたの名前ですよ。筆跡はどうですか?」「それは」。ごまかすように顔を背ける。ということは、祖父の筆跡で間違いないのだろう。「じゃあ、これはあなたの借金ですね」「出たらめを言うな。こんなものは、知らんと言っただろう」「知っているかどうかは関係ありません。実印の署名がある以上、あなたには返済の義務があります」。確認しろと言わんばかりに、新一は書類の一部分を指先でつく。そこには、返済についてあれこれと書かれていた。詳細は省くが、名義人が返済する旨だ。借りた人間が誰かは問わないようだ。「一体、何のつもりだ?こんなものを用意して」「いえ、私はこれが本物かどうかを、確認したかっただけですので」「知るか、こんなもの」。バサッと、祖父はテーブルの上に置かれた書類を払いのける。私が床に散らばった書類を拾っていると、新一が静かに言った。「そろそろ、気づきましたよね。騙されたということに」。祖父の顔が歪む。新一は得意げに続けた。「その借用書を持っていたのは、橋本ミクさんです。ご存知ですよね」「橋本?」。どこかで聞いた気がする。少し考えた私は、すぐにはたと気づいた。「それ、お父さんの」。言いかけて、慌てて自分の口を手で塞ぐ。先ほど実家で聞いた、父の浮気相手の女性が橋本という名前だった。ただ、下の名前がミクだったかどうかは不明だ。そこまでは、私は聞いていなかった。「橋本ミクさんは、あなたの息子さんの会社の受付の方です」。やっぱり、と思いつつ、新一の方へ目を向ける。彼は私の視線を気にせずに、話を続けた。「あなたは、本条社長に会いに行った際、会社で橋本さんと出会いました。その後、別の場所で再会したんですよね」「どこですか?」「お前には、関係ないだろう」「じゃあ、私が代わりに言いましょうか。骨董品ですよね」。わずかに、祖父の眉が反応する。おそらく、新一の指摘は事実なのだろう。「骨董品に興味がある彼女は、あなたにこう言ってきた。『骨董品に興味がある。詳しいなら、教えてくれないか』と」。なんとなく分かってきた。偶然を装う、よくある詐欺の手口だ。その後は、関係になり、最後はお金を搾取するというのが定番の流れだった。「あなたが得意げに語る骨董品の話を真剣に聞く橋本さんに、運命を感じた。うるさい。別にいいだろ。妻はもう亡くなっているし」「ええ、あなたの場合は不貞にはなりません。でも、不貞ではないからと、あなたは彼女にのめり込みすぎた」。新一の指摘に、祖父の表情が厳しくなる。おそらく、橋本という女性に騙されたことが、自分でも理解できたのだろう。「ある時、あなたは彼女に頼まれた。骨董品を購入する書類に、サインをしてほしいと。そうですよね」「ああ、そうだ。だからサインした」「それが、この借用書だったわけです。ちゃんと読まなかったんですか?」問いかける新一。祖父は唇を震わせている。「いや、思う」「若い女性に頼られたことで舞い上がったあなたは、書類を適当に見ただけ。その結果が、これです。残念でしたね」。追い打ちをかけるような新一の言葉に、祖父が顔を歪める。「ま、これも自業自得ですよ。あなたも、随分と人を騙してきたようですから」「うるさい。お前に何が分かる?」。祖父はその場で立ち上がり、私たちの方を睨みつけた。「色々と知っていますよ。説明しましょうか?」「なんだと?」「まずは、息子さんの結婚相手です。つまり、洋子の母親を騙しましたよね」。ギョッとする。新一の方を見ると、彼は片手で私を制した。「自分の息子と結婚しなければ、転勤になると嘘をつき、洋子の母のみち子さんと秀明さんを結婚させた」「え?転勤?」。脅すには少し物足りない気がする。「当時、みち子さんの母は病気で入院していた。彼女が介護をする必要があり、転勤は彼女にとって困る出来事だったんだよ」。そういえば、聞いたことがある。祖母の母は、病気で亡くなったと。時期は、私が生まれる少し前。両親の結婚はその1年前だから、辻褄は合っていると思った。「でも、それくらいは会社と交渉すれば」「そうだね。しかし、君のお母さんは結婚する道を選んだ。理由は色々とあったと思うけど、一番はお金じゃないかな」。両親が結婚した当時、祖父はまだ現役の会社員だ。今の父と同じ会社に務めていて、かなり重要な役職についていた。「二人の収入が十分だった、ってこと?」「でも、彼は裏切った。結婚した後、君のお母さんに家事を強要し、外に出ることが難しくなるように仕向けた」「まさか」。その先は、容易に想像できる。母は自分の母親の介護も満足にできず、祖母は病気で亡くなってしまった。随分と恨んだことだろう。「当然、お金のために結婚したことを後悔したかもしれない。そんな時に生まれたのが、洋子だ。母さんが洋子にばかり愛情を注いだのは、当然だろう」「ああ、私が祖父に疎まれていた理由は、まさにこれだ」。祖母として、母は祖父や父をないがしろにして、私だけを可愛がった。その結果、祖父は私を嫌うようになる。父を巻き込んで、厳しくされたのも、それが原因だった。「洋子は、何も悪くない。全ては、彼自身の落ち度が帰ってきただけ。それなのに、洋子を逆恨みし、君をないがしろにした。じゃあ、ナナを可愛がっていたのは、君と差をつけたかったんだろう。格を見せつけ、君を追い込もうとした」。本当に腹が立つ。私は祖父を睨みつけた。「それが何だ?お前が生まれた途端、嫌なことを全て放棄した、お前の母親が悪い。それくらいの報いを受けて、当然なんだよ」「何よ、それ。自業自得なのに、人のせいにして。最低」。バンとテーブルを叩く。コップが倒れ、お茶がこぼれた。「さて、洋子が、ないがしろにされた理由はこれくらいで、分かったよね。でも、もう一つ知りたいことがあるんじゃないかな?」「もう一つ?」。首をかしげると、新一は軽く頷いてから話を続けた。「洋子が家に縛りつけられていた件だよ。どうしてだと思う?」「それは、私のことが嫌いなら、家にいない方がいいはずだ。どうして、そんな面倒なことをしたのだろうか」。考えても、答えが出ない。頭を悩ませていると、新一が答え合わせをしてくれた。「一つは、ナナの身代わり。君が俺と結婚したのが、いい例だよ」「身代わり?」「そう。ナナに不都合が起きた時、彼らは君を身代わりにしようと思い、家に留めておいたってわけだ」。結婚という形の幕切れだったが、最悪の場合、私が身代わりとして逮捕されていた可能性もある。「例えば、ナナが偽計業務妨害の騒動をもっと早く起こしていれば、犯人は私ということにされていたかもしれない」。考えただけでも、ゾッとする。思わず、自分の体を抱きしめていた。「もう一つは、母さんに対する脅しだな。手が届く場所にお前の大事なものがあると、君のお母さんに見せつけていたんだよ。お母さんが反抗できないようにしていた、ってこと」「そういうこと」。新一の言葉に、呆然とする。自分が母の足かせになっていたとは、夢にも思わなかった。涙が込み上げてくる。「よく、泣く必要はないよ。全部、こいつらが悪いんだから」「そうかもしれないけど」。祖父は、ふてくされているのか、鼻で笑っていた。「悔しい。本当に、殴ってやりたいくらいだわ」「それは、やめた方がいい。君が手を出す価値はないよ」「でも」。拳を握りしめる。そんな私の手に、新一はそっと手を添えてくれた。「大丈夫。こいつは、報いを受けている。借金を抱えてね」。そうよね。悔しいけれど、祖父は女性に騙されている。それで十分だと、自分に言い聞かせた。「ふ。何が報いだ。借金なんか、自己破産でいくらでも踏み倒せる」「そうかな?」「当然だ。怪しいところじゃない限り、何とでもなる」。叫びながら、祖父は借用書のコピーを破り捨てる。実際、彼の言う通りだ。自己破産をした時には、借金返済の義務が免除される。ただ、非免責債権があり、自己破産後も返済しなければならないものもあった。祖父の借金は、非免責債権に該当しない。おそらくは、自己破産をすれば借金返済を免がれると思われた。悔しいが、こればかりはどうしようもない。「でも、借金から逃げられればいい、というわけでもないでしょう」「なんだと?」「借金はチャラにできても、病気ばかりはどうにもなりませんよ」。恐怖で強張る祖父に、新一は笑いながら告げた。「橋本さんと会った時、あなたは保険への加入を勧められませんでしたか?」「お、そういえば」。その時、病院で検査を受けていますよね。保険に加入する場合、健康診断は原則不要とされている。代わりに、健康状態を正しく申告する必要があるのだが、「ついでだから」と健康診断を行う人もいるはずだ。祖父のケースが、まさにこれだった。「橋本さんは、祖父の体が心配だと、保険への加入を勧めた。言うまでもないが、これは詐欺の手口の一つ。正当に受け取れる保険金は、騙す方にとっても都合がいいものだった。ただ、普通に保険に入れと言われても疑われるだけ。そこで彼女は、健康診断も同時に進めていた。目的はあくまで保険への加入だけれど、健康診断の段階で、大きな問題が生じた。末期の癌だそうですよ」「はあ?」「健康診断で判明して、保険に入れなかったと、橋本さんから聞きました」。愕然とする祖父。そんな彼の前に、新一は一枚の診断書のコピーを置いた。「ご自分で確認されてはどうですか?こちらは、橋本さんが持っていたものです」「どうやって手に入れたの?」。気になったことを、素直に聞いてみる。彼は平然と答えた。「彼女と直接会って、提出してもらったんだ」「本当に?」「あ、まあ。あれこれと交渉はしたけど」。ニコリと笑う新一。祖父の借金やら、浮気を追求するとか、交渉材料はいくつもある。おそらく、それらを駆使したと思われた。「話を戻しますが、末期の癌だそうですけど。自覚症状は?」「言われてみれば」。祖父には、何か思い当たることがあるようだ。「では、早急に病院へ行くことをお勧めします。お大事に」「ちょっと待て。本当に末期なのか?」「ええ。残念でしたね。あなたが色々とやってきた報いですよ、きっと」。そう言った後、新一は静かに立ち上がる。対照的に、目の前の祖父は崩れ落ち、テーブルに突っ伏した。「じゃ、洋子、帰ろうか」「ああ、でも」。祖父の方を向く。「何」と、新一が聞いてくる。「気になるの?自分がされたこと、忘れた?」「うん。でも、病院へ行くところだけは、見届けたいと思って」。自分でも、矛盾したことを言っている自覚はあった。祖父に復讐したいと思っているのは確かだけれど、それ以上に、人として見捨てるのが嫌だと思ってしまった。「おじいちゃん、立って。病院へ行きましょう」「あ、ああ」。ゆっくりと立ち上がる祖父。強引に荷物を持たせ、携帯電話でタクシーを呼ぶ。その後、祖父が乗ったタクシーを見送ったところで、私は深いため息をついた。「ああ、お疲れ様」「ごめんなさい。私のために色々としてくれたのに」。彼が用意してくれた復讐劇を、台無しにした気がする。まともに顔も見れず、私は俯いていた。「落ち込むことはないよ。そういう優しいところも、俺は好きだから。でも、復讐とか仕返しとか、言い方は色々とあるけど、結局は本人がスッキリするかどうかだからね」「私は、十分に満足した。この先、祖父は病気で苦しみ、人生を終える。もう、十分だよね」「そうだね。じゃあ、帰ろうか」。新一の言葉に、私は静かに頷いた。

その2週間後のことだ。私の元に、一通の手紙が届いた。差出人は祖父。中には「謝りたいから、会いに来て欲しい」と書かれていた。「行くの?重体は病院になってるし。病気で、本当に後悔しているのかなって」。本当は会いたくない。しかし、どうしても面会に行かないといけない気がした。「俺が付き添うよ。嫌だったら、すぐに帰ればいいじゃないか」「それも、そうね」。彼の言葉で、少しだけ気持ちが楽になる。私は思い切って、祖父が入院する病院へ向かった。ナースステーションで、祖父の病室の場所を確認する。廊下の突き当たりにある、一人部屋らしい。ゆっくりと進んでいると、部屋の中から話し声が聞こえてきた。思わず立ち止まり、耳を済ませる。「この通りだ。許してくれ」「もう、いいですよ」。話しているのは、祖父と母のようだ。母もお見舞いに来たのか、と納得した次の瞬間、強烈な一言が放たれた。「どうせ、これが最後ですし」「あ?最後?」「ええ。私、秀明さんとは離婚しました。なので、あなたはもう他人です。残りの短い人生、一人で後悔すればいいわ」。母が、大声で笑う。一方で、祖父はすすり泣きをしていた。「そうそう。最後に、いいこと教えてあげるわ。洋子の結婚だけど、私が仕組んだことに気づいていなかったよね」「聞くんだ。お前が」「ええ、本条所長に頼んで、ナナに結婚相手を紹介してもらう段取りだったわ。相手が漁師と知れば、ナナは断るでしょ。でも、本当はお金持ちと分かれば、騒ぎになると。母は、そこまで考えていたらしい。続けて、彼女は全てを暴露した。ナナに結婚相手を紹介するため、私たちを招待するように本条に頼んでいたそうだ。彼の家なら、ナナが行けば家にある金目のものに手をつけるだろう。母は、そこまで考えていた。案の定、思惑通りにナナは本条の家の骨董品に手をつける。本来は、窃盗を理由に結婚するように強いる作戦だったけれど、ナナがミスをして骨董品を壊してしまう。困った本条は、『責任を取らせる』という形にストーリーを変更した。その先も、母が書いた筋書き通りになる。相手が漁師と知った祖父と父は、何とかしてナナを助けようとした。結果的に、私が身代わりになるという、母が思っていた通りの行動を起こしてしまう。私が新一と結婚した後もそうだ。彼が実業家だと知ったナナは、私の家に押しかけた。それだけでは飽き足らず、私たちを困らせようとする。実は、ナナが炎上騒ぎを起こすことも、母の想定内だった。ただ、どんな騒動を起こすかまでは、分からなかったようだ。新一に迷惑をかけたと、後悔するような言葉を漏らしていた。後のことは、説明する必要もないだろう。あらかじめ母と組んでいた新一は、私の復讐を手伝うと言い、父や祖父の悪事を暴いた。新一が調べた父の浮気の証拠を使い、母は念願の離婚を勝ち取った、ということだった。「この先、あなたが一人で後悔するのは、自分の行いが帰ってくるだけよ」「待ってくれ。悪かった。本当に、悪かったから」「うるさいわね。あんたのせいで、洋子がどれだけ苦しんだか。せいぜい、最後の瞬間まで、たくさん苦しむことね。それが、私の唯一の願いよ」。叫ぶように言った母が、病室から出てくる。私たちと目が合い、気まずそうな顔をした。「お母さん、ごめんなさい」「恥ずかしいところを、見せたわね」「うん。ありがとう。私のために、怒ってくれて、いいのよ。私は、あなたの母親だから」。そっと抱きしめられる。幼い頃の思い出が蘇り、思わず涙が伝っていた。その後、祖父の病室の方を一瞥する。だが、中には入らずに、母と新一の三人で病院を後にした。私が何か言っても、これ以上は祖父に響かないと思ったからだ。

半年後、祖父はたった一人で息を引き取ったと、病院関係者から教えられた。また、ナナは偽計業務妨害で警察の取り調べを受けたらしい。起訴は見送られたが、警察官にはこってり絞られたとのこと。さらに、新一の会社からは高額の損害賠償を請求され、裁判所で大泣きをしたと、彼に教えてもらった。「本当に、恥ずかしくて仕方がない」と。彼女は今、損害賠償金を払うために懸命に働いているそうだ。本条の配慮もあり、仕事をやめずに済んだのが、唯一の救いだろう。当面は、私にちょっかいを出す暇もないと思うから、穏やかに暮らせそうだ。最後に、父と浮気相手の橋本についても触れておく。浮気を追求された父は、母と離婚。母が言ったように、500万の慰謝料を請求されていた。相場よりも随分と高額だが、予想通り父は受け入れた。罪悪感があったからではない。単に、会社で浮気の証拠をばらまかれたくなかったからだ。父もまた、ナナと一緒に懸命に働いている。仕事は解雇されなかったが、何せ慰謝料が高額すぎた。この先、かなり苦労するだろう。ともあれ、自業自得だから、仕方がない。浮気相手の橋本は、早々に退散。会社を辞め、姿を消してしまった。ただ、母に謝罪をする気持ちはあるのか、連絡は取れていると聞いている。祖父の件もあったし、父よりも彼女の方が、罪悪感を抱えているのかもしれない。私は、そんな風に思った。

ついでに、私の話もしておきたい。生活に大きな変化はなく、新一とも仲良くしている。一つ変わったのは、母が一緒に住むようになったことだ。最初は「新婚だから」と、母は遠慮していた。しかし、離婚が決まると同時に、「行き先が決まるまで」と言って、我が家に転がり込む。あれから半年ほどが経つが、一向に出ていく気配がない。仕方がないので、母に直接聞いてみた。「ねえ、お母さん。このまま、一緒に暮らすつもりなの?」「あら、洋子は嫌なの?」「別に、嫌じゃないけど」なんとなく、気恥ずかしい。リビングでくつろぐ新一の方を見ると、彼もこちらを振り返った。「どうしたの、洋子?」「お母さんのことだけど、このままでいいのかなって」「俺は、別に構わないよ」。新一は、あけらかんと言う。母は得意げに笑った。「ほら、見なさい」「じゃあ、いいか」。別に、生活の邪魔はしないから、安心しなさい。私も、孫の顔が早く見たいし。ドンと腰の辺りを母に叩かれる。思わず照れてしまったけれど、こんな生活も悪くない気がする。母や新一の前ではまだ堂々と口に出す勇気はないが、今の生活が、これからも続けばいいと思ったのは、確かだった。

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