「お前は部害者だ。俺たちの仕事の邪魔をするな」…

「お前は部害者だ。俺たちの仕事の邪魔をするな」...

お前は部害者だ。俺たちの仕事の邪魔をするな。ここから去れ。二度と社長に近づくな。

元相棒・大地の冷たい声が、高級ホテルの廊下に響いた。俺は立ち尽くすしかなかった。あの女性社長を騙そうとしている奴らの正体を暴こうとしたのに、誰も俺の言葉を信じてくれない。

三年前の事件以来、俺は清掃員として身を隠すように生きてきた。濡れ衣を着せられ、相棒からも見捨てられた男。今では誰も俺を信用しない。

しかし、あの契約相手の外国人の声に、聞き覚えがある。微妙な訛り。独特の発音。それは三年前、俺たちを罠に落とした真犯人の声と同じだった。

若い女性社長は、自分が騙されていることに気づいていない。父親の残した大切な技術が、悪徳な産業スパイに奪われようとしているのに。

「それでは、契約書にサインをお願いいたします」

契約相手の外国人の声に、俺は血の気が引いた。

「お待ちください」

意を決した俺は、会議に乱入した。もう一度だけ、正義のために立ち上がるために。たとえ誰も信じてくれなくても、たとえ再び裏切り者の烙印を押されても。

午前六時。俺、茨城は今日も誰よりも早く、ホテルプリンスタワーに足を向けた。ここは都内でも指折りの高級ホテル。政財界の重要人物や海外からのVIPが数多く宿泊する場所だ。

まだ薄暗い廊下に響く俺の靴音だけが、静寂を破る。清掃カートを押しながら、エレベーターで最上階へ向かう。

「茨城さん、おはようございます。今日も早いですね」

出勤してきたらしい同僚が笑顔で声をかけてきたが、俺は口元をぴくりとも動かさない。

「おはようございます」

短く返事をして、俺は自分の担当フロアへ向かった。背後から同僚のため息が聞こえてきたが、気にしてはいけないと自分に言い聞かせる。俺はただの清掃員でしかない。誰とも関わらず、黙々と仕事をこなす。それでいい。それが一番いい。そうすれば、誰にも迷惑をかけないのだから。

そんな日々を送っていた、ある日の午前九時を過ぎた頃。突然、ロビーが慌ただしくなった。フロントデスクの向こうで、スタッフたちが忙しそうに動き回っている。どうやら重要な宿泊客が到着するらしい。俺は床を磨きながら、その様子を横目で見ていた。つい周囲の状況を観察してしまう癖が抜けない。

「説通ミク様のお到着です」

フロントマネージャーの声が響いたその時、ホテルの正面入り口から一人の女性が現れた。年の頃は二十代後半だろうか。落ち着いた紺色のスーツに身を包み、長くて豊かな黒髪をきちんとまとめている。顔立ちは整っているが、どこか疲れたような影が見える。重い責任を背負っているような、そんな雰囲気を醸し出していた。

彼女は確か、中堅製薬会社・桜宗薬品の若き社長だ。つい半年前に前社長だった父親を亡くし、その後を継いだという話だった。

そんな彼女の後ろから、二人の男性が続いて入ってきた。一人は五十代半ばの恰幅のいい男性。高級そうなスーツを着込み、金縁の眼鏡をかけている。歩き方に威厳があるが、同時に何かを企んでいるような計算高い目をしていた。

そして、もう一人を見て、俺の手が止まった。モップを握る指に、思わず力が入る。背の高い三十代前半の男性。整った顔立ちに知的な雰囲気を漂わせている。左手にはノートパソコンの入ったケースを持っている。俺の視線は、彼の右手に釘付けになった。

指が、わずかに不自然に曲がっている。

「真獣事務。こちらが例の通訳の方ですね」

禿げた男が、眼鏡の男性に向かっていった。

「ええ、説社長。こちらが土田大地さん。フリーランスでは最高の通訳者です。今回のような重要な国際契約には、彼のような優秀な人材が不可欠ですからね」

真獣さんの声には、妙な得意げな響きがあった。まるで自分の手柄であるかのように。

「土田と申します。今回はよろしくお願いいたします」

通訳の彼が説さんに向かって頭を下げる。その瞬間、俺は慌ててモップに目を落とした。心臓が早鐘を打っている。

「それでは、お部屋までご案内いたします」

フロントスタッフの声が聞こえる。三人がエレベーターに向かって歩き出した。俺は床を磨くふりをしながら、彼らの後ろ姿を見つめていた。通訳の彼の右手の指の形が、俺の胸に深く突き刺さる。だが、俺はその記憶を振り払うように首を振った。関係ない。俺には、もう関係のないことだ。エレベーターの扉が閉まり、三人の姿が見えなくなる。俺は再びモップを動かし始めた。いつものように誰とも関わらず、黙々と床を磨く日常に戻ろうとした。しかし、胸の奥がざわついていた。

翌日の午後。俺はロビーの床を磨いていた。この時間帯は宿泊客の出入りが多く、床はすぐに汚れてしまう。俺は膝をついて、一枚一枚のタイルを丁寧に拭き上げていく。この作業に集中していると、余計なことを考えずに済む。

そんな時だった。

「やはり、お前か」

聞き覚えのある声が、俺の頭上から降ってきた。はっとしたが、俺は立ち上がろうとしなかった。立ち上がれば、彼と目を合わせることになる。それだけは避けたかった。

「おい、茨城。顔あげろよ。まさか、昔の相棒の顔も見られないのか」

大地の声に苛立ちが混じる。俺は仕方なく、ゆっくりと立ち上がった。そこには、三年ぶりに見る相棒の顔があった。以前よりも少し痩せたように見えるが、鋭い目つきは変わらない。ただ、その瞳の奥に宿る感情が以前とは全く違っていた。軽蔑、怒り、そして深い失望が込められている。

「やっぱり、お前だったか。落ちぶれたな、茨城。まあ、お前みたいな裏切り者は、そこで箒と雑巾を相棒にしているのがお似合いだ」

大地は口の端を歪めて、嘲笑を浮かべた。その言葉が俺の胸に鋭く突き刺さる。だが、俺は表情を変えることなく口を結んでいた。

その時、エレベーターから説さんと真獣さんが現れた。

「土田さん、探したんですよ。こんなところで何をしているんですか?」

説さんが心配そうに尋ねる。

「ああ、すみません。ちょっと昔の知り合いに会いまして」

大地は振り返ると、説さんに向かって笑顔を見せた。しかし、その笑顔には作り物めいた冷たさがあった。

真獣さんが興味深そうに俺を見る。

「知り合い? この清掃員の方と?」

「ええ。こいつは昔、国際警察にいたんですよ」

大地は俺を見下ろしながら言った。説さんの目が見開かれた。

「国際警察……」

「そうです。しかも、ただの警察官じゃない。“伝説の捜査官”なんて呼ばれていました。七か国語を操り、どんな嘘でも見抜くプロファイリングの天才。国際犯罪捜査の第一人者として、各国の警察から一目置かれていた男です」

大地の声には、明らかな皮肉が込められていた。説さんは驚いたような表情で俺を見つめている。真獣さんも同様だった。

大地は続けた。

「そして、俺はそんな彼の相棒でした。元国際警察の天才ハッカーとして、彼と一緒に数々の事件を解決してきました。でも、それは三年までの話です」

大地は右手を上げてみせた。わずかに曲がった指が蛍光灯の下で影を作る。

「三年、俺たちは国際的な産業スパイ組織を追っていました。長い捜査の末にようやく核心に迫ろうとしていた時、こいつが致命的なミスを犯したんです。俺が制止したにも関わらず、独断で突入を決行した。結果、俺たちは敵の罠にはまり、俺は重症を負った。爆発に巻き込まれて、指の神経を損傷したんです」

説さんが息を飲む音が聞こえた。大地は右手をゆっくりと握ったり開いたりして見せた。

「捜査はもちろん失敗。犯人たちは逃走し、俺には後遺症が残った。ハッカーにとって指は命です。こんな状態では、もうキーボードを思うように操作できない。俺の専門技術は事実上、使い物にならなくなって、職場を追い出されました。俺の人生は、こいつのミス一つで完全に破綻したんです」

大地の言葉に、俺は声を絞り出すように言った。

「大地、それは俺のミスじゃない。あの時、俺は……」

「嘘をつくな! 俺はこの目で見たんだ。お前が俺の制止を振り切って、一人で突入していくのを。お前の独断先行が全ての元凶だったんだ。お前のせいで、俺がどれだけ苦しんだか分かっているのか?」

大地の目が炎のように燃え上がった。それでも、俺は懸命に事実を伝えようとした。

「違う! 俺は……」

「何が違うって言うんだ! お前は自分のミスを認められないのか? それとも、こんな惨めな姿になった俺を見て、罪悪感から逃れたいだけか? お前は俺の人生を破壊した。それが事実だ。お前がどんな言い訳をしようと、俺の指が元に戻るわけじゃない。俺の失った地位が戻ってくるわけじゃない」

声を荒げる大地に、俺は言葉を失った。何を言っても大地には届かないのが分かった。彼の中で、俺は完全に悪者として位置づけられている。

説さんが困惑した様子で口を開いた。

「土田さん、そんなに激しく言わなくても……」

「すみません、説社長。取り乱してしまいました。ただ、どうしても許せないんです。こいつのせいで俺の人生が台無しになったのは事実ですから」

大地は深く頭を下げた。真獣さんが興味深そうに俺を見ていた。

「なるほど。それは大変な話ですね。しかし、国際警察の元捜査官が清掃員とは、随分と落差がありますな」

「まあ、過去に大きな失敗をしでかした人間が、まともな仕事に就けるわけがありませんからね。それに、こういう人間は信用できません。また同じような判断ミスを犯す可能性がある。説社長も真獣事務も、この男には関わらない方がいいでしょう」

大地の言葉が俺の心臓をえぐる。説さんは複雑な表情で俺を見つめていた。同情なのか困惑なのか。俺には判断がつかなかった。

大地は踵を返すと、説さんと真獣さんに向かっていった。

「行きましょう。こんなところで時間を無駄にしている場合ではありません」

そして三人は、俺を置き去りにしてエレベーターへと向かった。俺は一人、ロビーの真ん中に立ち尽くしていた。大地の言葉が何度も何度も頭の中で響く。

『お前のせいで、俺がどれだけ苦しんだか分かっているのか?』

分かっている。痛いほど分かっている。俺はモップを握り直した。震える手で、床を磨き始める。今の俺には、それしかできなかった。

その日の夕方、俺は十八階の廊下で掃除機をかけていた。この時間帯は宿泊客も少なく、静寂に包まれている。

突然、エレベーターホールの方から激しい声が聞こえた。外国人の男性が興奮した様子で何かを訴えている。

「申し訳ございませんが、私は英語が……」

日本人女性の困惑した声が続く。それは説さんの声だった。俺は掃除機を止めて、音のする方向へ向かった。

エレベーターホールで、説さんが一人の外国人男性と向き合っている。男性は中東系で四十代半ばといったところか。手に大きなスーツケースを抱え、明らかに動揺している様子だった。どうやら男性は、高級そうなスーツを着た説さんをホテルの責任者だと思い込み、助けを求めているようだった。片言の英語で何かを訴えているが、説さんは困り果てた様子で周りを見回していた。この時間帯、フロントスタッフも少なく、大地も近くにいないようだった。

「何にお困りですか?」

俺は男性に向かって、流暢な英語で話しかけた。彼の目が見開かれた。英語が話せる人がいたことに安堵した表情を見せた後、男性は切羽詰まった様子で状況を説明し始めた。

「糖尿病で使用しているインスリンを部屋の冷蔵庫に保管していたんだが、会議から戻るとなくなっていたんだ。インスリンがなければ、生命に関わる緊急事態なんだ」

男性は震え声で訴えた。それは確かに緊急事態だった。俺は説さんに向き直って、日本語で説明した。

「この方は糖尿病の患者さんで、お部屋に保管していたインスリンがなくなってしまったとおっしゃっています」

説さんの表情が一変した。

「インスリンは冷蔵保存が必要な薬で、糖尿病患者には生命に関わる重要なものですよね。そんな大変なことが……」

俺は男性に再び英語で詳細を尋ねた。

「部屋の番号と、最後にインスリンを見た時間は?」

「部屋は一八四七号室だ。朝の七時にはインスリンがあったが、会議から戻った午後五時には消えていた」

「今日、清掃が入ったか覚えていますか?」

「清掃員は来たと思う。掃除をするよう、ドアにプレートをかけておいたからね」

俺は男性の話を聞きながら状況を分析していた。もしかすると、間違って捨てられたのではないか。俺はフロントに電話をかけ、一八四七号室の清掃を担当したのが誰かを確認した。

「見つかりました。新人の清掃員が、冷蔵庫の中の注射器を見て、使用済みの医療廃棄物だと勘違いして回収してしまったそうです。まだ医療廃棄物保管庫にあります。すぐに持ってきますね」

俺は男性に英語で状況を説明した。彼の顔が一気に明るくなった。

「ありがとう。恩に着るよ」

男性は深い安堵の表情を浮かべ、俺たちに何度も頭を下げながら感謝の言葉を述べた。十分後、俺がインスリンを手渡すと、男性は深々と俺たちに頭を下げて去っていった。

残された説さんが、俺を見つめていた。

「本当にありがとうございました。あなたがいらっしゃらなかったら、大変なことになっていました」

「たまたま英語が話せただけです」

「いえ、それだけではありません。状況を的確に把握して原因を突き止める推理力。まさに土田さんがおっしゃっていた通り、元警察官の方だということがよくわかりました」

俺は複雑な気持ちだった。久しぶりに自分の能力を人のために使えた。そのことに、小さな満足感を覚えていた。

説さんが遠慮がちに口を開いた。

「あの……少しお話ししませんか? ちょっと聞きたいことがあるんです」

俺は少し迷ったが、頷いた。俺たちはロビーに向かった。彼女に勧められるままソファに腰をかける。向かいのソファに腰かけた説さんは、ためらうような表情を見せた後、言葉を口にした。

「土田さんが言ってた、三年前の事件のこと。詳しく聞かせてもらえませんか?」

「どうして、そんなことを?」

「いえ、ただ土田さんのお話を聞いていて、なんだか複雑な事情がおありなのかなと思いまして。私も複雑な立場にいますものですから」

説さんは俺を見つめた。その瞳には、純粋な関心とどこか寂しげな共感が宿っていた。

「複雑な立場?」

「はい。私は桜宗薬品という会社の社長をしています。半年前に父が他界して、若輩の私が会社を継ぐことになったんです。でも、周りの人たちはみんな、私のことを“二代目社長”だと侮っているように感じるんです。特に専務は、父の頃からの古株で、私では会社を任せられないと考えているようです。今回の国際契約も、私が失敗するのを待っているような空気があります」

説さんは苦笑いを浮かべた。俺は黙って、彼女の話を聞いていた。

「父の残した新薬の技術を守りたい。その思いは、社員の皆さんと同じだと思っているんです。だけど、そう口にしても、誰も聞いてくれなくて……」

俺は何も言えなかった。彼女の置かれた状況は、かつての俺と重なるものがあった。

「あなたも、同じような気持ちを抱えていらっしゃるのではないでしょうか?」

「なぜ、そう思われるのですか?」

「あの時の、あなたたちを見ていて思ったんです。あなたは何かを訴えようとしていたのに、土田さんはあなたの話を聞こうとしなかった。それが、あなたたちの仲違いの原因のような気がして……」

俺は迷った。この人に本当のことを話してもいいのだろうか。

「土田さんはおっしゃっていましたが、あなたの表情を見ていると、そんな単純な話ではないような気がします」

説さんの言葉が、俺の心の扉を少しずつ開いていく。この人になら、話してもいいのかもしれない。そう思えた。

俺は重い口を開いた。

「大地の言う通り、私たちは国際的な産業スパイ組織を追っていました。長い捜査の末にようやく核心に迫った時、緊急事態が発生したんです。人質が危険な状態にあるという通信が入りました。しかし、その通信は私にしか届いていませんでした」

俺は窓の外を見つめながら続けた。

「大地に通信が届いていないことを、当時の私は知らなかった。だから、大地に“罠の可能性があるから待て”と言われた時、頭に血が上りました。人質がいるのに、一刻の猶予もないのに、そんなことを考えている暇なんかないと。私は人命を優先して、単独で現場に向かいました」

「それで、土田さんが怪我を……」

「結果的には、そうです。私が誘い出されている間に、大地のいる場所で爆発が起こったんです。私が戻った時には、大地は瓦礫の下敷きになって、指に重症を負っていました」

俺は拳を握りしめた。

「その後、私が犯人と内通していたという“証拠”が発見されました。私の判断ミスで捜査が失敗し、相棒を負傷させた挙げ句、裏切り者の汚名を着せられた。でも、あなたは内通なんかしてないんですよね」

説さんの確信に満ちた声に、俺は驚いて彼女を見つめた。

「なぜ、そう思われるのですか?」

「あなたの目を見ていれば分かります。嘘をついている人の目ではありません。それに、もし本当に裏切り者なら、こんな風に隠れるように生きる必要はないでしょう。堂々としていればいいのですから」

説さんは穏やかに微笑んだ。俺は言葉を失った。この人は、大地よりも上司よりも、俺のことを理解してくれている。

「真犯人は、分からないのですか?」

「手がかりが、ほとんどありません。ただ一つ、あの日の声の記憶だけ……」

「声?」

「緊急通信を流した人物の声です。外国人でしたが、微妙な訛りがありました。その訛りの特徴だけが、唯一の手がかりです」

説さんは真剣な表情で頷いた。

「きっと、いつか真実が明らかになります」

「どうして、そんな風に言い切れるのですか?」

「悪いことをした人は、必ずまた悪いことをします。そして、必ずボロを出す。父がよく言っていました」

説さんは続けた。

「私たちは、似ているのかもしれませんね。過去の重荷を背負いながら、それでも前に進もうとしている」

そして、彼女は言った。

「説でいいです。私にも、あなたのお名前を教えていただけませんか?」

俺は少し迷ったが、正直に答えた。

「茨城です。茨城誠」

「茨城さん、ありがとうございました。今日お話できて、本当に良かった」

説さんは俺の名前を口にして、優しく微笑んだ。俺は立ち上がりながら言った。

「こちらこそ、お話を聞いていただいてありがとうございました。久しぶりに、心が軽くなりました」

「また、お時間がある時にお話ししませんか?」

説さんの提案に、俺は少し驚いた。

「……俺でよろしければ」

その夜、俺は久しぶりに深く眠ることができた。説さんとの会話が、俺の心に小さな希望の光を灯してくれたのだった。

翌日の午前中、俺は二十階のVIPフロアで清掃作業をしていた。ここは重要な会議や商談に使われる特別なフロアで、普段は関係者以外立ち入り禁止になっている。しかし、清掃員は例外的に入ることを許されていた。

エレベーターのチャイムが響き、数人の足音が廊下に響いた。

「社長、こちらがパール氏です」

真獣さんの声が聞こえる。俺は清掃カートを押しながら、さりげなく様子を伺った。説さんが見知らぬ外国人男性と向き合っている。男性は五十代後半といったところか。銀髪を綺麗に撫でつけ、高級そうなダークスーツに身を包んでいる。背が高く、鋭い目つきをしていた。

「パール氏、こちらが弊社の説社長です」

真獣さんが紹介し、それを大地が通訳すると、パール氏は流暢な英語で答えた。

「お会いできて光栄です。説社長。私はパールと申します。今回の契約について、建設的な話し合いができることを期待しております」

パール氏の声に、俺の手が止まった。どこかで聞いたことがある。だが、思い出せない。

説さんがパール氏と握手を交わす。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。父の代から大切にしてきた技術について、お話しさせていただければと思います」

「ええ、もちろんです。御社の新薬技術については、すでに高い評価を得ていると聞いております。我々も是非とも協力させていただきたいと考えております」

「それでは、会議室でゆっくりとお話いたしましょう」

真獣さんが一行を案内し、俺は廊下で一人になった。しかし、会議室は防音が完璧ではない。隣の部屋から、かすかに声が漏れてくることがある。俺は清掃用具入れに入ると、壁に耳を当てた。

「弊社の技術は、特に抗がん剤の分野で画期的な効果を……」

説さんの声が聞こえる。彼女は自社の技術について熱心に説明しているようだった。

「素晴らしいですね。しかし、この技術を真に生かすためには、より大規模な投資と国際的なネットワークが必要でしょう」

パール氏の声が続く。その声を聞いていると、なぜか背筋に冷たいものが走った。

「我々の提案は、技術の共有という形です。御社の持つ特許権を我々と共有していただければ、資金面でのサポートは惜しみません」

「少し、条件が……」

説さんが困惑している様子が、声から伝わってくる。その時、真獣さんの声が割り込んだ。

「説社長、これは絶好の機会です。パール氏の会社は国際的な製薬企業で、我々のような中小企業では到底できないような規模での展開が可能になります」

「しかし、父が残した技術を……」

「前社長もきっと喜ばれるでしょう。技術が、世界中の患者さんのために使われるのですから」

真獣さんの説得に、説さんが押し切られそうになっているのが分かった。

その時、パール氏が再び口を開いた。

「社長のお気持ちは、よくわかります。しかし、ビジネスというのは感情ではなく合理性で判断すべきものです。我々の提案を受け入れていただければ、御社の技術は必ずや世界規模で展開されることになるでしょう。技術というものは、一つの会社が独占すべきものではありません。より大きな利益のために、共有されるべきものなのです。これは、私の信念でもあります」

パール氏の言葉に、俺の血が凍りついた。気づいたのだ。彼の英語が微妙に訛っていること。その訛りに、聞き覚えがあること。俺の脳裏に、鮮明な記憶が蘇った。

『人質が危険な状態にある。すぐに現場に向かってください』

あの日、俺にだけ届いた緊急通信。その声のある種の英語の訛りと、パール氏のそれが全く同じだった。

俺は壁にもたれかかった。膝が震えている。こんな偶然があるのか。パール氏は、三年前に俺たちを罠に落とした張本人だ。そして今、どうやら説さんの会社を狙っているようだった。

「明日の午後には、正式な契約を行いたいと思います」

パール氏の声が響いた。明日? そんなに早く? 俺は焦燥に駆られた。時間がない。説さんを守らなければならない。しかし、どうやって? 俺はもう国際警察ではない。ただの清掃員の言葉を、誰が信じてくれるだろうか。特に、パール氏の正体を証明する証拠もない。あるのは、声の記憶だけ。

それでも、何かしなければ。そうだ。まずは説さんに危険を知らせよう。彼女なら、俺の言葉を聞いてくれるかもしれない。俺はメモ用紙を取り出した。震える手でペンを握る。

『説さんへ。その契約相手は危険です。三年前の事件と関係があります。契約書にサインをする前に、必ず私に相談してください。茨城』

短いメモだが、これで伝わるだろうか。俺はメモを折りたたむと、清掃カートに隠した。清掃用具室を出て、会議室の前の廊下に戻った。清掃員として自然に振る舞いながら、中の様子を伺う。会議はまだ続いているようだった。中から説さんとパール氏、そして真獣さんの声が聞こえてくる。

「それでは、明日までに契約書の最終版を準備いたします」

真獣さんの声だった。

「ありがとうございます。私も本国との最終確認を行います」

パール氏が答える。しばらくして、会議室のドアが開いた。俺は慌てて、清掃作業に集中するふりをした。

「それでは、明日の午後二時に、再びお会いしましょう」

パール氏の声が廊下に響く。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

説さんが丁寧に挨拶を返した。パール氏と真獣さん、大地の三人がエレベーターの方向へ向かっていく。説さんは会議室に残っているようだった。

今がチャンスだ。俺は清掃カートを押しながら、会議室の前を通りかかった。ドアが少し開いており、中の説さんの姿が見える。彼女は一人で、資料を整理していた。俺は周りに誰もいないことを確認すると、そっと会議室に近づいた。

「茨城。何をしている?」

大地の冷たい声に、振り向いた。鋭い視線が俺を射抜く。俺の手に握られたメモに気づいているようだった。

「清掃を……」

「嘘をつくな。お前、社長に何か渡そうとしているだろう」

大地は俺に歩み寄ると、俺の手からメモを奪い取った。それを、中も見ずに破り捨てる。

「お前は、過去に重大な判断ミスを犯し、相棒を裏切った。この上、さらに俺が関わっているこの重要な契約を妨害しようというのか?」

「妨害なんかじゃない。第一、聞いてくれ。パール氏の声の訛りが、三年前の事件の真犯人と同じなんだ」

「まだ、そんなことを言っているのか? お前の妄想に、説社長を巻き込むつもりか?」

大地の目に、深い侮蔑の色が浮かんだ。

「妄想じゃない。俺は確かに聞いたんだ。あの声を」

「証拠はあるのか?」

大地の問いに、俺は言葉を失った。証拠? そんなものはない。あるのは、記憶だけ。

「やはりな。お前は昔から、憶測と妄想で行動する癖があった。それが三年前の悲劇を招いたんだ」

大地は嘲笑を浮かべた。俺は拳を握りしめた。

「いいか、大地。お前は……部害者だ。俺たちの仕事の邪魔をするな。ここから去れ。二度と説社長に近づくな」

俺は、ゆっくりと踵を返し、清掃カートを押して廊下を歩き始めた。俺は説さんを守ることができなかった。またしても、大切な人を救えずにいる。三年と、何も変わっていない。明日、何が起こるのか。俺には、もうどうすることもできないのだろうか。

そして、運命の日がやってきた。俺は朝から落ち着かなかった。昨日のことを思い出すたびに、胸が締め付けられる。説さんに警告を伝えることができなかった無力感が、俺を苛んでいた。

時が経つうちに、午後二時になった。契約締結の時間が迫っていた。俺は二十階のVIPフロアにいた。今日は特別に関係者以外の立ち入りが厳しく制限されているが、清掃担当の俺だけは例外的に入ることを許されていた。

エレベーターのチャイムが響き、説さんたちが到着した。説さんは紺色のスーツを着て、緊張した面持ちで歩いている。その後ろに真獣さん、そして大地が続いていた。しばらくして、パール氏も到着した。今日も高級なスーツに身を包み、重要な書類の入ったブリーフケースを手にしている。

「説社長、お待たせいたしました」

パール氏の声を聞くたびに、俺の心臓は早鐘を打った。

「それでは、会議室でゆっくりと」

真獣さんが一行を案内する。俺は清掃カートを押しながら、さりげなく彼らの跡を追った。会議室のドアが閉まる音が響く。俺は急いで、隣の倉庫に入った。

「それでは、最終的な契約書について説明させていただきます」

パール氏の声が聞こえてきた。

「はい、よろしくお願いいたします」

説さんが答える。

「土田さん、通訳をお願いします」

「承知いたしました」

大地の声だった。パール氏が英語で話し始めた。俺にもその内容がはっきりと聞こえた。

「パール氏は、今回の契約により御社の新薬技術が、世界中で活用されることを大変嬉しく思っているとおっしゃっています」

大地の通訳が始まった。俺が聞いたパール氏の言葉は、それとは微妙に違った。彼は“活用される”ではなく、“我々のものになる”と言ったのだ。確かに訛っているせいで聞き取りづらいところではあったが、なぜ大地は気づかないのか? 彼は天才ハッカーだったはずだ。語学力だって、俺に劣るはずがない。

その時、真獣さんの声が聞こえた。

「申し訳ございません。体調が優れませんで、少し席を外させていただきます」

「もちろんです。我々だけで進めさせていただきます」

パール氏が答える。真獣さんの足音が遠ざかっていく。こんなタイミングで出ていくことに違和感を覚えながらも、俺は壁に耳を押し付けた。

パール氏が続けて説明している。その内容を聞いて、俺の血が凍りついた。

「この契約により、御社が開発された抗がん剤技術の特許権は、完全に我々に譲渡されることになります。これにより、技術のさらなる発展と世界規模での展開が可能になるのです」

しかし、大地の通訳は全く違っていた。

「パール氏は、御社の技術と我々の技術を融合させることで、より効果的な新薬を開発できるとおっしゃっています。共同開発により、双方にメリットのある関係を築きたいと……」

俺は愕然とした。大地は、パール氏の言葉を完全に誤訳している。いや、誤訳ではない。パール氏が巧妙に大地を騙しているのだ。パール氏は重要な部分を曖昧な表現で話し、大地が都合よく解釈するように誘導している。そして、本当の契約内容は、最後に素早く説明するつもりなのだろう。

パール氏が続ける。

「次に、費用についてです。この技術移転に対して、我々は御社に一切の対価を支払う必要はありません。なぜなら、この技術は人類共通の財産として扱われるべきものだからです」

俺の心臓が止まりそうになった。無償? 説さんの父親が命をかけて開発した技術を、ただで奪い取ろうというのか。しかし、大地の通訳は完全に正反対の内容だった。

「パール氏は、この契約により発生する利益については、公正に分配したいとおっしゃっています。技術提供への対価として、適切な報酬をお支払いするとのことです」

そんなバカな。俺は小声で呟いた。パール氏の手口は巧妙だった。彼は専門用語を巧みに使い分け、法的な意味と一般的な意味を混同させているのだ。

パール氏の声が続く。

「最後に、契約の効力についてです。この契約は締結と同時に発効し、御社の持つ全ての関連特許権は、即座に我々に譲渡されます。一度譲渡されれば、この契約を取り消すことは不可能です」

「パール氏は、契約後も継続的な協力関係を維持したいとおっしゃっています。長期的なパートナーシップを築き、共に技術発展に貢献していきたいと……」

大地の通訳が続いているが、それはパール氏の本当の言葉とは全く違っていた。俺は慌てて壁から耳を離した。これは完全な詐欺だ。説さんは自分が何にサインしようとしているのか、全く理解できていない。真獣さんがさっき妙なタイミングで出ていったのも、計画の一つだったに違いない。彼は最初から、契約の詳細を知らないふりをするつもりなのだ。

「それでは、契約書にサインをお願いいたします」

パール氏の声に、俺は血の気が引いた。

「はい」

説さんの声が聞こえる。ペンを手に取る音が響いた。俺は懸命に考えた。どうすれば止められるのか。しかし、昨日の大地の言葉が頭に蘇る。

『お前はもう、部害者だ。俺たちの仕事の邪魔をするな』

それでも、説さんを守らなければならない。たとえ誰にも信じてもらえなくても。たとえ再び裏切り者の汚名を着せられても。

俺は立ち上がった。倉庫を出て、会議室のドアに向かった。手をドアノブにかけた瞬間、中から大地の声が聞こえた。

「説社長、こちらに署名をお願いいたします」

そして、説さんの声。

「はい、わかりました」

時間がない。俺はドアを開けた。

「お待ちください」

俺の声が、会議室に響いた。説さんがペンを持ったまま、振り返る。大地とパール氏も、驚いたような表情で俺を見ていた。

「何のようだ、茨城。こんなところまで来て、そんなに俺の仕事の邪魔をしたいのか」

大地の声は氷のように冷たかった。それに構わず、俺は会議室に足を踏み入れた。そして、首をかしげる説さんの前に進み出た。

「説さん、その契約書を見せてください」

「何を……」

「お前に契約書を見る権利などない」

俺は強い口調で言った。説さんは迷いながらも、契約書を俺に差し出した。俺は急いで契約書に目を通した。予想していた通り、外国語で書かれた複雑な法的文書だった。しかし、俺の目は重要な情報を見つけ出した。

俺は契約書の一部を指差した。

「説さん、ここには“特許権譲渡”と書いてあります」

「え? でも、パール氏は共同開発とおっしゃっていましたけど……」

説さんが困惑した表情を見せた。俺は大地を見つめた。

「大地、パール氏の説明をどう通訳したか、聞かせてください」

「共同開発による技術の融合と、公正な利益分配だとおっしゃっていました」

「それは誤訳です。ここに書かれているのは、“完全かつ取り消し不可能な譲渡”という意味です」

説さんと大地の顔が青ざめた。

「さらに、第五条を見てください。“対価なし”と書かれています。つまり、あなたの父上が開発した技術を、無償で全て譲り渡す内容なんです」

「そんな……」

説さんが息を飲んだ。パール氏が口を開いた。

「それは誤解です。法的な専門用語は、一般的な意味とは異なる場合があります。我々の意図は……」

「黙ってください。あなたの説明には、致命的な矛盾があります」

俺はパール氏を鋭く見つめた後、契約書の別の部分を指差した。

「第七条の独占権の部分です。あなたは先ほど“人類共通の財産”とおっしゃいました。しかし、ここには“独占的かつ唯一の権利”と書かれている。人類共通どころか、あなたの会社が独占するということじゃないですか」

パール氏の表情が強張った。

「それは、法的な保護のための条項であり……」

「嘘です。あなたが使った“人道的目的”という表現。しかし、この契約書のどこにもそんな条項はありません。全て、商業利用のための条項ばかりです」

大地が割り込んだ。

「茨城。お前は契約法の専門家ではないだろう。勝手な解釈で……」

「大地、お前も騙されているんだ。パール氏の説明を思い出せ。彼が使った“技術協力”という言葉。これは実際には“技術略取”の婉曲表現なんだ。決定的な証拠がある。パール氏が使った“相互利益”という表現。これは中東系の話者が好んで使う独特な言い回しだ。特に、一方的な契約を正当化する時に、よく使われる」

パール氏の目が鋭くなった。俺は説さんに向き直った。

「説さん、この契約書の真の目的は、あなたの父上の技術を完全に奪い取ることです。サインした瞬間、あなたは全ての権利を失い、一銭の対価も得られません」

説さんが震える手で契約書を見つめていた。

「さらに、第十二条の契約解除条項も見てください。“いかなる状況でも、契約を解除や変更できない”と書かれています。つまり、一度サインすれば、永久に取り返しがつかないということです」

パール氏が立ち上がった。

「これは、明らかな営業妨害だ! この男の言葉を信用してはいけない!」

しかし、俺は止まらなかった。

「まだありますよ、パール氏。あなたは先ほど“相互利益”とおっしゃいましたが、この契約書には一方的な利益しか記載されていません。相互利益など、どこにも書かれていない。そして、ここが最も重要です。署名欄の下に、小さく書かれた準拠法の部分。問題が起こった場合の裁判管轄について書かれています」

俺は契約書の最終ページを指差した。説さんが目を凝らす。

「これは、どこの国ですか?」

「タックスヘイブンとして有名な国です。つまり、何か問題が起こっても、日本の法律では解決できない。あなたは完全に泣き寝入りするしかないということです」

俺が説明すると、会議室に重い沈黙が落ちた。大地が、愕然とした表情でじっとしていた。

「まさか、俺は騙されていたのか?」

その時、パール氏が突然立ち上がった。

「くそ……ここまで来て!」

パール氏の仮面が、完全に剥がれ落ちていた。もはや紳士的な笑顔も、丁寧な物腰もない。その目には、追い詰められた獣のような凶暴さが宿っていた。そして、彼は吼えた。

「そいつを捕まえろ! その男こそ、私が追っている国際指名手配中の産業スパイだ!」

その言葉に、俺は愕然とした。

「何を言っているんですか?」

説さんが困惑した声をあげた。パール氏は懐からスマートフォンを取り出すと、画面を説さんと大地に見せた。

「これを見てください。国際警察から送られてきた指名手配書です」

俺の顔写真が映し出されていた。しかし、それは明らかに合成された偽造写真だった。俺の顔に見覚えのない犯罪者としての経歴が記載されている。

『茨城誠。ホワイトデビル。国際的な産業スパイ組織の一員として、数々の企業秘密を盗み出した重要指名手配犯』

「そんなバカな……」

大地が呟いた。

「信じられませんか? 彼は三年前にも、あなたを裏切ったでしょう。今回も同じです。説社長の会社の技術を盗むために、清掃員として潜入していたのです」

パール氏はさらにスマートフォンを操作すると、別の画面を見せた。

「これは、彼が他の企業から盗み出した機密情報の一部です。我々の捜査で押収したものです」

画面には、複数の企業の内部資料らしきものが映し出されていた。そして、その資料の端に、俺の筆跡で書かれたメモが映っている。

『重要技術確認済み。予定通り進行。次回接触は来週。茨城』

そのメモを見て、俺は声を荒げた。

「これは偽造だ! 俺がそんなメモを書くはずがない!」

「では、筆跡鑑定をしてみましょうか。あなたが書いた清掃報告書と比較すれば、すぐに分かることです」

パール氏は嘲笑を浮かべた。俺は焦った。確かに、俺の筆跡は清掃報告書に毎日記録されている。それを入手して偽造することは、不可能ではない。

「さらに、これもあります。彼が海外の協力者と連絡を取っていた痕跡です」

パール氏は画面をスワイプした。今度は、俺の名前で送信されたとされる、暗号めいたメッセージが表示されていた。

「全て偽造です! 俺はそんなことをしていない!」

俺は懸命に否定した。その時、会議室のドアが開いた。真獣さんが、慌てたような表情で入ってきた。

「何の騒ぎですか?」

真獣さんは室内の様子を見渡すと、パール氏のスマートフォンに目を向けた。

「これは、指名手配書?」

「真獣事務。実は大変なことが起こっています。この茨城という男は、国際的な産業スパイだったのです」

パール氏が説明した。真獣さんの顔が驚愕に歪んだ。しかし、その表情は俺にはわざとらしく見えた。

「産業スパイ……まさか」

「我々は以前から彼を追っていました。彼が説社長の会社に接近しているという情報を得て、今回の契約に合わせて日本に来たのです」

パール氏の嘘は巧妙だった。まるで最初から俺を追っていたかのような口ぶりで話している。

「信じられません。清掃員として働いていたのに……」

「それが彼らの常套手段です。目立たない職業に潜り込み、企業の内部情報を盗み出す。説社長、彼があなたに近づいたのも、全て計画的だったのです」

説さんが俺を見つめていた。その目には、困惑と不安が混じっていた。

「でも、茨城さんは昨日、私を助けてくれました」

「それも、全て演技です。あなたの信頼を得るための作戦でしょう」

「違います! 全て嘘です! パール氏が俺を落とし入れるために仕組んだことです!」

俺は懸命に否定した。その時、警察官が会議室に入ってきた。パール氏が事前に呼んでいたのだろう。

「こちらにいるのが、国際指名手配中の産業スパイ、茨城です」

パール氏が俺を指差した。警察官たちが俺を取り囲む。俺は懸命に訴えた。

「待ってください! 俺は無実です! パール氏こそが本当の犯人なんです!」

「はいはい。犯人はみんな、そういうものです」

警察官の一人が、皮肉っぽく言った。俺の両腕が後ろに回され、手錠がかけられる。冷たい感触が、俺の手首に食い込む。

俺は最後の希望を込めて叫んだ。

「説さん! 俺の言葉を信じてください! パール氏は、三年前に俺たちを罠に掛けた張本人なんです!」

しかし、説さんは困惑した表情で俯いてしまった。

「茨城さん、私は……」

彼女の声は小さく震えていた。そんな彼女の前に立った真獣さんが、冷たく言った。

「もういい。警察の方、この男を連行してください」

「承知いたしました」

警察官が俺の肩を掴んだ。

「待て! 話を聞いてくれ!」

俺は懸命にもがいたが、警察官たちの力は強かった。俺は絶望的な気持ちで会議室を見回した。パール氏と真獣さんは、勝利の笑みを浮かべている。説さんは迷っているようだが、その目には俺への疑念が混じっていた。

「説さん、俺……」

俺が最後の言葉をかけようとした時、警察官が俺を引きずり始めた。

「行きましょう」

俺はとっさに大地を見た。彼は呆然とその光景を見つめていたかと思うと、震える手で頭を抱えた。

「おかしい……何かがおかしい……」

「土田さん?」

説さんが心配そうに声をかけた。その時、大地の目が見開かれた。まるで雷に打たれたかのように。

「この光景……三年前、俺たちが罠にかけられた時と全く同じ構図じゃないか。そうか……あの時も、こうだったのか」

大地の声が、会議室に響いた。

「土田さん、何をおっしゃっているのですか?」

真獣さんが困惑した表情を見せた。それに構わず、大地は会議室の中央に歩み出た。

「俺は思い出した。あの日、茨城は確かに言っていた。“これは罠だ。俺ははめられている”と。しかし、俺は聞く耳を持たなかった。俺は思い込みで、茨城の言葉を聞こうとしなかったんだ。自分の怪我と失職への怒りで、真実を見ようとしなかった。しかし、今ならよくわかる。今回の手口と、三年前の手口が、全く同じだということが」

大地は拳を握りしめた。説さんが息を飲んだ。

「土田さん、それはつまり……」

「茨城は無実だ。三年前も、そして、今回も」

大地は断言した。パール氏が立ち上がった。

「何を根拠に、そんなことを!」

「根拠? お前の手口が下手すぎるんだよ」

大地は嘲笑を浮かべ、パール氏に歩み寄った。

「今回のお前の“証拠”には、不自然な点が多すぎる。特に、あの暗号メッセージだ」

「何が不自然だというのですか?」

「産業スパイが、自分の本名でメッセージを送るか? プロなら、コードネームを使うはずだ。茨城なんて署名を残すのは、素人の偽造工作の証拠だ」

大地は鋭く指摘した。パール氏の顔が青ざめた。

「それに、見せた指名手配書の書式が古すぎる。現在使われているフォーマットとは明らかに違う。あれは、三年前に使われていた書式だ。つまり、お前は三年前から、茨城を落とし入れる準備をしていたということだ」

会議室に、重い沈黙が落ちた。大地は毅然とした表情でパール氏を指差した。

「偽の証拠、偽の証言。そして、孤立した茨城。三年前も、まさにこの通りだった。それなら、あの時に緊急通信を送ったのも、人質がいるという偽の情報を流して茨城を誘い出したのも、茨城が裏切り者だという証拠を事後に発見されるように仕組んだのも、全てお前の仕業だったということになる」

パール氏は動揺を隠そうとしたが、その目に明らかな動揺の色が浮かんでいた。大地は俺の方を振り返った。

「悪かったな。三年間も、お前を信じなくて」

その言葉に、俺の目に涙が浮かんだ。大地は警察官たちに向き直った。

「手錠を外してください。この男は無実です」

「え? しかし、証拠が……」

「証拠が欲しいんですか? なら、俺が見つけ出します」

大地はそう言うと、懐からノートパソコンを取り出した。しかし、その手が一瞬躊躇した。右手の指が、わずかに震えている。三年前の事故で損傷した神経の後遺症。ハッカーとして致命的な障害となったその傷が、今も彼を苦しめているようだった。

「大地、俺……」

俺が心配になって声をかけると、大地は短く答えた。

「大丈夫だ」

大地はゆっくりとキーボードに指を置いた。最初のキーを押す時、明らかに痛みが走ったようだった。しかし、大地は歯を食いしばって作業を続けた。

「実は、俺は今回の交渉を密かに録音していたんだ」

「録音?」

説さんが驚いた声を出した。

「通訳として正確性を期すため、録音は当然の準備だ。しかし、今聞き返してみると、パール氏の発言と、俺が通訳した内容に、決定的な違いがある」

大地の指が、痛みをこらえながらキーボードを叩いていく。一文字、一文字。ゆっくりと、しかし確実に。

そして、会議室の大型スクリーンに、音声波形が表示された。

「これが、今日の交渉の録音データだ」

大地は再生ボタンを押した。パール氏の声が、会議室に響く。パール氏が英語で話す内容と、大地が通訳した日本語の内容が、明らかに食い違っていた。

『この契約は締結と同時に発効し、御社の持つ全ての関連特許権は、即座に我々に譲渡されます』

「パール氏は、契約後も継続的な協力関係を維持したいとおっしゃっています……」

録音された大地自身の通訳が流れる。その食い違いは明らかだった。

「茨城の言う通りだ。俺はパール氏の巧妙な言い回しに、完全に騙されていたんだ」

大地の声に、深い後悔が滲んでいた。説さんが息を飲んだ。

「それじゃ、私がサインしようとしていた契約は……」

「ええ、茨城の言う通り、完全な詐欺です。技術の無償譲渡、取り消し不可能な契約、海外での裁判管轄。全て、あなたを騙すための仕掛けでした」

大地の作業は止まらなかった。痛みに歪む指を使いながら、さらに解析を続けている。

「そして、これが決定的な証拠だ」

大地の画面に、複数の通信記録が表示された。

「ホテルのWi-Fiログを解析した。結果、パール氏のデバイスから発信された通信記録を発見した。それは……」

俺は画面を覗き込んだ。

「パール氏と真獣事務の間で交わされた、暗号化されたメッセージだ。しかし、暗号化が甘い。解読は容易だった。ここに、全ての計画が記されている」

大地の指が、さらに激しくキーボードを叩く。明らかに限界を超えた作業だが、彼は止めようとしない。スクリーンに、解読されたメッセージが表示された。

『計画通り進行中。説は完全に騙されている。契約成立後、技術を回収し、速やかに撤退』

そのメッセージに、説さんの顔が青くなった。

「そして、これが最も重要な証拠だ。真獣事務とパール氏が、密室で話し合っている映像だ。ホテルのセキュリティカメラから抽出した」

大地はさらにファイルを開いた。スクリーンに映し出されたのは、動画ファイルだった。動画が再生される。そこには、真獣さんとパール氏が握手を交わし、何やら密談している様子が映っていた。音声は聞こえないが、二人の親密な様子から、明らかに共犯関係にあることが分かった。

大地が指差した。

「説社長。この映像のタイムスタンプを見てください。今回の契約交渉が始まる前日だ。つまり、最初から全てが仕組まれていたということです」

説さんが震え声で言った。

「真獣事務は、父の代からの古株なのに……」

「だからこそ、あなたの信頼を利用できたんだ。内部の人間だからこそ、騙しやすかった」

俺が説明した。大地がさらにキーを叩くと、スクリーンに真獣さんとパール氏が金銭を受け渡している映像が映し出された。

「この証拠映像を見てください。真獣事務は会社を裏切って、技術情報を売り渡すつもりだったんです。説社長を騙して契約にサインさせ、その見返りに高額の報酬を受け取る手はずだったようです」

説さんが呟いた。

「信じられない……真獣事務が……」

大地はさらに別のファイルを開いた。その時、彼の指が激しく痙攣した。

「大地、もうやめろ! 無理をするな!」

「いや、まだだ。最後の証拠を見つけ出す」

大地は汗を拭いながら答えた。彼が開いたファイルには、複数の企業から盗まれた機密データが表示されていた。

「そして、これが決定的だ。パール氏のデバイスに残されていた痕跡を辿ると、過去三年間で、複数の企業の技術情報が不正に取得されている。全て、今回と同じ手口だ」

画面には、様々な企業のロゴと共に、『技術移転完了』『特許権取得済み』といった記録が並んでいた。

大地は別のウィンドウを開いた。

「さらに、ここを見ろ。三年前の日付で、俺たちの捜査情報が漏洩した記録がある。パール氏は内部協力者を使って、我々の動きを事前に把握していた証拠だ」

俺の心臓が激しく鼓動した。

「つまり、三年前に俺たちを罠に落としたのも、今回、説さんを騙そうとしたのも、全て同一人物の犯行だということだ」

大地は立ち上がると、会議室の中央に歩み出た。

「これで、全てが明らかになった。本当の悪党は、そいつだ」

大地は、逃亡を図ろうとしていたパール氏と真獣さんを指差した。二人はドアの前で足を止めた。自分たちの犯行が完全に暴露されたことを、理解したような表情を浮かべている。

「全て……バレてしまったのか」

真獣さんが、力なく呟いた。

「くそ……こんなはずでは……」

パール氏は母国語で毒づいた。警察官たちが、真獣さんとパール氏に近づいていく。

「真獣さん、パール氏。あなた方を、詐欺および産業スパイ容疑で逮捕します」

「待ってくれ! 俺は騙されていただけだ! パール氏に脅されて、仕方なく協力したんだ!」

真獣さんが弁解しようとしたが、警察官の一人が冷静に指摘した。

「証拠映像では、あなたが自ら進んで金銭を受け取っている様子が映っていますが」

真獣さんの顔が真っ青になった。

「それは……それは……」

言い訳の言葉が見つからなかったようで、真獣さんは項垂れた。一方、パール氏は最後まで抵抗を続けていた。

「これは陰謀だ! 私は正当なビジネスマンとして来日しただけだ!」

「正当なビジネスマン? 三年前に俺たちを罠に落とした時も、同じことを言うつもりか?」

俺はパール氏に歩み寄った。彼は、俺を睨みつけた。

「くそ……まだだ。私には、外交特権が……」

「あなたの入国記録を確認しましたが、一般のビジネスビザでの入国ですね。外交特権はありません」

警察官の一人が、冷静に答えた。パール氏は、血の気の引いた顔で俯いた。何も言えなくなったようだった。

二人の手に手錠がかけられる。そして、警察官に連行されていった。会議室のドアが閉まると、ようやく静寂が戻った。

大地は椅子に座り込み、疲労困憊といった様子だった。後遺症の残る指は、激しく震えている。

「大地、大丈夫か?」

俺は心配で、声をかけた。大地は苦笑いを浮かべた。

「なんとかな。久しぶりに、ハッカーらしい仕事ができた」

「無理をしすぎた。指の状態が悪化する」

「それでも、やる価値があった。三年間、お前を疑い続けた罪滅ぼしができた」

大地は俺を見つめた。俺は、そんな彼の隣に座った。

「お前のおかげで、真実が明らかになった。ありがとう」

「相棒……久しぶりに聞く言葉だな」

大地は感慨深げに呟いた。説さんも、俺たちの元に歩み寄ってきた。

「お二人とも、本当にありがとうございました。おかげで、父の技術を守ることができました」

彼女の声には、深い感謝の気持ちが込められていた。

「当然のことをしただけです」

俺が答えると、説さんは首を振った。

「いえ、お二人がいらっしゃらなければ、私は騙されたままでした。会社も、技術も、全て失っていたでしょう」

その時、警察官の一人が戻ってきた。

「容疑者の身柄は確保しました。詳しい事情聴取をさせていただきたいのですが。それと、茨城さん。三年前の事件についても、改めて調査させていただきます。土田さんの証言と今回の証拠により、あなたの冤罪が証明される可能性が高いです」

「もちろんです」

俺は立ち上がった。胸には、熱いものが込み上げていた。三年間背負い続けた汚名が、ついに晴らされる時が来たのだ。窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。長い一日だった。しかし、ついに全てが終わった。三年にわたる因縁に、ようやく終止符が打たれたのだった。

警察での事情聴取も終わり、俺はホテルのロビーに戻ってきた。

「茨城」

振り返ると、大地が立っていた。右手は包帯で巻かれている。限界を超えた作業で、指の状態が悪化したのだろう。

「大地、手は大丈夫か?」

「問題ない。それより、少し話をしないか」

俺は頷いた。俺たちはエレベーターに乗り、屋上へ向かった。外に出ると、東京の夜景が広がっていた。高層ビルの明かりが、星のように輝いている。大地は手すりにもたれかかった。俺も、彼の隣に立つ。しばらくの間、どちらも何も言わなかった。夜風が、俺たちの間を吹き抜けていく。

やがて、大地が口を開いた。

「悪かった。三年間も、お前を恨み続けて。俺は間違っていた」

その言葉は、夜空に小さく響いた。俺は大地を見つめた。彼の横顔には、深い後悔の色が浮かんでいた。

「お前は、何度も弁明しようとしていたのに、俺は聞く耳を持たなかった。自分の怪我に腹を立て、失職への怒りで頭がいっぱいで、お前の言葉を信じようとしなかった。お前は、人質を救おうとしただけだった。それが偽の情報だったなんて、あの時は誰にも分からなかったのに。俺は、お前を責め続けた。三年間も」

大地は、包帯を巻いた右手を見つめた。俺は首を振った。

「いや、俺の方こそ。俺がもっと慎重だったら、もっと冷静に判断していれば、お前があんな怪我をすることはなかった。三年間、毎日そのことを考えていた。俺は確かにお前の制止を振り切って現場に向かった。その結果、お前が怪我をした。それは事実だ。だから、お前が俺を恨むのは当然だった。俺だって、同じ立場なら……」

「やめろ。お前は悪くない。悪いのは、俺だ」

大地が、俺の言葉を遮った。彼は手すりから身を離すと、俺の方に向き直った。

「今日、パール氏の手口を見て分かった。あいつは最初から、俺たちを分断させるつもりだったんだ。お前を一人で現場に向かわせ、俺を怪我させた。そして、俺たちの間に不審の種を巻いた。全て、計算されていたんだ。あいつにとって、俺たちが分裂することこそが、最大の勝利だったんだろう。“伝説の捜査官コンビ”が互いを憎み合う。これほど痛快なことはない」

大地は、俺に向かって深く頭を下げた。

「俺は、まんまとあいつの思惑通りに動いてしまったんだ。俺はバカだった。本当に、バカだった。俺は謝らなければならない。心から。すまなかった、俺の相棒。本当にすまなかった」

その言葉に、俺の目から涙が溢れた。三年間、待ち続けた言葉。大地の口から聞きたかった、たった一言。

「頭を上げてくれ。俺の方こそ、すまなかった」

俺は震える声で言った。大地が顔を上げる。彼も、涙を流していた。俺たちは、再び手すりにもたれかかった。今度は、苦しい沈黙ではなかった。温かく、懐かしい沈黙だった。

「なあ、茨城」

「なんだ?」

「今日、お前が会議室に乱入した時、俺は思ったんだ。ああ、これが茨城なんだなって。無謀で無鉄砲で、それでも正義感だけは人一倍強い」

大地は微笑んだ。俺も笑った。

「褒められているのか、けなされているのか、分からないな」

「褒めてるんだよ。お前のそういうところが、俺は好きだった」

「過去形かよ」

「いや、現在進行形だ」

大地はニヤリと笑った。その言葉に、俺の胸が熱くなった。

「なんか、恥ずかしいな」

確かに、俺たちは気恥ずかしかった。しかし、その恥ずかしさが、心地よかった。

やがて、大地が右手を拳の形にして、前に突き出した。包帯に巻かれた、痛々しい手。しかし、その手は確かに、俺に向けて差し出されていた。俺も、自分の右手を拳の形にし、突き出した。二つの拳が、静かにぶつかり合う。言葉はいらなかった。この拳の触れ合いが、全てを物語っていた。許し合い、信頼し合い、そして、また共に歩んでいこうという意思を。俺たちは、相棒に戻ったのだ。

風が吹き、東京の夜景がきらめいている。俺は大地を見た。彼も、俺を見ていた。穏やかな笑顔を浮かべている。

「これから、どうする?」

大地が尋ねた。

「さあな。でも、きっとなんとかなるだろう」

「根拠のない自信だな」

「お前がいるからな」

大地は照れたように、頭をかいた。

「やめろよ。そういうこと言うの」

俺たちは、笑い合った。屋上から見える景色は変わらない。でも、俺たちは変わった。以前よりも強く、以前よりも深く、お互いを理解し合えるようになった。試練が、俺たちの絆をより強固にしてくれたのだ。

数日後の午後。俺はホテルプリンスタワーの十五階で、清掃作業をしていた。

「茨城さん」

廊下の向こうから、同僚が小走りで近づいてきた。事件後、俺と同僚たちとの関係は大きく変わっていた。それまで距離を置いていた彼らが、今では親しげに声をかけてくれるようになった。新聞やテレビで報道された国際犯罪組織の摘発のニュースで、俺の正体と活躍を知ったのもあるが、俺も彼らに対して壁を作ることをやめたのが大きいだろう。

「どうしました?」

俺は清掃カートの手を止め、笑顔で応じた。

「ロビーにお客様がいらしています。茨城さんにお会いしたいと」

「俺に?」

「はい。説ミクさんという方です」

説さん? 俺は驚いた。事件後、警察での事情聴取以外では会っていなかった。

「わかりました。すぐに行きます」

俺は清掃用具を片付けると、エレベーターに向かった。エレベーターがロビー階に着くと、俺は説さんを探した。すぐに見つかった。いつものように落ち着いたスーツを着て、ロビーのソファに座っている。しかし、その表情には、これまで見たことのない明るさがあった。

「説さん」

俺が声をかけると、説さんは立ち上がって振り返った。

「茨城さん、お疲れ様です」

「どうして、ここに? 何かあったんですか?」

説さんは微笑んだ。

「お話があって、伺いました。お時間をいただけますか?」

俺は周りを見回した。ロビーは宿泊客で賑わっている。

「静かな場所の方がいいでしょう。会議室を借りることができますが」

「ありがとうございます」

俺は事務所に連絡を取り、小さな会議室を確保した。説さんを案内しながら、俺は彼女の様子を観察していた。事件の時のような緊張感はなく、むしろリラックスしているように見える。

会議室に入ると、説さんは俺に向かって丁寧に頭を下げた。

「この度は、本当にありがとうございました。おかげ様で、父の会社と技術を守ることができました」

俺たちは会議室のテーブルを挟んで、向かい合って座った。説さんは少し前のめりになり、真剣な表情を見せた。

「茨城さん、今日はお願いがあって伺いました」

「お願い?」

説さんは深呼吸をしてから、口を開いた。

「私の会社で、その力を貸していただけませんか?」

「え?」

俺は驚いた。説さんの目には、かくかたる意志が宿っていた。

「あの事件の後、私はずっと考えていました。茨城さんの語学力、推理力、そして何より正義感。私の会社には、そういう人材が必要なんです。特に海外部門では、国際的な契約や取引が日常的に行われます。今回のような詐欺や産業スパイから会社を守るためには、茨城さんのような専門知識を持った方が不可欠です」

俺は言葉を失った。まさか、こんな提案をされるとは思ってもみなかった。

「でも、俺は製薬業界の経験がありません。それに、清掃員をしていた男を雇うなんて、他の社員が反対するでしょう」

「経験は、積めば身につきます。それより、茨城さんの持つ能力の方が、はるかに価値があります。他の社員のことは、心配いりません。今回の件で、茨城さんの実力は十分に証明されました」

説さんは身を乗り出すようにして続けた。

「海外部門の責任者として、来ていただきたいのです。父の残した技術を世界に広めるため、そして同時に悪意ある者たちから守るため、茨城さんの力が必要なんです」

俺は、会議室の窓から見える東京の街並みを見つめた。三年間、俺は自分の過去から逃げ続けてきた。清掃員として身を隠し、誰とも深く関わらないようにしてきた。しかし、もう逃げるのは終わりにしよう。俺は視線を説さんに戻した。

「説さん、俺は三年前の事件で、大きな失敗をしました。それが冤罪だったとしても、判断を誤ったことに変わりはありません」

「だからこそ、です」

説さんは、穏やかに言った。

「失敗を経験した人だからこそ、同じ過ちを繰り返さない慎重さを持っています。そして、茨城さんは失敗から学び、成長する人です。あの日、茨城さんは自分の危険を顧みず、私を守ろうとしてくださいました。それは、清掃員としての義務ではありません。一人の人間としての、正義感からの行動でした」

説さんは立ち上がると、俺の前に歩み寄った。

「父がよく言っていました。“技術は人を救うためにある”と。でも、技術だけでは人は救えません。それを正しく使う人の心が必要だと。茨城さん、一緒に働きませんか? 父の志を継いで、多くの人を救う仕事を」

説さんは、俺に手を差し出した。俺は、その手を見つめた。小さく白い手だが、そこには強い意思が宿っている。父親の残した会社を守り抜き、技術を世界に広めようとする決意の手だった。

俺は、立ち上がった。くたびれた清掃員の制服が、体にまとわりついている。三年間、この服を着て過ごしてきた。逃げ隠れしながら、自分の本当の姿を見せることなく。しかし、もう、その時間は終わりだ。

俺は、ゆっくりと制服の上着を脱ぎ始めた。

「茨城さん?」

説さんが、不思議そうに俺を見た。

「三年間、俺はこの服をずっと着続けていました。“逃げるための服”です。でも、もう要りません。もう逃げません。自分の過去と向き合い、前に進みます」

俺は上着を左腕にかけて持ち、右手を説さんの差し出された手へと伸ばした。そして、固く握り返した。彼女の手は、思ったより温かく、そして力強かった。

「よろしくお願いします。説社長」

説さんの顔に、満面の笑顔が広がった。

「こちらこそ、よろしくお願いします。茨城さん」

俺の胸に、久しぶりの充実感が満ちていた。三年間、封印してきた自分の能力を、再び人のために使える。それも、説さんという信頼できる人と一緒に。

「大地にも、報告しないといけませんね」

「土田さんも、きっと喜ばれるでしょう。実は、土田さんにも技術顧問としてお願いしたいと思っているんです」

説さんは、嬉しそうに答えた。

「本当ですか?」

「ええ。土田さんのハッキング技術と、茨城さんの国際捜査経験。この組み合わせがあれば、どんな脅威からも会社を守れるでしょう」

俺は、思わず笑顔になった。また、あの相棒と一緒に働ける。今度は疑い合うことなく、信頼し合いながら。

会議室の窓から差し込む午後の光が、部屋を温かく照らしている。新しい職場、新しい仲間、新しい挑戦。全てが、俺を待っている。俺の物語は、ここから新たな章を迎えるのだった。

俺は三年間、過去の傷から逃げ続けていた。相棒の大地に裏切り者と罵られ、誰も俺の言葉を信じてくれなかった。しかし、真実は決して消えることがない。時間が経っても、必ず光の当たる場所に現れる。説さんとの出会いが、俺に教えてくれた。人を信じる勇気を失ってはいけないということ。そして、大地との和解が証明してくれた。本当の絆は、誤解や憎しみよりも強いということ。どんなに巧妙な嘘も、いつか必ずボロを出す。どんなに深い溝も、真実があれば埋めることができる。俺たちはみんな、完璧ではない。間違いを犯し、傷つけ合うこともある。でも、それでも人を信じ続けること、真実を追い求め続けること、そして過去に縛られず未来に向かって歩き続けること。それが、大事なのだ。真実は時を超えて人を結び、新しい希望をもたらしてくれるのだから。

Thumbnail