「レジ打ちのお姉ちゃんじゃ、どうせ1時間で断られるって。」
見合いの前日、実家の玄関で靴を履く私の背中に、妹の美ゆが笑いを投げた。母は奥から声を飛ばしただけで、玄関までは出てこない。
「地味だから、いつも通りの格好で行きなさい。」
次の日、私は1000円台のブラウスと、角のすり切れた鞄で家を出た。相手は時グループの社長。妹が写真を見て「つまんなそう」と放り出した縁談だった。断ってもらうつもりで言った。だから聞かれた時、私は迷わずに答えた。
「お仕事は何を?」
「スーパーでレジを打っています。」
これで終わる。そう思った。
ところが、時優馬という人は眉も動かさなかった。話は途切れず、私はグラスに手を伸ばした。その瞬間、彼の目が止まった。私の右手で。
「まさか」
低い声だった。
「僕と結婚してください。」
私は水を飲むのを忘れた。あの人が見ていたのは、私の顔ではなかった。
私は瀬彩佳。32歳。東京の小さい町に小さな工房を借りている。表に看板は出していない。2階の窓で古い換気扇が1つ回っているだけの建物だ。そこで私は毎日金属を削っている。
週に1度、火曜の夕方だけ、工房から歩いて5分のスーパー「港屋」のレジに立つ。3時間だけの登録パートだ。店長の井原吾さんは52歳。私のことを「指輪を作っている人」だと思っている。
「はせさん、今日も指先が真っ黒だよ。」
「すみません。洗ってきます。」
なぜレジに立つのか。一度、井原さんに聞かれた。人の手が一番よく見える場所だからだ。1日に何百人もの手が私の目の前に1000円札を置いていく。節くれだった手。指輪の跡だけが白く残った手。爪を塗った手。見ていると、次に作りたい形が浮かぶ。時給は1300円。嘘は1つもない。私に別の仕事があることは、井原さんも知っている。「サークル」とだけ聞いている。会社をやっているとは思ってもいない。
港屋のレジは2台しかない。混む時間だけ、私が2台目に入る。連れの田島さんという80歳を過ぎた女性は、小銭を数えるのに時間がかかる。
「ごめんね、待たせて。」
「大丈夫ですよ。」
その人の左手の薬指には、細い金の指輪が食い込んでいる。40年前に買ったものだといつか話してくれた。指が太くなってもう抜けないのだと笑っていた。私はその指輪の細さを毎週見ている。40年で、金の輪は人の指に負ける。
実家は埼玉の川口にある。工房から電車で40分。父の正は61歳。「瀬金属工業」という会社の社長で、従業員は12人。母の絹代は58歳。妹の美ゆは28歳で、化粧品を紹介する動画を出している。
9年前、私が勤めをやめて自分の工房を始めた時、父はこう言った。
「勤めもしないで遊ぶなら、家に10万入れろ。それが筋だ。」
「遊びじゃない。工房を借りたの。」
「同じことだ。会社に所属してないやつは、全部遊びだ。」
父の中では、給料をもらう者だけが働いていた。その月から、毎月10万円を実家に振り込んでいる。9年、1度も欠かしていない。合計は1080万円になった。振り込みの控えは全部取ってある。几帳面なのではない。数字を覚えるのが苦手だから、紙に残す。工房を始めた日からの癖だ。
2年前の秋、母から電話があった。
「美ゆが独立するのよ。撮影の機材と部屋の保証金でね。200万。」
「200万円。」
「あら、あんた払えないの? 妹のためでしょ。」
払えないとは言わなかった。その翌日に振り込んだ。美ゆからは礼の一言もなかった。母からもない。その正月、母と美ゆは九州へ行った。温泉の前で笑う写真が送られてきた。私は工房にいた。
実家では私の席は決まっている。食事が終わると母が言う。
「彩佳、あんたは手が空いてるでしょ。」
そして私は台所へ立つ。父と美ゆはテレビの前から動かない。母は茶を飲みながら、流しの私にこう言う。
「美ゆは指を痛めたら仕事にならないんだから。あんたは元々汚れてる手だし、ちょうどいいわ。」
その手で何を作っているのか、母は1度も聞いたことがない。1度だけ、父が私の作った小さなブローチを手に取ったことがある。銀の地に細い線で葉脈を彫ったものだ。3日かけた。父はそれを2秒見て、裏返しに置いた。
「こんな細かいもの、誰が買うんだ。」
私は黙って鞄にしまった。それきり、家に自分の作ったものは持っていっていない。
2年前の春だったと思う。美ゆが私の隣に座って、画面を見せてきた。
「ねえ、お姉ちゃん、これ知ってる? 『アヤカ』っていうブランド。」
アルファベットで並んだ名前を、妹の細い指がなぞった。
「デザイナーが女の人でね、顔を絶対に出さないの。映るのは手だけ。ミステリアスでしょ。」
「知ってる。」
「あのさ、笑っちゃうんだけど、この会社の社長、お姉ちゃんと同姓同名なんだって。『アヤカ』。ネットに出てるよ。」
美ゆは口に手を当てて笑った。
「どうせ同姓同名なのに、あっちは世界的なデザイナーで、こっちはレジ打ち。受けるよね。」
母も笑った。
「やめなさいよ。彩佳がかわいそうでしょ。でも本当に同じ名前なのね。」
私は湯飲みを持ったまま、何も言わなかった。言っても信じない。9年かけて、それだけは分かっていた。
6月の夕方、工房で指輪の石座を削っていると携帯が鳴った。父からだった。年に2度あるかどうかの電話だ。
「彩佳、土曜、実家に来い。」
「何かあるの?」
「見合いの話が来てる。」
父の声は機嫌がいい時の声だった。
「相手は時グループの社長さんだ。分かるか? 時グループだぞ。」
その名前は知っていた。知っているどころではなかった。時グループ。その名前は、父の会社ではなく、私の工房の請求書に毎月載っている。
見合いの前日の土曜。その午前に私は川口の実家へ行った。居間のテーブルに、白木さんという人が持ってきたという釣書と写真が広げてあった。釣書というのは、相手の経歴と家族構成を書いた紙のことだ。白木常夫さん、父の取引先の社長で65歳。時グループの役員と古い付き合いがあるらしい。
母と美ゆは写真を挟んで大騒ぎだった。
「ホテルが12軒ですって。12軒よねえ。」
「社長夫人って、どれくらいのバッグ持つの?」
父は腕を組んで鼻の穴を膨らませていた。
「白木さんに3回も頭を下げた。3回だぞ。分かるか?」
「お父さん、頑張ったのね。」
母が声を潜めた。
「白木さんも最初は渋ったのよ。うちみたいな小さいところの娘じゃ釣り合わないって。」
「余計なことを言うな!」
父が手を払った。
その時、美ゆが写真を持ち上げて光にかざした。35歳の時優馬さんは、灰色のスーツを着てまっすぐこちらを見ていた。美ゆはお見合い写真も見なかった。
「うーん。なんか真面目そう。つまんなそう。」
写真をテーブルに放った。角が茶托に当たって乾いた音がした。
「私、こういうきっちりした人ダメなんだよね。写真くらい笑えばいいのに。」
母が慌てた。
「美ゆ、そんなこと言わないで。社長さんよ。」
「じゃあ、お母さんが行けば。」
美ゆは立ち上がって台所の冷蔵庫の方へ行った。開けた向こうからはこちらの話は聞こえないはずだった。居間が静かになった。父が咳払いをして、それから私を見た。私を見たというより、そこに置いてあるものを見つけた顔だった。
「彩佳、お前でいいから行ってこい。」
言い方が引っかかったのではない。父は本気でそう思っている。それが分かる言い方だった。
「私は断るのは向こうだ。お前は座ってればいい。」
母が横から手を振った。
「そうよ。どうせ一度きりなんだから。ねえ、彩佳、変に張り切らないでね。地味だから、いつも通りの格好で行きなさい。」
いつも通りの格好。つまり、着るもので恥をかかせるなということだ。服くらい買ったら、と言われたことは9年間で1度もない。
父がもう1枚の紙をこちらへ滑らせてきた。
「こちらから出す釣書だ。それと、お前の仕事のところは空けてある。」
居職の職業の欄だけが白かった。
「なんで空けるの?」
「内職なんて書けるか? 恥ずかしい。」
父はテーブルを指で叩いた。
「先方に聞かれても、細かいことを言うな。白木さんには『細工をしている』と言ってある。聞かれたらそれで通せ。内職とは言うな。」
母が笑った。父は笑わなかった。父は真剣な顔で私にこう言った。
「いいか? 彩佳。向こうと話が続いたら、うちの会社の名前を出せ。『瀬金属工業』だ。2度目だぞ。時さんは商業施設もホテルもやってる。金属の仕事はいくらでもある。取引の話まで持っていければ、それでいい。」
私はその時初めて、父の顔をまともに見た。父はこの縁談で娘をとがせようとは思っていない。私を使って時グループに入り口を作ろうとしている。
「縁談の話じゃないの?」
「同じことだ。」
父は当たり前のように言った。
「家のためだろう。誰のおかげでお前が好き勝手できてると思ってる。」
誰のおかげで。その言葉を私は9年間で何十回聞いただろう。振り込んだ額を口にすれば、この人は多分黙るけれど、言わない。言えば父は金額の話しかしなくなる。そうなったらもう戻れない。
帰りは玄関で靴を履いていると、美ゆが見送りに出てきた。麦茶のコップを持ったままだった。
「ねえ、お姉ちゃんが行くの? 大丈夫?」
「大丈夫って、だって社長だよ。話合わないでしょ。レジ打ちのお姉ちゃんじゃ、どうせ1時間で断られるって。」
美ゆは私の肩を叩いた。悪気のない手つきだった。悪気がないから、立ちが悪い。奥から母の声が飛んできた。
「地味だから、いつも通りの格好で行きなさい。」
帰りの電車で、私は窓に映る自分の顔を見ていた。断ろうと思えば断れる。けれど父はまた白木さんに頭を下げる。母は1ヶ月、泣き言を言い続ける。美ゆは「お姉ちゃんが逃げた」と近所に話す。
なら行けばいい。そして向こうから断ってもらえばいい。社長さんが結婚相手に望まないものを、私は全部持っている。安い服も、古い鞄も、そして肩書きのない仕事も。どうすれば断ってもらえるか。私は電車の中で指を折った。
1つ、服は1000円台のブラウスでいい。2つ、鞄は角のすり切れたものを持っていく。3つ、仕事は父が空けた欄を自分の口で埋める。「スーパーでレジを打っています」。嘘ではない。火曜の夕方、私は本当にそこに立っている。その気になれば、1時間もかからないはずだった。私はそう考えて、気が楽になった。断る言葉は決めてあった。決めていなかったのは、手のことだけだった。
その日の午後、私は工房に戻った。作業台の向こうで、室井さんがルーペを上げた。68歳。私に鍛金を教えてくれた人だ。祖母は名前を「ふみ」と言った。室井さんはその祖母の友人でもある。
「日曜、見合いだって、よく知ってますね。」
「あんたが電話で断り方の練習をしてたからね。」
この仕事に入ったのは、祖母のおかげだ。高校を出てから5年、宝飾のメーカーで仕上げと研磨をしていた。白金を磨き、傷を消す。それだけだった。11年前、勤めて4年目の秋にふみが亡くなった。片身に細い指輪をもらった。内側に祖母の名前が打ってあった。その指輪の輪が歪んでいた。直したくて、小さい町の工房を訪ねた。そこにいたのが室井さんだ。
「内側の名前が薄いね。自分で打ち直してごらん。」
そう言われて、私は初めて鏨と金槌を握った。やめるまでの2年、仕事の後にここへ通った。
右手の親指と人差し指の間に火傷の跡がある。布の研磨用バフを高速で回して磨く機械があって、当てた地金は摩擦で触れないほど熱くなる。それを素手で抑え続けた。14年経っても消えない。中指の側面には硬いタコがある。糸鋸とやすりを握り続けた場所だ。この2つが私の履歴書だ。
「あんたの手はね」
室井さんの口癖だ。
「顔より正直だよ。持ち主が何をしてきたか、全部書いてある。」
必ずこう続く。
「もし顔じゃなくて手を見て決める人がいたら、その人は本物だよ。」
9年前にこの工房を借りて、自分で作ったものに名前をつけた。自分の名前の音をそのまま借りて「アヤカ」。漢字は使わず、カタカナにした。ただの目印のつもりだった。売れ始めたのは6年前。海外で評価されたのが4年前。今では社員が40人いて、前期の売上は14億円になった。もう私1人の手が届く大きさではない。量産と日々の経営は役員に任せている。私が見るのは図面と限定品の仕上げと、新しいお取引先だけだ。
名前は出している。会社の概要に、代表として1つだけ。調べれば誰でも読めるけれど、顔は創業の日から1度も出していない。映像に映るのは手だけだ。取材にも祭祀にも出ない。理由がある。
5年前、私には結婚を考えていた人がいた。その男の人は、私の作ったものを1度も褒めなかった。褒めたのは、会社の売上の話をした時だけだ。別れ際の言葉を今も覚えている。
「彩佳さんじゃなくて、その会社と付き合ってたようなもんだよな。」
向こうもそのつもりだったと後で知った。それから決めた。私を測るのに肩書きを使う人には、肩書きを渡さない。
「顔は隠すのは構わないけどね。手は隠せないよ。」
夕方、事務所の園田さんから電話があった。42歳の弁護士だ。
「彩佳社長、偽物の件です。」
「3年前に100点だけ作ったネックレス『星くず』の件ですね。」
「はい。半年前、ある企業から問い合わせがありました。当社の社長の親族から仕入れていると名乗る売り手がいる。事実かと。」
写名は聞いたが、公表しないで欲しいと言われた。売り手の名前は、先方も知らなかった。
「試しに買いました。5点です。切らずに預かっていますので、出品の写真で見る限りですが、刻印は機械彫りです。打ったものじゃない。」
「はい。打った印なら、地金が逃げて縁が盛り上がります。」
私は親指を見た。
「売っている人は、アカウントに本名がないんです。商品の写真が並んでいるだけで、やり取りも支払いもアプリの中で終わります。中の人にたどり着けません。」
「では、どうやって?」
「運営会社は任意では出してくれませんので、調査会社に『まとめて仕入れたい』と持ちかけさせます。アプリの外へ出れば、振り込み先の名義と発送元が出ます。」
半年前、その紹介を受けた時、私は1度だけ、美ゆが普段出している化粧品の方のアカウントを開いた。社長の身内を名乗っていると聞いたからだ。並んでいたのは化粧品で、売り替えの話も姉の話もなかった。別人だろう。私はそこで打ち切った。その打ち切りが、今になって棘のように引っかかる。
「社長、日曜、お見合いだそうですね。」
「室井さんですね。」
夜になって、母から電話があった。
「あんた、あの内職の匂いをさせていかないでね。それと、美ゆの動画を時さんにお送りしておいたから。」
「なんでそんなことを?」
「妹がいると知ってもらうのはいいでしょう。内職の話はしないで。恥ずかしいから。」
電話は一方的に切れた。そして約束の朝が来た。
出がけに携帯が鳴った。父だった。
「彩佳か。今どこだ?」
「もう出ます。」
「いいか? 忘れるなよ。『瀬金属工業』。2度目だ。」
私は靴を履く手を止めた。
「お見合いなんだけど。」
「だから言ってるんだ。向こうが乗ってきたら、白木さんにつながる。お前は名前を出すだけでいい。」
「私が何を話すかは、私が決めます。」
父の声が跳ね上がった。
「生意気なことを言うな。お前みたいなのを座らせてもらえるだけでありがたいんだぞ。」
電話が切れた。続けて母からの短い文が届いた。「余計なことは喋らないでね。恥をかかせないで」。私は携帯を鞄の底に入れた。
ブラウスは1000円台のものを選んだ。鞄は角のすり切れた古いものだ。靴は1足しかない黒のパンプス。爪は短く切ってある。仕事柄、伸ばせない。車は使わなかった。呼べば15分で来るけれど、その日は電車で行った。小さい町から乗り換えて20分。日曜の午後の車内は、家族連れで混んでいた。
待ち合わせは都心のホテルのラウンジだった。天井が高く、白い花が生けてある。通された席まで歩く間、隣の席の女性が私の鞄を見た。悪気のない目だった。悪気がなくても、視線は伝わる。私はそれで安心した。その日はこれでいい。この鞄で行くと決めたのは私だ。
コーヒーが運ばれてくる。カップの縁の厚みが綺麗だった。指で持たずに、目で厚みを測る癖がついている。
案内された席で待っていると、5分前に相手が来た。
「時優馬です。」
灰色のスーツ。写真通りの人だった。写真より目が優しかった。
「はせ彩佳です。今日はお時間をいただき」
「こちらこそ」
向かいの座った時さんは、名刺を出さなかった。仲介役の白木さんは同席していない。「当人だけで」と先方から言ったそうだ。
初めの10分は、天気とこの店のコーヒーの話をした。それから時さんが、湯飲みの向こうでこう言った。
「お仕事は、何を?」
来たと思った。私は背筋を伸ばしてはっきり答えた。
「スーパーでレジを打っています。」
一瞬間があった。私はその一拍で、その日が終わったと思った。断られる。断られたら、父には「向こうが決めたこと」と言えばいい。母には「格好のせいじゃない」と言えばいい。
ところが時さんは、カップを置いてこう言った。
「立ち仕事は大変でしょう。夕方の時間は特に。」
「え、レジは足が疲れます。」
「うちのホテルにも売店がありますから、聞いています。」
話が終わらない。私は慌てた。
「あの、お給料もそんなに高くないんです。」
「はい。」
「本当に、そんなに」
「それが結婚と何か関係ありますか?」
私は口を開けたまま黙った。関係あると言って欲しかった。関係あると言えば、私は笑って席を立てた。時さんは続けた。
「うちのホテルに30年、お客様の荷物を運んでいる者がいます。給料の額でその人の値打ちが決まるなら、僕はとっくにその人に負けています。」
「そういう話ではなくて」
「同じ話ですよ」
穏やかな声だった。押し付けがましさがない。だから困った。
「お休みの日は、何をされているんですか?」
今度はこちらが詰まる番だった。
「片付けとか」
片付け。本当は日曜は図面を引いている。今もそうだけれど、言えるはずがない。時さんはそれ以上聞かなかった。仕方がないので、もう1段深く掘った。
「実家にも毎月お金を入れているので、貯金もほとんどなくて、毎月」
「はい」
「9年になります」
時さんはカップに伸ばしかけた手を止めた。そして姿勢を戻した。
「親御さんを支えていらっしゃるんですね。」
「支えているというか」
「レジのお仕事だけで、毎月ですか?」
「掛け持ちをしていますので」
「9年は長い。続けられるものじゃありません」
そこで初めて、私は言葉に詰まった。9年間、誰にも言われたことのない一言だった。父は「当然だ」と言った。母は「足りない」と言った。妹は知らないふりをした。「続けられるものじゃない」と言った人はいなかった。
時さんは声が少しかれた。私は咳払いをして続けた。
「今日、断るつもりで来られたんじゃないんですか?」
「なぜ?」
「私みたいなものと釣り合わないでしょう?」
時葉さんが顔を上げた。それからまっすぐこちらを見た。
「白木さんからは、工房で細工をされている方だと伺っていました。」
私は答えなかった。答えれば嘘になるし、正直に言えば全部が終わる。
「でも、そのお話は出ませんね。」
「父が勝手に言ったんだと思います。」
「そうですか。」
時さんはそこを追わなかった。追わないことが、なぜか苦しかった。
話題が変わった。祖母の話になった。私が片身の指輪を今も持っていることを言うと、時さんは自分の母の話をした。3年前に亡くなったこと。母親が使っていた小さなブローチを、今も社長室の引き出しに入れていること。
「安いものらしいんです。止め金が硬くて、僕の母はいつも爪で押していました。爪で押すと、そこだけ白金が光ります。」
行ってしまってから、口を押さえたくなった。時さんは目を上げた。
「詳しいですね。」
「テレビで見たので」
苦しい言い訳だったけれど、その人は笑って頷いただけだった。
「金は残るんです。人がいなくなっても、残ります。」
私はそう答えた。仕事の話をしていないのに、仕事の話をしている気分になった。父に言われたことを、私は1度も口に出さなかった。「瀬金属工業」という名前も、取引の話も出さなかった。出さなかったことに、自分で驚いていた。この席を早く終わらせたかったはずなのに、私はこの人の前で家の道具になりたくなかった。
気づけば3時間近くが経っていた。その気になれば1時間もかからないはずだったと、朝の私は思っていた。
1つだけ気がかりがあった。この人の会社は、うちにとって一番大きな取引先だ。もし正体が知れたら、この席は縁談ではなく商売の話になる。それが一番嫌だった。
喉が乾いた。私は水のグラスに手を伸ばした。その時だった。時さんの視線が、私の右手で止まった。話が途切れた。ラウンジの音だけが遠くなった。
「失礼」
声が変わっていた。
「その手、どこかで見たことがある気がして」
私はグラスを持ったまま動けなかった。親指と人差し指の先の火傷。中指の側面のタコ。爪は短い。指の腹は硬い。隠しようがない。この手だけは、9年ずっと表に出してきた。
時さんの喉が上下した。
「まさか」
私はグラスを置いた。氷が鳴った。それからその人は、テーブルに手をついて、頭を下げるようにしていった。
「僕と結婚してください。」
私は水を飲むのを忘れた。
「今、何かに気づきましたよね。」
「気づきました。」
その人は顔を上げた。
「でも、それは半分です。残りの半分はこの3時間です。」
店の音が戻ってきた。断られるために来た席で、私は一番遠い言葉を受け取っていた。
その場で返事はしなかった。
「今日初めてお会いしたんですけど」
「はい」
「その順番というものがあります」
時さんは真面目な顔で頷いた。それがおかしくて、私は少し笑ってしまった。
「では、返事は後日ということで」
「はい。お待ちします」
別れ際、その人はもう1度だけ私の右手を見た。見て、何も言わなかった。
私は電車で小さい町へ戻り、工房に寄って、それから川口へ向かった。報告に行かなければ。父が何度も電話をかけてくる。実家の居間には、3人が揃っていた。テレビはついていた。
「どうだった?」
母が身を乗り出した。父は新聞をめくったままだ。美ゆは爪を見ていた。
「やっぱり断られたんでしょ」と母が言った。
「1時間で帰ってきた」と美ゆが笑う。
「3時間かかりました」
私は鞄を置いて、正直に言った。
「結婚してくださいって言われた。」
テレビの音だけが残った。3人が同時にこちらを向いた。父の新聞が降りた。母の湯飲みが止まった。美ゆの指が止まった。1秒、2秒。それから美ゆが吹き出した。
「嘘でしょ。」
居間が笑いで埋まった。母が手を叩き、父まで喉を鳴らして笑った。母が目尻を拭いながら言った。
「あんた、面白いこと言うようになったね。絶対嘘。ない、ない。社長がレジ打ち選ぶわけないじゃん。」
「彩佳をからかうのはいいのよ。悔しいのは分かるけど、そういうのは女として一番みっともないから。」
美ゆが携帯を出して、写真を探し始めた。
「え、その人の写真もう1回見せて。お母さんどこやったっけ?」
「そこの引き出し。」
写真を出してきた美ゆは、それを目の高さに持ち上げて、大げさに首をかしげた。
「うーん、やっぱり真面目そう。この人、笑わないでしょ。」
「3時間話したけど」
「3時間、何話すの? この人と。」
「祖母の話とか。」
美ゆが吹き出した。
「おばあちゃんの話? しかも見合いで。」
母まで肩を揺らした。
「彩佳、あんたそんな話ばかりしたの? そりゃ相手も困るわ。」
「困ってなかったけど。気を使ってくれたのよ。」
「優しい方なのね。」
父が新聞を畳んだ。笑いを納めた顔は、笑っていた顔より冷たかった。
「彩佳、相手に失礼なことだけはするなよ。」
「していません。」
「じゃあ、なんでそんな作り話をする?」
私は説明しなかった。説明しても、この人たちは同じことを言う。9年で覚えた。
「疲れたので、帰ります。」
「ちょっとご飯ぐらい食べていきなさいよ。作ったんだから。」
台所には皿が出ていた。3人分だった。
翌日の午後、工房に花が届いた。白と淡い緑の花束で、抱えるほど大きかった。室井さんが受け取って、目を丸くしていた。
「彩佳ちゃん、これ、実家の方にも同じものが言ってるよ。」
「なんでそんなこと分かるんですか?」
「配達の人が言ってたのさ。2件だってね。」
カードが挟んであった。「交際を前提にお付き合いさせていただきたい」という一文と日付。差し出し人の欄に、印刷ではない時々でこう書いてあった。「時グループ代表取締役 時優馬」。
その日の夕方、実家から電話が鳴った。母だった。声が裏返っていた。
「彩佳、あんた、本当だったの?」
「本当です。」
「なんで昨日言わないの?」
「言いました。」
電話の向こうで母が誰かに何か言っている。父の声も混ざる。すぐに声が変わった。美ゆだった。声の作り方が前の日と違った。甘く、軽く、機嫌を取る声だった。
「お姉ちゃん、あのさ、時さんってどんな人?」
「優しい人だよ。」
「普通の人だけど」
「ふーん。写真だと硬く見えたけど、実際は違うんだ。」
私は黙っていた。美ゆが続けた。
「あのさ、やっぱり私も一度会ってみたいな。」
「なんで?」
「なんでって、家族になるかもしれない人でしょ。妹が挨拶するの、普通じゃない?」
母が横から受話器を奪った。
「彩佳、聞いた? 美ゆもそう言ってるのよ。ねえ、一度みんなで食事しましょう。」
「これからお付き合いをするかどうかで、まだ交際もしていません。」
「だからよ、早い方がいいの。」
母の声が1段低くなった。
「あのね、言いにくいんだけどね。美ゆの方がお似合いじゃない?」
私は携帯を持ち直した。
「今、なんて?」
「だって、あの子、華があるでしょ。社長さんの隣に立つなら、そういう子の方が向いてるのよ。あんたは昔から地味だし、話も面白くないし。」
「その人が私に行ったんです。」
「言われたって、あんた続かないわよ。3ヶ月もしたら飽きられるわ。その時にね、美ゆが控えてたら、家として繋がりが残るじゃない。」
繋がり。その言葉が、父の言った「2度目」と重なった。
最後に父が出た。
「彩佳、食事会をやる。日曜だ。場所はこっちで決める。時さんに伝えろ。」
「私の予定は?」
「お前の予定なんか、どうでもいい。」
電話が切れた。私は工房の椅子に座って、花を見ていた。白と緑、棘のない花ばかりを選んである。「手を怪我しないように」という意味だと後で知った。
その日から食事会までの6日間で、家の中の空気は変わった。母から毎日電話が来た。9年で数えるほどしかなかった電話が、6日で8回なった。
「時さんの好きな食べ物は聞いた?」
「まだです。」
「お酒は飲まれるの?」
「うちのお父さんが用意するって。」
「一応の店ってどこですか?」
「お父さんが決めるって言うから、任せたの。あまり安いところだと恥ずかしいでしょ。」
3日目には、母は近所に話し始めていた。「門田の家の奥さんから、彩佳ちゃん、いいご縁だってね」という手紙が工房まで届いた時は、さすがに笑ってしまった。美ゆは新しい服を買っていた。母が買った2着だった。
私が急に大事にされ始めたのではない。私の隣にあるものが、急に値打ちを持ち始めただけだった。6日後の食事会で、その物差しがどこまで通用するかが分かる。
食事会の2日前、父から呼び出しがあった。実家ではなく、会社の方へ来いと言われた。「瀬金属工業」の事務所は、川口の工場の2階にある。階段を上がると、油と鉄粉の匂いがした。子供の頃から知っている匂いだ。1階では50代の職人さんが2人、板を曲げていた。挨拶をすると、片方が手を止めて頭を下げてくれた。
「お嬢さん、久しぶりだね。」
「ご無沙汰しています。」
「うちの社長、お父さん、最近機嫌がいいんだよ。何かあった?」
私は曖昧に笑って、階段を上がった。父はこの12人を食べさせている。それは本当だ。だからこそ、この人が焦っているのも本当なのだと、その時思った。
父は事務所のソファーに座って、私を向かいに座らせた。母もいた。母が会社に来るのは珍しい。テーブルの上に薄い書類が置かれていた。「参考見積もり」と会社の案内だ。
父は指で押して押し出した。
「時グループの商業施設の分だ。手すりと建具の金物、うちでできる。これをどうしろと?」
「日曜に、時さんに渡せ。」
私は中を開いた。手すりの参考単価、建具の金物、設備の一覧。どれも真面目に作ってある。悪い書類ではない。悪いのは、これを娘の見合いの席に持ち込もうとしていることだ。
「お父さんの工場、宝飾の仕事もやりたいって言ってたよね。」
「何の話だ?」
「去年、どこかに売り込んだでしょう? 断られたって、お母さんが言ってた。」
「担当が6に目もくれん会社だ。名前も忘れた。」
その時、私は何も言わなかった。私は書類を見た。表紙に「瀬金属工業」の判が押してある。日付は先週になっていた。
「食事の席で渡すものじゃないでしょう。」
「食事の席だから渡すんだ。」
父は前のめりになった。
「会社に持って行っても、担当止まりで終わる。社長に直接渡せば違う。」
母が横から言った。
「彩佳、あんたがこの家の役に立てる、初めての機会でしょう。」
初めて。9年で1080万円、2年前に200万円。それは「役に立った」うちに入らないらしい。
その時、階段を上がってくる足音がした。白木さんだった。
「おお、正さん、書類はできたかい?」
父が立ち上がって、いつもの世辞の声を出した。
「白木さん、すみませんね。わざわざ。」
白木さんは私を見て、人の良さそうな顔で笑った。
「いや、うまくいってよかった。あんな話でも、やってみるもんだね。」
「白木さん」
父が遮ろうとしたが、遅かった。白木さんは続けた。
「お父さんに3月から頼まれてね。時さんとこの役員に話を通すのに、こっちも骨が折れたよ。『断られたら断られたで、次の手を考えよう』って言ってたんだ。」
「3月から?」
私は聞き返した。
「そう、随分前からね。」
父の顔が固まった。母が茶を出して、会話を止めた。3月。妹が写真を見て「つまんなそう」と放り出したのは6月だ。父はこの縁談を、3ヶ月かけて作らせていた。つまり、初めから断られる前提ではなかった。誰が座るかも決まっていなかった。座るのが美ゆでも私でも、父にとってはどちらでも良かったのだ。先に妹に持っていって、妹が蹴った。だから私に回ってきた。
「お父さん、何だ、この話? 最初から取引のためだったんですね。」
父は目をそらせなかった。そらさずに、こう言った。
「両方だ。娘の縁と会社の縁、どっちも家の得だろう。」
白木さんが咳払いをして、お茶を飲んだ。この人は悪気なく喋っただけだ。悪気なく喋られるということは、父の中で、それは隠すことでもなかったということだ。
帰り際、玄関で靴を履いていると、母がついてきた。
「彩佳、日曜、美ゆにも新しい服を買ったのよ。」
「そう。」
「あの子ね、時さんに会うって決まってから、毎日エステに行ってるの。かわいそうに、緊張してるのよ。」
「エステ代は、あの子が自分で出してるんですか?」
「出してるに決まってるでしょ。何を言ってるの?」
「美ゆの機材の時は、母さんが私に電話しましたよね。」
「あれは投資でしょ。美ゆはこれから伸びる子なんだから。あんたはもう32でしょ。伸びないんだから、その分を回すのは当たり前じゃない。」
玄関の戸を閉めてから、私はしばらく動けなかった。美ゆからは1円も取らない。私からだけ取る。理由がやっと分かった。理由はなかった。
電車の中で、私は白木さんの言葉をもう1度なぞった。3月から。3月の私は何をしていただろう。展示会の図面を引いていた。父の会社の話など、頭の隅にもなかった。その頃、すでに父は私を数に入れていた。妹がいらないと言えば、私が出る。そういう順番の中に、私は入れられていた。
腹が立つより先に、日が暮れた。この9年、私はこの家に何を渡してきたのだろう。金だけではなかった。決めていい権利まで渡していたのだと思う。
その夜、工房に戻って、私は棚の下から古い箱を出した。振り込みの控えが束になって入っている。9年分、108枚。輪ゴムで12枚ずつまとめてある。一番古いものはインクが薄くなっていた。その横に、革の手帳がある。母から何を頼まれ、いついくら出したのか。日付と金額だけを書いてきた。工房を始めた日からの癖だ。数字を覚えるのが苦手だから、紙に残す。ただそれだけのつもりだった。
束をめくると、9年が指の下を流れていった。最初の年、私の月の売上は15万円もなかった。それでも10万円を送った。残りで家賃を払い、白金を買った。米を切らした月もある。4年目に、初めて仕送りより工房の利益が多くなった。その時、母に電話をして、「今月から少し増やそうか」と言った。母は「そうしてくれる?」と即答した。増やさなかったのは私の方だ。増やせば、金額でしか見てもらえなくなる気がした。今なら分かる。増やしても増やさなくても、同じだったけれど。
その夜、私は控えの束とその革の手帳を鞄に入れた。それから財布を開けて、名刺入れから1枚だけ抜き、入れ物の奥に差した。「彩佳ジュエリー株式会社 代表取締役 瀬彩佳」。使うつもりはなかった。ただ、もし次に「嘘つき」と呼ばれたら、その時は出そうと決めた。
食事会は2日後の日曜だった。その日は朝から晴れていた。出かける前に、園田さんから連絡が入った。
「社長、今日の夕方には振り込み先の名義が出ます。」
「わかりました。出たらすぐお伝えします。」
「それまでは、どこにも何も言いません。」
名前が出るまでは動かない。それは私が決めたことだった。半年待ったのだから、あと半日待てる。
父が決めた店は、都内の日本料理屋だった。白木さんは「当人と家族だけで」という先方の意向で、今回も呼んでいない。個室に通されると、父は障子や柱の間を見回していた。値段を気にしている顔だった。
「時さんはまだか?」
「もうすぐです。駅を出たと連絡がありました。」
「彩佳、お前は端に座れ。」
私は言われた通り、入口に近い席に座った。奥を背にした上座には時さん、その片側に父、父の隣が母。
4分前に時さんが来た。
「本日はお招きいただいて」
父が立ち上がって、腰から折れそうな角度で頭を下げた。母も釣られて下げた。
そこに美ゆが入ってきた。遅れてきたのは、多分わざとだ。真っ赤なワンピースで、髪は巻いてあった。香水が個室の空気を塗り替えた。
「初めまして。妹の美ゆです。28です。」
そして、当たり前のように時さんの隣に座った。私の席からは一番遠い場所だった。
「美ゆ、そこは」
「いいじゃん。お姉ちゃんは毎日会えるんでしょ。」
母が笑った。
「まあまあ、下の子も挨拶したいというものですから。」
料理が運ばれてきた。父は酒を頼み、時さんに注ごうとして断られ、それでも2度進めた。先付けの小鉢が出た。父は一口で食べて、値段の話をした。
「こういうところは、量が少ないんですよ。まあ、雰囲気ですな。」
「お父さん、何言ってるの」
母が父の袖を引き、時さんに笑いかけた。
「主人は昔からこういう場所に慣れていなくて」
慣れていないのは、この店を選んだのが父だからだ。
美ゆは最初の10分で、何度も自分の仕事の話に戻した。
「私、美容のお仕事をしていて、動画で化粧品を紹介するんです。お母様が送ってくださいました。」
「え、見てくださったんですか?」
「やだ、恥ずかしい。」
「よく撮れていました。手元の映りが多いですね。」
「そうなんです。指先って大事だから」
美ゆが自分の手をヒラヒラさせた。爪は綺麗に塗ってある。柔らかい手だ。指の腹に、何かを握った跡はない。
「今、企業さんのお仕事も頂いてて、4社目の会社だけ」
「4社目?」
美ゆは一瞬止まった。
「やたら細かいことを聞いてきて、姉との関係を証明して欲しいとか言い出したから、面倒になって止まってるんです。」
「止まった。担当さんが変わったんだと思います。よくあることなので。」
美ゆは笑って、酒を進めた。私は箸を置いた。半年前に紹介をよした企業のことが、頭の隅で光ったけれど、名前が出るまでは動かないと決めている。
父が話を戻した。
「時さん、うちの会社の話なんですが」
「お父さん」
私が言うと、父は聞こえないふりをした。
「金属の加工をやっておりまして、手すりや建具で、いくらでも」
「今日は、そのお話は伺わないことにしています。」
時さんは静かにそう言った。角のない断り方だった。父の顔が赤くなり、視線で逃げ場を探した。
そこから美ゆが場を取り戻した。
「時さん、社長夫人って、やっぱりお付き合いとか大変ですか?」
「うちはそういうものは、あまり」
「でも、パーティーとかあるでしょう。私、そういうの慣れてるんです。」
「そうですか。」
「姉より社交的だから、多分社長夫人向きですよ。」
母が声を上げて笑った。
「まあ、この子ったら」
美ゆは口を尖らせて、それからこちらを指さした。
「時さん、知ってます? 姉なんて、毎日スーパーのレジですよ。」
毎日ではない。週に1度だけれど、訂正はしなかった。
「レジ打ちですよ。レジ打ち。ピッピって。」
美ゆが指で何かを通す真似をした。母がまた笑った。父が酒を置いていった。
「長女は昔から要領が悪くてね。何をやらせても続かん。」
「9年続けてます。」
「そんなもの、続けたうちに入るか。」
母がすかさず言葉を足した。
「本当に地味な子で、友達も少ないし、着るものも興味ないし。時さんも、どこが良かったんだか。」
そこで初めて時さんが顔を上げた。
「どこが良かったか、ですか?」
「ええ、参考までに。」
「まだ全部は分かりません。」
「はあ」
「分かる前に、決めてしまったので」
母は意味が取れなかったらしく、曖昧に笑った。それから時さんは、私の家族に質問を始めた。
「お父さんの会社は、従業員が何人ですか?」
「12人です。まあ、小さいですが。」
「何年になりますか?」
「私の代で26年。親父の代からだと50年ですな。」
「50年は、簡単じゃない。」
父が背筋を伸ばした。褒められ慣れていない人の座り方だった。
「お母さんは、日中は何を?」
「私は家のことばかりで。あとは美ゆの相談に乗ったり。」
「姉さんの相談は?」
「あの子は何も言わない子ですから。」
母は笑って答えた。答えたつもりでいた。
「美ゆさんは、お仕事はどなたと組んでいるんですか?」
「え、組むって、事務所とか代理店とか?」
「1人でやってます。全部自分で交渉するんですよ。すごいでしょ?」
「そうですか。」
どれも柔らかい聞き方だったけれど、答えが変わるたびに小さく頷いて、次を聞いた。まるで、部屋の中の柱を1本ずつ叩いて回っているようだった。
私は黙って座っていた。言い返さないのは、我慢しているからではない。その日の夕方までは、誰にも何も言わないと決めているからだ。半年前から園田さんが追っている売り手の名前が、その日出る。もし出た名前が知らない人なら、私はその日のことを黙って飲み込んで帰る。出た名前が知っている人だったら、その時は飲み込まない。それに、この人たちが自分の口で何を言うかは、私が言うより正確だった。
父の酒が進んだ。母は同じ話を2度した。美ゆは箸をほとんどつけずに、喋り続けた。私は椀の蓋を取り、お吸い物を一口飲んだ。出汁がよく引いてあった。この店を選んだ父は、多分この味を覚えていない。
デザートの前に、美ゆが身を乗り出した。
「そうだ。時さん、これ、見てください」
美ゆが首元に手をかけた。止め金を外して、ネックレスを両手で持ち上げた。18金の細い鎖に、小さな粒が7つ。粒の大きさをわざと揃えず、光の散り方で夜空に見せる。私が3年前に作ったものだ。「星くず」という名前をつけた。
「これ、『アヤカ』ってブランドの限定品なんです。『星くず』って言うんですよ。」
美ゆは鎖を指に引っ掛けて、電灯の下で回した。粒が揺れて、天井に小さな光が散った。
「直営だけで100点しか出てないんです。今はもう買えません。」
「そうですか。」
「定価で48万円ですよ。今、中古でも出てこないんです。」
「よく手に入りましたね。」
美ゆの目が一瞬泳いだ。
「まあ、ルートがあって」
「ルート?」
「そういうの、詳しい人がいるんです。私、顔が広いので。お店ではなく、ええ、まあ、個人の方から。」
母が得意気に口を挟んだ。
「この子ね、そういうのを見つけるのが上手なんですよ。安く買えるルートを持ってるって、いつも自慢してるんです。」
「お母さん、それ、言わないでよ」
美ゆは母の肩を軽く叩いて笑った。困った顔ではなかった。褒められて照れている顔だった。
3年前、私はこの粒の作り方を決めた。白金を切り分けて、炭の上で溶かすと、表面張力で丸くなる。切る量を7段階に変えて、大きさをわざと散らした。揃えると、夜空に見えないからだ。粒を作るのは工房の職人で、100点分で700粒になった。私が1点ずつ見るのは、最後の仕上げと、金具につけた小さなプレートの裏に打つ刻印だけだ。組む前に、プレートだけを鉄の台に伏せて打つ。製造印と工房の印と、通し番号。100点で300回。どの番号がどこへ行ったかは、台帳に残してある。私は数字を覚えられないから、全部紙に書く。
「時さん、『アヤカ』っていうブランド、ご存知ですか?」
「知っています。」
「やっぱり、分かる人には分かるんですよね。」
美ゆは嬉しそうに身を乗り出した。
「あのブランド、社長が女の人なんですけど、絶対に顔を出さないんです。映るのは手だけ。それがまたいいんですよ。」
「お好きなんですか?」
「当然ですよ。世界的なブランドですよ。」
母が横から手を伸ばした。
「見せて。ああ、細かいのね。よくこんなもの作るわ。」
「お母さん、触らないで。傷つくから。」
ネックレスは母から父へ回った。父は一目見ただけで、興味なさそうに指で挟んだ。
「金細工にしては細いな。うちじゃ使えん。」
そして最後に、私の前へ来た。テーブルの上を滑ってきた鎖を、私は指先で受けた。
美ゆが身を乗り出した。
「あ、お姉ちゃんも見たい?」
「見るだけならただだもんね。お姉ちゃんには一生買えないけど。」
母がまた笑った。
「美ゆ、そういう言い方はおしなさい。でもね、彩佳に何十万も出せるわけないものね。」
私は鎖を持ち上げた。粒の並びは合っている。金具の形も、鎖の編み方も、うちのものだ。指を滑らせて、止め金を裏に返した。プレートの裏に、小さな刻印がある。製造印と工房の印と、通し番号。うちの限定品は、私が1つずつ打つ。
爪を立てた瞬間、違和感が来た。引っかからない。打った印は、地金が逃げて縁がわずかに盛り上がる。叩けば必ずそうなる。削って彫った印は、盛り上がらない。
番号は明かりにかざして目を細めれば読めたけれど、その番号には見覚えがあった。台帳を引くまでもない。数字は苦手でも、自分の手で直した品の番号だけは忘れない。そして、その番号を持っている千葉のお客様は、今もこれを手放していない。前の年の秋、鎖の直しで預かったばかりだ。つまり、同じ番号が2つある。
私は指の腹をもう一度当てた。見間違いであって欲しかったけれど、爪は正直だった。どこをなぞっても、縁が起きていない。削り取った跡だ。
顔を上げると、時さんがこちらを見ていた。私が止め金を裏返したところから、ずっと見ていたのだと思う。私は鎖を見つめたまま、息を整えた。言うのは簡単だった。今ここで「これは違う」と言えばいい。けれど、この子はその晩のうちに出品を消す。買った人たちとのやり取りの記録も、まとめて消してしまう。それに、今の私には「偽物だ」と言い切る根拠がない。あるのは、刻印の癖だけだ。決めつけて動けば、こちらが間違える。名前が出るまでは黙る。それだけを守ればいい。
私は鎖を畳んで、テーブルの中ほどへ戻した。
「綺麗だね。」
美ゆは得意げに顎を上げた。その時だった。時さんが湯飲みを置いて、こう言った。
「買う必要は、ないでしょうね。」
場の空気が、半拍遅れて止まった。美ゆが笑顔のまま聞き返した。
「え?」
「彩佳さんは、それを買う必要がありません。」
「どういう意味ですか? 買えないってこと?」
「逆です。」
時さんは初めて、美ゆの方へ体を向けた。
「その『星くず』を作った本人ですから。」
個室が静かになった。父の箸が止まった。母の口が半分開いた。美ゆは意味を取り損ねた顔で、時さんを見ていた。
「え、あの、何の話ですか?」
「そのままの話です。」
「作った誰が?」
「彩佳さんが。」
美ゆはテーブルの上のネックレスと、私の顔を何度か見比べた。それから笑った。
「やだ、時さん、冗談きついですよ。」
「冗談ではありません。」
「だって、これ、あの『アヤカ』ってブランドの品ですよ。うちの姉ですよ」
美ゆはネックレスを引き寄せて、胸に押し当てた。
「うちの姉、レジですよ。ピッてやってる人ですよ。作れるわけないじゃないですか。」
「作れます。」
時さんは短く答えた。
「なんでそんなこと言い切れるんですか? 会ったばっかりですよね。」
「手を見ました。」
美ゆが眉を寄せた。意味が分からないという顔だった。妹はまだ、「姉が作った」という話と、自分が売っているものを結びつけていなかった。
父が咳き込んだ。母が父の背中をさすりながら、こちらを見た。私は膝の上で手を組んだまま、何も言わなかった。言葉が出なかったのではない。今、私が言うことは何もなかった。言うべきことを思っているのは、私ではなく、この人たちだ。そしてこの数分後、私の家族は自分たちの口で全部を言うことになる。
最初に立ち直ったのは父だった。父は箸を置いて、時さんに向かって深く頭を下げた。
「時さん、娘がとんでもないことを吹き込んだようで」
「吹き込まれてはいません。」
「いや、うちの長女は昔から見栄っ張りで」
「お父さん、黙ってろ」
父は私を見もせずに言った。それから時さんに向き直って、もみ手のような格好をした。
「もう仕方ない。この場でお詫びします。彩佳、お前も謝れ。」
「何をですか?」
「嘘をついたことをだ。」
私は膝の上の手を見た。爪が短い。指の腹が硬い。この手で9年やってきた。
「嘘はついていません。」
母がテーブルを平手で叩いた。小さな音だったが、皿が鳴った。
「彩佳、いい加減にしなさい。」
「母さん、あんた昔からそうよ。目立ちたがりで、話を大きくして。中学の時も作文で嘘書いたじゃない。」
「あれは創作の宿題でした。」
「口答えするところが、可愛くないのよ。」
「私、口答えしましたか?」
「ほら、それが口答えでしょ。」
母は自分の言い分に納得して、湯飲みを持ち直した。この人の中では、話はもう終わっている。
美ゆが笑い出した。笑いながら、目だけが笑っていなかった。
「ちょっと待って。ちょっと待ってよ。じゃあ、何? お姉ちゃんがあのブランドの社長だって言いたいわけ?」
「私は何も言ってません。」
「言ってるじゃん。時さんがねえ。時さん、姉に何か言われました? どうせ話を合わせてくれてるんですよね。」
「僕は合わせません。」
「みっともない。嘘つかないでよ」
美ゆの声が個室に響いた。
「レジ打ちが世界的デザイナー? 笑わせないで。じゃあ聞くけど、証拠は?」
「証拠」
半年前から園田さんが集めているものを、私はそう呼んでいる。その場に持ってきていたのは、9年分の振り込みの控えと、入れ物の奥の名刺1枚だけだ。
「証拠を出せって言ってるの。」
美ゆはネックレスを握りしめて、こちらへ突き出した。
「これ作ったって言うなら、今ここで同じもの作って見せてよ。できないでしょ。当たり前だよね。嘘なんだから。」
私は答えなかった。今この場で「同じものを作れ」と言われて作れる人間は、この世にいない。鎖を編み、粒を7つ溶かして揃え、止め金をつけて仕上げるまで、工房で4日かかる。それを言っても、この子には通じない。
「ほら、黙った」
美ゆが勝ち誇った顔で母を見た。
「お母さん、聞いた? 黙っちゃった。」
「彩佳、あんた、恥ずかしくないの?」
母がため息をついた。
「もういいから、時さんに謝って、この話は終わりにしましょうね。悪気があったんじゃないのは分かってるから。」
父が畳みかけた。
「時さん、こんな娘ですが、悪い子じゃないんです。ただ、その頭の中で作る癖があって、妄想癖ってやつですよ。」
美ゆが言い添えた。
「昔から友達もいないから、そういうことでもしないと」
母が「まあまあ」と手を振った。止めているようで、止めていない手付きだった。
「でもね、的外れでもないのよ。この子、小さい頃から1人で何か作ってばかりで」
「作ってばかり」
時さんが繰り返した。
「ええ、友達と遊べばいいのにね。」
そこで時さんが顔を上げた。目は母ではなく、美ゆに向いていた。穏やかな人だと思っていた。実際、その日ずっと穏やかだったけれど、その時だけ声の温度が変わった。
「先ほど、何とおっしゃいましたか?」
「え?」
「『妄想癖』と、ああ」
「いや、例えばの話で」
「例えば」って、人にその言葉を使いますか?
美ゆが口を閉じた。父が慌てて割って入った。
「時さん、身内の冗談ですから、どうか」
「冗談ですか?」
「そうです。冗談です。」
「では、彩佳さんも笑っているはずですね。」
個室が静まった。誰も私の顔を見なかった。見れば、笑っていないことが分かるからだ。
その時、鞄の中で携帯が震えた。
「失礼します。」
私は席を立って、廊下へ出た。店の廊下は暗く、床が磨かれていた。障子の向こうで、父の弁解する声が続いている。画面には園田さんの名前が出ていた。
「社長、出ました。」
「はい。」
「アプリの外で買った1点です。指定された振り込み先の名義と、荷物の発送元を確認しました。」
園田さんはいつもと同じ調子で読み上げた。
「美ゆさん。ご住所は、埼玉県川口市」
その後ろに続いた番地は、私が生まれてから18年住んだ場所だった。郵便受けの位置まで浮かんだ。錆の浮いた蓋を、私は毎朝開けていた。
私は障子の柱に手をついた。驚きはなかった。半年前、私はそのアカウントを自分の指で開いて、そして閉じている。あの時閉じた画面の中にいた人が、今そこにいる。分かっていた。分かっていたことが、形になっただけだ。
「社長、聞こえていますか?」
「聞こえています。」
「これから先は、こちらで手順を踏みます。まず書面を出して、事実だけを確認します。断定はしません。」
「今、私は家族と食事をしています。」
電話の向こうで、その園田さんが黙った。
「妹がいます。その首に、うちの限定品と同じ形のものが下がっています。止め金の刻印は、打ったものではありません。」
「今から伺います。」
「お願いします。」
「社長、1つだけ」
園田さんの声が少し低くなった。
「その場では、ご自分の言葉で相手を決めつけないでください。順番を守れば、この件は必ず片がつきます。順番を飛ばすと、こちらが不利になります。」
「わかりました。」
電話を切って、私はしばらく壁を見ていた。半年前、私はどうして打ち切ったのだろう。化粧品ばかりが並んだ画面を見て、「違う」と決めた。決めたかったのだと思う。妹だと思った瞬間から、先に進むのが怖かった。進めば、この家に残っている最後の1枚が剥がれる。私はそれを剥がしたくなかった。自分の弱さの分だけ、半年が伸びた。その半年で、買った人が増えた。そこは私の落ち度だ。
私は障子の前に立った。中ではまだ、私の話が続いていた。「本当に困った子で」という母の声。「まあ、悪い子じゃないんです」という父の声。「昔から、ああなんですよ」という妹の声。
私は戸を開けた。奥に差してある1枚を、指で引き抜く。使うつもりはなかったけれど、2日前に決めていた。「次に嘘つきと言われたら、その時は出す」と。
戸を開けると、3人が一斉にこちらを見た。私は席に戻らず、テーブルの端に立ったまま、その1枚を父の前に置いた。白い紙が1枚。それだけだった。
父は最初、名刺だと分からなかったらしい。老眼鏡を探して、胸を叩き、それから顔を近づけた。
「彩佳ジュエリー株式会社 代表取締役 瀬彩佳」
父の口が動いた。声が出るまで、時間がかかった。
「はぁ?」
母が横から覗き込んだ。読んで、もう1度読んで、それから顔を上げた。
「社長、誰が?」
「私です。」
「あんたが?」
「はい。」
母は父の手ごと名刺を傾けさせて、裏を覗き込んだ。裏には何も書いていない。母はそこに、何かもっと分かりやすいものが書いてあることを期待したようだった。金額とか、そういうものを。
父は携帯を取り出した。震える指で、会社の名前を打ち込んでいる。画面が光って、父の顔が固まった。母が携帯を奪い取って、目を細めた。
「代表取締役は瀬彩佳。従業員40人。写真は、写真がないわ」
「顔は出していません。」
「なんで?」
「出したくないからです。」
美ゆは動かなかった。胸に押し当てていたネックレスは、気がつかないうちに、美ゆの膝の前まで降りていた。そのまま名刺を見ている。唇が薄く開いて、そこから声が漏れた。
「嘘?」
「本物です。」
「だって」
美ゆの声が裏返った。
「だって、どうせ同姓同名だって。」
「誰が?」
「私が2年前にネットで見て、お姉ちゃんと同じ名前の人がいるって笑ったじゃん。」
「笑ってたね。」
「じゃあ、あれ」
美ゆはそこで言葉を切った。切ってから、自分で自分の口を抑えた。その仕草を、私はよく覚えておくことにした。
そこで時さんが口を挟んだ。
「うちのホテルで、大切なお客様にお渡しする品は、全部こちらの会社のものです。」
父が跳ねるように顔を上げた。
「いくらだ?」
「うちの側の数字なら、私が言えます。」
私は答えた。
「年間で8000万円ほどです。去年からお願いしています。決めたのは僕です。」
「8000万の仕事を、うちの娘に品を見て決めました。うちのお客様は目が肥えています。名前で選ぶと、必ず見抜かれます。」
「時さん、それは、そのうちの娘の会社とは」
「うちのギフトは、こちらの品です。」
父は口の中で何か言った。言葉になっていなかった。時さんが続けた。
「契約書に判を押したのは、執行役員の方でした。ですから、代表者のお名前は、会社の案内のたった1行、それしか見ていません。」
時さんはこちらを見た。
「『綾瀬彩佳』と同じ名前だと思っていました。」
「かと、時さん、なぜ確かめなかったんですか?」
「調べないことにしているんです。」
その人は少しだけ苦い顔をした。
「肩書きを先に見ると、人を測ってしまう。だから、会う前に相手のことは調べません。今日も、白木さんから伺った以上のことは知らずに来ました。」
「工房の話ですね。」
「はい。ですが、あなたは工房の話を一言もしなかった。だから、聞き違いだと思いました。」
「私が黙っていたからです。」
「そうですね。」
時さんは頷いた。
「だから、手を見るまで気づきませんでした。」
父はまだ名刺を見ていた。指が震えていた。私は父の向かいに座り直して、静かに聞いた。
「お父さん、1つ伺っていいですか?」
「何だ?」
「去年の秋、うちの工場が宝飾の会社に売り込みをかけましたよね。『手すりの仕事だけじゃ苦しいから』って。」
「ああ、断られたって、お母さんから聞きました。」
「相手の会社の名前を覚えていますか?」
父の目が泳いだ。
「担当が1度も会ってくれんで、断ってきたんだ。名前なんぞ」
「『彩佳ジュエリー株式会社』です。」
私は父を見た。
「2年前、私と同じ名前の社長がいるって、みんなで笑いましたよね。お父さんは売り込んだ会社の代表者の名前すら見ていなかったんですね。」
父の指から名刺が落ちた。
「あの見積もり書は、担当のところで止まっていません。うちは小さい会社なので、新規の取引は私が全部見ます。あの時は社名が『瀬金属工業』だったので、なおさら自分で見ました。」
「お前が?」
「私が断りました。」
「なんで?」
「宝飾の下請けは、単価の前に体制です。うちの取引先は納期に1日の遅れも許しません。それに、材料の金はお客様からお預かりするものです。金庫と保険と、入った重さと出た重さを合わせる帳簿。12人の工場に、それはまだありませんでした。」
「うちの技術は」
「技術の話はしていません。仕組みの話です。」
父は口を開けて、閉じた。
「お父さんのところの曲げは、私が知っている限り綺麗です。子供の頃から見てきました。断ったのは腕のせいじゃありません。」
声は震えなかった。仕事の話をする時だけ、私はいつもそうだ。
「断ってから、私は担当に頼んで、業界の名簿と、小さい仕事から出している組合を教えさせました。返事は来ませんでした。」
母が父を見た。
「あんた、そんな話、知らん」
「知らないんですよ」
私は言った。
「お父さんは断られた相手の名前を覚えていない。私は断った相手の名前を覚えています。娘の会社だったからです。」
父の顔から、血の気が引いていった。そこで初めて、私は自分の中の何かが冷たく落ち着くのを感じた。怒りではなかった。9年分の、静かな片付けだった。
母が急に高い声を出した。
「ちょっと待って。じゃあ、彩佳、あんた、お金は?」
「お母さん」
「いえ、だってね。社長さんなら、その、いくらくらい」
「今、その話をしますか?」
母は口をつぐんだ。つぐんだのは3秒だった。
「だってあんた、うちに10万しか入れてないじゃない。10万を9年です。」
「そういうことを言ってるんじゃないの? もっとあるでしょって話をしてるの。」
父が母を制した。制した父の顔にも、同じ色が浮かんでいた。その色を、私は正面から見た。見てきたはずなのに、初めて見る顔だった。その日まで、私はこの人たちの顔をまっすぐ見ないようにしていたのだと思う。
美ゆはまだ動かなかったけれど、その手だけが動いていた。膝の前に下ろしたままの「星くず」へ、ゆっくりと手が伸びていく。指先が鎖に触れる寸前だった。伸びた手より、時さんの方が早かった。その人は鎖を指で救い上げると、誰の前でもない場所へ置いた。テーブルのちょうど真ん中だった。置いてから、両手を膝に戻した。
「しばらく、ここに置いておきましょう。」
「え、それ、私のですけど」
「はい。ですから、今は誰も手を触れない方がいい。」
美ゆは口を尖らせたが、手は引っ込めた。時さんの声には、逆いにくい凜としたものがあった。
沈黙を破ったのは母だった。手のひらを返す音が聞こえた気がした。実際には、何の音もしていない。
「彩佳、あんた、やっぱりね」
母の顔から険が消えて、笑みが咲いた。
「お母さんね、昔から思ってたのよ。この子は手先が器用だって。ほら、小学校の図工でね、賞をもらったことがあるの。」
「もらっていません。」
「あら、そうだった。でも、器用だったのは本当よ。」
「賞をもらったのは美ゆです。習字で。」
「そうそう。いいじゃない、姉妹揃って才能のあるのよ。」
母の中では、話はいつもそこへ戻る。
父が身を乗り出した。
「彩佳、なんで言わなかった?」
「言ったら、どうなりましたか?」
「そんな話をしてるんじゃない。親に言うのが筋だろう。」
「筋? 当たり前だ。家族なんだから。」
美ゆが椅子ごと近づいてきた。さっき私の顔に「妄想癖」と投げた口が、そのまま笑っていた。
「お姉ちゃん、すごい。なんで教えてくれなかったの? ひどくない?」
「ひどい? だって、私、お姉ちゃんのブランド、めちゃくちゃ好きだったんだよ。知ってたら自慢したのに。」
「さっきまで『レジ打ち』って笑ってたよね。」
場が止まった。母がすぐに取り成そうとした。
「あー、彩佳、家族の冗談じゃない?」
「冗談?」
「そうよ。身内だから言えることってあるでしょう。」
「私は1度も笑えなかったけど」
母の笑みが半分残ったまま、固まった。母は湯飲みを置いて、携帯を探し始めた。
「お母さん、どこに電話するの?」
「おばさんによ。あの人、いつも美ゆばっかり褒めるから。彩佳が社長だって聞いたら、どんな顔するかしらね。」
「やめてください。」
「なんで? 自慢していいことでしょ?」
「私の仕事は、お母さんの自慢の材料じゃありません。」
母は膝の上に携帯を置いた。置いたが、指はまだ画面に乗っていた。美ゆが横から言った。
「ねえ、お姉ちゃん。私、あのブランドのファンだったんだよ。だから、宣伝してあげよっか。フォロワー4万人いるから。」
「宣伝?」
「うん。お姉ちゃんのブランドですって出せば、絶対バズるよ。」
妹の顔に嘘はなかった。本気で、それが姉への贈り物だと思っている顔だった。自分が今まで何を言ってきたかは、この子の中でもう片付いている。
父が咳払いをして、話を戻そうとした。
「まあ、その話は後だ。彩佳、それより会社のことだが」
「お父さん、うちの見積もり書」
「時じゃなくて、お前のところでもいい。宝飾なら、うちの技術で」
「その話は、さっきしました。」
父は黙った。母がすかさず、違う角度から入ってきた。
「ねえ、彩佳。それなら、そうともっと早く言ってくれたら、お母さんだって、色々してあげられたのに。」
「例えば?」
「例えば、お見合いとか」
そこで美ゆが笑った。母も笑った。父も笑った。私は笑わなかった。
9年間、この人たちが私に何かをしてくれた記憶を探した。見つかったのは、2年前に母が送ってきた梅干しの瓶1つ。それも、美ゆが「いらない」と言ったものだ。不思議なもので、腹は立たなかった。この人たちは今も私を見ていない。名刺を見ている。会社の名前を見ている。8000万円という数字を見ている。見るものが変わっただけで、見方は9年前と何も変わっていなかった。
時さんはその様子を、黙って眺めていた。何も言わずに、茶を一口飲んだ。その横顔を見て、私は少しだけ救われた。この場で、私の顔を見ている人が、1人だけいた。
料理が下げられ、茶が出た。店の人が去って、戸が閉まったところで、私は湯飲みを置いた。
「ところで、美ゆ」
「うん」
妹の声は、まだ軽かった。
「あなた、ネットで売り物を出してるよね。」
「私、出してないよ。紹介だけ。」
「紹介だけ?」
「そうだよ。案件もらって、化粧品とか。」
「じゃあ、聞き方を変える。」
私は妹をまっすぐ見た。
「ネットで、カタカナで『ミユ』って名乗ってるよね。そのミユが、『アヤカ』というブランドの社長の妹だって言って回ってるよね。」
茶碗を持ち上げかけた妹の手が、そのまま空中で止まった。湯気だけが上がっていた。母が「え?」と言った。父が「何の話だ?」と言った。美ゆは答えなかった。答えないまま、指がテーブルの縁をなぞった。
「美ゆ、何?」
「名乗ってるよね。」
「何の話か、分かんない。」
その時、廊下から店の人の声がした。
「失礼します。お連れ様がお見えです。」
戸が開いて、園田まりさんが立っていた。黒いスーツに、大きめの鞄。この人がこの鞄を持って現れる時は、中身が全部揃っている。
「申し訳ありません。」
園田さんは畳に膝をついて、丁寧に頭を下げた。
「彩佳ジュエリーで法務を担当しております、園田と申します。」
園田さんは私の隣に座り、鞄から書類の束を出した。
「半年分です。」
薄い紙が重ねてある。日付順に並んでいて、右上に番号が振ってあった。
「正直に申し上げますが、私はこれから、分かっていることだけをお話しします。分かっていないことは言いません。」
父が身構えた。
「あの、これは、一体」
「半年前、ある企業様から当社に紹介がありました。当社の社長の親族と名乗る方から商品を仕入れているという人物がいるが、事実かと。」
母が父の顔を見た。父は書類を見ていた。園田さんは書類から目を離さずに続けた。
「当社の商品は、直営店と正規の取り扱い店以外に下ろしていません。社員が身内へ譲ることも、社内規定で禁じています。ですので、そのような取引は存在しません。」
父が口の中で繰り返した。
「存在しない」
「はい。そこで、調査を始めました。」
園田さんは小さな箱をテーブルに置いた。中に、白い紙に包まれたものが6つ並んでいる。
「実際に買ってみました。全部で6点です。うち5点がアプリの中。最後の1点は、アプリの外で買いました。」
園田さんは未開封の袋を1つずつ示し、その場で封を切ってから、白い紙に包まれたネックレスを取り出していった。どれも細い鎖に粒が7つ、「星くず」と同じ形だった。私は1つ手に取った。粒の大きさが揃っていた。揃っていたら、夜空にならない。人の目は揃ったものを美しいとしてみる。バラバラだから、光が散って見える。それを知らない人が作ったものだと、すぐに分かった。
「最後の1点は、『まとめて仕入れたい』と持ちかけました。値段の話になると、相手はアプリの外へ出てきます。」
園田さんは1枚の紙を出して、テーブルに置いた。
「振り込み先の口座の名義と、送られてきた荷物の発送元です。本来はご本人だけに申し上げることですが」
園田さんは前置きをした。父がその紙を覗き込んだ。読んで、それから読み返して、動かなくなった。母が横から見た。
「はぁ…『ミユ』」
母の声が小さくなった。
「これ、うちの住所よ。」
美ゆは動かなかった。膝の上で手を握って、下を向いていた。園田さんが続けた。
「取引の実績と評価の記録から、数えられる範囲で申し上げます。この1年2ヶ月で200点。1点あたり5万円、合わせて1000万円ほどです。正規の値段の1/10ほどです。」
「1000万」
父が繰り返した。私はその数字を、頭の中で人の形に直した。200人。うちの店に来たことがない200人が、うちの名前が入った箱を持っている。誕生日に開けた人もいるだろう。娘に譲った人もいるかもしれない。その人たちの手に、私が打っていない印が乗っている。そして、売る時にこう説明されています。
「姉から特別価格で仕入れていると。」
「待って」
美ゆが顔を上げた。
「待ってよ。それは、本当のことだもん。」
声が震えていた。
「私、本当に社長の妹じゃん。」
個室が静まった。私は湯飲みを置いた。
「美ゆ、何? さっきまで、私が社長だって知らなかったよね。」
美ゆは答えなかった。唇が動いて、音にならずに閉じた。茶の湯気が細くなって、消えた。
「1年2ヶ月前から名乗ってたんだよね。私が社長だと知ったのは、今日この席でだよね。」
美ゆは畳の縁を見たままだった。
「知らなかったのに、姉からどうやって仕入れたの?」
美ゆの喉が鳴った。
「それは、その」
「順番を教えて。まず、私に頼んだのはいつ? 何を頼んだの? 私は何て答えたの?」
1つも答えられるはずがない。そんなやり取りは存在しないからだ。存在しないものを、200回人に説明した。その200回のうち、1度でもこの子が私に電話をかけていたら、全部その場で終わっていた。かけなかったのは、かけたら終わると分かっていたからだ。分かっていなくても、確かめなかった時点で、同じことだ。
父が椅子を鳴らして立ち上がった。
「美ゆ、お前、何をした?」
「何もしてない。」
「何もしてないなら、なんでこの人が来る?」
園田さんが手を上げて、父を座らせた。
「お父さん、今は事実だけを確かめさせてください。」
それから園田さんは、テーブルの中央にあるネックレスを指した。
「そちらを拝見してもよろしいですか?」
美ゆは膝の上で手を握ったままだった。園田さんはテーブルの中央のネックレスに手を触れなかった。代わりに、私が手を伸ばした。
「見るのは私がやります。作ったのは私なので。」
止め金を裏返して、明かりの下に持っていく。うちの限定品には、止め金のプレートの裏に3つある。製造印と工房の印と、通し番号。私は指で示した。
「印はあります。形も合っています。ただ、これは掘ってあるんです。」
「掘る?」
父が聞き返した。
「機械で削った跡です。うちのは刻印を当てて、金槌で叩きます。叩けば地金が逃げて、印の縁が盛り上がる。削ったものは盛り上がりません。爪を立てれば、触った者には分かります。」
そして、番号を読み上げた。
「この番号の品は、3年前に千葉のお客様へお渡ししています。去年の秋、鎖の直しでお預かりしました。今もその方が持っています。」
母が息を飲んだ。
「じゃあ、これは、同じ番号が2つあるということです。」
「よく似た別の商品ということでは?」
「商品名も同じです。『星くず』という名前で売られています。」
母が急に声を高くした。
「じゃあ、うちの美ゆは騙されてたってことじゃないの!」
「その可能性はあります。」
園田さんは頷いた。
「ただ、買われた200人の方から見れば、売ったのは美ゆさんです。」
母が黙った。園田さんが言葉を継いだ。
「『星くず』は100点しか作っていません。ですが、この1年2ヶ月で200点が売られています。数が合わない。」
それは、聞いた誰にでも分かる話だった。園田さんが手を上げた。
「念のために申し上げます。私はまだこれが偽物だと断定していません。断定するのは、ここにある現物を当社の工房で確認し、白金の成分も外の機関で調べてからです。」
「じゃあ、本物かもしれないってこと」
母が助けを求めるように言った。
「今日申し上げられるのは、この刻印は当社が打ったものではないということだけです。買った6点も、今この場で封を切りました。通し番号は全部同じです。」
「同じことじゃないですか?」
「同じ意味に聞こえても、手順が違います。」
園田さんは書類を揃えた。
「決めつけで動くと、私たちの方が間違えます。ですから、順番にやります。」
父が助けを求めるように、時さんを見た。時さんはネックレスを見たまま、静かに言った。
「うちがギフトに使わせていただいているブランドの品として、これは説明がつきません。」
「あの、私は、私は本物だと思ってた」
美ゆは畳を見たまま答えた。
「本当だよ。ちゃんとした人から買ってたもん。知り合いの紹介で、社員向けの譲渡品だって。」
園田さんが手帳を開いた。
「その方のお名前は、アカウントしか知らない。最初に買われたのは1年半くらい前。自分用に1つ。おいくらでした?」
「18万」
父が声を上げた。
「48万の18万で、社員価格だからって?」
「届いた箱も袋も、本物と同じで」
園田さんが手帳に目を戻した。
「その後は?」
「その後は、まとめてなら1. 3万で下ろせるって。海外の工房で同じ型を作らせてるから、数はいくらでも用意できるって言われた。」
「18万で買った同じ品を、1. 3万って」
園田さんの声は責めていなかった。順番に並べているだけだった。美ゆは手を握り直した。
「変だとは思ったよ。ちょっとは」
美ゆは言葉を切った。
「最初のは特別に社員価格だったんだって、売ってた相手が言うから」
「確かめましたか?」
「確かめてない」
美ゆが顔を上げた。目が赤かった。
「だって、本物かどうかなんて、私が確かめる話じゃないでしょ。売ってる人が本物だって言ってるんだから。」
買った人は、みんなそう思って買っている。この子から買った人たちも、同じだった。
「美ゆ、何? もう1つだけ聞く。あなたはそれを売る時に、私の名前を使った。それは確かめる話じゃなかったの?」
美ゆが黙った。
「本物かどうかは、あなたには分からなかったかもしれない。でも、『姉から仕入れた』かどうかは、あなたにしか分からない。私に1度も聞かずに、あなたはそう言った。」
美ゆは下を向いたままだった。
「なんで、そんな嘘がつけたの?」
長い沈黙の後、美ゆが小さく言った。
「どうせ同姓同名だと思ってたから。」
父が顔を上げた。母は、2年前に自分も一緒に笑ったことを思い出した顔をしていた。
「2年前に、『アヤカ』ってブランドの会社のページを見たの。代表者のところに『瀬彩佳』って書いてあって、びっくりして、笑っちゃって」
「でも、お姉ちゃんのわけないじゃん。スーパーでレジ打ってるんだよ。他人だと思った。」
「そしたら、使えるなって」
「使える?」
「だって、同じ苗字なんだもん。誰も調べないし。」
園田さんが補った。
「実際、こちらへの問い合わせは、半年前の1件だけでした。」
私は園田さんに聞いた。
「なぜ、他は問い合わせなかったんですか?」
美ゆの口は動かなかった。園田さんが書類から読み上げた。
「紹介をくださった4社目の企業様から、やり取りの写しをもらっています。この一文がありました。『姉は完全に非公開なので、会社への問い合わせは絶対にしないでください』」
母が口を抑えた。園田さんは書類をめくった。
「契約中の3社については、当社は何も把握していません。紹介をくださったその4社目だけが、この条件に従わず、契約を止めたままになっています。」
「3社とは、いくらで契約したの?」
「1年契約で、3社とも80万。合わせて240万円ね。」
「あの4社目、そういうことだったんだ。担当さんが変わったんだと思ってた。」
美ゆが呟いた。
私は父を見た。
「お父さん、もう1つはっきりさせておきたいことがあります。」
「何だ?」
「今日の食事会、何のために開いたんですか?」
「何って? 時さんへのご挨拶だろう。」
「3月から、白木さんに頼んでいましたよね。」
父の肩が下がった。
「妹に断られたから、私に回ってきた。それは白木さんから聞いて、分かっていました。お父さんには、座るのが美ゆでも私でも、良かった。」
「違いますか?」
「家のためだと言ってるだろう」
父の声が裏返った。
「うちは今、仕事が減ってるんだ。12人いるんだぞ。」
「分かります。」
私は答えた。
「私も40人います。」
父が黙った。40人という数字は、さっき母が画面から読み上げていた。父はその数字を1度も口にしなかった。
母が急に泣き出した。
「お母さんはね、彩佳のことも心配してたのよ。ただね、美ゆは体が弱いから」
「美ゆは健康です。」
「そういう意味じゃなくて」
「お母さん」
私は手帳を出した。革の表紙の、日付と金額しか書いていない手帳だ。
「9年で1080万円。2年前に200万円。合計1280万円です。」
母の鳴き声が止まった。
「美ゆからは、いくら受け取りましたか?」
母は湯飲みの縁を指でなぞった。
「1円も受け取っていませんよね。」
「あの子は、まだ若いから」
「28です。私が28の時、母さんに旅行代を渡しました。その分も、この中に入っています。」
障子の外を店員が通っていった。足音が遠ざかるまで、誰も口を聞かなかった。
それから、時さんが口を開いた。
「1つだけ、僕の話をさせてください。僕は3年前に母をなくしました。僕の母は、時の会社の人間からずっと肩書きで扱われた人でした。『社長の妻』として丁寧にされて、1人の人としては、誰にも扱われなかった」
時さんは顔を上げずに言った。
「じゃあ、姉のことも知りませんでした。話しているうちに結婚したいと思い、その後で手を見ました。」
時さんはこちらを向いた。
「ギフトにお願いしている品の制作記録です。『星くず』の映像もありました。僕は何度も見ています。映るのは手だけです。親指と人差し指の先に火傷の跡があって、中指の側面に硬いところがある。その手が、刻印を当てて金を打っていました。」
「それで、まさかと」
「はい。名前は会社の案内で一度見たきりでした。まさか、そんな偶然があるわけないと。」
「私は『レジ打ちです』と答えました。」
「はい。だから、別人だと思いました。」
「順番が逆で良かった。先に知っていたら、僕はあなたを社長としてしか見なかったはずです。」
私は自分の指先に目を落とした。5年前に別れた人の言葉が浮かんだ。「会社と付き合っていたようなものだ」と言われた時のことだ。あの日から、私は顔も名前も表に出さないと決めた。決めたはずなのに、名前だけは会社の案内に残っていた。残していた理由が、その日やっと分かった。どこかで気づいて欲しかったのだと思う。ただし、正しい人にだけ。
「園田さん。」
「はい。」
「これから、どうしますか?」
園田さんは書類を揃えて、静かに言った。
「まず、書面を出します。事実の確認と、販売の停止のお願いです。後日、書面でも一筆いただきます。取引先の企業様には、当社が把握している事実だけをお伝えします。買われた方への返金について、当社が申し上げられるのは、当社が返金の義務を負わないということだけです。返金などの請求先は、販売した方になります。」
園田さんは一度私を見た。
「ただ、買われた方はそのままにしません。お持ち込みの品は、無償でお調べします。同じ『星くず』は作れませんので、ご希望の方には同等の品と取り替えます。かかった分は、売った方へ請求します。」
美ゆが顔を上げた。
「私、そんなお金ない」
園田さんの声が柔らかくなった。
「今日、ここで何かが決まるわけではありません。ただ、明日から売るのはやめてください。」
美ゆは頷き続けた。その日はそこで終わった。父が「来週、もう1度うちで話そう」と言った。私は「分かりました」と答えた。話すことは、まだ残っていた。
次の日曜、私は川口へ向かった。時さんも一緒だった。食事会の帰り道で、私は返事をしていた。
「結婚はまだ早いです。始めるなら、交際からにしてください。」
「はい。お願いします。」
その人はそう言って頭を下げた。そして次の週には「交際の挨拶に伺いたい」と言って譲らなかった。
実家の居間には、4人分の座布団が並べてあった。母が朝から掃除したのが分かる、匂いがした。父はネクタイを締めていた。家でネクタイを締めている父を、私は見たことがなかった。
「まあ、座って。時さん、こんなところで申し訳ない。」
茶が出た。菓子も出た。9年間、私1人で来た時に、菓子が出たことは1度もない。
「今日は、私から話します。」
私はそう切り出した。
「3つあります。」
父の顔が硬くなった。
「1つ目、実家への振り込みは、今月で終わりにします。」
母の手から茶托が滑って、畳に落ちた。
「なんで? 9年続けたでしょ。」
「十分だと思います。」
「ちょっと待ってよ。あんた、社長なんでしょ? 会社のページに40人って出てたわよ。そんな会社の社長が、10万円くらい」
母は身を乗り出した。
「10万なんて、あんたには小遣いみたいなものでしょ。」
「はい。なら、だからやめるんです。」
私は母を見た。
「スーパーのレジ打ちの娘から、毎月10万円もらうなんて、申し訳ないでしょ。」
母の口が開いたまま止まった。
「レジ打ちの娘からは9年もらって、よかったんですか? 地味で、要領が悪くて、妄想癖のある娘からは」
「そんな言い方、言ったのは私じゃありません。」
母は言い返せなかった。
「2年前の200万円も同じです。あれで最後です。人のお願いも、これからは受けません。」
父が割って入った。
「彩佳、金の話は分かった。それより、会社の話だ。」
「2つ目がそれです。」
私は鞄からあの見積もり書を出して、テーブルに置いた。父が先週、私に渡したものだ。
「これはお返しします。うちとの取引は、お受けできません。」
「なんでだ? 娘の会社だぞ。」
「親の会社だからです。」
「意味が分からん。」
「お父さんは去年の秋、うちに断られています。理由は先週お話ししました。あれから、体制は変わりましたか?」
父が黙った。
「変わっていないなら、答えは同じです。娘だからという理由で通すことはしません。それをやったら、同じ理由でお断りした他の会社に顔ができません。」
「時さん、あんたからも言ってやってください。」
父が隣に向き直った。時さんは湯飲みを置いて、答えた。
「僕からは何も言いません。うちの調達に口を出したことは、1度もありません。」
「贈り物は」
「別です。あれは僕が選びました。」
「そんなはずが」
「品で決まっています。だから続いています。」
父の顔が赤くなった。それから私に向かって、こう言った。
「お前は、親の会社をパート以下だと思ってるのか?」
「逆です。」
私は答えた。
「お父さんが、私の会社をパート以下だと思っていたんです。それは、聞いてなかったからだ。」
父が怒鳴った。
「聞いてなかったからだ!」
その一言で、部屋の空気が固まった。私は父を見た。9年間、まっすぐ見なかった顔を、今度はしっかり見た。
「知った途端に利用しようとするから、言わなかったんです。」
父の口が動いて、音が出なかった。
「彩佳、お前」
「お父さん、私は」
父はそこで言葉を探した。探した末に、いつもの呼び方をした。
「お前、少しは家のことを」
「お父さん」
私は遮った。
「あの日、何とおっしゃったか、覚えていますか? あの日、見合いに行く前、お父さんはこう言いましたよね。『お前でいいから、行ってこい』」
父の目が泳いだ。
「そんなことは」
「言いました。母さんも聞いてる。美ゆも聞いてる。」
母が下を向いた。
「『お前でいいから、行ってこい』。私はそれで行きました。行った先で、『結婚してください』と言われました。」
私は湯飲みを持ち上げて、一口飲んだ。
「お父さん、あの縁談、私で本当に良かったですね。」
父は何も言わなかった。その時、母が急に時さんの方へ膝を向けた。
「時さん、お願いがあるんです。」
「はい。」
「彩佳に、言ってやってください。家族を大事にするようにって。」
母は畳に手をついた。
「結婚なさるなら、この子の家族は、時さんの家族でもあるでしょう。娘に、援助を続けるように言ってください。」
時さんはまっすぐ母を見た。
「あれは、彩佳さんのお金ですよね。」
「でも、家族なんですから。」
「家族なら、その人は、なぜ1度も」
時さんは続けた。
「どうして彩佳さんの成功をご存知なかったんですか? 9年です。会社を作って、人を40人雇って、海外で評価されるまでの9年。家族の誰1人、ご存知なかった。それは、彩佳さんが黙っていたからだと思いますか?」
父も母も答えなかった。
「僕は3時間で気づきました。手を見ただけです。」
時さんは頭を下げた。
「差し出がましいことを申しました。ですが、彩佳さんのお金の使い道を決めるのは、彩佳さんです。」
そこへ、美ゆが居間に入ってきた。その日も着飾っていたけれど、先週より化粧が薄く、目の下に隈があった。妹は座らずに、時さんの前に立った。
「時さん、あの、私」
「はい」
「私の方が若いし、社長夫人として、生えると思います。」
母が「美ゆ!」と叫んだ。妹は止まらなかった。
「姉は地味だし、写真映えもしないし。私なら、時さんの会社のことも、いっぱい宣伝できます。」
時さんは立ち上がった。そして、妹に向かって静かに言った。
「あなたがお姉さんをどう扱ってきたか、先週よく分かりました。あれは、その家族の冗談で? 肩書きしか見ていない人とは、結婚したくありません。」
妹の顔が白くなった。
「僕は、まだ何も持っていない人として、彩佳さんに会いました。あなたは、僕の名前と会社しか見ていない。」
美ゆは口を開けたまま、私の方を見た。そして最後に、こう言った。
「でも、あの見合い、最初は私だったんでしょ? 私が言っても、良かったんだよね。」
私は妹を見た。かわいそうだとは思わなかった。哀れだとも思わなかった。ただ、はっきり言った。
「よかったね。行かなくて。」
美ゆが座り込んだ。私は鞄を引き寄せて、最後の1つを言った。
「3つ目です。」
父が顔を上げた。
「これから、この家との連絡を減らします。絶縁するわけではありません。」
「そうですか」
「用がある時は、電話をください。出ます。ただし、お金の話なら、出ません。」
「そんな線引きが」
「9年、線がなかったから、こうなりました。」
父は反論しなかった。母も、何も言わなかった。話はそれで終わった。
私は座布団を戻して、鞄を持った。母が慌てて立ち上がった。
「彩佳、お茶。もう1杯入れるから、台所から持ってきて。」
9年間、私はその言葉で立ってきた。
「手が空いてるでしょ。あんたが持ってきて。」
私は鞄を肩にかけて、答えた。
「今日は、座っていました。」
「え?」
「座っていた側の人間なので、持ちません。」
母は何も言えなかった。
玄関で靴を履いていると、時さんが後ろから言った。
「いい家ですね。柱が太い。」
「そうですか?」
「ええ。ずっと、誰かが支えてきた家の柱です。」
私は靴を履き終えて、戸を開けた。外はよく晴れていた。
その夏から秋にかけて、園田さんが順番通りに片をつけた。書面を出し、販売を止め、取引のあった企業には当社が把握している事実だけを伝えた。買った方には、品物を無償で確かめる窓口を作った。窓口に来た方には、私が印を打った代わりの品をお渡ししている。返金そのものは、売った本人の責任として進んでいる。
妹の仕事は、秋を待たずに消えたそうだ。契約を切られた時期は、それぞれ違った。ただ、行きつく先は同じだった。まず投稿を下げるよう言われ、次に経歴の説明を求められ、答えられないと分かると、離れていった。受け取っていた240万円も、返すよう言われたらしい。買った方への返金と合わせると、返しきれない額だけが残る。妹のところには、買った人からの問い合わせが今も届いているという。「本当に社長の妹なのか」と。本当だった。ただし、名乗った時点では、本人が信じていなかった。
私は何もしていない。書面を出したのは会社。離れたのは取引先。返せと言ったのは、払った人たちだ。妹が自分でついた嘘が、そのまま帰っただけだった。
父は、私や時さんの名前を使えなくなった。使えなくなって、自分の会社を自分で立て直すしかなくなった。秋に1度だけ電話があり、「原版の記録を残す仕組みを入れた」と言っていた。その話だけは、最後まで聞いた。
母は旅行をやめ、買い物を減らしたらしい。おばの手紙で知った。「あなたのお母さんは、今も自分は悪くないと言っている」と書いてあった。3人とも、同じことを言っているそうだ。「彩佳が、ああいうことを言うことを聞けば」と。
私は連絡を最低限にした。電話がなれば出る。金の話なら切る。それだけだ。
工房は変わらない。室井さんは相変わらず、朝から作業台に座っている。私が刻印を打っていると、後ろを通りながら一言だけ言う。
「そこは、浅い。」
「打ち直します。」
そういう日々が、私には一番向いている。1度だけ、室井さんが手を止めて聞いてきた。
「あんた、結婚するんだって。」
「まだ、交際です。」
「手を見た人かい?」
「はい。」
「そうかい。」
それだけ言って、また作業に戻った。この人は、いつもそうだ。
10月の火曜、港屋のレジに立っていると、井原さんが通りがかりに言った。
「はせさん、最近、ちょっと顔付きが変わったね。」
「そうですか。」
「なんていうか、肩の力が抜けた感じ。」
私は笑って、次の客を引き寄せた。田島さんだった。指輪の抜けない、あの人だ。
「はせさん、今日は冷えるね。」
「はい。もう10月ですから。」
小銭を数える手を、私は見ていた。細い金の輪が、指の肉に埋まっていた。40年。私はまだ9年だ。
年末に、母から電話があった。要件は金の話だった。私は切った。切った後、しばらく携帯を握っていた。切るのは簡単だった。その簡単なことを、私は9年やらなかった。
年が開けて、春になった。私と時さんは、婚約した。交際から始めたいと言ったのは私だった。結局、初めから最後まで、その人は私の方を見て話す人だった。
指輪は、自分で作った。祖母の片身の細さを測って、同じにした。室井さんに見せたら、一言だけ言われた。
「浅いね。」
「打ち直しました。2回。」
「じゃあ、いい。」
婚約の日、2人で小さなレストランへ行った。料理の途中で、私はグラスに手を伸ばした。向かいで視線が動いた。
「また、見てる。」
「すみません。もう正体はバレてますけど」
その人は笑って、それから真面目な顔になった。
「その日、この手を見つけて、本当に良かった。」
「最初は『レジ打ち』だと思ってたくせに。」
「思っていました。それで、結婚したいって言ったんですよね。」
「はい。変な人。」
「その時から、好きでしたよ。」
「はい、はい。」
私はグラスを置いた。親指と人差し指の先の火傷は、まだ消えない。中指の側面の硬いところも、多分一生このままだ。肩書きを隠したら、人が何を見ているのかがよく分かった。私の金しか見なかった家族と、私の手を見た人がいた。それだけの話だ。
これからも、私は名前も顔も出さずに作り続ける。そして、週に1度、レジに立つ。あの場所には、まだ私の知らない手が、いくらでも並んでいる。その手を見て、私はまた何かを作る。それが、私の仕事だ。



