「お母さん、もう長くないと思うんだ」
みよ子さんは寝室のドアの影で息を殺し、リビングから漏れてくる息子夫婦の会話に耳を傾けていた。七十二歳のみよ子さんは、つい先ほど医師から「余命三ヶ月」という宣告を受けたばかりだった。普通なら家族は悲しみに暮れるはずだ。しかし、息子の勇気さんと嫁の由香さんの反応は、まったく違っていた。
「そうね。病院の先生も、いつ何があってもおかしくないって言ってたわ」
由香さんの声には悲しみのかけらもない。むしろ、どこか準備万端といった落ち着きが感じられた。みよ子さんはその場に立ち尽くしたまま、さらに二人の会話を聞き続けた。
「でも、このまま家で看病するのは大変だよ。床だって疲れるし、子供たちにも良くない」
「お母さんも病院の方が安心でしょうし、専門的なケアを受けられるわ。それに、最後の時を家族に見取られるより、静かに一人で行く方がお母さんのためかもしれないわね」
「そうだな。子供たちも怖がるだろうし、母さんも気を使わなくて済む。明日、母さんに話してみよう。きっと理解してくれるよ」
「そうね。お母さんのためにって言えば、断れないでしょう」
みよ子さんの心臓が激しく鼓動を打った。まさか、このタイミングで施設送りの話が出るなんて。しかも、二人はすでにみよ子さんの死後のことまで計算しているようだった。
「それより、母さんがいなくなったらこの部屋をどうする?」
由香さんの声が少し明るくなった。
「子供部屋にするか、私の趣味の部屋にしようかしら」
「いいね。母さんの荷物も整理しないといけないし」
まるで自分が邪魔者で、早く消えてほしいと言われているかのようだった。みよ子さんは静かに自室へ戻り、ベッドに座り込んだ。長い間、女手一つで育て上げた最愛の息子が、自分の死を心待ちにしている。その事実が、胸を引き裂くように痛んだ。
――三十八年前、夫の正夫さんを四十五歳の若さで病気で亡くした時、勇気さんはまだ七歳だった。みよ子さんは昼間は会社で事務仕事をし、夜は内職でアクセサリーの組み立てをして、息子に何不自由ない生活をさせてきた。自分の食事を抜いてでも、教育費を捻出してきた。この日のために生きてきたと言っても過言ではなかった。
「お母さん、僕が大きくなったら絶対に楽させてあげるからね」
幼い勇気さんがそう言って、小さな手でみよ子さんの涙を拭ってくれた日のことを、今でも鮮明に覚えている。あの頃の勇気さんは、本当に優しい子だった。それが今では、母親の死を金儲けの機会としか考えていないのか。みよ子さんの目頭が熱くなったが、次の瞬間、心の奥底で何かが冷たく燃え上がるのを感じた。
――その日から、息子夫婦の態度は目に見えて変わった。表面上は心配そうな顔を見せるものの、その裏では明らかに何かを計算している様子が伺えた。
「お母さん、体調はどうですか? 無理しちゃだめですよ」
由香さんが優しい口調で声をかけてくるが、その視線はみよ子さんの顔ではなく、リビングに飾られた古い美術品に向けられていた。まるで値踏みをするような、冷たい目つきだった。
ある日、みよ子さんが台所でお茶の準備をしていると、隣の部屋から由香さんの電話の声が聞こえてきた。
「そうなの? お母さんがあと三ヶ月なんですって。やっとよ。かわいそうだけど、仕方ないわよね」
みよ子さんは手を止めて、そっと耳を澄ませた。
「そうね。この家だけでも三千万円は下らないでしょうし、貯金もそれなりにあるはずよ。やっと私たちも自由になれるわ」
由香さんの声には悲しみのかけらもなかった。むしろ、長年待ち望んでいた朗報を友人に報告しているような、弾んだ調子だった。
「葬式はできるだけ安く済ませるつもりよ。家族葬で十分でしょ。その分、私たちの生活費に回したいもの」
みよ子さんは震える手でお茶碗を持ち直した。まだ生きているのに、もう葬式の段取りまで決められているなんて。
その夜、みよ子さんが早めに寝室へ向かうと、またリビングから二人の話し声が聞こえてきた。
「母さんの遺言書は、まだ書いてもらってないよな」
「そうね。早めにお願いした方がいいんじゃない。手続きが面倒になるわよ」
「でも、あまり急かすと怪しまれるかもしれない。慎重にやろう」
「大丈夫よ。万が一のためにって言えばいいのよ。それより、この家のローンが残ってないか確認した?」
「大丈夫。もう完済してる。母さんがだいぶ前に返し終わったって言ってたし」
「よかった。それなら売却しても全額懐に入るわね。この立地なら四千万円は固いわよ」
「病院代もバカにならないな。治療とか無駄な費用は使いたくないよ」
「そうね。お母さんも苦しむだけでしょうし、自然に任せるのが一番よ」
由香さんの声は、まるで不良品の処分を相談しているかのような冷たさに満ちていた。
翌朝、みよ子さんが朝食の準備をしていると、由香さんがやってきた。
「お母さん、そろそろ遺言書を書いておいた方がいいんじゃないですか? 万が一のことを考えて、家族のためにもきちんと整理しておかないと、後々面倒なことになりますから」
由香さんの笑顔は作り物のように不自然だった。
「それに、お母さんの気持ちも整理できると思うんです。安心して治療に専念できますし」
勇気さんも加わる。
「母さん、床の言う通りだよ。俺たちのことは心配しなくていいから」
心配しなくていいどころか、二人はすでにみよ子さんの死後の生活設計まで立てているではないか。みよ子さんは静かに頷いたが、心の中では怒りの炎が渦巻いていた。
入院の準備を進めながら、みよ子さんは引き出しの奥から古い手帳を取り出した。その中に、一枚の名刺が挟んであった。そこにはこう書かれていた。
――矢田建設 顧問弁護士 中野法律事務所
みよ子さんは震える指で電話をかけた。
「中野先生でしょうか。矢田みよ子です。実は相談したいことがあるんです。明日、お時間をいただけませんでしょうか?」
「もちろんです。いつでもお待ちしております」
翌日、みよ子さんは「病院の手続きで外出する」と息子夫婦に告げて、中野法律事務所を訪れた。中野弁護士は、みよ子さんの姿を見るなり、心配そうに顔を曇らせた。
「みよ子さん、ずいぶんお痩せになりましたね」
「先生、実は……余命三ヶ月と宣告されました」
中野弁護士は言葉を失った。そして、みよ子さんが息子夫婦の態度について詳しく話し始めると、その表情は次第に厳しくなっていった。遺産への期待、医療費への不満、そして病院への追い出し計画。すべてを聞き終えた中野弁護士は、重い口を開いた。
「お父様が築かれた財産を、そのような人間に渡すわけにはいきません」
「先生、遺言書を書き直したいんです。息子夫婦には一円も残したくありません」
「承知いたしました。どのようになさいますか?」
みよ子さんは深呼吸をして、自分の決意を告げた。
「全財産を社会福祉法人に寄付します。恵まれない子供たちのために使ってもらいたいんです」
中野弁護士は驚きの表情を見せた。
「五億円を超える資産を、すべて寄付されるのですか?」
「はい。息子には十分な教育を受けさせましたし、仕事もあります。自分の力で生きていけるはずです」
「わかりました。それでは、遺言書の作成手続きを進めます。……それで、もう一つお願いがあるのですが」
みよ子さんは、中野弁護士に「死を偽装する」計画を打ち明けた。
「二度と息子夫婦が立ち直れないようにしたいんです。彼らの本性を、思い知らせてやりたいんです」
中野弁護士は長い間考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました。お父様も、きっとみよ子さんの決断を支持されるでしょう」
その日のうちに、新しい遺言書が作成された。矢田建設の全財産は「矢田みよ子記念基金」として、恵まれない子供たちの教育支援に使われることになった。
入院から二週間が経った頃、みよ子さんの容態は表面上、急激に悪化していった。これは中野弁護士が手配した信頼できる医師との綿密な計画の一部だった。
「先生、母の容態はどうでしょうか?」
勇気さんが医師に尋ねた。その声には、心配というより、むしろ期待が込められているように聞こえた。
「正直に申し上げて、今夜が山場かもしれません」
医師の言葉に、由香さんがそっと間の抜けたため息をつくのを、みよ子さんは薄目を開けて確認していた。
「そうですか。母も苦しまずに済むならいいのですが」
勇気さんの言葉には、悲しみのかけらもなかった。その夜、みよ子さんは静かに息を引き取ったことになった。死亡確認が行われると、勇気さんと由香さんは涙を流しながら悲しんでいるふりをしたが、その目には明らかに安堵の光が宿っていた。
「母さん、お疲れ様」
勇気さんがみよ子さんの手を握りながら言ったが、その手は震えていなかった。実際には、みよ子さんは隣の個室で中野弁護士と今後の段取りを相談していた。
「明日から、息子さんたちが相続の手続きを始めるでしょう」
みよ子さんの予想は的中した。葬儀を終えた翌日、勇気さんと由香さんは張り切って中野法律事務所を訪れた。
「先生、母の遺産相続の手続きをお願いしたいのですが」
勇気さんは上機嫌だった。由香さんも、期待に満ちた顔をしている。
「では、遺言書の内容をお聞かせします」
中野弁護士が重々しく封筒を取り出すと、二人の目が輝いた。
「まず、預貯金についてですが……はい。〇円です」
勇気さんと由香さんの表情が、一瞬で凍りついた。
「えっ、〇円ってどういうことですか?」
「続いて、不動産についてですが……こちらも〇円です」
「そんなバカな! 家があるじゃないですか!」
由香さんが声を荒げた。
「あの家は、実は矢田建設の所有物でした。みよ子様は生前、その家を会社に売却されました」
「矢田建設? それ、何ですか?」
勇気さんが混乱した様子で尋ねた。
「みよ子様のお父様が創業された会社です。現在も東京で大規模な不動産事業を展開しております。矢田建設の総資産は約五十億円。みよ子様は、その唯一の相続人でいらっしゃいました」
二人の顔が青ざめていった。
「じゃあ……母さんは大金持ちだったってことですか?」
「はい。みよ子様の個人資産だけでも、五億円を超えていました」
由香さんが震え声で尋ねた。
「それなら、その五億円はどこに?」
「全額、社会福祉法人『矢田みよ子記念基金』に寄付されました。恵まれない子供たちの教育支援のために」
中野弁護士が淡々と告げると、勇気さんが立ち上がった。
「そんなのおかしいじゃないですか! 息子の僕には、相続権があるはずだ!」
「遺言書には明記されております。『息子夫婦の本性を知った今、彼らには一円も残したくない』と」
由香さんが蒼白になって尋ねた。
「本性って……何のことですか?」
「みよ子様はすべてをご存知でした。お二人がご自分の死を待ち望んでいたこと。医療費を惜しんでいたこと。みよ子様の死を期待していたこと。そして、葬式を安く済ませようと計画していたことも」
勇気さんは絶叫した。
「そんな……母さんが聞いていたなんて!」
「さらに申し上げますと……みよ子様は、現在も生きていらっしゃいます」
「えっ?」
二人が同時に声を上げた。
「死亡診断書は偽造されたものです。みよ子様は、お二人の反応を確認するために、死を演じられたのです」
その時、談話室のドアがゆっくりと開いた。
「勇気さん、由香さん。お久しぶりですね」
みよ子さんが、元気な姿で現れた。二人は幽霊でも見たかのように震え上がった。
「か、母さん……死んだんじゃ……!」
「残念でしたね。まだ生きています」
みよ子さんの声は、氷のように冷たかった。
「私の死を、そんなに待ち望んでいたのですね」
由香さんが涙声で弁解しようとした。
「お母さん、誤解です! 私たちは本当に心配して……」
「誤解? 『やっと遺産が手に入る』『葬式は安く済ませよう』『延命治療は無駄』。これらの言葉も、誤解ですか?」
勇気さんの顔が真っ赤になった。
「母さん、それは……」
「私は三十八年間、あなたのために命をかけて働いてきました。夫を亡くした時も、あなたを大学まで行かせるために必死でした。それなのに……私の死を、金儲けの機会としか考えていなかった」
みよ子さんの声が震え始めた。
「もう何も言わないでください」
みよ子さんは手を上げて、二人の言葉を遮った。
「お金が欲しかったのでしょう。残念ですが、金の亡者には一円も残しません」
由香さんは必死に頭を下げた。
「お母さん、お願いします! 私たちには子供もいるんです!」
「子供? その子供たちに、どんな教育をするつもりですか? 家族の死を待ち望むような教育を?」
勇気さんと由香さんには、返す言葉がなかった。
「これが、私の死を待ち望んだ報いです」
みよ子さんは最後にそう告げて、法律事務所を後にした。後に残された勇気さんと由香さんは、呆然とその場に座り込むしかなかった。彼らの金の亡者ぶりが、すべてを失う結果を招いたのだ。
――あの日から数ヶ月が経った現在。みよ子さんは、心から満足のいく新しい人生を歩んでいた。矢田建設の新しいオフィスビルの一角に設けられた「矢田みよ子記念基金」の事務所で、毎日充実した時間を過ごしている。
「みよ子さん、今日もたくさんの感謝のお手紙が届いていますよ」
基金の事務スタッフが、子供たちからの手紙を持ってきた。
「ありがとうございます。みんな、元気に勉強しているかしら?」
みよ子さんの顔には、息子夫婦といた頃には見せることのなかった、本当の笑顔が浮かんでいる。基金を通じて支援している子供たちは現在百名を超え、彼らからの感謝の手紙が、みよ子さんの何よりの生きがいとなっていた。
「僕は将来、お医者さんになって困っている人を助けたいです」
小学三年生の男の子からの手紙を読みながら、みよ子さんは涙がこぼれそうになった。この子供たちこそが、今のみよ子さんの本当の家族なのだ。
一方、勇気さんと由香さんの現在は――あの日以来、二人は完全に経済的困窮に陥ってしまった。勇気さんは勤めていた会社で、母親の遺産相続のために嘘をついて有給を取りすぎたことがバレて、解雇された。由香さんも、友人たちに「大金持ちになる」と自慢していたことが恥ずかしくて、近所に住めなくなってしまった。
「母さんに謝りに行こう」
勇気さんが何度も提案したが、みよ子さんは二度と二人に会おうとはしなかった。
「勇気さん、お母様はもうお会いになるつもりはないそうです」
中野弁護士を通じての連絡も、すべて拒否された。
「母さん、お願いです。僕たちが間違っていました」
勇気さんがみよ子さんの新しい住まいの前で土下座しても、みよ子さんが姿を現すことはなかった。
現在、みよ子さんは東京都内の高級マンションで、心から信頼できる人々に囲まれた生活を送っている。基金の仕事仲間、支援している子供たちとその家族、そして本当の意味での友人たち。みよ子さんの周りには今、本当の愛情に基づいた人間関係がある。誰もみよ子さんのお金を目当てにしているわけではない。みんな、みよ子さんの人柄を心から尊敬しているのだ。
ある日、みよ子さんは日記にこう書いた。
「私は今、人生で最も幸せな時間を過ごしています。お金で繋がった偽の家族関係を断ち切ったことで、本当の愛情とは何かを知ることができました」
みよ子さんが学んだのは、家族だからと言って無条件に許されることではないということだった。血縁関係があっても、人としての最低限の尊敬と愛情がなければ、それは本当の家族ではない。みよ子さんは窓の外の青空を見上げながら、静かに微笑んだ。
「金の亡者には、それにふさわしい運命を与えました。でも、私は憎しみで生きているわけではありません。むしろ、感謝しているのです。あの経験があったからこそ、本当に大切なものが何かを知ることができたのですから」
現在七十二歳のみよ子さんには、まだまだやりたいことがたくさんある。基金の活動を通じて、より多くの子供たちを支援すること。そして何より、残された人生を、心から愛せる人々と共に過ごすこと。
勇気さんと由香さんは今でもみよ子さんに許しを求め続けているが、みよ子さんはもう振り返ることはない。本当の家族とは、お金ではなく愛で結ばれるものだ。みよ子さんの新しい人生は、まだ始まったばかりだった。



